慶應義塾

小泉先生とスポーツ──体育会125年に際して

公開日:2017.11.01

登場者プロフィール

  • 神吉 創二(かんき そうじ)

    一貫教育校 幼稚舎教諭

    神吉 創二(かんき そうじ)

    一貫教育校 幼稚舎教諭

2017/11/01

画像:六大学野球リーグ始球式での小泉信三(昭和40年4月10日、慶應義塾福澤研究センター蔵)

はじめに

ご紹介いただきました神吉創二です。体育会125年の節目に、このような機会をいただき光栄に思っております。

私は平成4年に塾を卒業し、今年卒業25年を迎えたわけですが、「何学部を出ました」というよりも、「庭球部を出ました」というところがあり、体育会に大変育てられたと思っています。4年間で早稲田に勝ったのはたったの1回でしたが、強い早稲田に勝つことを目標に、チーム一丸となって戦った青春の日々は、色褪せることはありません。

本日のテーマは「小泉先生とスポーツ」です。小泉信三先生といえば今から55年前の体育会創立70周年式典での記念講演があまりに有名ですが、歿後に生まれ、直接に小泉先生を知らない私にとって、あの「練習は不可能を可能にす」という名スピーチがなされた体育会の、今度は125年となったその記念式典に参会できたことは大変感慨深いものでした。

慶應義塾体育会創立125年

先日、4月23日の開校記念日に、日吉記念館にて「慶應義塾体育会創立125年記念式典」が行われましたが、慶應義塾体育会の始まりは明治25(1892)年のことです。これまで個々に活動していた剣術、柔術、野球、端艇の各部を集合統一し、新たに弓術、操練(兵式体操)、徒歩の各部を設けてこれを組織したもので、「全塾生の健全なる身体の発育」を目指して発足しました。

福澤諭吉先生は、「まず獣身を成して後に人心を養う」と考え、西洋流の体育思想を慶應義塾の教育に取り入れました。芝新銭座時代における義塾の規則書の中に、「午後晩食後は、木のぼり、玉遊等、ジムナスチックの法に従ひ種々の戯いたし、勉めて身体を運動すべし」と書かれています。構内にブランコやシーソー、鉄棒などの運動用具があり、学生と一緒に遠足にも行きました。三田に移転してからも、学生に運動を奨励し、種々の機械道具を構内に備えたり、専門家を雇って学生に運動を教えたりもしたわけです。武術や鍛錬といった、それまでの苦痛に耐えて技術を身につける訓練ではなく、教育の中にアスレチックスポーツの考えを取り入れた福澤先生の先見を感じます。

福澤先生は、体育会発足の翌年である明治26(1893)年3月23日付『時事新報』に、「体育の目的を忘るゝ勿(なか)れ」という記事を書いています。教育は知識だけでなく運動による身体の発達も大切であり、学生が体育を重んじる風潮があることは良いことではあるが、体育本来の目的を常に忘れないでいてほしいと述べています。身体の錬磨は病気の無い強い体を作り、精神もまた活発爽快となる。心身ともに健康であれば社会すべての困難を乗り越えて行動できるようになるが、これは「立身出世の一手段」に過ぎないのであって、体育を人生の目的としてしまうことは、目的と手段を混同してしまっていると言わざるを得ない、というのです。

肉体と精神との間には密接な関係があり、体育活動によって身体を健康にすることが、学業に励む際に必要であるから体育をするのであって、体育だけやって学業を怠り、そして頑強なる肉体にまかせて不養生や不品行を行うことは言語道断、ということです。だからこそ福澤先生は、体育活動を正課にはせず、課外活動という位置付けに留めたのでしょう。

「文武両道」という言葉がありますが、まさにこの福澤先生のお考えを継承したものといえるでしょう。「一体育会部員である前に、一塾生である」という考えです。爾来、慶應義塾の体育会は、数々のスポーツのパイオニアとして、日本のスポーツ界に重要な役割を果たしてきたのです。

125年記念式典の中で、「学生スポーツの未来を担う、43部メッセージ」という映像の上映がありました。各部の競技中の写真が次々にスクリーンに映し出され、主将たちがその部のスローガンをボードに書いて見せるのです。各部競技の色々なスローガンに共感・共鳴し、学生の必死の表情に感激し、幾度も涙が溢れました。その中で、庭球部だけが小泉信三先生の「練習ハ不可能ヲ可能ニス」とボードに書いたところも大変印象的でした。

小泉信三と学生

庭球部の部室玄関にある「庭球部」の表札は、小泉先生直筆の文中より採字したものです。その表札と、1番コート脇にある「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の記念碑を毎日目にしていながら、小泉先生とはどのような方であったのか、恥ずかしながら学生時代には全く知りませんでした。「練習ハ不可能ヲ可能ニス」という言葉は、近すぎてむしろ遠い言葉だったように思います。

私にとって大きな契機になったのは、平成13(2001)年の庭球部創部100周年記念行事に携わり、記念誌『慶應庭球100年』で小泉先生の随筆を編集したことでした。この作業が私にとって小泉文献に触れる貴重な機会となったのです。そして創部100周年記念祝賀会では、今上天皇陛下と皇后陛下のご臨席を賜り、来賓接遇の係であった私は、会場の受付で間近に両陛下にご挨拶することができました。この感激はいまだに忘れることができません。一私立大学の一運動部の記念行事で、何故両陛下にご臨席いただけたのか。そこに間違いなく「小泉信三先生」の存在があったからだということを、改めてその時に体感したのです。この感激を契機に、私は小泉先生の著作を読み、そしてその文章に心惹かれていったのです。

その後、『仔馬』という幼稚舎の刊行物に、小泉先生の文体をかなり意識して文章を書いたところ、それまで全く面識のなかった山内慶太先生から連絡があって、一緒に小泉信三先生の随筆を編集しようということになりました。それは2004年に、スポーツにまつわるエッセイを集めた『練習は不可能を可能にす』(慶應義塾大学出版会)という本に結びつきました。続いて2008年には次女小泉妙さんとの2年にも及ぶ聞き書きを行って編集、『父小泉信三を語る』(慶應義塾大学出版会)という本として刊行しました。

2008年5月の「生誕120年記念小泉信三展」(三田キャンパス図書館旧館)では、山内先生、福澤研究センターの都倉武之先生と共に実行委員を務め、天皇皇后両陛下行幸啓をお迎えし、テニスに関係する展示ブースのご説明をしました。展示見学後、天皇皇后両陛下とお茶を飲みながら歓談するという栄誉を授かりました。両陛下が、「あの時(50年前のご成婚時)は本当に信三先生にお世話になった」「信三先生が助けてくださった」と、幾度も「信三先生」とおっしゃるのをうっとりと眺めながら、小泉信三という人は両陛下の先生だったのだと強く感じました。

そして2014年の夏、初めての著作『伝記小泉信三』(慶應義塾大学出版会)を上梓し、宮内庁長官経由で天皇陛下にも献本しました。この本は直接に小泉信三を知る世代からの反響が多く、その謦咳に接した先輩方が、大切な思い出を撫でるように愛しんで読んでくださいました。

小泉先生の亡くなられた後、昭和42年に、慶應義塾の学事振興、ならびにこれに関連する事業を行うことを目的に、「小泉信三記念慶應義塾学事振興基金」が設置され、「人物が優秀で、かつ健康であり、スポーツを通じて慶應義塾の名声を高らしめた体育会所属の団体、または個人を表彰する」ことを趣旨として、「小泉体育賞・小泉体育努力賞による表彰制度」が制定されました。全日本や国際試合での活躍などには小泉体育賞、それに準ずる好成績や関東学生優勝などには小泉体育努力賞が贈られるわけです。体育会の学生は、早稲田に勝とう、日本一になろうと、文武両道を本当によく頑張っていると思います。しかし、現役部員たちは小泉体育賞を目指しながら、その「小泉」が誰であるかを知らない。小泉純一郎氏の賞だと思っている学生がいると聞き、愕然としました。しかし、今の学生が小泉信三を知らないのは仕方ないことです。かくいう私も小泉信三歿後に生まれた世代で、学生時代に誰から教わったわけでもなかったのです。ですから、小泉信三という人が、慶應義塾に、日本にいらしたということを、次の世代に伝えるのは我々の責任と思います。

先月、欠席者を除く幼稚舎生全員844名に、「小泉信三」を知っているかとアンケートを取りました。知っている群には、「ではどういう人か」を書いてもらいました。1年生で知っていたのが1人(0.7%)、6年生で46人(32.0%)。全体で139人(16.5%)となりました。この数字が多いのか少ないのかはよく分かりません。

幼稚舎では、福澤先生についても教条的に授業として教えることはありませんが、様々な有形無形の福澤の遺した気風を伝える学校です。しかし、小泉先生については尚更に授業の教材になるわけでもなく、私の受け持つクラスは別として、小泉先生について学校生活で教わることはあり ません。私は機会ある度に若き塾生である幼稚舎生に伝えていけたらと思っています。

福澤諭吉と小泉信三

福澤諭吉は、1835(天保5)年生まれ、小泉信三は1888(明治21)年生まれで、年の差は53歳です。信三の父信吉(のぶきち)は和歌山から江戸に出て福澤塾に学び、福澤に深く信頼されて塾長を任された人です。信吉は、1894(明治27)年12月8日に、45歳の若さで亡くなりました。福澤先生は、その前後に横浜桜木町にあった小泉宅をお見舞いに訪れています。信三が初めて福澤諭吉に会ったのは、その時の小泉宅だっただろうと推測されます。信三3、6歳の頃で、ほとんど記憶はありませんが、ただ、信吉が福澤諭吉を「先生」と呼んでいた記憶があったそうで、「この人は父が尊敬する人なのだ、ということを子どもの直観で自然に知った」と書いています。

信吉の死後、福澤先生は自分が住んでいる三田山上の邸内の一棟に小泉一家を住まわせました。この時、福澤先生は60歳、信三は7歳です。福澤先生は60歳にして、驚くほどの運動をしていました。毎朝薄暗いうちに起きて散歩をするのが日課で、さらに米搗き小屋を邸内に作って、毎朝「ウンウン」唸りながら米を搗きました。さらに居合もしました。それも刃渡り二尺四寸九分(約75cm)、重さ三一〇匁(もんめ)(約1.2kg、野球のバットよりもずっと重い)の大きな刀を、素早く抜いて、そして振るわけです。

信三は、こう書いています。

「私は先生がガアデンで得意の居合を抜くのを見たこともある。夕方、ガアデンに出ていると、先生が浴衣にたすきをかけ、尻を端折り、草履をはき、腰に一刀を横たえて現れた。先生は立ち止まり、姿勢をととのえた後、かけ声とともに刀を抜き、頭上にそれを振り舞わして、踏み込み、踏み込み、斬るような動作をした。そうして瞬間に刀を鞘に納める。私は刀身が白く空中に光るのを、驚いて見ていた。先生は何度も同じ動作をくり返した」(「わが住居」)

福澤先生の手記には、「居合数抜(かずぬき)千本。午前8時半少し過ぎより午後1時までに終り休息なし」とあります。この間、足を踏み出して一定の場所を行き来すると、距離にして二里半(約10km)になります。

信三は、福澤の学問と事業を受け継ぎ、心から福澤を慕い、福澤の作った慶應義塾を、命を賭して守っていきました。福澤諭吉は信三にとって生涯の目標でした。信三は福澤諭吉の本を読み、福澤諭吉の言葉を語り、少しでも先生に近付こうと熱心に学問に励んだのです。つまり小泉信三は深く福澤諭吉を意識して生きてきたのです。

「私が三田で、しかも福澤邸の近隣で成長したという事実は、私の一生を支配したと思う。やかましい、学問や思想のことは別としても、日常の生活態度の上の些末な点で、私は知らず識らず福澤先生、或いは福澤家の家庭の空気に化せられているであろう」(同前)

と書いています。これが小泉信三のスポーツの原風景であり、運動家としての福澤諭吉の姿が無意識のうちに刷り込まれたと考えられるかもしれません。「小泉信三がスポーツを愛したのは、福澤諭吉がスポーツを愛した人だったから」と思うのは、決して間違いではないと私は思っています。

小泉信三とテニス

福澤先生逝去の翌年、1902(明治35)年に、14歳になった信三は、慶應義塾の普通部2年に編入しました。家は、三田山上の福澤邸から1895(明治28)年に引っ越した山のふもとにありました。現在、正門から中等部に向かう消防署の隣にある木造の堀越整復院のところです。

この時の普通部は、三田の山上にありました。家を出て、裏木戸を開ければそこは構内。坂を駆け上がればすぐに学校。創部翌年の庭球部に信三は入部します。「日が暮れて最後にネットを片付けるのが私であり、冬の朝、霜除けの蓆を巻いてどけるのが私だということになった」(「わが住居」)。何しろ、テニスコートから崖を下れば自分の家だから、とにかく一日中テニスコートにいて練習をしました。「運動家としての出世は速い方であった。その代り練習は譬えようもなく猛烈なものであった」(「テニスと私」)そうです。

この頃のテニスは軟式テニスでした。先駆けは、東京高等師範学校(「高師」、後の東京教育大学、現在の筑波大学)で、創部は1886(明治19)年。慶應より15年も前です。東京高等商業学校(「高商」、後の東京商科大学、現在の一橋大学)がそれに続きました。両校が対抗戦を始めたのは、1898(明治31)年です。慶應が1901(明治34)年創部、早稲田が1903(明治36年)創部で続きます。創部当初は「高師」「高商」の強さは圧倒的で、慶應ごときが対抗戦を申し込んでもなかなか相手にしてもらえませんでした。

入部して2年、16歳の信三は、普通部生にして全塾の大将として活躍します。大学生よりも強くなったということです。1904(明治37)年、初めて「高商」に勝った時、信三は大将として大活躍しました。「明治37年は官学に対する私学スポオツの進出によって記憶されるべき年」(「私共の時代」)と書いているように、この年、慶應ははじめて高商を破り、早稲田も高師を破りました。

信三の練習は猛烈なる練習でした。信三は「タドン」というあだ名をつけられました。それは剛球を打とうとするその瞬間、目をギョロリと丸くすることが、炭団(たどん)の黒い球に似ていたからです。『時事新報』には、「小泉の後衛は間然するところなく、熱球の飛ぶこと銃丸よりも強く」「水も洩さぬ陣立」と記されています。

しかし、信三は17歳になり、普通部から大学予科へ進むと勉強に興味を覚えるようになります。さらに大学部に入ると、夢中になって講義を聞き、すっかり勉強の魅力にとりつかれてしまいました。その頃、慶應庭球部はチームとして強くなり、大将である信三の出番が来る前に勝ってしまうようになります。あの「高師」「高商」にも、信三が大学部に進んだ明治40年からの1年間で5度戦って一度も負けなかったのです。

「私が試合に出なくても、慶應は勝ってしまう」と思うと、学問の方が益々熱心になります。さらにもともと猛烈な練習で鍛えてきた技量なので、練習より勉強が熱心になると、やはりテニスの技術は低下してきます。20歳になった年、ようやく出番がまわってきた「高師」、「高商」戦に、信三は続けて負けてしまいます。

この後、主将としての敗北の責任と、自分の不成績を理由に、庭球部を引責退部しました。負けず嫌いで、とことんまで究めないと気が済まない、いい加減なことはできないという頑固な性格だからこそ、中途半端にテニスも勉強もできなかったのでしょう。「ハードファイター・グットルーザー(果敢なる闘士、潔き敗者)」という後年の言葉がありますが、まさにその実践でした。しかし、テニスで培った「気概」は、学問においても血となり肉となったのです。

庭球部長として

信三は大学卒業後も大学に残り、教員となって学問を続けます。信三が大学を卒業して教員となった年に、庭球部では軟式から硬式に転向するかどうかといった議論がなされました。当時の軟式テニス界において慶應は十分に強かったので、せっかく手に入れた技術と地位を捨て、新しい硬式にチャレンジすることは難しいことでした。信三も、丁度、高商戦に敗れた時だったので、「こんな意気地のない状態で硬球をしたってものにならぬ。少なくとも天下を平定してからだ」と反対し、硬式に踏み切ることは延期になりました。その後、慶應庭球部は高師・高商など対抗戦すべてに大勝し、ついに硬式採用を決めます。大正2(1913)年、日本テニス界として初めての硬式転向でした。

信三がイギリス・ドイツに留学したのは、こういった時期のことでした。信三は、ロンドンでテニスクラブに入り、硬式テニスを経験します。ウィンブルドンで見た硬式テニスの強烈なストロークは、人間業とは思えないくらいで大いに驚きました。そして硬式転向に反対した自分の考えが間違っていたことを悟ったのです。ウィンブルドン観戦記を庭球部時代の友人に書いて送り、そしてウィンブルドンの男子シングルスで4連覇したワイルディング選手の『庭球術』という本を、庭球部に送って激励しました。

信三は、学生が硬式転向に踏み切ったことを誇らしく思いました。この硬式転向により、対抗戦をやろうにも一時的に相手校がなくなりましたが、やがて他大学も数年遅れて続々と硬式を採用していくことになります。

信三は庭球部長を大正11(1922)年から昭和7(1932)年の塾長就任前年まで10年間務めます。34歳から44歳までの間、部長として、部員たちと多くの時間を共有しました。早慶戦に負けた時も、部長として学生をなだめる立場にありながら、30歳代の若い部長は部員に同感し共鳴しました。それゆえ一致団結したチームができていくことになりました。

「私が選手を奨励したその方法は簡単で、ただ常に彼等と共に在るという一事に過ぎなかった」と謙遜していますが、小泉部長時代、早稲田の黄金時代から「庭球王国慶應」と称されるまでに部を育てたのです。当初早慶戦で6連敗しましたが、連敗の歴史が連勝の歴史に遷(うつ)る転換期の部長でした。後の栄光の基礎を築いたこの臥薪嘗胆の早慶戦を、「光栄の6連敗」と言ったそうです。

ある年の夏休み、1日6時間の翻訳・執筆作業で多忙な信三は、机の時計が4時になると、執筆が行の途中であっても筆をおき、御殿山の自宅から当時コートのあった大森まで行きました。最後のスマッシュ練習を見て、選手からその日の様子を聞き、時に中国料理をご馳走しました。早慶戦の前日には、大森コート近くで合宿中の部員にポテトサラダを沢山作って差し入れました。

「光栄の6連敗」の最後の1敗となった大正15年秋の早慶戦は、早稲田の5‐3で決し、日没になってナンバー1の石井小一郎の試合が翌月曜日に残りました。5セットマッチで2セットダウン(0‐6、2‐6)、サードセットは3‐3だったのでかなりの劣勢。翌日三田で講義のあった信三は、田町から戸塚の早稲田コートまで車を走らせます。結局、この試合は2セットダウンから3セットを大逆転で連取しました。このナンバー1対決に勝った意味は大きく、それが翌年からの連勝の礎となったのです。3ゲームを取られて終わってしまったかもしれないのに、コートに駆けつけた小泉部長の気迫を感じます。この先生の行動に学生は発奮したのです。「庭球王国慶應」を作ったのはあの一戦でした。小泉部長は、その試合の持つ意味の大きさを知っていたのかもしれません。

ここで日本のテニスについて触れておきたいと思います。これまで世界トップテンにランクされた日本の男子選手は僅か6人のみ(熊谷一彌、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎、錦織圭)です。この6人のうち、高商の清水善造、早稲田の佐藤次郎と現在活躍している錦織の他、熊谷一彌、原田武一、山岸二郎の3選手は、いずれも塾体育会庭球部出身です。50%が塾関係者というのは慶應義塾が誇りにしてよい偉業と言えるのではないでしょうか。

小泉信三が卒業した年に庭球部に入部した熊谷は、慶應を卒業すると三菱合資会社銀行部に勤務し、ニューヨーク駐在員としてアメリカに拠点を移しました。1920(大正9)年のアントワープ五輪で、シングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得して日本人初のオリンピックメダリストとなっています。しかし熊谷にとって、銀メダルは負けなのでした。著書『テニスを生涯の友として』には、「この夜(決勝の夜)ほど私は悲憤痛恨の涙にくれたことはない」「テニス生活中、一生の不覚と言っても過言ではない」と述べています。昨年のリオ・オリンピックで錦織圭選手が男子シングルスで銅メダルを獲った時、「日本人96年振りのメダル獲得です」と解説者が言いましたが、この96年前の選手が熊谷一彌だったわけです。

庭球部員は熊谷一彌というOBを持つことで大いなる刺激を受けました。昭和2年当時、庭球部の試合に出るメンバーはオールジャパンが6人揃っていました。この6選手を、熊谷はそれぞれシングルスを2セットずつ試合をして、12セット全て勝ったといいます。これほど驚異的に強いOBがいたということが、庭球部全体の練習の気概という意識とその実力を高めたことは間違いないと思います。慶應義塾の硬式転向が世界の熊谷を生み、世界に通用する日本チームを作り、庭球王国慶應を作ったと言えるでしょう。

塾長として

1933(昭和8)年、45歳の若さにして、信三は塾長になります。塾長に推薦された時、とても躊躇(ためら)ったそうです。しかし、庭球部長としての10年間で、早稲田に勝った負けたと、学生と喜び悲しみを共有し、学生を教育するという幸せを知った信三は、「大きな庭球部のようなものだ」と自分に言い聞かせました。信三は塾長として学生へのメッセージを伝えました。「心身ともに鍛え、そして、信じることを言い、言ったことは必ず行って挫折しない、心も体も強くたくましい人になってほしい」。福澤先生以来、慶應義塾が大切にしてきた志を、今改めて新しい覚悟を持って全力を尽くしていこう、という決意がうかがえます。

1941(昭和16)年12月8日、太平洋戦争が始まると、政府・軍部は大学の自由な教育に対して圧力をかけました。慶應義塾は特に政府から目をつけられました。創立者である福澤諭吉は、今戦っている相手である西洋の文化文明を取り入れた人であり、その福澤が作った学校はけしからんと、言いがかりをつけられたわけです。その慶應義塾を、信三は必死に守っていきます。

開戦翌年の1942(昭和17)年10月22日、海軍中尉として出征していた息子信吉(しんきち)が戦死しました。海軍として南太平洋の最前線で敵艦と決戦中に砲弾にあたったのです。翌年春から1年あまりをかけて、信三は、信吉のために、25年の生涯をふりかえった追憶記『海軍主計大尉小泉信吉』を書きました。

翌1943(昭和18)年に、敵国のスポーツだからという理由で、東京六大学野球リーグは文部省からリーグ解散令が出されました。東京六大学野球加盟校は次第に活動停止に追い込まれていきます。さらに戦局悪化とともに10月には文科系の学生に対する徴兵猶予停止の勅令が出され、「学徒出陣」が始まりました。慶應でも多くの学生が、卒業を待たず学業半ばで戦場へ行かなければならなくなったのです。最後に野球がしたい、早慶戦がしたいという学生の想いを聞き、部長平井新先生は塾長小泉信三に早慶戦の開催を申し出ます。学生の餞(はなむけ)のため、その実現に尽力しました。

早稲田大学野球部マネージャーだった相田暢一(ちょういち)氏が「出陣学徒壮行早慶戦」当日、戸塚球場にいらした小泉塾長を特別席にお招きしようとしたところ、「私は学生と一緒の方が楽しいのです」と言われて、小泉先生は学生席へ座られました。相田さんはこう書かれています。

「私は思わず目頭が熱くなるのを覚えた。この壮行試合を挙行するに当り、先生の英断のもと慶應側の一貫した立派な態度、先生の学生への思いやりなど考え、塾長に先生のような立派な方を戴く塾生が、これ程までに幸せに見え、うらやましく感じたことはなかった」

小泉塾長は日吉で予科の授業の様子を週に1回見に行くと、蝮谷に下りて、テニス、柔剣道場、相撲、空手、拳闘、弓術と一通り見て回ったそうです。学生は練習をやめて整列し、礼をするという具合でした。現在43部ある体育会ですが、小泉塾長当時は23部でした。信三はその大部分の早慶戦を見ました。「当時の日本の大学総長で、私ほど運動場に姿を現すものはなかったであろう」(「スポオツ一般」)と書いています。塾長時代、全ての早慶戦に勝ちたいと思っていたそうで、そうしたら盛大なお祝いをするのが夢だったようです(笑)。

現在の体育会の活躍はどうかというと、平成28年度早慶定期戦勝敗表(『体育会誌』2017)を見ますと、男子は13勝33敗。女子は1勝17敗。宿敵早稲田に随分やられている状態です。我が庭球部では、男子は早慶戦に平成9(1997)年秋以来39連敗中、実に20年間勝利から遠ざかっています。つまりこの25年間、私がOBとなってから2勝49敗。でも本当に頑張っているんです。

無試験による部長推薦枠がほとんどの大学にあります。関東大学テニスリーグで慶應は一部の上位に必死になって踏みとどまり、日本一を狙っていますが、部長推薦枠のない学校は、1・2部校の中で慶應義塾だけのようなものです。その中で慶應の学生は本当によくやっていると思います。

「庭球部は単に優秀なる庭球技術者を造ることに甘んずるものではない。技術の錬磨を通じて尊敬すべき人格を養成し、我が運動界に於ける気品と気節の泉源たらんことを期するものである」(『庭球部報』昭和4年部長時代)。このような言葉を信三は残しています。

今年3月、蝮谷テニスコートの近隣住宅の庭から火災が発生し、その初期消火を行ったとして、庭球部が港北消防署から表彰されました。庭球部員総出で、消火器14本をキャンパス中からかき集め、部室から70メートルの距離をバケツリレーを行って火を消し止めました。日本一には今のところなっていなくとも、火事を消せるチーム力は素晴らしいと私は思います。庭球部の学生に大きな拍手を贈りたい。小泉信三先生がもしいらっしゃったら相当喜ばれたと思います。

卓越したスポーツへの眼力

小泉先生がテニス以外のスポーツをどう見ていたか、いくつか紹介したいと思います。12歳の信三は三田山上の弓道場で弓を習っていました。実はまだ普通部に入る前の御田(みた)小学校時代のことで塾生ではなかったのですが、元塾長の息子で、福澤の庇護を受けて三田に住んでいるので、特別に構内を遊び場にしていたのでしょう。信三は、入門の年の大会で金的を当てて一等賞の金メダルを獲ります。その記事が『時事新報』にも載り、塾生ではないのに金メダルを獲った選手としてちゃっかり記事になってしまいました。実はテニスより前に行っていたスポーツです。

次に野球です。信三は熱狂的な大学野球ファンで明治36年11月の三田綱町で行われた第1回早慶戦も観ています。戦後も双眼鏡を持ち、慶應以外の試合も敵状視察といって観戦。「ヒイキ目には司令官とも見えたが、スパイの親玉のようでもあった」と二女の小泉妙さんは書いています。早慶戦で負けて不機嫌な時も「仕方がない。日本だって負けたんだ」と自ら慰めてはもぐもぐ食べ、勝ったら勝ったでご機嫌でよく食べたそうです。

信三の学生時代には、まだヨット部はありませんでしたが、「若し部があれば、入れてもらっていたかもしれない」と書いています。ヨット部報復刊第1号の巻頭言「自然に順い自然を制す」にこう書いています。

「自然に順って自然を制す、といふがヨット帆走ほどこの言葉の適切なことを感じさせるものはない。どんな場合にも帆は風に逆らうことはできないが、吾々はたゞ風に従うことによって風に逆らうことが出来る。人間は無理をきくかも知れないが自然は決してきかない。自然はたゞ自分に従順なるのに対してのみ寛大である。こゝに自然の厳しさと優しさとがあるともいえるであろう。この至妙の原理或は哲理はヨットを操るものにより知らず識らずの間に体得されるのである」

名文だと思います。小泉先生は競技スポーツとしてヨットのレースをしたことはないのは確かだと思うのですが、専門外のスポーツにしてこれだけの見識がある、その鋭い洞察力と文章力にとても魅かれます。「帆を操るという技術は、人間の誇って好い工風である」(「スポオツ一般」)とも書いています。帆の角度をかえてジグザグに走り、風下から風上へ進むことを船頭さんの用語で「まぎる」というようですが、小泉先生はこの「まぎる」ヨット帆走に興味を持ち、海や湖に白い帆が動く景色を愛しました。

他に、文学的に秀逸な表現をしているスポーツはアイスホッケーです。「燦然たる燈火が、氷面に輝いている。ときどき氷面に霧が湧き起って、選手の顔が隠見する。実に美しいものであった」(同前)。水泳についても「一の競技の勝負が決する。歓呼と拍手と満場のどよめきは暫らくやまない。この時、競泳者によって搔き乱された水面に、燈火の影は粉な粉なになって散り、きらめく。やがてどよめきが静まるとともに、水(み)の面(も)も漸く落ちついて、一つ一つの燈影がハッキリ長く、静かに映って、ゆれる」(同前)と書いています。サッカーについては、ゴールキーパーの姿を、「一身以って国難に当るの概(おもむき)があって実に好い」(「スポオツ雑話」)と書きます。

山岳部については、特殊の気風と風格が感じられる。自然の懐ろに抱かれて日を過ごすからではないか、と書いています。「山岳部員の特殊な気品を愛したけれども、彼等の方から見れば、私はあまり話せる校長ではなかったかも知れない」(「スポオツ一般」)。

小泉先生は、このように鋭い観察力、卓越した眼力でスポーツを見ていたのです。

小泉流スポーツの見方の良い例が野球です。内野ゴロを打って一塁アウトになった時、捕手がホームに駆け戻ってくるのは見るが、そのプレーで打者が内野ゴロを打った瞬間に捕手がマスクをかなぐり捨てて一塁のバックアップに走る姿は、誰も見ていないし気付かれないプレーだ。また援護に備えても、一塁手が後逸するのも多分十に一度もないだろう。この公算の少ない、しかしながら起り得る場合に備えること、縁の下の力持ちのプレーをチームとして怠ってはならない、これがチームワークでありスポーツマンの精神である、と考えています。「スポーツでない実人生の無数の場面において、我々はこの捕手の用意と努力をしなければならぬ」(「『チームワーク』について」)と、スポーツが我々に与える貴重な教訓、チームワークの何たるかを、鋭い眼力から述べています。この「『チームワーク』について」は、私の大好きな小泉エッセイの1つです。

信三はこんな見方もしています。野球において、ランナー一塁の内野ゴロは、ダブルプレーをとるのは今では当たり前ですが、昔はそんなプレーは存在しなかった。アウトを1つとればよいという具合だった。それを誰かが果敢にもゲッツーにトライしたら、ダブルプレーがとれた。このように、諦めの悪い人、研究熱心な人が、偶然にも発見したプレーが今や常識になっています。信三はただのスポーツ観戦ではなく、人類の技術の進歩といった学問の世界をスポーツに見るというわけです。卓越したスポーツへの眼力があったと言えるでしょう。

幼稚舎の私のクラスでは今、放課後には毎日ドッジボールをします。私は味方の誰かが当てられたら、そのボールをなんとかノーバウンドでキャッチせよ、と言います。当てられて弾んだボールをノーバウンドでキャッチできれば、アウトになった仲間をセーフにすることができるわけです。この仲間を救う美技を「スーパーファインプレー」と呼び、これができたらものすごく褒め、ご褒美のシールをあげます。人はこの偶然のプレーを見て「ラッキーだな」とただ感心するだけかもしれません。でもそれは、捕る準備をしてきたからこそ捕れたということだと思うのです。「捕るぞ」という心構えがないことには体も反応できません。実際、我がクラスでは、この半年に16人延べ27回もこのスーパーファインプレーが出ています。私は、クラスの子どもたちのスーパーファインプレーにもスポーツの進化を思います。

「小泉先生とスポーツ」というテーマとして、忘れてはならないエピソードが1つあります。昭和27年春、隔離され娯楽の少ない寂しい想いをされているハンセン病療養所の患者さんが、一流選手の野球試合を見たいと希望していることを知り、小泉先生が仲介して、東村山の多磨全生園で慶應野球部は紅白試合を行いました。選手たちはこの企画に感激し、好ゲームになったそうです。

この時ピッチャーとして好投していたのが、後に長く慶應野球部の監督を務められ、昨年亡くなられた前田祐吉さんでしたが、ホームランを打たれた時に、入所者の方々が包帯を巻いた不自由な手で精一杯の拍手を打者に送る姿を見て、打者に「有難う」とつぶやいた、と言います。

小泉先生自身も、昭和20年5月25日の空襲で大火傷を負い不自由な身にありながら、病苦に悩み、慰めの少ない気の毒な人々を思う先生の心に、前田さんは「この時の感動は今も忘れることができない」と後に書きました。小泉先生は、患者さんだけでなく、野球部員たちにも貴重な経験を与えたのです。スポーツが持っている大きな力を知っていたからこそ、このような機会を作ったのでしょう。

「練習は不可能を可能にす」の真意

ちょうど55年前、1962(昭和37)年の慶應義塾体育会創立70周年記念式での記念講演「スポーツが与える3つの宝」で、小泉先生は、「練習は不可能を可能にする」「フェアプレーの精神」「生涯の友」の3つを説きました。

小泉先生は「練習」すること、精神と肉体を鍛えることによって、不可能を可能にし得ることが無数にある、と考えています。例えば自転車に乗ったことのない人と乗れる人とを比べたら、とてつもなく能力が違う。また、水泳を知らない人は水に落ちれば溺れて死ぬ。水に落ちて溺れて死ぬのと浮かんで生きるのとでは別種の生き物ほど違う。さらに、小さな子が水に落ちたのを目前に見て、泳げないから黙って見ていなければならない人と、飛び込んで助ける人とは、道徳的にも別の種類の人間であると言います。それを分かつのが「練習」なのです。

練習を繰り返すことによって獲得した自信、その強い心こそ美しい人間の気品なのです。我々が備えている精神的能力も肉体的能力も、今持っている能力がすべてであると思ってはいけない。「練習すれば定刻を守る人間になれる、練習すれば信義を重んずる人間になれる」と信三は考えていました。人は愛する心をもって生まれているが、それを磨き強めるのと、怠って放っておくのとでは大変な違いがある。練習の「習」の字は、「羽が白い」と書きます。飛べない雛鳥がその羽を羽ばたいて飛び方を習うことを表した字ですが、雛鳥が羽ばたくように、我々も心の羽を羽ばたかないと忘れてしまうことがあると思います。

幼稚舎という学校は、実によく運動をする学校で、運動会や校内大会、夏は水泳授業、冬は朝の駆け足や縄跳びと、様々な運動を行う場面がありますが、「練習は不可能を可能にす」という言葉を使って作文を書く子が時にいます。確かに、練習したから勝てた、逆上がりができるようになった、1000メートル泳げるようになったというのはその通りなのですが、小泉先生がおっしゃっている「練習は不可能を可能にす」の本当の意味は、実は運動のことだけではない。それは私たちの品格・気品というものだ、ということを子どもたちに伝えていきたいと思っています。

例えば、挨拶をする、身だしなみを整える、忘れ物をしない、友達にやさしくする、登下校マナーに気を付ける、などです。電車やバスの中で、お年寄りや体の不自由な人が乗って来た時に、「どうぞお座りください」と言って座席を譲ることができるかどうか、それは私たちの品格に関わってくる問題です。いつでもそのほんの僅かな勇気を持っていようと常に心に言い聞かせていることこそ、練習によって出来るようになるのだ、と私は思います。電車やバスの中で席を譲ろうと思い続けていることによってのみ、とっさに「どうぞ」という言葉が出てくる。その強い心こそ練習によって可能にし得る美しい気品なのです。

小泉先生は、「練習によって、私たちの品格も高めることができる」と話されています。容儀礼節を重んじることが信三の信念であり、塾の使命と考えていました。正しいことを知りながらそれを行わないことは、正しいことを知らないことと同じです。心を鍛えること、容儀礼節といった道徳、心の気高さ、滲み出る品、勇気、優しさ、忍耐、それらの品格こそが「練習は不可能を可能にす」の真意ではないかと考えます。

スポーツを通じて日本人に何を伝えようとしたか

IOC(国際オリンピック委員会)は、オリンピックの価値を卓越性(Excellence)、友愛(Friendship)、尊重(Respect)という3つのキーワードで表現し、世界の若い人々がこれを頭で理解するだけではなく、身をもって行動することを求めています。この「卓越性」「友愛」「尊重」とは、まさに小泉信三先生の「スポーツが与える3つの宝」と同じではないでしょうか。「オリンピック精神は友情、連携そしてフェアプレーに基づく相互理解が必須である」とオリンピック憲章「オリンピズムの根本原則」にあります。スポーツの本質は、こういうところにあるのだと思いますし、福澤や小泉の教えの空気感・気風が残る、塾体育会の文化は、本当に恵まれた環境であると言えると思います。

小泉先生は、先の東京オリンピック(昭和39年)の際にいろいろな文章を残しています。「日本人が如何に親切で、礼譲を知り、客を快よくもてなすか、また日本の各種の施設が如何によく整備しているか、さらに、何よりも第一に、日本の国土が如何に清潔で、よく掃除が行き届いているかと示すことは国民として何よりの念願」として努力しようと言っています。その一方で、そのすべての奥のそのまた奥の心の底には仕合に勝つこと、1つでも多く勝ちを記録し、ひとたびでも多く国旗を仰ぎ「君が代」の吹奏を聴きたいと願う心があると書いています(「メッセージ」)。

しかし小泉先生は、何が何でも勝て、という考えではなかったのです。練習とは、不可能を可能にするばかりでなく、スポーツマンの態度、動作に不思議な気品をそえるものです。例えば相撲では、十分稽古を積んだ力士の体には一種の輝きがあり、反対に、稽古を怠った相撲にはある鈍さが感じられます。来るべきオリンピックでも「日本の選手全員が皆鍛えに鍛えることによって持つ、特殊の気品を身に備える人のみであることを、私は期待したい」(同前)と書きました。

ここなんですね、信三の願いは。「ただメダルをとれ」ということではないのです。厳しい練習を積むことによって、気品を備えてほしいということなんです。オリンピックが近づいてくると、国内の雰囲気が変わってきたことを信三は感じました。それは日本人選手の健闘を祈るだけでなく外国選手の健闘も願う、というごく自然なフェアーな気持ちです。日本人全体がオリンピックを機にフェアプレーの精神を学びつつあることを信三は喜びました。

東京オリンピックは無事に終わりました。オリンピックが日本の青少年に、日本の国旗と国歌のなんたるかを教えてくれました。国旗の掲揚の時に、自然と姿勢を正し、「これがわれわれの国旗であり、また国歌であることを思うことを彼らは知った。同時にまた人々は、他国の国旗と国歌とを知り、われわれがわれわれの国を愛するごとく、彼らもまた彼らの国を愛するものであることを知った」(「東京五輪の自信と教訓」)。小泉先生は日本人が日本を思い、そして他国の人の気持ちを尊重することを体験した、実に貴重な機会であったことに満足しました。

2020年の東京オリンピックを3年後に控えています。小泉先生が生きていたら、何をこのオリンピックに期待するのか、訊いてみたいところです。

小泉信三のスポーツ論

スポーツは信三の生涯に切り離せないものでした。その人格・人間形成に大きな影響を与えたと言えると思います。例えば、戦後、東宮御教育常時参与として、今上天皇の皇太子時代の先生として、学問をはじめ、行儀作法や気品に関するような内容まで、その御教育に携わった時も、皇太子殿下に、週1回、3時間から4時間という激しいテニスの特訓をしたのです。慶應庭球部OBの石井小一郎が、殿下のテニスの指南役となりました。小泉先生は殿下を特別扱いはせず、失敗したボールは必ず自分で拾うように指導しました。また、試合に負けたら次の試合の審判もさせました。勝負の厳しさを知ることによって心を鍛えられると考えていたからです。

信三は、戦後、日本のテニスの実力の低下は、勉強が足りないからだ。厳しい練習を尊んできたことが日本人の長所だったが、敗戦の反動で、練習や規律をやかましくいうことは封建的で、気ままや寛大であることが即ち民主的だという考え方が起こり、練習の励行をやかましく言わなくなった。このような「民主的弛緩」が不振の原因であると『庭球部報』に書きました。

庭球部長時代には「君達は単に試合に勝つことだけに満足せず、技術の錬磨を通じて尊敬すべき人格を養成し、剛毅にして誠実、勇敢にして沈着、しかも節義のためには敢て利害を顧みぬ、真実のスポーツマンとは、こういうものだということを身をもって示してもらいたい」と部員に伝えています。これが小泉先生の抱く学生スポーツの理想でした。信三はテニスの選手として「努力」ということを知りました。そして苦境において落胆しないという体験を知りました。「凡べてスポーツは何一つとして怠けていて出来るものではない」ということを体得しました。また、庭球部長をすることを通して、青年の成長を見る喜びを知り ました。スポーツを愛し、平生のものの考え方でも常に精神と肉体の調和を喜び、フェアプレーを尚(たっと)び、スタンドプレーを潔しとしませんでした。これが大きな小泉のスポーツ論・スポーツ哲学と言えるでしょう。

信三には、「仕合は最後の最後まで忽(ゆるが)せにしない、諦めない」という信念がありました。ワールドシリーズで9回裏守備側が3点リード、2アウト満塁3ボール2ストライクから、バッター空振りの三振。ゲームセットのはずが、キャッチャーが後逸する間に走者打者全員が生還して大逆転サヨナラということがありました。「これは無論珍しい例である。しかし、それは勝敗の世界においてあり得るし、また現にあったことである」(「スポーツと教育」)。「もう駄目だ」という諦めの言葉は、最も嫌いのようでした。

小泉先生は学生時代は運動選手であり、その後もスポーツの深い理解者であり擁護者でしたが、それは決して傍観者なのではなく、いつでも当事者であったのだと思います。「勝ちたがり」の先生は、果敢なる闘士で最後まで諦めずに勝利を摑もうと努力する。劣勢の中、心が折れそうなほどに弱い自分を奮い立たせるのは、練習によって培った自信と勇気であり、困難に負けないその「勇気」は、練習によって体得した気品であったのです。

そこに小泉先生の気概と人間味を感じ、生き方を見ることができます。善を行う勇気を持ち、真実を尊び、偽りを許さず、感謝の気持ちを持ち、自分の非を認める勇気も持つ。これらはまさに、厳しい練習によってテニスというスポーツが小泉先生に与えた、「気品」という宝物であったと思うのです。

本日はご清聴どうも有り難うございました。

(本稿は、2017年6月27日に行われた小泉信三記念講座での講演を元に構成したものである。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。