慶應義塾

ベトナム、中東、そして日本における私の旅路──未来の若者たちへのメッセージ

公開日:2018.10.08

登場者プロフィール

  • リチャード・L・アーミテージ

    元アメリカ国務副長官

    リチャード・L・アーミテージ

    元アメリカ国務副長官

2018/10/08

慶應義塾大学の学生の皆さん、教員の皆さん、その他すべての皆さんに感謝したいと思います。この大学が素晴らしいと思うのは、創設者が1858年の日本に近代と社会発展をもたらそうとしただけではなく、それ以上のことを学生たちがここで学んでいるということです。

皆さんは歴史、憲法学、政府について、さらにたくさんのことについて学ぶことができます。ほとんどあらゆる分野において学んでいる学生がいます。首相や高官を輩出し、宇宙飛行士やオリンピック選手になる卒業生もいます。しかし、皆さんが学生としてここで学ぶのは、皆さんがそれをできるからではなく、皆さんがすべきだからです。お金で買えるものでもありません。どうやってこれから生きていくのか、あなた自身を上回る何者かになるにはどうしたら良いか、あなた自身を超える何かの一部になるためにはどうしたら良いか、とても現実的な方法で教えてもらっているのです。

海軍兵学校へ進学

今日の演題は、私自身についてですが、私が選んだものではありません。自分で選んだのだとしたら、それはかなりの思い上がりでしょう。これは大学が選んだ演題です。日米関係や外交政策について話せと言われれば、何時間でも話すことができます。皆さんが眠ってしまったとしても話し続けているでしょう。しかし、自分について話すのは難しい。自分についての逸話や物語を話して、キャリアを始めたばかりの皆さんに教訓を引き出さなくてはならないということは、もうそろそろ身を引こうと考えている自分からしてみると特に難しいのです。

私は、ボストンの警察官の息子です。ボストンで生まれましたが、父はすぐにジョージア州のディケーターという町に移りました。皆さんはそんな町のことは聞いたこともないでしょう。今はそれほどでもありませんが、当時は田舎町でした。ほとんど理想的と言って良い子供時代を過ごしました。6月から9月まで靴を履きませんでした。南部なので必要なかったのです。とても暖かく、素晴らしいところで、男の子がやるスポーツはすべてやりました。友達全員がそうでした。私たちの親のほとんどは、第2次世界大戦に従軍して帰国し、自分自身の生活を良くしようと忙しくしていました。

16歳だったある日のことです。弟と妹がいるのですが、私たち3人を父が呼び、こう言いました。「これは我が家のルールだ。お前たち3人は大学に行く」。それは至極当然のことに聞こえました。父が次の言葉を言うまでは。「そしてお前たち3人は、自分でそうする方法を見つけなくちゃいけない」。

我が家には生活するためのお金はありましたが、3人の子供たちを大学に行かせるだけの余分なお金はなかったのです。私は結局、米海軍兵学校へアメリカン・フットボールをしに行くことになりました。弟は、軍の奨学金で大学に行き、妹は、信じられないかもしれませんが、バトン・トワリングの奨学金で大学に行きました。私たち3人は、父が言ったことを成し遂げました。自分たちで大学に行く方法を見つけたのです。

海軍については何も知りませんでした。ジョージア州のディケーターに住んでいたのです。そこより海から遠いところなんてありません。海については何も知らなかったのです。私は本来、テネシー大学チャタヌーガ校と呼ばれる大学に行く計画でした。なぜならアメリカン・フットボールを4年間やるための奨学金をもらえたからです。

アメリカの大学にはスポーツをやるための奨学金はたくさんの種類があります。4年間もらえるものや、2年間やってさらに2年間延長されるものもあります。しかし、それはとてもリスクを伴うものなのです。最初の2年間でケガをしたり、成功できなかったりすれば退学になってしまいます。でも、海軍に生まれながらの愛着のようなものを持たず、鼻に海水を入れて育ったわけでもない私が、どうやって海軍兵学校に行くことになったのでしょう? それもまた幸運としか言いようがありません。

父が海軍兵学校があるアナポリスに出張で行き、お酒を飲もうとバーに入りました。そこで隣にいた人に「どんなお仕事をされているのですか?」と聞いたのです。するとその人は「海軍兵学校で1年生のアメフトのコーチとバスケットボールのコーチをしています」と答えました。父は、「そうなんですか。私の息子はアメフトとバスケットボールと野球をやっていて、砲丸投げもやります。フットボールチームのキャプテンなんです」「そうなんですか。上手なんでしょうね? 高校のコーチに息子さんのフットボールをしているフィルムを送るように言ってください」となったのです。コーチがそれを送ったところ、指名を受ける気があるか、という海軍兵学校からの手紙を受け取ることになりました。そんなことはまったく考えてもいませんでした。父は海軍兵学校のコーチとのやりとりを私に伝えていなかったのです。

どうしてこれがそんなに重要なのでしょう。それは、テネシー大学チャタヌーガ校と違って海軍兵学校は、いったん入学したらアメフトを続ける必要がなかったからです。そこは海軍ですから、トラブルなく過ごせば4年間いることができ、卒業したときには仕事があり、在学中に給料ももらえたのです。この状況に何の問題があるでしょう。海軍について何も知りませんでしたが、チャンスが来たらそれを摑むことに気づくだけのセンスはありました。しかし、「ある日、目が覚めたら海軍に対する深い愛を持っていた」と言ったら嘘をついていることになるでしょうね。

戦争の最中にベトナムへ

私の世代の若い男たちは皆、軍に入ることになっていました。召集令というものがあり、大学に行くのであれば、入学前か卒業後に入隊することになっていました。私は卒業後に軍に行くつもりでいたのですが、海軍兵学校に入ることで計画を少し前倒しすることになりました。

そして、若い女性と婚約することにもなりました。先日(まだ1カ月も経っていませんが)、結婚50周年を祝った女性です。私たちは深く愛し合うようになり、私は自分のキャリアをどうしようかと熟考しました。

当初は海兵隊に行くことを考えていました。私の卒業記念アルバムを見ると、私がとても良い海兵隊士官になると他の人たちが確信していたことが分かります。しかし、当時はベトナム戦争の最中でした。私は密かに考え、婚約者と話しました。海兵隊に行ったら6カ月の訓練があり、その後、ベトナムで13カ月を過ごすことになり、結婚するまでに計19カ月かかる。海軍に行ってベトナム沖で船に乗れば、4カ月の訓練の後、7カ月をベトナム沖で過ごし、計11カ月で済むことになる。早く結婚できるから、こちらにしようということになりました。

こうしてベトナム沖で駆逐艦に乗ることになりました。私の駆逐艦は第2次世界大戦に参戦したものでした。6つの砲が付いており、トラブルに巻き込まれた陸軍と海兵隊を支援するためにベトナム沖でとても必要とされていました。私は船上で座り、見張りをし、船を操舵し、船を指導し、命令しました。時々トラブルに巻き込まれて北ベトナムと戦っている海兵隊や陸軍から無線が入り、私たちに援護射撃を求めてきました。

コーヒーカップを持って座り、命令を出し、援護射撃を行うと、海兵隊が良かったとか悪かったとか伝えてきて、もう一度射撃するという具合でした。私は少し変な感覚に陥りました。というのも、他のアメリカ人たちが戦いのまっただ中にいるのに、私は違うと感じたのです。それが私にとって教訓になりました。どういうことかというと、政治的にせよ、軍事的にせよ、社会的にせよ、文化的にせよ、できるだけいつも現実の動きの近くにいたい、ということです。

ベトナム戦争について無知だったというわけではありません。しかし、アメリカの海兵隊と陸軍の人たちがベトナムにいるということは、筋が通っているものとは思えませんでした。その気になればライフルを持ち歩けるはずの若いベトナム人がたくさんいたのです。アメリカ人が代わりに戦うのではなく、ベトナムとベトナム人を支援しにいくのだ、という考えを持つようになりました。それであればアドバイザーだろうと航空支援だろうと、ヘリコプター支援だろうと射撃支援だろうと、大いに納得のいくものでした。そこで妻に手紙を出し、ベトナム戦争にどうしても志願したいと伝え、実際にベトナムの田舎でベトナム部隊へのアドバイザーとなるべく志願しました。そして部隊配置から戻ってくると、私たちは結婚しました。先ほど言及した50年の結婚に加えて、上手くいったことが何かと言えば、2人の実子と6人の養子を得たことです。

しかし、私が前に述べたことを覚えていますか? 結婚前の19カ月を軍で過ごさなくてはいけないのを懸念していたという話です。私は結局のところ、ベトナムで6年間を過ごすことになりました。その間に結婚し、いわゆる保養休暇で時々戻りました。実に人生の皮肉というべきでしょう、19カ月の軍務を避けるために6年過ごすことになってしまったのです。

メコン・デルタでの勤務

最初のベトナム勤務はメコン・デルタで、そこは暑く、泥だらけの水田でした。私は新人としてベトナム人の基地に行き、奇襲チームのアドバイザーになろうとしていました。つまり、ベトナム人たちと奇襲に行き、そこで問題があればヘリコプターを要請し、航空支援を求め、射撃をしてもらうということです。彼らは私を楽しませることに決め、「この辺になじむために一回りしてみるかい」と聞いてきました。私は「もちろん。良い考えだ。有益だね」と答えました。ライフルを担ぎ、手榴弾を身につけ、水筒を持ち、ベトナム人たちと列を組んで出かけました。

私たちは小さな村を通り抜け、水田にさしかかりました。水田を歩くのは難儀でした。私は106キログラムもありましたから。ベトナム人は水田を歩くとき、ちょっとだけ沈みます。私が歩くと太ももの途中まで沈むのです。そして、水田で足を太ももの途中ぐらいまで入れると、沈むのは簡単ですが、抜け出すのは本当に大変です。

私に付いていたベトナム人に、「なぜあぜ道を歩かないんだ?」と聞きました。彼らは「いや、ダメだよ。罠が仕掛けてあるかもしれない」と言う。私は「分かった」と答えました。理にかなっていたので、丸1日こうした水田を歩き続けました。彼らは陽気に楽しげに歩いていましたが、私は惨めなものでした。人生であれほど懸命に動こうとしたことはありません。そのようなわけで、基地に戻るとライフルを置き、手榴弾と水筒を置き、居室の裏にある川にすぐに入って、水の中で座りこみました。クタクタに疲れていました。しかし、罠が仕掛けてあるという話はまったくのジョークでした。私をからかっていたのです。彼らは新入りがジョークが分かるかどうか試したかったのです。つまり、数日後に彼らが言うには、ユーモアのセンスを持たなくてはいけないということでした。

ベトナムで得た教訓

しかし、現実にはユーモアなど微塵もありませんでした。ベトナムでの2回目の勤務のときのことです。『地獄の黙示録』という映画を見たことがありますか? その中のパトロール・ボートを覚えていますか? 140人のベトナム人と20隻のそういったボートで構成されている部隊があり、私は上級アドバイザーでした。タイニン省の川でカンボジアとの国境地帯に数カ月滞在し、そこでベトナム人の船乗りたちが、装備を適切に使っているか、訓練を増やす必要があるかを確かめるため、パトロール・ボートを替えながら時々出かけていました。

その日も午後早くに出かけました。暑い日で、ボートの船長は、岸辺の木にボートを寄せても良いかと私に聞きました。日蔭に入れるからです。私はよく考えることもなく、反対もしませんでした。一人の船員が舳先にいました。ベトナム人の船員で、彼は私たちを木に近づけようとしていました。これまでもパトロール・ボートはよくこの木に結びつけられていたようでした。そして、まさに敵がその木に罠の爆弾を仕掛けていたのです。彼はそれに触れてしまいました。それによって彼の耳が吹き飛び、目が吹き飛び、鼻が吹き飛び、片手ともう一方の腕の半分が吹き飛び、彼の頭と胸が焼けて割けてしまいました。

それを見て私たちは引き返し、基地に大急ぎで戻ることにしました。私は彼を自分のジープに運び、後部座席を取り外して彼を乗せ、もう一人の船員に軍病院までジープを運転させました。私は激しい苦痛に苦しむ船員とともに後部座席にいました。その痛みを想像できるでしょうか? 当時のすべての軍士官がそうしていたように私はモルヒネの注射を持っていました。それは軍士官や下士官に与えられていました。モルヒネ注射は頭部のケガには使ってはいけないことになっていましたが、この男はひどく苦しんでおり、私は敢えてそれを使いました。そして、軍の規則では、誰かに注射した場合には、それをユニフォームのシャツにピン留めし、後からそれを見た医者が、患者にモルヒネが打たれたことが分かるようにしていました。ところが、彼はシャツを着ていませんでした。吹き飛ばされてしまったからです。私は彼のズボンにピン留めをしました。

それから5分、8分と時間が経ちましたが、モルヒネは彼の助けにならず、もだえ、叫び、ひどいありさまでした。そこで私は決してやってはいけないことをやりました。2本目の注射をしたのです。彼に注射した後、使った注射針を取り、ユニフォームにピン留めし、2本のモルヒネ注射が打たれたことを医者が分かるようにしました。

それから私たちはさらに進みましたが、彼はまったく良くならず、私はまったくひどいことをしたのです。実に3本目のモルヒネ注射を打ったのです。それをズボンにピン留めしました。私は何をしようとしていたのでしょうか。明らかに、彼を安楽死させようとしていたのです。そんなケガをした状態で生きたいと思う人がいるでしょうか? タイニンの軍病院に着いたとき、なんと彼はまだ生きていました。病院の近くでは大きな軍事作戦が進行しており、たくさんのベトナム人のケガ人がいました。

ひどいケガをした男を運び込むと、医者は一瞥して、「彼をあそこに置いてくれ。彼の順番はトリアージ方式でやるから」と言いました。それは、確実に死ぬと思われる患者に注意を向けるよりも、見込みがある患者を優先して治療するということです。そして、私は急いで基地に戻りました。暗くなった後の道路は危険だったからです。

4、5カ月が経った後、基地にいると、男を連れた女性が現れました。その男が誰だか分かりました。私がモルヒネを3回注射した男でした。しかし、彼が何を求めているのか分かりませんでした。なぜ彼が来たのか分かりますか? 彼らはサイゴンから90分かけて、私が彼の命を救ったことに感謝するために戻って来たのです。私の目から涙が溢れました。私は彼の命を救おうとしたのではなかったからです。彼を安楽死させようとしたのです。

私はどんな教訓を得たのでしょう。第一に、とても明らかなことですが、神様の真似事をしてはいけないということです。この世界には、一人の神様の余地しかないのです。皆さんの信じる宗教がなんであろうと、1つの崇高な存在の余地しかないのです。しかし、もう1つの教訓も得ました。片腕を全部失い、もう片方の腕を半分失い、目も見えず、片方の耳がようやく聞こえ、歯もなく、ひどいやけどを負った男が、命を救ってくれたことに感謝するために私のところに来たのです。人間の精神とはなんと不屈なのでしょうか。とても驚くべきことでした。学生の皆さんへの2つの教訓は、神様の真似事をしないこと、そして、人間の精神とは不屈なものだということに気づくことです。

飛行場からの脱出

私は1975年3月にベトナムを抜け出し、翌4月にベトナムは共産主義者の手に落ちました。ワシントンの人たちに何が起きているかを警告したいと思い、私は抜け出したのです。この国が陥落しようとしているのに誰もまったく注意を払っていないように思えました。ようやく話を聞いてくれる人を見つけました。彼はすぐにワシントンに来るよう言い、ベトナムでのミッションを受けてくれるかと聞きました。「もちろんです。どんなことですか」と私は尋ねました。「他の何人かとベトナムに戻り、私たちが持ち出すことができない装備が敵の手に渡らないようにして欲しい」と彼は言いました。つまり、ワシントンの人たちは心の中で、ベトナムは陥落するだろうと、すでに理解していて、北ベトナムの手に大量の装備が渡ってしまうことがないようにしたかったのです。

そこで私はベトナムに戻り、4月28日までの3、4日間、自分の仕事をした後、ビエンホア空軍基地に行くよう言われました。そこは、ベトナム戦争中の一時期、世界で最も忙しい空軍基地でした。朝、2人のアメリカ人兵士とともに降り立ちました。私はすでに民間人でしたが、基地は完全に静かになっていました。完全に見捨てられた空軍基地でした。とても薄気味悪いものでした。とても皆さんに説明できません。私たちは状況を受け入れ、隅のほうに向かいました。そこにはサイゴンまで持ち帰るか、でなければ破壊しなければならない特別な装備があり、それを集め始めました。

その朝の間に、1、2名の南ベトナム、つまり私たちの同盟国の兵士たちに出くわしました。彼らは敗残兵で、置き去りにされており、ビエンホア空軍基地の建物に隠れていました。彼らはアメリカ人を見て、ここから抜け出す方法があるに違いないと見て出て来たのです。昼過ぎまでに30人の南ベトナム人が出て来ました。同時に北ベトナム人が砲撃を始め、近寄って来ました。私は彼らが攻撃してきたとは言いたくありません。軍事用語で言えば、彼らは探索していたのです。私たちがどれだけの兵力を持っているか見ようとしていたのです。

私は30人のベトナム人たちに排水溝に入れと言いました。ベトナムのすべての建物には、雨量が多いことから、周囲に排水溝があります。それは隠れる場所になります。兵士たちはそこに入り、北ベトナム人に向けて撃っていました。その間に私たちは仕事を進めました。私はサイゴンのボスから軍事無線で連絡を受けました。彼は、「リッチ、お前のためにヘリコプターを送る」と言いました。「すみません、ボス。ヘリコプターじゃダメです。30人の兵士が一緒にいます。北ベトナムを追いやるためにともに戦っています」。彼は「リッチ、理由は言えないが、お前はすぐそこを出なくちゃならない」と言うので、「できません。私がヘリコプターで脱出しようとしたら彼らは私を撃つでしょう。私が同じ立場だったらそうします」と答えました。

すると彼は悪態をつき、無線機の受話器をガチャンと置きましたが、私たちを迎える飛行機をタイのCIA(中央情報局)でなんとか見つけました。C−130輸送機で、これは自衛隊の皆さんにはとてもなじみがあると思います。荷物を運ぶための固定翼機で、33人の人間を確実に運ぶことができるものでした。飛行機が着陸し、私たちがいる場所に近づいてきました。しかし、決して停止せず、くるりと回転したので、私たちはみんなそれめがけて走ると、後ろの昇降口が下がったのでさらに走りました。飛行機が離陸し、飛行場の上で一気に上昇しました。私たちが窓から下を見ると、北ベトナム人たちが押し寄せるところでした。

12分後、問題なくサイゴンに着陸しました。ボスはこう言いました。「よし、お前にこれを見せてやる。お前に言えなかったことだ」と言って紙片を私の手に押しつけました。それは北ベトナムの秘密情報の傍受で、「ビエンホアに敵がいるから、そいつを殺せ」と書かれていました。つまり、彼らは私を殺すチャンスをもう少しのところで逃したのです。しかし、午後6時になって、私たちは明日ここを去るとボスは言いました。(ベトナム戦争の形勢が不利になり)国全体が緊急避難を始めていました。

ベトナムからの撤退

しかし、ベトナム海軍を避難させる計画を私はまだ完成させていませんでした。なぜかと言うと、その時点ではまだ反逆罪だったからです。良い政府ではなかったとしても、まだ南ベトナム政府は機能していました。実際に私たちとともに働いているベトナム海軍の士官たちが退却し、逃亡している姿を見られたら、それは反逆になってしまいます。信頼するベトナム海軍の士官が私にこう言いました。「これを実行するつもりだが、しかし、私の兵たちが家族を残して去ろうとしないのは分かるだろう」。私はベトナムにすでに6年いたので、それが分かっていました。しかし、自分の政府にはそのことを伝えていなかったのです。なぜかと言えば、彼らが同意しないと恐れていたからです。

29日の夜、サイゴンから飛ぶ最後のヘリコプターの1機を確保しました。そして、現在でも第7艦隊の旗艦になっているブルー・リッジに飛びました。私は身分証明書を持たず、パスポートもなく、財布もありませんでしたが、銃を持っていました。古いニュース映画で見たことがあるかもしれませんが、ヘリコプターが難民を降ろすと、他のヘリコプターが下りて来られるように前のヘリコプターは海に落とされてしまうのです。ひどい話でした。

暗い中で周りを見ると、提督の側近であることを示すストライプの先金具を付けた海軍大尉がいたので、こう言いました。「大尉、信じられないと思いますが、私は海軍兵学校の卒業生で、国防長官の特別ミッションを帯びています。この船の提督は、ウィットマイア提督だと思いますが、どうか提督に、3年間毎日アメフトの練習の際、海軍のロッカーに掲げられた提督の写真の下で私は着替えていましたと伝えてください」。提督はとても有名な海軍兵学校のアメフトの選手でした。

提督の補佐官はちょっとおかしいなというふうに私を見ましたが、私の話の中に真実のように思える何かがあると感じたようです。特に私は海軍士官の言葉を使っていましたから。彼は提督のところまで上がっていき、また下りてきて言いました。「一緒に来てください」。私は提督のところまで上がっていきました。ウィットマイア提督は、私よりずっと大きな体格の人で、私が何者かを説明したところ、提督は分かってくれました。しかし、国防長官の特別ミッションを帯びていても、私は身分証明書も何も持っていませんでした。そこで、私が何者で何をすべきか、ワシントンにメッセージを送り、国防長官に聞いて欲しいと提督に頼みました。

彼は「メッセージは送れない。私はこんな下にいて、彼はずっと上の人だ」。私は「提督、しなければなりません」と言いました。すると彼は統合参謀本部議長にメッセージを送り、統合参謀本部議長が国防長官のところに行き、20分で返事が戻って来ました。その答えは、「彼は自分で説明している通りの人物である。彼の言う通りにせよ」というものでした。

提督は困惑していました。彼は私を小さなボートに乗せて、別の米海軍の船に連れて行き、私ははしごを登って乗船し、士官食堂に行きました。そこに准将の艦長、副艦長などがいましたが、彼らはとても不満そうに見えました。艦長が「若いの」と呼びました。1975年当時の私は若かったのです。「真夜中に武装した見知らぬ民間人が私の艦に来るのには慣れていないんだ」と言いました。私は「艦長、真夜中に武装して乗艦するのに私は慣れていませんが、私たちはやらなくてはいけないことがあります」と言いました。そして彼は私が頼んだことをしてくれました。コンソン島というところに行き、ベトナム海軍の30隻を少し上回る艦艇に乗っている31000人の兵士とその家族たちと落ち合い、フィリピンまで8日間航海したのです。

フィリピンに着いたとき、当時のフィリピン政府はマルコス政権で、私たちを港に入れようとしませんでした。北ベトナムが怒って報復してくるのではないかと恐れていたからです。そこで私たちは船の国籍を変更しなくてはなりませんでした。つまり、ベトナム共和国の旗を下ろし、アメリカ海軍の旗を上げ、難民を下艦させ、グアムに送りました。そして航行して港に入り、無事に船を停泊させたのです。

ここでの教訓は何でしょうか。そこから学んだことは何でしょうか。日本ではあまりなじまないことかもしれませんが、人生を歩む中でしばしば事前に許可を得るよりも事後に許しを請うほうがずっと簡単なことが多いということです。アメリカ政府の許可を事前に求めていたなら、許可を出してくれたとは思いません。許可を求める前にやって既成事実を作ってしまい、「ごめんなさい」と言うと、彼らに選択肢はありません。つまり、事前に許可を得るよりも事後に許しを請うほうが簡単であり、それ以来、私はそれを私の人生の行動指針としてきました。

中東への赴任

私は国防総省に移りました。その後、イランに1年間行き、そこで役目を果たしました。ペルシャ人ほど自民族中心主義的で、ナショナリスティックで、自信を持った人たちは世界にいません。たくさんの場所に住んだことがありますが、イランは私がまったく楽しめなかった唯一の外国の場所でした。イラン人自身は文化的で、教育水準が高く、素敵で、良いユーモアのセンスを持っていますが、グループになると彼らは非常にナショナリスティックで、それは今日まで続いていると思います。

国防総省で勤務し始めた頃は、アメリカがテロリズムの対象になり始めたのと同じ時期でした。1983年4月にベイルートのアメリカ大使館の爆破で外交官たちが殺されました。同年10月には同じベイルートで海兵隊兵舎の爆破事件に向き合うことになりました。飛行機がハイジャックされるようになり、クルーズ船もハイジャックされるようになりました。1982年、83年、当時の私たちはよく分かっていませんでしたが、今日まで続くテロと向き合う長い道を歩み出していたのです。

中東はとても興味深い場所です。とても魅力的な人々と、とても興味深い文化と、そしてとても解決困難な問題が組み合わさっていて、引き込まれてしまいます。

私は、中東との個人的な関係の構築をとても楽しみました。中東のリーダーに何かを言うとすれば、別の人にもまったく同じことを言うようにしたほうが良いでしょう。彼らは互いに話し、あなたがどう振る舞うかで良くも悪くも評判を築くことになります。

ヨルダンのフセイン国王と非常に親しくなることができました。彼は卓越した人物だと思いました。しかし、最初の湾岸戦争で、イラクがクウェートに侵攻した時、ややよそよそしく振舞いながらもサダム・フセインの側に付いていた唯一の人物がヨルダンのフセイン国王でした。ハシミテ部族の歴史に関係する複雑な事情がありましたが、とにかく、サダム・フセインに話すことができる唯一の人物はフセイン国王でした。

サダム・フセインへの手紙

フセイン国王と私の関係、そして、反テロリズムに取り組み、中東問題に関わる私について、他のアラブ人たちが皆、サダム・フセインに話していました。直接面識があったわけではないにせよ、彼が私を知っていたので、第41代ジョージ・ブッシュ大統領が、サダム・フセイン宛のメッセージをフセイン国王に渡すという特別ミッションを引き受けてくれないかと私に尋ねました。私は「やります。しかし、1つ問題があります」と答えました。「何かね」と大統領が尋ねたので、「2人の息子をイベントに連れて行くと約束してしまっているので、今夜遅くまでヨルダンに行くことはできません」と答えました。ブッシュ大統領も父親ですから、オーケーと言ってくれました。私は息子たちをイベントに連れて行ってから帰宅し、荷物をまとめて出発しました。

フセイン国王から許可を得てからヨルダンに到着し、すぐに彼の宮殿に行きました。彼と私はオフィスに座ってランチをともにし、ジョージ・ブッシュ大統領からサダム・フセインに宛てたメッセージを持っており、サダム・フセインが信頼する誰かに届けてもらいたいと伝えました。

フセイン国王がそれはどんなメッセージかと聞くので、詳しく説明せず、ごく簡単に内容を伝えました。すると彼は、ちょうど良い人物がいると言いました。彼は自分の首相を呼び、ランチに加わるように言い、アメリカ大統領からのメッセージを渡すべく、サダム・フセインに会うため、アンマンからバグダッドへ車で行くよう命じました。首相は私を見ました。彼は国王の命を受けてハッピーではないようでしたが、メッセージを携えて出かけました。

しかし、彼はアンマンからバグダッドまで普通の車列を使ったわけではありませんでした。イラクへ入るとすぐ、アメリカの飛行機がバグダッドまでの道の両側を定期的に機銃掃射しました。首相が確実にバグダッドに着き、このメッセージの伝達に真剣に取り組んで欲しかったのです。彼はバグダッドに着き、彼の説明によれば、いくつかの地下施設に連れて行かれ、最後にサダム・フセインに会うことができ、メッセージを伝えることができました。それは大量破壊兵器の使用についてのメッセージで、サダム・フセインが大量破壊兵器を展開すれば、彼自身と故郷のティクリートに何が起きるかを述べていました。非常に強いメッセージでした。

サダム・フセインは返事を寄越しました。それは大量破壊兵器は使用しないというものでした。バドラン首相は翌日イラクから戻ってきて、またもやフセイン国王とランチをともにすることになりました。国王は部屋に入って来るなり敵意を持った目で私を見て、乱暴なメッセージを仲介させたことに非常に怒っていました。国王はこう言いました。「座って食事をしたいかね」。私が「いいえ、陛下」と答えると、彼は出て行きました。しかし、私はサダム・フセインの答えを受け取っていたので、アメリカに戻ってブッシュ大統領に会いました。もちろん、サダム・フセインは1991年には大量破壊兵器を使いませんでした。

この教訓は何でしょう。この先、皆さんが築く関係は重要であり、その後も重要だということです。どんな仕事を辞めた後でも、長い間あなたが築いた関係故に、あなたは影響力を持ち、出来事に影響を与える能力を持つということです。それが、サダム・フセインとの逸話が示すことだと思います。

同じことがロシアのウラジミール・プーチン大統領にも当てはまります。1991年、プーチンのボスだったレニングラード市長に会いに行かなければならず、プーチンにも会いました。2001年9月11日の対米同時多発テロの後、第43代ジョージ・ブッシュ大統領からの要請でモスクワに行きました。ロシア上空を通過し、鉄道を利用し、アフガニスタンの古い地図を使わせてもらう許可をロシアから得るために訪問したのです。ロシア共和国ではまず軍人に会い、情報機関の人たちに会いましたが、彼らはきっぱりとノーだと言いました。しかし、プーチンはアメリカを助けると言ってくれました。

皆さんに証明することはできませんが、ここでも、人間関係がものを言ったのだと思います。10年前、プーチンは私との間で嫌な経験をしませんでした。それが続いていたのだと思います。今、アメリカとロシアとの関係は続いていませんが、それはそれで仕方のないことです。

9・11後の展開

2001年9月11日の対米同時多発テロの日、私は自分のオフィスにいました。パウエル国務長官はペルーにいて不在で、現在の国防次官補であるランドール・シュライバーが当時の私の補佐官で、彼は私を会議から引っ張り出すとこう言いました。「見なくちゃいけないものがある」。彼は私をオフィスに引き戻し、テレビを見ました。そこではもちろん、世界貿易センターが燃えていました。見ていたら、2機目の飛行機が突っ込みました。これは事故ではなく、テロだとすぐに分かりました。そしてすぐに走り出しました。

しかし、幸運にも、その翌日、パキスタンの情報機関であるISI(軍統合情報局)の長官、マフムード将軍という名の人物が私のオフィスを訪ねてきました。想像してください。3000人もの市民を失った翌日、彼は座り、私はコーヒーと紅茶を出し、彼は「歴史」を語りたがっているのです。私は彼に言いました。「将軍、申し訳ないが、歴史は今日始まりました」。彼は言いました。「違う、違う、あなたはなぜタリバンがアフガニスタンにいるのかを理解しなくてはならない」。私は「違う。私はそれを理解できます。ソビエトとの戦争の間に奴らと一緒に働いたんです。まさにその同じ奴らと今戦っている。もしパキスタンが正しいことを支持するというなら、私たちが求めることをやらなくてはいけない」と答えました。

マフムードISI長官はとても不満そうでしたが、私は要求リストを彼に渡しました。わざと「要求」という言葉を使いました。要望ではありません。空費する時間はなかったからです。当時の大統領のムシャラフ将軍に要求を渡すよう求めました。長官は翌日私のオフィスに戻ってきて、ムシャラフ大統領は7つの要求すべてに合意すると言いました。私は言いました。「申し訳ありませんが、もう1つあります。パキスタンに戻ったら、カンダハルに行き、(9月11日のテロを実行したアルカイダをかくまっている)タリバンの指導者ムラー・オマルに会い、彼と戦う理由はない、私たちが欲しいのはアルカイダだと伝えてください。私たちが求めているのは(アルカイダの)アラブ人であり、彼はアラブ人と訣別しなくてはならない。そうすれば、私たちはタリバン問題に介入しない」。長官はとても腹を立てましたが、求められるままに実行しました。そして、パキスタンに戻った後、私に電話してきました。ムラー・オマルは、部族の慣習や訪問者へのリスペクトなどという理由で拒否しているということでした。

パキスタンでの教訓

しかし、ムラー・オマルのことを考えれば、ムシャラフ大統領のことも考えざるを得なくなり、皆さん全員にとってのもう1つの教訓へと私を導くことになりました。私たちはパキスタンとインドの間で大きな困難を抱えていました。それは、カシミールのテロリスト・グループが議事堂を攻撃することでインド政府の指導部を排除しようとしており、インド政府がパキスタン国境に100万人を配置することによってそれに反応し、パキスタンがまったく同じように100万人を配置し、相互に核兵器の使用の脅しをかけ始めるという事実に主として起因していました。そして、それぞれの議会における言葉は、世界の他のどこの言葉とも違っていて、ほとんどの人を震え上がらせていました。インドのニューデリーとパキスタンのイスラマバードの大使館の多くは人員を引き上げていました。核兵器の直撃を受けたり、核の雲が彼らを壊滅させたりしないようにするためです。私たちアメリカは、双方の不満を発散させるためにできるだけのことをしました。

それから小さなテロ事件がありました。インド人たちは私にデリーへ来るように求めました。彼らは頭に血が上っていて、こう言いました。「見てくれ、分かるだろう。貴国の情報機関は知っているだろう。私たちも分かっている。ここに写真もある。カシミールには13のテロリスト・キャンプがあり、パキスタンによって運営されている。私たちはそれを変える必要がある。変わらなければならない。テロリスト・キャンプを減らす必要がある」。インド人たちでさえ分かっていたのです。パキスタン人にすべてを除去するよう頼むのが妥当ではないということを。

そこで私は対応すると言い、パキスタンのムシャラフ大統領に会ってこれらのキャンプについてやり合いました。彼にアメリカが撮った写真を見せ、キャンプについてのアメリカの秘密情報を開示しました。秘密情報の質がとても良かったので、カシミールとパシュトゥンの兆候について見ることができ、テロリストたちを訓練しているパキスタン人将校たちの階級構成も分かり、何が起きているかについて争う余地はなくなりました。適切なやりとりの後、大統領は、「オーケー、分かった。何が望みだ」と言いました。私は言いました。「明日までに、この特別のキャンプがなくなっていることを示す必要があります。それを取り壊さなければなりません」。彼は「オーケー」と言いました。

私は簡単な勝利に得意になっていました。私はインド側に戻り、インド人に「見てください。簡単でしたよ。今やキャンプは12ですよ」。すると彼は、「ノー。パキスタン人はそのキャンプを取り壊したが、4キロメートル先で造り直した」と言うのです。私はムシャラフに腹を立てたりはしませんでした。自分に腹を立てました。イスラマバードに戻ってムシャラフ大統領に会い、「オーケー、前回はあなたが勝ちました。今度は私がもう一度尋ねる番です。この13番目のキャンプを取り壊さなければなりません。明日からは12しかないということです。1カ月、2カ月、5カ月、どんなに長くなろうと12を超えることはありません」。彼は合意し、それは状況を鎮めるのに役立ちました。

ここで提示しようとする教訓は何でしょうか。つまり、私はミスをしたということです。皆が私と同じように物事を見ると私は想定していました。皆が私と同じように言葉を理解すると。しかし、そうではなかったのです。皆さんに申し上げたいのは、人生を歩む上で、自分とまったく同じように人々が物事を見ると想定してはいけないということです。

日本への想い

最後に、日本について少し話すよう求められています。私はなぜこんなに日本に興味を持っているのでしょうか。そこには歴史的な理由と個人的な理由があると言うべきかもしれません。歴史的な理由とは、ペリー提督が来航し、1854年に日米和親条約が結ばれた時代から、アメリカは太平洋における関係の中心に日本があると常に見てきたということです。太平洋戦争の4年間を除き、1854年以来、ずっとそうでした。歴史的にそれは真実であり、日清戦争を終わらせた下関条約、日露戦争を終わらせたポーツマス条約を通じてもそうでした。歴史的にアメリカの国益は日本とともにあり、日本もまた多かれ少なかれ大部分の国益はアメリカとともにあると判定してきました。

個人的な理由もあります。私が最初に日本に来たのは1967年のことです。私は駆逐艦に乗って横須賀に着きました。すべてがうまくいっていました。ベトナムへ向けて海に戻り、1968年1月に佐世保に戻りました。埠頭を挟んで向こうにとても不思議な艦艇を見つけました。そんなものは見たことがありませんでした。私は将校だったのでその艦艇まで歩いて行くと、下士官がいました。デッキの見張りの責任者でした。海軍のプロトコルとして敬礼し、乗船する許可を求めました。何しろ私は将校だったのです。彼は「許可はできません」と答えました。おかしなことだ、と思いながらも自分の艦に戻り、それについて思いをめぐらせました。翌日、埠頭を見渡すと、その艦艇はいなくなっていました。それはプエブロというアメリカ海軍の情報収集艦で、そのすぐ後に北朝鮮に拿捕されたのです。

しかし、私の艦は、ベトナム沖にいても、驚くほどの頻度で日本に出たり入ったりしていました。そして、ベトナムを行き来していた6年間で、必ず、日本に立ち寄っていることにも気づきました。日本の位置には何かしら中心となるものがあると理解できました。

人々は「アーミテージ、なんでまたそんなに日本を愛しているんだい」とか「日本が本当に好きなんだね」などと言います。たくさんの理由から私は日本の人々が好きです。私はいつも日本のカウンターパートになる人物が好きなのです。私をひどく扱ったり、真実ではないことを私に言ったりするカウンターパートは、外務省にも防衛省にも、日本には決していませんでした。彼らが私についても同じことを言ってくれると希望しています。

しかし、たくさんの個人的な理由を差し置いても、日本については語るべきことがたくさんあります。それほど日本を好きな本当の理由は、私が自分の国を愛しているからです。自分の国を愛しているアメリカ人ならば、できるだけ日本と密接かつ合理的な関係を築こうとするはずです。私の視点からすれば、これこそがアジアとの鍵なのです。

さて、私が自分の人生から引き出し、この1時間でお話しした教訓をまとめなければなりません。第一の教訓は、とても明白です。分かれ道に来たら皆さんはどちらをとるか、決断をしなくてはなりません。正しい選択も間違った選択もありません。ただの決断です。そして人生を歩まなくてはなりません。学界に進もうと、実業界に進もうと、政界に入ろうと、折に触れて分かれ道にたどり着きます。ままあることだし、奇妙でもなく、それを受け止めなくてはいけないのです。進むべき正しい道も、間違った道もありません。

第二に、私の人生において、その場その場で見えるほどに、良いことも悪いこともなかったという結論に達しています。何事も極端に幸福だと思ったり、極端に悲しくなったりする必要はありません。時間が経てば、何事も最初に考えるほどには、良くも悪くもないということです。

次に、物事はいつも朝になると「まし」になって見えるようになるということです。夜明けには活力を呼び戻す何かがあります。ベッドに入る際、どんなにひどい問題があなたの心に残っていたとしても、たいていは、あなたは眠りに落ち、眠った後に朝になって目覚め、物事はほんの少し良くなって見えます。

最後に皆さんに残しておきたいことを言います。人生を歩む上で大事なのは、他者を扱う際、彼らにふさわしいと思うよりもほんの少しだけ親切にするということです。誰かに歩み寄っていったとき、その人が不機嫌で、私に意地悪だったとしたら、彼に意地悪を返すべきでしょうか。いいえ、そんなことをすべきではありません。私がすべきことは、彼が私を扱ったよりも少しだけ親切に彼を扱うことです。彼の人生において何が起きているのかを知らないからです。私に言わせれば、それが人生最大の教訓です。

(本稿は、2018年6月8日、三田キャンパス南校舎ホールで行われた、リチャード・L・アーミテージ氏の名誉博士号授与記念講演を、土屋大洋慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授が訳出し、一部を修正したものである。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。