慶應義塾

子どもを育む遺伝の力、環境の力

公開日:2020.04.14

登場者プロフィール

  • 高橋 孝雄(たかはし たかお)

    医学部 小児科学教室教授

    高橋 孝雄(たかはし たかお)

    医学部 小児科学教室教授

2020/04/14

私は小児科医ですので、仕事で出会った方々は、ほとんどが子どもとお母さん、時々お父さんです。したがって、今日、私がお話しすることも、子どもたちやそのご両親から学んだことばかりです。

本日は、まず「遺伝の力」というお話をします。実は、雑誌の記事でも講演でも、タイトルに「遺伝」という言葉を使わないでほしい、とよく言われます。どうやら世間では、遺伝に対して「差別」や「取り返しのつかないこと」といった負のイメージがあるようです。そこで、私はまず遺伝という言葉にまつわる誤解を解きたいと思います。

その次に、「環境の力」についてお話しします。一口に環境と言っても、育児環境、家庭環境、学校環境に社会環境など、さまざまな環境があります。その環境の力がどれほど強いものか、素晴らしいものか、あるいは危ういものか、ということについてお話ししたいと思います。

そして最後に、「代弁者」ということについて、お話しします。私は自分なりに仕事をしてきた結果、小児科医たる者は、さらに、すべての大人は、「子どものための代弁者」であるべきだという結論に達しました。そのことを、ぜひ皆さんにお伝えしたいと思います。

小児科学の2つの側面、自然科学と社会科学

さて、本題に入る前に、「現代の小児科学」について、お話しさせてください。

私が小児科医になった頃、小児科学とは、子どもが生まれ育つ過程で遭遇する感染症などの病気を治す学問でした。ところが、ふと気がつくと、小児科学は科学として長足の進歩を遂げ、すっかり様変わりしていました。すべての医学がそうであるように、小児科学も自然科学としての観点ばかりでなく、社会人文科学としての役割が重要視されるようになってきたのです。

まず、自然科学としての小児科学は、人の体が形作られる過程(成長)とそこに機能が宿る過程(発達)を科学し、それらの異常の原因を突き止め、治療法を開発し、実際に治療を行うことを目的とします。小児科学は「成長と発達の科学」なのです。子どもが発育し、能力を身につけていく過程については以前から研究されていましたが、科学的に深く理解するところまでは到底達していませんでした。ところが今では科学の進歩により、成長と発達の仕組みが細胞レベルで解明されてきています。特徴のない細胞が次第に形を整えていき、例えば筋肉の細胞ならば動くようになる、神経の細胞であれば電気を発するようになる、といった形態形成と機能獲得の仕組みが解き明かされています。基礎医学が劇的に進歩した結果、成長と発達を扱う自然科学としての小児科学も大きな発展を遂げたのです。

次に、社会人文科学の側面から小児科学の現在の立ち位置を考えてみましょう。新聞を読むと、虐待、貧困、いじめなど、子どもを取り巻く環境に関する話題が溢れています。そして、それを何とかしようという力が社会全体に湧いてきていると思うのです。その中で、医療従事者もまた社会に根ざした職業であるべきであって、そこに小児科医の果たす役割があるはずです。

一見健康に見える子どもでも、一見幸せに見える子どもでも、すべての子どもは何らかの困難を抱えて生きていることに気づきます。これは、私が小児科医として30数年かけて、子どもたちから学んだ大事なことです。本当に幸せな子などいない、という心構えが大切だと思うのです。

遺伝子の異常や出産時の問題で生まれつき困難を抱えて生きている子どもがいます。ある夜、目を覚まして台所に行ったら、お父さんがお母さんを殴っていた、そんな困難を抱える子どももいます。あるいは、景気が悪くなってお父さんが解雇されれば、家庭の状況が急変します。もちろん、ただの風邪でも子どもにとっては大事件です。

子どもたちが抱える心と体の困難を克服するために力を貸すのが、現代の小児科学の使命です。その目的は何か。病気を克服して成長・発達を遂げるだけでは足りません。たとえ病気が克服できなくても、成長に支障があったとしても、すべての子どもたちに幸せな人生を手に入れてほしい。それが小児科学の最終目的です。そして、科学の進歩と社会の成熟のお陰で、そのような目的を達成することも夢ではなくなってきていると思うのです。

ここで、今日のお話のテーマである「遺伝」と「環境」について考えてみましょう。「成長と発達を科学すること」とは、遺伝子の役割を解明することに始まる自然科学なのです。一方、「子どもたちを幸せに導くこと」とは、子どもたちを取り巻く環境を整備する社会科学にほかなりません。すなわち、現代の小児科学は遺伝と環境にアプローチする科学である、ということになります。

遺伝の力

遺伝の力は「守る力」、環境の力は「育む力」

人の一生において遺伝と環境、どちらの力が強いか。生まれて間もなくは、ほとんどのことが遺伝子の力で決まっています。一方で環境の力は、赤ちゃんの時はさほどではないけれど、だんだん強くなっていきます。高齢期になれば、それまで積み重ねてきた経験、知識、努力の結果が日々の生活や人生を作っています。

胎児の環境は、妊娠中のお母さん、お父さんの最大関心事の1つだと思います。結論を言うと、胎児は、ほぼ100%遺伝子の力で守られています。お腹の中で赤ちゃんの体が作られ、機能が宿っていく過程に、環境要因がやすやすと影響を及ぼすことはできないのです。ですから、大量の放射線に被曝するとか、極度の暴力やうつ状態に苛(さいな)まれ続けるような場合は別として、お母さんが出産を楽しみにして普通に生活しているかぎり、そうそう間違ったことなど起きません。これは、本日の私の大変重要なメッセージです。

実際にあったお話をご紹介しましょう。ある赤ちゃんは、残念ながら歩くのが遅かった。保健所で、「脳性麻痺の疑いがあるから、大学病院で調べてもらうように」と言われました。診察してみると、確かに軽い脳性麻痺でした。ご両親に伝えると、「何か原因があるはずだ」。すると、おじいちゃん、おばあちゃんが「妊娠中に、安定期だからと、飛行機に乗って里帰りしたのが原因じゃなかろうか」と。

しかし、それは事実無根です。遺伝というと、多くの人々が、「一生、治らない」「努力してもムダ」といった負のイメージを抱くようですが、実は、その「変わらない」ことによって、胎児期を含めて我々を守ってくれています。妊娠初期にアルコールを少々飲もうが、飛行機に乗って旅行しようが、胎児には一切影響しません。その場で医師に訊いていただければ「関係ないですよ」とお話しできるのですが、「あれだったね」「内緒にしておこう」と家族内の合意になってしまうこともしばしばです。

この話で一番気の毒なのは、お母さん自身が「自分が飛行機に乗ったせいだ」と思い込むことです。母性とは、そういうものです。子どもに起こる不幸や困難のすべてを母親である自分のせいにするという、切なく温かい本能です。その誤解を何とか解きたいと思い、私は小児科医をしてきました。

遺伝の力について、変わらないということに加えてもう1つ大事なのは、特に赤ん坊の成長や発達においては、実際に何かを体験すること、努力することを前提としていないということです。笑うとか、2本の脚で立つとか、私たちは誰に教わるわけでも、経験から学ぶわけでもありません。人間が生きていくうえでどうしても必要な力は、遺伝子が準備したシナリオに沿って必ず獲得されていくのです。

それに対して、家庭や学校などの環境は、変化に富み、不確かで流動的です。だからこそ「環境の力」は「育む力」になるのです。そして、遺伝と決定的に違う点は、環境がその力を発揮するためには、必ず実際にそれを体験してみる必要があるということです。

遺伝子は体験せずともそこにあり、変わらず私たちを守る。環境は体験してこそ力を発揮する。この2つの力がバランスを保ちながら、子どもを守り、育んでくれるのです。

遺伝子の仕事は、タンパク質を作ること

さて、人間は約2万個の遺伝子を持っていますが、これは下等動物や植物より多いというわけではありません。では、2万個の遺伝子は何をしているのでしょう。ほとんどすべての遺伝子は、それぞれがタンパク質を作るための設計図です。アミノ酸をいくつもつなげてタンパクを作る。

タンパク質の特徴は、必ず3次元構造を持っていることです。そして、このタンパクとこのタンパクが組み合わさり動くことによって筋肉細胞を作るとか、これらのタンパクが組み合わさると、プラスイオンが流れ込んで電気を起こし神経細胞ができるとか。正しい形を持ったタンパクを無数に作り、正しく形が作られたところに機能が宿ることによって我々の体はでき上がっているのです。

先ほど「形態形成と機能獲得」というお話をしましたが、その過程はまさに遺伝子のシナリオに従って設計図どおりのタンパク質を作り、そこに機能が宿る過程と言えます。私たちは遺伝子が決めた設計図どおりに体を作り、人として必要不可欠な機能を獲得して生きていくのです。

個性とはバラツキである

ここで、2つのグラフをご覧ください(図表1)。7本で1束となった曲線が3束あります。いずれも1歳から18歳までの男子の成長過程を示したもので、左図の上が身長、下が体重、右図が頭囲の正常値を描いています。このように7本の線があると、真ん中の平均値が正常で、そこから上下に離れるほど異常だと受け取られがちですが、それは大きな誤解です。両矢印で示された範囲、つまり7本全部が正常値なのです。もちろん、たくさん食べれば太り、栄養が足りなければ痩せるという具合に、環境の影響を受ける場合もあるのはご存知の通りです。

図表1 身体が形作られる過程(成長)

身長、頭囲、そしてある程度は体重も、成長に関する多くの部分が遺伝子で決まっているのですが、その遺伝子の守備範囲は意外に広い。正常なものには必ず「バラツキ」があって、それを個性と呼ぶわけです。この個性が、病気、異常と勘違いされないように注意が必要です。私たち医師も専門家として、正常な範囲のお子さんには「個性の範囲です」とはっきり説明する義務があると思うのです。

次に、機能が宿る過程、「発達」のバラツキを見てみましょう(図表2)。グラフの横軸は生まれてからの12カ月を表し、右肩上がりの直線はその間に赤ちゃんが獲得する機能を示しています。これは、私が医学部の授業で必ず使う図で、医師国家試験に出るほど重要なものです。たとえ小児科医にならなくとも、医師ならば誰でも、生まれて12カ月間の子どもの発達ぶりを理解している必要があるのです。

図表2 機能が宿る過程(発達)

12カ月のところを見ると、「有意語」「たっち」「母指対立」と書いてあります。有意語とは「意味のある言葉」を言えることです。ご飯のことを「まんま」と言ったり、アンパンマンのことを「ンパ」と呼んだり。正確である必要はなく、その子にとっての呼び名として、意味のある言語が獲得されるのが、およそ12カ月目です。

「たっち」とは2本の脚で立ち上がることです。つたい歩きから、初めて手を離して2本の脚で立った時の子どもの笑顔。「にこ~っとして、やったという顔をした」。多くのお母さんが幸せそうにお答えになります。その瞬間は、お母さんにとって一生忘れられない記念日です。お母さんは、そういう瞬間をみんな覚えているから、育児のご苦労も報われるし、幸せになれるのですね。

「母指対立」とは、親指と人差し指を使って小さな物をつまむことです。コップなど大きなものであれば鷲づかみできますが、落ちている髪の毛を拾おうと思ったら、親指と人差し指を対立させて、ピンセットのようにつままなければなりません。これは人間にしかできないと言われており、1歳前後でできるようになります。

つまり、人間は「言葉によるコミュニケーション」「2足歩行」「手の微細運動」という他の動物にはまねのできない3つの能力を、生まれてからおよそ12カ月で獲得するのです。その過程は段階を追って起こっていきます。「たっち」であれば、3カ月前後で首がすわり、半年くらいでお座り、9カ月頃につかまり立ちができて、1年経つと2本の脚で立つ。

ここで強調したいのは、斜線上の横向き両矢印です。誰もがぴったり3、6、9、12カ月で次のステップに進むのではなく、子どもによって時期が異なり、そのどれもが正常だということです。つまり、図表1でご紹介した成長と同じように、発達においてもバラツキ、個性が織り込まれているということです。

さらに、この横幅が右上にいくほど広くなっています。つまり、「首がすわる」とか「手をパーに開く」など簡単なことは3カ月プラスマイナス1カ月程度でできるようになりますが、2足歩行となると数カ月の幅がある。これらはもちろん、すべて正常です。発達過程では、高度な能力ほど、できるようになる時期の個人差が大きくなります。

発達過程におけるバラツキも、ほとんどが遺伝子で決まっています。ですから、むりやりお座りをさせたりしても、その後の発達が早く進むということはありません。また、早くお座りができたとしても、運動神経がよいわけではありません。早くできるようになることと、上手にできるようになることとは無関係です。早いも遅いも、すべて遺伝子が決めている正常なバラツキに過ぎないからです。なお、「これぐらい遅いのは大丈夫」「これぐらい早くできることはありますよ」といった判断は小児科医でないと難しいかもしれません。

遺伝子は音符、人は楽譜?

ほぼ同じ遺伝子を持っている人間同士なのに、なぜ豊かな個性が発揮されるのでしょう。ここで、1つひとつの遺伝子を音符に、2万個の遺伝子が作る「人の設計図」を楽譜に見立ててみるのはいかがでしょうか。

例えば、ピアノには88鍵ありますが、88個の音符を使えば、無数の楽曲を作曲できるでしょう。仮に、その中の1つ「G線上のアリア」が人間の設計図だとします。つまり、無数の生物種の中で、人間は皆「G線上のアリア」です。ただし、それを演奏するのはあなた。ある人は、オーケストラで演奏する、ある人は歌う。そうなると同じ楽譜を与えられても、演奏する人によって、まったく違う曲……にはならないとしても、それぞれ変化に富んだ個性溢れる楽曲になるでしょう。

つまり、遺伝子はほぼ同じなのに、身長、体重、あるいは発達過程にもバラツキがあるというのは、同じ楽譜を渡されても演奏者によって曲の印象が大きく異なるものになる、といった程度のことかなと考えています。

一方、楽譜の中である音符が抜けている、楽器で言えばある音が出ない、つまり特定の遺伝子に異常があって生まれてくる赤ちゃんもいます。しかし、人間には、こんな強さもあります。例えば、ピアノの鍵盤の真ん中にある「ド」、これを使わない曲はあまりないでしょうが、この「ド」の音だけが出ないという遺伝子異常があったとします。その他の87鍵は大丈夫。単一遺伝子の異常と呼ばれる状態です。で、どうなるか。「ド」を飛ばして演奏してもそこそこ成り立ちますし、「ド」の代わりに和音を使ったり、編曲したりしても切り抜けられる。遺伝子に異常があっても、問題なく生きていけることは意外に多いものです。

環境の力

教育環境は父性的

冒頭でお話しした胎児環境の他にも、家庭環境、育児環境、学校環境、社会環境などさまざまな環境があります。中でも教育環境は、「父性」的だなと感じます。これは私なりの考えですが、父性の特徴は、世の中の平均的な考え方や標準、ルールなどのデータに基づいて計画的に行動する力です。「よく考えてみろよ」「だいたい社会においては……」などなど。そして、教育には「こういう人を育てたい」という目標、アウトカムが必要です。目標を設定し、多くのデータに基づいて、標準的なアプローチを踏まえながら、効率的にさまざまなことを経験させてみる。これは、母性ではなく父性的な考え方に近いと私は思います。

ちなみに母性はもっと直感的です。正しいか否かよりも、それでいいと感じたかどうかに判断をゆだねる傾向があります。「だって見てごらん」「この子だってそう言ってるし」であっさりと決断します。もちろん、教育の場でも、母性と父性のバランスが重要であることは当然です。

ここで、必ずしも母性=女性、父性=男性というわけではない、ということを強調させていただきます。ある女性はふだん9割が母性で、1割が父性だとして、出産、育児を経て母性が倍に、でも父性はそのままとして全体で190%まで上昇。その後、仕事に復帰すると父性が増加して、部長に昇格すると父性50%、全体でなんと240%へ。男性も同じで、仕事一筋だったご主人が、お子さんを授かったことをきっかけに母性が大きくなるのではないかと思います。女性も男性も、人生の色々な場面で母性と父性を使い分け、自分自身を育んでいけるのではないでしょうか。

教育の力は平等である

さて、皆さんは「ディスレクシア」という病名をご存じでしょうか。学習の困難さの一種で、努力家だし勉強はできるはずなのに読み書きだけが苦手。この困難さは、ほぼ遺伝子の力によって決まっています。そのため、一生懸命勉強しているし、他の科目はできるけれども、国語の音読がからきしダメ。また、学校生活ではさほど問題にならない程度でも、読むのが得意ではない人はさらに多くいます。実は私も、論文を読むのが大嫌いです。でも、論文を読んだ人から話を聞くと、耳からは頭にスッと入るのです。

ここで、図表3を見てください。このグラフは横軸が子どもの年齢で6歳から16歳、小・中学校の時期にあたります。縦軸は文章を読む能力です。上側の曲線、読み書きが得意な子をA君、下側の破線、読み書きが苦手な子をB君としましょう。まず読み書きの得意なA君を見ると、小学校時代にぐんぐん伸びていきます。ただし、中学校に入ると横ばいですね。小学校でたくさん音読をするのは確かに重要だということが分かります。

図表3 遺伝の壁と教育の効果

一方、B君はと言えば、小学校で頑張ったものの、どうしてもA君に追いつけず、その後も差を詰めることはできません。読む能力については遺伝的に決まる要素が強いので、努力しても追いつけない壁があるという結論に達します。

しかし、小学校6年間を見ると、A君もB君も点数の上がり方はほぼ同じ、つまり教育効果は同じだということに気付きます。驚きですね。生まれつきの得意不得意であり、越えることのできない壁はあるにせよ、教育は両者に同様の効果をもたらします。ある時期に何かを懸命に頑張るということは、決して無駄ではないのです。子どもの頃の「お家で3回音読して、お母さんにサインをもらいなさい」という宿題は、なんと意味があったことか。私はこの年になってやっと合点がいきました。これが教育の力なのだと。

さらに近年、アメリカではこのギャップを乗り越えるトレーニングが開発されつつあります。将来、科学がもっと進歩すれば、少なくとも読み書き程度のことなら、遺伝的な壁を訓練、つまり教育という環境の力によって乗り越えられる可能性が出てきたということです。

環境の力で遺伝子の壁を乗り越える

ここで、慶應病院に通院している赤ちゃんのお話をさせてください。脊髄性筋萎縮症という遺伝子の異常によって起こる病気の赤ちゃんに、いわゆる遺伝子治療を施しています。背中に針を刺して、髄液の中に薬を注入するのですが、それを数カ月ごとに繰り返すことで、早晩亡くなっていたはずのお子さんの命が助かるばかりか、歩くことも夢ではなくなったのです。これは驚異的な薬で、ただもう「科学という環境の力」の勝利と言うほかはありません。お父さん、お母さんにとって「歩けることなく死ぬ」と思っていた子がニコニコしながら歩き出すという、信じがたい現象が起こるわけです。

さらに、ご両親の経済的負担なしで治療を受けられるという点では、医療保険制度すなわち「社会という環境の力」の勝利でもあります。なぜなら、この薬は1本1千万円もするのです。さらに、同じ病気に対して静脈注射を1回打つだけで一生治療をする必要のない薬も開発されました。1人の命を助け、長い幸せな人生をプレゼントする薬です。この薬は2億円以上しますが、やはり医療保険制度の対象です。

私がここでお伝えしたかったのは、絶対に治らないと思われていた遺伝子の病気ですら治す時代に入ったという事実、つまり「科学という環境の力」の頼もしさ、そして、ひとりの子どもの命を助け、そのご家族の幸せを守るためには2億円出してもよいと、日本という国が考えているという事実、つまり「社会という環境の力」の寛大さです。

環境が持つ負の力

環境には負の側面もあります。現在、インターネットやスマホが普及し、子どもたちがSNSやネットゲームにハマってしまうことが大きな社会問題になっています。こうしたメディア環境の何が悪いのでしょうか。私は、3つに集約されると思います。1つ目は、会話がなくなる「無言化」。2つ目が、1人でいる時間が長くなる「孤立化」。そして3つ目が「実体験の減少」。

皆さん、無言化と孤立化はお分かりだと思います。例えば、お母さんと中学生の息子が夕食を食べています。子どもは右手に箸を、左手にはスマホ。お母さんは、「学校はどうだった?」なんて会話をしたいのですが、ご自身もテーブルの脇にスマホを置いています。すると、ブーブーとスマホが震えます。「お父さんかな、PTAかも」と見てみると、なんと目の前の息子からLINEです(笑)。どうしましょう。おそらく、お母さんは開きますね。そうしたら、「今日のカボチャ、メチャうま」(笑)。お母さん、嬉しくなってLINEで返信です。「これ、栗カボチャっていって、今が旬なのよ」なんて。無言化の良い例です。

さて、最も大きな問題は、「実体験の減少」です。冒頭でお話ししたように、環境がその力を発揮するには、その環境を実際に体験する必要があります。例えば、保育園でお友だちの顔を引っ掻いたら、お友だちが泣き出した。先生に怒られて、悲しくなって涙がこぼれた。そして翌日、お母さんが呼ばれて、保育園の先生に謝って、お母さんも泣いている……。こんな実体験が非常に重要なのです。「人を傷つけてはいけません」という言葉だけではダメです。人を殴ったらどういうことになるのかを、我が身に染みて体験することが大切なのです。重大な事故は避けるべきですが、私たちは小さな失敗という実体験を積み重ねて、環境の恩恵に浴するのです。

そして帰り道、お母さんが温かい手をつないでくれる。「もうしないね」と約束する。紅葉がきれいで、ちょっと冷たい風が吹いて、とっても気持ちよかった。これが実体験です。そうした経験が、自分の中に取り込まれ、つまり内在化し、結果として想像力が育まれます。そうすれば、初めて直面する問題に対しても解決策を子どもなりに見出すようになります。「こんなことしてはダメだ」と判断する原動力は多くの場合、「こんなことをしたら、お母さんが悲しむ」、あるいは「お父さんに叱られる」と想像する力なのです。

また、「こんなことをしたら、きっと喜んでもらえるぞ」と他人の心に期待する力も実体験によって育まれます。あるいは、「こんなことを言ったら、きっと悲しむな。言わないでおこう」と、想像力だけで、相手が傷つくことを事前に察知できるようにもなります。

多くの実体験に基づいて想像力が育まれていれば、バーチャルリアリティも意味のあるものになるでしょう。しかし、実体験を疎(おろそ)かにして、ありもしないことを体験したかのように錯覚させるのは、少なくとも子どもたちにとっては危険なことです。対戦型ネットゲームを通じて、人は殺しても生き返る、相手を殴ると点数がもらえる、といったとんでもない❝体験❞が内在化してしまいかねません。

母性の欠如がもたらす劣悪な育児環境

母性が欠如した劣悪な家庭環境や、健全とは言えない入院生活の中で、遺伝子の力はどのように負の環境と闘い、子どもたちを守っているのでしょうか。私たちの病院に入院していたある男の子のお話を通じて、一緒に考えてみたいと思います。

その子は、3歳頃から背が伸びず、さらに4歳を過ぎて病院に連れて来られた時、体重は2歳児程度しかありませんでした。病名は愛情遮断症候群。原因は母性の欠如です。

食事は与えられ、家もあるし、寝床もある。お父さんはいません。しかし、お母さんは、その子が自分の子どもだという実感が湧かない。頭では分かっているのに、どうしても愛することができない。この子、何か様子がおかしい。一切、笑わない。考えようによっては、このお母さんは偉かった。よくぞ、病院に連れて来たと思います。

まず私たちがやったことは母子分離、お母さんと子どもを引き離すという治療です。子どもは入院させて面会謝絶、お母さんは外来で医師の治療を受けます。お母さんは一向によくなりませんでした。一方、男の子は、最初は目も合わせてくれなかったのですが、対人関係は徐々に改善し、身長・体重ともにグッと増えていきました。

その間、私たちがしたことは、3食、横に看護師さんか若い小児科医がついて「美味しそうだな」とか「お友だちのベッドで遊んじゃだめだって言ったろ」とか、そんな会話をするだけです。というのも、この子は退屈して、他の子のベッドに行って遊ぶわけです。しかし、感染症対策のために、患者さんが他のベッドに上がり込むことは禁止されているのです。

さて、同じ部屋に、あるお姉さんが入院してきました。お姉さんは女の子らしく母性豊かで優しい。「オセロやる?」と遊んでくれる。楽しくてしかたがないから、また行く。お姉さん「また来たの。ちゃんと、ご飯食べてるかな?」。でも、しばらくすると「今はあっち行って!」「もう、来ないで!」と。じきにお姉さんは髪の毛が抜け、顔面蒼白になり、点滴につながれながら吐き続ける。白血病で入院してきたのですから、いつまでも元気なわけがないのです。これが病院というところです。

また、窓際のベッドには、小学校1年生に上がったばかりの男の子がいました。心臓の大動脈弁膜症で、手術をしなければ余命1年ほどと診断されていました。高度心不全です。一方で、心筋梗塞の既往(きおう)があったので、手術室からそのまま戻ってこられない確率が数%。手術の後、1年を待たずに命を落とす確率が20〜30%という状態でした。その子は「手術は絶対にいやだ」と泣き叫びました。なぜなら、それまでに心臓カテーテル検査や別の手術で何度も痛い目に遭っていて、集中治療室に1週間も2週間も閉じ込められる恐怖を知っているからです。

しかし、日本では15歳未満の子どもにイエス・ノーを決める権利はありません。両親が同意書に署名すれば、本人の意思とは無関係に手術が行われるのです。もちろん、それは子どもの命を考えてのことですし、ある意味で正しいことです。ただ、最近になって私は思うのですが、あの子ともっと話をしておけばよかった。あの子と同じ目線で、あのベッドサイドでもっと話をして、説得を重ねるべきだった。本当に反省し、後悔しています。

そのお兄さんは手術室から帰ってきませんでした。愛情遮断症候群で同じ部屋に入院していたあの子だって気付きますよね。「お兄ちゃん、帰ってこない。死んだんだ」と。あの仲良しだったお兄ちゃんが、そうやっていなくなるわけです。それでも、この子にとって一番辛かったのは、元気になり、お父さんやお母さんが迎えに来て退院していく子どもたちを見送る時です。そういう子たちをたくさん見送って、この子は1年以上、入院していました。我々はこの子に母性を与えることができていたのでしょうか。

劣悪な環境に立ち向かう親思いの遺伝子

その後、すっかり身長も体重も増え、元気に笑う❝普通の男の子❞になり、退院の時が来ました。では、どこへ? 彼は児童養護施設へ行きました。そこで新しい人生を始める。お母さんにも一切会わないまま、小学校の入学式の日も、施設から出かけました。ところが、学校の校門にお母さんが現れたのです。

母親を治療していた主治医が、そろそろ息子に会わせてもいい時期だと判断したのでした。数年ぶりに母親に会った男の子は、驚いたことに、こう話しかけたそうです。「お母さん、よかったね」。実は、男の子を退院させた時に主治医は言い訳をしました。「お母さんは重い病気なんだ。だから、君はまだお家に帰れない。お母さんが元気になるまでは、お友だちと一緒に暮らそう」と。男の子は納得して施設へ行ったのです。

お母さんが校門に現れた、ということは、お母さんの病気が治ったんだ。彼は瞬時にそう理解したのです。だから「お母さん、よかったね」。

皆さん、信じられますか。生まれて4年間、1度も愛されず、母性に触れることもなく、痩せこけて身長も伸びず、そのまま病院に預けられ、そして施設に預けられた。それでも彼は「お母さんは病気だ。今は我慢だ」「お母さん、元気になってほしい」と思って施設で暮らしていたのです。子が親を思う気持ちは、遺伝子の仕業としか思えません。体験に左右されない遺伝子の力に守られて、何があっても子どもは親を裏切らない。なるほど、と思いました。

私がそのような遺伝子の力を最も実感するのは、子どもが虐待の被害者になった時です。足の親指が青あざになって、爪が潰れている子。おそらく、ペンチで挟まれたのでしょう。また、頭を万力で締め上げられた子もいました。黒いビニール袋に入れられて、空気銃で撃たれた子もいました。しかし、これら虐待の被害者である子どもたちは、決して親がやったと口を割りません。ほとんど例外なく「自分でやった」と言い張ります。

殺される前に手紙を書かされた子がいましたね。「自分が悪かった、お父さんは悪くない」と。これは私の推測ですが、ああした手紙は、必ずしも強制されたものではないと思います。きっと洗脳されていたのでしょう。なぜなら、お父さん、お母さんが、自分にこんなことをするはずがないという本能のようなものがあるからです。きっと自分のせいだ、と思い込む。「おまえがいけない。お父さんはおまえを教育するためにやっているんだ」と言われれば、本当にそうだと思うんですね。子どもが親を思う気持ちは、遺伝子の力で守られていて、とても強い。その強くて温かい思いを、大人は決して逆手に取ってはならない。

遺伝の力さえ捻じ曲げる環境の力

一方、かくも強い遺伝の力でさえ、環境の力によって歪められてしまう場合があります。実は入院した時、この男の子の頭囲、すなわち脳は小さかったのです。入院後にグッと大きく成長しました。実は、これは不思議なことです。例えば、アフリカで飢餓に苦しむ子どもたちは、栄養失調で首から下はやせ細っていますが、頭の大きさは正常です。また、妊娠中に胎盤の機能が落ちて、胎児に届く栄養が不足しても、脳だけは正常な大きさで生まれてきます。どんな逆境でも、脳には一番栄養のある血液が流れるようにできているのです。

ところが、母性がない環境では脳が縮むのです。冒頭にお話ししたように、形が作られ、そこに正しい機能が宿る過程は遺伝子の力で守られています。しかし、愛情のない家庭環境が、それすらも捻じ曲げていたのです。少年の脳は、その後の病院生活の中でだんだんと育っていき、入学式の日に、「親思いの遺伝子」が満を持して花開き、「お母さん、よかったね」という言葉を吐かせたのだと思うのです。頭の大きさ、つまり、脳の大きさは、さまざまな物語を私たちに教えてくれました。

すべての大人は代弁者

小児科医は「母性の代弁者」

最後に、代弁者についてお話をします。まずは私たち小児科医が代弁者だというお話から。病気を治すだけが私たちの仕事ではありません。

もともと代弁者(Adovocator)とは、アメリカ小児科学会からきた考え方です。具体的には、物言わぬ子どもたち、あるいは若いお父さん、お母さんたちの思いを政治に反映させたり、メディアを通じて広く訴えかけたりする代弁者です。彼らの言う代弁者を、私は「父性の代弁者」と呼んでいます。

その意味では、福澤先生が自分の意思を多くの人々に伝える方法として「文書ではなく話し言葉でやってみよう、日本語でもできるはずだ」と始められた明治七年の頃の「演説」は、父性の代弁者になろう、という試みであったのではないかと思います。

一方で、代弁者には、「母性の代弁者」という側面があると思います。小児科医には、父性を発揮するばかりでなく、母性を発揮して子どもやそのご家族の代弁者となることが求められているのだと思うのです。

「傾聴力」と「説得力」

母性の代弁者になるためには2つの力、「傾聴力」と「説得力」が必須です。「傾聴力」とは、「聴」の字のとおり、耳を澄ませ、目を配り、心を寄り添わせて相手の立場になり、共感力を発揮して情報を引き出す力です。これは、大人を診療する内科や外科でも同じですが、とりわけ小児の場合、相手は、自分が抱えている困難をよく把握できない、自分が虐待を受けているという事実すら正しく理解できない子どもたちです。あるいは、夫が子どもに手を上げる理由を理解できず、しかしそれを見守るしかない母親です。それらの困難は、口止めされていること、恥ずかしくて言えないこと、大事ではないと思って適当に答えていることの中に潜んでいます。それらを正しくグッと引き出す力が必要で、それを傾聴力と呼びます。これは、臨床経験という実体験がないと、絶対に身につきません。

次に「説得力」ですが、その前に1つやることがあります。それは、「判断する」という行為です。医師が判断すること、決めることは、実はたった2つしかありません。診断をつけること、そして治療方針を立てること(治療しないという判断も含めて)です。判断を患者さんに任せてはいけません。2つ以上の治療方法を提示して、「どちらを選びますか」と患者さんに選ばせることが良しとされる場合もあるようです。一見、公平なように思えますが、多くの場合は避けるべきことと私は思います。話を十分に聞いたら、その患者にとって一番よい治療法は医師が選ぶべきです。決めたからには、それについて相手を説得する義務がある。それが私たち医師の仕事です。「独立不羈(ふき)」とはそういうことだと思います。自分で考え、自分で決めて、実行に移せ。自分で判断したことを患者さんに納得していただくために、「説得力」が必要になります。

患者さんを説得するにはいろいろな力が必要となりますが、まずは「傾聴力」です。つまり、自分の話を「なるほど、そうですか」と聴いてもらえた。自分でもどう表現してよいか分からなかった苦しみを、「こういうことですか」と翻訳してもらえた。初対面の医師との対話の中で、「この先生は本当に自分の話を聴いている」「言われてみれば、自分の曖昧模糊とした不安はそれだった」「この医師は信頼できる」と納得すれば、その時点で診断や治療方針を受け入れる準備ができているのではないかと思うのです。

反対に、検査データを手渡して、説明文書を読み上げ、ここに署名してくださいというような文書によるやり取り、「演説」が生まれる以前の文書によるコミュニケーションに逆戻りするような医療は、今後は許されなくなるでしょう。文書による同意取得は、AIでもできることです。またデータに基づく診断や治療方針の決定も、AIでほとんど片がつきます。しかし、AIが決めたこと、それも厳しい診断、辛い治療を受け入れられますか。1対1で面と向かって説明され、討論し、その結果、相手の医師から出た言葉だからこそ、納得できるのではないでしょうか。

安心させることは難しい

母性の代弁者であることが何より大事だと感じさせられたエピソードをご紹介しましょう。

私たちの病院に、急に右腕を動かさなくなったという6カ月の赤ちゃんが連れて来られました。そして、脳の断層撮影をしたところ右側の大脳に影があり、それが原因の麻痺だと早合点してしまったのです。しかし、右側の脳が障害された場合は左側に麻痺があるはずです。答えは単純、「右上腕骨らせん骨折」でした。お父さんが捻じって折ったのです。洋服を脱がせてみれば、あざがいっぱいです。そのことを、お母さんは初めから知っていて、助けを求めて夜中に病院に駆け込んだわけです。脳の断層撮影などをして、いったい何になるのでしょう。お母さんの「父親の虐待が続いています。助けてください」という訴えを引き出すだけの傾聴力が医師の側にあったなら、よけいな検査もせずに、すぐに保護することができていたはずです。

ところで皆さん、最も説得が難しい病気とは何か、想像がつきますか。それは「健康」ということです。「病気ではない」と説得することが、一番難しいのです。心配だから病院に来ているのに、「病気じゃありませんよ」「治療の必要はないから安心してください」と伝える。私は、これを医療における「悪魔の証明」と呼んでいます。ないものはない、悪魔はいないと証明することは、非常に難しいことだからです。皆さん、病院で、「ご安心ください。治療の必要はありません」「でも症状はあるんです。心配です」「分かります、しかし……」と親身になって説得してくれる先生がいたら、その先生は名医かもしれませんよ。

説得力がある医師は、会ったその場で患者さんに安心感を与えます。説得力は医師にとってとても大切な力なのです。夜中の2時、40.6度という体温計の数字を見る。お母さんは、生まれて初めて119を押して救急車を呼ぶ。夜中の救急外来で、医師にとって一番大切な仕事は、母性の代弁者として温かく親子を迎え、納得できる説明をすることです。「ああ、風邪でよかった。勇気を出して救急車を呼んでよかった。優しい先生に診てもらえてよかった」という安心感を与えることです。「救急車を使わないで、自宅の車で来い」「たかが風邪、明日の朝まで待てただろう」というようなことは決して言ってはならない。分かってはいても、こういう間違いを、私も繰り返してきました。

すべての大人は母性の代弁者

出会ったその場で安心感を与えられる、説得力のある医師になるにはどうしたらいいか。説得するためには、まずは傾聴が必要であることは先ほど述べました。大事なことがあと2つある、と医学部の授業で私は述べます。まずは、「熱意」を持てる仕事を選ぶこと。熱意を持って30年、40年、小児科医なら小児科医として仕事を続けようという気持ちがあってこそ、説得力のある話ができるのです。これは、新米の医師にもできることです。しかし、もう1つ、若い医師がすぐにはどうしても手に入れることができないものがあります。「経験」です。もし、私の話が多少なりとも説得力を持つなら、それは数十年の経験から物語るという後ろ盾があってこそです。

では、どのような経験を積めばよいのか。難しい病気を診断したり、重い病気を治療したり、成功体験を多く積むことで、医師の説得力は培われるのでしょうか。いいえ、成功体験しか積んでこなかったと思い込んでいる医師には、自慢話しかできません。自慢話に説得力はありません。失敗談にこそ説得力があるのです。もちろん、患者さん相手に大きな失敗をすることは避けるべきですが、大切なのは、知らず知らずにおかした小さな失敗(「ヒヤリハット」と言います)を見逃さないことです。先ほどの「子どもが腕を動かさない」と不安げに言ったお母さん。顔つきを注意深く見て、「お母さん、あなたの右頬にあざがありますね。ご主人、左利きですか」と。お母さんも殴られていることがありますから。そういう目配りや心配りがあればよかったと、もし反省できたとしたら、それは非常にいい経験になります。そうした「負の経験」をコツコツ積んでいくのです。

皆さんの子育ての中にも、小さな失敗はたくさんあると思います。満点の育児などあり得ません。「ああ、叱るんじゃなかった」「あんなもの食べさせちゃった」「怪我をさせちゃった」……。そうした小さな失敗の積み重ねが、そして「あなたのことでは後悔ばかり……」と振り返る優しさが、子どもに対する説得力になるのです。

最後に、今日、一番お伝えしたかったことを述べます。すべての大人たちに、子どもたちにとっての母性の代弁者になっていただきたいのです。すべての大人は、すべての子どもに対して、「寄り添う優しさ」を持ち、共感する。子どもらに「傾聴する」とは、そういうことです。その一方、してはいけないこと、すべきこと、しつけ、教育、これらは大人が決めるべきことで、子どもの言いなりになる必要はありません。大人の決めたことが、子どもに寄り添った優しさの産物であれば十分です。そうであれば、自信を持って子どもに接することもでき、子どもたちも納得するはずです。すべての大人たちが、「世の中で出会うすべての子どもたちのよき代弁者であろう」と力を合わせれば、どのような困難を背負っていようとも、すべての子どもたちが幸せな人生を手に入れることができる社会が約束されると思います。

ご静聴ありがとうございました。

(本稿は、2019年11月26日に行われた第709回三田演説会での講演をもとに一部を加筆修正したものです。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。