慶應義塾

福澤諭吉先生と津田梅子──職域接種への感謝を込めて

公開日:2023.03.15

登場者プロフィール

  • 髙橋 裕子(たかはし ゆうこ)

    津田塾大学学長

    髙橋 裕子(たかはし ゆうこ)

    津田塾大学学長

2023/03/15

ただいまご紹介にあずかりました髙橋裕子でございます。皆さま、あけましておめでとうございます。

福澤諭吉先生の第188回誕生記念会にお招きくださいまして、誠にありがとうございます。私は慶應義塾の卒業生でも教員でもなく、福澤先生の研究者でもありません。このような私に、貴重な機会をつくっていただきましたことに、深く感謝申し上げますとともに大変光栄に存じております。

職域接種への感謝

私は福澤先生へのご報告を兼ねて、この記念すべき日に、ぜひお話しし、記録に残していただきたいことがあります。新型コロナウイルス感染拡大時における職域接種への感謝の言葉から、今日のお話を始めたいのです。

皆さま、「職域接種」という新しい四文字熟語を覚えていらっしゃいますでしょうか。ご存じのとおり、日本では2020年の2月頃から始まった新型コロナウイルスの感染拡大は、大学教育にも大きな影響を与えました。私自身の学長の2期目が、ちょうど2020年4月1日からでしたが、新しい副学長2人を含めて3人の副学長そして新事務局長とともに、学長室はそれまでには経験したことのない対応に迫られました。

2021年に入ってからは、日本のワクチン接種の対応の遅れが各方面から指摘され、日本と米国、ヨーロッパ諸国との往来もほぼ完全にストップするという、これまでにない状態にありました。

大学は、留学生の送り出しや受け入れを考えるどころではなくなりました。まず、学生や教職員の健康を守ることを第一に、とにかく無事に4年間で卒業が可能になるように、オンラインを活用した授業の実施に専念しなくてはなりませんでした。全国のほとんどの大学で、同じような対応を迫られていたのではないかと思います。

2021年の春頃から、高齢者や基礎疾患を持つ人、そして医療従事者からワクチン接種が始まりました。まずは高齢者からということでしたが、最初は予約を取るのも大変で、電話も、予約用のホームページにもつながらないといったことがニュースになりました。

そのような状況下で、津田塾大学では、協定校への海外留学を希望する学生たちが、学長である私に直接、どうしても大学生のこの時期にしかできない長期留学をしたいと何度もアピールしてまいりました。当時、米国の大学を中心に、留学生の受け入れにはワクチン接種が義務付けられていました。しかし、留学する学生にワクチン接種のサポートをするようにという案内が文部科学省から届いても、高齢者優先ですから、学生たちはどこに行けば接種ができるのかわからない状態でした。

ちょうどそのころ、2021年の6月頃だったと思いますが、大学や企業でも、ワクチンの職域接種を実施できるようになるという情報が入ってきました。津田塾大学でもすぐに職域接種の検討に入り、いったんは相当の経費がかかっても実施しようと意思決定し、事務局長をリーダーとするプロジェクトチームを立ち上げました。提携が可能な病院と相談し、医療従事者をどのようにして集めたらいいかといった検討も始めました。

しかし、本学は慶應義塾のように医学や薬学、看護系の学部を持たない、学生が3,200名程度、教職員が全学部合わせて530名程度の大学です。そういう小規模大学が職域接種を進めるには様々な不利な点があり、実施は困難を極めました。また、こういう小さい大学ではワクチンの入手がどうなるかも定かではありませんでした。ちょうどそのような逼迫した時期に、「慶應義塾にお願いしてみてはどうか」というお話が私の耳に入ってきたのです。

2021年の5月28日に塾長にご就任ですので、実は1カ月もたっていらっしゃらなかったことが今日わかったのですが、伊藤塾長に「慶應義塾の職域接種に津田塾の学生を加えていただけないでしょうか」と、私は学長として極めて率直に、直球でお願いしました。すると、伊藤塾長から、すぐにご快諾をいただいたのです。

伊藤塾長には、「『コロナ禍で奪われた塾生のキャンパスライフを奪還したい、塾生だけでなく広く学生たちの未来を取り戻したい』という強い思い」がおありだったと北川雄光先生の「全塾ワクチン職域接種終了報告」(『三田評論』2021年11月号)から教わりました。海外の協定校に留学予定の学生を先行して慶應義塾で接種をしていただき、お蔭様で、派遣留学生20名のうち、12名が慶應義塾でのワクチン接種を極めて早い段階で受けることができました。そして無事に米国やヨーロッパの新年度の授業開始に間に合うように渡航することができたのです。

さらに、全ての学生、教職員も慶應義塾で接種の対象としていただき、先に実施された留学希望の学生への接種12名を加えますと延べで2192名(留学希望学生12名、在学生1892名、教職員288名)が接種を受けることができました。

慶應義塾の当時の新執行部におかれましては、社中協力で卒業生の医療従事者や教職員のOG、OBにも声を掛けられて多くの協力者を集められ、事務局の職員の皆さまが、この職域接種に多大なお力添えをしてくださったと伺っています。極めて困難な状況下で、そのようなご尽力により早期から慶應義塾以外の学生や教職員も包摂した職域接種を実現されたのであろうと拝察し、深く敬服しているところです。あのころの緊迫した状況は、いつか忘れ去られてしまうかもしれませんが、今日この機会にお話をさせていただくことで、慶應義塾の未来の卒業生の皆さまにもお伝えできることを願っています。

あの時、留学を実現できた津田塾の学生は、帰国してから「留学できて本当によかったです」と声を掛けてくれました。あの時期に海外留学を選択した学生たちは、米国やヨーロッパに長期滞在することにリスクがあることは十分承知していました。それでもワクチン接種を受け、渡航することを選び取ったのです。選ぶのは学生自身でも、私自身はとにかく学生たちに海外渡航をする、留学をする選択肢を提供したいという強い思いがありました。

改めて、伊藤塾長をはじめとして慶應義塾の教職員の皆さま、そして社中協力してくださった慶應義塾の全ての皆さまに深く感謝申し上げます。

津田梅子の150年前のアメリカ渡航

さて、去る2022年は、かの有名な「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で始まる、「日本の独立宣言」とも称される古典『学問のすゝめ』の初編の刊行から150年でした。それと同じく、初の官費女子留学生、日本政府の国費留学生が、日本から米国に到着してからちょうど150年の年でもありました。

そもそも、わずか6歳の津田梅子がアメリカに留学する運びとなりましたのは、父親の津田仙(せん)がアメリカ渡航を経験していたことに深い関係がありました。慶応3(1867)年、福澤先生の3度目の海外渡航は、2度目となる米国訪問でしたが、実は仙も同じ船に乗っていました。仙は通訳としての役目を担い、小野友五郎の随員となっていました。福澤先生も翻訳を担当するということで随行されましたので、この遣米使節の際に福澤先生と津田仙の接点があったわけです。

皆さまもよくご存じのとおり、福澤先生はこの渡米の際に、慶應義塾での授業のために膨大な書籍を購入したと伺っています。またこれは3度目の海外渡航になりますが、「近代社会をもう一度みたい」(鹿野政直『福澤諭吉』)ということが本当の目的の1つであったと鹿野政直氏は指摘しています。

一方、津田仙にとっては、この時が初めてのアメリカ経験でした。アメリカで約半年間過ごし、大きな影響を受けて帰国しました。仙はこの時、「四民平等尊卑の別なく、ことに農家の富裕にして、農業は国家の幸福を来すべき事業たるを知り、しかして我が国農家の地位を高め、農業の発達を企画せん」(高崎宗司『津田仙評伝』)と述べています。つまり、仙の場合、農業について新たな認識を持って帰国したということが言えます。

そのようなことから、その数年後の明治4(1871)年に開拓使が女子留学生の募集をした際には、父である津田仙が娘の米国留学に積極的だったわけです。長女の琴子は、絶対に行きたくないと固辞しましたので、次女の梅子に「じゃあ梅子、行かないか」と仙は言ったわけです。アメリカ留学時代に梅子は「アメリカに行きたいと思ったから、アメリカに来たのです」と作文に書いています。一方で、梅子の米国留学は、ちょうど福澤先生と同じように日本で外国語の習得に苦労していた父親の仙の強い希望でもあったわけです。

福澤諭吉と津田梅子の共通点と相違点

梅子は、最初の米国留学で明治15(1882)年まで約11年間を過ごすことになりました。そして明治22(1889)年、再度アメリカに留学し、3年間ブリンマー大学で学びます。さらに明治33(1900)年の女子英学塾(後の津田塾大学)建学前の明治31(1898)年から32(1899)年まで約1年間、また明治40(1907)年には病気療養と視察のために約1年間、米国とヨーロッパに渡航し、大正2(1913)年には会議の出席を兼ねて約半年間と、生涯で5回の海外渡航を経験しました。

福澤先生も1860年の遣米使節で約半年間、1862年の遣欧使節で約1年間、1867年の再度の遣米使節で約半年間と、20代、30代の初めに海外渡航をして、大変大きな影響を受けておられます。

福澤先生がアメリカで男尊女卑ではなくて女尊男卑であることに驚愕した話は有名ですが、これは女性が男性の前を歩くといった表面的なことで、当時のアメリカ女性たちはまだ参政権は持っていませんでした。しかし、すでに参政権を求める運動を力強く開始していたことは事実です。鹿野政直氏によれば、福澤先生は「封建社会の秩序に疑問を感じそれからぬけだそうともしてきたがゆえに、近代文明に接したときに、それにめざめることができたわけである」。「封建秩序からの脱走をもくろんできた」ので「ここで文明へという方向をあたえられたことになる」(鹿野政直『福澤諭吉』)。

西洋の思想や文化、文明から積極的な面を学び、そしてそれらを日本に紹介しようとした姿勢は、福澤先生と梅子の最も顕著な共通点だったと言えると思います。しかし、大きな相違点は、梅子の場合には、あまりにも幼少の時分からアメリカの社会に接したことです。船の上で7歳になったので、到着したときには7歳でした。アメリカ人夫妻に養育されることになったため、日本人である官費留学生としてのアイデンティティーは強く持っていても、他方で価値観や宗教、習慣等を含む文化により身体全体でアメリカ化される経験をしたのです。

言語についても、母語であった日本語をほとんど忘れて帰国することになります。17歳で帰国した際には、梅子はとてつもないカルチャーショックを受けました。しかし、梅子はこれらの困難を一つ一つ乗り越え、自分自身が日本社会に対して何をなすべきか、一歩一歩考えて前進していきました。

帰国後、3年たってからようやく、今でいう正規雇用として、当時は官立の華族女学校、今は私立の学習院女子大学、女子中・高等科の前身の専任教員として勤務することが決まりました。しかし、梅子は20代の半ばで「第一級の教師」になりたいと願い、再度の留学を切望するようになります。最初の留学中に知り合ったメアリ・モリスという篤志家のアメリカ人女性が、ブリンマー大学長に掛け合ってくれて、授業料と寮費の免除という条件で、2度目のアメリカ留学を実現することができました。

梅子は当時、日本では女性に対して決して推奨されていなかった理系分野の生物学を専攻しました。もちろん、申請書に書いていた教授法も学んできました。福澤先生の場合は、物理学(窮理学)が非常に重要であったということですが、梅子の場合は生物学で、同じ理系の分野が学問の軸になっていたということも興味深い共通点だと思います。梅子は後にノーベル賞を受賞する、当時は新進気鋭の研究者であったT・H・モーガン博士の下で、カエルの卵の研究を行う機会を得ました。

日本女性米国奨学金の創設

2年間の充実した留学生活を経験した梅子は、さらに1年間の延長を願い出ました。主な目的は、留学のための奨学金制度をつくることでした。自らが得た貴重な高等教育の機会を、同胞の日本女性たちと分かち合いたいと考えたからです。

8,000ドルを集めれば、その利子で4年に1人の留学生をブリンマー大学に派遣できることがわかり、梅子の留学に力を添えてくれたモリス夫人や、メンターであった学部長のM・ケアリ・トマス先生が親身になって、今でいうファンドレイジングを支援してくれました。そして、1年間で当初の目標額である8,000ドルを集めて、日本女性米国奨学金と呼ばれる奨学金制度創設にこぎつけたのです。

本奨学金による留学生のリストを見ると、その後に顕著なリーダーシップを発揮した女性たちの列を見ることができます。

最初の学生は松田道です。明治32(1899)年にブリンマー大学を卒業し、後に同志社女子専門学校の校長となります。2人目は明治37(1904)年にブリンマー大学を卒業した河井道です。恵泉女学園を設立し、日本人初のYWCA総幹事となりました。

4人目の星野あいは明治45(1912)年にブリンマー大学を卒業し、帰国後は母校である女子英学塾の教師となります。大正14(1925)年からは塾長代理を務め、関東大震災の後の塾の復興を支えました。梅子が死去した昭和4(1929)年には、塾長に就任します。英語が敵性語となった太平洋戦争時代、英学を学ぶ志願者が激減し、津田塾は危機的な財政状況でした。この危機的財政状況下の塾を星野あいは支え、戦後に新制大学となった津田塾大学の学長を、昭和27(1952)年まで務めました。

昭和37(1962)年から昭和48(1973)年までの学長を務めた藤田たきは、本奨学金の7番目の受給者です。ブリンマー大学を大正14(1925)年に卒業し、第2代の労働省婦人少年局長や国連日本政府代表としても活躍しました。

河井道と星野あいは、占領期にGHQの肝煎りでつくられた教育刷新委員会の委員にもなりました。38人の委員の中で女性はこの2人だけでした。日米関係が悪化した時代を乗り越え、そして本奨学金が創設されてから半世紀以上も経て、アメリカ人と対等に交渉できる女性を育むことができたということです。

日本女性米国奨学金は昭和51(1976)年まで継続し、25名の奨学生を送り出しました。関東大震災や太平洋戦争という未曾有の危機に立ち向かい、慶應義塾と比べますと本当に小さな私塾ですがそれを継続し、発展させた多数の女性リーダーが、明治24(1891)年から1年間、津田梅子が展開したファンドレイジングの成果による奨学金制度によって、高等教育を受ける貴重な機会を得たことになります。

梅子が明治33(1900)年に官立の華族女学校を辞し、女子英学塾という私塾の創設に踏み切ることができたのも、実はこの奨学金制度を設立することができたというアメリカでの成功体験があったからです。同じメンバーが寄付母体となって梅子の私塾創立のプロジェクトを支えてくれました。梅子は学校をつくるおよそ10年前に、留学制度による人づくりに着手していたのです。

日本では大学の門戸が女性に閉ざされていたからこそ、アメリカ女性たちから支援を得て、アメリカで大学教育を受ける機会を獲得するというグローバルな仕組みをつくった津田梅子。梅子は自らが得た貴重な機会を1つの点で終わらせることなく、長く続く線にしたいと考えたのです。

福澤先生は安政5(1858)年に慶應義塾の源流となる塾を創設されました。梅子は、それから42年後の明治33(1900)年に女子英学塾を創立します。どちらも私塾としての出発であり、21世紀の現在になっても塾あるいは義塾という文字を大学名の中に刻む、ただ2つの高等教育機関であります。

福澤と津田の教育理念

慶應義塾の公式ウェブサイトから、建学の精神のキーワードのいくつかを確認してみましょう。福澤先生は義塾という言葉に、「英語の❝パフリック・スクール❞を参考に、この言葉に新しい知識のための学塾という意味を込めました」と公式ウェブサイトでは説明されています。

また、慶應義塾の独立自尊という基本精神は、「心身の独立を全うし、自らのその身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」(「修身要領」)。「自他の尊厳を守り、何事も自分の判断・責任のもとに行うことを意味する」とあります。それから、「気品の泉源」という教育目標も掲げられています。これは福澤先生が学問を習得していく過程で、「智徳」とともに「気品」を重視し、「人格を備えた社会の先導者となること」と説明されています。

津田梅子の教育理念で重要なポイントは、女性も自立し、インディペンデントであれ、オールラウンド・ウィメン(all-round women)であれという教えです。梅子は当時、旧制高等学校にも大学にも門戸が開かれていなかった女性のために、リベラルアーツ教育と併せて高度な専門教育も提供し、高等女学校の教員資格を女性も取得することで、経済的な自立、そして知的、精神的な独立を獲得し、品位ある人生を歩めるようにしました。

さて、梅子の人生には大きな転機がいくつもありましたが、どの分岐点においても「海を渡る」という、当時としては極めて稀有な、意義深い経験がありました。福澤先生にとっても、人生の大きな分岐点に「海を渡る」、そういうご経験があったのではないでしょうか。

実は、梅子の声はレコードに録音されています。福澤先生の声は、残念ながら記録されていないと先ほど福澤研究センターの方から伺いましたが、梅子の方が若いですから、録音されたレコードが残っています。

女子英学塾で学んだ大正2(1913)年の卒業生18名に贈る言葉がレコードに録音されているのです。そのスピーチも、実は学校からの卒業を船の進水にたとえたものでした。いくつものスピーチを行ってきた梅子が、これを録音することに選んだのは、恐らくこの式辞が卒業生に寄せる彼女の期待や希望を表しているだけではなくて、梅子自身の生き方をも表しているからではないかと思います。

当時、社会で女性の活動が許容される範囲が極めて制限された時代にあって、梅子は「真理」と「愛」と「献身」という「灯台の光」を頼りに、船を進めていくのだ、と話しています。そして、女性の愛や献身の場が、家庭という領域に限られていることを指摘して、社会のもっと多くの人々に貢献するよう、学生たちに促しています。この点は、大変注目に値すると思います。そして、穏やかにではありますが、家庭の場を超えて女性が社会に影響を与えるような、新しい役割を果たすことへの期待感を表しています。

当時、家庭内での女性の役割は、本能のように言われていましたが、それがいかに狭いものに陥る傾向があるかという点に警鐘を鳴らしていました。この時点において、すでに女性による広く、深く、着実な社会参画、そして社会貢献について梅子は広い射程を想定し、学生たちに呼び掛け、期待していたのでした。女性が1人の個人として、困難や問題に立ち向かう気概を示唆している点にも注目したいと思います。

梅子は言います。「一人ひとりのこれからの人生で、みなさんは自分だけで立ち向かわなくてはならないそれぞれの困難や問題に出合うことと思います」。この言葉には、約11年間の米国留学から帰国した後、孤独や葛藤に打ちのめされながらも独自の道を切り開き、私塾を開設するという夢の実現を手繰り寄せてきた、梅子自身の実感がにじみ出ています。さらに、多くを得た者は、社会にそれを還元しなくてはならないという気品を重んじるノブレス・オブリージュの考え方、そしてキリスト教精神とも言える思想を基盤として梅子は言います。「人生を無為にせず、広く社会に働きかけることのできる、有為な人になれ」。つまり社会に参画し、社会に貢献するようにと、卒業していく学生たちに熱く訴えていたということです。

音としても残された式辞の声には、女性に参政権がなかった時代であったにもかかわらず、「女性も市民として責任ある役割を果たす自立した個人であれ」という梅子の理想が語られていました。世界を進んでいく船のかじ取りに、一人一人が責任を持って、有為な航路を見出すのだと主張していたのです。この考え方は福澤先生の「独立自尊」、「気品の泉源」と共鳴し合う教育理念、建学の精神ではないかと思います。

「海を渡れ」というメッセージ

翻って、現代の日本はどうでしょう。21世紀においても、とりわけジェンダーギャップの観点で、世界の中で日本は低迷していると言わねばなりません。アジアに限って比較しても、日本はリーダーではなく、フォロワーになっているのが現状です。日本の政治や経済活動において、そして大学等の高等教育機関において、意思決定層に日本の女性の参画が難しく、その割合が著しく低いのはなぜなのでしょうか。

私立大学で言えば学長、副学長、学部長、研究科長、研究所長、センター長、事務局長、部長、課長、さらに法人組織で言えば理事長、理事、評議員、監事等での女性割合はどのようになっていますでしょうか。決して芳しくないこのような状況を、福澤先生や津田梅子がご存命であるならば、何とおっしゃるでしょうか。そして、どのような対策あるいは改革が必要であると訴えられるでしょうか。

ジェンダー平等やフェアな社会の実現のために、福澤先生と梅子が共通して助言されそうなことは、「海を渡れ」ではないかと思います。日本のこの閉塞状態を打ち破るために、若い時代に海を渡って、広い世界を経験してくるようにとおっしゃるのではないかと思うのです。「海を渡る」経験があったことが、この2人のパイオニアとしての共通の知的基盤だったのではないでしょうか。

福澤先生も梅子も、違った世界で異なる言語や文化、思想、文明を吸収し、獲得することで日本の岩盤を切り崩し、それぞれの領域でパイオニアとして尽力し、貢献しました。だからこそ、今の日本をご覧になったら、福澤先生はきっと若い世代に向かって、まずは若いうちに広い世界に向かって「海を渡れ」と声を掛けられると思います。「海を渡る」ことには困難やリスクが伴うかもしれませんが、必ずや新たな地平や風景が見えるから、経験してきなさい、とアドバイスされるのではないかと思います。

その意味で、冒頭でご紹介した職域接種について、困難な状況下にもかかわらず「海を渡る」ことを切望していた津田塾の学生へ、極めて早くワクチン接種を提供し、海外渡航を先導してくださった慶應義塾社中の皆さまのご厚志に、再度深く厚く感謝して、私の話を結びます。ご清聴ありがとうございました。

(本稿は、2023年1月10日に三田キャンパス西校舎ホールで行われた第188回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。