慶應義塾

ヘルムート・シュミット:義塾を訪れた外国人

執筆者プロフィール

  • 杉浦 章介(すぎうら のりゆき)

    その他 : 名誉教授

    杉浦 章介(すぎうら のりゆき)

    その他 : 名誉教授

2018/03/03

経済学部創立百周年記念事業

西ドイツ元首相ヘルムート・シュミット氏の来塾は、1991年春の経済学部創立百周年記念行事の一環であったが、この記念事業は、実は2本立てであった。

第1は、激動の国際情勢の中、「世界経済における調整と協調」と題する百周年記念シンポジウムの開催(同年4月23日開催 帝国ホテル)であった。このシンポジウムには、シュミット氏の他、レイモン・バール(元フランス首相)、ポール・ヴォルカー(前米連邦準備制度理事会議長)、アルヒモフ(ソ連国立銀行総裁)、松本英一(東京銀行副会長)、ならびに行天豊雄(元財務官・司会)の諸氏が登壇し、会場には元首相福田赳夫氏の姿も見られた。

1991年を振り返れば激動の年であったことに思いが至る。ソ連ではゴルバチョフ大統領が市場経済への移行を決定し、新生ロシア共和国ではエリツィン氏が大統領に就任、更に旧ソビエト旧守派による夏のクーデタの失敗は、共産党の解体とソ連邦の消滅をもたらした。他方では、年初にはクウェートで湾岸戦争が勃発し、ヨーロッパでは、その前年には東西両ドイツの統一がなされ、この年には欧州共同体(EC)首脳会議が開かれ、欧州連合(EU)創設が話し合われ、翌92年にはマーストリヒト条約が調印された。

記念事業の第2は、こうした国際政治の地殻変動に深い関わりを持った政治指導者として、西ドイツ首相を8年間務めたヘルムート・シュミット氏の業績を顕彰する名誉博士号授与の式典と、その記念講演会であった(3月13日)。更には、後日(4月24日)、前述のレイモン・バール氏とポール・ヴォルカー氏への義塾名誉博士号の授与、並びに両氏の記念講演会が学生を対象として三田西校舎で行われた。

そして、当時の鳥居経済学部長の下、これらの記念事業の内、シュミット氏への顕彰準備のためのお手伝いを命じられ、実際に氏に拝謁する栄誉に浴した者の1人として、その人となりと、政治的業績を以下に記すこととしたい。

経済学部100周年記念シンポジウムにて(右から3人目がシュミット氏)

政治家への道

ヘルムート・ハインリヒ・ヴァルデマール・シュミット氏(以下シュミット氏)は、1918(大正7)年、北ドイツ・ハンブルク市に生まれ育った。成人とともに、ドイツ国防軍に応召し、砲兵隊士官として第二次大戦に従軍したが、戦後、ハンブルクに戻り、ハンブルク大学に入学し、経済学を専攻し、戦後間もなくの日本の通貨改革についての卒業論文をまとめた。後年、この通貨改革の一翼を担った大蔵官僚の1人が、後の日本国首相となる福田赳夫氏であったことから、2人は親交を深めることになる。当時のシュミット氏の確信は、経済的安定の前提には、通貨制度の安定があり、それに基づいて初めて、経済的繁栄や政治的安定が可能となるというものであった。この信条は、後の首相としての冷戦時や石油危機に際しての行動指針や、欧州統合の基本方針においても変わることはなかったといえよう。

大学在学当時、既に社会民主党に入党し、大学卒業後は、地元のハンブルク特別州政府に勤めた。1953年には、ハンブルクから連邦議会議員選挙に立候補し、初当選。その後、議会では国防部門の論客として活躍したが、1961年の政変を機に、故郷のハンブルクに戻り、州政府の内相に就任した。1962年、死者300人に及ぶエルベ河の大氾濫に際しては、陣頭指揮にあたり、「危機における行動の人」との全独的評価を受けることになる。

これを機に、再び連邦議会に舞い戻り、1968年には社民党の副党首に就任し、1969年の、ウィリー・ブラント氏(元西ベルリン市長)率いる自由民主党(FDP)との連立内閣では、国防相に任命された。

国防相としての最大の仕事は、ドイツ国防軍の大改革と、北大西洋条約機構(NATO)の核戦力を最大限に活かす現実主義の国防政策の展開であった。73年には、第四次中東戦争が勃発し、やがて深刻な石油危機に至る。こうした中、ブラント首相によって経済相並びに金融相の兼務を命ぜられ、経済運営全般の責任者となった。そして、74年には、東独スパイ事件により、ブラント首相が引責辞任し、後任にシュミット氏が第5代西独首相に就任した。爾来1982年に至る8年間にわたって首相を務めることとなった。

西ドイツ首相として

首相時代の業績には、大きく分けて3つの領域がある。

第1は、冷戦の中、東西両陣営が参加するヘルシンキ合意(宣言)を75年に達成し、全欧安全保障協力会議を創設した。これにより、やがて来る静かなる東欧革命や、劇的なベルリンの壁の撤去と東西ドイツの統一、20世紀史に特筆すべきソ連邦の崩壊などを準備することになる。

第2には、盟友であるフランスのジスカール・デスタン大統領と共に、欧州理事会を設立(74年)するとともに、今日に続く「サミット」(先進国首脳会議)を創設し、第1回サミットをフランスのランブイエ城で開催(75年)した。また、欧州の統合に欠かせない通貨統合(ユーロ)への道を準備した。こうした政策は、ボン・パリ枢軸と呼ばれ、後の欧州連合(EU)設立への礎となった。

第3には、長年西ドイツを苦しめたテロリスト集団ベーダー・マインホフ(ドイツ赤軍派)に対して毅然と立ち向かい、ルフトハンザ機乗っ取りに際しては、特殊部隊を躊躇なく投入してこれを殲滅した。

こうした中、歴史の大きな変動を予感しながら、1982年、連立内閣の崩壊によって、8年間のシュミット政権は終わりを迎え、宿敵キリスト教民主同盟(CDU)のヘルムート・コール氏に政権の座を譲ることになる。

翌83年には、シュミット氏は、高級紙『ディ・ツァイト』の共同編集者・発行人となり、言論文化活動に専心する。そして政権を離れてより9年後の1991年3月に慶應義塾大学の名誉博士号を受けることとなった。

名誉博士号の記念講演で何を語ったか

「日独両国の新しい役割を」と題された名誉博士号授与記念講演は、超満員の三田演説館で行われた。

シュミット氏は、まず、敗戦の焼け跡から、30年余の間に、日独両国は、復興とそれに続く高度成長により債務国から債権国へと転じ、国際的影響力も増大したと述べ、このことが他の国々に、両国への警戒感と嫌悪感を増大させたとしても不思議ではないとし、「日独の政治的エリートは、急変する世界情勢のなかで自らの果たすべき役割を定義できないでいる」と両国に共通する歴史問題への対応と、隣国との持続的友好関係の確立が重要であると、指摘した。そこから、歴史から学んだ新しい役割を定義し直すことを提案した。しかも、両国の取り組むべき課題は、歴史問題に限られるわけではなく、むしろ、前向きに取り組んでいかねばならない共通の最重要課題が山積していることを忘れてはならず、それらの課題は次の通りである、とした。

第1に、持てる者と持たざる者とのギャップ、すなわち格差の拡大。第2に、資源の有限性と持続可能性。第3に、温暖化をはじめとする地球環境問題。第4に、グローバルな感染症の脅威への対応。第5に、地球規模の人口の増大。

このような21世紀の課題に今(1991年現在)、取り組むには、第1に、「われわれ一人一人が寛容さと配慮と愛を持たねばならない」。しかし、それには、第2に、「経済的、金融的、科学的理性」を伴うものでなければならないのであり、理性は道徳と同じほど必要である、とする。

更に、「人間の連帯感という美徳と、全世界的な責任という良心のはたらきが、これからますます重要になってくる」と言って演説を結んでいる。

政権を離れて既に10年近くになり、年齢も73歳となっており、冷戦の終焉も、東西両ドイツの統合も、更にはEUの全欧的な拡大も、全て政権を去ってからの出来事であった。しかし、これらの1つ1つに深く関わり、長期的なビジョンによってそれらの実現への準備を行ったのは、他ならぬこの人の業績であった。

石川忠雄塾長とシュミット氏(1991年3月)

グローバル・ビジョンの人として

氏は著名政治家としては稀有な長寿であった。

2015年11月11日、96歳にて逝去したが、ドイツのメルケル首相は、「シュミット氏がドイツに比類なき貢献を行ったことを長く忘れない」との弔辞を送った。ドイツのみならず、世界各国からも弔意が寄せられたが、特に英紙『ガーディアン』は、社説のみならず、追悼記事を多数掲載して故人を偲んだ。その中の1つの署名記事は、歴代の西ドイツ首相は一様に「ドイツ問題」を何よりも語ってきたと記し、アデナウアー首相は、アメリカやフランスとの同盟政策(西方政策)を語り、ブラント首相は、東方政策を唱え、そしてコール初代統一首相は、東西両ドイツの融合政策を語った。ただ、その中でシュミット首相だけは、グローバル・ビジョンを持つグローバル・チャンセラー(首相)であった、と。

今年2018年は、シュミット氏の生誕100年にあたるが、世界情勢は混迷を深めるばかりである。最晩年のシュミット氏は、何を思い、何を案じていたのか、その詳細を今となっては知る由もない。しかし、4半世紀前にその謦咳に接したものの1人として、そのことを物語るのは次の古詩が何よりも相応しいと思われてならない。

老驥(ろうき)は、櫪(うまや)に伏すも

志は千里に在り

烈士は暮年になるも

壮心は已まず

曹操(魏武王)(井波律子訳)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。