慶應義塾

漫画家の目から見た世界

公開日:2019.11.13

登場者プロフィール

  • ヒサクニヒコ

    その他 : 漫画家

    塾員

    ヒサクニヒコ

    その他 : 漫画家

    塾員

2019/11/13

ただいまご紹介にあずかりましたヒサクニヒコです。普通は漫画家という肩書になっていますが、やっていることは、あまりに多くてわけがわからない(笑)。まず、そこから説明しなければいけないでしょう。

今、漫画というと、ほとんどの人がコミック、劇画、アニメーションを思い浮かべると思います。ところが僕がやっているのは主に「一コマ漫画」と呼ばれる、今ではあまり見る機会のない漫画を描いています。今、日本の漫画界は劇画やコミック、アニメーションを描いている人が大半で、一コマ漫画で生活している人は2、30人ぐらいだと思います。つまり、今、皆さんは非常に珍しいものを見ている(笑)。パンダより珍しいものがしゃべっていると思って聞いてください。

空襲の体験

漫画というのは、それぞれの時代に、それぞれの世代が、それぞれの見方で接しています。僕より上の世代だと『のらくろ』とか『冒険ダン吉』など戦前の漫画で育った世代ですが、僕が育った戦後間もない頃になると、やっと子ども向けの漫画がどんどん出てきて、それがいつの間にか読者と一緒に成長し、今のようなコミック文化をつくっていきました。

その間にひと時、「大人向けの漫画」というものが育ち、伸びてきた時代がありました。中心になった一コマ漫画というと、皆さんが最初に思い浮かべるのは、新聞などに載っている政治漫画でしょうか。これは昔は「時事漫画(じじまんが)」と呼ばれていた、新聞などに政治家の似顔絵など、時事的なことを風刺した漫画のことです。他にちょっとお色気のある漫画などもありました。そのように、漫画と一言で言っても、時代に応じて少しずつ思い浮かべるものが違ってきます。ですから、まず僕が生きてきた時代をはっきり示しておきたいと思います。

僕が生まれたのは昭和19年2月です。終戦の時に1歳半ですが、東京の大久保の家が20年の5月の山手の大空襲で被災しました。僕は当然記憶はありませんが、後におふくろからしょっちゅう「おまえを抱いて炎の中を逃げ回った。枕木が燃えながら落ちてくるガード下を逃げた時は本当に怖かった。おまえは毛布にくるまれて、いろいろな人が防火用水をかけてくれたから助かったんだよ」と言われました。空襲後、3日ぐらい、僕の目が開かなくて心配したという話もよくしてくれました。今一歩で死んだかもしれないという体験です。

空襲の時に親父も家にいました。兵隊に行っていたのですが、所属していた部隊の船がどんどん沈められてしまい、目的地であるフィリピンに行けなくなって召集解除となっていたからです。親父はその空襲の時、おふくろとは別々に逃げました。戦争前の時代の価値観というのは今とは全然違います。おふくろは僕を連れて逃げる。親父は親父で別に逃げる。そしてお互いに無事だったら、どこどこで落ち合おうと言っておくのです。そうすれば、僕がおふくろと一緒に焼け死んでしまっても、親父が生き残っていれば久家はまだ続くわけです。逆に親父が死んでしまっても、僕が生き残っていれば久家は続きます。そのような価値観の時代でした。

その時はアメリカにいわば殺されそうになったわけですが、戦後、3歳の時に葉山にいた僕は、今度は疫痢になって死にかけました。おふくろは親父に「クニヒコ、キトク」と電報を打ちました。しかしその時、近所の獣医さんが米軍の放出したペニシリンを持っていて、それを使ったら一発で治ってしまったのです。だから1回は空襲でアメリカに殺されそうになったけれど、その時はアメリカに助けてもらい、一応貸し借りなしということで今日を迎えています(笑)。

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漫画との出会い

僕の世代は本当に何もないところから育っています。物心ついた時、周りは焼け跡だらけでした。進駐軍の放出したサッカリンをお湯で溶かして、「ああ、おいしい」って飲んでいた。そんな育ち方をしたのです。唯一ラジオでこっそり落語を聞いたりするのが楽しみだったような時代の子どもです。テレビがないため、ビジュアルというものが、子ども向けの雑誌に載っている漫画の貧弱なものしかなかったのです。そういうものをむさぼるように見て、好きな絵があると一生懸命写して遊んでいました。

僕は普通部から義塾にお世話になっています。普通部に入ったら図書室には本がいっぱい置いてあり、当たり前ですがどれを読んでもいいのです。それがうれしくてうれしくて図書室に入り浸っていました。そこで、H・G・ウェルズはSF作家だと思っていたら、実は歴史の本を書いていたことなどを知りました。とにかく本に育てられたと思っています。

その頃からどういうわけか、漫画のような、イラストみたいなものを描くのが好きでした。授業中、黒板に先生が書いたものをノートに写しますが、同時にその講義の挿絵みたいなものを描いていました。そうすると、ビジュアルでその光景を何となく覚えているので頭の中に先生の話も入っていくんですね。

本格的に漫画と出会ったのは、高校から大学に入った時です。日吉校舎の今はなくなった梅寿司で友達と一緒に飯を食べていたら、「漫画クラブ部員募集 興味のある人は渋谷の喫茶店『サンパウロ』に来なさい」というポスターが貼ってありました。おもしろそうだから行ってみようかと友達と行ってみました。そうしたら4年生が2、3人いて、久しぶりに新入部員の希望者が来たと喜ばれたわけです。

そこに作品のスクラップみたいなものがあり、それがいわゆる一コマ漫画でした。政治風刺があったり、ユーモアがあったり、お色気があったり、当時の大人向け風の一コマ漫画を持ち寄ってスクラップにしていました。でも、1回集まりがあった後は、4年生は皆、卒論だ何だと言って出てこない。何もしないままほぼ1年が経って4年生はみんな卒業してしまった。僕と友達と2人で、「2年生になるけれど、何にも活動していないし、このまま終わってしまうね」と言っていました。

その当時、早稲田の漫画研究会というものがありました。ここは当時、園山俊二(そのやましゅんじ)とか福地泡介(ふくちほうすけ)、東海林(しょうじ)さだおといった、すでに社会で活躍していた漫画家を輩出していた大クラブで40人ぐらい部員がいたのです。その代表者が慶應を訪ねてきて、「NHKから早慶漫画合戦という企画があるので、ぜひやってくれないか」と言うわけです。しかし、早稲田は40人ほどいるけど、こちらは2人しかいない(笑)。ですが早稲田の人たちは慶應が引き受けてくれないと番組が成り立たないと言う。それはそうですよね、早慶漫画合戦ですから。

5人ずつ選抜の選手が出てスタジオで漫画合戦をやると言うので、僕は普通部からの友達で絵が描けそうなのを何とか3人集めて出場することにしました。ちょうど昭和30年代初めで、当時、NHKは内幸町にありました。「こどもの日」企画だったので子ども向けにバラエティーっぽく見せようと、大きなパネルに「K」と「W」という文字を書いて、それを使って漫画をつくりなさいというたわいもない課題が出たりしました。前田武彦と永六輔が両チームのリーダーでした。ところが、なんとこれに勝ってしまったのです(笑)。そこで慶應も活動を続けようと決心したんですね。

まず何をやろうかと思い、僕が考えたのは、日吉の校舎の廊下で早慶漫画合戦をやることでした。早稲田の漫画研究会の部室は大学の近くにアパートを借りていて、そこに、校内で漫画の展覧会をやるためにパネルに貼った漫画が山ほど押し入れの中に入っていました。そこで早稲田から漫画のパネルを20枚ほど借りて、慶應の5人で同じようにパネルに漫画を描いて、それを日吉の廊下に並べて早慶漫画合戦をやりながら部員募集をしました。すると、卒業する頃には部員が20人から30人ぐらいになったのです。それが今日まで続いているわけですから、うれしい話です。

三田祭にも初めて参加し、教室や廊下の一角をいただいて似顔絵をやったりパネルで漫画を展示したりしました。その時、クラブが活動を始めたのだから顧問の先生もほしいと考え、奥野信太郎先生のところへ行き「先生、お願いします」とお願いしたところ、快く引き受けていただきました。あんまりうれしくて話し込んでいたら、「君たち、僕は1回講演すると30分でいくらもらえるんだよ。人の時間をどう思っているんだ」と言われました。

でも、その時に機関誌のためにいただいた「ユーモアの裏付けはペーソスであり、そしてそれはやがて高い文明批評につながらなければならない」という言葉はいまだに僕の中に残っています。漫画というのは、ただギャグで人をからかったり、揶揄したりするだけではなく、ユーモアの陰にあるペーソスとかいろいろなもの、つまり人間というものを知った上で描かなければいけない。社会的な意味としてはそれが文明批評につながらなければならない。そのようにしみじみと思い、今でもそう思っています。

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社会人としての短い経験

大学を卒業することになった時、漫画を続けたかったけれど、当時の娯楽中心の漫画の世界には自分の漫画がいる場所はないと思いました。

当時、慶應の斯道文庫にいらっしゃった草森紳一さんが漫画の評論を書いていて、その草森さんに呼ばれていろいろお話をする機会がありました。サントリーのPR誌「洋酒天国」で漫画についての座談会みたいなことをやり、その後もお付き合いいただいて外国の漫画もいろいろ紹介していただきました。その時、気付いたことは、一口に漫画といっても「日本のものと外国のものは違う」ということです。

日本でいわゆる一コマ漫画で商売として成り立っている漫画は、新聞などに出ているような政治漫画か、後はちょっとしたお色気のあるようなカットのようなものです。後は、少しコマがあるようなユーモア的な漫画やイラストみたいなものでした。先輩たちの作品にはおもしろいものがたくさんありましたが、それは瞬間風速的なおもしろさです。特に新聞などに出ている時事漫画は半年や1年たつと、何を揶揄して描いたのか、本人すらわからないこともあるくらいでした。その時の話題がわからなくなってしまうと、漫画自体どう評価していいかわからなくなってしまうのです。

ですから当時、おもしろい漫画家がたくさんいたのに、残念ながら作品が残っていません。政治漫画で言えば、例えば清水崑(しみずこん)さんとか近藤日出造(こんどうひでぞう)さんとか、似顔絵が上手くて、政治家の似顔絵だけで漫画が成り立つぐらいおもしろかったのですが、そのような漫画は、まとめられて単行本として見るチャンスがほとんどないままに消耗されていました。

しかし、テレビがない時代は政治家の本性が表情に出るのは似顔漫画だったのです。「こいつはずるいやつだ、こいつは卑怯なやつだ、こいつはちょっと足りないのではないか」というのを全部、絵で表現していた。今、テレビを見ていると、漫画にも描けないようなおもしろい議員の方々がいっぱいいらっしゃいまして、確かに政治漫画というのは今の時代と合わないのだろうと思ってしまいます(笑)。

一方、外国の漫画を見て思ったのは、漫画家個人の、哲学なり考え方なりを漫画という表現形式で自由に表現してもいいのではないかということでした。メッセージのある絵と言っていいかもしれません。自分自身のテーマを漫画で表現できたら、自分としては一生続けてもいい。そういう漫画を描きたいと思ったのです。

ところが、日本の社会にはそういうものを発表できる場があまりない。いわゆる商業主義の新聞や雑誌の中では、そのようなことはありえなかったのです。

そこで、やむなく商事会社に就職しました。とはいえ、ちゃんと仕事をしたいわけでもなく、とりあえず給料をくれそうだというので入ったわけで迷惑な話です。結果として10カ月だけいましたが、とてもおもしろかったです。皆が仕事を教えてくれるし、いろいろな方がいらっしゃる。学生時代とは180度違い、実社会というのはこうやって動いているのだと思いました。

商事会社ですから、モノを売ったり買ったりしています。昭和41年と言えば、ベトナム戦争真っ盛りの時です。日本は高度成長が始まった時で、地金、銅とか真鍮といったものが現場のあちこちで欲しがられていたので、それを集めて売るような部門がありました。そこへ台湾の業者が日本人を通じて大砲の空薬莢を売り込みに来たのです。薬莢は真鍮でできており、105ミリ砲とか150ミリ砲というと1個の薬莢が結構大きい。その真鍮の薬莢の撃ち殻がいくらでも供給できるからそれを買わないかということでした。会社にとって真鍮の古い材料はいくらでも欲しい。それを古河電工とかの電線会社に売るのです。

台湾の業者が言うには、ベトナム戦争の真っ最中だから、ベトナムの将軍がいくらでも供給してくれるというのです。何トン必要だと言えば、その分だけ大砲を撃つという(笑)。決まった量をきちんと納入できるから上手い話でしょうと。ベトナム反戦運動が盛んに行われていた時代に、戦争をお金もうけの手段としてこんなふうに利用できる。そうすると新聞やテレビで見るベトナム戦争とは全く違う姿が見えてきます。「現場ってすごいな」と思いました。この話は結局、中に不発弾が混ざっていて、事故が起きてはまずいということでお断りすることになりましたけれど。

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漫画家になる

現場は確かにおもしろかったのですが、長くいると当事者になってしまいます。そうすると客観的におもしろいだけでは済まなくなって、自分でいろいろなことをやらなければいけなくなってきます。当たり前のことですが、これはちょっと辛い。そこで貯金していた給料を使って一コマ漫画の展覧会をやったり、自費出版で漫画の本をつくったりしました。

当時、文藝春秋が『漫画読本』という雑誌を毎月出していました。これは大人向けの漫画を主体とした娯楽雑誌で、ゆるいストーリー漫画みたいなものと一コマ漫画が掲載されており、外国漫画の紹介もよくやっていました。「文春漫画賞」というものをやっていて、新人の発掘にも結構力を入れていました。

ここならおもしろがってくれるかなと思い、何回か応募しました。その時の審査員のお一人が作家の北杜夫さんでした。そうしたら北杜夫さんから『小説新潮』で童話シリーズの「さびしい王様」というお話を書くので、その挿絵を描いてもらえないだろうか、というお話をいただきました。当時は名もない、ただのかけだしでしたが、就職して10カ月たった頃にそのようなお話をいただき、一コマ漫画をおもしろがってくれるようなところも少しはあったので、だんだん漫画の仕事もするようになっていきました。

当時の会社の初任給は約2万円でしたが、アルバイトで漫画を描いたお金が月々それぐらいになってきました。それで会社を退職し、漫画家として活動を始めることにしたのです。文藝春秋の『漫画読本』は私の漫画をおもしろがってくれて、ときどきページをくれるようになりました。一コマ漫画を1枚だけポンと見せてもそれだけですが、16ページとか8ページを自由に使ってください、と言われると1つのテーマが描けます。『漫画読本』はそれをときどきやらせてくれて、当時はこれが一番うれしかったです。

その時の『漫画読本』の編集長が半藤一利さんでした。今、昭和の語り部として本もいっぱい書いておられます。そのようにして世の中の隙間のようなところに漫画を描かせていただきました。そのうちに人の目に触れるようになってくると、「子ども向け絵本の絵を描いてください」とかいろいろな話が来るようになり、いつの間にか何とか漫画家になってしまったということです。

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様々な仕事

漫画家になっておもしろかった仕事の1つが旅行雑誌からの仕事でした。当時の日本交通公社、今のJTBの出版事業部が『旅』という月刊誌を出していて、どこか旅行に行って、絵と文章を書いてくれないかという依頼が来ました。それを連載でやることになり、全国あちこち行ける、おもしろそうだと思いました。いろいろな現場が見たかったのです。

月刊誌なので、例えば「今、紅葉がきれいです」という特集の号を組む時、当然紅葉がきれいなのは本の出る頃ですから、写真を撮っても今年の写真は来年にしか使えません。だから、その場所の一番いい時ではなく、そのちょっと前にそこへ行き、一番いい時はこうなるんですよ、と説明を受けながら漫画を描くわけです(笑)。サクラは咲いてないけれど、咲いたらきっときれいなんだろうな、と想像しながら描く。いろいろなところへ、一番いい時でない時にばかり行かされました。それはそれでおもしろかったですが。

一番過酷だったのは貨物列車の取材です。子どもの頃から汽車好きだったので、大喜びで新幹線で広島まで行き、貨物列車の機関車に乗りました。広島から汐留までの貨物列車の特急の取材です。貨物列車は子どもの時からのあこがれで乗りたかったんです。機関室に乗り込み、機関士さんが操作しているところを見せてもらうのです。しかし、機関士さんは2時間ごとに交代し、次々元気に乗りこんできますが、こちらは1人で取材しなければなりません。真夜中に山陽本線、東海道本線と走って、明け方、汐留駅の手前で朝日を真っ正面から受けながら東京に入った時にはこちらの目はくっ付き、よれよれでした。

その時、この貨物列車と同じように真夜中も、朝早くからも、人は働いて、動いているのが分かりました。社会ってすごいなと思いました。でも、逆にすごすぎるとも思いました。人間は働いているのではなく、社会という制度を守るために人間が働かされているのではないか。それぐらい働くということが当たり前になっているけれど、これって何だろうとふと考えました。旅に出るといろいろな感性の扉が開くのですね。そのようなことも考えながらいろいろな体験をさせてもらいました。

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ボルネオやイースター島での体験

いろいろな体験といえば、TBSで「新世界紀行」という1時間番組があり、そこである時、ボルネオに行くことになりました。ジャングルの中を、いきなり世界最大の花であるラフレシアを探しに行きましょう、と言われてさまよいました。蒸し暑くてヒルがたくさんいる。ヒルがつかないよう体の隙間をふさぐため手袋をしたり靴下をはいてジャングルの中を歩いていくのです。

とにかく汗だらけでジャングルの中をずっと歩きます。たまにきれいな川があります。川があるとうれしくなって、皆で裸になって飛び込みます。大喜びで飛び込むのはいいけれど、何日もお風呂に入っていないものですから、人の汚れた体の洗った水を浴びたくないので、人より少しでも上流に行こうとする(笑)。なので横一列に並ぶことを提案し、ゴシゴシとお尻を洗ったり頭を洗ったりしました。

夜はジャングルの中の地元の宿泊施設に泊まりました。水上ハウスみたいなところが宿泊所になっていて、階段を上がって部屋に入ると隅のほうにお手洗いがあります。これがコンクリートのたたきがあるだけで、真ん中に穴が開いている。横にゴムホースと蛇口があり、終わったらそれで洗いなさいというウォッシュレットです。

水上ハウスというのは下が養魚場になっていて、そこで魚を飼っています。用を足した後のものは魚の餌になる仕組みです。こんな倹約の仕方もあるのかと思っていると、朝食にその魚が出ている(笑)。食物連鎖という言葉がありますが、もう少し距離をおきたいものです。

また、ロングハウスという、高床式の少数民族の家がありました。上に昇ると、下の囲みの中ではブタを飼っていました。やはりブタのご飯は人間のもので、その意味では無駄がない。今の日本は多くのものを無駄にしてしまっています。食品ロスとよく言われますが、人間の捨てた生ゴミをネズミやカラスが狙うのはまだ食べられるからです。利用できる食べ物をほかの生き物に利用させないで燃やしている。生態系からみれば、これも大変な食品ロスです。そんなこともボルネオのジャングルの中でふと考えました。

おもしろかったのはイースター島です。謎のモアイ像があるところですが、テレビのロケで行くと現地の人が何でも見せてくれるのです。斜面のところに有名なモアイ像が立っている。これは宇宙人ではないかと言われていますが、現場に行ってみてわかったのは、あれは全部、つくっている途中で放棄されたモアイだということです。

イースター島は小さな火山島ですが、噴火口に近いところにある凝灰岩を切り出して、それを何キロも運んで海岸まで持ってくる。そこにもモアイ像がいくつも立っているのです。何か祭り事でもしたのでしょうか。凝灰岩のモアイ像にサンゴの白い石でつくった大きな目玉がついていて、島の内側を見ているのです。

それだけのものをつくったり運んだりする土木技術がありながら、石造りの橋や家などの建築物は一切ありません。つくったのはモアイだけ。何とも不思議な社会です。イースター島はほかの社会から何千キロも隔絶していて、日本の平安時代ぐらいにポリネシアの人たちが移り住んだらしいのです。その後、絶海の孤島の中で、ほかの文明との交流がないまま、自分たちのやっていることを検証するチャンスが全くなく、何百年もモアイをつくり続けてきたのですね。

おもしろいのはモアイ像が時代と共にだんだん大きくなることです。これは人間の性で勉強でも運動でも、あいつよりちょっと速く走りたい、あいつよりちょっと優位になりたい、といった願望の現れでしょうか。そして大きくなってくると運ぶのが大変なので、途中で放棄してしまい、あのようなかたちで斜面に残っているのです。

現地で一番不思議に思ったのは、モアイ像をつくるために、どうしてそんな苦労をしていたのか、それが全くわからなかったことです。誰かに「ほかの人たちはもっと楽しんでいるのに、あなたたちはなぜこんなことをやっているの?」と一言言われただけでも崩壊するのではないかと感じさせる、妙な、いびつな文明のように思いました。

このように謎になった理由は、1つには西洋人による植民地化です。イースター島を「発見」した西洋人は、勝手にフランス領だと決めて、フランス人は島を自分のものとして島の住人を奴隷として売ってしまい、南米のチリ鉱山で働かせたのです。そこで、島のほとんどの人間が亡くなってしまい、100人ぐらい生き残った者がやっと島に帰ってきただけなので、島の文化の伝承は完全に途絶えてしまいました。これで余計に、「なぜモアイをつくっていたのか」が謎になってしまいました。

木板に文字みたいなもので島の歴史や伝承みたいなものを刻むようなかたちで記録されたものはあったのですが、キリスト教の宣教師がそれを全部集めて燃やしてしまいました。この2つの理由で島の伝承は一切なくなってしまいました。今、島に暮らしている人たちはほとんどが植民地化後にポリネシアから来た人たちです。そのようにして失われた文明がたくさんある。人間のやることの恐ろしさを思い知らされました。

大航海時代に行われたことは、今の価値観では考えられないようなことばかりです。アフリカで人をさらってきて南米や、北米で奴隷として働かせる。そのことが現在の人種問題や国境問題とも関係しています。そのようなことをつい何百年前まで普通にやっていたという歴史の上に今の世界はあるわけです。ですから、若い人に世界のいろいろな現場を見て感じてもらいたいと思いますが、今の若い人はあまり海外旅行をしたがらないという話を聞くと、もったいない話だと思います。

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恐竜本を描くきっかけ

私は恐竜の本もよく書いているので、なぜ恐竜の本を書くようになったかということを少しお話しします。

漫画を描く上で必要なのは、見たものをそのまま受け取らず、ちょっと横から見たり、裏から見たり、いろいろな角度から物事を考えて、いろいろな立場の人の見方をなぞることです。そのひねりがなければ漫画としておもしろくも何ともないです。

30代のころ「朝日小学生新聞」という子ども向けの新聞で毎週一コマ漫画を連載していました。当時は、編集者が家まで原稿を取りにきました。いつも待たせて申し訳ないので、その後、雑談などをします。その時、日本の恐竜の現状ってひどいね、という話をしました。

日本ではまだ恐竜は見つかっていなかったので恐竜の専門家はいませんでした。だけど、僕は昔から興味があったので恐竜のことを調べていました。当時、子ども向けの恐竜の本がいくつか出ていましたが、それを開くと、「恐竜は昔、本当にいました、怪獣は中に人が入っています、恐竜と怪獣を区別しましょう」と書かれていました。恐竜についてのまともな本がない時代だったのです。アメリカなどで出た本の情報の寄せ集め、恐竜以外の色々な古生物と一緒に掲載されているだけの本ぐらいしかなかった。これでは地球の先輩に対していくら何でもひどい扱いだと思っていました。

恐竜というのは大昔に暮らしていた普通の動物で、しかも2億年近くという長い間、栄えていました。その動物に対する敬意も尊敬も生態系の概念もない。ただ、ティラノサウルスは肉食で怖いとか、ステゴサウルスは背中にとげがあるけれど本当は弱いとか、不確実な情報が載っているだけでした。地球の歴史や古生物をこんなものだと子どもたちが思ってしまうのは大間違いです。そんなことを世間話のつもりで「朝日小学生新聞」の記者に話したら、「そんなに文句を言うなら自分で書きなさい」と言われ、子ども向けの新聞に恐竜についての連載を書いたんです。内容は発見された化石から、恐竜がどんな動物だったか自分で考えてみようというものでした。

それを見たあかね書房の編集者から依頼があり、子ども向けの恐竜の本をつくることになりました。当時、化石はこれとこれが見つかっていて、見つかった化石から復元するとこうなります、といったことを解説する本はなかったので、当時としては珍しがられ、僕の本としても珍しく売れた本になりました。

さらに、それまで恐竜の本はアメリカなどから入ってくる一方だったのが、アメリカの出版社がこれはおもしろいと翻訳し、アメリカでも出版されました。アメリカの子どもから英語でファンレターが来たこともあります。その後新潮文庫で一般向けに『恐竜博画館』として書き下ろし、これもけっこう売れました。このような経緯で恐竜の本をいくつかつくりました。

当時、日本で出ている恐竜の本は国立科学博物館の先生などが監修していました。でも、その先生は例えばアンモナイトの研究をしているのに、古生物が専門だからと監修者になっているわけです。これではアサリやシジミの研究をしている人に、「キリンの首はなぜ長いのですか」と聞くようなものです。つまり、恐竜を真面目に研究するというジャンルそのものがなかったのです。

そのために僕は自らそういうジャンルをつくったということです。それを見て発奮して、「それならば俺も」という人たちが、それからずいぶん出てきてくれて、今、若い人たちが大勢、恐竜の研究者になってくれました。そのことに僕は一石を投じたと自負しています。

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恐竜の化石発掘現場で

最近は日本でも少しずつ恐竜の化石が見つかるようになってきました。福井県は今、恐竜王国になって立派な博物館もできました。でも、化石が見つかり始めた時、見つけた人たちがそれをどう扱っていいかわからなかったので、あの人は漫画家だけど恐竜の本も書いているから、ちょっとしゃべってもらおうと呼ばれ、恐竜の発掘現場にもずいぶん行きました。外国の発掘現場などにもテレビ番組で行かせてもらいました。

海外の恐竜の発掘現場というと、夢とロマンにあふれた世界のように思うかもしれませんが、なかなか大変です。内モンゴルのゴビ砂漠へ3週間ぐらい発掘で行ったことがありました。省都から車を連ねて砂漠の真ん中に入ってキャンプをつくり、パオ(モンゴルテント)に泊まります。朝は靴の中のサソリを出すところから始まります。そしてヒツジの肉しか食べるものがない。ちょっとしょっぱい井戸の水でゆでたヒツジの肉を食べるだけの毎日でした。

全くの原野で、人が全然いない。そんなところで、内モンゴルの恐竜の専門家の先生と一緒に、以前化石が出た場所へ行って掘ります。そうしたら、そこで白亜紀後期のプロトケラトプスの全身のきれいな化石に出会いました。そのへんに転がっているラクダの骨と同じぐらい新鮮に見える、状態のいい化石でした。

化石を掘っていると、無人の荒野だと思っていた所にいつの間にか人が集まってきます。いよいよ掘り出して、それをトラックに積んで運び出そうという時、いきなり大勢の人たちにトラックが取り囲まれたのです。何だろうと思ったら、村の責任者という人が、「ここにある恐竜の骨は村の財産である、それを勝手に持っていくとは何事だ」と言うのです。「われわれは研究者で、これを博物館に持っていって研究して展示する」と言うと「いや、これは村の財産だ、村もいつか恐竜の博物館を自前でつくるから持っていくな」と主張するのです。結局いくらかのお金を支払って話がつきました。

アメリカの発掘現場でも地権者の権利等のトラブルがよくあります。インディアン居留区でティラノサウルスの化石が見つかり、それを地方の研究所が発掘して持っていったら、「インディアン居留区のものはインディアンに権利がある、地権者の許可を得ていない」と言われました。インディアン居留区の管轄はFBIですから、彼らが銃を持って研究所に押しかけてきてティラノサウルスを押収して持って帰ったのです。その後、その化石はオークションにかけられ何億円かで落札され、今、シカゴの博物館に飾られています。またそのレプリカが、オークションにお金を出したディズニー・ワールドに飾られています。恐竜の化石は、お金になるため、人の欲が絡んだりすることもあります。日本の発掘現場でも研究者同士の足の引っ張り合いとか、子どもたちにはとても言えない世界があります。

でも、北海道で新しい恐竜が発見され、全身が組み立てられた、というとニュースを聞けば、子どもたちはいつか恐竜を発見したいなと思うでしょう。現場というのは人間同士の複雑な利害が絡み合う大変な場ですが、夢を与えてくれる場所でもあるのですす。

ゴビ砂漠で発掘している時にはパオに泊まっていましたが、ヒツジの肉だけではさすがにもたず、途中から、内地からロケの応援で来てくれた人々が持ってきてくれたのがカップヌードル。これがおいしいのです。文明の味がしました。

ここは乾燥地帯でお手洗いという発想は一切ないのです。周りはほとんど無人で、われわれも郷に入れば郷に従うしかないのですが、砂漠で見通しがいいので昼間はとても行けない。しかし、夜は真っ暗でオオカミもいるので、とても表に出られない。だから、夜明け寸前に行くのです。皆、夜明けの寸前になるとテントを中心に、四方八方にシャベルを持って散っていきます。自分の使う分だけ穴を開けて、しゃがんで、「なぜこんなところでこんなことをしているのだろう」と思いながら、夜明け寸前の空を眺めながら用を足します。

その時にびっくりしたのは、砂漠で夜明けですから、まだひんやりしているところへ、いきなり体に熱を感じる瞬間が来るのです。びっくりして飛び上がると、お尻に地平線から顔を出した朝日が当たっていました。やけどするぐらいの感じなのです。その後、自分の出したものを丁寧に埋めて戻ります。後で聞いたら、そのあたりの砂漠の砂が季節になると舞い上がって日本へ黄砂となって届くとのことでした。それで黄砂と言うのかなと思いましたが(笑)、何人かの方にご迷惑をかけたかもしれません。

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サバンナの真実

今の生態系で人間の絡まないものはほとんどないと言えます。ところがアフリカへ行って、360度の地平線の中で動物を見た時に、人間の関与しない自然というのは、こういうかたちで何百年も何千年も何万年も続いてきたんだな、ということが皮膚感覚で伝わってきます。アフリカに25回行って思ったのは、「シマウマの群れというのはいつも元気だ」ということです。なぜ、そんな元気なシマウマばかりいるのだろうか。シマウマだって病気にもなるし、ケガもするし、年も取ります。しかし、人間社会ではお互いに助け合い、みんなでいい社会をつくっていこうとしていますが、シマウマの場合、老人問題や障害者問題は全部ライオンに任せていたのです。年を取ったり、ケガをしたり、運が悪かったり、群れから脱落したものは、あっという間にライオンの餌食になってしまうのです。

逆に言えば、ライオンはいつもそんなシマウマばかり食べていて、元気なシマウマはなかなか食べられない。弱肉強食と言いますが、生態系はそのようなかたちでまわっている。いつ行ってもシマウマの群れは元気で、ライオンはいつもその周りをうろうろしています。そのような生態系の無慈悲を当たり前のように繰り返しながら、一見平和に見える、緑のきれいなサバンナの景色ができているということがしみじみ皮膚感覚で感じられます。

見ていると、肉食動物の狩りというのは成功率が非常に低い。これは当たり前です。食べられるほうは死にたくないから必死になって逃げる。しかし、食べるほうだって、食べ物に逃げられたら、おなかが減っているけど必死に追いかけなければいけません。肉食動物というのはそのような経験を毎日しているわけです。これは大変なことです。

生態系は肉食動物と草食動物のバランスの中でできています。草食動物が増え過ぎて植物を食べ過ぎても環境が大きく変わる。そうすると草食動物も生きられない。それを調整するのは肉食動物です。でも肉食動物が増え過ぎても、今度は草食動物の数が減ってくる。植物、それを食べる草食動物、さらに肉食動物、そのバランスの中で生態系ができているわけです。その中で環境が変わっていくと、少しずつ植物や動物が変化し、そのような形で進化というものがあるのだろうと思います。

そのことがよくわかるのが実は恐竜の化石です。ある種が生まれてある種が滅びると、その種と置き換わるように違う種が出てくる。恐竜時代はいろいろな恐竜が出てきては滅びながら、2億年近く栄えてきました。それが今から6500万年前にすべての種類が大絶滅したのです。不思議なのは、隕石がぶつかって環境が変わったとか、火山の噴火があって地球環境が変わったと言われますが、6500万年前の地層に恐竜が折り重なって死んでいるものはありません。6500万年前を境に恐竜の化石が出なくなるだけです。

その後しばらくはあまり大きな動物がいなくなります。そしてその後、恐竜時代を生き残った哺乳類が新世代になると多様化し、今まで恐竜が占めていた生態系をなぞるように、ゾウになったり、ラクダになったり、カバになったりして大進化をしていきます。

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生物進化の歴史を漫画家の視点で考える

恐竜も哺乳類も、先ほどのモアイ像と同じでだんだん大きな種類を生み出すようになります。以前は恐竜は大型化しすぎて滅びたと言う人もいましたが、それは逆です。繁栄しているから、その環境の中で大きくなることができた。哺乳類もそうです。大型の哺乳類はたくさんいましたが、氷河時代の寒冷化を迎えた時に大きな種はいなくなりました。それと同時に出てきたのが人類です。

進化というのは、目的があって進化したのではなく、偶然の積み重ねで、いろいろな種が出てきたのだと言われますが、人類の誕生を見ると、どうもそうとばかりも言えないような気がしてくるのです。

諸説ありますが、35、6億年ぐらい前に単細胞の生物が出てきて、地球上で生まれた生物がだんだんいろいろな種類を生み出すようになります。すべての動物が地球のありとあらゆる環境の中に進出しようとして生物としての機能を発達させてきました。恐竜の時代は恐竜という1つのシステムを持った動物たちが、森の中にも、高い山にも、砂漠にも、草原にも、海の中にも進出しようとしました。それが大きな環境変化で滅びた後も、今度は哺乳類が自分の体のデザインをどんどん変えて、いろいろな種を生み出し地球のありとあらゆる環境に進出しようとしました。地球で生まれた生物はいつも自分の生きる場所を広げようとしています。でも、いくら広げようとしても地球という器からは絶対に出られません。

ところが人類は、初めて自分の体のデザインを変えないで地球のありとあらゆる環境に進出することができました。空を飛ぶには飛行機を使う。水の中にも潜水艦で入ってしまう。陸上で速く移動するために鉄道や自動車をつくった。人間以外の哺乳類は自分の体の中でエネルギーをつくり、ものを考えたり動いたりしてきましたが、人間は外部にあるエネルギーを利用することを覚えたのです。火を使って、そのエネルギーで熱を得て、食べ物を食べやすくする、土器をつくる、金属を溶かしていろいろなものを加工し、やがて電気を生み出して外部のエネルギーを使って、複雑な社会をつくるようになりました。今ではネットを使って情報ですら全人類で共有しています。

人間にとって自分の体を変えずにあらゆる環境に進出できるということは、自分に都合のいい環境をカプセルにすれば、海の中だろうが、宇宙空間だろうが、生存できるということです。それにロケットを付けて地球から打ち出せば、地球で生まれた生物が初めて地球の表へ出られるわけです。

人類が地球外に出られるということは、ほかの地球の生き物も連れていくことができます。地球で生物が生まれ、試行錯誤しながら地球上のありとあらゆる環境に広がっていきましたが、どうしても地球の外には出られなかった。それが人類の誕生により、初めて、地球で生まれた命をその外に広げていくことができるようになりました。これはすごいことではないでしょうか。もしかしたら生物の進化というのは、はじめから地球以外にも出たい、そのためには人類を生まなければいけないというような方向性があったのかもしれない。漫画家の妄想ですが、そのような見方も恐竜や動物を見ていると感じるのです。

いま動物保護や環境問題などいろいろ言われていますが、環境問題というのは、つまり人類にとって都合のいい環境を守りたいだけです。地球の歴史を見ると、この100年くらいを見るとそんなに変わっていないように思いますが、1000年単位で見るとすごく変わってきています。1万年前は氷河時代で日本にもナウマンゾウなどのゾウがいました。北海道にはマンモスもいました。環境問題というのは、もう少し長いスパンで見ていかないといけないと思います。この100年ぐらいのことを基準にして、それを守るのが環境問題だという狭い視野の科学力では対応しきれないかもしれません。

そこで結論です。まず、若い人には海外に行っていろいろな角度で物事を見て、地球の歴史、生命の歴史という長いスパンでものを見てもらいたいと考えます。そのために、ぜひアフリカのサバンナにも足を運んでもらいたい。サバンナの地平線の中で朝日と夕日を迎えるのは最高です。夜明けの寸前にジープで平原に出ると地平線から太陽が上がっていく。お尻を出していなくても顔が温かくなります(笑)。鳥が一斉に飛び立っていく。朝帰りのハイエナとかライオンが骨をくわえて歩いている。これが自然だったんだ、こういう中で昔、僕たちの祖先も生きていたんだと、実感できます。

15万年から20万年ぐらい前、アフリカで生まれたホモサピエンスが世界中に広がったと言われていますが、その魂の故郷を感じます。いろいろな意味でそこには原点があります。その中で人間が手に入れたもの、これから目指さなければいけないもの、いろいろと考えることができると思います。そんな現場に身を置いて、物事を多角的に見て感じてもらいたいと思います。

今日は、ご清聴有り難うございました。

(本稿は2019年7月1日に行われた第708回三田演説会での講演を元に一部加筆修正したものである。)

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※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。