執筆者プロフィール

瀬古 美喜(せこ みき)
その他 : 武蔵野大学経済学部教授その他 : 名誉教授
瀬古 美喜(せこ みき)
その他 : 武蔵野大学経済学部教授その他 : 名誉教授
2016/05/05
サミュエルソン教授を囲んで。左から福岡正夫教授、清岡暎一教授、1人おいて、山本登教授、右端が佐藤朔塾長。
サミュエルソン教授の来塾
1971(昭和46)年10月に、ポール・サミュエルソン教授が、慶應義塾の小泉基金により招請されて来塾された。1週間強という短い滞在期間であったが、この間、教授は、タイトなスケジュールを、すべて精力的にこなされた。
まず19日には、三田の演説館で名誉学位を受けられ、その後、西校舎の518番教室で、一般塾生を対象に、『アメリカ経済学の動向』という演題で記念講演をされた。教授は、年来の新古典派総合の立場から、それとは異なるさまざまな流派をとり上げ、それらに対するご自分の見解を披歴された。私自身は当時、1953―55年にハーバード大学留学時にサミュエルソン教授に師事され、教授の来塾に際しても尽力された、福岡正夫先生のゼミの4年生だったが、大教室での記念講演における、教授の論旨の明快さ、機智の縦横さは、まさに独壇場で、会場は超満員だったことを今でも覚えている。
20日には、慶應義塾、日本経済新聞社、日本経済研究センター共催の日経ホールで『円とドル』という講演をされた。21日には、経済学会の主催で、各大学の理論経済学者も招いて「スぺシャリスト・セミナー」が開催され、『確率論的投機価格』という題で、その当時、教授がもっとも興味を注がれていたテーマの1つを報告された。この論文では、確率論的動学計画法の解として価格の動きを決定するという観点で、確率論的投機価格に関する、非独立的ブラウン振動のモデルを厳密に導出されており、現在のこの分野の諸研究の緒となっていると考えられる。
略歴と業績
サミュエルソン教授は、1915年にインディアナ州ゲーリーで生誕された。35年にシカゴ大学を卒業し、その後、36年にハーバード大学大学院に進学、41年に博士号を取得された。シカゴ大学でシカゴ学派から価格理論を学び、ハーバード大学に進学後、数学や物理学を修められた。40年からマサチューセッツ工科大学(MIT)で教鞭をとり、47年に教授となり、その後、永年にわたってMITの教授職に就かれていた。MITからは、バーナンキ・アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)議長や、ノーベル経済学賞受賞者であるジョセフ・E・スティグリッツ教授やポール・クルーグマン教授などが出ている。元ハーバード大学学長であり、クリントン政権で財務長官を務め、オバマ政権の国家経済会議(NEC)委員長を務めたローレンス・サマーズ教授は、サミュエルソン教授の甥にあたる。
1947年に主書『経済分析の基礎』(Foundations of Economic Analysis)(佐藤隆三訳、勁草書房)を出版され、また、同年にジョン・ベイツ・クラーク賞を受賞された。48年には、世界的に有名な教科書『経済学』の初版が出版された。この著書において、サミュエルソン教授は、不完全雇用の存在する不況時にはケインズ主義的な有効需要政策を行うべきであるが、ひとたび完全雇用に達したら市場メカニズムを重視する新古典派経済学が成り立つという2分法を主張する新古典派総合の考え方を示された。この本はその後版を重ね、40カ国語以上に翻訳され全世界で非常な売り上げ数を記録したベストセラーとなっている。
1952年にエコノメトリック・ソサエティー(計量経済学会)会長、61年にアメリカ経済学会会長などを歴任された。70年には、その「静学的ならびに動学的経済理論を発展させ、経済学における分析水準を著しく高めた科学的貢献」で、アメリカで最初のノーベル経済学賞を受賞された。サミュエルソン教授の学問的功績は、経済学の言葉を数学を用いることによって厳密に基礎づけ、その論理性を明示することによって、経済学理論における科学的な分析レベルを最も高いレベルに引き上げたことだと言える。
このようなサミュエルソン教授の経済学に数学を援用した分析は、近代経済学の基礎になったと言われている。教授が発案された学問的なアイデアとしては、顕示選好(Revealed preference)、厚生経済学(Welfare economics)、貿易理論(Gains from trade)、公共財(Public goods)、生産要素の賦存比率と国際貿易(Factor-proportions trade theory)、為替レートと国際収支(Exchange rates and the balance of payments)、世代重複モデル(Overlapping generations model)、ランダムウォーク理論(Random-walk theory)などがあり、いずれも、その後、数多くの発展性のある研究成果を生み出すことにつながっている。
また、米国民主党のブレーンとしても活躍された。不況時には財政政策を行うことによって、失業を解消すべきであるというケインズ主義の立場に立って、いわゆる大きな政府の観点より、ケネディ政権などに助言を行われた。
その後、大きな政府の立場に立つサミュエルソン教授と、小さな政府の立場に立つシカゴ学派との論争なども生じ、失業とインフレーションの並存するスタグフレーションの状況では、反ケインズ主義の立場の人々が台頭することとなった。しかしながら、リーマンショックを経験してから、世界の主要国は政府介入を拡大する大きな政府の立場に、戻りつつあると言えるのではなかろうか。
学問的な進展としては、家計や企業の完全な合理性を前提とした教授の最大化原理の考え方から、現代の情報の非対称性や不完備性を考慮した情報の経済学の発展につながったと言えよう。また、教授のアイデアが、消費者の非合理性や心理面も考慮した行動経済学の進展の契機ともなったと考えられる。
また、教授の新古典派総合の根底にある、非効率的な市場(マーケット)(市場は完璧ではない)という考え方は、その後、それと対照的な「効率的な市場仮説」を生み出し、それが裁定取引(アービトラージ)の概念につながったと言えよう。
日本とアメリカでの出会い
筆者が最初にサミュエルソン教授の名前を聞いたのは、塾の経済学部に入学してからであった。日吉から三田へ進学する際のゼミ選択では、学問をやる限り本質論をまず学ぶのが良いと考え、理論経済学の福岡先生のゼミを迷わず受験した。入ゼミ試験対策として、サミュエルソン教授の『経済学: 七版』(Economics:An Introductory Analysis)の原著と、訳本(都留重人訳、岩波書店)を対比して、必死に日吉では習っていない経済学の専門用語などを勉強した。
三田へ進学し、福岡先生のゼミに入ってからは、先生からしばしばサミュエルソン教授のお話を伺って、『経済分析の基礎』を初めて読んだ。
サミュエルソン教授の来塾などを記念して、福岡先生は、ちょうど、教授の一般読者向きの論説を訳した選集を、『ポール・サミュエルソン経済学と現代』(日本経済新聞社、昭和47年)として、刊行されていた。一般の読者向きの論説ということであったが、その中の第1章1の「経済分析と極大原理」は、分析経済学における極大原理の役割に関するサミュエルソン教授のノーベル賞受賞記念講演であり、当時、自分が勉強していた経済理論の本質を理解するのに、非常に役立った。
その後日本の大学に就職してからMITへ留学したが、MITを留学先として選んだ理由として、学部4年生の時に聴いた、教授の塾での講演があったことが関係していたように思う。
当時の大学院のミクロのコアコースの春学期の後半が、サミュエルソン教授の授業であった。テーマは、資本理論と、厚生経済学、不確実性であった。必須の文献は、福岡先生の所で勉強していた時に知っていた論文などがほとんどであったが、とにかく、教授の授業での英語がわからなかった。
教授は、必修のミクロの授業を担当されていたわけだが、授業に見えると、黒板の所へ椅子を引っ張っていって、学生がいようがいまいがお構いなしという感じで、学生に背を向けて座り、黒板の隅の方に、ぼそぼそとしゃべりながら、板書するという形であった。私が習った当時、お幾つだったか計算してみると、64歳位になられていたと思われる。断言できないが、おそらく私が授業を受けた時が、大学院のコアコースを教えられた最後の年だったのではないかと思う。
教授の授業は、このように、私には非常に聞きとりにくかったが、校舎内でお会いする時には、とてもお元気で、矍鑠とされていた。
サミュエルソン教授の教え
留学から帰国後、私は、日本の大学院当時に勉強していたテーマ(理論経済学)とは若干異なり、応用ミクロ経済学の分野、中でも、主に都市経済学などを中心に研究したが、今回サミュエルソン教授の研究を振り返ってみて、現在、主に研究している都市問題などに関して、教授の研究から学ぶことがいかに多いか、改めて痛感している。
このように、サミュエルソン教授は、偉大な理論経済学者であると同時に、応用経済学の分野でも数多くの業績があり、現実の政策提言も活発にされており、非常に幅の広い、偉大な経済学者であった。政策当局は、「政府と市場どちらが欠けても、公共の福祉を実現できない」(ニューヨーク・タイムズ)というサミュエルソン教授の言葉を念頭に置いて、その時々に適切な経済政策を実施すべきであろう。
まだ日本から、ノーベル経済学賞の受賞者は出ていないが、近い将来に、是非受賞者が出て欲しいし、できれば、塾関連の研究者から出て欲しいと切に願う。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。