慶應義塾

防衛大学校と慶應義塾

公開日:2017.02.01

登場者プロフィール

  • 国分 良成(こくぶん りょうせい)

    その他 : 防衛大学校長法学部 客員教授

    国分 良成(こくぶん りょうせい)

    その他 : 防衛大学校長法学部 客員教授

2017/02/01

拡大する自衛隊の役割

皆さんこんにちは。ご無沙汰しております。私は慶應義塾から防衛大学校(防大)に移り、すでに5年目が終わろうとしています。本日は、私の防大生活における中間報告をさせていただければと思います。私は、防衛大学校を心から愛しています。それは、学生たちは誠実で素晴らしい若者ばかりで、また卒業生の皆さんも一緒にいて気持ちが豊かになるような人たちばかりだからです。

実際に防大に入ってみると、世間での一般のイメージとはおそらくかなり違い、相当にあたたかいところです。もちろん規律は厳格ですし、すべてがピシッとしている世界ですが、しかし、それだけに、そこにいる人々の心はあたたかい。そんな感じを私は受けており、一緒に働いていて気持ちのいい人たちが多いですね。

現在、自衛隊は、非常に忙しくなってきています。自衛隊の役割はきわめて多岐にわたっていますが、言うまでもなく、国防・安全保障、これが最大のテーマであり、最重要の任務です。また、つい最近も南スーダンでの自衛隊派遣の話がさかんに行われていましたが、それだけではなく、海賊対処などでも活躍しています。今後も国連の要請に基づいた形でのPKO(平和維持活動)をはじめ、いわゆる国際平和協力活動は減ることはないと思います。

世界の安全保障環境は、年々厳しさを増しています。私どもの世代は、いわばソ連を見ながら仕事をしていたわけですが、いまはご承知のようにもっと複雑化しています。しかも、自衛隊の活動が多様な形で世界に広がっているので、こうした急激な安全保障環境の変化に対応することは容易ではありません。

さらにもう1つ、自衛隊の仕事で予想以上に期待が大きくなっているのは、特に東日本大震災以来、災害対応と復興支援という役割です。自衛隊は現在、世論調査では信頼度が93%にのぼっていて、日本の中で最も信頼される組織とされています。かつては、自衛隊や防衛大学校の存在そのものが否定されたり、斜めから見られるような時代が長く続いていたことを考えると、状況は大きく変わりました。ある人が、「これまでは愛される自衛隊を目指したけれども、これからは裏切れない自衛隊になってきたな」と言っていました。われわれは表に出る役回りではありませんが、最後の砦として、国民・国家を守るという崇高な任務に精励しなければなりません。

本日は少し防大の内部についてお話しさせていただき、それが実は慶應義塾との非常に深いつながりを持っているというお話をさせていただこうと思っています。

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教育と研究のバランス

正直に申しますと、私は防衛大学校に移って反省していることがあります。それは、私自身の慶應での30年以上にわたる教員生活において、自分は本当に真剣に教育をしたのかということです。もちろん時間も割いたつもりだし、学生もかわいがったつもりですが、本当の意味で教育をしたのか、問われているような気がするのです。

いま防大で、ほとんど毎日のように、学生教育をどうすべきかについての議論に長い時間を費やしています。教育とは、若者に生きる夢や希望を与えることだと思います。あるいは、夢や希望そのものではなくても、そういうものをつかみ取るうえでの、ある種の気付き、契機を与える。これが教育ではないかと、私はこの5年間で実感しています。防大では、教職員全員に「すべては学生のために」をスローガンとして徹底しています。

いったい、大学とは何なのか。これもよく考えます。防大は大学ではなく大学校ですが、大学の役割は、社会人、市民としての使命感、つまりミッションを発見する場ではないかと思います。自分自身が社会のために何をやるのか、やれるのかということですね。

私に「大学」について語る資格が十分にあるとは思いませんが、やはり教育と研究のバランスが重要だと思います。いまは、研究が非常に重視されています。それで先生方はみんな忙しい、忙しいとおっしゃる。そして学校の業務もやらされて大変なことになっていると。私に言わせれば、そんなに大したことはないというのが正直なところです。 これを防大に来て、非常に強く感じています。

大学の教員が研究をするのは当たり前で、研究者である以上、研究に手抜きは許されない。しかし研究に偏りすぎて教育がおろそかになる、しかも研究といっても量の側面ばかりが肥大化していて、質はどうなのか、と感じることが多いような気がします。今日の大学は、入試と就職という入口と出口ばかりに関心を払って、中身の教育がおろそかになりがちです。慶應の場合、就職活動では学生たちが自主的に動くので、教員たちが苦労することはあまりありませんね。大学では、教育をどのように研究に生かすか、研究をどのように教育に生かすかという議論が必要ではないかと思います。

防衛大学校の概要

防衛大学校の教育方針は、広い視野、そして科学的な思考を持ち、豊かな人間性を育む、ということです。私が経験したこの5年間の防大は、一言で言うと、リベラルアーツ・カレッジだということです。

そして防大は、慶應義塾とのつながり、紐帯が非常に強い。私自身、防大に移ってから、むしろ福澤先生の本をかなり読むようになりましたし、また慶應義塾の歴史を繙いたりすることも増えました。なぜかと言うと、防大の原点そのものが、慶應と非常に深い関わりがあるからです。

皆さんは意外に思われるかもしれませんが、私の知っている幹部自衛官の方々、あるいは防大の同窓会の方々には、福澤ファンが多い。福澤の本をよく読んでおられ、信じられないほど福澤に傾倒しておられます。

自衛官の方々は皆さん同じ制服を着ていますから、一見個性がないように見えますが、実は、その制服の下は個性の塊です。それを抑えて仕事をしているのです。なので、引退が近づくと個性がはみ出してくるんですね。そこが非常におもしろい。個性の塊みたいな人たちと話していると、福澤が好きになるという気持ちも非常によく分かります。

防衛大学校は、戦前の陸軍士官学校、海軍兵学校を解体し、戦後の民主主義の下での士官学校としてスタートしました。そこには戦前への反省が盛り込まれています。なぜ失敗したのか、何が間違っていたのか。その議論が徹底的に行われたという歴史が残っています。例えば、防大は陸・海・空が一緒になっていますが、それは、戦前に陸軍と海軍がバラバラであったことへの反省にもとづいています。これは当時の吉田茂首相の考えによるものです。

さて、防大は横須賀の走水(はしりみず)にあります。浦賀と観音崎、ちょうどペリーが来航したところの上にあって、「小原台」と呼んでいます。1952年、保安大学校として、久里浜でスタートしたのですが、その2年後、いまの校地に移りました。これは、初代学校長であった槇智雄(まきともお)先生が決められたことで、当時京浜急行がゴルフ場をつくっていましたが、そこを説得してお願いしたということです。

大学と大学校がどう違うか、皆さんご存じでしょうか。一言で言えば、文科省管轄以外の学校は、すべて大学校です。防衛大学校や海上保安大学校などは、大学ではありません。したがって、もともと卒業生は、学士とは認められなかった。それが平成に入って、文科省が学位授与機構をつくり、学卒として認められるようになりました。

ただし、現在でもわれわれには、学位審査権がありません。したがって、防大には非常に水準の高い研究者がたくさんいますが、その先生たちは、学位を出す権利を持っていません。日本の大学はどこでも先生方が審査権を持っていますが、防大はそうではありません。修士、博士については、100%外部の、その分野のトップの先生たちが覆面審査しています。このことだけみても、防大の先生たちがどれだけ苦労して教育にあたっているかがお分かりいただけると思います。この点に関しては、もう少し「大学」としての立場を認めてくれればと思っています。

防大には、「大学院」という名称がありません。「大学院」は、「大学」にしかつくれないからです。したがって、防大にあるのは「研究科」という名称です。理工学研究科、総合安全保障研究科のそれぞれ前期博士・後期博士課程を持っていますが、「大学院」という名称は使えません。

防大は、理系が中心の学校です。これも戦前が精神主義に偏り、科学的思考が足りなかったことへの反省にもとづいたものです。吉田首相の考えで、開校当初は理系しかありませんでした。70年代に文系が入り現在に至っていますが、文系はだいたい2割ぐらいです。

防大は6つの学群、14学科、6つの教育室を擁していますが、ほとんどが理系で、1学年は480人、女性が約1割で、増員傾向にあります。それ以外に留学生が全体で約120人、約6%ですから結構多い。ほとんどは東南アジアからの学生です。いまのところ11カ国から受け付けています。留学生のカリキュラムは5年間で、最初の1年は日本語の学習です。後の4年間で、教養・専門課程を学ぶことになります。また、数週間から数カ月の短期留学生もいます。ちょうどいま、アメリカのウエストポイントの陸軍士官学校やアナポリスの海軍兵学校などから学生たちが10人ほど来て、4カ月の研修を終えて帰る時期です。

もちろん、防大からも学生を海外に送っています。年間約40人で、数週間から1年の幅での派遣です。一番長いのが1年で、韓国に送っていますが、多くは1セメスター、4カ月とか半年などです。彼らは真剣ですから、3、4カ月でも、人が変わったようになって帰ってくる。われわれが見ていても非常に頼もしく思います。

学生は、特別職の国家公務員ということで、手当が出ます。月額11万円強ですが、そこから食費などが天引きされ、実際は8万円強ぐらいではないかと思います。若干の期末手当も出ることになっています。

スタッフですが、学校長と副校長全体で4人、現在、教官が292人、事務官が217人、245人の自衛官、全体で758人です。教官は異動がほとんどありませんが、事務官と自衛官は、1年、長くて2年で交代しますので、人事異動が非常に多い職場です。しかし、人が代わっても組織として継続させるのが原則です。副校長は3人で、1人は教官の代表、もう1人が防衛省の官僚、もう1人が幹事という呼称で陸将(中将)クラスです。ほかに海将補1名、空将補1名で、それぞれ訓練部長などの役でおられます。

学生は、2年のときに陸・海・空に分かれます。これは希望と適性によって分けます。割合としては、陸・海・空で2:1:1です。防大を卒業しても、すぐに最前線の自衛官になるわけではありません。そのあと、幹部候補生学校に進みます。したがって、実質は約5年間学ぶことになります。幹部候補生学校では陸(久留米)・海(江田島)・空(奈良)に分かれて、それぞれ半年から1年間、座学と訓練があります。例えば一般大卒の人が自衛官になる場合、この幹部候補生学校で防大卒業生と合流するわけです。

このところ、いわゆる有名大学から自衛官への道を進む人が非常に多くなっています。慶應からは陸・海・空合わせて、毎年5人ぐらいでしょうか。女性のパイロット志望者も出ているようです。早稲田もそれぐらいで、東大・京大出身者などもだいたい同様の状況です。

ただし、防大卒業生のほうが4年間訓練などで鍛えていますから、最初はだいぶ差があるようです。一般大の卒業生がそれに追いついていくのは大変だと思いますが、頑張っています。そこを出ると、三尉、いわば少尉の格になって部隊に散っていくことになるわけです。

このようにして自衛官になっていくのですが、そのあとも研修や試験も多く、海外留学の機会も増えています。

防大生の生活

防大の3本柱は、「教育・訓練」「学生舎」「校友会」です。言い換えれば、学業・服務・体力。さらにもう少し言い換えると、智・徳・体。このバランスを大事にしています。

防大には本当にたくさんの行事があります。入校式に始まり、棒倒しで有名な開校記念祭。そして卒業式は、首相、防衛大臣が参列されます。卒業式の最後に、皆で帽子を投げることでも知られています。

なお、卒業はするが、任官をしない、つまり幹部候補生学校に行かないという辞退者が毎年5〜8%います。それにはいろいろな理由があります。個人的な理由も多いのですが、最近は景気が上向いていて、有効求人倍率が高くなっていますが、こうした要因も影響します。ただし、総合的にみると、辞退者の数は毎年そんなに大きく変わっていません。

辞退の理由には、やはり、きつくてついていけないということもありますし、人の命を預かることにどうしても自信が持てない、あるいは健康上や家を継がなければならないなど、家庭のさまざまな事情からということもあります。そういう人を、無理やり任官させることはしません。人々の命、そして国を守るという、心身ともに非常につらい仕事であることは分かっているので、無理にはさせません。心に迷いがあると、部隊の統制などにも影響がでますので。

いま申し上げた3本柱を簡単にご紹介しておこうと思います。最初の「教育・訓練」ですが、一般大学の卒業単位が124単位なのに対し、防大は152単位です。防衛学という授業があり、これは防大の特徴です。国防論、軍事史、あるいは軍事技術、統率、戦略などです。自衛官の方が教えるケースが多いですが、来年度からは時代に合わせてサイバー戦も必修科目になります。

さらに、訓練の時間が4年間で合計1005時間あります。7月はほとんど丸々1カ月、部隊に散って訓練をします。専門の訓練は、陸・海・空に分かれて2年のときからそれぞれ始めることになっています。

共通訓練として、1年の富士登山や遠泳などがあります。1年夏のこの遠泳では、泳げなかった人も含めて、毎年全員が横須賀沖を8キロ、6時間ほどかけて泳ぎきります。やはり指導の仕方が見事ですね。毎年、感動的です。

2年ではきついカッター競技やスキー訓練があります。そういえばちょうど今日、3年生が硫黄島の研修に発っていきました。それ以外にもちろん射撃研修などもあります。

2つ目の「学生舎」は、宿舎、寮のことですが、ある意味で寮生活は、防大生の生活の根幹になります。学生舎は、4つの大隊に分かれています。大隊1つが約500人です。その中がまた4つの中隊に分かれています。さらにそれぞれの中隊が3つの小隊に分かれます。小隊という一番小さい隊でも、1個約30〜40人です。小隊長というだけでも、数十人を統率しなくてはならないわけです。なお、大隊、中隊、小隊のそれぞれに、陸・海・空自衛隊から若い幹部が指導官として日常的に付いています。

学生舎では、1年から4年まで、留学生を含めて全員が一緒に暮らします。いま人数が非常に多くなっていて、だいたい8〜10人部屋ですが、勉強部屋と寝室に分かれています。寝具をきちんとたたんでいないと、先輩にガサッとやられてたたみ直し。あるいは身の回りのものが整頓されていないと先輩に怒られる、というような世界です。

ほとんど日本語の分からない、日本に来たばかりの留学生も一緒に暮らします。そして、たった1年でどうして日本語がそんなにできるのかというぐらいになります。それほどに見事に留学生が育っていっています。

日常生活は、朝6時起床で、1日のうちに点呼が何回かあります。これが結構大変で、服のアイロンがけや、ズボンの折り目がきちんとしていなければやり直しです。靴が磨いてなければこれもやり直しです。そういうことを一人一人、お互いに点検しています。

国旗掲揚・降下の時間が来たら、必ず正対をします。それはわれわれも同じです。そして、課業行進もあります。授業に行くとき、それぞれの教室に行くスタイルが決まっています。実験のときは作業着、座学のときは常装でこのかばんを持つ、など決まっていて、それぞれ隊を組んで行進して教場(教室)に行きます。その行進自体が訓練です。つまり、きちんとパレードができるようになるためのものです。

第1大隊から第4大隊で、第4大隊が一番長い距離を行進するので、第4大隊がパレードが一番うまくなると言われます。授業の後は校友会(部活動)があり、消灯は22時30分ですが、延長は可能です。

平日外出は原則一切禁止です。授業関係の研修や見学に行く以外で、外に出ることはできません。いわゆる「脱柵」を何回もやると、それだけで退校処分になることもあります。もちろん、授業を何回か勝手にサボるだけでも厳しい処分があります。

土日の外出は可ですが、1年生の場合は制服着用です。また、校門を通過する際は、必ず制服着用です。つまり、2年から4年までは、外に出てから私服に着替えたいので、何人かで学校の近くに下宿を借りて、そこで着替えて町に出て行きます。日曜夜の門限が近づくと、みんな走るように帰ってきます。

1年生は夏休みなど正式な休暇以外、基本的に外泊ができません。しかし2年から4年までは、20日前後、外泊が可能です。もちろん、国家公務員ですから、休みはそんなにありません。正月休みなどはありますが、普通の大学生の半分以下、3分の1ぐらいでしょう。

昨年度から、年度最優秀大隊を選ぶことにしました。種目は全部で11あります。パレードや体力測定、カッター競技会もあります。これは2年のときの登竜門で、海上で激しいボート漕ぎ競争となります。これを終えると2年生として認められるというもので、非常につらい競技です。私はいつも海上で応援しているだけですが(笑)。それから水泳競技会。いろいろな泳法や着装のままのレース、教職員対抗レースもあります。私も毎年エキシビションで副校長や幹事と出ていて、学生たちが「リョウセイ」コールで応援してくれます。

英語能力競技会もあります。これはTOEICの点数を競うもので、1年間で300点伸びたような学生を個人表彰しています。先日は低学年を中心に演劇祭もありました。

そして、棒倒し。これはぜひYouTube でご覧いただきたいと思います。これはただ倒すだけではなく、相手はどういう作戦で来るかといったことをお互いに事前に諜報したりします。ビブリオバトル(書評ディベート)は、いま多くの学校でも行われています。隊歌コンクールでは、それぞれの大隊代表が、歌とパフォーマンスを競います。また断郊競技会、これはクロスカントリーです。ただし、荷物と背嚢を背負って、女性も一緒で、必ず全員でゴールしないといけないので、一番遅い人に合わせないといけない。チームワークですね。それに持続走、つまりマラソン大会があります。

パレード、体力測定、カッター、水泳競技会、英語能力、演劇祭、棒倒し、ビブリオ、隊歌、断郊、持続走、この全11種目の総計で年度最優秀大隊を選びます。それぞれ点数化するわけですが、みんな必死に頑張ります。昨年度は第3大隊が優勝しました。

校友会とは、部活動のことです。ただし、防大では学生全員が体育会に所属します。しかし、練習する時間がほとんどありません。毎日17時15分から18時30分までで、着替えなどの時間もありますから、結局1日に1時間ちょっとくらいしかできない。ですから、休日に練習します。授業をさぼって運動をやるなんてことはあり得ない(笑)。もしそういう学生が慶應にいたら、ぜひ防大を見習って、学生の本分に戻っていただきたいと思います。ただ、そうすると、強くはなりませんが。リーグで2部、3部か、それより下という校友会が普通です。でも彼らはやはり日頃から鍛えていますから、総合的な運動能力は高いと思います。女性も立派な体力と精神力を持っています。文化部や同好会もいろいろありますが、いずれにしても大事なことは、体力とチームワークです。そして同時に、自分の好きな活動に参加して、そこで個性を発揮してもらうということです。

卒業の少し直前には、卒業ダンスパーティがあります。ここで一生の伴侶に出会うということもあるようです。なぜなら、日頃はほとんどそういう機会がないからでしょう。ただ最近は週刊誌などで「防大生は婚活でモテる」というような記事も出ていて、それは分かるような気もします。

防大の目的とは

さて、防大は、幹部自衛官の養成が目的です。学生は、「服務の宣誓」を必ず行います。「私は、防衛大学校学生たるの名誉と責任を自覚し、日本国憲法、法令及び校則を遵守し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、知識を涵養し、政治的活動に関与せず、全力を尽くして学業に励むことを誓います」というもので、入校式のときに、全員にやってもらいます。

そして、防大生活において学生は、「広い視野と豊かな人間性を持ち、道義をわきまえ、積極的でかたよりのない立派な性格徳操を具備するとともに、幹部自衛官の職務の特質を理解し、これに適応する基礎的資質を体得した伸展性のある自己を確立することを目標とする」と規定されています。つまり、4年間の教育と訓練を通じて、国家・国民を守り、世界平和に貢献する使命感(mission)を育成することです。公のため、そして人のために一生を捧げるDNAを植え付ける。これがわれわれに課された教育目標であります。

防大でバリバリの自衛官ができるわけではありません。実際には部隊に行ってからすべてを経験することになります。そのための人間的土台づくりとして、学業と体力と精神修養、つまり智・徳・体のバランスを重視するのです。それは彼らが将来、人の生命をお守りする、あるいはそれに関わる仕事だからであり、危機に面する機会が多いからです。

危機に遭遇したとき、決断力やリーダーシップに欠けていたら困ります。また、フォロワーシップ、つまり部下のことをきちんと分かっていなければならない。ということで、初代学校長の時代から、繰り返しつくり上げてきたわれわれのモットーは、「真の紳士・淑女にして真の武人たれ」です。これが、防大のいたるところに掲げられています。

また、こうしたことをもとに学生たちが自主的につくり上げたのが学生綱領です。現在も引き継がれていて、「廉恥・真勇・礼節」という言葉があります。これも防大のいたるところに刻み込まれています。

こういった防大の建学の精神は、やはり戦後の非常に厳しい時期を受けてのものだと思います。防衛大学校ってただの軍事学校じゃないのか、昔の軍国主義ではないのか。このような一方的なレッテルを貼られたり、昔の世代には、制服を着ていると水を掛けられたり、石を投げられた方々も結構いたようです。そのような中で耐えてきた歴史があり、その中でつくられてきた1つの文化であるということです。

世界一の士官学校を目指す

防大は私が着任した2012(平成24)年、創立60周年を迎えました。私は着任した際、60周年の記念の年だけ騒いでいては駄目で、61年目が大事だ、ということを申し上げました。また着任後すぐに、刑事法に違反するような服務事案や、いじめ事案もありました。それらの経験を踏まえて総点検し、日本一の大学、世界一の士官学校を目指そうと「新たな高みプロジェクト」を立ち上げました。

防大は、もちろん学業だけやっているわけではありません。体育大学のような体力錬成も行っています。さらに、宗教大学のような精神修業も行う。つまり、3つの種類の大学でやることをいっぺんにやっているのです。こんな大学は他にないということで、私は、防大は日本一の大学だと申し上げています。日本に防大は1つしかありません。

私はこれまで世界中の士官学校を回っていますが、防大が世界一の士官学校になれるという確信を少しずつ持ちつつあります。それはいろいろな理由がありますが、何よりも、まず陸・海・空が一体化している学校がほとんどありません。どこの国でも、陸軍と海軍ではあまり仲がよくないといったことが見られます。あるいは、理系・文系の融合も防大の特徴です。そして、防大の持つ「和」の精神があります。防大に来る留学生は、実によく定着します。ですから、世界中からいま、防大に学生を預けたいという要望がたくさん来ています。現状ではとても受け入れきれないので、基本的にはアジアに限るという形にさせていただ いています。また日本人の美徳でもある清潔感、あるいは、大学院(研究科)を持っていることも防大の特徴です。

さらに、現在の自衛隊の将官のおそらく8割以上が防大卒であるということです。ちなみに、ご紹介したように防大には3人の副校長がいて、1人は幹事と言いますが、現在の陸上幕僚長を務める岡部俊哉陸将は、以前私のもとで幹事として尽力してくれた方です。このように、防大に来る自衛官は、ロールモデルとして学生に示しています。

さらに、新設した教養教育センターでは、この春も坂東玉三郎さんにお越しいただくなど、文化に関する授業を非常に増やしております。また、このセンターでは英語教育にも力を入れています。英語は自衛官の場合、命に関わります。いま聞いた英語のなかに、“not” の1語が入っていたかいないか、コンマゼロ何秒の世界で判断を下さなければいけない。ですから、やはり英語は徹底的にやらなければいけないということになります。また、国際交流センターを設置し、バラバラに存在していた国際交流業務を一元化しました。加えて、今年からグローバルセキュリティセンターをつくり、防大の特色を生かした学内外の共同研究を行うことにしました。防大は教育が中心ですが、レベルの高い教官たちの研究を奨励する必要があると感じたからです。

リベラルアーツ・カレッジとしての防大

最初にも申し上げましたが、防大校長の立場にいると、リベラルアーツ・カレッジを運営しているような感覚を覚えます。カレッジと呼ばれるところは、いわゆる学生寮を必ず持っています。イギリスのカレッジでは、学生はみんな寮で厳格に暮らしています。つまり、学校生活で起こった問題を毎日仲間同士で解決しないといけない。それによって大人になっていくというのがカレッジです。ですから、このカレッジの文化を、本当の意味で持っている日本の大学は、ほとんどないと言っていいと思います。

防衛大学校では、三恩人と呼ばれている方々がおられます。一人は吉田茂、言うまでもなく、元首相です。そして、小泉信三元慶應義塾長、そして槇智雄先生です。防大の資料館にも、このお三方の展示をさせていただいています。そして、このうちのお二人が塾出身です。

吉田茂は、先ほど申し上げたように、陸・海・空の統合をはかりましたし、理系を重視しました。これは戦前に対する反省にもとづいていました。さらに、少なくとも初代からの学校長はあくまで民間人を登用しようとしました。私も、世界中の士官学校会議に出席しますが、校長はほとんど軍人です。私はシビリアン(文官)の学校長として会議に出席していますが、世界的にみて珍しいことだと思います。

以前、現財務相の麻生太郎大臣にお会いした折、ひとつのお話を伺いました。麻生大臣が、おじいさまの吉田茂から聞いたお話です。吉田が駐英大使のとき、辰巳栄一という駐英武官がその下にいました。その後、陸軍中将になる人ですが、この人は英米派で、アメリカ、イギリスとの戦いは絶対にノーと主張した方です。この辰巳が、戦後防大の創設についても吉田にいろいろと進言していたのを子供心に覚えている、と麻生大臣は話されていました。

吉田茂は、防大の校長を最初は小泉信三先生にご依頼しました。しかし、自分はいま東宮御教育参与という仕事をしているため、一番信頼できる槇智雄を推挙したいという話になったわけです。それまで吉田首相は槇智雄と面識がなかったのですが、紹介されてお会いして、その場で即断したと言われています。

1933(昭和8)年に小泉信三が慶應義塾長に就任し、1947年まで務められました。そのときの学務担当常任理事が槇智雄です。小泉塾長の任期すべてにわたって、常任理事として務められました。

当時は、慶應義塾には常任理事が財務担当と学務担当の2人しかおられなかったようです。槇智雄は、1914(大正3)年に塾の理財科を卒業し、オックスフォード大学に留学して哲学者アーネスト・バーカーのもとで民主主義の政治思想を学び、1920年にニュー・カレッジをファースト(首席)で卒業されました。日本人で初めての首席卒業です。翌21年に帰国されて、法学部の教員になられた。その後、法学部の教授になられ、そして国際連盟慶應支部(いまの慶應国際政経研究会)の会長を務められます。ちなみに、私も慶應国際政経研究会に所属しておりましたので、学部のときから、槇智雄という名前は記憶にありました。

槇智雄と慶應義塾

槇智雄は1925年、34歳で板倉卓造先生のあとを受けて2代目の体育会理事に就任され、体育会の合宿施設である山中山荘を主導的に建設し、同時に体育会の各施設を次々とつくっていった。その中で小泉先生が特に感激したのが、テニスコートでした。こうした体育会における槇の働きからか、小泉新塾長は槇を常任理事に任命しました。このとき槇先生は42歳でした。

槇智雄は塾の常任理事として、どのような仕事を担当されたのか。当時の最大の事業は、林毅陸塾長の時代から始まっていた、日吉キャンパスの建設です。日吉に大学の予科をつくる、さらに藤原工業大学との連携によって工学部を新設していくという計画がありました。これらを槇常任理事が担当しました。いまの日吉の第1校舎、第2校舎といった校舎を建設するとともに、陸上競技場をはじめ体育の施設も建設していきました。日吉の銀杏並木など造園に関しても、業者を回って槇先生が選定されたようです。

天現寺の幼稚舎の建設についても槇常任理事のお仕事だったようです。その槇先生が一番思いを寄せたのが、日吉寄宿舎の建設です。これは現存していますが、1937年に完成しました。当時、個室で床暖房、水洗トイレが付き、ガラス張りの風呂というものです。3つの棟をつくって、真ん中の棟の初代の舎監もされたそうです。やはり、イギリスのリベラルアーツ・カレッジへの思いが非常に強かったのではないかと感じます。槇先生は、「気品の泉源、智徳の模範」という言葉を、防大に来てからもしばしば使われていました。そういった礼節の重視を盛んに言われていました。

その後、1941(昭和16)年から太平洋戦争が始まります。学生と教職員の戦時動員が始まり、43年からは学徒動員で、学生たちがキャンパスから消えていきます。そして槇先生は予科(日吉)の主任になりますが、戦況が悪化し、1944年になると、いわゆる「陸にあがった海軍」の時代になります。

連合艦隊司令部が場所を考えた結果、有力候補に日吉キャンパスがあがり、日吉への移転を海軍が決定します。その交渉にあたったのも槇先生のようで、1944年の9月に移転しています。寄宿舎は司令部の作戦室や士官の宿舎になっていきました。その後、地下壕の建設が始まったのは皆さんご存じだと思います。

先日、防大のスタッフたちと一緒に、地下壕の見学をさせていただきました。やはり当時の米軍は相当丁寧に土地情報を得ていて、地下壕の周辺や出入り口あたりを中心に激しく爆撃していたようです。周辺の民家もだいぶ被害を受けています。慶應義塾は最大の戦禍を受けた大学の1つと言われていますが、日吉キャンパスも相当に破壊されました。小泉塾長、槇常任理事の落胆はいかばかりだったかと思います。

小泉塾長は戦争でご子息も亡くされ、そのあと空襲で顔に大やけどを負われました。1947年1月、槇先生は小泉塾長とともに、常任理事を退任されておられます。

小泉信三と槇智雄

さて、この3人の関係をもう少し詳しく見てみたいと思います。槇先生の書かれたものによると、吉田茂は「今日は民主主義の時代である。多くは昔のままではいかぬ。士官教育また然りである」と語っていました。このような考えには、先ほど紹介した辰巳氏のアドバイスなどもあったのかもしれません。吉田茂は、首相時に2回、それ以外にも5回、計7回防大に来られました。

小泉先生は十数回来られています。そして、防大での講演集が、『任重く道遠し――防衛大学校における講話』(甲陽書房)という1冊の新書になっています。小泉先生は、時にはご自分から、防大に行きたいと槇先生にお願いしたようです。小泉先生はこのように言っています。「槇智雄さんは私の多年の親友であり、私が十年余り慶應義塾の塾長をしておりました時に、槇先生は(…)副塾長のような位置にいて終始私を助けられた無二の親友であります」(『任重く道遠し』93頁)。さらに、次のように、正直に言っておられます。「防衛大学校長の仕事は気の毒だ。(…)国防のごとき大切のことに世間は冷ややかである。軍閥の復活だといい、学生にも悪口雑言を浴びせる。さぞ気苦労の多いことであろう。心から心労ねぎらい申す」(槇との会話、槇智雄『防衛の務め』中央公論新社、2009年、303頁)。

では、槇先生は小泉先生に対してどのような感情を抱いていたのか。槇先生は、昔、小泉塾長が学生に対して語っていた有名な「塾長訓示」を思い起こし、自身がいつのまにかこの言葉に影響を受けていたことを吐露しています。

「一、心志を剛強にし容儀を端正にせよ。一、師友に対して礼あれ。一、教室の神聖と校庭の清浄を護れ、一、途(みち)に老幼婦女に遜(ゆず)れ」(『防衛の務め』296頁、一部修正)。

槇先生は防大で、例えば電車やバスに乗ったときは、座ってはいけない。特に制服を着ているときは、きちんと礼儀をわきまえること。そして、人に対して範を示しなさいということなどを、いろいろと学生に言っていたようです。それは振り返ってみたら、小泉塾長が言っていたことを実践したに過ぎないと、自ら漏らされています。

さらに、槇先生はこのように言っています。「塾長時代の小泉先生は、持するところ高く、気性も強く、理路整然としてことばの切れ味も鋭かった。人はこれを尊敬した。しかし晩年の先生については、英語のmellow という字を思わせる」(『防衛の務め』299頁)。mellow とは「円熟」という意味でしょうか。

槇智雄の防大での功績

では、防大で槇智雄先生は何をされたのか。槇先生のさまざまな論述を拝読していますと、非常に哲学的な表現が多い。これは特に、イギリスの政治哲学者アーネスト・バーカーから学んだことが大きかったのではないかと思います。と同時に、やはり福澤を相当読み込んでいるというのが分かりますし、また、小泉先生からも相当に影響を受けている。そして、イギリス時代のカレッジの生活からの影響、また、海軍大将であった井上成美などからの影響も感じられます。井上は軍内でリベラルな立場を取っていたことで知られ、戦後は非常に質素な生活を三浦半島で送っていました。槇先生は、井上のところにも何度か足を運ばれました。

槇先生は1952(昭和27)年から、1965(昭和40)年までの約13年にわたって学校長を務められました。60歳から73歳までです。いくつか先生の言葉を紹介したいと思います。

第1期生に対して語ったこととして、「第1に諸君の任務は偏することなき均衡のとれた人物を要求していること、第2に諸君の任務は民主制度に対して的確な理解を要求していること、これであります」(1953年第1期入校式式辞、『防衛の務め』21頁)。この2つのことを、新入生に対して伝えています。そして、防大生活における自由と規律に関しては、「規律なくして真の自由はなく、遵法精神または正義に服従する意思なくして真の民主制度は成立しません。(…)われわれは個性の発展を重視するとともに、大きな期待をこれにかけるものであります。(…)個性は野放しのものではなく、また個人の自由は放縦を意 味するものではありません。(…)正しいことを目指すことにおいてのみ個性の発展があり、正しき行いにおいてのみ自由があるのであります」(同書23頁)と語られています。

実は、防大の草創期、慶應の英文学者であった池田潔先生の『自由と規律』が必読書になっていました。それは私たちぐらいの世代の防大でも、やはり必読書だったようです。

「士官にして紳士」(同27頁)、「『高い身分には義務が伴う』Noblesse oblige」(同29頁)、「規律、自主、信頼」(同30頁)これらの言葉が学校のいたるところに刻み込まれていて、特に「ノブレス・オブリージュ」という言葉は槇先生の胸像にもあります。また、「われわれは大体3つの目標を考えております。1つは立派な社会の1人であるとともに有用な国民の一員であること、他の1つは立派な部隊幹部であること、さらに他の1つは立派な学識を持つ人たることであります」(同46頁)。このようにも語られています。

先ほどご紹介した学生隊、それから校友会については、「学生隊と校友会を、われわれは知能技術における教室、訓練における訓練場、または様々の所で行なう演習の場と同様に、幹部自衛官の人柄の養成場と考えているのであります」(同181頁)。これもいわば、自主自律の精神の涵養ということにつながります。

「この特異独特の教育体系は、理工学に重点をおきますが、これを専門教育または職業教育と考えることを極力避けて、むしろ全体を流れる教育上の主義は、一般またはリベラルの色彩の濃いものであるのです。専門教育を急ぐの余り、諸君の年齢期にあって修得せねばならぬものを失うことは、厳に慎まねばならぬとして参りました。人生への準備であり、諸君の一生のことを考えることが諸君のためでもあり、また自衛隊を利益するものであるとの信念によったものです」(同90頁)。つまり、専門教育に最初から走るのではなく、その人間的な基礎をどうつくるかに、すべての本質があるということです。人間性の土台づくりが、 自衛隊に対しても利するものであると考えられています。

防大で学んでいる学生たちは、いますぐに部隊のトップに立つわけではありません。本当の意味で、この国や国民を守る中核を担うようになるのは、だいたい2、30年後です。つまり、2、30年後に彼らがどのような状況の中で、何をしているのか、そのとき何が必要かを考えて、いまの教育をやらなければならないということです。

したがって、われわれは、槇先生の教えを繰り返し読み直している毎日です。槇先生が非常に好きな言葉に、「心に遅れをとっていないか、腕に力は抜けていないか」というものがあります。先生の本に何度も出てきます。これはつまり、智・徳・体の融合ということです。また先生はパスカルが非常にお好きでした。小泉先生はどちらかというと、孔子・論語からの引用が多いですね。しかし、槇先生は西洋思想からの引用が圧倒的に多い。槇先生に小泉先生が「論語を読むといいですよ」というお話もされたようですが、槇先生は主に西洋思想から取ってこられています。

「〔パスカルは〕『力の伴わぬ正義は無力であり、正義の伴わぬ力は抑圧である』と言った。防衛組織に正義は常に伴侶でなければならぬ。もしこれなくば、防衛の力は道義的に無力であるか、あるいは忌むべき暴力に堕するであろう」(同290頁)、「平和は進歩に欠くことのできない要因である。しかし、国の独立を見失うての平和は何の意味もない。また、国民の幸福とその理想の実現に国民の基本的自由は大切である。しかし、このために国民は国を守る責任から解放されるものではない」(同213頁)。

ここで思い出すのは、福澤先生の、「一身独立して一国独立す」、「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」という言葉です。槇先生は晩年、塾の職員だった昆野和七さんに、このように語っておられます。「塾(慶應義塾)ではやれなかったことを、もう1度、防衛大学校でやった」(昆野和七「槇智雄先生の追憶」『槇乃実 槇智雄先生追想集』昭和 47年)。

つまり、小泉塾長のもとで槇先生は日吉の建設などを通じて、おそらくカレッジをつくりたかった。大学の予科において人間としての一般教養を教え、きちんとした人間的な基礎をつくろうとした。その思いを込めて、おそらく、オックスフォードを心に描きながら日吉をつくられたと思いますが、それが結局、戦禍にまみれてしまった。思いが遂げられなかったという無念が、槇先生にはあったように思います。

そして、小泉元塾長はおそらくそれをご存じだったからこそ、ご自身が吉田茂から防衛大学校の学校長を打診されたとき、槇智雄先生を最初に推挙された。このような歴史があったのだということを、われわれは理解できるのです。

慶應義塾との歴史的な紐帯

吉田茂、小泉信三、槇智雄という、防衛大学校の原点に立ち返り、その思想、歴史の変遷を見てきましたが、慶應義塾との歴史的な紐帯を感じざるをえません。それは一言で言えば福澤精神につながっていくものです。「一身独立して一国独立す」に原点があり、なぜ、幹部自衛官の方々で福澤が好きな人が多いか、というところにもつながります。小泉信三と槇智雄という2人の人物を通して、防大に福澤精神が注入されたのでした。

実は、私の恩師である石川忠雄は、防衛大学校の学校長を依頼されたことがあります。私が学部から大学院に行く1976年前後のことだと思います。石川先生が防大に移られるという噂を私も聞き、大学院に進学したので心配になったことがあります。当時、京都大学の猪木正道先生が防大の第3代学校長でしたが、猪木先生も就任時、京大で反対運動にあったそうです。その猪木先生が1番信頼していた学者の1人が、石川忠雄でありました。それは、ご子息の猪木武徳先生からも伺っています。

しかし、結局1977年、石川先生は塾長に就任され、防大校長をお断りになったという経緯があります。その後1990年代に入り、おそらく石川先生のところにまたご相談が行ったのかもしれません。塾の松本三郎先生が推挙されました。松本先生は、石川塾長時代の16年のうち12年を、学事担当理事として塾の発展に貢献されていました。湘南藤沢キャンパスの建設などは、松本先生のご尽力がなければ難しかったのではないかと思います。その松本先生が、第6代の防衛大学校長に着任され、1993年から2000年まで務められました。

松本先生の防大でのお仕事にも、やはり慶應精神が感じられます。特に、卒業生を大事にするということで、ホーム・カミング・デー、ホーム・ビジット・デーなど、卒業生に対する配慮を考えられたり、また民間の資金などをどう活用するかということも考えておられました。松本先生は塾の常任理事時代、石川塾長とともに、創立125年の募金を三田会等から集めるのに相当苦労されていたのを、私もずっと下から見ておりました。松本先生はその後、防衛大学校協力会という支援機構を、地元横須賀を中心に全国的につくることに奔走されて、そこに一定の資金を集めて、学校行事に対する各種の支援や、留学生に対する支援活動などを進めることに尽力されました。ある意味で、福澤以来の塾の精神を松本先生も継承されているなと感じます。

おそらく皆さんの中には、槇智雄という名前を聞いたこともない方もおられるのではないかと思います。また今日お話ししたような歴史もご存じないかもしれません。しかし、本日ご紹介したように、さまざまな人々の熱い思いが結晶した中で歴史はつくられていくのであり、そういう全体の構成の中に歴史というものはあるのだということが分かります。私は防衛大学校ですでに5年も勤務させていただいて、改めてその歴史を繙くなかで、人間的にも非常に成長させていただいていると思います。

「義塾」という言葉の本来の意味は、誰にでも教育を施す学塾ということです。つまり、お金を取らずに、いろいろな義捐金などによって平等に教育を施すところです。これは実際には私学では大変なことですが、私どもの防大は幸いに国立であり、また学生たちは若干の給料もいただいていますので、そういう意味では、いわば「防衛義塾」をつくっているということにもなると思います。

最初に申し上げたように、私自身、慶應時代にあまり深く考えなかったこと、教育とは何かということを、防大でいま改めて考えさせていただいているとともに、日本で唯一無二の学校をつくる事業に関与させていただいています。このようなことに完成形はありませんので、永遠の課題だと思いますが、今後も福澤以来の義塾の精神を原点に持ちながら、さらにチャレンジをしていきたいと思っています。そして、いずれまた、次の方にうまくバトンタッチをして防大精神、つまり槇イズムを繋いでいくつもりです。

本日は、このような貴重な機会をお与えくださいまして誠にありがとうございました。

(本稿は、平成28年12月13日に行われた第703回三田演説会をもとに構成したものである)

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※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。