慶應義塾

反グローバル主義とポピュリズム政治

公開日:2019.08.09

登場者プロフィール

  • 竹森 俊平(たけもり しゅんぺい)

    経済学部 教授

    竹森 俊平(たけもり しゅんぺい)

    経済学部 教授

2019/08/09

昨今、反グローバル主義とポピュリズム政治に関する話題がメディアを騒がせています。本日は、福澤先生の時代から今日までの民主主義の流れを展望し、近年のポピュリズムについて考えてみます。3幕の物語です。

ポピュリズム政治とは?

そもそも、ポピュリズムではない「正常な」政治とは何か。私は「代理政治」だと考えています。つまり、国民が自ら政治を行うのではなく、プリンシパル(依頼人)となって信頼のできるエージェント(代理人)を選び、彼らに政治を行う権限を委任する政治形態です。裏返せば、ポピュリズム政治とは、エージェントに拠らずプリンシパルが自ら政治を行う、あるいはプリンシパルが政治的決断を自ら直接下しているような感覚(幻覚?)を抱く政治です。

近現代のポピュリズム政治には、3つの特徴が見られます。1つ目は、「反エリート主義」。「エージェント抜きで政治をしよう」ということですから、当然、エリートに対する大衆の不信が根底にあります。2つ目は「ナショナリズム」、これはトランプ大統領の「アメリカ・ファースト」やイギリスのブレグジット(Brexit)に端的に示されています。そして3つ目が、「反グローバル主義」です。

本日は、グローバル化、エリート(反エリート)、ナショナリズムという3つのキーワードに着目し、第1次大戦前、両大戦間期、および第2次世界大戦後を通じて、この3つの要素がどのように絡み合い、今日のポピュリズム政治につながってきたかを考えようと思います。

第1次大戦まで──エリートが不眠症になった時代

エリートは眠れない

第1幕は、第1次大戦以前の1860年から1913年頃まで、この時期はまさに「エリートの時代」でした。エリートが政治の主たるプレーヤーであり、彼らが目指したのは既存システムの維持でした。

この時代はエリートが不眠症に悩まされた時代でもあります。例えば伊藤博文やプロイセン=ドイツのビスマルク、ロシアのセルゲイ・ヴィッテなどの伝記には、「不眠症」という言葉が頻繁に出てきます。

伊藤博文を見てみましょう。1881(明治14)年、井上馨が佐々木高行に伊藤の様子を語っています。「神経症差し起こり、毎夜不眠、酒1升も飲みて、漸く寝に就く」と。また1898(明治31)年には、松方正義が「顔色も憔悴し、どうも本気のようじゃない。兎も角、君は大磯にでも行って、健康を養ったら善かろうといった所、伊藤はしきりに法衣を着て、法師になるというていた」と語っています。

一方、ビスマルクの伝記には、彼が友人であったファン・ルーンという軍事大臣に手紙を送るくだりが出てきます。「1869年までビスマルクの憤激と心気症は大きく進行し、彼は辞任するという脅しを再び使い出した。『私の病気はひどく進行しており、胆嚢の病を抱えている。ここ36時間一睡もできず、吐き続けている。私の頭はまるで氷嚢の中に突っ込まれた焼けたオーブンのように感じられる。恐らく、間もなく正気を失うだろう。』」と。

彼らエリートが国家の重責を担い、大変なプレッシャーに晒されていたことが窺えますが、半面、病気は彼らにとって武器にもなりました。つまり伊藤が辞めると、行政が進まなくなるので「言うことを聞くから辞めないでくれ」と周囲が折れ、伊藤の意見が通るという計算がありました。

グローバル化の進展

彼らが晒されていたプレッシャーの背後には、2つの同時に進行する現象がありました。1つはグローバル化、もう1つはナショナリズムです。彼らは19世紀が抱えたこの根本的矛盾の中で、内外のバランスを保ち、体制を維持しなければならない難しい立場にいたのです。

グローバル化の進展については、ジョン・メイナード・ケインズの『The Economic Consequence of the Peace(平和の経済的帰結)』の表現が実に鮮やかです。

「1914年8月に終わったのは、なんと素晴らしい人類の進歩の時代だったことだろうか……。ロンドン市民は、ベッドで紅茶をすすりながら、電話を使って世界中からの商品を、望むままに注文することができ、自宅のドアの前にそれが間もなく送られることを、当然のこととして期待できた。彼はまた同時に、同じ方法により自分の財産を世界のいたる所の天然資源や新企業に投資し、さして苦労せずに、その成果や利益の分け前を得ることが期待できた……(中略)……だが、もっとも重要な点は、彼がこのような状態を、正常で、確実で、恒常的と……(中略)……みなしたという点である。……(中略)……社会や経済の動きの国際化は、ほぼ完璧だったからである」(拙訳、以下同)。

この文章で、ケインズは、それまで当然のように進んでいたグローバル化への流れが、1914年8月、サラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件によって、一種の自然災害によるように突然断絶したと言いたいのだと思います。

しかし、必ずしもそうではないと思います。戦争へと向かう動きは、グローバル化の中でナショナリズムの高揚とともに同時に進んでいった。つまり、ナショナリズム、民主政治への動き、軍国主義という3つの要素が三位一体となって進行していたのです。

ナショナリズムの台頭と戦争

軍事史研究者のギュンター・ローゼンバーグによれば、戦争が、「『君主』に関連した出来事から、『国家』に関連した出来事へと変化」する大きな契機となったのは、フランス革命とナポレオン戦争でした。

かつての啓蒙君主は、「期待効用最大化の原理に大まかに従い、費用対利益の計算のもとに『戦争』もしくは『平和』を決定」し、戦闘も「『傭兵からなる常備軍』に任されていた」ため、戦争に際して「国民の意思が問われたこともなければ、彼らが武器を取ることを期待されたこともなかった」。当然、戦争において「国家間の対立感情」は「少なくとも前面には立たないもの」となり、「人手、補給、財源が限定されていたために、戦闘行為は厳しい制限の下」で行われることとなります。しかし、フランス革命によって、国民が「市民」の地位を得ると、「国民は戦争への積極的参加者」となり、戦争には「国家の総力」が傾注されることになりました(The Origin and Prevention of Major Wars,JIH, 18 (4))。

つまり、啓蒙君主時代の戦争とは一種のビジネス投資で、君主の自己資本がある領土の征服に向けられるので、財源が尽きたり、投資から期待した成果を得られないと判断されたりした時には、さっさと終わるわけです。

ところが、国民が国家の主体的な構成員である市民(citizen)として登場してくると、人々には戦争に参加する権利と義務とが生じるようになります。そして戦争も、国の名誉、存亡、あるいはシステムの存続をかけた闘いに変わっていったのです。18世紀の終わりからは、戦争とナショナリズムは表裏一体になったと言えます。

ドイツのナショナリズム

こうした変化は、ナポレオン軍に占領されたプロイセンにも波及しました。その特質を、クリストファー・クラークは次のように指摘します。

「2つの理由で、ナショナリズムは潜在的に急進的なものだった。第1に、ナショナリストは、自由主義者や、急進主義者と同様、君主ではなく、国民の声を代弁していた。

自由主義者にとって国民とは、教育を受け、税金を支払う市民からなる政治的集団だった。ナショナリストにとって、それは共通の言語、文化を持つことによって定義される『民族性(Ethnicity)』であった。この意味において、リベラリズムとナショナリズムは思想的縁故性を持つ。

実際、ナショナリズムは、その基盤が、富裕で、教育が高い大都市の住民であるリベラリズムと比べ、ある意味でより包括的だった。なぜなら、ナショナリズムは、同一の民族集団のすべての構成員を包摂するからだ。その点で、19世紀中ごろの急進主義の持つ民主主義的性格と近似したところがある。多くのドイツの急進主義者が、仮借のないナショナリストになったのは偶然ではない」(『Iron Kingdom(鉄の王国)』)。

現在、私たちが目撃しているのもナショナリズムを背景にしたポピュリズムです。アメリカを見ても、民主党であれ共和党であれ「国民の声を聞く」という態度は共通しています。ただし、都市を地盤にするのが民主党の左派であり、田舎を代表するのが共和党、ことにトランプ氏の支持層である人々だというわけです。

クラークは、「ドイツの統合」についても興味深い指摘をしています。すなわち、「欧州の多くの地において、国民国家創設のビジョンは政治的地図の根本的な変更を意味したために、ナショナリズムは『破壊的』であった」。ただし、「ハプスブルク帝国にとってナショナリズムが帝国の政治的分解を意味したとしても、ドイツにとってはその意義は『統合的』だった。なぜなら、それは本来1つのものとしてあるべき祖国ドイツの破片を1つにつなぎ合わせる目的を持っていたからだ」と(同前)。

図1を見ると、プロイセンの上からのエリートによる統治と下からのナショナリズムの突き上げとの葛藤がよく分かります。濃いアミがプロイセンです。真ん中が空いた、不自然な形をしています。これはナポレオンを破った後のウィーン会議(1815年)でロシア、オーストリア、プロイセンが中心になって領土分割を行った結果です。ポーランドがオーストリアとロシアに割譲され、プロイセンは代償に石炭や鉄鉱資源が豊富なライン川沿いの地域を獲得します。それによって、プロイセンの工業化が進んだのです。

これは君主が軍隊を操り、投資としての戦争で領土を拡張した時代の名残で、国民の文化、言語、宗教を無視しています。例えば、ライン川流域はカトリックが多く、プロイセンはプロテスタントが多い。そこから民族性に基づいて領土を再編成しようという民の声が起こる。単にプロイセンの西と東の領土をつなぐのではなく、ドイツ全体を統合して、民族性に基づく国家を形成する動きが起こるのです。

フンボルトの教育改革とナショナリズム

当時のプロイセン社会の変化について、クラークは「『臣民(subject)』は、国家の『市民(citizen)』に生まれ変わる必要がある」が、当時の改革者たちが「プロイセンの市民たちを国家の直面する問題へと立ち向かわせる」には「行政的、法的な改革だけでは不十分」であり、「それらの改革を広範な教育プログラム改革と組み合わせることで、より一層のエネルギーを彼らに与えなければならない」ことを理解していたと言います(同前)。

そこで、プロイセン王国の教育システム改革を任されたのが、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトでした。彼は、「自由主義的な教育プログラムを採用することによってプロイセン王国の教育を根底から変革」し、それによって「王国は初めて、欧州の進歩的教育の最新の成果に相応した単一の標準化された公共教育を確立」します。そしてフンボルトは「教育は今後、技術的、職業的なトレーニングという概念とは別個なものになる」、つまり「教育の目的は、靴屋の子供を靴屋にすることではなく、子供たちを市民に変えていくこと」であり、学校は、学生に「自分で考え、自ら学ぶ能力」を吹き込む場とならなければならない。そして、「自ら学ぶのに十分な能力を先達から学ぶことで、成熟した市民が誕生する」と彼は記すのです(同前)。

フンボルトと福澤の教育思想

このフンボルトと同様の考え方が、福澤の教育思想にも見受けられます。つまり「武器を取る国家」という考え方です。『学問のすゝめ』には、この思想が、明確に示されています。

「一身独立して一国独立する事

国と国とは同等なれども、国中の人民に独立の気力なきときは一国独立の権義を伸ぶること能わず……

仮にここに人口100万人の国あらん。このうち1000人は智者にして99万余の者は無智の小民ならん。智者の才徳をもってこの小民を支配し、あるいは子の如くして愛し、あるいは羊の如くして養い、あるいは威し、あるいは撫し、恩威ともに行われてその向こうところを示すことあらば、小民も識らず知らずして上の命に従い、盗賊、人ごろしの沙汰もなく、国内安穏に治まることもあるべけれども、この国の人民、主客の二様に分かれ、主人たる者は1000人の智者にてよきように国を支配し、その余の者は悉皆何も知らざる客分なり。すでに客分とあればもとより心配も少なく、ただ主人にのみよりすがりて身に引き受くることなきゆえ、国を患うることも主人のごとくならざるは必然、実に水くさき有様なり。国内のことなればともかくもなれども、いったん外国と戦争などのことあらばその不都合なること思い見るべし。無智無力の小民等、矛をさかしまにすることもなかるべけれども、われわれは客分のことなるゆえ一命を棄つるは過分なりとて逃げ走る者多かるべし。さすればこの国の人口、名は100万人なれども、国を守るの一段に至てはその人数はなはだ少なく、とても一国の独立は叶い難きなり」(『学問のすゝめ』三篇、『福澤諭吉著作集』より)。

だからこそ、日本の独立を守るには、「自由独立の気風を全国に充満せしめ」なければならないと説くのです。

図1 プロイセン周辺地図(1840年頃)

白色革命家、ビスマルク

こうした考え方自体をポピュリズムと呼ぶのは語弊があるでしょうが、少なくとも当時の支配層の目には、大衆を動員し、秩序の動揺を生む危険要因に映ったのだろうと思います。大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、そして岩倉具視らエリートは、ナショナリズムが国内産業を興す力になりうる半面、対外的な政治や軍事の均衡を脅かしかねない危険な力になりうることも理解していました。そこで、彼ら自身は、微妙なバランスの調整に苦心しました。

岩倉たちが薫陶を受けたビスマルクが、まさにエリートの立場の代表者でした。冷戦期のアメリカ外交に大きな影響を与えたジョージ・ケナンは、ビスマルクを次のように評しています。「ビスマルクはドイツの『ナショナリスト』ではなかった。有能であり、強大な権力をもっていたが、彼は君主──はじめはプロイセンの、後には新生ドイツ帝国の君主──に仕える忠実な臣下だった」(『The Decline of Bismarck’s European Order』)。つまり、彼は典型的なエージェントでした。ただし国民のではなく、君主のエージェントだったのです。

ビスマルクは1871年にドイツ帝国をつくり上げ、その2年後、73年3月16日にベルリンで日本の使節団と面会しますが、そのときの講演が『米欧回覧実記』に記録されています。

「現在、世界各国はみな親睦の念と礼儀を保ちながら交際している。しかし、これは全く建前のことであって、その裏面ではひそかに強弱のせめぎあいがあり、大小各国の相互不信があるのが本音のところである。……(中略)……

かのいわゆる『万国公法(国際法)』は、列国の権利を保全するための原則的取り決めではあるけれども、大国が利益を追及するに際して、自分に利益があれば国際法をきちんと守るものの、もし国際法を守ることが自国にとって不利だとなれば、たちまち軍事力にものを言わせるのであって、国際法を常に守ることなどあり得ない。小国は一生懸命国際法に書かれていることと理念を大切にし、それを無視しないことで自主権を守ろうと努力するが、弱者を翻弄する力任せの政略に逢っては、ほとんど自分の立場を守れないことは、よくあることである。わが国もそのような状態だったので私は憤慨して、いつかは国力を強化し、どんな国とも対等の立場で外交を行おうと考え、愛国心を奮い起こして行動すること数十年、とうとう近年に至ってようやくその望みを達した」(『現代語訳 特命全権大使 米欧回覧実記』慶應義塾大学出版会)。

そして、この話を記録した久米邦武は「両国の使臣たちが一堂に会している中でのこのスピーチは、たいへん意義深く、ビスマルクの弁舌のすぐれていること、政略にたけていることがよく認識できた。よくよく味わうべき言葉だったと言うべきであろう」と結んでいます。

実はその当時、ドイツ国内ではほとんどの人がビスマルクの考えを理解できませんでした。彼は革命的な考えを持つけれども絶対王権主義者であり、同時に絶対王権主義者から見ればあまりに革命的な思想の持主であり、何を考えているか分からなかった。それなのに、伊藤や大久保たち、特に木戸は素直に感心するわけです。

なぜ、彼らはビスマルクを理解できたか。この謎を解くには、もう1人の重要なアメリカの外交家、ヘンリー・キッシンジャーがビスマルクを評した「The White Revolutionary(白色革命家)」という論文がヒントになります。

「白色革命家」とは、反体制派(赤色)ではなく、「王党派の革命家」という意味です。明治維新は王政復古であり、過去の体制に戻りながら国内を統一するという革命を行ったわけですから、ビスマルクのような白色革命家の立場は非常に分かりやすかったと思います。

制度は天才に敗れる?

ちなみに、この論文が書かれたのは1968年ですが、その中に次のようなくだりがあります。試しに、いったんビスマルクのことを忘れ、ドナルド・トランプ氏を思い浮かべながら読んでみてください。

「革命的であるとは、どういうことか? この質問への解答が『曖昧』でなかったなら、ごくわずかな者しか革命家として成功しないだろう。革命家が何を目的にしているかを理解できるのは、後世のものだけである。……(中略)……『エスタブリッシュメント』が、そこで根本的な挑戦が起こっていることを理解できないのである。……(中略)……その結果、革命家の『革命性』についても、疑問の余地があることにされる。たとえ革命家が、社会に対する根本的な挑戦を明言していても、それは駆け引きのために、誇張した発言をしているに過ぎないと見做されるのだ。……(中略)……安定が長期にわたり続いたことの結果として、『変革』とは既存の枠組みの調整の形を取るものに過ぎず、既存の枠組みそのものを破壊するものではないという『幻想』が生まれる。

……(中略)……いかに堅固な保守的基盤も、限界を超えた『挑戦』に遭遇するなら政治、社会を管理する枠組みを喪失する。なぜなら、制度とは平均的な行動を基準にして設計されているからだ。……(中略)……制度が、『天才』や『悪魔的な才能』に対応できることは稀である。もし、社会の対内的、対外的な地位を維持するために、その社会がどの世代においても『偉大な人物』を必要とするようなら、そのような社会は崩壊するのが確実だ。なぜなら、『偉大な人物』が出現するということ、いやそれ以上に『偉大な人物』の存在が認識されるということは、幸運に依存するからである」。

ビスマルクは破壊一方のトランプ氏と違い、ドイツ統一という大事業を成し遂げた政治家ですが、この表現はトランプ革命の理解にも役立つと思います。三権分立が制度的に確立しているアメリカ社会にあって、トランプ大統領は行政府の長にすぎません。しかし、彼は司法と立法に「挑戦」し、制度が社会を管理する能力を破壊しようとしているわけです。例えばメキシコとの国境の壁建設についても、本来なら連邦議会で国家予算を決めるところを、彼は非常事態宣言を発令することで議会の予算決定権を迂回する。

制度は、平均的な負荷が課されているうちは大丈夫ですが、想定外の強力な負荷が課されれば壊れてしまいます。

「オズの魔法使い」とポピュリズム運動

さて、「ポピュリズム」を論ずるにあたり、歴史上で明示的に「ポピュリズム(人民主義)」と呼ばれた政治運動についても一言お話しておきましょう。

アメリカにウィリアム・ジェニングス・ブライアンという政治家がいました。彼は1896年、1900年、そして1908年と3回の大統領選挙に出馬し、すべてに敗北します。1896年の選挙では、彼は当時の金本位制に挑戦し、銀を本位通貨に加えるよう訴えました。その頃、アメリカはデフレに陥っていたので、金と銀の両方を準備として紙幣を発行することができれば、マネーサプライが増えてインフレが起こり、農民の苦労が緩和されると考えたのです。

ブライアンはまた、不朽の名作『オズの魔法使い』のモデルとなったことでも知られます。そもそも「オズ」とは金の目方であるオンス(表記は「OZ」)のことで、「オズの魔法使い」は金本位制を支持する金融街(ウォール街)を指しています。それに挑戦する少女ドロシーはミッドウエストに位置するカンザス生まれ。当時も今もポピュリズム運動の支持基盤で、ウォール街には反発する風土です。

ドロシーは、知恵がない案山子(農民)、心を持たないブリキ男(工業労働者)、臆病なライオンという仲間を連れ、黄色いレンガの道(yellow brick road)をたどってエメラルドシティに向かいます。黄色は金本位制の象徴、エメラルドシティはワシントン、そして臆病なライオンがブライアン自身です。もっとも、実際のブライアンは有名な雄弁家で、その演説によって一夜にして大統領候補になった人です。

ブライアンとトランプ大統領の類似?

ブライアンとトランプ氏を比較すると、類似点があります。1つ目は「反エリート主義」です。当時、アメリカでエリートと言えば、ウォール街との関係が連想されました。

2つ目は「一国主義」です。つまり、アメリカは自国のことに専念し、世界規模の問題には介入するべきでないという立場です。彼は第1次世界大戦期にウッドロウ・ウィルソン政権の国務長官に就任します。そのとき、アメリカ人が大勢乗っていたイギリスの客船ルシタニア号がドイツの潜水艦に攻撃されて沈没した事件が起こり、ウィルソン政権は対独参戦に傾くわけです。ブライアンはこれに反対して国務長官を辞任してしまいます。

ただし、同じ一国主義と言っても、ブライアンの小アメリカ主義に対し、トランプ氏は大アメリカ主義に立つと言えるでしょう。トランプ氏が国際的な義務を拒否することでアメリカの威信が高まると考えるのに対し、ブライアンはアメリカがそもそも国際的な問題に関わらないことを主張します。もしブライアンの主張が通り、アメリカが第1次世界大戦に参加しなかったら、どうなっていたでしょうか。

もう1つの違いは、ブライアンは非常に道徳家で、禁酒主義者でもありました。『オズの魔法使い』に戻ると、ドロシーは愛犬トト(TOTO)を連れているのですが、この名前は禁酒主義者(Teetotaler)から来ています。つまり、『オズの魔法使い』はミッドウエストの国民の伝統的価値観を掲げたブライアンが、大統領になることを目指してワシントンに向かうという比喩になっているのです。

では、なぜトランプ氏は選挙に勝ち、ブライアンは負けたのか。ブライアンの敗因については、経済学者のミルトン・フリードマンが『Money Mischief(貨幣の悪戯)』という著書で分析しています。大統領選で、ウォール街に支持された共和党側は、「銀を導入すると金の価値が下がり、金融不安が起こるかもしれない」と主張し、富裕な国民の不安をあおる巧妙な戦術を取ったのです。

最近のフランス大統領選挙でも、ポピュリストのルペン国民戦線党首が「ユーロ離脱」を政策に掲げたものの、通貨をフランに戻せば資産価値が激減するという恐怖を仏国民が抱くことになり、支持が弱まりました。対立候補マッキンリーにはこういう有効な恐怖戦術があった。ところがブライアンは銀本位制導入という1つの政策だけに固執し、有権者の支持を引き留められずに敗北したのです。

苦悩するエリート、再び

この時代を締めくくる前に、もう一度、伊藤博文に戻ります。1881年のいわゆる「明治14年の政変」で大隈重信らが政界を追放され、伊藤が政権を掌握します。そして翌1882年、国会開設に向け憲法制定の準備を進めるため、再びドイツを訪れるのです。

伊藤はまず、プロイセンでビスマルクに面会しますが、ビスマルクは、「プロイセン憲法の最良の点は、すでに存在することだ」と。つまり、存在しないなら一から考えなければいけないが、すでに存在するのだから、それを使えばよいという考え方なので、憲法を一から作ろうとしている伊藤にとっては参考になりませんでした。

次いで1883年、伊藤はヴィルヘルム皇帝(1世)とも面会します。徹底した王権主義者であるヴィルヘルム皇帝は「日本にして若し已む得ずして国会を開くに至るとも、国費を徴収するに国会の承認を必要とすとの規定を設けざるを可とす、かかる規定はことに内乱を醸す源となるべき」(『伊藤博文傳』春畝公追頌會編)、つまり、議会をつくっても予算権だけは渡すなと言うのです。これでは、国会開設の意味がありません。伊藤は君主の側から政治をする点でビスマルクと立場が同じなのですが、ビスマルクやヴィルヘルム1世と比べれば民意の取り入れに前向きでした。

伊藤は落胆しますが、ウィーンで法学者のローレンツ・フォン・シュタインに会い、彼の助言を受けて大日本帝国憲法の構想を練り上げたのでした。

不眠を重ねながらビスマルクも伊藤も平和が維持できる仕組みを模索する。ガラス細工のような仕組みが堅持されていた間は戦争が起こらず、経済が発展しました。しかし、いつも天才を必要とするような仕組みは永続しません。

かつてビスマルクは日本の使節に「私の国は、初めは弱かった」と言いました。実際彼は弱い時代を知っており、父親の世代の時にはナポレオンに攻め込まれた経験があります。ですから、ドイツ統一を果たすと、それ以上の対外拡張政策は回避しようと努めました。しかし、プロイセンが大国になると、人々の考え方も変わり、大国同士の戦争をやむを得ない歴史の流れととらえるようになります。

とくにビスマルクが絶対回避しようとした露仏の軍事同盟を、彼の後継者はやすやす認める。オーストリアと軍事協力する以上、バルカン半島でそれと対立するロシアと組むのは義に反するという考えからです。その結果、ロシアとオーストリアの衝突から発生した第1次世界大戦に、ドイツは参戦せざるを得なくなる。第1次大戦によってドイツ、オーストリア、ロシアという3つの帝国が崩壊し、君主のエージェントだったエリートたちも、彼らが維持しようとした世界秩序とともに消滅するわけです。

戦争とグローバル化

この時代の偉大なエリートたちは国際均衡に留意し、戦争を避けようとしたのですが、彼らは君主のエージェントで、民の声を代表していない弱みがあった。反対に国家間の総力戦につながりかねないナショナリズム思想の推進者には、民の声に立っている強みがあった。結局は、何もかもナショナリズムに巻き込まれ、戦争につながってしまうのです。グローバル化さえ戦争の道具になりました。

船や鉄道といった交通手段の発展、国際金融、国際貿易はグローバル化の象徴です。それが戦争に動員された。日露戦争では、日本でもロシアでもない、第三国である満州や朝鮮半島に200万人以上の兵隊が集結しました。輸送手段の発達がなければ、とうてい無理です。とくにロシアが100万を超える兵力を送り込めたのは、シベリア鉄道のためです。

巨大戦争を可能にした要因としてもう1つ、金融市場のグローバル化が挙げられます。シベリア鉄道も、フランスの資本市場から資金を調達できたからこそ敷設できました。

日本も、よく知られるように、高橋是清がロンドンやニューヨークで国債の発行に成功したからこそ、戦費を調達できたのです。冒頭で、ケインズの「ロンドン市民はベッドの中で紅茶をすすり」ながら、「自分の財産を世界のいたる所」に投資したという言葉を紹介しましたが、その投資の一部はロシアと戦争をするために発行した日本国債に向かっていたのです。

両大戦期──エリートたちの友愛と挫折

金本位制と大恐慌

第2幕に入りましょう。第1次大戦後、各国のエリートは国境を越えた友情関係を築き、国際秩序を回復しようとしました。しかし、彼らの努力は1930年代末の大恐慌によって挫折します。

その理由と経緯を簡単に説明します。第1世界大戦後、分断された世界経済をもう一度統合するには、各国が共通の基盤(例えば「金」)に基づいた通貨制度を構築する必要がある、というのがエリートたちの考えでした。加えて、戦費調達のために国債や紙幣を乱発したために各国の財政規律も失われていたので、その規律回復のためにも「金本位制」、すなわち自国の通貨がいつでも約束された量の金と交換できるシステム(金兌換制度)が必要だと、彼らは考えました。

もちろん、通貨と金をいつでも交換できるようにするわけですから、金本位制の採用には金準備が必要です。デビッド・ヒュームのような古典的な経済理論に従えば、金準備を蓄えるために、各国が輸出超過(貿易黒字)によって金を獲得し、十分な金を蓄積したうえで金兌換をスタートせよということになります。その際に輸入超過(貿易赤字)を計上し、他国の金準備の蓄積を助けるのは、金産出国です。

ところが、第1次世界大戦直後のドイツは賠償金の支払い義務を負い、労働人口も減り、領土も失っているため、輸出能力がありません。戦勝国のフランスやイギリスも疲弊しているうえ、米国への債務を抱えています。主要国が輸出超過を継続する能力がないのに、どうやって金本位制を再開できるか。実は、そこに「金を借りる」という裏道があったのです。つまり、戦争で傷つかなかったアメリカのウォール街から資金を借りる。借りた金を準備にして、金本位制を再スタートさせるのです。

例えばドイツは、ベルサイユ条約の決めた賠償金が払えず、財政が傾き、紙幣増発に訴えたため、1923年にハイパーインフレーションを経験しますが、それをきっかけにウォール街が資金を供給して、それでベルサイユ条約の賠償金を支払うという国際協定が立ち上がります。ドーズ案です。ウォール街はドイツの賠償金を立て替えるだけではなく、復興のための長期資金まで供給します。そのため、ドイツのみならず欧州各国の経済が回復していきます。

一方、アメリカ国内でも、金利条件のよい投資先が生まれたため投資ブームが起こります。例えば、ドイツの学校の校舎を建て直したい。「いいですね。ついでにプールもつくってはどうですか」という具合に、ウォール街は積極的に資金を貸し付けていったのです。

この流れの中で金本位制は、「国際投資のリスクが軽減した」という心理を、投資家に植え付けることに貢献しました。実際にはこの心理は錯覚だったのですが。最近でいうなら、対外債務不履行の常習犯だったギリシャが、欧州共通通貨「ユーロ」を採用した途端、投資が安全になったと投資家が錯覚し、金利が大幅に下がったのと同じ展開です。

しかるに、実際に金兌換をする国が世界に広まっていくためには、主要中央銀行間の協力が鍵になりました。各国の中央銀行は、金の兌換に応じられるよう準備していますが、銀行の取り付けや、貿易赤字が長期に続くことなどによって、金準備が危険水域に低下することがあります。それに備えて、各中央銀行は相互に金あるいはドルを貸し合えるよう取決めを交わします。これが金本位制に基づいた各国の、ひいては国際的な経済秩序の維持に必要だったのです。そして、こうした協力関係は、各国の金融エリートたちによる個人的な信頼関係と友情に支えられていました。

当時の代表的な金融エリートは、アメリカのニューヨーク連邦銀行総裁ベンジャミン・ストロング、ドイツのライヒスバンク総裁で大蔵大臣も務めたヒャルマール・シャハト、イギリスはイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマン、そしてフランス中央銀行総裁エミール・モローなどです。この4人の友情関係が世界の金融秩序の背景にありました。

しかし、1928年にストロングが死去します。前出のフリードマンは、ストロングの死こそが大恐慌の最大の原因だと指摘します。と言うのも、彼の死の前後で、アメリカの金融政策の方針ががらりと変わるからです。1927年にイギリスの貿易収支が悪化して、金が流出します。ストロングはその時、アメリカの金利を下げ、より高い金利を求めて資本がロンドンへ向かうようにし、イギリスを助けました。ところが、金利の低下は、アメリカ国内で投資ブームを喚起し、バブルを生みます。1920年代のアメリカはT型フォードに代表されるモータリゼーションが進み、その恩恵でフロリダでは不動産ブームが起きていました。さらにNBCなど3大ラジオ局が創設されるなど、投資案件は豊富で、これに低金利が加わると、バブルとなるわけです。

ストロングが金融政策を指導していた時、バブルの進行を苦い思いで見つめていた連銀首脳は、ストロングの死後、金利を引き上げる。この結果、国内のバブルも潰れますが、海外に流れていた金もアメリカに逆流し、世界経済がひっくり返ったのです。皆さんがカーペットの上に立っていて、私が1、2の3でカーペットを引っ張ったら、皆さん一斉に転びます。それと同じことが当時起こったのです。

第2次世界大戦へ

ところで、ストロングは1920年に来日しており、日本銀行の総裁などを務めた井上準之助とも親交を結びます。日本は第1次世界大戦中に輸出を大きく伸ばし、外貨を保有していたため、ストロングは日本も国際金融の仲間に引き込もうと考えたのです。

井上準之助は日本の金本位制復帰を目指した人ですが、彼は金本位制を採用すればアメリカの資本が日本に流入すると期待していました。海外からの投資を梃にして、経済ブームを起こそうと考えたのです。ところが1929年、ウォール街で株価の大暴落が起こったので、米連銀は金利を引き下げます。井上は、アメリカの金利がこれだけ下がれば、日本の金が流出することはないだろうと読んで、金本位制を強行する。1930年のことです。ところがその時には国際資本市場の状況は一変していました。投資家が危険回避的になったのです。彼らはちょっとのサインで外国投資を引き上げる。1931年になると、最初にオーストリア、次にドイツへと危機が広がりました。この年には日本からも金が急激に流出し、大恐慌に飲み込まれました。

話が少し逸れますが、日本が戦争に突入しない道はなかったのでしょうか。もしも井上の目算通り、アメリカの資本を日本の国内産業へと呼び込むことで、高度経済成長がその時点で生まれていたら、あるいは戦争に向かう歴史の流れが変わっていたのではないかと思います。

以上の説明は、マクロ経済学的な要因、つまりアメリカから他の国々に向けての対外投資が、初めは急膨張し、次に大幅に縮小し、ついには逆流したことによって世界的な大恐慌が起こったとするものです。しかし大恐慌については、もう1つの良く取り上げられる考え方があります。主要国間の高関税を武器にした「貿易戦争」が大恐慌を招いたというのです。現在の世界も、アメリカのトランプ大統領のお蔭で関税戦争に巻き込まれていますから、検討に値します。

結論から言うと、大恐慌による失業率の高騰、デフレ、経済スランプなどを招いたのは、やはりマクロ的要因で、貿易戦争の影響はあまりありません。他方で、貿易戦争はただでさえ分断されている世界を、ますます分断させ、ブロックごとに分離される状態を生み出した。ただ、そのブロックは、ポンド圏、マルク圏など、基軸通貨ごとにまとまっていたので、やはり国際通貨としての「金」がお役御免になった影響を反映しています。大恐慌の結果、資本逃避で金がなくなったので、どの国も金本位制を放棄せざるを得なかったのです。

図2は、世界経済の分断を表します。具体的には、地理的距離の大きさが二国間貿易に与える影響を示しています。一般に二国間の距離が大きいほど、二国間貿易は減少するという結果が過去の実証研究で得られています。図では、距離の影響を受けるほど折れ線が上に行き、影響が少ないほど下に向かいます。この図は、金本位制が壊れた後に生じた、いわゆるブロック経済の影響を明示しています。

まず、右肩下がりの太線はコモンウェルス、つまりイギリス連邦のポンド圏です。ここでは距離の影響が全く働いていないのが分かります。金やドルを持っていれば、近くの国と貿易するのが一番便利なのですが、大恐慌の結果、イギリスは金もドルも持てなくなり、自国通貨ポンドで決済できる相手としか貿易できなくなった。その結果、世界的に広がるイギリス連邦間での貿易に移行したのです。一方、その上の淡い折れ線は、ドイツのマルク圏です。ドイツはイギリスのように世界的に展開する経済圏を確保できなかった。それゆえドイツはマルク圏内で自給体制を作れず、それを作ろうと思えば軍事侵略が必要になります。

日本は、ドイツよりも遅れて、二・二六事件の起こった1936年から円ゾーンをつくろうとしますが、不十分で円小切手で買えるものは少なく、とくに石油が買えませんでした。それで第2次大戦がはじまり、欧州の混乱を利用し、石油のある蘭領インドネシアに軍事進出を考えます。

以上が第2幕です。うまく行けばストロングたち国際エリートは、ナショナリズムを抑えられたかもしれませんでした。なぜなら第1次大戦の破壊を経験し、特に欧州では厭戦気分が強かったからです。金本位制の下で世界景気が順調に回復していたら、エリートはグローバル化の軌道に世界経済を載せられたかもしれない。だが、いつの時代も借金の上に成り立つ経済は不安定です。米国発金融危機が世界を襲い、グローバル経済が土台から崩れると、ふたたびナショナリズムが台頭し、世界は2度目の大戦争に突入することになります。

図2  二国間の距離がブロック経済圏内貿易に与える影響(1920~1939年)                注: 二国間の距離が各年の貿易額の変化に与える影響を回帰分析した(1920年を100とする)。      出所: David S. Jacks and Dennis Novy (2019) “Trade Blocs and Trade Wars during the Interwar Period,” CAGE Working paper 424.

現代──ツイッター時代のナショナリズム

エージェント型政治の復活と動揺

そして、第3幕「ツイッター時代のナショナリズム」に入ります。

まず、第2次世界大戦後、1970年代までの世界には、エリート主導のエージェント型政治形態が復活し、黄金期を迎えます。いわゆるIMF/GATT(後にWTO)体制が生まれ、これらの国際的機関を通じて、アメリカは米国型資本主義を世界基準にしようとします。

またヨーロッパでも、EC(後にEU)が誕生し、国家主権を抑制し、やがて通貨を統一し、金融・財政政策を統合する方向に向かいます。ヨーロッパでは、ナショナリズムが2度の戦争を招いたことが強く認識されていて、ナショナリズムを抑えるために政治・経済の重要な部分を国際的な組織に委ねようとしたわけです。

世界に害悪を及ぼす「魔神」として封じ込められていたナショナリズムが封印を解かれ、表出してきたのが今日です。それでツイッター時代のポピュリズムは、ブラッセル(EU本部)が気に食わない、WTOが気に食わない、エリートは信用できないと不満をまき散らす。

根本にある問題は、国際エリートの統治下で、これまでは国や地方の権限が制約される見返りに、経済的な恩恵が得られてきたのに、リーマンショック後は経済成果に陰りが見え、しかも地域格差が拡大していることです。それでアメリカのラストベルトや、南欧の不満が拡大するのです。

トランプ大統領はなぜ強いのか?

2019年4月17日付『Financial Times』でジャーナリストのジャナン・ガネシュが興味深い指摘をしています。彼は、トランプ大統領は地域的な不平等、つまりラストベルトの問題を解決する具体策を出すのではなく、問題を嘆くのみだが、それが彼の人気の理由だというのです。またブレグジットにしても、例えばイギリスのウェールズの地域格差は深刻ですが、EUからの離脱でさらに悪化するでしょう。ここでも解決策は提示されていないのです。

もう1つ、経済学者のポール・クルーグマンの指摘も紹介しておきましょう(『The New York Times』2019年3月18日)。彼は、そもそもアメリカのポピュリズムはラストベルトに代表される地方の衰退、地域格差から起こっているが、その衰退を解決する方法は誰も知らない、と言います。例えば農業地帯の経済的衰退もある経済の力が働いていて、それを逆転させる方策は見つかっていないのです。

そう考えると、トランプ氏は強い地盤をつかんでいることになります。逆説的ですが、もしも地方の衰退が反転すれば、彼の政治基盤は消滅するのですが、地方が沈み続けるかぎり、彼らの悩みに同情することで支持を得られます。彼らの悩みがいつまでも消えないから、彼らに同情する姿勢を見せるトランプ氏が勝ち続けるというわけです。

しかし、そうならないかもしれない。政治には「飽きる」という現象があるからです。ドイツのメルケル首相は2017年の総選挙でCDU(ドイツキリスト教民主同盟)が伸び悩んだことを受け、次の党首選への出馬を断念しました。支持低下の理由として、移民政策への不満が挙げられていますが、一つの理由は飽きられたことだと思います。

皆さん、「デフォルト・オプション」という言葉をご存じでしょうか。例えばパソコンを買って、最初に設定するとき、「これ、どうしますか」という質問に答えていくわけですが、何もしないと「では、このようにやります」という設定があり、それがデフォルト・オプションです。

任期の長い人はデフォルト・オプションになっていると思われます。つまり、わざわざ投票所に行かなくても、「どうせ彼だ」と思うと、支持者は投票に行かない。一方、彼らに不満を持つ人々は投票に行きます。すると、デフォルト・オプションがそうでなくなるわけです。

トランプ氏の場合、デフォルト・オプションとは思いませんが、前回は嘆き節に共感して投票した人々が、再び投票に行くでしょうか。一度で十分と思っているかもしれません。トランプ氏の支持基盤は強固ではないのです。

(本稿は、2019年5月15日に行われた福澤先生ウェーランド経済書講述記念講演会での講演をもとに一部を加筆修正したものである。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。