慶應義塾

マイクル・クライトン:義塾を訪れた外国人

執筆者プロフィール

  • 巽 孝之(たつみ たかゆき)

    文学部 教授

    巽 孝之(たつみ たかゆき)

    文学部 教授

2017/03/03

G‐SECラボにて

クライトン・カフェ

本塾三田キャンパス東館6階と7階をぶち抜くG‐SECラボの一角に通称「クライトン・カフェ」があるのを、御存知だろうか。もちろん、ふだんからファカルティクラブや萬來舍のように営業しているわけではない。しかも、来場者の死角に潜んでいるから、めったにそのカフェにはお目にかかれない。しかし、G‐SECラボに足を踏み入れたら左側の奥、フロアの客席から見ると正面向かって右端へ突き進み、一見壁のように見える可動式引戸を開けると、あたかもカフェバー風の洒落たスペースが出現するだろう。そしてその右側の壁にはいまでもはっきりと、アメリカ作家マイクル・クライトン(1942-2008年)が東館竣工を記念して2000年に来塾した時に、塾当局の要請で残した壁のサインが残っている。いまでも何らかのシンポジウムが開かれた時など、軽い懇親会などで使われることが多い。

年代的に正確を期すならば、今日G‐SEC(グローバルセキュリティ研究所)として長く親しまれ、昨年暮れからはKGRI(慶應義塾グローバルリサーチインスティテュート)に改組決定したこの組織が正式に発足したのは2004年のことだから、彼はそれに4年も先立つ段階で来日したことになる。

クライトンは、まだハーヴァード大学医学部の学生時代、26歳の時に発表した初期作品『アンドロメダ病原体』(1969年)が宇宙から来た病原体と全面核戦争の恐怖を描いて評判を呼び、いきなり10万部のベストセラーとなりたちまち時の人となった。その活躍は以後も着実に展開し、恐竜のDNAを応用したテーマパークを舞台に世界的ベストセラーとなるばかりかスティーブン・スピルバーグによる映画化をはじめとするマルチメディア化で浸透した『ジュラシック・パーク』(1990年)を経て、地球温暖化政策への風刺とともにエコ・テロリズムの可能性を予言する晩年の『恐怖の存在』(2004年)に至るまで、C・P・スノウ卿言うところの科学と文学の「2つの文化」をめまぐるしく往還してきた科学者作家として、広く知られているだろう。

厳格な医学部教育で仕込まれた科学的真実と、そこで得られたデータをもとにありうべき未来へ外挿(エクストラポレート)し創造した空想科学的真実を自由自在にリミックスしてみせるSF的想像力は、長く世界の読書人を惹き付けてきた。福澤諭吉のいう窮理(真実)の学としての実学と、それを応用する思弁力の対話が織りなす知的最前線は、まさにクライトンが自家薬籠中のものとする世界である。誤情報ならぬ偽情報など脱真実(ポスト・トゥルース)ばかりが横行する現在にあっては、彼の作品自体が批判的意義をもつ。したがって今日のグローバル社会を前提に学際的な連携や学術機関・専門機関との協力、基礎研究・応用研究の国際水準における発展に寄与する目的で創設されたG‐SEC/KGRIを中核とする東館にとって、これ以上ふさわしい講演者はいまい。

義塾での2つの講演

この時の模様は、本誌2000年11月号の口絵頁にも「Dr.マイクル・クライトン来日記念講演」と題して報告されている。それによると、彼は本塾で2度にわたる来日記念講演を行った。まず同年10月4日にはSFCのβ館で「『アンドロメダ病原体』から『タイムライン』まで」と題する講演を行い、640名が参加。その模様は日吉キャンパスJ12番教室にも同時中継されたという。その2日後の10月6日には、いよいよ完成間もない東館G‐SECラボにて「現実と想像力」なる講演を行い、財界人や文化人など130名が参集、その模様は東館ホール大画面に中継され、学生や一般参加者で満員となった。この時クライトンは、まだ血気盛んだった20代前半、ハーヴァード大学時代の授業でまんまと教授を欺いた経験を語っている。このエピソードはよほどお気に入りと見えて、複数の講演で使い回されているため聞き覚えのある方も多いとは思うが、天才作家の悪童時代という趣が興味深いので、要点だけ引用しておこう。彼は当初、自分は医学を志すつもりはなかった、ハーヴァード大学へ入ったのは作家になるためだったと前置きしてから、こう述べる。

ハーヴァード大学の英文科では、ぼくの文章はこっぴどく批判され、何度レポートを出しても評価としてはCあるいはC+しかもらえなかった。18歳のぼくは自分の文章はなかなかイケるんじゃないかと高を括っていたから、悪いのは大学側であってぼく自身じゃないと思い、ひとつ実験をしてみることにした。次回のレポートのテーマはジョナサン・スウィフトの『ガリヴァー旅行記』と聞いて、そういえばジョージ・オーウェルがそれについて書いているエッセイがあったな、ぴったりじゃないかと思いついた。もちろん、いささかうしろめたい気持ちはあったものの、そのオーウェルによるスウィフト論をそっくりそのままタイプして、ぼくの名義で提出したのさ。うしろめたかったのは、もしも盗作が発覚したら退学間違いなしだったからだ。でも、ぼくには確信があった、担当教師は文章のことなんかわかっちゃいないし、文学だってろくに読んじゃいないとね。いずれにせよ、ジョージ・オーウェルを盗作してハーヴァード大学へ提出したレポートにはBの評定がついたんだよ。英文科ではやっていけないな、と決断した瞬間だった。

そこで人類学を専攻することにした。それでも人類学研究を大学院で極めたいかといえばそれもおぼつかなかったので、万が一のためにと、医学コース予科に入ったんだ。(『トラヴェルズ』1988年初版、ヴィンテージ、2014年)

口語に砕いたのは、講演時のクライトンが、「天下のハーヴァード大学じゃジョージ・オーウェルがBを食らうんだぜ!」とあえて誇張した時の身振り手振りが強烈に印象に刻まれているためである。昨今では卒論やら修論にウィキペディアからの引用やコピペが氾濫することも少なくないから、右のエピソードは、その悪影響の可能性を考えると決して手放しで紹介すべきものではないかもしれない。しかしハーヴァード大学教授がまぎれもないパクリ論文を却下するどころか評定Bを付けてしまったということは盗作であるのを見抜けなかった証左、自身の文学的素養が貧しかったことの証左である。20代そこそこのクライトンがこの時ディストピア文学の名作『1984年』で知られるオーウェルを選んだことは、のちの彼がディストピアSFの傑作『ジュラシック・パーク』を発表する経緯を考えると、まことに興味深い。

科学と文学との対話

その作家活動にしても、いわゆる狭義のジャンルに囚われない立場からSF的想像力の魅力を喧伝するばかりか、ミステリの方面でもすでに学生時代の1969年、前掲『アンドロメダ病原体』と同年にジェフリー・ハドソン名義で発表した『緊急の場合は』がアメリカ探偵作家クラブの選ぶ同年度の最高栄誉エドガー賞に輝き、のちの1975年に発表した19世紀ロンドンが舞台の歴史小説『大列車強盗』はクライトン自身の監督で映画化され、同エドガー賞最優秀映画賞を受賞している。小説と映画を股にかけたマルチメディア的才覚においても、彼はパイオニアであった。

かくして、本誌1996年3月号は「マイクル・クライトン現象」なる小特集を組み、前掲『ジュラシック・パーク』やその続編『ロスト・ワールド―ジュラシック・パーク2』(1995年)をはじめ、バブル時代の日本叩きを主題にした『ライジング・サン』(1992年)や、いち早くセクハラを主題にした『ディスクロージャー』(1993年)などが、わたしを含む4名の寄稿者によって分析されている。作家自身がノリにノっていた時期であるとともに、我が国でも第2回日本ホラー大賞を受賞した学生作家・瀬名秀明が遺伝子工学の知識をフル活用した『パラサイト・イヴ』(1995年)で話題をまいており、一躍「科学と文学の対話」に脚光が当たっていたのである。

SF的想像力と慶應義塾

そもそも、このようなSF的想像力が我が国において広く受容されるに至った起源においても、じつは慶應義塾が深く関わっていた。クライトンをはじめダニエル・キイスやカズオ・イシグロなどの大半の邦訳および日本講演を積極的にプロデュースしてきた早川書房は戦後1945年の創業以来、本邦SF出版の先駆けとして広く知られるが、わけても第2代社長・早川浩は、65年に本塾商学部卒業後にはコロンビア大学に留学し、海外の出版界にも太いパイプをもつ国際派であり、欧米作家たちとも長く親密な友情を培ってきている。

早川書房は「SFとウェスタンは売れない」というジンクスがあったにもかかわらず57年に〈ハヤカワ・SF・シリーズ〉を、59年に日本初の月刊SF専門誌『SFマガジン』を創刊して成功させ、星新一や小松左京、筒井康隆、豊田有恒、高齋正など日本SF第1世代から本塾文学部卒の川又千秋ら第2世代、伊藤計劃や円城塔、藤井太洋ら21世紀の新世代までを育成して、みごとこの新興ジャンルを日本の文学市場に根付かせた。同誌創刊当時、60年代前半にこの新しい動きを熱く支えたのは本塾経済学部卒の文芸評論家・紀田順一郎や同文学部卒の映画評論家で日本SF作家クラブ第2代事務局長大伴昌司である。そして早川浩自身も1970年代半ばには『SFマガジン』第5代編集長を務め、88年には海外作家を招聘するハヤカワ国際フォーラムを開始し、89年の社長就任以後には文庫新シリーズに加え、映像とのメディアミックスを積極的に推進、2011年には早川清文学振興財団を設立した。1998年にはクライトンと同じ前掲エドガー賞特別賞、エラリー・クイーン賞を受賞し、目下、慶應義塾評議員を務めている。

クライトンの本塾訪問が実現した背後では、科学と文学の対話を促進する国際的な対話の歴史がまさに慶應義塾周辺で介在し、ひとつの戦後文化史を築き上げていたのである。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。