執筆者プロフィール

津田 正太郎(つだ しょうたろう)
研究所・センター メディア・コミュニケーション研究所教授
津田 正太郎(つだ しょうたろう)
研究所・センター メディア・コミュニケーション研究所教授
「何をされるかわからない」不安
つい先日のことだ。
知人の研究者がX(旧ツイッター)で壮絶な嫌がらせに遭っていた。明確な理由があったわけではない。たまたま、あるインフルエンサーのアンテナに引っかかってしまったのだ。それを発端にその研究者にまつわる陰謀論的なストーリーがいくつもでっち上げられ、一部のユーザーから目の敵にされるようになってしまった。
それらのユーザーによる悪意に満ちた攻撃はすさまじかった。筆者はその様子を眺めながらも、表立ってその研究者を擁護したりはしなかった。励ましのメールを送るぐらいで、自分のアカウントで攻撃を諫めることはできなかった。筆者が何か言ったところで火に油を注ぐのが関の山だったにせよ、要するに怖かったのである。
この一件に限らず、近年、実名でXのアカウントを運用しているユーザーが何らかのきっかけで壮絶な嫌がらせの対象になるのは珍しいことではない。不快なリプライを大量に送りつけられるだけではない。公開されているメールアドレスを悪用した虚偽の大量予約や誹謗中傷など、犯罪行為までも行われる事態に発展している。このような状況において、Xでもとりわけ悪名高いグループの不興を買っている研究者を表立って擁護するのは、やはり怖い。何をされるかわからないからだ。
もちろん、インターネットが怖い場所なのは今に始まった話ではない。インターネットの普及以前、パソコン通信の時代からユーザー間の揉め事は日常茶飯事であったし、2000年代には匿名掲示板や個人ブログを火元とする炎上騒ぎが話題になるようになった。2010年ごろからはツイッターでの大学生の炎上が目立つようになり、東日本大震災以降には筆者がフォローしているユーザーのあいだでも激しい対立が起きるようになった。こうしてタイムラインはどんどんギスギスした雰囲気になっていった。
さらに、当時のツイッターでは、在日コリアンに対するヘイトスピーチが蔓延するようになっていた。ある在日コリアンのユーザーに対してどのようなリプライが送られているのかを検索したところ、目を覆いたくなる無数の罵詈雑言がモニターに並び、驚愕したのもこのころのことだ。その見方からすれば、「最近のXは怖い場所になった」などという物言いは、端的に言って事実に反する。したがって、近年の事態をより正確に言うなら、怖い思いをするユーザーの範囲が広がり、誰が嫌がらせの対象になるのかの予測がつきにくくなったということになるだろう。
エコーチェンバーは悪なのか
こうした状況のなかで、筆者自身のソーシャルメディアの使い方も以前とは変わってしまった。Xでの発信も続けてはいるものの、本当に言いたいことは新興のソーシャルメディアであるブルースカイ(Bluesky)に書くようになった。こちらはユーザー数が少ないことに加えて、おそらく筆者と考えの近い人が多いため、不快なリプライをもらうことがあまりないからだ。つまり、ここが筆者の「エコーチェンバー」なのである。
エコーチェンバーと言えば、同じ意見をもつユーザーばかりで固まり、そのなかにいると意見が偏っていく悪しき空間だという認識が一般的だろう。もちろん、そのような見方が完全に間違っているわけではない。対立する意見がまったく入ってこないエコーチェンバーが好ましくない空間であることに異論はない。
だが、いくつかの実証研究で明らかにされているように、エコーチェンバーのせいで人びとが異なる意見に接する機会が減少しているという主張は、かなり根拠に乏しい。エコーチェンバーにのめり込む層は存在するにせよ、その数は限られているからだ。ネット上での情報アクセスへのハードルは概して低いため、自分と異なる意見に接触する機会は決して少なくない。むしろ、現在のXにみられる激しい対立の重要な要因となっているのは、接触の不足というよりも、「質の悪い接触」である。
第一に、ネット上での対立では、自分たちの意見がいかに優れているかよりも、相手側がいかに愚劣なのかを晒し 上げることが重視される。そのため、相手側の意見を拾い上げてくるにあたっても、批判しやすく、極端なものが選ばれることが多い。ネットでは攻撃的で露悪的な投稿のほうがアテンションを集めやすいことから、そういった投稿は簡単にみつけることができる。結果、「相手側の意見」として引用されるのは、こちら側が妥協する余地など微塵もないものばかりになる。極論を展開する側も、それを晒す側も、外形的には対立しているようにみえて、アテンションを集めるという点では協働しているのである。
第二に、ソーシャルメディアでのやり取りは、往々にして最初からきわめて敵対的な様式のもとで行われる。当たり前の話だが、見ず知らずのアカウントから(しばしば強引な解釈に基づく)罵倒や嘲笑を浴びせられると、多くの人はそのアカウントが嫌いになる。のみならず、そのアカウントが属していると思しき党派も嫌いになり、それと対立している党派に接近しやすくなる。
さらには、その様子を外から眺めている人にも同じ現象が生じうる。本稿の冒頭で述べたように、親しみを覚えている人が攻撃される様子を目にするのは実に不快な経験である。傍観する立場でしかなくとも、攻撃に加担しているユーザーは嫌悪の対象になる。そこで生じる怒りは、時に自分自身が批判されているときよりも大きいほどだ。
米国では、被験者のエコーチェンバーを意図的に壊す実験を行ったところ、自らの支持する党派が攻撃されているのを目にすることで、被験者の党派性がかえって強まったとの知見が報告されている(クリス・ベイル/松井信彦訳『ソーシャルメディア・プリズム』みすず書房)。戦争に代表される外部との敵対的な接触が、少なくとも短期的には集団としての一体感を増すのはよく知られるところだ。
第三に、ソーシャルメディアのアルゴリズムの問題もある。とりわけ、Xの「おすすめ」には、良くも悪くもユーザーのアテンションを集める投稿が表示されることが多い。その投稿者をフォローしていなくても表示されるため、自分と立場を違えるだけでなく攻撃的な投稿を目にする機会が増える。著者自身、Xを眺めていて何か気分が悪いなと思っていたら「おすすめ」を開いていたということが少なくない。つい、そこに表示された不快な投稿に批判的なコメントを付して引用リプライをしてしまうこともある。頭ではわかっていても、アルゴリズムにいいように動かされてしまっているのだ。
このような質の悪い接触を避けるべく、心地良いエコーチェンバーに引きこもるという選択は必ずしも悪いとは言えない。先に紹介した実験の結果を踏まえるなら、そのほうが先鋭化を防げる可能性すらある。立場を違える人びとのあいだのコミュニケーションがつねに良き結果をもたらすというのは、事実というよりも信仰である。しないほうがマシなコミュニケーションもまた多く存在するのであり、精神の健康を損なうほどの「接触」なら避けるに越したことはない。これは30年間、ネットワーク上でのコミュニケーションを実践してきた立場からの実感でもある。
とはいえ、ソーシャルメディアでの質の悪い接触に嫌気がさし、そこから退出する、もしくは発信を止める穏健なユーザーが増えれば、攻撃的なユーザーのプレゼンスはさらに増すことになる。日本ではXのユーザーが非常に多く、そのネットワーク効果(利用者が多いほど、いろいろな人とつながることができるため、ネットワークとしての価値が増すこと)によって一定の多様性はまだ保たれている。しかし、頻繁にデマを流すことから多くの批判を集めているにもかかわらず、一定の支持者がいるために平然と攻撃的、差別的な発信を続けるユーザーも目立ち、以前よりもその怖さは増していると思われる。
他者の豊かさが人を不幸にする
もっとも、ソーシャルメディアが怖い場所なのは、上記の理由だけではない。Xのような激しいやり取りがなかったとしても、ソーシャルメディアにはネガティブな作用がある。一つは社会学で言う「相対的はく奪感」の喚起だ。人は自らの状況を他者との比較において判断する。その基準を提供するのが準拠集団であり、自らが幸福なのか不幸なのかの判断もそれとの比較に依存するところが大きい。
卑近な例では、先ほどとは別の知人の研究者が飛行機のビジネスクラス(ファーストクラスかもしれない)に乗っている写真をソーシャルメディアに投稿しているのを目にすることがある。その写真に「同じ研究者(準拠集団)なのに」と少しみじめに思ってしまう自分がどこかにいる。筆者はエコノミークラスしか予約したことがない。
ましてや、インスタグラムに優雅な生活の様子を投稿するユーザーを何人もフォローし、準拠集団がそこに設定されてしまえば、仮にその豊かさが演出されたものであったとしても、自らの「みじめさ」を感じる機会はどうしても増える。実際、ソーシャルメディアで他者の豊かさに触れることがユーザーの相対的はく奪感を増大させることは複数の研究によって示されている。インスタグラムを使わなければ生じなかったはずの「自分は不幸だ」という感覚が生じてしまいかねないのである。
怖さの押し売りとモラルパニック
他方で、優雅な生活のアピールとは対極にある憎悪の扇動も、ソーシャルメディアを怖い場所にしている。Xの定番とも言えるのが、女性全般、もしくは男性全般に対する憎悪の扇動だ。トランスジェンダー、とりわけトランス女性を性犯罪者扱いする投稿も目立つ。とりわけ近年において顕著なのが、外国人による犯罪の危険性を煽る投稿だ。言うまでもなく、これはソーシャルメディア内においてのみ観察される現象ではない。2025年の参議院選挙において「外国人」が争点になったのは記憶に新しい。
この現象についても社会学的な概念を用いて論じるなら、「モラルパニック」ということになるだろう。モラルパニックとは、特定の集団(事例により変わる)のせいで社会のモラルが崩壊しそうだとの危機感によって発生するパニック的状況のことを指す。パニックがおおむねメディア内だけに留まることもあれば、街頭での直接行動や政策変更にまで発展することもある。
モラルパニックの特徴は、統計的なデータに反する主張や裏づけの乏しい陰謀論に基づき、メディアや政治家などによって危機が喧伝される点にある。日本におけるモラルパニックの事例としては、20世紀末から21世紀初頭にかけてさかんに報じられた「少年犯罪の急増・凶悪化」が挙げられる。統計的にそうした傾向は全く確認できないにもかかわらず、いくつかのセンセーショナルな事件が契機となり、「人の命の重さ」を理解しない世代が新たに出現したかの如き言論が展開された。
近年の外国人犯罪に関する言論についても同様の指摘ができる。本稿の趣旨からは外れるため詳細には踏み込めないが、統計的には外国人の流入による治安の悪化は確認できない。犯罪自体が全体的に減少してきたとはいえ、現在の日本における犯罪の圧倒的多数は日本人によるものだ。にもかかわらず、報道やソーシャルメディアで外国人による犯罪が大きく取り上げられることも手伝い、その比率が過大に見積もられてしまう傾向にある。
それに拍車をかけていると思われるのが、近年における外国人観光客の急増だ。外国人と思しき(ただし、本当に外国人かどうかは分からない)人物によるマナー違反の告発は、もはやXの定番コンテンツとなっている。それが「外国人による犯罪」を語る言説に一定のリアリティを与えていると考えられる。
別の角度から言えば、「人びとに不安を与える」のは、商品マーケティングの基本的なテクニックである。「あなたの口臭は周囲の人に嫌がられているのではないか」、「あなたの英語はネイティブを不快にさせているのではないか」といった不安を煽ることで注意を引き、商品の購入を勧める手法である。ソーシャルメディア上で生じる熾烈なアテンション獲得競争を踏まえるなら、意図的に不安を煽ることでモラルパニックを引き起こし、自身の注目度を上げようとする投稿者が出てくるのは必然とも言える。表面的には「犯罪」の発生を嘆き、その防止を訴えていたとしても、それをもっとも必要としているのは投稿者自身なのである。
もちろん、モラルパニック概念が用いられ始めたのが、1970年代初頭の英国であり、そのパニックの重要な発生源とされたのがマスメディアであったことを踏まえるなら、こうした現象は決して新しいわけでも、ソーシャルメディアに特有だというわけでもない。違いがあるとすれば、人びとを意図的に欺こうとする者も含め、これまで以上に多くの人びとがモラルパニックの出現に加担することで、頻度が上がるとともに、抑制の効きづらい状況を生み出しつつある点が挙げられよう。
また、かつてのモラルパニックは、反論するのが難しい立場の人びとがターゲットとされることが多かった。若者や外国人がその典型である。現在でも同様の傾向はみられるものの、エリートとみなされる集団にまつわるパニックも目立つようになっている。中央官庁や国際機関が意図的に社会を危機に陥れているとする陰謀論的なモラルパニックである。これも完全に新しい現象だとは言い難いが、ソーシャルメディア上で顕在化しているポピュリズム的な動きは、既存の社会制度に対する不信感を苗床とするため、こうしたタイプのモラルパニックと非常に親和的である。
まとめるなら、ソーシャルメディアは嫌がらせや誹謗中傷が横行する一方、それを眺めているだけで他者との比較によって不幸が増してしまいかねない怖い場所である。のみならず、怖さを押し売りし、それを自らの求心力へと転換しようとする者が闊歩する場所でもあるのだ。
「人類にソーシャルメディアは早すぎた」のか
それでは、以上の状況を踏まえたうえで、われわれはいかにソーシャルメディアと付き合うべきなのか。本稿を執筆するにあたって改めて検討してみたが、結局、何も思いつかなかった。本稿では触れていない様々な問題も含めて考えていると、「人類にソーシャルメディアは早すぎた」と言いたくなってしまうのが正直なところだ。とりわけ、ソーシャルメディアに起因する社会レベルでの問題について、有効な解決策など到底思いつかない。
しかし、そうは言っても、ソーシャルメディアの存在しない過去へと戻ることはできない。本稿ではあえてネガティブな側面ばかりを論じてきたが、ポジティブな側面もまた数多く存在するからだ。しかも歴史的には、新たなメディアのせいで社会がダメになるとの主張は繰り返し展開されてきた。眼前の事象に引きずられて筆者が過度に悲観的になっている可能性もある。一つ言えるのは、アルゴリズムの改良や法規制によって部分的に改善することはあっても、社会全体と同じで「こうすれば万事うまくいく」解決策は存在しないということだ。本稿で取り上げた諸問題や、それ以外の問題も踏まえたうえで、一人ひとりが上手な付き合い方をみつけていくしかないだろう。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。