執筆者プロフィール

池井 優(いけい まさる)
その他 : 名誉教授
池井 優(いけい まさる)
その他 : 名誉教授
2017/01/01
1970年1月来塾時
着任の挨拶を日本語で行った初めての大使
ライシャワーが戦後4人目の駐日アメリカ大使として羽田に特別機で到着したのは、1961(昭和36)年4月19日のことであった。早朝6時40分にもかかわらず約200人の歓迎陣が待ち受けていた。
拍手に迎えられた新大使は、空港ロビーで着任の挨拶を英語と日本語で行った。
「これから簡単に日本語で申し上げます。私たちは、再びこうして日本に参りましたことを、大変うれしく思っています。皆さまご存じかと思いますが、私も妻も東京生まれですから、故郷へ帰ったような気がします。古くからの友だちに会うことも楽しいことですが、さらに多くの新しい友だちができることも、うれしいことです。今回日本に着任するに当りまして、大きな責任を感じていますが、私は将来に多大の希望を託しています。もちろん、いろいろの問題が出てくることでありましょうが、日本の歴史、特に日米関係の歴史をふりかえってみますと、両国の前途に十分に期待が持てると信じます……」
外国人的な訛りのない日本語である。大使自身、「日本語をつけ加えたのは我ながら上出来だった」と日記に記した。大使着任の模様は、NHK朝7時のテレビニュースで生中継され、その日、民放を含め何度も繰り返し放映され、その第一歩から日本人に好感を与えた。戦前から数多くの大使が日本に赴任してきたが、日本語で挨拶した初めての大使であった。ではライシャワー大使はどのような経歴の持ち主であったのであろうか。
BIJの誇り
ライシャワーは、1910(明治43)年10月15日、東京で生まれた。父のカール・ライシャワーは神学大学を卒業し、布教のため日本にやってきた宣教師であった。日本で長男のロバート、次男のエドウィン、長女フェリシアの3人が生まれた。日本生まれの宣教師の子はBIJ(Born In Japan)と呼ばれ、こどもたちはその呼び名が自慢で、優越感を持っていたという。ライシャワー牧師は明治学院の構内に住まいを持ち、同校で英語を教える傍ら、教育と布教のために必要な日本語を習得していった。
そうした父と生活環境により、ロバート、エドウィンの2人は自然に日本研究の道に進むことになる。エドウィンは東京のアメリカンスクールで学んだのち、オハイオ州のオーバリン大学をへて東部の名門ハーヴァード大学大学院で日本をふくむ東アジア研究を行うことになった。ハーヴァード時代、漢字を覚え、まがりなりではあったが「魏志倭人伝」の翻訳を粗末な辞書の助けを借りて完成させた。1930年代当時、アメリカの大学におけるアジア研究はまだ活発でなく、ライシャワーはフランスに渡り、パリの国立現代東洋語学校で日本語の中級コース、そしてソルボンヌ大学で中国の古典講読などを学んでいった。アメリカが恐慌の最中にある間、ライシャワーはフランス、オーストリア、ドイツなどで暮らし、第2次大戦前のヨーロッパ情勢に触れ、貴重な体験となった。
1935(昭和10)年、8年振りに戻った東京はかつてとは似ても似つかぬ街になっていた。大正デモクラシーは色あせ、軍国主義と勃興するファシズムに取って代わられていた。そうしたなかで、パリで恋仲になったアドリエンと結婚した。
博士論文の作成と兄ロバートの死
やがてライシャワーは博士論文の完成に全力を注ぐことになる。西暦838年から847年にかけて中国に留学した円仁の膨大な日記『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』の翻訳に取り組んだ。正統文語体と写し間違いのある草書体の写本を天台宗の僧侶の力を借りながら読み進んでいった。日本人研究者もほとんど手を付けたことのない研究であった。後に慈覚大師の称号を得る円仁が揚州を経て唐の都長安に入り、この間、仏教徒迫害に巻き込まれたりしながら、当時の中国の政情や人情風俗をこと細かに記録したもので、異国人として中国人の古い生活を伝えた最初の文献であった。その翻訳と解釈はその後約20年の歳月をかけて、1955年に著書となって世に出た。
やがてライシャワー夫妻は住まいを京都に移し、京都大学で特別研究生として学ぶと同時に、東京では味わうことのできない古都の雰囲気を楽しむ生活を送った。夢のような京都の生活だったが、突然の悲劇がライシャワーを襲った。プリンストン大学講師であった兄のロバートが上海で急死したのだ。1937年7月、盧溝橋事件を発端とする日中戦争は拡大し戦火は上海にも広がった。中国空軍が黄埔江に停泊中の日本軍艦を爆撃した。目標を捉えきれなかった爆弾は道路に落ちてさく裂、ホテルの窓ガラスの破片がロバートの足のかかとをえぐった。すぐ病院に運ばれたが出血多量で遂に蘇生することはなかった。2カ月前に30歳の誕生日を迎えたばかりの優秀な現代日本研究者が戦争の犠牲になったのだった。兄ロバートはどちらかといえば現代の日本に、弟のエドウィンは古い日本や中国に関心があった。兄の死によって本来ならロバートがやる仕事をライシャワーがやることになる。
戦争とライシャワー
最愛の兄を失ったライシャワーはハーヴァード大学へと戻った。ハーヴァードでは講師として日本語を教えたが、日米関係が悪化してくると、大学で教える仕事に加え、東アジア情勢について話して欲しいと学内外から注文が相次いだ。さらに海軍で日本語要員を養成するプロジェクトが発足、海軍日本語学校設立に参加するなど多忙な日々が続いた。さらに、陸軍通信隊の依頼でワシントンにいき、翻訳者と日本軍の暗号を解読する新しい学校の面倒を見た。
日本の降伏とともに、情報の仕事はなくなり、国務省において戦後の日本と朝鮮半島に対する政策の立案に加わる。ハーヴァードに戻ったが、対日政策、対日平和条約に関する諸問題の顧問として国務省から呼び出されることも多くなった。こうして古代史からスタートしたライシャワーの日本への関心は、次第に近現代史、さらには日本の現状へと広がり、国務省とのつながりもできた。それは著書へも反映した。『日本─過去と現在』、『アメリカ合衆国と日本』など専門書以外に入門書、啓蒙書をつぎつぎと著していった。こうした学者、研究者並びに国務省における実務家としての経験はライシャワーを単なる象牙の塔の大学人以上の人物にしていった。
それに加え、画期的だったのは、アドリエン夫人を長い闘病生活の末失ったあと、松方ハルさんと結婚したことだった。ハルさんは明治の元勲松方正義の孫として生まれ、アメリカンスクールを卒業、アメリカの大学を卒業し、東京でアメリカの新聞の特派員助手として働いていた国際感覚豊かな才媛であった。
駐日大使として
日本はアメリカのアジア政策の要であり、さらに1960年の安保改定をめぐる安保騒動の苦い経験、繊維問題をめぐる経済摩擦など日米関係が複雑な問題を抱えるなか、駐日大使に誰を据えるかは、発足したばかりのケネディ政権の外交のひとつのポイントであった。
就任まで紆余曲折があったが、着任した新大使の評判は上々だった。ライシャワーは通常の大使の仕事――情報の収集と分析、交渉、各界の人々との交流以外に重視したのは、日本各地における講演であった。特に若い層、大学生相手の講演は喜んで引き受けた。慶應においても1961年11月には日吉で「近代日本の民主化」を、64年1月10日福澤先生誕生記念会では「福澤諭吉とその時代」を教室にあふれんばかりの塾生を相手に熱弁を振るわれた。その際アポロの月面着陸の同時通訳で有名になった西山千さんが通訳として同行するのが常であった。学生相手の講演ではかならず質問の時間を設けそれに答える方式をとった。学生の質問が的を射ないものであっても「大変いい質問ですね」とすり替えて明確に答え、たちまち聴衆をライシャワーファンにしてしまうのだった。大使の立場として答えにくい微妙な問題は、「これからは学者として申し上げます」と教授の立場を上手く利用する方法を用いた。
慶應義塾大学から名誉博士号を授与
5年に及ぶ駐日大使の任務を終えてハーヴァード大学に戻ったライシャワー教授に対し、慶應から名誉博士号が授与されたのは1967年9月のことであった。名誉学位授与の理由は、東洋学に対する学問的業績、特に1960年にフェアバンク、クレイグ両教授との共著『東アジア―近代の変革』のなかで、近代日本の進歩の過程で福澤諭吉と慶應義塾の果たした役割を高く評価されていること、前後数回に亘り三田、日吉で塾生に対し講演を行い、慶應義塾に親愛の情を示されたことなどであった。多忙なライシャワー教授の代理として出席し見事な日本語で挨拶したのは、ライシャワー大使時代一等書記官として勤務しその後昇格したオズボーン公使であった。
ライシャワー教授とは個人的にもご縁があった。日本外交史を専攻した研究者として、戦後アメリカの対日政策に果たした駐日大使の役割に関心を持ち『駐日アメリカ大使』(文春新書)を刊行した際、原稿の一部を来日中のライシャワー教授にお目通しを願ったり、バーモントのご自宅を訪問して当時の思い出話をうかがったりする機会もあった。
ある時、「世界は緊張緩和に向かっているか」の座談会でご一緒した。会が終わり、トイレで並んだライシャワー教授は用をたしながら言った。「イケイサン、これが本当の緊張緩和」。あの時のにこっとした笑顔は忘れられない。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。