執筆者プロフィール

福永 興壱(ふくなが こういち)
その他 : 慶應義塾大学病院病院長医学部 内科学(呼吸器) 教授
福永 興壱(ふくなが こういち)
その他 : 慶應義塾大学病院病院長医学部 内科学(呼吸器) 教授
「医師は限界まで働いてはいけないんだって。」そう聞いたとき、正直、少し戸惑った。
医師は身を粉にして働くもの
「医師は患者さんのために全力で働きなさい。命を預かる仕事なのだから、身を粉にして働くのが当然だ。見返りなど期待してはいけない。」
30年前、医師になりたての頃、先輩医師達からそんな言葉を教えられた。研修医はいわば「丁稚奉公」。夜中に呼ばれればすぐに駆けつけるのが当たり前であり、卒業しても「連絡があれば10分で走ってこられる信濃町(慶應病院近辺)に住みなさい」と言われたものだった。
当時、私たちはいわゆる無給医と呼ばれる立場にあった。実際には月2万5千円ほどの給与が支給されていたが、とても生活できる金額ではない。先輩からは「その分の家賃はご両親にお願いしなさい」と半ば冗談のように言われたこともある。いま振り返れば時代を感じる話ではあるが、当時の若い医師の多くが、そうした環境の中で医師としての第1歩を踏み出していた。
その言葉を疑うことなく、若い医師のみならず多くの医師たちが働いた。給与体系や社会保障の仕組みを深く知ることもなく、ただひたすら医療のために働く。それでも医療への使命感を支えに、患者さんのもとへ走り続けた時代である。
やがて年齢を重ね、生活に困らない給与を得られるようになったとしても、若い頃に刷り込まれた価値観は簡単には変わらない。患者さんから「先生はなぜすぐに診てくれないのですか」と言われれば後ろ髪を引かれる思いになり、家族や大切な人との時間を犠牲にしてでも病院へ向かう。医師とはそういう職業なのだ、と疑うこともなく思い込んでいた。
医師の働き方改革という大きな転換
しかし、この働き方には限界がある。実際に心身の健康を損ない、医療の現場を離れてしまう医師も現れた。医療を守るために医師が倒れてしまっては本末転倒である。こうした現実を背景に、日本でもようやく医師の長時間労働を見直す動きが本格化し、「医師の働き方改革」が始まった。
2024年4月、医師の時間外労働に上限規制が導入された。医師の働き方が制度として大きく変わる歴史的な転換点である。これまで半ば当然のように受け入れられてきた「医師は限界まで働くもの」という価値観が、社会全体から問い直されることになった。
言い換えれば、これは医療界における1つの大きな転換である。
もちろん、医療は一般の職業とは異なる側面を持つ。患者の生命と健康を守る使命は極めて重く、医師には高度な専門性と責任が求められる。しかしその一方で、医師自身の健康や生活が守られなければ、持続可能な医療は成り立たない。働き方改革の本質は、単なる労働時間の規制ではなく、医療の質を維持しながら持続可能な医療体制を構築することにある。
慶應義塾大学病院での取り組み
慶應義塾大学病院では、この制度施行に先立つ2018年から医師の働き方改革に取り組んできた。病院長の下に働き方改革担当副病院長を責任者とする事務局を設置し、病院長補佐、看護師、事務職員など多職種で構成される体制を整備した。さらに各診療科には准教授や講師クラスの医師を「労務管理担当マネージャー」として配置し、病院執行部と現場をつなぐ役割を担っている。
隔月で開催される会議では、残業時間などのデータを共有するとともに、各診療科の取り組み事例を紹介する。ある診療科では業務分担の見直しにより残業時間が減少し、別の診療科ではオンラインカンファレンスの導入によって勤務時間外の会議を減らすことができた。こうした取り組みを院内で共有することで、小さな成功例が全体へと波及する仕組みが生まれている。
働き方改革の柱の1つが、タスクシフト・タスクシェアである。医療の高度化に伴い医師の業務は増加しているが、その中には他職種が担うことが可能な業務も少なくない。看護師、薬剤師、臨床検査技師、診療放射線技師、臨床工学技士、医師事務作業補助者をはじめ、病院を支える全ての職種がそれぞれの専門性を発揮することで、医療の質を保ちながら医師の業務負担を軽減することができる。
さらにAI問診や電子カルテの遠隔閲覧、チャット型コミュニケーションツールなど医療DX(デジタルトランスフォーメーション)の導入も進めている。こうしたデジタル技術は、医療の質を高めながら業務効率を改善する重要な手段となり得る。今後の医療現場では、人材とテクノロジーの両方を活用した新しい働き方が求められていくと思う。こうした取り組みにより、慶應義塾大学病院における長時間労働の医師の数は着実に減少している。一方で入院患者数や外来患者数はむしろ増加しており、診療活動を維持しながら働き方改革を進めることができている(図参照)。
それでも残る課題
もっとも、医師の働き方改革は確実に前進したものの、それが真の意味での働き方改革につながったかと言えば、まだ道半ばと言わざるを得ない。確かに医療行為に対する時間規制は整備された。しかし、その時間規制が医師として成長するための時間まで奪ってしまってはいないだろうか、という新たな問いも生まれている。
いかに持続可能な形で次世代へ継承するか、とりわけ大学病院のように臨床の他に研究と教育を担う医療機関では、将来の医学の発展を支える研究や、次世代の医師を育てる教育が重要な使命である。働き方改革によって臨床業務の時間管理が厳格化する一方で、こうした「創造」や「未来への投資」とも言える活動の時間が圧迫されてしまっていないか、慎重に考える必要がある。
研究や教育に取り組む時間を確保し、医療に対するモチベーションを維持することは、結果として医療の質の向上につながる。医師が健康で意欲的に働ける環境を整えることこそが、目の前の患者さんのみならず医学の発展にも重要なことである。
また、医師の業務負担軽減の重要な手段として進められているタスクシフトやタスクシェアについても、別の課題が浮かび上がっている。医師の業務を他職種に移管することで医師の負担は軽減されるが、その一方で他職種の業務負担が過度に増えていないかという視点も欠かせない。医療は多職種によるチーム医療であり、特定の職種だけに負担が集中する構造は持続可能とは言えない。
医師の働き方改革は、単に労働時間を制限する制度ではなく、医療という営みをいかに持続可能な形で次世代へ継承していくかという問いでもある。
医療の未来のための働き方改革
こうした課題を解決するためには、より多くの医療人材を確保し、多職種がそれぞれの専門性を最大限に発揮できる体制を構築することが不可欠である。同時にDXを活用し、業務の効率化や情報共有を進めることで、医療現場の生産性を高めていく必要がある。
そして何より重要なのは、そのための投資を惜しまないことである。
医師の働き方改革は、単なる労働時間規制ではない。医療の持続可能性と医学の未来を支える社会的プロジェクトなのである。それは同時に、医療という社会的営みをいかに持続可能な形で次世代へ継承していくかという問いに答える取り組みでもある。
「医師は限界まで働くもの」という時代から、「医師が持続的に力を発揮できる環境を整える」という時代へ。
医師が倒れない医療をつくることは、医療を止めない社会をつくることでもある。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。