登場者プロフィール

有山 輝雄(ありやま てるお)
元東京経済大学教授
有山 輝雄(ありやま てるお)
元東京経済大学教授
2018/03/01
福澤諭吉と「人民交通」
今日のような、慶應義塾にとって特別な日にお話をさせていただく機会をつくっていただき、ありがとうございます。非常に感激しています。最初に、今日のお話は歴史的な問題を扱うため、福澤先生について敬称抜きで呼ばせていただくことをお断りしておきます。
さて、今日お話しするのは、福澤諭吉の三大事業の1つとされる『時事新報』が、国際報道、国際ニュース、あるいは国際情報というところで、どのような役割を果たしていたのか。さらに、特に福澤存命の時期に日本の国際情報、国際ニュースがどのような環境にあったのかということです。それがわからないと、福澤、あるいは『時事新報』のジャーナリズム活動、国際報道活動がどのようなものであったのかが、十分に浮かんでこないのではないかと考えるからです。
『時事新報』は福澤の考えに基づき、他の新聞に比べ、国際報道、国際ニュースに力を入れていたことはよく知られています。しかし、それは必ずしも平坦な道ではなく、非常に厳しい状況にありました。
最初に、19世紀末の国際報道、国際情報がどういうものであったのかについてお話ししたいと思います。福澤諭吉は『民情一新』において、次のようなことを語っています。
西洋諸国の文明開化は徳教にも在らず文学にも在らず又理論にも在らざるなり。然ば則ち之を何処に求めて可ならん。余を以て之を見れば其人民交通の便に在りと云わざるを得ず。
これはなかなかの卓見です。「人民交通」という言葉は今あまり使われませんし、「人民」という言葉も何か政治的な意味を持って使われることが多いですが、ここで福澤が言っているのは、社会のコミュニケーション、人々の間のコミュニケーションこそが人間社会の開化をもたらすのだということです。ヨーロッパ諸国の文明開化は何によって実現できたのか。それには道徳もあるし、確かに理論もある。しかし、それだけではなく、コミュニケーション、つまり「人民交通」の問題だと言っているわけです。これは、当時の日本人がヨーロッパから何を学ぶべきかということに関する、優れた意見です。現在ではコミュニケーションというと、それこそインターネットやITのことなどがいろいろとよく議論されています。しかし、明治の初期、あるいは幕末にコミュニケーションの重要性を見抜いた人は本当にわずかしかいませんでした。
福澤は、西洋における人民の交通について、「蒸気船、蒸気車、電信、郵便、印刷の発明工夫を以てこの交通の路に長足の進歩を為したるは、恰も人間社会を顚覆するの一挙動と云うべし」と述べています。中でも当時重要だったのは電信です。電信は、今はもうほとんど使われませんが、画期的な技術でした。人間の歴史が始まって以来、人間のコミュニケーションのスピードは、人間の移動のスピードと同じでした。人間が文書を持っていかなければいけない。人間が馬に乗って届けなければいけない。人間の移動のスピード以上には上がりませんでした。もちろん、人間の移動を必要としないコミュニケーション手段として、例えばのろしを上げるなどは考えられましたが、安定的なコミュニケーション手段にはなり得ませんでした。しかし電信は、人間が移動せずに、高速に情報を伝えることができたのです。電信の発明は、人類の歴史の中でインターネット以上の意義を持っていたと指摘している人もいます。確かに、電信は画期的な通信技術でした。
福澤はそこを見抜いていたわけですが、これは簡単な問題ではありませんでした。電信の技術は確かに重要ですが、それと同時にもう1つ重要だったのは、電信線を通る情報をつくる社会組織です。これがなければ、電信はただの線でしかありません。この社会組織とは、今で言えばいわゆるマスメディア企業になるでしょうが、その時期であれば新聞社や通信社でした。経験を持ち、見識を持った人材を育て、その人間が情報を生産し、それを電信線で伝える。このようなハードとソフトの両面があって初めて情報、あるいは福澤のいうところの「人民交通」の革命が実現できるわけです。
海底電信線と日本
ヨーロッパで生まれた電信技術は、最初は地上線でヨーロッパ各地を結びました。しかし、地上を結ぶだけでは不十分で、海や川も渡らなければなりません。水があるところには、特別な電信線が必要です。そこで、ヨーロッパでは海底電信線が発明されました。現在われわれが使っているインターネットも、海底電信線=海底ケーブルでつながっていますが、この海底ケーブルは主にイギリスで開発されました。イギリスはこの海底ケーブルをどのように利用するかを考えました。まず、当然考えるのはアメリカと結ぶことです。つまり、大西洋を渡る海底電信線を引きたいと考えました。しかし、これはなかなか難しい技術です。海底といっても、海流が流れている。ケーブルをどこに下ろしたらいいかわからない。防水のための絶縁もしなければいけない。このようなことで、なかなかうまくいかず、何度も失敗しました。一度は成功したと思い、アメリカ大統領とイギリス女王が祝電を交わしましたが、すぐに切れてしまいました。
その時、アメリカの別の企業が、大西洋の海底ケーブルが難しいのであれば、別な方法で結べばいいだろうと考えました。つまり、方向を変える。イギリスから見て西に向かってケーブルを引こうと考えていたけれど、逆に、東に向かってみよう。シベリア大陸は地上線を引けますから、大陸を延々と横断していき、ベーリング海峡に出ればいい。ベーリング海峡は狭いので、そこは結べる。そしてアラスカに渡り、カナダへ行き、アメリカ大陸の電信線につなげる。このように考えました。これもなかなか大胆というか、柔軟な考え方だと思います。
ところが、これも難工事でした。しかも、気の毒なことに、その電信会社がシベリア大陸で電信線を一生懸命引いている間に、1866年に大西洋横断海底電線敷設が成功し、イギリスとアメリカは海底ケーブルで結ばれてしまいました。そこで、シベリア大陸を延々と工事していた電信線は無用の長物になりました。このようなことは日本には全く関係ないし、福澤にも『時事新報』にも全く関係ないことのように見えますが、実はこれが大きな意味を持ったのです。
イギリスはアメリカと海底ケーブルを結ぶと同時に、地中海を通ってエジプト、インドにまで海底ケーブルを引きました。言うまでもありませんが、これはイギリスの植民地支配と関係しています。エジプト、インド、そしてインド洋を渡りシンガポールに出て、香港へ行く。あるいはオーストラリア、ニュージーランドへ行く別の線を引く。これは延々たる長い海底電信です。これを実現したのは、イギリスのEastern Telegraph Company という会社です。日本では東方電信会社と呼んでいました。この会社の電信線がロンドンから出て、延々と香港、そして上海にまで達し、これで中国市場とイギリス工業が結びついたのです。
この時に、デンマークに本社を置いているThe Great Northern Telegraph Company という会社、日本では大北電信会社と訳していますが、この電信会社がイギリスの南回りの海底電信に対抗して新しい電信線を引こうと考えました。その時に、打ち捨てられていたシベリアの電信線を思い出したのです。途中までできているのだから、これを南に下ってウラジオストクまで引こう、そしてウラジオストクから日本海を通って上海を結べばいいと考えました。北回りと南回りの線で、ヨーロッパと中国市場を結びつけようと考えたのです。当時、朝鮮は鎖国していましたから入れない。ですからウラジオストクから日本海を通し、長崎に中継地を置き、上海に出ようと考えました。
そこで、幕末の徳川政権に海底電信の陸揚げを求めました。これが何を意味するのか、世界地図でどのような結果をもたらすのか、徳川幕府は全く理解できませんでしたが、もしかしたら便利かもしれないと考えました。しかしそのうち徳川幕府は倒れてしまい、この提案は明治政府に引き継がれます。明治政府も、これが世界経済戦略のなかの大きな構想であることは全く理解できませんでしたが、海底電信ができれば便利だと考え、長崎への陸揚げを認めました。その結果、日本は明治初期に世界的な情報網、情報ネットワークの中に組み込まれたのです。
イギリスの情報覇権
この長崎からウラジオストクに向かう線と、長崎と上海を結ぶ線が、日本にとっては情報の命綱になりました。日本にはこれ以外に中国大陸、ヨーロッパと通信する手段がありませんでした。これはもちろん、後になって気がついたことです。当時、無線などは実用化の域に達していませんから、これだけが日本と世界を結ぶ唯一の回線になったのです。後に日本は、大北電信に独占権を与えてしまいました。これは日本にとって深刻な桎梏になりました。これも当時の日本政府は理解していませんでしたが、日本列島と中国大陸を結ぶ電信線は大北電信以外に認めないという約束をしてしまったのです。なぜか。日本は朝鮮半島に、 釜山と長崎を結ぶ海底電信線を引きたかったからです。
日本が朝鮮半島あるいは中国大陸に、外交・政治・経済で大きな力を及ぼすためには、海底電信線が必要でした。ところが日本には、その資金も、技術も、軍事力もありませんでした。しかし、海底電信線を引かなければどうしようもない。そこで大北電信に頼みましたが、大北電信は心やさしい会社ではありませんでした。日本に代わって釜山と長崎の間に海底電信を引いてあげる代わりに、独占権を要求しました。この独占権を日本は認めてしまいました。そして、後に日本が海底電信線を引く技術も、経済力も、軍事力も持つようになっても、それを自由に引くことはできないことになりました。いったん条約を結んでしまった以上、日本はどうしようもなく縛られてしまったのです。
情報にとって必要なものは、ハードの海底電信線と、もう1つ、その電信線を流れる情報です。この情報を担うのが、国際通信社と呼ばれていた組織です。今でも時々使われることがありますが、当時、“Follow the Cable”という言葉がありました。ケーブルを引けば、国際通信社が進出してくるということです。日本に進出してきたのはイギリスのロイター通信でした。ロイターはご承知のように、現在でも世界有数の通信社です。今は拠点がほとんどアメリカに移っていますが、当時はイギリスと一体の通信社でした。しかも通信社は、世界中からニュースを集め、それをいろいろなメディアに配信する役割ですから、国際的な経済力や政治力と一体のものです。日本にはそのような能力はありません。当時、いくら日本が人材を養成しても、ヨーロッパへ行って取材できるような人間はいませんでした。語学もできないし、ヨーロッパの政治・経済についての知識も十分にない。そんな人を派遣してもニュースなど集められるはずもありません。当時それができたのはイギリスとフランスとドイツの三国だけでした。
イギリスはロイター通信です。フランスには、当時はアヴァス通信(Agence Havas)がありました。今のAFP通信です。ドイツにはヴォルフ電報局(Wolffs Telegraphisches Bureau)という通信社がありました。世界の3つの強国がそれぞれ国際通信社を持っていて、情報を集め、配信していました。3社は、はじめ激しい競争をしていましたが、途中で競争をやめ、イギリスの通信社の領域、ドイツの通信社の領域、フランスの通信社の領域というように世界地図で線を引いてしまいました。そのことを日本は全く知りませんでしたが、日本はロイター通信社の独占領域になりました。インドから東は基本的にロイターが独占権を持ちました。
情報のハードの部分である海底電信は、大北電信のものです。大北電信はデンマークの会社ですが、そのバックにいたのはイギリスでした。もう1つの南回りは、まさにイギリス線です。そしてソフト、情報を生産しているのはロイター通信社です。つまり、日本は完全にイギリスの情報覇権の中に入ってしまったということです。それ以外に国際ニュースを集める手段もないし、発信する手段もありませんでした。日本の主張を世界に伝えるためにはロイター通信を通じて発信するしかないし、世界のことを知るにはロイター通信のニュースに頼るしかない状況でした。このような中で『時事新報』は発刊され、国際報道に力を入れ ようとしたわけです。ハードもソフトも、イギリスに頼っていくしかない状態だったのです。
これは世界的な政治・経済の問題ですが、新聞社からすると経営的な問題もありました。まず、電報料金が高い。大北電信が独占していますから、料金は大北電信の思うままに設定できます。また、ニュースもロイターが独占していて競争がありませんから、情報料も非常に高い。新聞社はハード、ソフトの両面で高い経済的負担を負わなければ、国際ニュースを集めることができませんでした。
このように経済的負担が大きいだけではなく、これらは基本的にイギリス製のニュースです。確かに、イギリスのことを知ることができるし、便利なのは間違いないけれど、当時、日本の国際関係から見て重要だった、朝鮮や清国のニュースは日本になかなか入ってきませんでした。
イギリスのいろいろなニュースは入ってきます。当時の新聞を見ればわかりますが、例えばやや後の時代ですがオックスフォードとケンブリッジのラグビーの試合でどちらが勝ったというニュースなどが入ってきます。これに関心を持っていた人もいたと思いますが、それ以外に日本にはもっと知るべき国際情報があったはずです。でも、そう思っても自分たちでニュースを集めることができない。このような中で、福澤の『時事新報』は悪戦苦闘しなければならなかったのです。これは1つの新聞社、1人の人物で解決できる問題ではありません。当時の国際関係の枠の中でもう決まってしまっていたことで、打開する必要はありま したが、当面それはなかなか難しいことでした。
初期の国際ニュース
当時の国際ニュースとは、どんな状態だったのでしょうか。『時事新報』は1882年創刊ですが、当時の紙面を見ると、3月17日ロンドン発のロイター電報が、4月1日に載っています。電報が載るのに半月もかかっている。他の新聞から見れば早いけれど、半月遅れのニュースです。なぜかというと、ロイター電報は高くて買えないので、横浜居留地の外国語新聞に載ったものから転載していたのです。では、その横浜居留地の外国語新聞は、ロイター電報を直接入手していたのか、というとそうではなく、上海や天津、あるいはシンガポールにあったイギリス系の新聞にロイター電報が載って、その新聞を船で運んできて、それを横浜の外国語新聞が転載していました。日本の新聞は、それをさらに日本語に翻訳しているわけです。日本は、イギリスの国際ニュースのチェーンの一番末端にいて、ようやく半月遅れで、遅いときは1カ月遅れぐらいで国際ニュースを報道できるという状態でした。特別に速く入手したニュースについては、当時のイギリス公使だったサー・パークスから聞いたとわざわざ書いています。そうしなければニュースを得られませんでした。これは非常困った問題です。
ただ、繰り返しお話ししているように、その中でも『時事新報』は国際報道に非常に力を入れ、いろいろなニュースを集めようとしていました。1893年1月、日清戦争直前の有力新聞紙面に載った国内外国電報を調べてみると、『時事新報』は226本で最多です。また、他の新聞に比べて早くから記者を海外に置き始めています。上海や北京、ソウルに記者を置いていましたが、ニュースを送る手段がないので郵送です。記者たちは、1カ月とか半月とか1週間ごとにニュースを書き、船に乗せ、郵便で届けていました。ですから、速報はありません。速報ではロイター電報にかなうところはなかったのです。
一例として、『時事新報』1897年3月3日付の紙面に、「27日発倫敦電報に依れば」とあります。これは2月27日に、ロイターのロンドン本社から発信された電報で、そのことをわざわざ注記しています。「上海3月1日午後2時36分松尾特派員発電3月2日午前3時17分着」とあり、27日のロンドン電報を3月1日、上海にいた『時事新報』の松尾記者が入手して、翌日の2日に発信して、3月2日に東京の『時事新報』に着いた。そんなことをわざわざニュースに書いているのです。今からすれば、27日のニュースが翌月の2日に着いたのは遅いとしか言いようがないですが、これが一番早いニュースでした。
上海にいた『時事新報』の記者は何をしていたか。他の日本の新聞社は船で上海の新聞が運ばれてくるのを待っていたけれど、『時事新報』はロンドンからのロイター電報を先に上海で入手して、それを東京に送った。これが一番早いわけです。涙ぐましい努力とさえ言えると思います。上海に派遣された記者の重要な仕事はロイターニュースを入手することにあったのです。それにしても自分たちは直接ロイターニュースを得ることができないのですから、なかなか苦しい状況です。
日本の他の新聞社や通信社も、何とかロイターと直接契約したいと考えました。本当は他の通信社と契約できればいいのですが、ロイター以外の通信社は東アジアに入ってきません。もちろん、フランスやドイツの記者は活動していますが、それは本国に送るだけで、そのニュースを日本へは提供してくれない。アメリカのAP通信はありましたが、当時のアメリカは国際政治の中ではイギリスよりも下の位置にあり、AP通信はロイターの事実上の子会社のような関係でした。ですから、日本はアメリカと国際関係はあるけれど、お互いにニュースのやりとりは直接にはできませんでした。
ついでにお話ししておくと、日本は何とか太平洋の海底ケーブルを引きたいと思っていましたが、結局できませんでした。太平洋の海底ケーブルは、アメリカがフィリピンを植民地にした際、アメリカ西海岸からハワイやいろいろな島々を中継してフィリピンまで引きました。日本はそれに便乗して、日本列島から小笠原まで電信線を引き、その電信線をアメリカ西海岸からのフィリピン線と接続したわけです。太平洋戦争が始まる時点でも、それがアメリカと日本の電報を直接やりとりをする唯一の海底ケーブルでした。ただ、第2次世界大戦が始まる時は無線がありましたので、海底ケーブル以外にも通信手段はありました。
『時事新報』のロイターとの契約
日本で最初にロイターと契約したのは日本政府でしたが、その後日本の各新聞社は何とか通信社と契約したいと考えました。1897(明治30)年、『時事新報』が初めてロイター通信社と直接契約を結びました。これにより『時事新報』はロイター電報をいち早く入手することができるようになったのです。当時の『時事新報』の社告では、「我国の新聞は外国より直接電報を取寄せることなく僅に横浜に達するロイテル電報を転載して責を塞ぐに止りしが、ロイテルの価高き為横浜の欧字新聞も其契約を続くる能はず遂に廃することになった」、しかし国際関係は重要になってきていることから、「我社は遂に意を決し巨額な費用を擲てロイテル電報を取寄す事」としたと書いています。「巨額な費用を擲て」というように、当時としてはかなり大胆な投資をして、ロイター電報を入手することにしたと読者に宣言しているわけです。それぐらいの意気込みで『時事新報』はロイターと契約したのです。これだけでも、『時事新報』は国際報道において、東京の新聞社の中で圧倒的な優位に立ったことになります。
それまで、日本の新聞社の中で国際報道に関する競争はありませんでした。ロイターがニュースを独占していますから、それを横浜の英字新聞から翻訳していればよかったわけです。ところが、『時事新報』が意を決してロイターと契約したのですが、他の新聞社はこれに対抗する手段がない。では、どうなったのか。
1898年5月1日付の『時事新報』の社告では、「電報掲載の制裁」を掲げ、『時事新報』は、ロイター電報、あるいは北京からの電報を他新聞社が掲載することを禁止しました。そのため、他の新聞社は、『時事新報』のニュースを転載するか、あるいは、電報局にうまく工作して途中で盗んでくるかしかないことになりました。『時事新報』は、自分たちが意を決して多額のお金を投入して契約したのに、それを他新聞社に転載されてしまったら身もふたもありません。そのような「不徳」は認めず、制裁をかける、法律的手段に訴えると言ったわけです。ただし、『時事新報』発行後24時間を経過したら、『時事新報』からの転載だと明記した上で載せるのはよい、としました。
でも、これは他新聞社から見てあまりにも屈辱的です。1日遅れのニュースを載せるだけではなく、これは『時事新報』から転載させていただきましたと明記しなければいけないからです。明治30年代、この出来事は東京の新聞界全体で大紛争になりました。『時事新報』はあまりにも圧倒的優位に立ちすぎてしまったわけです。他の新聞社は、対抗する手段がない窮地にまで追い詰められてしまったことになります。
他新聞との紛争、シンジケート
当時、東京には『時事新報』の他にもたくさんの新聞社があったので、他の新聞社が『時事新報』を一斉攻撃する事態にまでなりました。当時の有力新聞であった『萬朝報』は、「海外の報道を供給する唯一の源泉たりしを知る者ハ、此の源泉を買占めて他の加入者を拒絶するが如き専横の条件を作る可からず」と書いていますが、これは無理な理屈です。ロイターが唯一のニュースソースであることは間違いないけれど、これを買い占めたと言われても、直接契約でお互いに契約しただけですから、買い占めたのとは違うと思います。でも、他の新聞社から見ると、それは専横だ、乱暴だということになりました。「新聞社会の先進を以て自ら居る時事新報」がそんなことをやるのはおかしいと言うわけです。『時事新報』がお金をかけて努力したのに、努力しないほうが「おまえが努力して先に入手してしまったのはけしからん」と言っているようなものですから、これは無理な理屈ですが、大紛争になってしまいました。
当時、陸羯南(くがかつなん)という人物が『日本』という有力新聞を出していました。『日本』も国際報道を載せていましたが、これは『大阪朝日』から入手したと書いています。『大阪朝日』もロイターと契約しましたが、このニュースは本当に『大阪朝日』から入手したのか。怪しいけれど、そのようにしなければ国際報道ができない状況になってしまっていたわけです。他の新聞社は「天下の公報を独占するのは不都合だから宜しく之を公開せよ」と書いていますが、公報といっても、ここは政府の公報という意味ではありません。ロイターという1つの通信社のニュースは公報なのだ、公だと言ってしまっているわけです。
この大紛争は、多数派と一社の争いですから、『時事新報』は妥協するしかなくなってしまいます。1899年、東京の新聞界で妥協が成立して、『時事新報』を含め十新聞社が共同でお金を出し合い、ロイターニュースと契約するかたちに改められました。一種のシンジゲートを作ったのです。『時事新報』は、獲得した優位性をあきらめざるを得なくなりました。先進的であることがむしろ他新聞社の攻撃材料になり、妥協を余儀なくされたわけです。
このときの『時事新報』を含む日本の新聞社の正式な契約文書が、現在もロンドンのロイター通信社の文書館に残っています。それを見ると、十社の新聞社が公平に料金を分担して支払うかたちになっていますが、契約条件は非常に不平等で、ロイター通信社にとって圧倒的に有利な条件でした。
一般的に日本の新聞社の契約は高い料金を払う上に、さまざまな制限を受けていました。ある事例では、一定の金額の限度額内しかニュースを送らないという場合もありました。ロイターは上海からニュースを送ってきますが、例えば月々の契約が上限1万円と決まっていれば、ロイターは1万円分のニュースしか送ってこない。他に重要なニュースがあっても送ってこないというような制限に甘んじていた場合もあります。
これは明治初期の日本が国際情報の流れを十分認識していないところで起きた海底ケーブルと国際通信社の独占がもたらしたもので、日本の国際情報通信に対する非常に厳しい制約でした。これを乗り越えない限り、日本の通信社は自由な活動を行うことができません。ただ、その中で『時事新報』が、最も先進的に国際情報、国際ニュースの収集活動に努力して、多額のお金を投入していたことは非常に重要だと思います。
紙面だけ見ても、『時事新報』が国際ニュースで優位だったということはわかりますが、その優位性とはどういうことなのか。また、『時事新報』が日々のニュースを伝えるためにどのような条件を克服し、それを実現していたのか。現在のメディアが外国に特派員を派遣してニュースを送っているのとは全く違う条件の下に置かれていたわけです。私はそのことの意味は大きいと考えています。
厳しい条件下での国際報道
日本が大北電信会社の海底電信線の独占を克服できたのは1943年、第2次世界大戦の最中です。この時点で、皮肉なことに大北電信の本社があったデンマークはナチスドイツに占領されていて、国として成立していませんでした。しかし、そこまで海底ケーブルの独占権は生きていたのです。
また、ロイターのニュース独占を打開したのは1933年です。当時、現在の共同通信社の前身にあたる新聞聯合社という通信社が、ロイターを出し抜いてAP通信社と直接契約しました。第2次世界大戦の直前ですが、これにより国際情報は大変革されました。東アジアにおけるイギリスの情報覇権が崩れてきたのです。第2次世界大戦は一種の情報戦でもありましたから、このことはそれを考える大きな前提です。この直接契約は、現在の共同通信とAPにとっても記念すべき出来事です。
このように、国際報道における独占状態が打開できたのは1930〜40年代になってからのことでした。福澤の存命中、『時事新報』が東京の有力新聞社にのし上がっていく時期、特にニュース報道において他の新聞社より圧倒的に有利な地位を保とうとしている時期においては、日本の国際報道は、明治初期に結んでしまったハードとソフトの両方の条約により、厳しく制限されていたのです。その制約の中で新聞社や個々の記者たちも努力していき、それにより国際報道、国際通信がようやく実現できていたのです。
ただ、それでもやはりイギリスの優位がありましたから、イギリス製のニュースが多く入ってきて、当時の日本人たちはどうしてもイギリス的な見方に立ったニュースを受け取ってしまい、それが世界だと考えてしまう偏りは生じていました。個々の言論人たちが偏りのある意見を持っていたかどうか、また福澤諭吉や『時事新報』の記者がどうだったかというより、これは1つの仕組みの問題で、そこを考えておく必要があるのではないかと思います。
遠回りなことからお話ししたので、わかりにくいところがあったかと思いますが、福澤諭吉や『時事新報』が活動している時代は、情報のハードやソフトが厳しい制約の下にあり、それによっていろいろな活動が規定されていました。そのようなことを考えながら『時事新報』のニュースを見ると、いろいろな発見もあるかと思います。拙い話で恐縮ですが、『時事新報』の活動についての理解の一助にでもなれば幸いです。ご清聴ありがとうございました。
(本稿は2018年1月10日に行われた第183回福澤先生誕生記念会講演をもとに構成したものである。なお、福澤著作の引用については『福澤諭吉著作集』を使用した)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。