慶應義塾

近代日本の翻訳文化と福澤諭吉──『学問のすゝめ』150年を記念して

公開日:2023.04.24

登場者プロフィール

  • アルベルト・ミヤンマルティン

    経済学部 准教授

    アルベルト・ミヤンマルティン

    経済学部 准教授

2023/04/21

皆さま、こんにちは。ご紹介にあずかりましたアルベルト・ミヤンマルティンと申します。どうぞよろしくお願いいたします。本日は、三田演説会でお話をさせていただけることを大変光栄に思っております。

私は大学院生の時から明治時代の日本の翻訳事情の研究を始め、その中で福澤諭吉という人物と『学問のすゝめ』という作品に出合いました。その『学問のすゝめ』の第8編の冒頭で、アメリカの教育者フランシス・ウェーランドとその書物「モラルサイヤンス」(The Elements of Moral Science『道徳科学要論[道徳科学綱要]』)が言及されています。私はこの書物の翻訳書として福澤先生の門下生、阿部泰蔵が文部省から出版した『修身論』という教科書を研究しています。この『修身論』の中でキリスト教の「神」の訳語として使われた「天」は、『学問のすゝめ』の冒頭に出てくる「天は人の上に人を造らず」の「天」とつながると思っています。

さらに最近では、本塾福澤研究センターの西澤直子教授と一緒に『学問のすゝめ』の土台となっていると思われる「中津留別之書」という作品を再検討し、その多言語出版(“A Message of Farewell to Nakatsu” by Fukuzawa Yukichi: Multilingual Edition with Commentaries in English and Japanese『「中津留別之書」―多言語で読む福澤諭吉』慶應義塾大学出版会)などに携わってきました。

今年(2022年)は『学問のすゝめ』初編刊行から150年ということで、この三田演説会でお話をするご依頼をいただいた時、せっかくなので何か記念になるような形で皆さま方に披露できるお話ができないかと思いました。それで私の研究テーマである近代日本の翻訳文化と福澤諭吉の『学問のすゝめ』を併せて本日の内容を組み立ててみました。

「speech」と「演説」

日本では公の場で大勢の人が集まって人の話を聴く習慣は昔からあまりなかったようです。「それはいけない、日本人も人前で話して自分の思いを伝え、自分の考えを主張し、反論を怖がらずに意見交換を行う習慣を身に付けなければならない」と考えたのが、ほかならぬ福澤諭吉でした。そのために明治7(1874)年に演説や討論を学ぶ場として三田演説会を組織し、翌年、この演説館を建てます。福澤諭吉はそのとき40歳で、偶然にも今の私と同じ年齢です。

皆さまもご存じかと思いますが、「演説」という言葉は、英語の「speech」を訳すために福澤諭吉によって作られた日本語、いわゆる翻訳語です。まず、この「演説」という翻訳語について『学問のすゝめ』第12編「演説の法を勧むるの説」の中に説明がありますので、ご紹介したいと思います。

演説とは英語にて「スピイチ」と云い、大勢の人を会して説を述べ、席上にて我思う所を人に伝るの法なり。我国には古よりその法あるを聞かず、寺院の説法などは先ずこの類なるべし。西洋諸国にては演説の法、最も盛にして、政府の議院、学者の集会、商人の会社、市民の寄合より、冠婚葬祭、開業開店等の細事に至るまでも、僅に十数名の人を会することあれば、必ずその会に付き、或は会したる趣旨を述べ、或は人々平生の持論を吐き、或は即席の思付を説て、衆客に披露するの風なり。この法の大切なるは固(もと)より論を俟(また)ず。

日本には、お寺のお坊さんの説教以外は西洋諸国のスピーチの文化に当たるものはないという話ですが、『学問のすゝめ』から150年たった今、日本人もスピーチの文化が大好きな国民になったのではないかと思います。

例えば結婚披露宴や歓迎会や送別会、新年会や忘年会、同窓会などでは日本でもスピーチをする習慣がありますね。ただ、それはほとんどの場合、あくまでも挨拶の言葉に過ぎないようです。福澤先生が説いたように、演説者が持論を述べたり、即席の思い付きをしゃべったりすることはほとんどありません。

しかし、面白いことに、今の日本語ではカタカナ語の「スピーチ」という言葉は、結婚式などのスピーチ文例集という種類の書物があるように、限りなく挨拶に近い意味で使われているのではないでしょうか。一方で、レトリックに訴えながら自分の考えを主張するという本当の意味でのスピーチは、日本語では漢語の「演説」を使うことが多いような気がします。政治家の街頭演説などがその事例でしょう。つまり英語のspeech の本当の意味は、軽薄なカタカナ語の「スピーチ」ではなく、重みのある漢語の「演説」に宿っていると私は思っています。ちなみに、日本語の演説は、今は逆にpublic speaking と英訳されることが多いようです。この演説館も英語でPublic Speaking Hall となっています。

演説という新しい概念が『学問のすゝめ』の中で大きな役割を果たしているのは第17編「人望論」の中の話にあります。福澤諭吉は、ここで人間社会において活動をしながら多くの人と関わりを持って世間について見識を広めるためには、3つの条件が必要であると述べています。その1つ目が演説の能力です。

第一 言語を学ばざるべからず。文字に記して意を通ずるは固より有力なるものにして、文通又は著述等の心掛も等閑(なおざり)にすべからざるは無論なれども、近く人に接して直(ただち)に我思う所を人に知らしむるには、言葉の外(ほか)に有力なる者なし。故に言葉は成る丈け流暢にして、活潑ならざるべからず。近来世上に演説会の設(もうけ)あり、この演説にて有益なる事柄を聞くは、固より利益なれども、この外に言葉の流暢活潑を得るの利益は、演説者も聴聞者も共にする所なり。又今日不弁なる人の言を聞くに、その言葉の数、甚だ少なくして、如何にも不自由なるが如し。譬(たと)えば学校の教師が訳書の講義なぞするときに、円(まろ)き水晶の玉とあれば、分り切たる事と思うゆえか、少しも弁解を為さず、唯むずかしき顔をして子供を睨み付け、円き水晶の玉と云う計(ばか)りなれども、若(も)しこの教師が言葉に富て云い舞〔回〕しのよき人物にして、円きとは角の取れし団子の様なと云うこと、水晶とは山から掘出す硝子(ガラス)の様な物で、甲州なぞから幾らも出ます、この水晶で拵(こしら)えたごろ〳〵する団子の様な玉と解き聞かせたならば、婦人にも子供にも腹の底からよく分るべき筈なるに、用いて不自由なき言葉を用いずして不自由するは、必〔畢〕竟演説を学ばざるの罪なり。

この『学問のすゝめ』の最後の第17編は明治9(1876)年11月に世に出ていますから「近来世上に演説会の設あり」とは福澤先生が自ら組織したこの三田演説会のことを含めて述べていることは言うまでもないでしょう。

日本語には「聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥」ということわざがあります。にもかかわらず、ほとんどの学生は、学校の先生が「円き水晶の玉」のような難しい言葉を使っても、「先生、それはどういう意味ですか」と質問するのを遠慮してしまうのです。福澤諭吉は啓蒙思想家というだけではなく現場で教える教育者でもありましたので、そういうところをよく理解しており、最初から相手にとって分かりやすい話をしましょう、と主張していました。

ちなみに、私も小学生の時、スペインで同じことわざを先生から聞いたことがあります。「質問したら5分の間ばかと思われる。けれど、質問しなかったら死ぬまでばかのままだ」というものです。先日、インターネットで調べたら、私が聞いたものとまったく同じ文言が中国のことわざとして紹介されていました。まるで福澤諭吉が翻訳したかのようでインパクトもありますね。

自国の言葉に習熟することの重要性

さて、この17編の中には話が下手な学校の先生の次に学生の事例も出てきます。

或る書生が日本の言語は不便利にして文章も演説も出来ぬゆえ、英語を使い英文を用るなぞと、取るにも足らぬ馬鹿を云う者あり。按(あん)ずるに、この書生は日本に生れて、未だ十分に日本語を用いたることなき男ならん。国の言葉は、その国に事物の繁多なる割合に従て次第に増加し、毫(ごう)も不自由なき筈のものなり。何はさておき、今の日本人は今の日本語を巧(たくみ)に用いて弁舌の上達せんことを勉むべきなり。

つまり、国内の様々な事情が洗練されて複雑になればなるほど、その国の言語の語彙数が増える。だから、その国の言葉で表現できないものなどはないはずだということです。だから、話を上手にできるようになるためには、まずは日本語を勉強しましょうということです。もしかしたら皆さまの中には、今どきの若者は日本語の能力、国語力が落ちていると思っている方がいらっしゃるかもしれません。しかし、皆さま方も自分たちの親世代からは全く同じことを思われていませんでしたか。

ちなみに、私はバルセロナ自治大学の翻訳通訳学部出身ですが、専攻した言語はスペイン語です。スペイン人なのに1年生と2年生のときはスペイン語Ⅰやスペイン語Ⅱのような必須科目を履修していました。なぜなら、翻訳・通訳の専門家になるためには、まずは自分の国の言葉をきちんと修めなければならないからです。

その次に外国語の専攻として英語、副専攻として日本語を取りました。日本語の勉強は漢字を含めて大変でしたが、交換留学で初めて来日したら友達ができまして、「すごい」「やばい」「まじ」という3つの言葉で、ほとんどの会話を乗り切ることができました(笑)。「すごい」「やばい」「まじ」は、日本で同い年の友達とコミュニケーションを取るための3種の神器でした。

そのほぼ20年後、私が覚えた日本語は日本人なら誰でも分かると思ってしまい、講義やゼミで学生には通じていないと気付かないまま難しい言葉を使ってしまうことがあります。教壇に立っている同業の人は同じような経験があるのではないかと思います。福澤先生が言われた、「言葉に富て言い回しのよき人物」になって、public speakingが上手くなりたいものですね。

「創造主」の訳語としての「天」

とにかく、翻訳・通訳のプロになるためには、まずは自分の国の言葉をきちんと修めなければならない。幕末、明治に翻訳に携わっていた者は、何よりも日本語が上手でした。その中の1人はもちろん福澤諭吉でした。

例えば『学問のすゝめ』の冒頭にある「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という文章は日本人なら誰でも知っている名言ですが、元の文章は、それに続いて「と云えり」とある。つまり「と言われている」ですから、何かの文献からの援引だと考えられています。その文献とは定かではありませんが、アメリカの独立宣言だという可能性が何度も指摘されてきました。英語圏では非常に有名な言葉ですが、「独立宣言」の該当箇所を引用しておきたいと思います。

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.

「われわれは次の真理を自明のことと信じています。全ての人は生まれながらにして平等につくられ、侵されざるべき特定の権利を創造主より与えられています。その権利の中には、生命、自由、そして幸福の追求が含まれています。」

日本語は私の直訳ですが、「創造主」と訳したところは、英語でCreator と言っています。ご存じのようにキリスト教においては、創造主あるいは造物主と、それによってつくられた被造物の考え方があります。

ただし、日本では人間は神のような存在によってつくられたという考えは昔からほとんどありませんでした。人は皆生まれながら平等であるという意味を伝えるために、日本には、その根拠を求めるところがなかなかありません。そもそもキリスト教圏では昔から神の存在やその役割に対して議論が続いていますが、現在では、自由や平等や人権などを主張する際に「それは神様が定めたものだから」と言うことはほとんどないでしょう。

一方、『学問のすゝめ』で福澤諭吉が創造主の訳語として選んだ「天」は、当時も今も個人的な宗教観を問わず日本人の誰もが何となく理解し、受け入れられる概念でしょう。例えば皆さんが日常生活の中で「天」の話をなさることはほとんどないと思いますけれど、「天罰」や「天職」、「天災」や「天才」などの言葉は今も使われていますね。

また、「天然」は自然の同義語とされていますが、天然パーマというのは、まさに天に与えられたパーマという意味ではないでしょうか(笑)。一方、天然ボケというのは天から与えられたボケということではなく、おそらくわざとボケをかましているのではなくて自然にボケてしまいながら本人は気付いていないということですよね? また、「天は二物を与えず」はまさに天賦人権につながりそうな表現ですが、慶應で教えていますと文武両道でとても優秀な学生さんが多くいて、音痴でスポーツが苦手な私からすれば天は二物を与えているではないかと思うことがしばしばあります。

ちょっと脱線してしまいましたが、『学問のすゝめ』の前にも福澤は『西洋事情』でアメリカ独立宣言を訳しています。その中でも「天が人を生ずる」という表現を使っています。

また、all men という言葉は、それは全ての男性ではなくもちろん「全ての人」に直す必要があります。それから、all men are created equal ですが、世の中に全く同じ人間は双子でもドッペルゲンガーでもいないはずです。このequal は今は平等と理解されていますが、明治初年に今と同じ意味の「平等」はまだ普及していませんでした。「同等」のような言葉を使っても何が同等だと言いたいか分かりません。だからall men are created equalを「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と訳したのは言語学者から見てもまさに天才的で、歴史に残る名言です。

各国の翻訳文化の歴史

近代日本の翻訳文化の中での福澤諭吉の役割について触れていきたいと思いますが、その前に、歴史の中で国によって様々な翻訳の文化が現れてきたことに注目しておきたいと思います。

例えば私が生まれたスペインには、12世紀前半から13世紀末にかけて、トレド翻訳学派という学者集団がありました。その当時のトレドはレオン=カスティーリャ王国の首都で、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教という3つの文化が共存し、それぞれの信者たちは一緒に暮らしていました。トレド翻訳学派の翻訳者たちは宗教が違っても協力し、イベリア半島ではアラビア語訳しか残っていなかった多くの古典文献をラテン語などに翻訳しました。そのおかげで、アリストテレスの哲学、ユークリッドの数学、プトレマイオスの天文学、ヒポクラテスの医学などがピレネー山脈を越えて西洋諸国に伝播し、ロジャー・ベーコンやトマス・アクィナス、コペルニクスにまで影響を及ぼしたのです。

また、ドイツでは中世から聖書の翻訳をめぐって様々な思想が生まれてきました。まず16世紀に、宗教改革者のマルティン・ルターは定番のラテン語訳からではなくヘブライ語やギリシア語の原典から聖書の翻訳を行いました。さらに、知識人のためだけの逐語訳の硬い文章ではなく、一般庶民にとって分かりやすい自然なドイツ語訳を試みたのです。しかしながら20世紀になりますと、2人のユダヤ系哲学者がなじみのないヘブライ語風のドイツ語訳を目指して、わざと昔ながらの硬い文章にしたのです。これは現在のドイツではない、はるかかなたの世界の古き時代の話であることを現代の信者に実感させようとした試みです。

その次に、アメリカで言語学者のユージン・ナイダが聖書翻訳理論を展開させ、現在の翻訳研究(translation studies)の道を切り開いたのです。彼の理論によれば、例えば人間の感情が宿るとされるheart、心臓という言葉は各文化に合わせて、例えばアフリカの言語なら「肝」や「腹」に訳してよいという考え方です。ナイダはこれを動的等価(dynamic equivalence) と呼んで、形式的等価(formal equivalence)と対立させます。等価という言葉は原文と訳文は同値関係にあることを意味して、原文ではheart、心臓が果たしている役割を訳文では「肝」が担えるのであれば、それは動的等価と呼んでいます。言葉の形式より中身や文脈を重視する考え方です。

日本の通訳・翻訳の歴史

さて、日本の話に移ります。古代日本では、通訳の活動が盛んになったと思われるのは4世紀から7世紀頃のことです。その頃の日本は中国大陸や朝鮮半島の国々との交流を通して漢字や儒教、仏教、律令制度など様々な異文化を形を変えながら導入し始め、以前から発展していた日本文明は大きな躍進を遂げたと言えます。

当時の日本語と外国語の間の通訳を行っていたのは、日本列島に渡ってきた渡来人という人々でした。その中に日本から中国大陸や朝鮮半島に移住した後に日本に戻ってきた人々も含まれていました。それから7世紀の初めに職業としての通訳が生まれたことが記録されています。そのような通訳のプロは日本語で「おさ(訳語、通事)」と呼ばれていました。この「おさ」の語源は朝鮮半島の百済出身の氏族の名前、あるいは現在は福岡市となっている福岡県の曰佐村という地名にちなんだと言われています。

次に、7世紀から9世紀にかけて遣唐使と呼ばれる中国への使節団が盛んになります。通訳者の養成が必要だと気付いた日本の朝廷は817年に大学寮という官僚を育てる学府を設立して、本格的な通訳者のトレーニングを始めます。ただ、そのような通訳者たちは中国語の読み書きができても会話能力が乏しく、通訳と言いながらも結局、筆談に頼ることが多かったそうです。大昔から日本人は外国語の勉強そのものは得意でしたが、その知識を実際の会話に活かせるかどうかは別問題だったようです。政府による通訳者のトレーニングは失敗して間もなく廃止されます。その後、通訳の仕事を任せられるのは来日した外国人や海外に長期滞在を経験した者となりました。

ちなみに、『日本書紀』や『延喜式』の記録によりますと、この時代には中国語の他にも通訳されていたと思われる言葉はたくさんありました。古代朝鮮語の新羅語、現代の南西諸島の言語だった奄美語、今の東北地方に当たる地域で話されていた蝦夷語、九州南部の言葉だった隼人語などです。今はあまり認識されていませんが、日本列島は昔から多言語社会だったと言えるのではないでしょうか。

さて、少し歴史を早送りします。17世紀以降の話です。ご存じのように、16世紀になりますと日本にキリスト教の宣教師やイエズス会士のヨーロッパ人が到来します。スペインのフランシスコ・ザビエルやイタリアのアレッサンドロ・ヴァリニャーノが有名ですが、言語や翻訳の分野で大きな貢献を果たしたのは言うまでもなく『日葡辞書』などで知られるポルトガル人たちです。

このときポルトガル語から日本語に入ってきた言葉がたくさんあります。食べ物では「パン、カステラ、金平糖」。洋服関係では「ボタン、マント」。それ以外にも「シャボン、たばこ、かるた」などなど、場合によって漢字を充てられても翻訳されずに、そのまま音写して外来語として多くの言葉が入ってきました。

ロドリゲスの翻訳論と仮名草子の翻案文化

鎖国の政策が始まる少し前に、ポルトガル人ロドリゲスによる『ロドリゲス日本大文典』という日本語文法の書物が出版されました。その中で日本語への翻訳を行う際に注意すべき点について、いくつかのアドバイスが述べられています。同じポルトガル語の単語であっても文脈によって異なる日本語の単語を使う必要があるということ。それから、文字どおりの逐語訳ではなく話の流れで意味をくみ取った翻訳を成す必要があることです。

例えば、ポルトガル語やスペイン語では「イエスキリストはあまりにも人間を愛したため、人間のために十字架にかかって死のうと思った」という文言から、思っただけではなく、結果として実際に死んだと読み取れます。

一方、日本語でそれを「死したく思召す者也」と直訳すると、死のうと思ったものの死ななかった、という意味に捉えられる恐れがありますので「死に給う者也」と実際に「死んだ」を意味する表現を使って翻訳すべきであるとロドリゲスは主張しています。つまり、宗教の神聖な話でも外国語の言い回しをそのまま直訳するのではなく、日本語で正しく理解できるように意訳しなければならないという、近世の時代においては斬新的な考え方です。

さらに、宗教関係の言葉はそれまで日本になかった新しい宗教であることを分からせるため、日本の言葉に訳さずにポルトガル語やラテン語をそのまま仮名の文字にして使うべきだと言っています。その背景には、ザビエルの有名な失敗のエピソードがあると思われます。ご存じのように、ザビエルは通訳のアンジロウに勧められてキリスト教の唯一の神を意味するDeusを日本語で大日如来の「大日」と訳してしまい、仏教の話をしていると勘違いされたのです。

ちなみに、ほとんど語られない事実ですが、大日如来の「如来(様)」は俗語で下ネタ的な意味もありましたので「大日を拝みなさい」と言うザビエルたちは庶民に笑われたこともあったそうです。だから50年後のロドリゲスは、Deusをはじめキリスト教の固有名詞や専門用語は訳さないでそのまま外来語として使うべきだと主張したのです。

この時代に仮名草子という庶民に普及しやすい出版物が現れます。日本固有の作品もありましたが、中国語の物語を日本語にした翻訳本が特徴的です。かつては日本語の文献の理解はほとんど漢文訓読で行われていましたが、このときから仮名交じり文などの日本語独特の表記の資料が全国各地に広がります。その中には『三国志演義』や『水滸伝』などの中国由来の翻訳作品以外にも有名なイソップ物語があります。日本では漢字の『伊曾保物語』という名前で知られ、少なくとも2つのバージョンがあります。

1つは、いわゆる天草版です。これは今の熊本県の天草の島でクリスチャンによって出版された活字本です。日本語を勉強している宣教師などを対象とした翻訳のためローマ字が使われただけでなく、当時としては非常に珍しい日本語の口語体で書かれた書物です。今でも近世の日本語の話し言葉を研究するために非常に貴重な文献です。

それとは別に完全に日本人向けの翻訳本も出版されました。こちらは直訳だった天草版と違い、翻案されたものです。異文化の難しい内容は意訳され、場合によって物語の舞台も日本に再設定されました。登場人物がいかにも日本風の挿絵も入れられ、『論語』や『平家物語』への言及すらありました。また、原文にはないのに結末に「天罰」という表現が使われている教訓を取り入れる寓話もあります。

このような翻案の仮名草子は人口に膾炙して非常に普及しました。もちろん、その普及の背景には江戸時代の大衆向けの豊富な出版文化と一般庶民の高い識字率があります。この『伊曾保物語』の2つのバージョンを比較して、おそらく日本で初めて、いわゆる「直訳」と「意訳」の異なる訳し方の方針に気付くことができます。

蘭学者たちの翻訳の工夫

江戸時代は通詞(つうじ)と呼ばれる人物たちの時代でもあります。長崎の出島に置かれた通訳兼商務官という世襲の職務です。彼らは主に貿易の仕事を担当する中でオランダ人や中国人との限られた交流を通じて日本国内に国際情勢などを伝え、同時に、科学、技術、軍事や医学関係の文献を翻訳して、日本に先進的な文化を導入していきます。そのうちポルトガル語が廃れ、代わりにオランダ語が外の世界を知るための窓になっていきます。さらに幕末になりますと、開港された横浜や箱館(函館)などでも通詞は大活躍します。

江戸時代はもちろん蘭学の時代でもあります。多くの蘭学者は医者でもありまして、その中でももっとも有名なのが杉田玄白です。彼は原文ドイツ語のオランダ語訳から日本語に訳した解剖学の傑作『解体新書』の中で、西洋医学の用語を訳すために新しい漢字熟語を作ったことでよく知られています。例えば英語のnerveに当たるオランダ語zenuwを訳すために、精神力を意味する「神気」と漢方の「経脈」を組み合わせて「神経」という単語を作りました。また、現在の言語学分野では翻訳借用と呼ばれる方法に訴えて、西洋語から文字どおり直訳して「門脈」という語を創造しました。英語portal veinと比べても一目瞭然でしょう。

一方、もう1人の蘭学医、宇田川玄真は医学用語を訳すために中国には存在しなかった新しい漢字を作ったことで知られています。例えば涙腺や前立腺の「腺」は体液が湧き出ることから部首のにくづきに泉を付けて造字したものです。他に膵臓の「膵」もラテン語の語源まで考慮して日本語で初めて作られた、いわゆる国字です。このように工夫して新しい漢字を作ったり、既存の漢字を組み合わせて新しい熟語を作ったりすることで、蘭学者はボキャブラリーを増やして日本語という言語を変えていきました。

幕末維新になっても、翻訳に携わった啓蒙思想家たちは蘭学者の多くの訳語と翻訳のテクニックを踏襲しました。それとは別に漢訳洋書から引き継がれた翻訳語もありました。漢訳洋書とは文字どおり、中国語に翻訳された西洋諸国の書物で、多くは日本にも普及していたのです。

日本の近代化のためには西洋諸国の知識が必要でした。富国強兵や殖産興業に必要な科学や技術だけではなく、他国との交流や日本社会の進歩のために、政治、経済、法律、哲学、地理、歴史、美術、文学など、あらゆる分野について学ぶ必要が生じたのです。五箇条の御誓文に掲げられた「智識を世界に求め」るためには、言うまでもなく、外国語の理解と翻訳が必要不可欠でした。

それから翻訳するために英語、フランス語、ドイツ語などの外国語の概念を表すために、日本語でも新しい単語を作ることが緊急の課題となりました。福澤諭吉や加藤弘之は幕末から翻訳の先駆者でしたけれども、その他に小幡篤次郎、津田真道、中村正直、箕作麟祥、それから誰よりも西周(あまね)という啓蒙家が明治初期に多くの翻訳語を作っていくのです。

外国語の概念をどう翻訳するか

日本の近代と翻訳の関係を論じた加藤周一によりますと、明治初期に行われた外国語の概念を翻訳する方法は、主に次の4種類に分けることができます。

1つは、蘭学者の訳語の借用です。先ほど説明した「神経」や「腺」をそのまま使い続けることです。他に元素の水素や炭素があります。

2番目は先ほど言及した漢訳洋書からの訳語の借用です。例えば法学者の箕作麟祥はフランスの民法を訳した時に、「権利」という単語を『万国公法』という有名な本から引っ張り出したと認めていたそうです。この『万国公法』はイギリス人のヘンリー・ホイートンが書いた国際法解説書の中国語訳です。中国語から借りられた翻訳語としては、他に「銀行、保険、化学、代数、幾何」などがあります。

この2つの方法は既に存在した翻訳語を借りて普及させる方法でしたが、次の2つが最も盛んに行われた方法で、当時の日本人の秀でた才能が窺えます。

3番目が古典漢語の転用です。つまり既に存在していた昔ながらの漢字熟語に西洋の概念という新しい意味を充てるという方法です。この中には、「文学、文化、文明、経済、福祉、観念、自然」などがあります。

これらの単語は今の国語辞典で調べても、もともとの意味が載っていることが多いです。例えば言葉の定義を一番古い意味から並べる『広辞苑』で「文学」を調べてみますと、最初の意味として、「学問。学芸」などが出てきまして、literatureの翻訳語としての意味は2番目になって出てきます。「文化」に関しては最初に「文徳で民を教化する」ことの意味が載っています。2番目に「世の中が開けて生活が便利になること。文明開化」の意味が出てきて、cultureの翻訳語としての定義は3番目になります。それから一番有名なものとして、福澤諭吉が広めたとされているlibertyやfreedomの翻訳語としての「自由」については後ほど触れたいと思います。

4番目に日本独自の造語、和製漢語と呼ばれるものがあります。蘭学者がやっていたことと同じですが、「哲学、主観、定義、抽象、常識、悲劇、冒険、警察、郵便」などがあります。ちなみに「権利」は、箕作麟祥による中国語からの借用とは別に、西周も自律的に同じ熟語を作ったという説があります。西周は「哲学」をはじめ「知識、意識、芸術、技術、科学」、それから心理学のような「〇〇学」という和製漢語を数百も作ったと言われています。現在の私たちには、彼が残してくれた翻訳語を使わずに日本語で知的な会話をすることはなかなかできないでしょう。

明治初期に日本で作られた多くの翻訳語は後に近代化を始めた中国に逆輸入され、朝鮮半島やベトナムにまで広まりました。ちなみに西周は、最初は仮名と漢字を廃止して国語のローマ字表記を推進した論者の1人です。それなのに彼は結局、日本語の漢字文化に多大な貢献をしたことは面白いですね。

明治初期の翻訳ブームと翻訳語の定着

言語学から見ても、明治初期はまさに激動の時代です。翻訳語は激動の時代だからこそ、すぐに定着したわけではありません。主に1870年代は、同じ外国語に対して、人によって、または作品によって複数の異なる翻訳語が使われていました。

まずは幕末維新のころに福澤諭吉の『西洋事情』や西周の『百学連環』のような作品が現れ、さまざまな翻訳語が認知され始めます。その次に1870年代に文明開化の時代と近代的な教育制度を定めた「学制」が整備されたことと相まって、明治初期の翻訳ブームが起こります。中国語やオランダ語の他に英語やフランス語、ドイツ語、ロシア語などの文献が多種多様な人たちによって試行錯誤で翻訳され、多種多様な結果をもたらします。翻訳が行われていたのは国の機関だった文部省や蕃書調所(後に洋書調所、開成所)、全国各地の学校や私塾、民間の出版社、それから個人によるプロジェクトもいろいろあったそうです。

それほどたくさんの翻訳が行われていた中で様々な翻訳語が統一されて定着したのは、1881年に井上哲次郎らの『哲学字彙』という辞書が出版されてからだと思われます。例えばsocietyは、早くも1877年頃までにその訳語「社会」が市民権を得るが、それまでは数え切れないほど複数の異なる日本語が充てられていた事例として代表的でしょう。当時の外国語辞書で調べますと、仲間、連中、会社、社中、社友、組、組合などが出てきます。私が調べた中では阿部泰蔵を含めた慶應義塾出身の翻訳者たちは「社中」が多いです。societyには、人間社会の概念に先行する団体や結社など組織の意味があることは重要です。

ベストセラーの訳書『西国立志編』で知られていた中村正直(敬宇(けいう))は、1872年にジョン・スチュアート・ミルの『自由論(On Liberty)』を『自由之理』として翻訳し、その中でsocietyを様々な日本語に訳していたようです。政府・仲間連中・人民の会社・会社・世俗・仲間・総体仲間・仲間社会・総体人民などです。興味深いことに、割注で「即ち政府」などと明記した場合もあります。

一方、福澤諭吉は、皆さまもご存じのように、最初はsocietyの訳語に「人間交際(じんかんこうさい)」という語を使っていました。『西洋事情』の中では人間交際の他に人間の交わりという表現も見られますが、『学問のすゝめ』では人間交際か人間の交際に統一されます。初編から17編までで25回ぐらい出てきます。特に『学問のすゝめ』17編「人望論」は人間交際についてです。その結びの言葉は、少し表現を分かりやすくすると、こういうメッセージになります。「世界の土地は広く人間交際は多くて様々ですから、4~5匹の鮒が井戸の中で何もせずに過ごしているのとはちょっと趣が違う。人でありながら人を毛嫌いすることは良くない」。福澤先生にとって人間関係は1つの学問で、とても大事だという考え方が、現在もこの慶應義塾で立派に引き継がれていることは言うまでもありません。

福澤諭吉にとっての「自由」

それではあらためて、福澤先生が広めた「自由」についてお話ししたいと思います。「自由」という言葉は、本来は漢語として自分の思う通りという意味で、江戸時代まではわがままや自分勝手といった否定的なニュアンスで使われることが多かったそうです。それでも江戸末期の一部の辞書や翻訳本では、西洋語のlibertyやfreedomに対するその場しのぎの訳語として採用されていました。これを受けて福澤諭吉は早い段階から新しい意味を定着させようと決心し、幕末から『西洋事情』の中で使い始め、複数回にわたって「リベルチ」を訳す難しさについて論じています。

『学問のすゝめ』初編の中では福澤諭吉の自由論が丁寧に展開されていますので、皆さんも、今日家に帰られたら、あらためてお読みいただければと思います。私はここでは『学問のすゝめ』の1年前に執筆された「中津留別之書」での自由の説明に触れておきたいと思います。

福澤は外国語を新しい日本語に翻訳する際は文化的な違いを考慮して言葉の意味を丁寧に説明していきます。翻訳語としての「自由」は新しい日本語ですので、彼は以下のように説いていきます。

古来、支那、日本人のあまり心付(こころづか)ざることなれども、人間の天性に自主自由という道あり。一(ひ)と口(くち)に自由といえば我儘のように聞(きこゆ)れども、決して然らず。自由とは他人の妨(さまたげ)を為さずして我心のまゝに事を行うの義なり。父子、君臣、夫婦、朋友、互に相妨げずして各(おのおの)その持前の心を自由自在に行われしめ、我心を以て他人の身体を制せず、各その一身の独立を為さしむるときは、人の天然持前の性は正しきゆえ、悪しき方へは赴かざるものなり。

これが福澤諭吉によって日本語だけで自分の言葉で自分の考え方として完全にまとめられた最初の自由の定義と思われます。「中津留別之書」は福澤が36歳の時に中津の古い実家で書いて、翌年の『学問のすゝめ』初編の中で「自由と我儘との界(さかい)は、他人の妨を為すと為さゞるとの間にあり」と主張して、絶対的な自由ではなく制限のある自由として、西洋語のliberty を日本人に伝えようとした試みに通じます。

ウェーランドの影響

「中津留別之書」『学問のすゝめ』ともに、アメリカ人経済学者フランシス・ウェーランドからの影響が認められています。ウェーランドはプロテスタント系の牧師でもあり、19世紀のアメリカでキリスト教の教義に基づく倫理的な観点から奴隷制度の廃止や女性の地位の向上などを求めていました。『学問のすゝめ』第8編で「モラルサイヤンス」として紹介されている出典の本は、1835年にボストンで出版されたThe Elements of Moral Science(『道徳科学要論』)という大学生向けの教科書です。moralにscienceが付いているのは道徳より倫理に近い意味になるからです。簡単に言えば、アメリカの民主主義の理念が説明されているテキストです。

この本の内容が『学問のすゝめ』の第2、6、7、8編の直接の論拠になっていることは昔から板倉卓造や伊藤正雄の研究などで証明されています。福澤の文章の中にウェーランドの原典を直訳または意訳したと思われるところが多くあります。『学問のすゝめ』の中で提唱されている自由論、天賦人権、人間の平等、夫婦あるいは男女の平等、親子の相互的な関係、社会契約、国家同士の対等な関係といった思想は、主にウェーランドから学んだと言えるでしょう。もちろん福澤はそのような思想を咀嚼して自分の考え方と結び付けて、日本の社会的な実情に合わせて展開させていくわけです。ただのパクリではありません。

そのために、父子、君臣、夫婦、朋友などの五倫や、天理人道といった儒教的な思想に訴えて、翻訳と創作のはざまで日本人にとって分かりやすい形で、西洋文明の思想を導入しようとしたと評価することができます。

『学問のすゝめ』初編刊行の1年後の1873年から、日本では「学制」が施行され、史上初の近代的な教育制度が始まります。学区などの制度をフランスから取り入れ、教科書はほとんどアメリカやイギリスから取り寄せ、それらを日本語に訳しました。今は翻訳教科書という名前で知られています。その時、修身という科目がありました。今では修身と聞きますと、戦前の軍国主義的な国民道徳の教育を連想すると思いますが、文明開化と重なる「学制」の時代、1870年代の修身はその真逆で、欧米諸国から取り入れられた国際的な倫理の勉強というものでした。現在の教科でいいますと公民、現代社会、倫理、政治・経済などの内容に近かったのです。

主に19世紀のアメリカ民主主義と資本主義、社会契約、三権分立、徴税、議会制、私有財産、労働契約、売買契約などを日本の小学生たちに教えようとしたのです。もちろんその中には正しい行動、嘘をつかない、物を盗まないなどといった道徳や行儀に関することも含まれていました。

これらは日本が文明国になるために必要だった一種の知識でした。ただし、アメリカの教科書の全てはキリスト教に基づいていました。当時の日本にとって、つい最近まで禁止されていた異国の宗教の、文中のあらゆるところに出てくるGod(神)やBible(聖書)などへの言及は不要でした。ところが、そういうところをむやみに削除すると前後関係が分からなくなってしまい話がつながらない。そこで翻訳者たちはどうしたのでしょう。

阿部泰蔵の翻案の方針

ここで簡単に、福澤先生の門下生、阿部泰蔵が訳した『修身論』の場合をご紹介したいと思います。『修身論』は1874年に文部省から出版されたのですが、実はウェーランドの「モラルサイヤンス」の中学生向け簡略版の翻訳書です。先ほどお話ししましたように、ポルトガル人のロドリゲスなどの宣教師たちは日本人にキリスト教徒になってもらうために、神を訳さずに「デウス(Deus)」のまま表現することがよいという結論に至りました。しかし明治期の翻訳では、キリスト教に興味のない日本人にアメリカなど西洋文明国の倫理(政治・社会・経済)を教えるため、キリスト教抜きの翻訳が必要だったのです。日本の小学生たちに「神様が言ってるんだから」とか「聖書に書いてあるから」と説教しても話が分かりませんし、説得力は皆無に等しい。だから阿部泰蔵は江戸時代の仮名草子の翻訳本のようにキリスト教的な内容をごまかして翻案の方針を打ち立てたのです。

つまり、God を「天」と訳し、Jesus を「聖人」や「先賢」と訳し、Bible を「古書」や「経典」と訳した。そして、Devil を「鬼」と訳して、肝心なところを残しながら本の中身を日本文化に同化させ、日本の子どもたちが話を聞いても違和感、抵抗感を抱かない内容にしたのです。

例えば「良い子どもでないと天罰が当たるぞ。昔の偉い人がものすごい本を書いてこんなこと言ってるんだから、みんなもそうしなければならない」のような説明を児童たちにすれば多少なりとも説得力があったはずです。原文ではGod が果たしていた機能を訳文では「天」が果たすことになったという意味では、先ほど紹介した米国人ナイダの動的等価が役立っていると言えるでしょう。もちろん本当はそんなに単純なものではありませんが、大体そんな形で翻訳が行われていたわけです。

日本の翻訳文化の発展

福澤諭吉の影響もあって「モラルサイヤンス」は日本で短期間にものすごく普及し、数年間で10人以上もの人たちが自分なりの方法でその簡略版を訳して、ほぼ同時に出版していたのです。例えば慶應義塾出身の平野久太郎という私塾教師は直訳を試みて、当時の日本人にとっては予備知識がなければ非常に難しい翻訳書として出しました。彼の想定した読者は、片手に原書を持って日本語を読みながら英語を理解する目的を持つ人々でした。

一方、大学南校(現・東京大学)出身の山本義俊という別の私塾教師は、自分の解説を交えながらキリスト教を仏教にたとえて、読者に原書の説明を提供しました。彼の目的は、文化仲介者として日本人にキリスト教はどのような宗教でアメリカはどのような国であるかを紹介することでした。このように江戸時代のイソップ物語のように、翻訳の目的や読者層を違えて異なる翻訳の戦略を打ち出し、同じ原書に対して複数の翻訳本を世に出すことが近代の日本でも時々行われていたのです。

このような翻訳の文化は文学の翻訳においても同じです。ご存じのように1880年代からは日本では世界文学の翻訳が非常に盛んになっていきます。その中で同じ作品が、いわゆる原文重視の直訳と訳文重視の意訳でほぼ同時に出版されることもありました。

例えばイギリス生まれのアメリカ人のバーネット夫人による児童向け小説Little Lord Fauntleroyという有名な作品があります。日本語のタイトルは『小公子』、お坊ちゃんみたいな意味ですけれど、1890年頃に2種類の翻訳本が出てきます。

1つ目は有名な教育家の若松賤子(しずこ)による直訳で、もう1つはジャーナリストの山縣五十雄(いそお)による翻案です。最近の研究論文によれば、賤子による直訳は原作にあるフェミニズム的な内容を日本語でも取り入れていますが、山縣五十雄の翻案はそういうところが完全に抜けてしまっており、男子向けの物語になっていることが明らかです。

また、慶應義塾出身で翻訳王と呼ばれている森田思軒(しけん)は、日本語で不自然であっても忠実な一字一句の逐語訳を目指す周密文体というスタイルを生んで次世代に残しました。

一方、慶應義塾中退の黒岩涙香は翻案小説を百作品以上出版したことで知られています。例えばフランスの名小説『モンテ・クリスト伯』を『巌窟王』というタイトルで翻訳して、舞台はヨーロッパのままにしながらも登場人物の名前を日本人に親しみやすいようにしました。例えば主人公のエドモン・ダンテスを漢字で団友太郎と訳したのです。

ちなみに近年の映画化であらためて話題となった『レ・ミゼラブル』は、森田思軒に翻訳され、黒岩涙香にも翻案されています。世界文学の翻訳の話をし出したら切りがないので、これくらいにしたいと思いますが、最後に1つだけ付け加えておきます。

なるべく話し言葉に近い形で文章を書こうという言文一致運動が流行していた中、ヨーロッパ文学の翻訳などの影響で、日本語の語彙だけでなく文法にも大きな変化がもたらされました。同時に、日本語の表現の移り変わりは早かったので、翻訳文学には必ず賞味期限があり、定期的に再翻訳が求められていました。このように日本では翻訳活動と国語のあり方はお互いに影響し合う関係にあります。このような事実は他の国ではなかなか見られないものです。その関係もあって、日本では世界文学の大人気作品は何度も新訳が出ています。『ピノキオ』『海底二万里』『不思議の国のアリス』『カラマーゾフの兄弟』『赤毛のアン』、それから最近は『星の王子さま』。全ておよそ10から20種類の日本語訳が存在します。これもまた世界的に見ても比類のない日本独特の翻訳の文化と言えるのではないでしょうか。

福澤諭吉のことば遣い

さて、話が長くなりましたがそろそろ結びです。福澤諭吉の翻訳に関する考え方は、1896年に刊行された『福澤全集緒言』で分かります。例えば難しい漢字や文体を使わずに、なるべく日本の大和言葉と現在の口語体に近い易しい文体をいつも試みていたという事実を確認することができます。教育のない百姓でも町人でも、家事手伝いの娘でも、たまたま障子越しに福澤の作品の話を聞いたとしても問題なく理解できるような表現を目指していたのは「自分の文章は最初より世俗と決心し、世俗通用の俗文をもって世俗を文明に導く」ためだったと、自ら説明しています。

また、「バターのように柔らかい」という比喩的な表現が出てきたら、日本語では「味噌のように柔らかい」と訳した方が良いと言っていました。翻訳論から考えて、確かに意味が正しく通じれば、直訳より意訳や翻案の方が原文に忠実であると言える場合があります。

「自由」などという翻訳語に関する話ですが、5年前に他界された翻訳研究者の柳父章(やなぶあきら)さんは、『翻訳語成立事情』という本の中で次のように福澤諭吉を評価されていました。「福澤諭吉は、日本の現実の中に生きている日本語を用いて、ことば遣いの工夫によって、新しい異質な思想を語ろうとした。そのことによって、私たちの日常に生きていることばの意味を変え、またそれを通して私たちの現実そのものを変えようとしたのである」。

幕末維新の日本人は鎖国という長い時代の直後に、一体なぜあれだけ上手に数多くの外国語を日本語に訳して西洋文明を日本に導入する近代化への道を開くことができたのでしょうか。評論家の加藤周一によれば、江戸時代の日本の文化と社会がかなり進んでいたからだけでなく、蘭学という学問と漢文訓読という翻訳方法があったからです。柳父章も、漢文訓読体を翻訳用の「もう一つの日本語の書き言葉」と位置づけながら、世界の中で珍しい、「日本人が育ててきた独特の翻訳方法」であると評価していました。

漢文訓読は今のふりがなの文化にある程度まで引き継がれていると私は思います。例えば、映画やテレビの字幕でも、たまに漢字にカタカナ表記の外国語がルビで振られていることがありますね。一例を挙げますと、英語で同じrightであっても、時には「権利」、時には「右」、時には「正しい」などの異なる意味で使うことから、映画では言葉遊びや登場人物の勘違いという場面設定を作ることができます。そういう時、日本語の字幕では、それぞれ異なる漢字の訳語に毎回カタカナで同じ「ライト」というルビを付けることで、日本語では違っていても英語では同じ単語が使われていることを視聴者に伝えることができます。

このように、奈良時代に生まれたと言われる漢文訓読の文化は現在の海外ドラマや映画の字幕の翻訳にまで引き継がれ、日本特有の翻訳の文化として生かされていると言えるのではないでしょうか。

今回は近代日本の翻訳文化がテーマでしたが、最後に皆さまと共有したい目から鱗が落ちる豆知識があります。日本は極東の小さな島国で、異文化を受け入れようとしない閉鎖的な社会であり、外国語会話が苦手で国際社会では活躍しにくい民族性を持っているといった話を耳にすることがありますね。しかし、実は国連ユネスコの翻訳図書専門データベース「Index Translationum」の調査によれば、日本はドイツ、スペイン、フランスに次いで世界で4番目に翻訳書の出版が多い国です。日本人は150年たってもまだまだ演説が苦手なようですけれど、それを改善しながら世界の中でこんなにも優れた翻訳の文化をつくり上げてきたことを誇りに思って、どんどん世界に発信していけば、それは素晴らしいことではないでしょうか。

以上です。ご清聴有り難うございました。

(本稿は2022年12月20日に三田演説館で行われた第711回三田演説会での講演を元に構成したものである。福澤諭吉の著作については『福澤諭吉著作集』(慶應義塾大学出版会)より引用した。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。