慶應義塾

マージナルな人間としての福澤諭吉

公開日:2019.03.19

登場者プロフィール

  • 井奥 成彦(いおく しげひこ)

    文学部 教授研究所・センター 福澤研究センター所長

    井奥 成彦(いおく しげひこ)

    文学部 教授研究所・センター 福澤研究センター所長

2019/03/19

創造性構築の原点

ただ今ご紹介にあずかりました井奥成彦です。本日はこのような晴れやかな場で講演をさせていただく機会をいただきまして、恐縮するとともに大変光栄に存じます。並み居る福澤先生にお詳しい方々を前にお話しするのは恥ずかしい限りですが、与えられた役割ですので任務を遂行させていただきます。

さて、私の本日の講演のタイトルは「マージナルな人間としての福澤諭吉」です。この中の「マージナル」という言葉が耳慣れないとお感じになった方もいらっしゃるかもしれません。辞書を引きますと「周辺の」「境界の」などと書いてあります。つまり、福澤先生を境界線上の人間、あるいは境界線をまたいだ人間という観点から見てみようというのが、この講演の趣旨です。

福澤先生は、さまざまな意味においてマージナルな方でした。西暦1835年に生まれ、1901年没。ちょうど、その真ん中の1868年に明治維新があり、近世と近代を33年ずつ生き、また下級武士という武士身分の周縁部に生まれ、それゆえに庶民の活動やものの考え方に通じていた。学問的には漢学から始めて、緒方塾で蘭学、その後、江戸へ出て英学を学び、洋の東西の学問に通じ、学問分野としても漢学という文系の学問から入り、緒方塾で医学という理系の学問を学んでいる。その後、幕末に3度も欧米を訪れて、西洋の社会・文化を広く見ています。

つまり、近世と近代、士と庶の両方にまたがっている。ここで「庶」と申しますのは庶民のことです。かつては日本の近世の身分制度は「士農工商」と言われていましたが、最近では農工商の間の区別はあまりなかったとされているので、「士と庶」という分け方が一般的かと思います。そして、文系と理系、東洋と西洋の境界に立ち、あるいは境界線をまたいで多様な価値観やものの考え方を学び、視野の広さを身に付け、そこから創造的思考を構築し、多事争論の重要性を唱えることになるわけです。

もっとも、こうした見方というのは、福澤研究者にとっては何も珍しいものではないでしょう。例えば、丸山眞男氏の下で学んだ石田雄氏は、その著書『日本近代思想史における法と政治』の第1章「文化接触と創造的思考の展開:福澤諭吉の場合」で、マックス・ウェーバーの古代ユダヤ教の中の一節をこのように引用しています。

「あらゆる合理的文化のそれぞれの中心地点においては、いまだかつて完全に新しい宗教思想の成立した試しはほとんどなかった。……合理的予言や諸々の宗教改革的新形成がまず最初にはらまれたのは……、文化地帯の周辺地域においてである」。

つまり、革新は中心からではなく周辺から生じるというわけです。石田氏はこうした着想から武士身分の周辺に位置し、東洋文化の周辺に位置して、西洋文化との接触を果たし、そこから創造的思考を構築した福澤諭吉を、日本の思想史において革新を起こした人物として捉えようとしたのです。

近世と近代をつなぐ

この石田氏の著書が刊行されたのが1976年で、ちょうど私が大学に入学した年ですが、私の研究史の把握が正確かどうか分かりませんが、1970年代後半から80年代前半にかけては、戦後、日本の歴史学を席巻したマルクス史学に飽き足らず、新しい方法が求められつつあった時代だったように思います。

私が大学2年生のときに履修したある授業では、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を輪読しました。また、網野善彦氏や私の恩師である中井信彦先生によって、社会史が提唱されたのもこの頃でした。さらに経済史、経営史、商業史の分野において、いわゆる「マージナル・マン仮説」が出されたのもこの頃かと思います。つまり、作道洋太郎氏らの著書『江戸期商人の革新的行動』に見られるように、商業やその経営において革新を起こしたのは、三井高利や住友政友のような武士身分と商人身分の境界にあって、両方の世界を知り、視野の広い人物であったとする考え方です。後に日本近世史の分野で吉田伸之氏らによって提唱された、「身分的周縁」論も似たような発想から出たものではないかと思われます。

私の専門は「日本の近世‐近代の経済史、経営史」です。通常「近世・近代」と言う場合は、近世と近代の間に中黒を打つのですが、私は自分で論文や何か文章を書くときには、近世と近代の間をハイフンでつなぐことにしています。その含意というのは、近世と近代をまさにつないで考えるということにあります。中黒を打つと近世と近代の間が途切れてしまうようなイメージになるように感じますので、あまり普通の近世史、近代史研究者はしませんが、私は好んで近世と近代をハイフンでつないでいるのです。これは福澤先生に倣ってというわけではありませんで、私が学部、大学院時代に教えを受けた速水融先生に倣って、近世、近代を連続する時代として、つまり近世、近代をまたいで考えることにしているわけです。

その中でも私の研究は近世から近代、そして現代へと連続して発展してきた、在来産業史、とりわけ酒造業、醤油醸造業などの醸造業を対象としているのですが、そこでも福澤先生のマージナル性に関わることがありますので、その一端をご紹介させていただきたいと思います。

福澤諭吉と酒造業の関わり

福澤先生の生きておられた時代の酒造業は、日本の工業部門の中で最も主要な産業でありました。これには意外な印象を持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、例えば明治7年の府県物産表に見られる工業製品——もっとも工業製品と言いましても、この時代はほとんどすべて手工業という時代ではありますが、——その中で酒類の生産額が1位で、2位の綿織物、3位の醤油、4位の生糸などを大きく引き離していました。

また、これは余計なことかもしれませんが、福澤先生ご自身、お酒が非常にお好きな方でいらっしゃいました。晩年になりますとご健康を気遣って、やめられたりということがありましたそうですが、若い頃は非常によく飲まれたようです。

そして、門弟にも多くの酒造業者の子弟がいました。醤油醸造業もそうですが、酒造業もある程度の規模でやろうとしますと、当時は非常にお金が掛かった産業ですので、どうしても裕福な家が経営するということになります。そうした家の子弟が、慶應義塾にたくさん入学していたということです。ですから、福澤先生の周りには酒造業者の家の子供や、あるいは醤油醸造業者のお宅の子供などがたくさんいました。

その福澤先生が明治10年代、著書である『時事小言』や、自ら創刊した新聞『時事新報』において再三、酒造業について言及しておられます。明治14(1881)年刊の『時事小言』の中では、尾州(尾張国)知多郡の酒造業の事例を挙げ、天保9(1838)年の盛田久左衛門の酒造改革について述べておられます。

尾州知多郡と書いていますが、明治14年当時は既に愛知県という県は存在していたわけですが、まだ一般的には「尾州」と旧国名で呼ぶようなことが一般的に行われていました。明治30年代あたりでも郵便が「尾張国○○」という形で届くこともありまして、まだまだ一般的には旧国名で呼ぶ慣習が通用していたような時代です。

ちなみに、盛田久左衛門さんのお宅はソニーの盛田昭夫さんのご実家にあたる家です。ご実家は酒造業や醤油醸造業、味噌醸造業を経営しておられ、今なお健在でありますけれども、盛田昭夫さんはこのご実家を出られてソニーを創業されたわけです。

盛田久左衛門さんの天保9年に行った酒造改革というのは、具体的にはどういうことだったかと言いますと、米を精白して、さらに造り桶と貯蔵桶を区別するということです。酒を仕込む桶と貯蔵する桶の区別を、どうもそれ以前ははっきりとしていなかったようで、両者を区別することによって、酒を腐敗しにくくした。それとともに仕込む水の量を増やして、洗練された味にするという改革を天保年間に盛田久左衛門さんが行ったということです。つまり、それまでは水の量も少なかったので、わりあいドロッとした濃いお酒だったようですが、水の量を増やすことによって、すっきりとした味にしたということです。

こういった改革によって、酒の品質が「伊丹などの醸造を除けば天下一流になった」と『時事小言』には書かれていますが、仮に全国的に、この改革前の方法で酒造を行っていたら酒造税収入が十分に得られず、今頃は国家財政にとって3,400万円の損耗になっていただろうと福澤先生は述べておられます。これは当時の国の歳入からすれば、約半分ということになるそうです。

このように福澤先生は、盛田久左衛門さんの酒造改革を非常に高く評価しておられるのですが、しかし、同時にこのように述べているのです。

「この方式の改革をもって国益を為したるの事実は誠に明白なれども、その改革を施すの際に一句の論理を用いず、一条の原則を知らず……学問の主義を活用して……化学の原則に照らし、あたかも酒造のことをその規則中に束縛して始めて満足すべき」である。「物理実学の目的はこの原則を知って、これを殖産の道に活用するにある。……一国の貧富はこの殖産のことを学問視すると否とにあって、存するものと知るべきなり」。

このように、酒造の改革は結果がよければよいというものではない。科学的に説明できるものでなければならないと、理論と実際の融合、酒造という日本的なものと西洋の科学の融合を訴えておられます。福澤先生も日本の酒造業、特に盛田さんの改革を評価するのですけれど、一面ではこういう厳しい指導といっていいような言葉も投げ掛けていらっしゃる。

酒造税問題と酒造家の保護

次に明治16(1883)年の7月9日、11日の2日にわたって『時事新報』に掲載された社説「酒造家ノ状況」において、福澤先生は国財を増加させるのに、「酒税に依頼する」のが最も容易であるし、酒屋一統は決して酒税の増加するのを好まないが、政府が酒屋の事情に通暁して、実地に適応した方法で税を取れば、たとえ税額が増加してもよしとするだろうと述べます。その方法とは、具体的には酒の造り桶の寸法の測り方を改善することが1つ。それから、「滓」と呼ばれる桶の中の不純物を除去後に検査を行うことがもう1つであると述べています。

当時の酒造税というのは醸造石高という、いわば外形に対して課されていました。つまり、酒造業者の収益に対して課税をするのではなく、どれだけ造ったかということに対して税が掛かるシステムでした。その醸造石高を役人が計測するのに、桶の寸法を大きめに測ったり、あるいは酒造中に発生する不純物である滓が除去されておらず実際のお酒になる量よりも嵩の多い状態のときに仕込み石高を計測するといったことが行われ、酒造業者の反発を買っていました。そこで、このような従来の役人の醸造石高の計測の仕方の問題点を改善しなければいけないと言うのです。

それからもう1つ、3番目として、酒税を納める時期を延期することも述べています。具体的には現行の4月、7月、9月の3回を、それぞれ6月、8月、10月にすることを主張しています。4月というのは原料代の支払いがある時期に重なります。そして、お酒というのは、ご存じのように冬の間に造られているので、春まで造っていたお酒がまだ十分に売れていない4月という時期は資金が逼迫するから、その時期を避けて、製品が売れて資金が充実している6月に納期を延期すべきだと述べています。こういった主張の背景として、酒造税が当時、倍、倍と増えていき、前年には酒造税増税に反対する酒屋会議が開かれていたという事情がありました。

さらに、それに続く同年、明治16年の7月12日、13日付の『時事新報』では「酒造業を保護すべし」という社説を掲載しています。これは贋造、摸製、密売、脱税といった悪い行為をする業者から、善良なる酒造業者を保護せよというもので「かつて贋造摸製を企てたる者なきは……法律の保護を受けたるに由る」と述べます。つまり、近世には、例えば伊丹の酒造は領主であった近衛家が制度によってそれを保護していましたが、維新以後、領主制の廃止とともにそういった制度もなくなり、酒造業はいわば無法状態になってしまっていたわけです。

だから、今、欧米諸国で行われている専売免許商標条例に倣って、適当な法律を設けて、善良な酒造業者を保護すべきである。酒造業は今日最もよい税源で、地租を除けば日本政府の歳入の最大部分を占め、あるいは、これを凌駕する見込みのあるほどのものだから、その営業の保護は1日も猶予できないとしています。なお、商標条例は翌明治17(1884)年に制定されました。また、明治33(1900)年には、酒造税は地租を抜いて国税の第1位になっています。

尾州知多郡の醸造業

そのほか、明治18(1885)年12月15日付の『時事新報』の「尾州知多郡の酒造改良」というタイトルの社説において、明治16年春頃、知多郡の酒造家百数十名が工部省に請願し、工部大技長宇都宮三郎を招聘したとあります。そうして「化学器械学の主義」を習ったということです。「元来醸造は純然たる学問の事」で、「科学上より研究せざる可らずとの道理は宇都宮君の懇諭する所」であると、この社説の中で述べておられます。そして、明治16年秋、伊藤孫左衛門らが清酒研究所を設立したことを紹介しています。この伊藤孫左衛門という人は、亀崎という知多半島の付け根あたりにいた、当時は非常に有力であった酒造業者です。

このように何度か尾州知多郡の話が出てくるのですが、このあたりの酒造業者の子弟も慶應義塾に数多く入っていますし、そもそも尾州の知多郡、今の知多半島のあたりというのは非常に醸造業の盛んな地域でした。海洋性で、わりあいに温暖湿潤な気候で、醸造業にとって大切である微生物の作用がほどよく起こるのに適していたということもあり、酒造業、あるいは醤油醸造業、味噌醸造業、お酢の製造が広く行われていました。今、知多の半田には日本最大のお酢のメーカーで、日本のお酢の半分以上を造っているミツカンという会社があります。近年では、だいぶ醸造業者の件数も減ってきてはいるのですが、そのように非常に醸造業が盛んであった地域でした。

吉田初三郎という戦前の日本であちこちの鳥瞰図を描いて回った人がいます。吉田初三郎が描いたこの知多半島あたりの絵を見ますと、本当に数多くの酒の工場、醤油の工場、味噌の工場が描かれています。それぐらい知多半島というところは醸造業が盛んで、慶應義塾にもそこから子弟が来ていたこともあり、福澤先生は尾州の話をよく取り上げておられます。

以上のように、福澤先生は近世以来発展を続ける日本の在来産業の雄、酒造業について、一方では公正な税の取り方を論じ、他方では商標条例制定によって、酒造業者を保護することを主張し、また科学的根拠に基づく醸造を主張しています。すなわち、経験に基づいて営まれていた日本の産業と西洋の科学の理論の融合、日本の伝統と西洋科学の融合を唱えておられるのです。

濱口梧陵と福澤

次に、これはちょっと面白い、あるいは微笑ましいとも言えるエピソードが絡むのですが、醤油醸造家、濱口梧陵(ごりょう)と福澤先生とのやりとりを紹介してみたいと思います。

濱口梧陵は福澤先生の10歳年上で、ヤマサ醤油の7代目店主でした。現在の銚子のヤマサ醤油の会長で、塾員でもある濱口道雄さんは濱口梧陵の玄孫にあたられます。梧陵が店主であった時代に、江戸の市場のみならず、当時、在(地方)の経済発展を認識し、在の市場を開拓するということを梧陵さんはやられました。濱口梧陵は同店として過去最高の醸造高を記録するなど、経営者としても優れていましたが、安政元(1854)年の本籍地和歌山での大地震(安政南海地震)と津波の際に、稲むらに火を付けて回って人々を高台へ誘導し、多くの人命を救った話は、小泉八雲によってアレンジされ、さらに中井常蔵によって「稲むらの火」というタイトルが付けられ、戦前の国定教科書に載り、非常に有名になりました。

今また、その話が小学校の教科書に復活しているとのことですが、私が驚きましたのは、ドイツの大学へ集中講義に参りましたときに、向こうの学生から、ドイツの中学校の教科書にその話が載っているという話を聞いたことです。海外でもこの話が知られていると耳にしたことはありましたが、せいぜいアジアの範囲だろうと思っていたのが、ドイツでも知られているとなると、今やこの話は世界的に有名になっているのかもしれません。

しかし、多くの人命を救ったことはそれ自体すごいことですが、この人の偉いところはそれにとどまりません。助けられた人たちが、その後の生活がままならない中、津波で家を失った人に家を建てて与え、農具を失った農民に農具を調達して与えるとともに、以後の津波に備えて、莫大な私費を投じて大堤防(広村堤防)を造るという一大事業を行いました。その際には多くの村人を雇い、賃金も支払ったとのことです。このときはヤマサ醤油店のお金も相当つぎ込んで、店の者たちは「経営が立ち行かなくなるのではないか」と気を揉んだという話が残っているほどです。この堤防は今なお健在で、約90年後に起きた昭和南海大地震の際には見事に津波を防いでいます。

梧陵さんはそんな人ですから、地元の人たちから生き神様と崇められていました。本人は「そんなことは言わないでくれ」と頑に拒絶をしていたのですが、地元の人たちから非常に慕われました。明治18(1885)年、彼がアメリカで客死したときは福澤先生は大変嘆き、当時アメリカにいた息子の一太郎に「濱口氏は若い頃から世のため、人のために尽くした。私は悲しくてしょうがない」という内容の手紙を送っています。そして、勝海舟らとともに横浜港まで亡き骸を迎えに行っています。

濱口梧陵は幕末に、地元和歌山広村に耐久社という学校をつくりました。これは今、町立の耐久中学校と県立の耐久高等学校になっています。そして、維新後、こちらは今はありませんが、共立学舎という英学校をつくって福澤先生を教師として招こうとしたのですが、福澤先生はそれを断ります。先生は「和歌山で英学校はまだ早い。まずは日本語で教育を」とおっしゃるのですが、本質的には地方の人材育成に貢献しようとする濱口と、中央で人を育てようとする福澤先生の方向性の違いではないか、と私は思っております。

実際、濱口は明治維新後、大久保利通に見込まれ、政府に駅逓頭という、今で言えば総務大臣に相当する役職として政府に入り、切手の制度など、近代的な郵便制度を打ち立てますが、3週間で辞めてしまって和歌山に戻り、以後、地元の教育や政治に勤しむことになったわけです。

「品物にておまけ」する

この頃にはヤマサの店主も次の代に引き継いでいたのですが、濱口梧陵は英学校を開校するにあたって、そこで用いる英語のテキストを福澤先生に注文しました。そうすると、福澤先生から次のような返事が返ってまいりました。「30両のご注文、120部のところ、たくさん御用仰せ付けられ候につき、精々相働き、品物にて3割引き156部納め奉り候。……36部は品物にておまけに差し上げ申し候。則ち定価3割引きなり」ということです。

なかなかウィットの利いたといいますか、面白い手紙だと思います。つまり、濱口梧陵は福澤先生に30円でテキスト120冊を注文したのですけれども、先生は156冊も送った。実質3割引きですと言っている。こういったウィットに富んだ対応も、武士身分の周縁に位置する家の中で、子供の頃から大阪の商人の話などを聞いて育った福澤家のマージナル性から出たものではないかと思います。

そういうお金にまつわる話では、後の時代ですが、阪急電鉄や宝塚歌劇を創立した小林一三と福澤先生の非常に面白いエピソードが1つあります。小林一三という人は、ろくに学校にも来ないで毎日演劇を楽しんでいるような学生生活を送っていました。彼は文芸部に所属して文芸雑誌を発行したりしていたのですが、あるとき、発行するのにお金が足りなくなったので、福澤先生のところに借りに行こうと訪れました。先生はそれに対して「人からお金を借りて発行するようなことをしてはいかん。お前に貸すお金はない」とけんもほろろに断りました。すごすごと小林一三が帰ろうとすると「ちょっと待て。お前に貸す金はないが、やる金はある」と言って、その当時のお金で確か10円だったかと思うのですが、与えたということです。小林一三は感激して、涙が止まらなかったということですが、そのような、なかなか格好いいと言えば格好いいエピソードもあります。

そのほか、福澤先生は明治2年、書林組合に加入する必要が生じたときに「福澤屋諭吉」という屋号で登録しています。これは先生のマージナル性を象徴するような名前と言えるのではないでしょうか。

幕末・明治の外国人の日本観

もちろん、自分が属する文化の境界に立って異文化に接触した人の誰もが創造的思考にまで到達できたというわけではありません。冒頭で紹介した石田氏は、その著書の中で「福澤諭吉以外に漱石や荷風のような敏感な文学者が、この後、異文化に接した経験を日本文化と西洋の文化とその双方を鋭く見る眼に生かしているほかは、多くの例を見出すことができない」と述べておられます。異文化に接触して、その機会を発展的に生かせたということは、やはり福澤先生がいかに優れていたかということでしょう。

石田氏は一方、次のようなことも述べておられます。「強国の側から、あるいはより発展した国の側から一般により遅れていると言われる国との間に、創造的な文化接触を成功的に行った例が果たしてあるか」。私はこの問い掛けに対し、福澤先生の生きていた時代に日本文化に接した外国人の何人かを思い浮かべてみました。

例えば、マシュー・カルブレイス・ペリー。あの日本を開国させたペリーは1853年、54年に来日しましたが、ただ強圧的に日本を開国させただけではありませんでした。彼は鋭い目で日本の社会を見ていたのです。その著書『ペルリ提督日本遠征記』(弘文荘)の中で次のように述べています。

「日本の手工業者は世界におけるいかなる手工業者にも劣らず練達であって、人民の発明力をもっと自由に発達させるならば、日本人は最も成功している工業国民にいつまでも劣ってはいないことだろう。他の国民の物質的進歩の成果を学ぶ彼らの好奇心、それらを自らの使用に充てる敏速さによって、これら人民を他国民との交通から孤立せしめている政府の排外政策の程度が少ないならば、彼らは間もなく最も恵まれたる国々の水準にまで達するだろう。日本人が一度文明世界の過去および現在の技能を所有したならば、強力な競争者として将来の機械工業の成功を目指す競争に加わるだろう」。

まだ機械の「き」の字もないような当時の日本でしたが、果たしてペリーの見立てどおり、この後、日本は急速な工業化を果たし、やがて経済大国と言われるまでに成長したのです。私もペリーという人物は、非常に強圧的に日本を開国させた人とずっと思っていましたが、こういったことを言っていることを知ってから、すっかりペリーファンになりました。ただ、ペリー自身はこのとき病気を患っており、この機会を何らかの形で次の段階へ生かすまでには至らず、初来日から5年後の1858年に63歳で亡くなってしまいました。ちょうど日米修好通商条約が結ばれる直前でした。

次に幕末、開国後の日本を2度にわたって訪れたイギリスの植物学者、ロバート・フォーチュンを見てみたいと思います。彼は世界各地で植物を採集して回って、他の地へ移植するなどしましたが、ことに中国からインドへお茶をもたらし、インドをお茶の一大生産地にするという世界史上に残る大変な仕事をした人と言ってもいいかと思います。フォーチュンは日本からも多くの植物を本国に持ち帰って移植していますが、その代表的なものとして柑橘類のキンカンがあります。その彼が『幕末日本探訪記—江戸と北京』(講談社学術文庫)の中で、日本について次のように語っています。

「私は世界のどこへ行っても、こんなに大規模に売り物の植物を栽培しているのを見たことがない。……盆栽を作る技術は……植物生理学の最も普遍的な原則の1つが基礎になっている。……もしも、花を愛する国民性が人間の文化生活の高さを証明するとすれば、日本の低い層の人々はイギリスの同じ階級の人たちに比べると、ずっと優って見える。……日本の人々が自国の進歩に有用なことが分かると、外国の方式を敏速に取り入れる」。

盆栽に関しては、もちろん当時の日本人は科学的な理論に基づいてというわけではなく、経験に基づいてやっていて、それが結果的に理に適っていたということでしょうけれど、日本人はそういう西洋の理論を知らずに盆栽を進歩させていたわけで、フォーチュンのような、西洋の理論を知っている人から見ると、結果的には理論に合ったことをやっているように見えたのでしょう。

そういった意味では、福澤先生が日本の醸造業に感じていたことと同様のことを感じていたと言えるかと思います。福澤先生の場合は経験はあるのに理論が伴っていないことを不満に思い、厳しく評価していますが、フォーチュンはそれを好意的に評価し、「理屈は伴っていないけれど、やっていることはすごいではないか」という目で見ていたという感じがします。そして、日本人が外国の有益な方式を迅速に取り入れるというところは、ペリーと同様のことを感じていたと言えましょう。

マージナル性が育んだ視野の広さ

そのほか、幕末から近代初期にかけて日本を訪れた多くの外国人が日本での記録を残していますが、大森貝塚を発見したことで知られるアメリカの動物学者、エドワード・シルベスター・モースも忘れることができません。

彼は、著書の中では日本のことを高く評価しているのですが、特に日本の職人の技術とか手工業技術の高さ、それから日本の文化のレベルの高さ、あるいは衛生面での清潔さといったことを非常に高く評価しています。彼が日本文化をいかに高く評価していたかについては、彼の詳細な記録『日本その日その日』(平凡社東洋文庫、講談社学術文庫)という本から知ることができます。彼は日本の学会に様々な恩恵をもたらし、国から叙勲までされています。彼が収集した日本の民具などのコレクションは、アメリカ・ボストン近くのピーボディ・エセックス博物館で見ることができます。

また、日本の文化に接触することで、西洋の側に何らかの創造や革新が起きた例として、日本の開国と万国博覧会への出品を契機として、19世紀ヨーロッパで一大潮流となったジャポニスムを挙げないわけにはいきません。このことも非常に重要なことではありますが、時間の関係でそれを挙げるにとどめさせていただきます。

以上、私の今日のお話は決して珍しいお話ではないと思いますが、とかく1つの考え方に偏り、多様な観点を認めようとしなくなっているように思える昨今の世の中の状況を見るにつけ、福澤先生のマージナル性から来る視野の広さや、多様な価値観を認め、多事総論を通じて新しいものの考え方を構築することの重要性を再認識することは意義あることではないかと思い、お話しさせていただきました。また、福澤先生のお誕生日に当たって、いくつかのエピソードを通じてそのお人柄を偲ぶこともできたのではないかと思います。

ご清聴有り難うございました。

(本稿は、2019年1月10日に行われた第184回福澤先生誕生記念会での記念講演をもとに構成したものです。なお引用文献について、読みやすさを考慮し、一部表記を改めたところもあります。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。