執筆者プロフィール

富田 広士(とみた ひろし)
その他 : 名誉教授
富田 広士(とみた ひろし)
その他 : 名誉教授
2016/08/08
はじめに
1980年7月8日、慶應義塾はアラブ首長国連邦(UAE)マナ・サイード・アル・オタイバ(ManaSaid Al-Otaiba)石油鉱物資源相に対して、名誉博士号を授与した。その前年79年、イランでは2月に亡命していたホメイニ師が帰国を果たしイスラーム革命が成就し3月には前年9月のキャンプ・デービット協定(Camp David Accord) に基づいたエジプト・イスラエル単独和平条約が発効し、11月にはサウジアラビア、メッカの聖モスク占拠事件が発生し、12月には当時のソ連軍がアフガニスタンに侵攻した。中東では、世俗主義政権批判が強化され、イスラーム復興とイスラーム主義的な運動が高まりを見せる時代が訪れようとしていた。
当時を振り返りながら、オタイバ氏の生い立ち、UAE石油相としての職歴、石油をベースにした日- UAE関係の発展、義塾とのつながり、現在の日本にとっての湾岸産油国について述べてみたい。
オタイバ氏の生い立ちと職歴
1946年にアブダビ首長国の裕福な家庭に生まれたマナ・オタイバは、当時アブダビに小学校がなく、ドーハ(カタール)で初等教育を受け、将来の国づくりのためアブダビ海外留学第1期生としてバグダード大学に派遣された。69年同大学卒業と同時にアブダビ政府石油庁に入り、71年同庁長官、同年アラブ首長国連邦(UAE)結成と同時にUAE石油鉱物資源相に就任した。アブダビ第1期留学生には、オタイバの他に後に外務相、財務相となるスウェイディとハブルーシュがいた。
イギリスは、インドの独立以来アラビア湾からの早期撤退を決め、アブダビを近代化する必要を感じていた。そこで1966年8月アブダビ首長国の政権を同じナハヤーン家のシャハブートから弟のザイードへ移譲させた。ザイード新首長は即位すると、「石油収入の還元」を目標に掲げ、さっそく行政組織改革、インフラ建設、教育制度改革などに着手した。ザイード首長の即位から第1次石油危機(73年アラブ石油戦略の発動)までの7年間に、アブダビ首長国の産油量は日産36万バレル(66年)から130万バレル(73年)に増大し、石油収入も2.5億ドルから12億ドルに拡大し、アブダビは新首長の近代化計画の実施によって、変貌してゆく。
1967年7月英政府は、71年末までに英軍をアラビア湾から撤退させる旨発表し、翌68年、撤退後のアラブ湾岸連邦結成の協議を開始した。初めはバーレーン、カタールも参加していたが、71年7月、6首長国によるアラブ首長国連邦(UAE)結成が決まり、アブダビのザイード首長が大統領、ドバイのラシード首長が副大統領に就任することになった。こうした国家体制の再編は、イギリス保護領終了後に備えた措置であった。
石油をベースにした対日関係の発展
ザイード首長即位後の大増産時代に、アブダビの石油開発に新規参入した日本企業の中で、アブダビ石油は英仏資本のAbu Dhabi Marine Areas Ltd.(ADMA)が見込みなしとして放棄した鉱区を落札し、1967年12月にアブダビ首長と日本の親会社3社の間で45年に及ぶ利権協定が調印された。69年8月に試掘1号井が出油し、第4次中東戦争勃発4カ月前の73年6月には第1船を日本向けに出荷した。同社はザイード首長、オタイバ石油相との良好な関係をその後も維持した。オタイバはUAE石油相就任以来、毎年のように訪日し、昭和天皇にも拝謁して親日感情を育み、71年1月にはアブダビ石油の取締役に就任している。
ザイードがアブダビ首長に即位した翌1967年に、アブダビは9番目の加盟国としてOPEC(石油輸出国機構)へ加盟した。60年に結成されたOPECは次第に力をつけ、71年のテヘラン協定、72年のジュネーブ協定により原油価格値上げの主導権を確保し、同年のリヤド協定により産油会社への資本参加も勝ち取り、産油途上国を売手市場へ転換させようとしていた。
この当時アラブ世界では、第3次中東戦争の敗北を挽回しようとする動きが加速化し、1973年10月6日エジプトとシリアがイスラエルに同時侵攻して、第4次中東戦争が勃発した。軍事的戦闘は短期間で終結したが、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)加盟国は10月17日、①第3次中東戦争による占領地からのイスラエルの完全撤退、②パレスチナ人の権利回復、の2つの目標実現を掲げ、敵対するアメリカ、オランダへの全面石油禁輸、非友好国への供給制限、という軍事・政治に石油・経済をリンクさせる石油戦略を発動した。このOAPECの石油戦略にOPECによる大幅な価格引き上げが上乗せされて、先進工業諸国は第1次石油危機に陥った。
「中立国」扱いにされた日本政府は急きょ中東政策の転換(パレスチナ人の正当な権利の回復の承認)を閣議決定し、三木武夫副総理を特使としてアブダビはじめ中東産油国に派遣して働きかけた結果、1973年12月のOAPEC会合では「日本を友好国と認め、必要量を供給する」旨の決定がなされた。このOAPEC会議で、オタイバ氏は日本を「友好国」扱いにすべきであると発言し、「私は日本の首相並びに主要閣僚との会談を通じて、彼らがパレスチナ問題でアラブ寄りの姿勢を持っているのを十二分承知している」と述べたと言われる。
1970年代、アブダビ首長国の産油量は第1次石油危機後も日産150万バレルを超え、油価も1バレル、13〜14ドルを維持したため、その石油収入はかつてない増益期にあった。
1979年2月イラン革命でパーレビ朝を倒したイスラーム共和国政権は、石油の減産政策を強化する。するとこれが契機となり、第2次石油危機が到来した。79年、80年の2年間に公示価格は25ドルも高騰した。しかし、79年〜82年のアブダビの石油収入は、この油価の高騰と高値の継続に支えられて、各年とも100億ドルを超えた。
1971年〜82年の間にオタイバはOPEC総会議長を6回務めている。この時期のOPECは、価格体系を守るための生産枠の設定、国別生産割当、北海、アラスカなど非OPEC原油増産への対応に腐心した。慶應義塾がオタイバ氏に名誉博士号を授与したのは、この時期に当たる。
義塾とのつながり
以上、1980年代初頭までの湾岸産油国の置かれた状況とオタイバ氏の役割を見てきたが、石川忠雄塾長は80年の名誉博士号授与の式辞で、①同氏が石油価格設定に関して、一貫して石油消費経済を配慮した政策の主唱者である点、②同氏が日本とUAEとの間の学術・文化交流に関して、意欲的な姿勢を示している点を、期待を込めて評価している。
私はこの来塾時、エジプトのAmerican University in Cairo 留学中で、大学内のArabic Language Unit でアラビア語の習得に努めていた。オタイバ氏はこの時、義塾に5万ドルの寄付をされたのだが、当時の十時厳周法学部長より、法学部の中東研究に資するようなオタイバ氏からの寄付金の利用方法を考えるようにとの手紙を受け取った。
私はすかさずエジプトで購入可能な現代中東の政治、経済、社会、文化に関するアラビア語書籍(一部現地出版の欧文書籍を含む)をできるだけ広く収書し、義塾図書館へ収めたいと申し出て許可を得た。2年間の留学の最後の半年、カイロとアレキサンドリアの書店、Book Fair、大学、研究所などを歩き回り、ガーデン・シティの我々が住むフラットには、2千冊余りが積み上げられた。さらに帰国後、収書の過程で知り合った米議会図書館(Library of Congress)カイロ・オフィスのマイケル・アルビン(Dr. Michael Albin) 所長の紹介で、議会図書館の「中東収書計画」に参加するかたちで、1980年代にアラブ各国で出版された社会科学関係のアラビア語図書、雑誌類を継続購入し、同じく義塾図書館に収めた。カイロ収書分とLC収書分合わせて数千冊は、「法学部アラビア語図書」として現在は山中湖の書庫に置かれている。
その後、オタイバ氏は1981年10月と86年9月に来塾し、それぞれ「OPECと供給過剰」、「岐路に立つOPEC」というタイトルで講演した(後者の講演録は本誌1986年11月号に掲載)。どちらの講演でも同氏は、先進工業諸国が第1次石油危機を契機に石油備蓄をスタートさせ、第2次石油危機以降代替エネルギー開発に乗り出した石油消費節減の影響に言及している。
日本にとっての湾岸産油国
日本-UAE貿易関係において、長くアブダビ首長国を中心にUAEは日本の輸入原油総量の約4分の1を供給して来ている(2014年で24.4%)。サウジアラビアに次いで第2位の原油輸入相手国である。
アブダビでは、アブダビ石油と並んで1970年以降合同石油開発とジャパン石油開発が油田の開発・生産に加わり、日本の「自主開発原油」総量の半分近くを出荷している。アブダビ石油は2012年既存3油田の30年間の利権更新と、新鉱区に関する新たな利権協定を締結している。
1986年と98年の油価暴落に際しては、石油輸出国は協調して生産削減を実施することで、何とか危機を脱することができた。しかし2016年現在の供給過剰と油価下落を取り巻く状況は以前とは大きく異なっている。サウジアラビアをはじめとする湾岸産油諸国は、核合意で経済制裁を解かれたイランが自国の石油輸出を使って中東の覇権国になろうとすることを恐れ、生産削減に踏み切れないでいる。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。