慶應義塾

【特集:戦争を語り継ぐ】望月 雅士:早稲田と戦争── 慶應義塾史展示館『2024春季企画展 慶應義塾と戦争──モノから人へ──』の検証を通して

公開日:2025.08.06

執筆者プロフィール

  • 望月 雅士(もちづき まさし)

    早稲田大学教育学部非常勤講師

    望月 雅士(もちづき まさし)

    早稲田大学教育学部非常勤講師

画像:昭和18年11月23日、「塾生出陣壮行会の後」、正門(幻の門)から三田を後にする塾生たち

昨夏、慶應義塾史展示館で「2024春季企画展 慶應義塾と戦争──モノから人へ──」展が開催され、その図録『慶應義塾と戦争──モノから人へ──』(写真)があわせて刊行された。「慶應義塾と戦争」をテーマに50のキーワードからアプローチするという斬新な企画で、図表や写真、資料も充実した内容となっている。今後慶應にとどまらず、「大学と戦争」について研究する際に必ず参照される図録といってよいだろう。

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本稿はこの図録に刺激を受け、戦争の時代の早稲田大学を慶應義塾大学との対比によって検証するものである。その比較から、早慶両大学のどのような違いが見えてくるだろうか。

何から戦争を語りはじめるか

「大学と戦争」という枠組で論じるとき、大学が徴兵と動員によって戦時体制に組み込まれることになった日中戦争から語りはじめるのが常識だろう。私もそのような推測のもとに本図録を開いたが、冒頭のキーワード01[慶應義塾と戦争]は私の予測を裏切った*1。

「『慶應義塾と戦争』という時の"戦争"とは、第一に昭和期をさすことはいうまでも無いが、学問に携わる者が"戦争"といかに向き合うべきかという問題に、幕末以来向き合った歴史も見逃せない」(5頁)。

ここでいう「歴史」とは、「福澤が、慶応4年5月15日、彰義隊と新政府軍の衝突が生じた上野戦争の日も、時間割通りに授業を継続した逸話」(10頁)のことである。この一説を記した『福翁自伝』の原稿が「慶應義塾と戦争」展の最初の資料01-1[福澤諭吉『福翁自伝』原稿(上野戦争)]となるが、このあまりにも有名な福澤の逸話が慶應のDNAであることを改めて認識した。この慶應の切り口を早稲田に応用した場合、何が戦争の語りはじめとなるだろうか。

1905年4月4日、安部磯雄野球部長を団長とする早稲田大学野球部の選手12名が、アメリカ遠征のため横浜港を出航した。ときは日露戦争の真っただなかで、奉天の会戦直後のことである。安部部長はアメリカへ向かうコレア号のなかで、遠征の意義をつぎのように書いている。

「余等は素より今回の競技に於て勝利を得ることの出来やうとは考へないが、若し失敗することがあっても、今後幾度か渡米を企てゝ競技する積だ。何も負けたからとて恥辱と思ふにも及ばない。実は斯る狭隘なる考を棄てたいと云ふのが抑も余が国際的競技を思ひ立った所以である」(「早稲田大学野球選手渡米記」第3、『朝日新聞』1905年5月11日付)。

ここには、野球の先進国アメリカに、果敢にチャレンジしていこうとする早大野球部の意気をみることができる。アメリカでの戦績は7勝19敗。6月29日に帰国するが、このチャレンジが、その後の日本球界の発展にどれほど寄与したかはかりしれないものがある。なお3月に渡米チームはユニフォームを新調した際、薄い小豆色の地に校名を海老茶色のローマ字で浮き立たせたものに変えた。この海老茶色=えんじ色が、のちに早稲田のスクールカラーとなる*2。

学徒出陣壮行会をいつ開くか

1943年10月2日、勅令で「在学徴集延期臨時特例」が公布され、在学生の徴集延期が停止された。学徒出陣の決定である。キーワード12[塾生出陣壮行会]では、学徒出陣の際の壮行会についてつぎのように書かれている。

「文部省主催の壮行会とは別に、各大学でも壮行会が実施され、慶應の場合、昭和18年11月23日に三田で挙行された。当日は午前9時半から、まず三田演説館前の稲荷山広場で塾長訓示、在校生代表送別の辞、出陣塾生代表答辞などを含む式典が行われた」(7頁)。

この説明を読んだとき、私は目を疑った。11月23日ではなく、10月23日ではないかと。

徴集延期中の学生は本籍地において、10月25日から11月5日までに徴兵検査を受けなければならない*3ため、各大学ではそれまでに慌ただしく壮行会が開かれた。早稲田では、10月15日戸塚道場(のちの安部球場。現早稲田大学総合学術情報センター)で、大学主催の壮行会が開催された。学生で埋め尽くされた会場内で田中穂積早大総長は、「今こそ諸君がペンを捨てて剣を取るべき時期が到来した*4」と訓示を述べ、学生を鼓舞した。

翌16日は同じく戸塚道場で「早慶壮行野球試合」、いわゆる最後の早慶戦が行われ、21日には明治神宮外苑競技場で、文部省学校報国団主催の「出陣学徒壮行会」が開催された。出陣学徒は12月1日陸軍に入営、12月10日に海軍入隊となっており、前述の徴兵検査の時期も決まっていたため、壮行会は10月20日過ぎには終わりにしなければならなかったのである。

慶應の壮行会が11月23日である理由は、キーワード11[出陣前の授業]を読むと解決する。資料11-1に、10月19日付の小泉信三塾長による出陣塾生向けの掲示が写真版で載っており、「検査終了帰塾の後は再び精励して学事に力め、以てよく入営前学生々活の始終を完うせんことを望む」(26頁)とある。つまり徴兵検査や諸々の準備はあるにしても、「慶應義塾では最後までできるだけ授業に出席すること」(7頁)が奨励されたというのである。もとよりこの点については学生の出身地などを考慮する必要があるだろうが、それでもこの判断には、今日敬服のほかない。

戦争責任をめぐって

本図録の21番めのキーワードは「戦争責任」である。このキーワードを見たとき、いよいよ慶應は、この問題に切り込むのかとの思いを強くした。20年前であれば、この項目を立てることすら、難しかったのではないだろうか。

キーワード21[戦争責任]には、つぎのようにある。

「終戦時に日本に存在した旧制大学は55校で、それぞれの大学の長は、大多数が任期途中でその地位を追われたが、塾長小泉信三は、任期満了での退任となった。また全教員及び一部職員は、その所属に応じて設置された適格審査委員会によって戦時中の履歴や言説が審査され、適格・不適格の判定を受け、不適格と判定された者は現場を追放された。慶應義塾の場合、6名の教員が不適格となった」(9頁)。

そして資料21-3[武村忠雄適格審査判定書]の解説には、6名の教授の氏名と不適格理由が記されている(41頁)。要するに慶應では、教員個人の戦時中の言動や役職が戦争責任に問われた*5といえる。

では、早稲田はどうだろうか。『早稲田大学百年史』第3巻には、学内審査で7名、学外審査で8名、計15名の不適格者が挙げられている*6。だが慶應のように、教員個人の責任が問われただけではない面が早稲田にはある。

1939年5月22日、陸軍現役将校学校配属令公布15周年にともない、「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が発布された。この勅語は「国本ニ培ヒ、国力ヲ養ヒ、以テ国家隆昌ノ気運ヲ永世ニ維持セムトスル任」は「青少年学徒ノ雙肩ニ在リ」とするもので、戦時期において教育勅語とともに重視*7された。この勅語を受け、早稲田では5月30日に田中総長が教職員、全学生を運動場に集めて勅語捧読式を開催し、全国の青少年に先駆けて、国家の発展を担う模範国民たるべきことを訴えた。「銃後の学生」はどうあるべきか、またどう育成するか。早稲田では率先してこの課題の実現に取り組み、翌40年10月14日学徒錬成部を新設し、田中総長自ら部長に就任する。

田中総長はこれに先立って、9月14日全教職員を大隈講堂に集め、「教職員各位に訴ふ」と題する所信を表明する。学徒錬成部がなぜ必要なのか、田中総長にはつぎのような危機感があった。徴兵検査の結果に現れている壮丁の体位低下を欧米と比較して、我が国の教育に最も欠けているのは体育である。ドイツ、イタリアの復興は、体育に力を注いだ結果である。フランスが敗北したのは、ペタン元帥が言うように、フランス国民が個人主義となり、享楽的となった結果だ*8、と。

このような認識のもとに新設された学徒錬成部は、「国体の本義に基き、皇運扶翼の確固不抜なる精神を体得し、偉大なる国民の先達たるべき智徳体兼備の人材錬成」を目的とし、「国是即応」、「体力錬磨」、「集団訓練」を綱領*9とした。部長の田中総長を中心に、副部長杉山謙治、主事今田竹千代両錬成部教授が学徒錬成部の運営を担った。そのためか、田中総長は学内の各部署には倹約を求めても、学徒錬成部は予算を潤沢に使えた*10という。

3つの綱領にもとづき、学徒錬成部は新入学生に対して、年1回久留米道場で「生活錬成」、東伏見道場では週1回「体力錬磨」(「体錬」)を実践した。「生活錬成」は教員と学生による4泊5日の合宿訓練による「錬成」を通して、「体力錬磨」は体操や運動*11によって、戦時体制を担う人材育成を目的としていた。

では学生は、この「錬成」をどのように受け取ったか。1943年に第二高等学院に入学したある学生は、「錬成」とは「神がかり的軍国イデオロギー」で、「『悠久の大義』だとか『臣道実践』だとか『鬼畜米英』だとかの戦争スローガンの無秩序的濫発であったという印象」しかなく、「今はただその眠気の強烈さだけははっきりと記憶」されるだけだ*12と、戦後まもなく痛烈に批判している。

1943年6月14日田中総長が錬成部長を辞任し、後任の部長には杉山教授が就任、翌44年8月22日に田中総長は死去する。その後、学徒錬成部は、学徒出陣と学徒勤労動員による学生数の激減と錬成施設の軍への貸与によって、1945年4月27日の理事会で廃止が決議*13された。

戦後、学徒錬成部の中心にいた杉山教授は教職不適格認定され、1946年12月解任*14される。今田教授は教職追放が内定すると、1947年3月辞任*15した。この両教授の教職追放は、その戦時中の言動はもとより、早稲田大学が当時の田中総長の肝入りで推し進めた学徒錬成部に対する事実上の戦争責任が問われたものといってよいだろう。

「残された音」はあるか

10年ほど前だろうか、福澤研究センターのホームページで、慶應の戦没学徒のひとり塚本太郎の「声の遺書」を聞いたときの衝撃は忘れられない。戦没学徒兵の遺書といえば、書かれたもの以外にないと思い込んでいた。ところが、音声の「遺書」が残されているという。キーワード42[残された音]の資料42-3[学徒出陣前にレコードに残した音声](77頁)がそれである。

これは塚本が学徒出陣にあたり、父の会社の録音施設で音声をレコードに吹き込んだもので、前半は「昔は懐かしいな」と家族との思い出や感謝が述べられるが、後半は一転「怨敵撃攘せよ」と、日本人として戦う使命感が語られている。塚本は本来長男に許されない回天特攻を血書を添えて志願して認められ、1945年1月、南洋群島ウルシー海域で特攻死したという。では早稲田で、慶應の塚本の「声の遺書」に相当するものはあるだろうか。

1943年9月10日午前8時、早稲田大学専門部工科を繰り上げ卒業し、海軍飛行専修予備学生合格者の壮行会が在学生や友人、家族らが見守るなか、上野公園で開催された。この第13期海軍飛行専修予備学生は、入隊時点ですでに士官並みの待遇を与えられるという有利な条件もあって志願者が殺到した。

上野公園の西郷隆盛像の前に集まった早大生の壮行会の模様を『朝日新聞』9月11日付夕刊は、つぎのように伝えている。

「各学年代表が『仇敵必滅を期して先輩諸兄に続く』と誓ひ、あるひは『米英の学徒何するものぞ、諸兄のあとにわれらあり、われらのあとに悠久の日本民族あり』と叫び、あるひは『昭和の防人となって進撃につゞく進撃あるのみ』と、天の一角を指さした。これに応へる学鷲代表八木弘君(20)の決意、『誰が米英を粉砕するか、われわれだ』、やがて円陣が作られた、学帽をふりかざして校歌の合唱だ」

この壮行会には、早稲田大学専門部工科長内藤多仲(たちゅう)教授が参加し、餞の言葉を送っている。内藤は戦後、東京タワーや名古屋テレビ塔などの設計を手掛けたことで知られる建築家である。新聞各紙(9月11日付夕刊)は内藤の言葉をつぎのように報じている。

〇朝日新聞「血気の勇に逸るな、体を粗末にするな、大目的のために呉々も健康に注意せよ」〇読売新聞「死は鴻毛よりも軽し、千鈞よりも重しということを銘記して貰ひたい」〇毎日新聞「死は鴻毛よりも軽しというが、諸君の身命は千鈞より重いのだ」

内藤のいう「大目的」が、生還して人生の目的を成し遂げることであるのは容易に察しがつく。また「軍人勅諭」の説く「死は鴻毛よりも軽し」を否定するかのような餞別の辞を送っているが、これによって内藤が処分された形跡はない。

この上野公園での早稲田の壮行会の模様は「日本ニュース」第171号で放映され、今日「NHK戦争アーカイブス」でインターネット上から視聴できる。そこには、ペンを操縦桿に持ちかえることになった早大生の決死の「都の西北」が映し出されている。

壮行会で答辞を読む姿が放映されたひとりに、早大相撲部で活躍した岡部幸夫がいる。岡部は土浦海軍航空隊に入隊、1945年5月11日第五筑波隊隊長として鹿屋基地から発進、アメリカ駆逐艦エヴァンス、空母バンカーヒルに向け特攻、戦死*16する。

資料36-1[神風特別攻撃隊筑波隊員の寄せ書き](66頁)は、岡部の2日後、特攻で戦死する慶應の黒崎英之助が郷里の母に送ったものである。18名の筑波隊員がこの寄せ書きに名前と言葉を記し、黒崎と岡部は並んで記名している。戦後、黒崎の母は訪ねてきた戦友にこの寄せ書きを渡し、その戦友は亡くなる前に慶應へ託したのだという。黒崎、岡部をふくめ18名の筑波隊員のうち、実に17名が特攻で戦死している。「不惜身命」、「爆戦」、「望」、「一場の夢」、「尊く嬉しく 悲しき人生」、「朗笑」など、18名はどのような思いで寄せ書きに言葉を残したのだろうか。

[付記]2025年6月23日、慶應義塾福澤研究センター設置講座「近代日本と慶應義塾」第10回に招かれ、「早稲田と戦争―福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館『2024春季企画展 慶應義塾と戦争―モノから人へ―』の検証を通して―」と題して、本図録のキーワードから6つの項目を選んでお話しさせていただいた。本稿はそのうち、4つのキーワードについて原稿にしたものである。講座にお招きくださった都倉武之教授、熱心にお聞きくださった学生のみなさん、日吉台地下壕保存の会の方々にお礼申し上げます。

〈註〉

*1 なお、本図録の英文タイトルは「Stories Told by Remnants: Keio and WWⅡ」である。

*2 早稲田大学大学史編集所編『早稲田大学百年史』第2巻、早稲田大学出版部、1981年、149頁。

*3 『早稲田大学百年史』第3巻、1987年、1036頁。

*4 同右、1089頁

*5 武村忠雄は、適格審査は占領軍向けであり、経済学部の責任を一人で負うと申し出たのだという(『慶應義塾と戦争──モノから人へ──』41頁)。

*6 『早稲田大学百年史』第4巻、1992年、306頁。

*7 文部科学省編『学制百五十年史』ぎょうせい、2022年、63頁。

*8 『早稲田大学百年史』第3巻、947頁。

*9 同右、950頁。

*10 早稲田大学百五十年史編纂委員会編『早稲田大学百五十年史』第1巻、早稲田大学出版部、2022年、1186頁。注釈テキストテキスト - 注釈通常のテキストに比べ、薄い色で表記されるテキストパーツです。20 / 1000

*11 『早稲田大学百年史』第3巻、951、953〜5頁。

*12 『早稲田大学百五十年史』第1巻、1204頁。

*13 『早稲田大学百年史』別巻Ⅱ、1989年、454頁。『早稲田大学百五十年史』第1巻、1338~41頁。

*14 『早稲田大学新聞』1947年2月21日付。

*15 「今田竹千代先生の略歴」『徳山大学論叢』17号、1982年6月号。

*16 友部町教育委員会生涯学習課『筑波海軍航空隊 青春の証』、2000年、80頁。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。