慶應義塾

【特集:「多死社会」を考える】座談会:今、「死」の捉え方はどのように変化しているのか

公開日:2026.02.05

登場者プロフィール

  • 堀江 宗正(ほりえ のりちか)

    東京大学大学院人文社会系研究科教授

    東京大学大学院人文社会系研究科にて博士(文学)取得。専門は死生学。聖心女子大学准教授等を経て現職。著書に『死者の力』等。訳書に『いま死の意味とは』(トニー・ウォルター)『近代世界における死』(同)。

    堀江 宗正(ほりえ のりちか)

    東京大学大学院人文社会系研究科教授

    東京大学大学院人文社会系研究科にて博士(文学)取得。専門は死生学。聖心女子大学准教授等を経て現職。著書に『死者の力』等。訳書に『いま死の意味とは』(トニー・ウォルター)『近代世界における死』(同)。

  • 井口 真紀子(いぐち まきこ)

    医療法人社団鉄祐会 祐ホームクリニック大崎院長

    在宅医療専門医・家庭医療専門医。上智大学グリーフケア研究所客員研究員。2006年千葉大学医学部卒業。22年上智大学大学院実践宗教学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。著書に『関わりつづける医療』。

    井口 真紀子(いぐち まきこ)

    医療法人社団鉄祐会 祐ホームクリニック大崎院長

    在宅医療専門医・家庭医療専門医。上智大学グリーフケア研究所客員研究員。2006年千葉大学医学部卒業。22年上智大学大学院実践宗教学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。著書に『関わりつづける医療』。

  • 辻井 敦大(つじい あつひろ)

    甲南大学文学部社会学科講師

    2017年東京農工大学大学院農学府修士課程修了。21年東京都立大学大学院人文科学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門は社会学、人間-動物関係論。著書に『墓の建立と継承』。

    辻井 敦大(つじい あつひろ)

    甲南大学文学部社会学科講師

    2017年東京農工大学大学院農学府修士課程修了。21年東京都立大学大学院人文科学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。専門は社会学、人間-動物関係論。著書に『墓の建立と継承』。

  • 戸松 義晴(とまつ よしはる)

    その他 : 浄土宗心光院住職その他 : 世界宗教者平和会議日本委員会理事長文学部 卒業

    塾員(1976文)。大正大学大学院仏教学科浄土学コース博士課程修了。ハーバード大学神学校にて神学修士取得。全日本仏教会理事長、日本宗教連盟理事長等を歴任。著書に『寄り添いの死生学』(編著)等。

    戸松 義晴(とまつ よしはる)

    その他 : 浄土宗心光院住職その他 : 世界宗教者平和会議日本委員会理事長文学部 卒業

    塾員(1976文)。大正大学大学院仏教学科浄土学コース博士課程修了。ハーバード大学神学校にて神学修士取得。全日本仏教会理事長、日本宗教連盟理事長等を歴任。著書に『寄り添いの死生学』(編著)等。

  • 澤井 敦(司会)(さわい あつし)

    法学部 教授

    塾員(1984文、86社修、90社博)。博士(社会学)。大妻女子大学助教授等を経て現職。専門は死の社会学、不安の社会学、社会理論。著書に『死と死別の社会学』等。

    澤井 敦(司会)(さわい あつし)

    法学部 教授

    塾員(1984文、86社修、90社博)。博士(社会学)。大妻女子大学助教授等を経て現職。専門は死の社会学、不安の社会学、社会理論。著書に『死と死別の社会学』等。

「多死社会」とはどういうものか

澤井

 皆様、お忙しい中お集まりいただきまして有り難うございます。本日は特集「多死社会を考える」の座談会ということで皆様とお話ししていきたいと思います。

最初に、「多死社会」というのはそもそもどういうものなのかということを考えてみたいと思います。まず私のほうから、多死社会に関して前提となるデータ的な部分を少しご紹介させていただきます。

多死社会という言葉は最近よく聞くようになりました。厚生労働省の人口動態統計によれば、2022年に年間の死亡者数が、150万人を超え156万9050人に達したと。これは戦争中を除けば、統計が残っている限りでは、史上最高の死亡者数でした。

それまで一番多かったのは1918年のスペイン風邪の流行時で、149万人ちょっとでした。その数を超え、死亡者数で言えば史上最高となったあたりから「多死社会」という言葉が言われるようになったと思います。ちなみに2024年の死亡者数は160万人を超えています。恐らくこれから非常に死亡者の多い社会が続いていくだろうと考えられます。

そして、死亡者が多い一方で出生数は減っているので、少子高齢化がさらに進み、また、人口減少も2009年以降、どんどん進んでいます。

このように、実態としては死亡者数が増大している。しかし、人々がこのことをどの程度実感しているか。このあたりは少し分けて考えたほうがいいのかなとも思っています。それに関して、参考になるようなデータを2つほどご紹介します。

1つは、死が高齢者に大変偏るようになってきたということ。もう1つは病院死の増大ということです。20世紀前半にスペイン風邪が流行した際は、年間の死亡者数の大体3割から4割を19歳以下の若い人たちが占めているのです。とりわけ14歳以下、特に乳幼児の死亡者が多い。1950年になっても、年間の死亡者数の3割は19歳以下で、特に25%ぐらいが0~4歳の乳幼児でした。これは結局、死因が主に感染症だったからです。

1950年には、1年に亡くなる方の3割は19歳以下の若い人たち、そして3割が高齢者という感じでした。しかし、2020年では、19歳以下は0.2%に過ぎず、9割以上が65歳以上、75歳以上が76.5%と、高齢で死ぬ傾向が強くなりました。

ですから、「老いて死ぬ」というのは今では常識ですが、少し長いスパンで考えると、どの年齢であってもいつ死ぬかわからなかったという時代が長く続いていた。それが死因が感染症から生活習慣病や老衰に変わることで、「老いて死ぬ」形が一般化し、高齢者のところで死亡者が非常に多い社会になったということです。逆に若い人から見ると、死というのはまだまだ自分ごとではない、という感覚があるのではないでしょうか。

もう1つが病院死の増大です。これも例えば1951年では自宅で亡くなる方が9割、病院や診療所、その他施設で亡くなる方が1割程度です。これが1970年代に逆転し、現在では8割以上の方が病院、診療所、高齢者施設等の施設で亡くなるようになっています。ただ近年、在宅医療の普及によると思いますが、若干、自宅で亡くなる方が増えてきています。

そう考えると、死亡者が多くなったから死が身近になったのかと言うと、必ずしもそうは言えないかもしれません。若い人であれば、まだまだ死は先のことだと考えますし、空間的にも、自宅で亡くなる人が減り、病院という、ある意味、非日常的な場で起こるようになった。死というのは、身近な生活からは遠ざけられ、人口動態上の多死という実態と、人々の実感とはずれている可能性もあるのではないか。

そのようなことを前置きとして、多死社会についてどのようにお考えなのかを、まずお聞かせいただければと思います。

堀江

データについて少し補いますと、死のタブー視というのは、2019年と2024年の死生観調査で比べると、全体的に強まっているのです。「自分の死について家族と話すことに抵抗を感じる」という人が、2019年は38.9%だったのが、24年は43.3%と増えている。また、「子供に家族が死ぬところを見せないようにするべき」が39.4%から43.8%になっています。

これを見ると、おっしゃるように、若者にとっては死がどんどん遠い出来事になっているのは間違いないのかなと思うのです。

辻井

お二人がおっしゃったことは、私も強く感じるところがあります。今は若者世代、特に学生の間ではあまり死について話題にしなくなっていますし、祖父母世代と関わることもかなり減っています。

多死社会への変化について、お墓の問題や、それを選ぶ終活が盛んになっている背景を考えると、亡くなる方が多くなっているという要因に加え、やはり人口減少や少子化という形で、子供世代が減っていることも大きいのではないかと思います。つまり、亡くなった後を託せるような人が少なくなっているのも多死社会が問題化されている理由の1つでしょう。

加えて、人間関係の変化も関わっていると思います。三世代同居する家族は今では珍しいですし、そもそも普段から祖父母世代の家族と関わる機会が減っています。地域社会の中でも、特にコロナ以降、家族葬が急激に増え、近所の人の死について話されなくなっています。そういう人間関係や家族関係、地域社会の変化も、若い世代が多死社会を感じないことと関連しているのかなと思っています。お墓の選択や継承を考えると特にそうですね。

日常生活の延長としての「死」

澤井

おっしゃる通りだと思います。ただ同時に、死亡者が増える多死社会では、もちろん介護や医療等は逼迫してくるわけです。井口さんはいかがでしょうか。

井口

医療、特に在宅緩和ケアなどをやっていると、日々そういう方と接しますが、個別の経験としては自分の目の前の患者さんを見るわけなので、多死社会だから患者さんが増えたという実感にはなっていない気がします。私は今東京で仕事をしていますが、地方で働いていた時期もあり、死の捉え方には地域差が大きいと感じます。都市部の人たちの死との付き合いにくさみたいなことは、結構感じることが多いです。

それとは別に、最近若者の間で「デス活」が流行っているそうです。死についてオープンに語り、納棺体験などをやるのだとか。「Death フェス」というイベントも開かれています。

新しい形で死を扱おうとする動きの萌芽も見られ始めている気もしますが、それは多死社会により、死というものがうっすらとリアルな問題と感じられているからなのかもしれません。

戸松

僧侶として、現場感からすると、死というのは、普段の生活の延長にあり、あまり特別なことではないと感じます。

例えば、法事なども、以前は家族皆で来ていたのが、子供はクラブ活動があるから来ないとか、葬儀も平日にやると学校を忌引きしなければいけないから参加しないと言う。それは普段から付き合いがなかったということです。

先日、小田原で葬儀があって、家族葬だけど弔辞を読むという。お孫さんが皆一人ずつ泣きながら、おばあちゃんへの思いを言うのです。それは親が共稼ぎで、普段からおばあちゃんが子供たちの面倒を見ていたので、子供たちと関係が近かったのです。

葬儀も、恐らく結婚式も同じで、人とのつながりとは日常生活の延長なのです。要するに意識の変化というより、普段から顔が見えてお蔭を被っていれば、自然に学校を休むし、普段の関係があまりなかったら、「別に行かなくてもいいよね」となる。そこには日常の関係性が反映されている。

その人への思いがなくなるとかではなくて、社会構造や合理性の1つの帰結としてあるわけです。それが宗教的にいけないことなのかというと、仏教は本来は弔いや供養を目的とするものではないのです。

私が葬儀式で読むお経の「独り生まれ独り来たり独り去って一人も随う者なし(独来独去 無一随者)」という言葉がある。生まれてくる時は一人で、亡くなっていく時も一人で逝くのだということです。孤独死でかわいそうとか言われますが、別に独りで死のうが、安らかに死のうが、大往生も何もない。死は死なのです。不慮の事故で亡くなっても、周りに看取られて眠るがごとく逝って大往生だといわれても、仏教的に言えば関係ない。死は死なのです。

もっと言えば、自死の問題があります。自死は、仏教では悪い死とされてきましたが、今、浄土宗では自死であっても必ず極楽浄土に行けます。仏教では死後や遺族に悪いことが起きたりすることはないと解釈しています。社会的には別の思いもあるでしょうけれども。

そのように、死という概念は普段の人間関係が反映される帰結で、時代とともに変わっていき、「こうあるべき」という普通の概念ではないのかなと。そう考えることで苦しんだり負荷を感じたりする人もいるから、私はあるがままでいいという気がします。

澤井

逆に言えば、「よい死に方をしたい」という圧力みたいなものもあるということですね。

戸松

そうですね。おっしゃる通り、やはり人には死についての固定的なイメージが多分にありますね。

「メディア化された死」

堀江

有名人が死んだ後、その人の本がすごく売れ出したり、死んでいるのにどんどん本が出るという現象がありますね。最近だと樹木希林さんとか坂本龍一さんがそうでした。何か死が遠くなっている一方、逆に「メディア化された死」がすごく膨らみ、流通しているということもあります。

澤井

そうですね。例えばつい最近、話題になったことでは、22歳でがんで亡くなった北海道大学の中山さんという学生の「グエー死んだンゴ」というツイートの閲覧数が3億回を超えたということです。特に何か死生観を語っているわけでもなく、「グエー死んだンゴ」と、ネット的な感じの言い方をしただけです。

あるいは去年、NHKスペシャルになりましたが、小山田さんという16歳で白血病で亡くなった方が、亡くなる前からTikTokで、闘病というより楽しい感じの投稿をしていて、それを本人が亡くなった後もご家族が引き継いでいくと、そこにたくさんの若者たちが集まって、交流が続いているということもある。

今のデジタルネイティブの若者たちの間では、ある種の情報空間上では、死というのが身近なものになっている部分もあるかもしれません。一番若い辻井さん、いかがでしょうか。

辻井

ソーシャルメディア上の死みたいなものは、確かに今、話題になっていると思うのですが、それ自体、自分とは遠いところで起こっているものとして受け取られているのかなと思います。それこそ自分の祖父母や、地域社会の中での葬式などを通して死に触れずに、逆にメディア上で触れるような形に今、死との関わり方が変化しているのではないでしょうか。

そういった死への向かい方が、先ほど井口さんもおっしゃっていた「デス活」みたいなものに参加する志向なのかもしれませんし、そちらの方が身近になりつつあるのかもしれません。

ソーシャルメディア上の死や商業主義的にやっている「デス活」などは、自分のアイデンティティを確認するようなイベントとして現れていると思うのですが、一方で伝統的な死への向き合い方はやはり薄れているのかなとは思います。

喪失の男女差の実際

堀江

「終活バー」というところが都営新宿線の森下にありまして、納棺体験ができるんです。

でも、いろいろな人と話ができるかなと思ったら、上智大学のグリーフケア研究所で勉強していますという人に結構会うんですね。もともと興味のある人が多く、大体女性で、40歳からちょっと若めの感じの女性が特に関心があるようですね。

実は私の調査でも、死別や悲嘆を感じるのは、男性より女性のほうが感じやすいという傾向はあります。

戸松

私の実感は全く逆です。多分データ上も、配偶者が亡くなった後の余命率は女性のほうがずっと高い。

具体的に私の世代より上の男性は、家庭生活で掃除も洗濯も食事も全部、奥さんがやっていて自分でやっていない。奥さんが亡くなると、うちの檀家でも「住職、ご飯をどこでどうやって食べたらいい?」と言う。「一人で食べたことがない」という方もいらっしゃる。そうすると生活が崩れて亡くなる方も多い。

悲嘆を引きずるのは、男の人です。「私にも早く迎えが来るように」と言っていた女の人が、1年経ち2年経つと、「こんなに人生が充実しているのは初めてです」とか言う(笑)。元気いっぱいで若くなっちゃって、お友達もいっぱいいて全然違います。

堀江

確かに希死念慮は女性のほうが高いけど、実際の自殺者は男性のほうが圧倒的に高い。意識と実態の乖離があると思います。

戸松

以前、国際医療福祉大学で学生に「お葬式をやりたいか」と聞いたんです。9割は「やりたい」と言う。でも、今のお葬式は「暗い、お金がかかる、意味不明」だから、宗教者が来る形ではやりたくないと。イベントとして、亡くなった人の好きだった音楽とか、友達が集まって思い出を語るというものは企画してやりたいと。

また、対面での人間関係というのは当然、いい時ばかりではなくて介入されるから煩わしい。けれどネット上であれば、自分で嫌になったらオフにすればいい。おそらく普段のいろいろな関係性がそこにも反映してきている。要するにフェイス・トゥ・フェイスの人間関係で何かを感じたり、培うよりは、ネットの中で仲間ができても、オフにすれば来ないし、嫌なことは聞かないということだと思うのです。

葬祭に宗教は本当に必要なのか

堀江

実は私の調査ですと、「自分の葬式に多くの人に参列してほしい」という割合は、2019年は14.8%だったのですが、24年は18%で、統計的に有意に高くなっています。

戸松

イベントですよ。

堀江

「自分の葬式を宗教式で行ってほしい」というのは、下がってはいないのですが統計的には有意ではない。

全体に「多くの人に参列してほしい」も、「宗教式で行ってほしい」も2割なので、今、二極化している感じが少しあって、保守的な人とか家族に恵まれている人は一定数いるのかもしれません。号泣する家族もいたということですが、本当に家族によって全然違うところもあります。

澤井

葬儀も昔ながらの、地域の人を呼んで自治会も協力して、という葬儀ではなく、家族葬が半分以上になり、直葬もかなり増えていると言われます。ただ、同時に、昔から葬儀を司ってきたのは日本の場合は仏教ですよね。

戸松

今でも9割はそうですね。

澤井

家族葬であっても、やはりお経は唱えてほしいという傾向はあるようです。たとえお経の意味がわからなくても、そこには何か人を安心させるような効果があるのかなと。

戸松

もともと日本の檀家制度は信仰共同体ではないのです。要するに、信仰があるからお寺の檀家になっているのではなくて、たまたまご先祖の墓がずっとあるからそのお寺の檀家でいる。だから、先祖の供養をしてくれて、自分たちのこともわかって大事にしてくれれば南無妙法蓮華経でも南無阿弥陀仏でも、もっと言えばアーメンでも何でもいいのです。

例えばうちでも若い人でお墓参りに来る人はいっぱいいます。それは小さい時から、祖父母や両親といつも来ていた人です。「昔はよくお菓子をもらいました」とか言うわけです。恐らく葬儀で、信仰もないのにお坊さんを呼ぶのは、そういうことを経験してきていて、人が亡くなった時にはお坊さんにお経を読んでもらうものだということが、経験の共有として残っているからだと思います。

一方で今、宗教者を呼ばない葬儀が増えています。これも、ある意味で変化の必然です。宗教者を呼ばない、宗教的な意味のないお別れ会で、家族葬で家族だけで送るということです。

浄土宗の教義でもお葬式をやらなければ往生しないということはなくて、お坊さんなんか本当はいなくてもいいのです。今のままお寺との関係性が希薄になっていって、普段から何か相談したり顔の見える付き合いがなければ、皆お坊さんを呼ばなくなり、仏教の葬儀はどんどん減ると思います。

堀江

ただ、直葬というのは普通は僧侶を呼ばないはずなのに、火葬場に僧侶を呼ぶこともあるようです。もともとダイレクト・クリメーションと言って、英語圏だと本当に宗教者を呼ばない。宗教者は教会にいるものなので、火葬場に出張することはないわけです。しかし、日本人は、それでもなお、お経を読む人を望むという。

戸松

非合理的ですが、お経をあげないと何か後ろめたさがあるのだと思います。うちでもそういうことがありますが、お釜の前だと、長くお経をあげても5分です。戒名をつけた仮の位牌を持っていって、それで終わりです。

葬儀の形はどんどん変わっています。昔は例えば初七日は、火葬が終わってからやるものでしたが、今は出棺する前に初七日をやる。「そんなのは駄目だ」と言っていた形式にうるさいお坊さんたちも、結局、今はそれを受け入れています。だから、儀式の形というのは仏教の正統性などよりも、それをされる皆さんと、社会の価値観が決めていく。それに仏教は合わせていくのだと思います。

看取りと家族関係

澤井

今までは亡くなった後にどう見送るかというお話が主でしたが、看取りの場においてのご家族、あるいはご友人などの人間関係のあり方の変化で気になるところはありますか。

例えば先ほどの「グエー死んだンゴ」と書いた若者ですが、ご家族はそのことは知らず、友人との関係が非常に深くて、後からご家族が知ったようです。井口さんは、在宅で看取りをする中で、どのような感触を抱いていらっしゃいますでしょうか。

井口

この方は、若かったこともあり、親・家族とは違う場にいろいろな面を持たれていて、その1つの面が、匿名の人たちの心に響き、大きな反応になったのだと思います。ネットスラングでお決まりの「成仏してクレメンス」と言って見送ったという。そこに、はかないつながり感みたいなものができていたのかなと思いました。

看取る患者さんのいらっしゃるお家に医療で行くとなると、どうしてもご家族を中心とした関係性に深く関わることになるので、こういう外での面は見えないかもしれません。見えていないところでの様々な「この人のつながり」にどれだけ近寄れるかは、いつも問われている気がします。

個人がいろいろな場所で活躍するようになればなるほど、そういう「見えなさ」がどんどん出てきて、医療者はそういう見えなさを踏まえて関わる必要が増えてくるのでしょう。

澤井

ご家族であってもそれぞれ多様な人生を生きていて、価値観も様々だと思います。ですから、皆さん仲よしで、両親を敬っている、とはいかないケースも多いのではないかなと。

井口

むしろ、そういうことは稀のような気がします。皆がそれぞれの場所で生きていて、それぞれの思いがあり、その関係をどうおさめていくか。ご本人のお体が弱っていく中で、全員が100パーセント満足ということは絶対になくて、皆が少しずつ妥協したり満足したりしながら調整していくことになります。

ご本人の死ということも大切ですし、ご家族を亡くす周りの方の経験も、やはり大事なことです。そこが深さであり、難しさであると感じます。

澤井

井口さんはかつては病院医療もやっておられたのですよね。現状の、病院医療等の状況を考えると、看取りという面ではいかがでしょうか。

井口

これも「病院は」と一言でまとめるのは難しいかもしれません。在宅医療を受け始める前には、多くの人は長い時間、病院で治療の段階があるわけです。すると、在宅医療が入り始めた瞬間にすぐ受け入れてもらえることなんてほぼありません。

その段階では真に信頼しているのは病院の先生であり、病院という場所であり、自分のデータがたくさん残っている病院のカルテです。そんな中、定期的に来る在宅の医師が「話を聞いてくれるからいいかも」みたいにだんだんと関係を積み重ねていき、「じゃあ、このまま先生に診てもらうのでいいよ」となる時間が必要なのです。

その迷っているフェーズで「やっぱり病院に戻りたい」となることもあります。以前は、「何で返してくるんだ、一度、在宅に紹介したのだから、もう二度と送ってくるな」みたいなクレームを言う病院も結構ありました。今は少し雰囲気が変わり、「人間は迷うものだよね」と対応してくださるところは増えてきたなとは思います。

揺れ動く死への臨み方

堀江

最近世論の変化も多少感じます。つまり、どのように死ぬかということを自分で決めるということが結構、宣伝された時期があったと思うのですが、それに対する反発みたいなものも出てきて、迷いも見られます。僧侶であって終末期の患者さんを診ていた方が、結構迷っている姿が、NHKで放送されたりしましたよね。

ほかにも、やはり在宅医療を推進していた医師の方が、最期はできるだけの治療をしたいと、フルコースの医療にこだわるようになった例もあります。

そういう迷いの姿というのは、多死社会になったからこそ出てきた面もあるのかなと思っています。

戸松

 恐らく、「理想の死」というものはないのです。その環境の中でできることで、残された人も亡くなっていく人も「まあ、いいか」となる。仏教でもすべてが移り変わると言っているから、固定観念を持っていても、経験を積むことで変わっていく。お坊さんでも、人に説いていることと、自分の思いは逆という例もある。

お医者さんも揺れ動いている。まさに「最期は余計なことはしなくていい」と言っていた人が、「できるだけのことをやってほしい」と思うのは、私は人間として至極当然だと思いますね。

それを「こいつが言っていたのは嘘だ」と周りが言うべきではなくて、人はいつも変わっていくから、その時にその人が言ったことを受け入れるということが、ご家族やご本人にも一番いいことかなと。仏教的には価値判断をしないということです。

堀江

一時期、「Good Death(よい死)」というのが流行ったのですが、それに対して「Good Enough Death」という言い方が英語圏でも出てきています。Goodというのは「よい」という意味もあるのですが、この場合「十分な」というもともとの意味です。「足ることを知る」という感じかなと。

戸松

そうそう。「まあ、いいか」ということ。「まあ、いいか」の精神は、私は最近、皆さんにもお話ししているのですが、それが自分を受け入れる一番いい方法ですから。

澤井

日本だと1990年代ぐらいからインフォームド・コンセントが普及して、がんの告知をするほうがよいとなったり、尊厳死に注目が集まり、「死の自己決定」や、「自分らしい死に方」が強調されてきたと思うのです。

その延長線上に2010年代ぐらいからの終活もあると思うのですが、「自分らしい」と言われても私も正直よくわからない。いざ死ぬとなれば、多分迷うだろうし、こう思っていたけれど、いざとなると、「やはり違う」となってしまうのだろうと思います。

二極化する埋葬

澤井

お墓も1990年代ぐらいから自然葬などが社会的に認知されたり、共同墓とか公園のようなものもあれば、永代供養墓で、葬祭業者がやっているものもあれば、お寺さんがやっているものもある。さらにデジタル墓というのでしょうか、デジタル空間上に自分を残していく、あるいは追悼アカウントみたいなもので自分を残していくとか、いろいろなお墓の形が出てきていますね。

辻井

死後についてどう選ぶかということに関しては、90年代以降、散骨や樹木葬、合葬式の墓地や永代供養墓といったものが出てきて、少しずつ社会的に認知されてきました。今だと「散骨を選ぶなんて、何てことをするんだ」みたいなことを言う仏教者の方も多くはないと思います。

戸松

言えないですね。それをされるとお寺に来なくなって収入が減るから駄目、と思っているもしれませんが。

澤井

葬儀業者もメニューに入れていますね。

戸松

でも、海洋散骨は高いのですよ。

辻井

そうですね。散骨もそうなのですが、「二極化」がここにも起こっているように思います。お金を持っていて、家族がきちんといて、どういう死後の弔い方がいいかを家族と相談した上で、お墓を選ぶ方もいます。その一方で、家族がいないとか、そういったことを考える余裕もない、家族と関係が悪くて頼めるのかもわからない、といった人も増えていると思います。

散骨も高級化して、数十万円で船を1艘貸し切ってセレモニーのようにやるサービスも現れています。一方で、引き取り手のない遺骨とか、成年後見人の弁護士さんなどが持っている遺骨を3万円で受け取って、事業者が「海に撒いておきます」というサービスも出てきています。その場合は、僧侶の方を呼ぶこともなく、ただお経のテープを流すだけで散骨を行っています。

戸松

お経を流すのですか。それは選択なのでしょう?

辻井

いえ、それをしないと弔意をもって行うということにならないと。散骨自体は、死体遺棄罪などとの関連で法的にグレーゾーンでして、弔意をもって行うのならば、形式的に問題ないと位置付けられています。

戸松

そうしないと、ごみを捨てるのと一緒になってしまう。

辻井

そうなんです。そういう形で、死後、誰かが遺骨の処理のために依頼しているような業者もあれば、セレモニーのように第2の葬儀をやるという人もいて、散骨一つ取っても二極化のようなものが現れているようです。

以前、統計的に分析したところ、女性にとっては収入の差が関係なく、散骨を希望する意識があるのですが、男性に限ってみると、収入が低い人ほど散骨利用の希望が高い傾向があります。家族もいないしお金もないから、家族に迷惑を掛けられないから、散骨でいいと思っている方も増えているのではないかと思います。

埋葬の未来

堀江

私の調査で以前に比べて多くなったのが、個人の墓に入れないで、集合納骨施設に収蔵してほしいというものです。納骨堂などに入りたいという人も増えています。

戸松

私は将来、おそらく国が無償で埋葬をやると思っています。今、全国で無縁の墓ができて、地方行政はそれの処理もできない。もう都道府県や市町村からすると、税収はなくなるし、お墓の処理にもお金がかかる。今がラストチャンスなのです。団塊の世代は実家のお墓のことをわかっている。そういう人たちがいる間に、遠方でお参りできなくなる前に、お墓の「墓じまい」はちゃんとやってほしいということです。

なぜ無縁墓のこの問題が起きるかというと、お骨が残るからです。1つの試案としては、望む人には火葬後にお骨を持って帰ってもらわない。技術的には全部焼却できますから。それから、研究者の中には北欧のベースモデルを提案する人がいます。国が無償で埋葬をするということです。

お骨は1カ所に、いわば捨て墓みたいなところに全部入れてしまって、メモリアルパークとして碑を建て、そこでご家族が亡くなった人の名前を見つけてその前で偲ぶ。その代わり、お線香もお花もお供物もあげられない。

しかし、そうなったら、お寺はみんな潰れてしまいますから、反対しないといけない。

辻井

すごく多いですよ。例えば後妻さんで、関係もすごくいいのですが、やはりお墓には先妻さんも入っているし、私は納骨堂に入りたいと。それからご夫婦で、ご主人が亡くなり、「私は本当は自分の実家のお墓に入りたいけれど、それもできないし、でも主人の親とは一緒に入りたくない」とお子さんたちも合意の上で永代供養塔に申し込む方もいる。本当に多様化していて、これも日常の関係性が死後のお墓にも反映しているのです。

全国の自治体で、例えば生活保護受給者や行旅死亡人として亡くなられた方を火葬した場合の、残ったお金や遺骨をどうしているのかを総務省が調査しています。その調査によれば、自治体は、遺骨の取り扱いみたいなものがはっきり規定されていないのでごく困っている。勝手に処分していいのか、それともいつまで保管するのか。

公営墓地があるような自治体は、そこに一旦置いておくなどしているようです。でも、合葬墓に合葬してしまうと、後から遺族が来たときに返せないとトラブルになるから、それを国のほうで何年保管すべきと定めてほしいと。

公営墓地の無縁墓に関しても、戸松さんのおっしゃる通り問題化していて、総務省が2020年代に調査をしています。全国の自治体の悩みであり、何とかしなければいけないと考えているようです。お墓を維持できない人たちはどんどん増えていくので、今後、行政側がカバーしなければいけないということですね。そこで法の運用を含めて新しい動きを模索している段階になっていると思います。

あと、やはり各自治体ごとに墓地行政は動いているので、各自治体で何か、やれる場所ではやっておこうという感じの動きも現れているようです。特に公営墓地があるところは、早めに合葬墓を造ろうという動きが起こっているのではないかと思います。

戸松

やはり一般の方は、費用の問題が大きいのです。おっしゃる通り、お金のある方はいろいろなチョイスがあるし、お寺とも付き合っていける。しかしお金のない人たちには遠い世界だから、必然的にそういうことは起こってくるのかなと思います。

本来、私たちお寺が、そういう人たちには無償で門戸を開いてやるべきで、それが私たちお寺が非課税である理由なわけです。

辻井

ちょっと擁護すると、行政の資料を読むと、お寺さん側が申し出てくれることも結構あるみたいです。

戸松

なるほど、それは素敵ですね。

辻井

でも、政教分離の原則上、遺骨を任せたくても、お金を出して頼むことはできない。また、遺族が引き取りに来るかもしれないし、その時の所在を行政側が把握しておかなければいけない。

戸松

その人がキリスト教かもしれないし、なぜお寺に行っているのだと。

辻井

そうなのです。そういう意味で、熱意あるお寺さんがいても噛み合っていないという事情はあるみたいです。

「死」のビジネス化という負の側面

堀江

トニー・ウォルターが、葬送の担い手というのは、宗教と自治体と葬祭業の3つのアクターがあり、その割合が、国によって違うと言っています。日本の場合、確かに自治体や行政の関わりが弱かった可能性はあります。

要するに、格差が広がるというのは、金銭とともに家族などの関係性の格差みたいなものが広がりますから、無縁の死者になるような人たちを包摂する仕組みには、やはり行政が出てこないと難しくなるのかなと思います。

戸松

おっしゃる通りです。

堀江

そこで葬祭業者がどういった動きをするのか、ちょっと私はわからないのです。例えば、イギリスだと死生学に関する学会のスポンサーが葬祭業者ということが結構多い。また韓国は、死生学に関する専門を学びたいという学生が増えていて、その就職先は葬祭業が多いのですね。

その点、日本は、葬祭業者というのはどういう役割を果たしているのでしょうか。

辻井

葬祭業者は儲けにならないものには大きく反応はしないですね。特に無縁死者、無縁遺骨みたいなものへの対応という点だと。一部、葬祭扶助費は出ますが。

戸松

区民葬とか。

辻井

そうですね。葬祭扶助費の範囲内で、可能な限りしっかりと葬儀をするという葬儀社さんは、結構あると思いますので、そういうところで対応していると見ることもできると思います。お墓だと社会福祉法人みたいなところが最近、老人ホームなどの単位で、合葬墓を造るような動きが起きていると思います。

あとはそれこそ、一部の熱意ある仏教者の方がご自身で、採算を度外視して檀家さん以外にも開く形で合葬墓を造って、最悪の場合、お金をもらえなくても、無償で受け入れたり、路上で亡くなられた方も含めて弔うという形で動かれているところもあります。

おっしゃるように、もともと公的な部分が日本は弱いので、宗教者の方とか、社会福祉法人とか、補助費の中でやる葬祭業者などがカバーしてきた領域なのかなと思います。ただ、そのカバーせざるを得ない範囲がどんどん広がってきています。多死社会で死者が増えている状況なので、どこまでそれができるのか、難しい部分もあるのかなと思います。

戸松

葬儀のことでは、全日本仏教会は年に1回、全日本葬祭業協同組合連合会と会合をして、お互いの葬儀に関する問題などを話し合うのです。実は葬祭業は、免許制ではないので誰でもできるのです。今、新規参入する業者のほとんどが、広告を出しているだけで自前のスタッフを持たずに派遣でやるものです。要するに窓口だけつくって、実際には仕事が少ない地元の葬儀社さんにやらせるのです。

18万で受けたら、葬儀社には8万か9万しか渡さない。すると葬儀社は8万や9万で葬儀はできるわけがないので、お客さんに、手を替え品を替え上乗せ請求するわけです。それで費用がかさんで消費者センターに苦情が来る。

一番の問題は免許制ではないことですが、なかなか法制化できない。質が下がって嫌な思いをする人が増えれば、葬儀を頼まなくなる。すると伝統的な葬儀の形式や、お寺にも影響する。これは深刻な問題です。

お寺と関係がないお坊さんを頼むと、仲介業者がたくさん中抜きをする、という1つのビジネスになっているのです。皆さんの払ったお布施の25%しかお坊さんには渡っていない。僧侶派遣サービスを使っている人はそれを知らないから、私は僧侶派遣業をしている会社に全部公開しろと言っています。

堀江

お布施という形であれば、お布施するほうは全部お坊さんにいくと思いますよね。

戸松

搾取ですよ。1つ言えるのは、やはり多死社会になり、死ぬ人が増えるから、死というものがビジネスになり、ベンチャーなどが参入してくるわけです。それは1つの負の側面なのかなと思います。

「孤独死」をどう捉えるか

澤井

格差ということにつながるかもしれませんが、孤独死や孤立死が最近問題になっています。これだけ単独世帯が増え、一人暮らし世帯が4割に達しようとしている時代です。ある程度お金や人的な資源を持っている方は、お一人で亡くなられてもすぐに見つけてもらえたり、あるいは終身サポートみたいなものを利用して、「一人で死んだ時にはこうしてください」と用意できる。それに対して、そういうことができない方々、まさに孤立されている方々が、多死社会において恐らく増えていくのかと思います。

孤立という問題に関して言うと、「看取る」という場面にも、在宅医療の場合、お一人である方のケースもあると思うのですが、そういうケースは多くなっているのでしょうか。またそういう場合、どういうことを配慮していくべきだとお感じでしょうか。

井口

独居の方の看取りというのは、確かに在宅医療の1つの大きなテーマです。私が本格的に在宅医療をやり始めた10年くらい前はやはり、「一人暮らしの人を看取るというのはすごく大変なことなんだよ」という感じで、レアケースで皆ですごく頑張ってやるようなものでした。

でも、今はもう別に珍しくはなく、「あ、一人暮らしなんだ」くらいの感じです。独居の人が増えて皆が慣れて経験を積んできているので、それ自体の特別さを感じることは減ってきている気がします。

また、ご本人の意思は、独居のほうがどちらかというと叶えやすいです。お一人で自分の生き方を大事にしてこられているので、「その人がそう思っているから」ということで大事にできる。逆に思惑のある親族があれこれ言うほうが、かえって本人の気持ちだけでは済まないことが出てくるところもあります。

とはいえ、初めて独居を担当する方はやはり困ることは多いのでサポートが必要になります。東京都内で在宅看取りを希望される場合、うっかり救急車を呼ぶのは一番避けたいことなのですね。救急車を呼んでしまうと……。

戸松

蘇生させられちゃう。

井口

そうです。そこからもう警察マターになってしまい、不審死扱いみたいになるので。そうならないように、いろいろなところと相談して調整しておくことで、最後に医師が死亡診断するところまで、その人をとにかく家にいさせることができれば、たとえ独居の方でもご本人の家で最期まで過ごしたいという希望を叶えられるのです。

ただ一方で、本当にびっくりして、つい救急車を呼んでしまうということは避けられないことでもあります。

戸松

痙攣を起こしたり、苦しんだり。

井口

そうなんです。ご家族がいたとしても、在宅看取りでいきますと言っていても、最後の最後に気が動転して、つい救急車を呼んでしまうのは、もう主治医であろうと止められない。警察が、主治医が死亡診断書を書いていいよと言ってくれたら書けますが、そうじゃないともう監察医務院でとなる。家で最期まで、と決めた以上はその流れに乗せないようにしたいとは思います。

一方、私も無縁死の共同研究で勉強している時に、私たちの見ている孤立死は、まだ恵まれているのだと感じました。真に孤立している人は、地域包括とか行政の介入も拒むこともあり、あるいは見つけられもせずに無縁仏となっていき、行政に骨を引き取られる。

私たちが関わる人たちは、どんなに孤立しているように見えても、「お骨ぐらいはお墓に入れてあげる」と言ってくれる遠い親族が出てきたり、誰かが助けてくれることが多いのです。同じ「孤立」という言葉であっても、様々な位相があって、自分に見えているものはごく一部だなと感じます。

様々な死の迎え方

戸松

ご家族であっても、お骨の引き取りはしたくないという方もいます。すると、家族って何だろうなと。例えば山谷のホームレスの人たちは、「ひとさじの会」の吉水岳彦さんが寺院に共同墓をつくり、無償でお墓に受け入れている。するとそこには、ホームレスの仲間たちが皆お参りに来るのです。

例えば塾の出身者で、家族がいなくなったりしても、同期のお仲間とか三田会の人たちで、「最後に墓も一緒に入るから、葬儀のときは連絡し合おうよ」と言ったりしている。正本乗光さんという仏教青年会をやっていた人が、最後の出棺の時、遺言で「若き血」を歌えと言われて、私たちは歌いました。「それもいいな」と思いました。やはり新しい形のコミュニティで送ってもいいし、家族がいなくたって寂しくないかもしれません。

堀江

「一人で死期を待ち、誰の世話も受けずにいたい」という人が、5年前は36.3%だったのが42.1%に上がっていて、「死ぬときは誰かにそばにいてほしい」は64.8%なのですね。だから4対6ぐらいで拮抗している状態なのです。

辻井

それも自分で選択して、家族に迷惑をかけたくないのでそうしたいという人もいれば、そもそも家族に頼れないみたいな人もその統計の中には含まれているのではないかと思います。

澤井

その結果、一人残されて、何日もそのままで発見されないみたいな場合がありますね。

堀江

ところが、「誰からも発見されず遺体が腐乱するのは嫌だ」というのは81.6%なのです。

澤井

ちょっと難しいところですね。

堀江

難しいですね。上野千鶴子さんは、ふだんから連絡を密に取り、生存確認をし合える仲間がいて、それで腐る前に発見してもらえるようにするのがいいという孤独死を勧めているのですけれど。

澤井

そういう終身サポートというか、見守りも含めたサポートをしている業者さんも増えてきているようですね。

コロナ禍で変わったもの

堀江

コロナの影響を皆さんがどう考えているのか知りたいのです。特に、コロナを境に、お葬式の規模がかなり縮小したとよく言われますが、コロナで何が変わったかという実感はいかがでしょうか。

戸松

私はコロナをきっかけに、もともと思っていたことが正当化されたのだと思うのです。お寺さんに対しても、親族、地域に対しても、「コロナなので三密を避ける意味で、家族だけで近親者だけで葬儀をやります」と。そうするとまず費用がかからない。本当にやりたければ、その後にやることもできますが、その後も全然戻っていないのです。

葬儀の形が変わっていくのは、普段の生活が反映されるからです。多分コロナが1つのきっかけになったのだと思うのですね。

もちろん地域によっては戻っているところもありますが、結局、1日葬が定着し、お通夜をやらず、そこで飲み食いもしない。そのようになったのは、恐らくもともとそう思われていた方が多かったからであって、宗教離れとかいう問題ではないと思っています。

辻井

僕も業者側の資料や動きを見ていて同じように思っています。コロナ前からあったニーズが、「コロナだから」ということで表面に出てきている。お墓の選び方も葬儀もお金をかけないようにと。2020年代以降はそういう理由づけとして使われている部分は大きいかなと思います。

コロナ禍で会えなくなったからと言いつつ、よりコストをかけない新しい弔い方みたいな感じで事業者側も、デジタル的な文脈を含めて探っているのかなと思っています。

堀江

でも、リモート葬儀・法要は日本では定着しなかったのですね。それは「リモートでもいいからやりたい」という、そこまでの熱意が実はなかったということの表れなのでしょうか。

戸松

リモートの法要は全然駄目ですね。やはり理屈ではないのです。「めんどくさい」とか言いながら、お坊さんに頼み法要の場を設けて供養してもらっている。それに比べてお墓は今、行かれない人の代わりに業者がお参りして、映像を撮って送ることを普通にやっている。そこに多分、理由はないような気がしています。

「AI故人」は広がるのか

堀江

私の調査では、宗教的な数字が軒並み下がっている一方で、死後の霊魂に関する信念や生まれ変わりや祟りを信じる傾向は高くなっている。ある種のスピリチュアルなものへの関心は逆に高まっていると言えそうです。

死者の声を聞きたいというのは、昔であれば霊媒とかがあったけれど、そこにデジタルなものが入る余地、要するにAI、チャットボットが死者の代わりになる、いわゆる「AI故人」は今、議論されていますね。

澤井

そうですね、それは今後どのように技術が進むのか。デジタルネイティブの人たちの、生まれてからネット上に残した様々なデータは動画も含めて膨大にあります。それを全部AIに読み込ませて、1つの人格を作ることは技術的にかなりできますね。

辻井

日本でもベンチャー企業なども含め、それこそ多死社会のビジネスとしてやろうとしています。アメリカや中国をモデルにして。

井口

中国はもうやっていますよね。

澤井

その精度が上がると、私が死んでも「澤井みたいな受け答えをする奴」は残っていくわけですが、それが死生観を変えることになるのかどうか。

戸松

うちの檀家でも、「極楽浄土に行けると思う人」と聞くと、1割ぐらいしか手を挙げない。だけど、「ご先祖が守ってくれていると思う人」と言うと9割ぐらい手を挙げるのです。それは医学部生も一緒です。だから、合理的にわかっていることと、感じることとは違っていると思うのです。

「何か嫌な奴だけど好き」とか、一目ぼれしちゃう、というのが人間なので、これから仏教界は、悩み事の相談を受けた時にAIが言うような答えを出しているのであればお坊さんは必要ない。合理性はなくても、何か話を聞いてもらって安心したとか、このお寺の門をくぐったら何だかわからないけど心地よいという部分が、これから宗教が勝負していけるところだと思うのです。

堀江

ある期間までは悲嘆のために「AI故人」というものがいてもいいけれど、やはり忘れられる権利のようなものもあるわけです。自然に消滅していくような形も、やはり必要なのかもしれません。

澤井

そうですね。そうでないと、もうデジタル化された死者の人格が何億と残ってどんどん増えていくような社会になってきますものね。

井口

医学部の1年生の授業で死生学を教えていて、やはり最後にAI故人の話も出すのです。デジタルネイティブ世代なので抵抗感があまりないかなと思うと、「気持ち悪い」とか、かなり強い抵抗感を持つのですね。やはり、「そういうものじゃない」という感覚を、どこかで感じているのだろうなとも思います。

辻井

海外だと結構受け入れられている感じですか。

堀江

私の感覚としては、海外のほうが抵抗があるような気がします。やはりネクロマンシーは死者を召喚するようなもので、聖書的にも禁止されていますから、ユダヤ・キリスト教世界は抵抗がある。むしろ中国人のほうがかなり前向きですよね。

戸松

「Rome Call for AI Ethics(AI倫理のためのローマからの呼びかけ)」というものをバチカンが作って、これは今EUの基準にもなり、いろいろな制限をかけています。

世界宗教者平和会議(WCRP/RfP)日本委員会が共催して一昨年広島で国際会合を開催したのですね。やはりヨーロッパ、キリスト教では、神様の領域というものをきっちりと守ろうとしますから、死後のことと、生まれる前の生殖補助医療などの利用は制限をかけるべきだという考えがある。それをアジアでもやってほしいということで、アジアの諸宗教者、世界仏教徒連盟(WFB)会長もサインしました。

やはりこれからは仏教界としても、AIの兵器利用、死生の領域への利用にどこかで制限をかけないといけないと思っています。

澤井

今日は、大変有益なお話をお聞きして、私も勉強になりました。

皆さん、どうも有り難うございました。

(2025年12月23日、三田キャンパスにて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。