慶應義塾

戦後日本と小泉信三──没後50年に際して

公開日:2017.04.01

登場者プロフィール

  • 橋本 五郎(はしもと ごろう)

    その他 : 読売新聞特別編集委員

    塾員

    橋本 五郎(はしもと ごろう)

    その他 : 読売新聞特別編集委員

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2017/04/01

戦後日本に与えた大きな影響力

こんにちは。私は講演は何でもやるんですが、今日は非常にやりづらいです。小泉信三さんをよく知っておられる方、研究している方もたくさんおられる中、甚だ自信のないことですが、今日は「戦後日本と小泉信三」という題で私が考えている小泉信三のお話をしたいと思います。

小泉信三は1966年の5月に亡くなられました。私が大学に入ったのは1966年の4月ですから、そのわずか1カ月後です。あれから50年たったのかと、感慨もひとしおですが、今の時代に小泉信三をどう考えるか、という意味では非常に大事なタイミングだと思います。

今日は、私は経済学のことは全くわかりませんので、戦後日本と小泉信三を考えるとき、自分が少しは関係ある話に絞りました。共産主義に対する批判と、平和論、そしてもう1つは皇室との関係です。

なぜ「戦後日本と小泉信三」というタイトルにしたか。小泉信三が戦後の学界、論壇で果たした役割の大きさ、戦後の20年間という、ある意味では日本の骨格がつくられる中で果たした影響力の大きさを私はつくづく感じているからです。恐らく今の若い人には想像できないでしょう。私も戦後生まれですから本でしか知ることはできませんが、終戦直後はマルクス主義、共産主義の影響が非常に大きかった。それは政治、経済のレベルにとどまらず、文学に至るまで広範な影響力が非常に強くありました。そういう中で、小泉信三の果たした役割はどういうものであったのか、ということを考える必要があると思います。

戦後になると、戦前に活躍していた旧世代はもう完全に過去のものという風潮がありました。哲学者の和辻哲郎、安倍能成、法哲学の田中耕太郎といった人たちはみな旧世代と位置づけられ、その影響力が弱くなったと見られていたのです。でも私は決してそうではないと思います。 筑摩書房の『現代日本思想体系』というシリーズのなかの『新保守主義』(昭和38年)という巻で、林健太郎が小泉信三について解説を書いています。これは非常に簡潔でありながら的を射ていると思います。

「小泉信三氏は、わが国におけるマルクス主義批判の先駆者で、しかもその業績が今日に至るまで凌駕されぬ高さを持っている。小泉氏は明治40年ごろ、慶應大学において、わが国で『資本論』を原語で読んだ最初の人と言われる福田徳三からマルクスを学んだ。氏のマルクス理解は日本最大のマルクス主義学者と言われている河上肇よりも早い。しかも小泉氏は、マルクス主義に接した多くの日本の学者とは異なって最初からマルクス説に対し学問的態度をもって臨んだ。」

小泉さんの最大の特徴は、たとえ論敵であり、主張、主義が違っていても、それに対する学問的態度は極めて厳正、公正だった。私はこれが小泉さんという人を一番特徴づけるものだと思います。例えば河上肇は非常に偏屈な男で、正宗白鳥などは徹底的に批判しています。しかし、小泉さんの書いた河上肇批判は非常に礼儀正しく、とても感動的です。その態度を小泉信三は最後まで貫きました。

共産主義者だった野呂榮太郎をずいぶんかばったことも有名な話です。見事に公正さを貫いたと私は思います。これぞ研究者の基本的な態度であり、そして教育者の最も大切な態度だと私は信じています。当時はマルクスの労働価値説に対し、ヨーロッパでも批判はありました。しかし、決してその批判を直輸入して書いているだけではなく、自ら翻訳も行ったリカードなどと比較研究しながらマルクスの価値論にある矛盾を明らかにしています。

小泉は山川均、河上肇、櫛田民蔵などと論争もたくさん行っています。しかし、林氏によると、『資本論』の理解において、山川、河上両氏の理解をはるかに凌いでいた。さらに、マルクス主義批判者としての小泉信三は、単に経済理論への批判にとどまらないで、国家論、歴史論、世界観全般に及んでいた。そして、その批判はそれぞれの分野において古典的完成に達している、と書いています。林健太郎という人は歴史学者で、東大の教授で総長も務めた人ですが、この人は戦前はマルクス主義者で、戦後転向組です。その元マルクス主義者の林健太郎もこのように評価しているのです。

「1949(昭和24)年に『共産主義批判の常識』が単行本で刊行されると、氏にとって未曾有の読者を獲得するとともに、マルクス主義者はここに一大敵国の出現を見て驚愕したのであった。」

小泉信三はそれだけ論敵にとっては恐るべき人でした。

批判の前に理解する

実は、小泉信三が昭和8年に書いた『マルクス死後50年』という本の前文にも、マルクスをどのように理解するかということが書いてあります。

「私はマルクス心酔者ではないし、また、度々の機会に彼れに対する反対批評を試みた。しかし今日吾々同様もしくはそれ以下の年配の文筆者でマルクスを知らず、また全くその影響を感じないという者はあり得ない筈だと思う。……洵(まこと)にマルクシズムには許多(あまた)の誇張偏頗(へんぱ)独断矛盾が蔵せられており、これを指摘することはまた必ずしも難事ではない。しかしこれ等の欠点あるに拘らず、予言者的直覚と革命家的情熱と透徹せる異常の推理力とによって、そうしてこれに加うるに精励無比なる文献渉猟に基づいて書かれた『資本論』は、恐らく19世紀後半における経済学に対する最大の貢献をもって許すべきものであろう。」

この序文を読むだけでも小泉の人柄と学問的態度が表れていると言えると思います。

また、「概して独創多き著者は多く読書せず、多く読書するものは独創を欠くのが常であるのに、マルクスにあっては珍しくもこの両者が充分の程度に兼ね備わっている」と書いています。小泉信三が敵を批判するときには、ある種の法則みたいなものがあります。河上肇に対してもそうですが、批判する前に必ず相手の長所を挙げ、敬意を払いながら、その後、厳しく批判しています。これはやり方としては非常に学ばなければいけない。

私などもテレビなどでコメントするときに、「この人はとっても素晴らしい人です。しかし、こういう問題があるんです」という具合に言わなければだめなのです。ところが時間がないものですから、批判のほうばかりする(笑)。これはあまりよろしくない。批判するからにはちゃんと理解しなければいけないわけですね。

また、「マルクスは難解とされている。私は必ずしもそれに賛成しない。難解難解と称せらるるために、かなり正常平明の解釈が妨げられたと思う。読者の側で素直に納得できないことでも、何か深遠な理窟があるのだろうと、考え過ぎて凝り過ぎて、独り相撲に類する解釈を下した例が従来かなりあったと思う」とも書いています。それは今にも通じることです。

「しかしいずれにしても『資本論』その他の著作が、その結論及び用語の上から見て決して平易な本でないことは勿論である。その理解に年月を要したのも無理ではない。而して潜心熟読して漸くその真髄を摑み得たと信ずる者は、先ずその祖述と弁明とに力を注ぐのが当然の順序である。マルクスの死後50年間における大多数マルクシストの事業は、この祖述と弁明とに終始し、少数の例外を除けば未だマルクスから出発しながら忌憚なくマルクスを批評し、その欠陥、不備、誇張、矛盾を指摘して大胆に自家の見解を述べるところにまで到達していない。」

考えてみれば、「死後50年」どころか、今もなお、そういう傾向があるように思います。

ということで、『共産主義批判の常識』はじめ戦後に書かれたマルクス主義批判に関する本は、いささかも『マルクス死後50年』が書かれた昭和8年から変わっていない。それだけ一貫していたと言えると思います。

『共産主義批判の常識』

『共産主義批判の常識』が書かれたのは昭和24年です。いろいろな雑誌などに書かれたものを1冊の本にしています。これは大変なベストセラーになったのですが、この『共産主義批判の常識』、それから昭和25年の『私とマルクシズム』、昭和26年の『共産主義と人間尊重』といった著書によって、小泉は共産主義、マルクス主義への批判を精力的に展開したのです。

『共産主義批判の常識』は、序にこういうことを書いています。

「マルクス、レエニン主義に対する著者の立場は、既に読者に知られていることと思う。私は多年来反対陣営に属するものと目されている。ただ私は、マルクス、レエニン主義を批判するに方(あた)って何よりも厳正の一事を心がけ、証拠なくして断定することは最も慎んだ。何分本書の如き小冊子では具(つぶ)さに原文を引いて論ずることは出来なかったが、マルクス、レエニンの学説主張は、いずれもその真意を正しく解して取り扱うことを期し、絶えて彼等の不用意の失言に乗ずるということはしてないつもりである。」

これを序に書いたのは、恐らく自分の原則的立場をきちんとしておかなければいけない。逆に言えば、そうではないものがあまりに多いので、それに対する批判でもあると私は見ます。

この『共産主義批判の常識』が書かれた時期はどういう時期だったのか。いまだ日本は占領の真っただ中です。そして片山哲、芦田均の2代にわたる中道左派連立政権がついえ去り第2次吉田内閣となり、この前年の12月の選挙では共産党の議席が4人から35人と大躍進しました。

序文の中でこう書いています。

「本書の本文脱稿と、この序文執筆の今日との間に総選挙が行われ、日本共産党の著しい進出が現れた。この成功は諸般の外面的事情の外、彼等が理論と組織とそうして或る気概とを持つことによることは、何人も認めなければならぬ。私は本書で彼等の奉ずる根本理論の容認し難き所以(ゆえん)を説いたものであるが、しかも彼等に反対する諸政党が、或るものは理論を欠き、或るものは気概なく、而してその国民の前に示す実践行動が総じて卑俗低調の譏(そし)りを免れないことは、如何にも弁護のしようがない。」

それを批判するものが、何とだらしがないことかと書いているのです。歯ぎしりする思いで小泉さんはこの本を書いたのだろうなと強く感じます。

そのように明治憲法下の日本が否定され、共産党が躍進するという大きな時代背景への違和感が、オールド・リベラリストと言われている人たちの中にはあったのです。例えば、南原繁東大総長は天皇退位論を主張するんです。

なぜ退位を主張したのか。それは天皇制打倒を目指しているからではないのです。天皇制を存続させるために今の天皇は退位すべきであるという考えです。美濃部達吉も和辻哲郎もそうです。この人たちは等しく天皇制擁護論です。ところが、この時期に、例えば岩波の雑誌『世界』などで繰り広げられるのは、天皇制に対するより厳しい批判でした。丸山眞男さんなどがそうですね。彼らとオールド・リベラリストは明らかに違う。そういう中、小泉さんは、政治的にも共産党の大きな進出という中で、やむにやまれず書いたのだと思われます。

「万能薬」への疑義

なぜ自分は共産主義を批判するのか、その共産主義反対の理由を非常にわかりやすく書いているのが、『共産主義と人間尊重』という本です。

「第一に、私は生産手段(或いは一切財)の私有を廃止することを、一切の社会悪に対する万能薬(Panacea)と認めない。また、生産手段の公有は歴史的必然の約束だという、形而上学的断定を信じない。第二に、生産手段の公有が仮りに望ましいことであるとしても、その目標に到達するため、階級的憎悪と争闘とを煽るという方法の利害について、甚だしく懐疑的である。否な、増悪と争闘の煽動が人類に齎す恵福は遠くその禍殃(かおう)に及ばないと、私は思う。元来、猜疑と憎嫉は人間の弱点である。その弱点に乗じ、これを煽揚助長して人を動かすマルクシズムを、病人の弱点に乗じて万能薬を売るシャルラタンに比較するのは、失当であるとしても、それによって齎さるる幸福と、それのために忍ばなければならぬ犠牲との比較は、充分慎重でなければなるまい。」

これはいろいろなところに適用可能だと思います。話は全然違いますが、私は、小池都政は改革の自転車操業をやっていると思っています。いつまで続くかなと思っています。ボート会場も結局は元へ戻りました。豊洲市場問題も恐らく豊洲になるでしょう。それ以外に手はない。

小池さんが言ってくれたので、これだけ節約できた。決め方もいろいろ問題があった。それを炙り出した大きな功績があったではないかという見方もあるでしょうね。しかし、お金の問題にしても、この間費やされた費用だって、都庁はこの間これにかかりきりなわけですから、相当なものです。

私がテレビでも厳しく批判したのは、基本的に改革しなければいけないことが間違っているのではなく、そのやり方の問題です。例えば、東京オリンピック・パラリンピックのボランティアの制服を全部見直す、といま見直し検討委員会をやっている。でも、デザインの良し悪しは人それぞれの好みによることでもあるわけです。

これを否定できる根拠はただ1つ、手続きに瑕疵があったかどうかです。若いデザイナーに参加してもらおうと公募して、その中から選ばれたんです。ところが、見直し検討委員会はみんなお年寄りで、孫に見せたら、こんなださいもの着られないと言ったとか批判しているわけ(笑)。正規な手続きでやったものをひっくり返して見直し検討委員会をやる、なんて言っていたらきりがないでしょう。私には非常に疑問があります。

こういうところに小泉信三を持ってくるにはちょっともったいない感じがしますが、思考において小泉信三が批判したものとちょっと似ているのではないか、と思ってお話ししました。

これをやればできるのだという何か万能薬があるかのような考え方に対する疑義ですね。フランス革命でどのぐらいの人間が犠牲になったか。すさまじい数です。そういう犠牲も必要なことだと認めるかどうか。小泉さんは決してそうではなかったと私は思います。革命で失われるものの大きさを考えたのです。それが共産主義批判の本を書いた非常に大きな動機だったのではないでしょうか。

実は、戦前の『マルクス死後50年』と『共産主義批判の常識』等の戦後の共産主義批判の書の大きな違いは、ソ連・東欧が世界の中で大きな陣営になっていくなかで、ソ連・東欧批判にだんだん重点を移して触れるようになっているところです。でも、基本的な認識は同じだったと思います。当時、ソ連も北朝鮮も、まるで天国のようにもてはやされる風潮があるなかで、戦前と変わらず、厳しい批判をしたということは高く評価されなければいけないと思います。

『平和論』──全面講和論に挑む

次に『平和論』(昭和27年)に移ります。1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ平和条約が調印されました。しかし、このときすでに冷戦が事実上始まっていました。チャーチルの鉄のカーテン演説はその5年も前のことですが、だんだん東西冷戦が激しさを増していく中で、サンフランシスコ講和条約に世界のすべての国が署名しなければ、日本がまた塗炭の苦しみを味わうことになってしまう、だから世界のすべての国々と全面講和をすべきであるという強い主張が強かった。しかし、これに対して小泉は「多数講和」を主張する。

当時の岩波書店『世界』を中心とした平和問題懇談会には全面講和論者の有力な人が皆入っているのです。実際の文章は丸山眞男などが書いていました。学界、論壇ではこの主張は圧倒的で、その先頭にいたのが東大総長南原繁です。南原さんは非常に高潔な人なんです。当時、東大の総長は南原繁や次の矢内原忠雄といった非常に人格的に立派な人たちがやっている。だから影響力があった。南原さんはその前の年からアメリカをずっと回り、なぜ全面講和が必要なのかを説いて回った。世論は圧倒的に全面講和論でした。そんな空気でしたから、吉田茂は調印するのに1人で行ったのです。全部自分が背負うという、ある意味では悲壮なる覚悟だったと言えます。

これに対し、小泉さんは『平和論』の序文で、「著者は本書で、切に平和を願うものの立場から、一部でしきりに唱えられた中立論、全面講和論を批判した。かかる批判は、講和及び安全保障両条約が国会の承認を得た今日でも、少しも必要を失わないばかりでなく、寧ろ一層必要になったといえると思う。」と書いている。

「私は中立や全面講和が、それを真実平和のためと信ずる人々によっても唱えられた事実を決して否まない。けれども同時に、実は平和よりも中立よりも、親ソ反米を目的とする宣伝が、平和を名として行われ、そうして心弱き一部の評論家が、それに同調しつつあることを知っている。」

これはなかなかドスをきかせているという感じですよ。読む者に自分の胸に手をあて、自分はひょっとしたらこういう心弱き一部の評論家ではないのかと思わせる。これは私に言わせればなかなか「手練れ」のやり方です。

「本書で私はそれを明らかにすることを試みた。中立と全面講和は果たして可能であるか。不可能と知りつつそれを唱えることが、果たして実際に平和の擁護に役立つか。これ等のことを論ずれば、人々は自らにしてこれ等の主張の価値を知るであろう。……私は平和の名よりも実を願う。名を喜んで、これを唱えるものに対しては、私はその表情を察しつつ、ただその人々が一層論理的に思考することを望まざるを得ない。」

私はもうとやかく言いません。ただ、その顔をじっと見るだけである。これもまた、なかなかきついですね(笑)。続けて「別に下心があって、陽に平和を装う者に対しては、私はただ擬装の事実そのものを指示したいと思う」と書いています。なかなか考えさせられる。

そして、なぜ反対するのかという理由です。本文で言っています。「私は当初から全面講和論、中立論に反対であった。反対というのは、それが出来ても望まないというのではない。出来ない相談だと思ったのである」。それは具体的にどういうことなのかを以下に書いています。米ソの対立関係が緊張してきた今、米ソの間で日本が中立の意思を表示したとする。しかし、それに構わず交戦国一方の軍艦が日本の港に入ったとする。中立国たる日本は一定時間内にこれを退去させなければならない。中立というのはそういうことです。片一方の主張を認めることはできない。しかし、退去しろと言ったって、それに応じなかったらどうするのだ。日本は今、それに従えという強制する力はあるのか。ないでしょう。そうなると、それは中立を唱える者の義務を履行していないことになる。

それはそうですね。一方の軍艦が入るのを黙認してしまうことになるわけですから。「内実はどうでも、中立は守られなかったということになる。……少なくも相手の交戦国は、これを中立違反と見るに躊躇せず、必要または適当と認める処置を取るに躊躇せぬであろう」。あなたたちはそういうことまで考えて言っているのですか。ただ口で唱えているだけではないのかということです。これは今の安保法案反対論も全く同じ論法で批判できると私は思います。

なぜ反対なのか。実はもう1つの理由がある。それは、全面講和論者は責任というものをどう考えているのかということです。『平和論』に対する批判への反批判の中でこう書いています。

「一つの事を主張するものは、当然それから引かるべき帰結に対して責任を負うべきものと思うものである。……全面講和でない講和には反対であるといい、しかも、全面講和を可能ならしめる具体的の提案は示さぬとすれば、それは当然、占領の継続を求める結果となり、当然この結果に対する責任を負わなければならぬ筈である。」(「私の平和論について」)

全面講和論、中立論を唱えるのはいい。しかし、これはできない相談です。しかも、できなければ、できないというだけでは済まされない。サンフランシスコ平和条約が締結されなければ、ずっと占領状態が続くということです。それでいいのですか。あなたたちは責任を取らないのですかという話です。

日本とドイツの憲法観

戦後の歩みを見ていると、ドイツと日本では決定的に違いがあります。東西2つに分割される中で、西ドイツはボン基本法という憲法をつくった。成立当時のボン基本法には軍隊を持つとは全く書いてない。しかし、だんだん冷戦が激しくなってきて軍隊を持たないでどうするのかという話になるわけです。共産圏と接しており、しかもベルリンは分割されているわけですから、ある種の戦争状態が続いているようなものです。そういう中、国防軍を持たなければいけないという話が出てくる。

日本は朝鮮戦争後、警察予備隊から保安隊、その後自衛隊という経緯をたどって事実上の軍隊を持つようになる。しかし、本当は軍隊を持つためには、国会で3分の2の支持を得て憲法改正をしなければできない。吉田茂だって、自衛の軍であろうが、軍隊を持つことは憲法違反だと答弁していたのです。逆に、共産党の野坂参三などが持てと言っているぐらいだった。

憲法を改正するには国会議員の3分の2で発議しなければいけない。ところが、その3分の2を取れない。鳩山一郎などは3分の2を取るために選挙制度まで変えてしまおうと「ハトマンダー」をやろうとしたぐらいです。

ドイツはどうしたか。1954年と56年にちゃんと憲法(基本法)改正をして、西ドイツは国防軍を持つんです。ドイツの政権は戦後一貫して、1つの例外もなく連立政権です。ドイツは基本的に比例代表制ですから、一党が過半数を取ることがない。一党に政権を取らせないという選挙制度です。なぜかといえばナチスの経験があるからです。だから一貫して、例えばキリスト教民主同盟(CDU)とキリスト教社会同盟(CSU)が必ず会派を組み、自由民主党(FDP)と連立政権を組む。あるいは左派の社会民主党(SPD)は緑の党と連立政権を組む。そういう形で今まで60回も憲法改正をしています。

時にはキリスト教民主・社会同盟と社会民主党が大連立をやる。いま民進党は小さくなったけれども、ひところの民主党と自民党が大連立をやるようなものです。そうして3分の2の賛成を得て憲法改正をする。そしてその後、連立を解消するんです。国防軍が必要だから連立政権をやる。大連立の政権があるから憲法改正するというのではない。逆です。

1968年には非常事態法を基本法に加えることを大連立で行っています。ドイツの憲法を読むと非常に厄介です。戦争のときにどうするかを、みんな憲法の中に書き込んである。大連立をやることによって改正することができた。

ところが日本は、閣僚が憲法改正と言うと、すぐクビになるぐらいだからできない。ではどうするか。1つは解釈の変更です。昔、自衛のための組織さえ持てなかったのが、持てるようになります。最小限度の自分の国を守るためですから、これは憲法9条で禁じられている陸海空軍ではない。持っているものも戦力ではないと解釈する。戦力ではないものを持っていてどうするのだ、と僕は思うけれど、そういうことでとにかくやってきました。そうするしかなかった。

その一方で、自民党は何とか3分の2を取りたいとずっと思ってきたんです。この前の参議院選挙で党首討論会を日本記者クラブでやったとき、私が最初に質問したのですが、安倍晋三首相に、「自民党は結党以来、3分の2を取ろうとしてきましたが、それは見果てぬ夢なんですよ。ドイツを真似るべきです。憲法改正は国の最も基本的な法なので、与党と野党の第一党が協力しなければだめですよ」と申し上げた。そうしたら安倍首相は、「おっしゃるとおりです」と言っていました。おっしゃるとおりならそうやってくれよと言いたいのですが、今まで日本はだましだまし来ていた。その思考の底にあるものは何なのか。私に言わせれば無責任ですよ。責任を負っていないということです。

私はそのとき、共産党の志位委員長にも聞いた。共産党は一貫して自衛隊は違憲だ、解体すべきである、日米安保条約は解消すべきであると言ってきた。けれども、自衛隊が違憲だということは、この世に存在していてはいけないということでしょう。にもかかわらず、大きな地震や災害のときには自衛隊が救出に行きます。その時なぜあなたたちは自衛隊が行ってはいけない、とそれを止めないのですか。行くことを批判しないのですかと聞きました。志位さん、何と答えたか。「そこが憲法の矛盾なんです」と。違う、共産党の矛盾ではないかと思いましたが、論争していると記者会見にならないから言いませんでした。変ですよ(笑)。

現在の政治状況と小泉信三の論法

それから、集団的自衛権を認めてはだめだという人がたくさんいるわけです。限定的であれ、認めない。それは戦争に行くための法案だと言っているわけです。日米安保条約に基づいてアメリカ軍が日本にいます。「戦争法案」だと言うなら、米軍がいること自体が戦争に巻き込まれることになるのです。安保法案に反対するならば、まず、「アメリカ軍は出ていってください。日本の防衛は自分たちでやりますから」と、なぜ言わないのですか。そこは口をぬぐって言わない。変じゃないですか。小泉さんが全面講和論を批判したのと同じ論法で今の政治を論ずることが十分可能です。

閣議決定で政府が集団的自衛権を憲法9条違反だと言っていたのに、その閣議決定を見直すというのは立憲主義に反すると言う。これもまた変です。自衛隊は違憲の存在ではないと閣議決定しています。では、それも見直してはだめなのですか、政府の決定は正しいのですか、という話になりますよ。いろいろな考え方があっていいが、要するに理屈に合わないと私は思っている。ダブルスタンダード(二重基準)ですよ。今日いらっしゃっている方もいろいろなご意見もあるでしょう。だけど、少なくとも小泉さんが批判しているのは二重基準ではいけないということだと思います。

ここから何が導き出されるか。言論人は、学者もそうですが、自分の言ったことの責任をきちんと取ってくれということです。学者とはいかにあるべきかということも私は考えます。東大名誉教授の三谷太一郎さんという人がいます。私は非常に尊敬しています。なぜかというと、戦前の吉野作造、原敬についていろいろと書いているのですが、それを読むと、今の政治家や、ものの考え方に対する批判になっている。厳正な学問的成果自体が今を批判する視点を私たちに与えてくれるからです。

ところが、最近書かれた『戦後民主主義をどう生きるか』の中に、この安保法案についての批判が書いてある。読んでいると、私は違うなと思うのです。いま小泉さんが批判されたようなことを非常に感ずる。学者はあくまでも厳正な学問的態度をもって現状を批判することが大事な対処の仕方ではないのかと思うのです。

そうやって見てくると、『共産主義批判の常識』や『平和論』は、ぜひこれからも広く読まれる形で残ってほしいと思います。今回、それぞれの論文に目を通してみて、その先見性に驚き、小泉さんは没後50年ですが、現在の状況と全く重なり合うと、評価して見なければいけないと思いました。

3つ目の皇室との関係については、もうくだくだしく述べません。福澤諭吉の『帝室論』は、小泉さんが今上天皇へのご進講で一緒に読んだ。そして、天皇のあるべき姿を福澤の『帝室論』を一緒に読むことによって教えられたんです。なぜ、帝室はこれだけ長い間、保たれてきたのか。それは政治の外にあるからです。『帝室論』は明治15年に書かれたものですが、その中で帝室(皇室)とは何かを説いています。

「帝室とは政治社外のものなり」で始まり、「国会の政府は二様の政党相争うて、火の如く水の如く、盛夏の如く厳冬の如くならんと雖ども、帝室は独り万年の春にして、人民これを仰げば悠然として和気を催すべし」と書いてあります。私はこれが天皇制の本質だと思っている。長く永続した最大の理由だと思っています。

いま天皇陛下の退位問題が議論になっていますが、福澤諭吉の『帝室論』を是非読んでいただきたい。小泉さん自身が書いた「帝室論」は、よりわかりやすくこのことを書いています。

今日はご清聴ありがとうございました。

(本稿は2016年12月8日に行われた「小泉信三記念講座」の講演に加筆、修正したものです。)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。