登場者プロフィール

池田 幸弘(いけだ ゆきひろ)
経済学部 学部長経済学部 教授
池田 幸弘(いけだ ゆきひろ)
経済学部 学部長経済学部 教授
2021/02/10
福澤諭吉の経済観
本来5月に行われる伝統あるウェーランド経済書講述記念講演会ですが、ご承知のようにコロナ禍ということで、たいへん異例ながら12月のこの時期に行うことになりました。非常に寒い中、お越しいただき誠に有り難う存じます。本日は福澤諭吉の経済に対する処し方、論じ方を中心に私の考えを述べてみたいと思います。
福澤諭吉は言うまでもなく、その生涯の前半が江戸幕末期、後半が明治期に重なる啓蒙思想家でした。18世紀ヨーロッパの啓蒙思想家の人々がそうであったように、福澤もきわめて多様な関心を持っていました。自然科学では物理学──福澤の呼び方では窮理学、医学、社会科学では法制度、政治制度、さらに経済現象、会計など興味は多方面にわたりました。彼は非常に大局的な関心を持った人物でしたので、個々の分野にこだわらず、いわば学問の大道を示すのが福澤の企図するところでした。
しかし、ご承知のように、学問分野というものはその後、極端に細分化が進み、今では学者の間には高いバベルの塔がいくつもそびえ立っています。このことは、私たちが福澤を読む際にたいへん大きな障害になっていると言わざるを得ません。現代の研究者はこのようなバベルの塔を前提にして、福澤の提起した問題にそれぞれ接近せざるを得ない現状があります。これはもはや私たちの宿命として回避できないものですし、今日もやはりこのような前提の下での話になります。しかし分析の射程はできるだけ大きく取り、経済の概念を広く捉え、簿記や会計、経営なども含めて経済という言説を扱っていければと考えています。
この論題にはすでにたくさんの研究成果があります。ここではその一部に触れるのみに留めますが、中でも故・玉置紀夫先生、小室正紀さん、平野隆さんのご研究はたいへん優れた成果と言えるでしょう。
玉置先生の著作『起業家福沢諭吉の生涯』(有斐閣、2002年)のサブタイトル「学で富み富て学び」は、福澤が甥である中上川(なかみがわ)彦次郎に宛てた書簡の中で用いた言葉として知られています。玉置先生のご研究は、学問というものと富裕への道は決して矛盾するものではないという、当時、新しい考え方を提起したこのスローガンを導きの糸に、「アントルプルヌール(起業家)」としての福澤を鮮やかに描き出しました。
小室さんは編著書である『近代日本と福澤諭吉』(慶應義塾大学出版会、2013年)の中で、一身独立のための雇用の維持というものが、福澤の経済問題の1つのコアになっていると指摘されています。また、平野さんは同書所収の論考で、「士族学者」という立場の位置づけに着目しています。この点は今日の私の話とも関わってきます。
ただ、最初に申しておくと、私はこのお三方とは違い、経済問題に関する福澤の発言や時事新報の社説などの詳細に踏み込んで論じる準備がありません。今日は、多くの方がご存じの2つの著作『学問のすゝめ』と『福翁自伝』から見て取れる福澤の経済観に絞って話を進めたいと思います。
経済の定則と商売の法
まず導入として、『学問のすゝめ』からよく知られた初編の一節を引用します。
「譬(たと)えば、イロハ四十七文字を習い、手紙の文言、帳合(ちょうあい)の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱等を心得、尚又進て学ぶべき箇条は甚(はなはだ)多し」
ここに登場する「帳合」とは「簿記」のことです。また、『学問のすゝめ』の中で経済に関して述べた部分として、5編ではアダム・スミスの名前が登場します。「始て経済の定則を論じ、商売の法を一変したるは『アダムスミス』の功なり」という一節です。福澤がアダムスミスを紐解いたという証拠は残っていないと思いますが、もちろんウェーランドの著述にはアダム・スミスについて記された箇所がありますので、福澤がウェーランドの書物を通じてアダム・スミスの名前を知ったことは十分に考えられます。
この短い引用を私なりに分析すると、ある疑問が浮かびます。それは「経済の定則」は経済の法則だと思いますが、「商売の法」というのが何を指しているのかということです。経済の法則についてすでに触れられているので、「商売の法」が経済法則を含意したものであると解することはできません。つまり経済の法則と商売の法は別のものであると言っている。
そうすると、福澤の言う「商売の法」とは「帳合」同様、簿記や会計などを念頭に置いて用いた言葉なのではないかと思います。そして、簿記、会計の中でも、ある種の管理会計的な発想がそこに現れているのではないか、というのが私の解釈です。あるいは「商売の法」をめぐる解釈がもう1つあるとすれば、法というものを「法律」、「法体系」と受け取り、現代の「商法」もしくは「会社法」の類と捉えることができるかもしれません。
しかし、そのいずれにおいても、「アダム・スミスが商売の法を一変させた」という解釈は成り立たないようにも思います。
垣間見える旧理念
「商売の法」については一旦置いて、『学問のすゝめ』10編に歩を進めます。10編はわかりやすく言うと、ヒューマン・キャピタル・インヴェストメント(人的資本投資)の話です。例えば、勉学に励むときにどれほどのお金が必要となり、その中で収益というものをどう捉えるかといったことが論じられていますが、次に引用するのは、洋学者が学業をし終えた後、安易に仕事に就くのをたしなめている一節です。
「筆端少しく卑劣に亘り、学者に向て云うべきことに非ずと雖(いえ)ども、銭の勘定を以てこれを説かん。学塾に入て執行するには一年の費(ついえ)百円に過ぎず、3年の間に三百円の元入(もといれ)を卸し、乃ち一月に、五、七十円の利益を得るは、洋学生の商売なり」
ここで言われる「元入」は資本投下を指しており、50円、70円が収益に当たります。つまり、資本投下に対してどれだけの収益がもたらされるか、ということを問題にしているわけです。
しかし、私が問題にしたいのは資本投下の話ではなく、冒頭の福澤の文章の始めの「筆端少しく卑劣に亘り、学者に向て云うべきことに非ずと雖ども」と但書を付けている部分です。ここで福澤は、いわゆる金勘定の話は学者にする話ではない、とまで言っている。本日のレクチャーには「新旧両理念のはざまで」というサブタイトルを付けていますが、この1文は、啓蒙思想家としての福澤が「旧理念」というものから必ずしも自由になれていないことを示す証拠になるのではないかと考えています。
続いても『学問のすゝめ』からの引用です。14編の「心事の棚卸」と題された文章です。
「売買繁劇(はんげき)の際に、この品に付ては必ず益あることなりと思いしものも、棚卸に出来たる損益平均の表を見れば、案に相違して損亡なることあり、或は仕入のときは品物不足と思いしものも、棚卸のときに残品を見れば、売捌に案外の時日を費して、その仕入却(かえっ)て多きに過たるものもあり。故に商売に一大緊要なるは、平日の帳合を精密にして、棚卸の期を誤らざるの一事なり」
福澤は「心事の棚卸」の他の箇所でアメリカの思想家ベンジャミン・フランクリンの名前を明示的に挙げています。この14編の趣旨は、私たちの日常生活というものはとても簡単に日々が過ぎ去ってしまうので、日単位あるいは週単位、月単位で棚卸をしなければいけない、ということです。これは財務諸表で言えば、貸借対照表の右左の比較をわれわれは常に怠ってはいけないという意味に翻訳できます。ここで福澤が使っているレトリックはブックキーピング(簿記)についてであって、決して経済学についてではありません。
父・百助のエートス
次に、『福翁自伝』を見ていきたいと思います。まず、触れておきたいのは比較的早く亡くなってしまった福澤の父・百助(ひゃくすけ)のことです。福澤は父親について「普通(あたりまえ)の漢学者である」と語っており、こうした記述から福澤の父のエートスが浮かび上がってきます。その中で福澤親子のエートスがどのように変わってきたか、息子が父親をどのように評価し、福澤諭吉自身のエートスと父親のそれとがどのように重なり合っていたかを理解しておくことは重要であるように思います。例えば、次の引用は福澤が父親の仕事について具体的に語った一節です。
「大阪の藩邸に在勤してその仕事は何かというと、大阪の金持、加島屋、鴻ノ池というような者に交際して藩債の事を司どる役であるが、元来父はコンナ事が不平で堪(たま)らない。金銭なんぞ取扱うよりも読書一偏の学者になって居たいという考であるに、存じ掛(がけ)もなく算盤を執 とっ て金の数を数えなければならぬとか、藩借(はんしゃく)延期の談判をしなければならぬとか云う仕事で、今の洋学者とは大に違って、昔の学者は銭を見るも汚(けが)れると云うて居た純粋の学者が、純粋の俗事に当ると云う訳けであるから、不平も無理はない」
「藩債」とは藩の借金のことで、福澤の父はその返済をどのように工面するか思案しなければならない立場にありました。「藩借延期の談判」というのも、場合によってはロールオーバー(金融用語で決済期限の繰り延べ)となることもあり、彼は職業柄こうした場面で折衝しなければなりませんでした。では、中津藩がどこから金を借りていたかというと、後に財閥になる加島屋や鴻ノ池のような組織です。福澤百助はこうした相手に対して非常にやっかいなネゴシエーションをしなければならない役に就いていました。息子・諭吉の評価によると、父はそういう仕事を全く喜んでおらず、当人は「漢学者」として、一生読書をしていられればおそらくハッピーだったのだと思いますが、そういうわけにはいかなかったようです。
次の引用も父・百助のエートスを物語るものだといえましょう。
「怪(け)しからぬ事を教える。幼少の小供に勘定の事を知らせると云うのは以ての外だ。斯(こ)う云う処に小供を遣(や)て置かれぬ。何を教えるか知れぬ。早速取返せと云て取返した事があると云うことは、後に母に聞きました」
ここで回想されるのは子供に教育を施すこと、とくに当時福澤家が暮らしていた大阪で、商いの手習いとして九九の類を教えることなどに対する百助の言葉です。私は江戸と大阪での商人教育の違いはよくわかりませんが、福澤の父は大阪の教育について、「怪しからぬ事を教える」と言っています。「勘定」は金勘定一般のことを指しますが、広く経済一般のことも含意されていたようです。商人が多い大阪では早いうちから金勘定に聡い子供が育つことについて、福澤の父が批判的な視線を投げかけていたことを、福澤の記述を通じて知ることができます。
「入組んだ金の事はみんな人任せにして」
では、福澤本人は帳合(簿記や会計)についてどのように考えていたのか、それが窺われる部分を『福翁自伝』から見ていきます。まず、簿記や財務の実際に関して次のような一節があります。
「私は維新後早く帳合之法(ちょうあいのほう)と云う簿記法の書を飜訳して、今日世の中にある簿記の書は皆私の訳例に傚(なら)うて書たものである。ダカラ私は簿記の黒人(くろうと)でなければならぬ、所が読書家の考と商売人の考とは別のものと見えて、私はこの簿記法を実地に活用することが出来ぬのみか、他人の記した帳簿を見ても甚だ受取が悪い。ウンと考えれば固(もと)より分らぬことはない、屹(きっ)と分るけれども、唯面倒臭くてソンな事をして居る気がないから、塾の会計とか新聞社の勘定とか、何か入組んだ金の事はみんな人任せにして、自分は唯その総体の締て何々と云う数を見る計り」
最初に「帳合之法」が出てきますね。「簿記法の書」を翻訳したと述べているように、福澤は簿記、会計を日本に紹介した人物でもありました。今世の中にある簿記の本はすべて自分の訳例に倣って書かれており、自分が出発点にあると言っている。もちろんそう言っているのは『自伝』執筆の時期ですが、このことに強い自負を持っていたことが窺われます。実際、福澤の晩年、明治後半になると簿記や会計、財務、経済全般についての考え方も格段に進んでいました。
このように福澤は簿記を重んじていましたが、ここでは読書家の考え方と商売人の考え方というものが対置されていることにも着目したい。引用文の4行目以降には福澤の「旧秩序」、あるいは私の勝手な表現では「旧理念」に囚われた部分が表出しているのではないかと思います。なぜなら、冒頭で紹介した甥の中上川宛ての書簡にある「学で富み」かつ「富て学び」ということが、福澤の新理念を表現しているとすれば、この引用文では、それとはかなり違った見方をしていることになるからです。福澤の中の旧理念が思わず表れてしまったと言えるかもしれません。
ここで福澤は簿記の玄人でいなければならないと言いながら、自分のことを「他人の記した帳簿を見ても甚だ受取が悪い」とも語っています。これは今風に言うと、財務諸表や貸借対照表をパッと見て、会社や組織の経営状態がすぐに頭に浮かぶタイプではないということだと思います。理解が伴わないのをはっきり感じ、若干負け惜しみがあるのかもしれません。「ウンと考えれば固より分らぬことはない」と言っていますから。「総体の締て何々」と語っているので、自身の事業については概評の報告を受けて、福澤自身はそれで良しとしていたということのようです。
ところで、今引用した箇所では2つの組織が挙げられています。1つは言うまでもなく、今私たちがいる慶應義塾の会計。もう1つが新聞社、これは時事新報の勘定だと思います。これらの「入組んだ金の事はみんな人任せにして」いたというのは、実際にそのとおりだったのでしょう。福澤は簿記の導入者を自認してはいるものの会計の委細は理解しない、もしくは関心がないというのが基本的なスタンスだったのでないかと推察されます。
新旧両理念の併存
次に投資あるいはお金の運用について福澤はどのように考えていたかを見ていきたいと思います。
「例えば塾の書生などが学費金を持て来て、毎月入用だけ請取りたいから預けて置きたいと云う者がある。今の貴族院議員の滝口吉良(たきぐちよしろう)なども、先年書生の時はその中の一人で、何百円か私の処に預けてあったが、私はその金をチャンと箪笥の抽斗(ひきだし)に入れて置て、毎月取りに来れば十円でも十五円でも入用だけ渡して、その残りは又紙に包んで仕舞て置く。その金を銀行に預けて如何(どう)すれば便利だと云うことを知るまい事か、百も承知で心に知て居ながら、手で為(す)ることが出来ない」。
福澤は「学費金」と呼んでいますが、かつての義塾では塾生が一定の授業料プラスアルファを塾、つまり福澤に預けておき、毎月必要な分だけそこから受け取らせる制度があったようです。
滝口吉良の他にもこういう塾生はたくさんいたのでしょう。塾生が当時義塾、または福澤に預けていたお金があり、それが適切かどうかはさておき、それらを元に資産運用することができたことは福澤も述べているとおりです。銀行に預ければいくばくかの金利が期待できることは彼もよくわかっているのです。
注目したいのは、最後の部分で、福澤が銀行に預ければ便利だと心ではわかっていながらそれができないと述べているところです。これは非常に含蓄がある言葉だと思います。というのもここには福澤の新旧両理念の併存というものが非常にヴィヴィッドに表れていると思うからです。「心に知て居ながら」という表現からは、資産運用によるメリットを理屈では理解していると解釈できます。ところがそれを「手で為ることが出来ない」。実際にはそういう投資行動を実行に移すことができないということですね。
これは経済行為に限らず、人間の行動とは頭で理解することと、それが身体に染み込み、表現として現れることは明らかに別のものであるということです。後者については、最近「身体知」と言われるようになりました。「身体が持っている知」というものを重視する考え方ですが、福澤は頭で理解することと、実際の行動としてそれが現れることはやはり違うとここで述べているのです。
次の引用も投資の話になります。今引いた部分と同工異曲とも言える部分です。
「金融家のエライ人が私方に来て、何か金の話になって、千種万様、実に目に染みるような混雑な事を云うから、扨(さ)てさて 如何(どう)もウルサイ事だ、この金を彼方(あっち)に向けて、彼(あ)の金は此方(こっち)に返えすと云う話であるが、人に貸す金があれば借りなくても宜(よ)さそうなものだ、商売人は人の金を借りて商売すると云うことは私も能く知て居るが、苟(いやしく)も人に金を貸すと云うことは余た金があるから貸すのだ、仮令(たと)い商売人でも貸す金があるなら、成る丈(た)けソレを自分に運転して、他人の金をば成る丈け借用しないようにするのが本意ではないか、然るに自分に資本を持て居ながら、態々 (わざわざ)人に借用とは入らざる事をしたものだ」
ここもまた、非常に興味深く読める部分だと思います。「金融家」というのは投資活動に通じた金融の専門家であり、簡単に言えばバンカー(銀行家)ということでしょう。その人物が福澤のところにやって来て、おそらく投資を勧めたり、その意義を説いたことがあったのでしょう。「混雑な事」とは面倒なこと、うるさいことですが、その金融家が、こうやれば収益が上がる、こうやるとうまくいかない、だから福澤先生もこのようにやったらいいのではないか、ということを懇談した。しかし、福澤は非常に面倒くさくうるさい話である、と言うわけですね。
それに続けて述べているのが、人から借りたお金を運用することについてです。預金という形で他人からお金を調達し、それを、若干の金利を上乗せして融資することが銀行業の本質の1つですが、福澤は、人に金を貸すという行為はそもそも余った金があるから貸すのだ、と非常にはっきりとした言い方をしています。つまり、余剰資金を他人に貸すという行為については、彼も合理的だと考えていたわけですが、他人から借用した金を使ってまで運用するということが、彼の価値観の中では合点がいかなかったのではないかと思うのです。
この話は様々な解釈ができると思いますが、福澤はとにかく借金をすることが異常に嫌いな性分で、生来そういうことはしてこなかったと『福翁自伝』でも再三述べています。
委託取引あるいはコミッションと福澤
さて、もう少し踏み込んだ話に入ります。次に引用するのは、「コンミツション」、つまり手数料=コミッションの話です。
「今度の一行中にも例の御国益掛(ごこくえきがかり)の人が居て、その人の腹案に、今後日本にも次第に洋学が開けて原書の価は次第に高くなるに違いない、依(より)て今この原書を買て持て帰て売たら何分かの御国益になろうと云うので、私にその買入方を内命したから、私が容易に承知しない」
ここは私がとくにおもしろいと感じた部分です。「御国益掛」と言われているのは、旧幕時代、国の財政のために様々な事業をしている役のことです。事業が大きくなれば国営の産業に発展するわけですが、福澤が述べているのはスケールの小さな話です。これは3回目の洋行、アメリカ行きの際の話ですが、御国益掛が言うことには、これからは洋学の時代になるから原書の値段もどんどん上がる。それならば、福澤やその友人たちに、原書を買ってこさせ、高く売れば御国益になる、国の財政状態の助けになると言うのです。
この御国益掛に対する福澤の返答の仕方が非常に興味深く、また見事です。ここからは、彼が委託取引、つまりコミッションについて、深く理解していたことが窺われます。
「左(さ)すれば政府は商売をするのだ。私は商売の宰取(さいと)りをする為めに来たのではない、けれども政府が既に商売をすると切て出れば、私も商人になりましょう。左る代りにコンミツション(手数料)を思うさま取るがドウだ。何(いず)れでも宜しい、政府が買た儘(まま)の価で売て呉(く) れると云えば、私はどんなにでも骨を折て、本を吟味して値切り値切て安く買うて売て遣るようにするが、政府が儲けると云えば、政府にばかり儲けさせない、私も一緒に儲ける。サア爰(ここ)が官商の分れ目だ。如何で御座る」
意味はほぼ明確だと思いますが、念のために補足すると、最後の「官商の分れ目」「官」は官界、つまり政府の世界ですね。「商」は商売の世界ということで、福澤は御国益掛に向かってそれをはっきりと分けてほしいと言っています。
政府が政府としての仕事をするならば、買い付けてきた書物は原価のままで売る。しかし、幕府や政府の役人が100円のものを150円で売ろうと考えているのであれば、自分にも考えがある、と。つまり、その場合に自分はエージェントになるという話をしています。代理として買い付けに行くのだから、当然エージェントの手数料を取りますよという話です。政府の仕事と言うなら、自分もできるだけ安く原書を買ってこよう。その場合は同じ価格で売ってほしい。ただし、政府が商売するつもりならば、こちらも商売するというわけです。最後の部分は福澤流の啖呵(たんか) を切っているところですね。ここが分かれ道だ、どちらにするのかと迫っている。
福澤がこうした考え方をどこで仕入れたのかはわかりませんが、この部分を読むと福澤の身の内には委託取引や委託販売、コミッションに関する考え方がかなり浸透している感じを受けます。手数料の考え方を理屈として知っているというだけではなく、エージェントはコミッションを取るのが合理的であり、それが正しいやり方だという経済的なロジックをよくわかっていた。だからこそこういう啖呵が切れたのではないかと思うわけです。
福澤の出版事業
最後に取り上げるテーマについて、とくに引用は示しておりませんが、ここでは新旧理念のうちの新理念に関わる点として福澤と出版業との関わりを挙げたいと思います。玉置先生がご著書の中で、福澤はやはりアントルプルヌールであると主張されたことは、一面では非常に正しい理解であったように思います。他方で、「何か入組んだ金の事はみんな人任せ」と言うように、福澤の中には経済運営、とくに財務や投資運用に対する若干の無関心も窺われます。
そういう新旧両理念が入り混じる福澤にとって、自分の一生の中では事業として成功した、あるいは自分なりに一生懸命やった、と例に挙げているものがある。それが出版業です。
福澤の出版業についての研究はすでにたくさんありますし、どのようなお金勘定で収益を上げるに至ったかもある程度わかっていると思いますが、概略だけをごく簡単に説明しておきましょう。『福翁自伝』でも述べられていることですが、福澤が出版事業を始めた当初は版元の権利が非常に強い時代で、著作者が所有する権利はきわめて限定的でした。具体的に本を作るという時には、今のシステムとは違い、版下を書いたり、版木彫りや版摺を担当したりする職人や、それを形にするための膨大な紙が必要でした。
福澤はこれらの諸権利を版元からある意味で奪いとり、著作者たる自分の手中に収めたと『自伝』に記しています。紙はお金を払って買えば済む話ですが、ここで重要なのは版木、版摺を担当する職人です。彼らは当時本を作るノウハウを持つ限られた存在でした。そこで福澤は、自ら職人を雇用するところから出版に関わり始めました。どのような形の本を作るのであれ、こうした職人をまず自分の下に抱えなければいけないことに気がついたわけです。
こうした活動は、現代流に言うと出版社を興すことに近いでしょう。当時は紙を買うのも、職人を雇用するのも、『福翁自伝』の表現を使えば「書林」が全て統括していました。福澤がかなり強引に職人を雇用し、大量に紙を仕入れてまで自分で出版を始めるに至ったのは、当時、自分たちのような書き手の権利が、経済的な価値として正当に守られていないと強く考えてのことだったと、後の研究で明らかになっています。
福澤の試みが特徴的だったのは、従来の書林を販売のエージェントに変えてしまったところにありました。出版社を著者のエージェントにすることで、著者の権利を強めたと言えるのではないかと思います。これは、福澤が併せ持っていた新旧両理念の中でも、新しい理念に対して非常に積極的な対応を示した部分です。福澤自身も『福翁自伝』の中で、出版は自分の事業家としての才能を示した部分であるといったことを記しています。
経済人・福澤の二面性
以上の考察を踏まえて、まとめに入りたいと思います。本日のレクチャーには2つの目的がありました。1つは経済に対する新旧両理念について福澤諭吉がどのように考えていたかを明らかにすることです。これについては、福澤はやはり2つの理念の中で非常に揺れ動いていたというのが、私の暫定的な結論になります。
これまで再三名前を挙げてきた玉置紀夫先生は、福澤が事業家であるということを、われわれがこれまでそういう目で福澤を見てこなかったという反省に立脚して述べています。玉置先生は、私たちが学んでいる慶應義塾という場所もまた彼の事業であるという見方を出されました。そして、慶應義塾はもちろんのことですが、丸善や横浜正金銀行、さらに三菱と福澤との関わりなどについてもご著書で言及されてきました。
玉置先生が事業家としての福澤を強調される一方で、平野隆さんは、『近代日本と福澤諭吉』所収の興味深い論考によると、福澤の言う経済人とはつまり士族学者であったということを強調しておられます。これは私の今日のレクチャーにも非常に深く関わる論点ですので、平野さんの研究に依拠しつつ少し論評させていただきます。
福澤は商人、あるいは実業人とはどのようなタイプの人間が望ましいか、ということについて色々と述べていますが、とくに強調しているのが士族であることでした。明治期に士族の商法というものは揶揄の対象になっていましたが、福澤はある意味で士族の商法で構わないと言っています。教養のある書生が──この“教養がある”という点が重要だと思いますが──、実業界の中に入っていき経営に関わるのは望ましいことではないか、と強調します。
ただ、士族ということに限定せずに、福澤の経済全般に関する言説をまとめてみると、これまで見たように彼自身のエートスはおそらく非常に振れ幅があり、新旧両理念のどちらにも振れていたのではないか。
彼は投資や資金の運用には比較的頓着しなかったと自分で述べていますし、簿記や財務の実際については大局を理解するのみに過ぎず、細かい話は自分では理解しなかったというのも見てきたとおりです。これらはどちらかというと、経済というものと一定の距離を保ってきたということを如実に示しているのではないかと思います。
では、玉置先生が指摘したようなアントルプルヌールシップ(起業家精神)を福澤が強調したことが間違いかと言うと、私は必ずしもそうとは考えていません。先ほど、福澤が委託取引やコミッションについて語っている部分を具体的に引用しましたが、「官商の分れ目だ」などと言っていることからもわかるように、商売をする場合は商売に徹しなければいけないということも強調している。こうした論述も非常に見事なものであると私は思います。
それから、出版業を興すに当たってもやはり福澤は成功したと思いますし、版元との関係においても、新しいビジネスモデルを提案したのではないかと私は考えています。
このように、福澤は新しい理念についても自らのアントルプルヌールシップを見事に示したと考えることができるでしょう。福澤が述べたことや書いたものを紐解くと、経済という学問に対する新旧両理念が彼の中に同居していたことがはっきりと見て取れます。
福澤にとっての経済とは
私が本日のレクチャーで明らかにしたかったことがもう1つあります。それは福澤にとって経済という言説はいったい何を意味していたのかということです。こちらの問いは新旧両理念の問題とは少し異なり、非常に漠然としたものです。福澤はもちろんウェーランドの経済書を読んでいましたし、『The Elements of Moral Science』(『修身論』)にも関心を持っていました。経済学に触れ得なかったわけではありませんし、ウェーランドたちから様々な経済思想を一定の範囲内で学んでいることは事実です。
しかし、ここまでの引用で示してきたとおり、狭い意味での経済学的な言説だけではなく、簿記や会計、財務のような広い意味では経済に関係がある言説が福澤の思想の中に占める割合は低くはなかったのではないかと思います。
例えば、『学問のすゝめ』14編「心事の棚卸」の部分の福澤のレトリックというのは、貸借対照表の右左に重ね合わせて私たちの「心事の棚卸」をしなければいけない、こうした考え方にもとづいて私たちは人生を毎週、毎月、毎年再検討、反省しなければいけないというものでした。福澤がここで示した簿記のレトリックはたいへん鮮やかなものだと私は思います。
すると今度は、簿記・会計のどのような側面に彼が注目したかが重要になってきます。会計とは、企業の活動結果を金銭の収支によって表す、所謂アカウンティングですので、「外部の人間に対して会社のパフォーマンスを明記する」のが一番重要なファンクションということになります。しかし、見ている限り、その点についての福澤の認識は比較的希薄で、それほど重視してはいないように私には感じられます。
では、福澤にとって何が本質的だったかというと、簿記や会計の中に現れている管理会計的な側面に一番魅かれたのではないか、というのが私の考えです。会計には財務会計と管理会計がありますが、管理会計の方は基本的にビジネスの内側の話となります。つまり、どういう形で経営上のメリットを生かし収益を上げられるかということを、会計の力を借りて明らかにしようとするものです。現代の用語で言えば、ビジネスアカウンティングということになります。福澤にとっての簿記や会計とはビジネスアカウンティングの側面が非常に強かったのではないか。
したがって、福澤の経済的な言説に関する私の2番目のアジェンダについての暫定的な結論は、福澤はいわゆる経済学だけではなく、簿記や会計的な発想、あるいはそれに立脚した広い意味での管理会計的な発想にも影響を強く受けたのではないか、ということです。
以上、私のつたない福澤読解の結論とさせていただきたいと思います。ご清聴有り難うございました。
(本稿は、2020年12月2日に行われた福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会での講演をもとに一部を加筆修正したものである。福澤の著作引用は『福澤諭吉著作集』(慶應義塾大学出版会)による。当日の話は、福澤と経済学との距離を強調し過ぎたきらいがあり、その点は成稿にあたり改めた。)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。