登場者プロフィール

平石 直昭(ひらいし なおあき)
東京大学名誉教授
平石 直昭(ひらいし なおあき)
東京大学名誉教授
2022/03/11
1.はじめに
ご紹介にあずかりました平石でございます。今日は福澤先生誕生記念会という、大変由緒のある会にお招きいただきまして、ありがとうございます。長年福澤を研究し、多くを学んできた者として、これは大きな名誉であります。講演の機会を与えてくださった関係者の方々に、厚く御礼申し上げます。
今日の講演の題目は「福澤諭吉をどう読むか」、副題として「『学者安心論』の位置づけを中心に」となっています。こうした主題を選びました背景について、最初に簡単に説明させていただきます。
ただいまのご紹介にありましたように、私は昨年末に『福澤諭吉と丸山眞男──近現代日本の思想的原点』という本を北海道大学出版会から出しました。もともと自分では、福澤と丸山について、それぞれ1冊ずつ出すつもりでおりました。しかし一昨年の春、北大出版会の竹中英俊氏から、私の福澤論と丸山論をまとめて本にしたいというお申し出がありました。そして自分でも考えてみましたところ、1冊にした方がよいかもしれないと思うに至りました。
なぜかと申しますと、ご承知のように福澤は幕末から明治、また丸山は戦前から敗戦を経た戦後という、いずれも日本社会がひっくり返るような激動の時代に思想形成を遂げ、その経験を踏まえて、その後の時代に知的なリーダーシップを発揮していった思想家です。その点で共通性がありますし、加えて丸山は非常に多くのものを福澤から学んで、自分の肥やしにしています。近代日本には稀な、思想の内在的発展の一例がそこに見られるわけです。
としますと、福澤と丸山を一緒に取り上げることは、読者の視野を広げ、近代と現代という2つの時代の思想史を統一的に捉えることに資するのではないか。このように考えて、このお申し出を受けることにしたわけであります。
以上からおわかりいただけますように、この書物は既発表の論文をまとめたもので、いわゆる書下ろしではありません。ただ、元の原稿を書いた後に、その主題に関して新しく思いつくこと、あるいは旧稿を部分的に訂正する必要があること、またいただいた批判にお答えする必要が出てくる。こうしたことは当然であります。そうした点についてこの本では、各論文の後に「追記」を加え、また書物全体の末尾に「後記」を加えることで対応しました。
本日の講演は、この本の第3章として収めた、「理論」と「政談」、およびその論文の後に加えた「追記」で『学者安心論』を論じた部分を素材とし、それを時間の流れにそって再構成することで出来ています。このことを最初に申し上げておきたいと思います。
2.2つの基本的な問題関心
本論に入ります。この講演で考察したい問題は2つあります。1つは明治8年半ばから9年末にかけての1年半に、人民と政府との関係をめぐる福澤の主張は二転三転していまして、それをどのように理解したらよいかという問題です。具体的に申しますと、明治8年6月に発表した「国権可分の説」で福澤は、ある人が「日本の人民には政府と対立する気力がない。文明は政府と人民との争論の中で進むのに、人民がそういう状態にある以上は、民会を起こし政治法律の改革をしても無用だ」という趣旨の主張をしたのに反論して、「形はどうあれ、政府と人民とが両立して国権を分かち、その間の議論を通して文明化を進めることが必要だ」という趣旨を強調しています。これが「民会」の設立を支持する立場であることは明らかです。
ところがそれから10カ月をへて、翌明治9年4月に公刊された『学者安心論』を見ますと、そこで福澤は、人民が「自家の政」に専念するように勧めています。人民は税金を出して国の政治を支える以上、人民が政治に関わるのは当然である。ただ政府の政治に対する人民の関わり方は間接的であるべきで、直接的であるべきではないと言うのです。
今日風にいえば、市民社会の領域で人民が活動する余地は沢山あるのだから、そういう分野で活躍すればよい。そこにも広い意味の「政治」はあると言って、当時の民権を主張する民間の急進派が、政府の政治領域にばかり議論を集中することを批判するわけです。10カ月前の「国権可分の説」に比べて、人民の国政参加という点で、これが後退した議論であることは明らかです。こうした変化がどうして起こったのかが問題です。
ところが、問題はそれにとどまりません。というのも同じ明治9年の末に彼は『分権論』を書いており(刊行は翌年11月)、そこでは『学者安心論』での主張をもう一度ひっくり返して、地方の人民に治権を与えよと主張しているからです。ここで彼が利用しているのは、有名なトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』における議論です。トクヴィルはそこで国家権力をガヴァメント(福澤は政権と訳します)とアドミニストレーション(これが治権です)とに分けます。
「政権」というのは、国家権力が全国一般に及ぼす権力で、一般法の制定、陸海軍の編成、中央政府を支える租税の徴収、外交と和戦の決定、貨幣の鋳造等が主な内容です。これに対して「治権」は、国内各地の便宜に従い、その地方に住む人民の幸福を図る権力です。警察、道路橋梁堤防の建設管理、学校寺社遊園地の設営、衛生、地方税の徴収等を内容とします。そして福澤はこれら2つのうち、政権は中央政府が握るべきだが、治権は地方に委ねて、地方の人民(具体的には士族層)が自治の訓練を積むようにと提案しているわけです。
以上をまとめますと、明治8年6月には民会設立を支持していたのが、翌年4月には人民の「自家の政」への専念を説き、さらに5カ月後には、人民の地方政治への参加を主張しているわけです。この短期的な転変をどのように考えたらよいか。これが今日考察したい問題の1つです。
もう1つは「官民調和論」の問題です。晩年に出した『福澤全集』全5巻の冒頭には『福澤全集緒言』が置かれています(明治30(1897)年9月10日付)。注意したいのはその末尾で福澤が、自分の政治論の主旨は「官民調和」にあるが、その起源は明治10年でも15年でもなく、もっと前にあったと書いていることです。
10年をあげたのはその年の11月に出した『分権論』が念頭にあり、また15年は、その年に創刊した『時事新報』紙上における政治評論の要が、官民調和にあったからに違いありません。しかし福澤としては「官民調和」の観念はもっと前からあったとして、大久保利通との会見、それに伊藤博文を加えた三者の会合の話が出てくるわけです。しかしそこで紹介されている彼らとの話の内容が、どうして官民調和論の起源と言えるのか。これはずっと前からですが、私には腑に落ちない点がありました。それにはこの部分に、福澤の記憶の混同があることも一因と思います。
しかし、今回の講演を準備している最中に、現行の『福澤諭吉全集』の編者が「政府は人望を収むるの策を講ず可し」と仮に題した原稿が目に留まりました(『全集』第20巻156─159頁)。その中には「先日は廃刀の令あり」という表現があります。この廃刀令が出たのは明治9年3月28日で、それを「先日」と表現していることからして、この一文は、それから余り日が経っていない頃の作と推定できます。そしてその内容を検討すると、『全集緒言』で福澤が大久保や伊藤を相手に語ったという話の趣旨と、大筋で一致することが読み取れました。
としますと、福澤の頭の中では、この論考は同じ9年の4月に出た『学者安心論』と一対をなすもの、いわばワンセットとして理解されていたと推定できます。そしてそうした文脈で読めば、なぜ福澤が自分の官民調和論の起源を大久保らとの会見に求めたか、その理由も理解できるわけです。その点の考察を、今日の講演のもう1つのテーマにしたいと思います。
3.「国権可分の説」の内容と背景
以上で問題の提出を終えまして、これから内容の分析に入ります。最初に第1の問題についてですが、「国権可分の説」から『分権論』までの著作、つまり明治8年半ばから9年末までの著作を読む際に重要なことは、福澤がそれらを書いた歴史的背景との関連です。
まず明治8年6月に出された「国権可分の説」ですが、全体の論調は自信に溢れています。これは私の理解では、同じ年の4月に脱稿した『文明論之概略』で、福澤が明治維新をイギリス・フランスの市民革命の歴史的対応物として捉え、したがって今の維新政府は、人民が幕府の専制権力を倒して建てた革命政権であり、リベラル・パーティーだという理解を確立したことが、非常に大きいと考えます。
ギゾーの『ヨーロッパ文明史』等の読解を通じて福澤は、文明は政府の専制権力と人民の智力とが闘って、人民が勝つことによって進むという歴史法則を学びました。そして同じことが日本でも現実に起こったとして、明治維新を理解しました。つまり維新革命を、たんに日本史という限られた文脈の中だけで捉えるのではなく、世界史的な視野の中で把握し、位置づけたことが重要です。そしてこうした理解に立てば、その延長線上に人民が国政に参加するのは当然だという見方が出てくるのは、ごくナチュラルなわけです。ですから『文明論之概略』の草稿には、民会設立を支持する一節がありました。
こうした福澤の論調には、同じ時期の政府の動向が作用していたと思われます。ご承知のように、維新政府は明治6年の後半にあった征韓論争によって分裂します。そして西郷隆盛は仲間とともに鹿児島に帰りますが、板垣退助、副島種臣、江藤新平といった元参議らは、明治7年1月に「民撰議院設立建白書」を左院に提出し、しかもそれを『日新真事誌』という新聞に公表します。これがキッカケになって設立論争が始まったことは、ご承知の通りです。そして福澤の「国権可分の説」も、その波紋の広がりの中で、彼が明六社の演説会で加藤弘之らと論争し、その際の議論を敷衍して書いた面があるわけです。
その後の政府の動きをみますと、明治7年には台湾征討が大きな問題になりました。この問題をめぐって、内治優先の筋を通した木戸孝允は、4月に参議を辞職し、故郷の萩に帰ります。一方残った大久保はその年の10月末に、清国から50万両を賠償金として受けとることで、この問題に決着をつけました。しかし、維新の功臣である西郷や木戸を欠いていて、権力基盤が安定しない。そこで大久保は木戸に政権への復帰を求めます。一方、木戸は木戸で、板垣も一緒に戻ることを求めました。そうした中で、明治8年2月には有名な大阪会議が開かれ、大久保、木戸、板垣の間に一定の合意が成立します。そして3月には、木戸や板垣が参議に復帰し、4月にはいわゆる「漸次立憲政体を設立する」という詔勅が出されるわけです。
この詔勅で大事な点は、立憲政体の設立へ至る段取りとして、内閣とは別に元老院や大審院(裁判権力)を設置し、地方官会議の開設を決めたことです。とくに板垣の頭の中では、地方官会議には将来の民撰議院への第一歩という位置づけがあったことが注目されます(『自由党史』岩波文庫版上巻167頁)。しかも、この地方官会議の議長になったのは木戸孝允でした。したがって、漸進論(木戸)と急進論(板垣)の違いはありつつも、両者が人民の政治参加という点で、共通の立場に立っていたことが推測できます。以上が明治8年の2月から4月にかけての動きです。
こうした政府の動きを福澤から見れば、自分が考える方向と大筋で一致する方向に政府も向かっていると見えたに違いありません。ですから6月に出た「国権可分の説」に窺える余裕は、自分が歴史の主流に棹さしているという彼の認識も作用していたと思われます。
ところが、この直後に問題が起こります。何かと申しますと、明治8年6月28日に讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例が発布され、反政府的な言論に対する統制が強化されたことです。福澤はこの新法をどうみていたでしょうか。先ほど申しましたように、彼は維新政府を基本的にリベラルと性格づけていました。とすれば、その政府がどうして言論の自由を抑圧するのか、これは当然問題になるはずです。
これに関して、福澤はすでに「国権可分の説」で、次のように書いていました。「今改革家の説を主張して書を著す歟(か)、若くば新聞紙等に激論を記るせば、往々政府にて之を悦ばざることあるが如くなれども、こは唯日本政府たる者の習慣と専制の余炎(燃え残りの炎)とに由て然るのみ」と(『全集』第19巻535頁)。ここから推測すれば、おそらく福澤は、この新法は維新政府の歴史的本質によるものではなく、『文明論之概略』第9章「日本文明の由来」で分析したように、日本歴史はじまって以来続く「権力の偏重」という習慣が今の政府にも作用して、専制の余炎が燃え上がったものと見ていたと思われます。
この新法が与えた重大な影響は、これに抵触して多くの記者が処罰されたことです。福澤は彼らに大いに同情し、例えば末広鉄腸が禁固刑をうけた時には、沢山のビールを見舞いとして届けています。これはよく知られた例です(『福澤諭吉事典』「年譜」1030頁)。そしてこの新法にもかかわらず、実際には明治8年から翌年にかけて、士族民権派の急進的な政治評論雑誌が多数発刊されました(『近代日本総合年表』第4版68頁)。
福澤が明治9年2月に『学者安心論』を書いた背景には(刊行は4月)、こうした急進派の動きを見て、それをいかに望ましい方向に導くかという動機が作用したのは間違いありません。時間の都合で今日はふれませんが、そこには、政府内部での木戸や板垣の影響力が弱まり、改革派が行き詰まったという事情もあったと思われます(板垣は明治8年10月に参議免官、木戸は9年3月に参議を辞任し内閣顧問の閑職に移る)。
4.『学者安心論』の要旨と背景
『学者安心論』の要旨と背景に移ります。この論考で福澤は、誰もが免れない傾向として「心情の偏重」(自分の気持の一方だけを重んずる傾向)を挙げています。人は直接に交わる相手の短所を見て、長所を見ない。また己に求めること軽く、人に求めることは多い。これは「英明の士」でも稀にしか免れない傾向で、しかもその弊害は「近日我邦の政談上に於ても大に流行するが如し」と述べて、本論に入ります(『全集』第4巻216頁)。
彼によれば、嘉永年中の開国以来、日本は新造の国家であり、人はその原因を王制維新の一挙に求めている。しかし、自分の考えでは政府は人事変革の原因ではなく、人心変革の結果にすぎない。そして天下の人心は改進に赴いたが「改進は上流に始て下流に及ぼすもの」なので、改進を喜ぶ者は上流にあり、下流はまだ之に達しない。
こうして日本には改進と守旧の二党派がある。そして、政府が「上流」に属し、改革派の一部なのは間違いない。とすれば、改進流を自認する者は誰であれ、政府の精神と方向をともにし、改革を進めて、守旧家をも改進派にするように努力すべきである。しかし実際はそうなっていない。その原因について福澤は、「改進者流の人々が各其地位に居て心情の偏重を制すること能はず、些々(ささ)たる地位の利害に眼を掩はれて事物の判断を誤り、現在の得失に終身の力を用ひて、永遠重大の喜憂を顧みざるに由」ると指摘します(同上217頁)。そして、自分も民権論にはまったく同意するとした上で、自説を主張します。
その要は、人民の国政関与は当然とした上で、「政の字」を最も広義にとり、「人民躬(みず)から自家の政に従事するの義を旨とする」というにあります。つまり「家政」という古くからある言葉が示すように、民間の事業にも「政治」の要素があるとして、民権論者中の急進派に向かって、非政治的な領域で活躍の場を求めるように勧めるわけです。そこには、急進派がとかく政府の政治を中心に物事を考えて、自家、つまり民間の領域をないがしろにする傾向への批判がありました。
このように主張する福澤がもっとも恐れたのは、民間と政府の両方にいる改進派が「心情の偏重」のために内部的な紛争を激化させ、その渦中で本来は異種の二元素である民間の急進改革派と守旧派とが「一時の抱合を為す」事態が生じかねないことでした。もしそうしたことが起これば、それが改革を阻害し「文明の却歩」を招くのは明らかです(『全集』第4巻222─223頁)。これを避けるために福澤は、民間の急進改革派に向かって、政治以外の分野で活躍の場を見出し、政府とは直接でなく、間接に接するように勧めたのでした。
注意したいのは、福澤がこうした政府と民間とを分ける考えを初めて明確に示したのは、明治7年1月の『学問のすゝめ』4編の「学者の職分を論ず」と5編「明治7年1月1日の詞」においてだったことです。これらで彼は、文明化を進める上における政府と私立中産の学者との役割分担を説き、学者の先導性を強調するとともに、「官あるを知て私あるを知ら」ない世の学者士君子を批判しています。
政府と民間の役割分担の強調という点で、『学者安心論』はこの明治7年初頭の立場を承けています。この結果、国政参加をプッシュしていた8年の議論と比べれば、一歩後退ということになりました。他方で、2年前の「学者職分論」では、「政の字の義に限りたる事を為すは政府の任」(『全集』第3巻48─49頁)として「政」を政府の職分に限っていたのに対して、『学者安心論』では、人民の事業も広義の「政」とする点が大きく変わっています。このように「政」の字を広義に解することで、急進派に民間事業への従事を勧める論法には、彼らを説得するための苦肉の策という面があったと私は考えます。
5.『分権論』の要旨と背景
以上『学者安心論』の趣旨を見てきました。そこで福澤が強調したのは、間接的な政府との接触でした。ところが、その福澤がわずか5カ月後に、地方自治という限られた形ではあるにせよ、具体的な直接論を提起したのが『分権論』にほかなりません。
先ほど述べましたように、この論考で福澤は、地方の士族に治権を与えることにより、彼らが長年の習慣の中で培ってきた国事(国家の政治)に対する関心を活性化させ、とくに守旧派の場合には、その気力を変形(トランスフォーム)させて生かす道を構想しました。『学者安心論』では、政府の形態に関して福澤は何も言っておりません。ただ、人民にどの程度の権を与えるのが適当かは、非常に難しい問題なので、政府は何度でも思慮を重ねるべきだと強調するにとどまっていました。ところが『分権論』では、彼自身が地方自治という形で具体的な政体論を示しているわけです。これはかなり自信があったに違いなく、実際、当時の書簡で彼は「余程名論の積り」と自負しています(『福澤諭吉書簡集』第1巻351頁)。
こうした変化を福澤にもたらした大きな外的要因は、いうまでもなく、9年10月にたて続けに起こった士族反乱です(神風連の乱、秋月の乱、萩の乱等)。福澤の著述を見ますと、彼はそれまでむしろ、士族の不甲斐なさに不平を漏らしています。つまり維新以来の開化の風潮の中で、士族がその誇りを失い、唯々諾々として流行に従っている、これは情けないという思いが彼にはありました(「廃藩置県の後に華士族の柔順なるは何ぞや」「世間一般の気風に圧制しられて如何ともす可らず」『全集』第19巻533─534頁など)。しかし、そうした中で起こった一連の士族反乱は、士族がもつ固有の気力を福澤に再評価させました。そして、その力を日本の独立と改革推進のために利用するには、どうしたらよいかを考えるに至ったわけです。
理論的には、当時自分が読みだしていたスペンサーのFirst Principles(『第一原理』)における「力の変形」の理論、それから先ほどふれましたように、トクヴィルの政権と治権の分離論を使っています。後者は福澤にとって最も信頼する仲間であった小幡篤次郎がトクヴィルをよく読んでいて、当時の福澤は彼からその知識を得たようです。こうした新しい理論を組み合わせて、地方分権の構想を示したわけです。それは福澤が初めて具体的に日本の政治体制論を示した論考として、画期的な意義をもっていました。
以上のように見てきますと、明治8年半ばから9年末にかけての1年半における福澤の意見の転変は、当時の国内情勢の激しい変化を背景として、それへの対応策として出されていること、そして従来の考えを基礎にしつつ、新情勢に応じて新しい理論を摂取して、新しい展望を示した結果としてあることが分かります。その意味において、これは論理内在的な発展としてあったと、私は評価いたします。
6.「官民調和論」の起源
以上が、今日の講演で考えたかった第1の問題です。つぎに第2の官民調和論の問題に移ります。先ほどご紹介しましたように、福澤はその起源は明治10年でも15年でもなく、その前だと言っています。その部分を読みあげます。
「現に明治七八年の頃かと覚ゆ、故大久保内務卿と今の伊藤博文氏と余と三人何れかに会合したるとき(中略)其時余の説に、政府は固く政権を執り時としては圧制の譏(そしり)も恐るゝに足らずと度胸を極めながら、一方に民間の物論は決して侮るべからず云々と話したることあり。又其以前明治の初年(中略)鮫島尚信(ひさのぶ)氏より招待に預り推参したれば、大久保内務卿と相客にて主客三人食後の話しに」として、大久保が暗に福澤を民権論者の首魁のように見なして批判的な言葉を述べたので、福澤は反論し、国民の権利には政権と人権と二様の区別があり、自分は政事には不案内なので、政事は政府が宜しいようにやればよい、ただ人権については妥協せずにあくまで闘うと述べたのち、「今後歳月を経るに従ひ世に政権論も持上りて遂には蜂の巣を突き毀したるが如き有様になるやも計られず、其時こそ御覧あれ」、自分は蜂の仲間に入らないどころか、着実な人物として「君等の為めに却て頼母しく思はるゝ場合もある可し」と、恰も約束したことがあると福澤は『全集緒言』の末尾で書いています(『全集』第1巻63─64頁)。
この会合があったのは大久保日記により、明治9年2月27日のことだと分かっています(富田正文『考証 福澤諭吉』下巻449頁)。私がいぶかしく思うのは、福澤が大久保・伊藤との三者の会合を明治7、8年頃とし、しかも大久保との鮫島邸での会見を、それより前の明治初年としていることです。この前後関係の記憶が正しいとすれば、大久保との会見は明治9年2月ですから、伊藤を含めた3人の会合はそれより後ということにならざるをえません。つまり明治7、8年ではありえないわけです。
この関連で注意したいことは、福澤が当時つけていた「覚書」の記載から、『学者安心論』の脱稿が明治9年2月19日だと分かっていることです(『全集』第7巻664頁)。この著作の趣旨が、急進民権派に対して「自家の政」に専念して民間で活躍するように訴える点にあったことは、くり返し述べた通りです。別言すれば、これは政府攻撃を止めよということですから、政府にとって歓迎すべき論だったことは間違いありません。そして、2月19日の『学者安心論』の脱稿と、同じ月の27日の大久保との会見という時期的な近接から判断すれば、福澤が大久保に会った時に語った話の内容は、『学者安心論』の趣旨に即したものだったろうと推定できます。
また話がややこしくなりますが、ここで想起したいのは、『学者安心論』の基本の考えが政府と民間学者の役割分担論にあり、しかも福澤がそうした論を初めて主張したのは、明治7年1月の『学問のすゝめ』4編の「学者職分論」だったことです。おそらくこのために、福澤の頭のなかで記憶の混同が生じたと私は推測します。つまり実際には『学者安心論』の趣旨を素材にして、福澤は大久保に語った。しかしその『学者安心論』の基本的な考えは、明治7年1月の『学問のすゝめ』4編の議論だった。したがって、その2つが福澤の頭の中で混同された結果として、大久保との会見は、政府と民間学者の分業論を唱えていた明治初年の事だったという記憶違いが生じたと、私は考えているわけです。
この点と関連して、伊藤を交えた三者の会談がいつだったかが問題になります。福澤の記憶では明治7、8年頃というのですが、その頃の福澤は、民会設立をプッシュする方向で立論していました。その点から判断して、福澤が大久保らに「時としては圧制の譏も恐るゝに足らず」、度胸を極めて断乎やれと激励した時期としては、明治7、8年はふさわしくないように私は思います。
ここからは仮説になりますが、私は『全集』の編者が「政府は人望を収むるの策を講ず可し」(『全集』第20巻156─159頁)と題した原稿は、その内容から推して、この大久保、伊藤との三者会談用に福澤が準備したメモであろうと推定します。福澤はここで政府指導者と目される相手に向かい、守旧派の頑固士族が破裂する危険もあるような大勢を料理するには、一方的な命令で強制するやり方を改めて、上等の学者改進者流の人望を収めるのがよい、それには公平さが重要だと助言しています。
福澤曰く、今の日本政府は専制的ならざるを得ない。しかし、政府が権力を集中するのは裁判権、兵権、租税徴収権の三権に限るべきだ。しかるに内務省、工部省、大蔵省などは余りに多くの事業に手を出しすぎる。そうした政府主導の文明化策はやめて、民間に活動の余地を与えるべきだ。また政府の役人には、薩長やその伴食として土肥の藩士が多く、他藩の出身者も彼らとのコネがなければ役人になれない。それが士族の不満を高めている。だからよく審査して無能力者は退職させるのがよい。そうすれば上等社会の公平感を満足させ、人望を収めるだろう。
また九州四国辺にいる守旧派士族の処置や対外策をめぐり、政府は難事を遂行する必要がある。それにはまず衆議輿論(つまり雑誌新聞紙の類)に自由に語らせて、政府の為政の後楯にするのが上策である。「然るに今の政府は、常に直に難事の鋒鏑(ほうてき)に接して、却て無二の味方たる可き上等社会の学者流をも排して、之を敵の領分中に入らしむるとは、如何にも残念至極なることなり」(同上158─159頁)。結論として福澤は、「新聞条令讒謗律を廃して上等社会の望を繋ぎ、間接に政府を助て国安を謀る」ようにと求めています。
先ほど紹介した『学者安心論』は、民間急進派に対し政府との妥協を求める点に1つの主眼がありました。その点で改革派の間から、福澤は政府側に立って物を言っているという不満が出ても当然です。しかし逆にこの「人望収拾策」では、彼は政府指導者に向かって、政府主導の文明化政策を批判し、讒謗律新聞紙条例の撤廃を求めています。そして、上流改革派である新聞雑誌記者の言論を自由にすることで、改革を前進させよと助言しているわけです。これは明らかに政府に対して譲歩を求める内容です。
しかも前に述べたように、この「策」には「先日は廃刀の令あり」とあるので、同令が発布された3月28日から余り経っていない頃に作られたと分かります。ということは『学者安心論』とほぼ同時期の作ということになるわけです。
このように見てくれば、『学者安心論』と「人望収拾策」とは一対をなし、一方は民間急進派、他方は政府指導者という、福澤から見れば基本的に改革派でありながら対立している両者に向かって、それぞれに相手の理解を深め、協力して日本の文明化と独立保持のために活動することを求めていることが分かります。民間急進派には「君たちは民間の仕事をもっとやれ、政府批判にばかり集中するな」と言う。しかし政府の指導者には「民間の仕事に余計な口出しをするな、讒謗律新聞紙条例を廃止して言論出版を自由にせよ」と言う。とすれば、2つの議論をワンセットで出していた福澤が、『全集緒言』の末尾で、「官民調和論」の起源を大久保や伊藤との会談にあると回顧するのも、よく理解できるわけです。
以上、今日の講演では明治8年半ばから9年にかけての福澤の思想形成を素材にして、2つの問題について考察しました。ご清聴有難うございました。
(本稿は、2022年1月10日に三田キャンパス西校舎ホールで行われ、オンラインで同時中継された第187回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。