慶應義塾

【特集:戦争を語り継ぐ】片山 杜秀:加田哲二の夢と罰──ウィリアム・モリスから東亜協同体論へ

執筆者プロフィール

  • 片山 杜秀(かたやま もりひで)

    法学部 教授研究所・センター 教養研究センター所長

    片山 杜秀(かたやま もりひで)

    法学部 教授研究所・センター 教養研究センター所長

画像:昭和18年11月23日、「塾生出陣壮行会の後」、正門(幻の門)から三田を後にする塾生たち

2025/08/06

「山食」にある1枚の表彰状

山食。三田の山の学生食堂である。「山上の食堂」を約めて山食になった。1937(昭和12)年の創業。場所は移り変わり、今は西校舎内にある。食堂の奥へと進む。食券の券売機に辿り着く。すると、その左斜め上方に1枚の表彰状が飾られているだろう。以前は配膳台の上のところに掛かっていた。山食の創業者夫妻に授与されたものだ。日付は「昭和19年4月2日」。敗戦まで、あと1年と4か月。文面はこうだ。「貴下夫妻ハ朝夕職務ニ精励 教職員塾生ニ接シテ懇切至ラサルナク克ク従業員ヲ教導シ常ニ創意ト工夫ヲ怠ラスシテ受食者ノ便宜ヲ図ルハ誠ニ感謝ニ堪ヘス 茲ニ深厚ナル謝意ヲ表ス」。食糧事情は悪化する一方。戦時学生生活を支える山食の苦労はいかばかりか。塾として、よく慮り、労っている。末尾にはむろん贈呈者の名が入る。まずは塾長の小泉信三。続いて食堂委員の名が並ぶ。塾にはそういう役職があった。4人いた。『三田評論』の編集長を務めた小澤愛圀の名もある。小泉の名のすぐ横に来る、食堂委員の筆頭はというと加田哲二(かだてつじ)だ。

加田とは誰か。戦時期の慶應義塾の代表的教員のひとり。経済学部の教授。論壇誌にその名の載らない月はないというほど。近衛文麿のブレーン組織として名を馳せた昭和研究会の有力な一員でもあった。昭和10年代の国家の方向づけに多かれ少なかれ関与した学者となると、帝大系の人々が圧倒的に目立つが、そこに伍していたのが慶應だと誰よりも何よりも加田であろう。慶應からさらにもうひとり挙げるとすれば、加田門下で、やはり経済学部のスタッフであった、武村忠雄になろうか。

加田は1895(明治28)年、東京は湯島の生まれ。京華中学から慶應義塾へ。大学部理財科(1920年から大学令によって大学部は正規の大学に"昇格"し、理財科は経済学部となる)で、高橋誠一郎らに学ぶ。卒論は「アダム・スミスの価値学説研究」。1919(大正8)年に卒業すると、すぐ助手に採用され、小泉と高橋の信頼を得て、1923(大正12)年から1926(大正15、昭和元)年まで主にドイツに留学。標準3年間の塾派遣留学は、教授に進むための当時の定番の進路であったが、加田も帰国すると経済学部の教授になる。受け持った授業は「経済学説研究」、「社会学」、「経済学」等で、日中戦争期からは「植民政策」が加わる。これらの講座名から窺えるように、加田は最初から狭い分野の専門家ではなかった。経済学に社会学。経済思想史に社会思想史。思想を生む歴史的背景の究明にも熱心で、経済史に社会史に政治史まで講じなくては済まなくなる。しかも加田はおのれの学問を現実の日本の針路に反映させることを熱望したから、その授業も時局を踏まえた「植民政策」にまで広まって、そうなると、民族学や戦争学や地政学まで入ってくる。思想研究ではファシズム、国家主義、全体主義が得意中の得意。取り扱う領域は拡大の一途だ。

ところがそうなってもちっともパンクしないのが加田である。驚くべき勉強家。整理がとびきりうまい。たとえば5・15事件が起きれば、その思想背景となった日本の農本主義者たちの思想地図を作って見せ、権藤成卿、長野朗、橘孝三郎といった、普通のアカデミストたちの触りたがらない"危ない右翼思想家たち"のポジショニングを明快に説明してしまう。しかも、その理解の何と適切なこと! 実に客観的。妙な偏見がない。こんな学者はなかなかいない。あちこちに手を出すということでは、同時代的には三木清や清水幾太郎が居て、2人は加田の知己でもあったのだが、三木や清水の幅広さに加田はちっとも負けていない。しかも加田の時代と思想に対する整理は、大日本帝国の進む線路と、いつもそれなりに齟齬はありながらも、ついに途中下車や脱線には至らなかった。加田の夢は結局「大東亜共栄圏」の理想的実現を求めて、そこに最後まで共鳴していた。加田は、大日本帝国と共に、自壊への道を突き進んだ。けっこう確信犯的に。加田が小泉らと連名で表彰状を贈呈した山食も、昭和20年5月の空襲でいったん焼けてしまうが、加田自身も戦後に慶應義塾を去らねばならなくなる。公職追放にひっかかった。

ウィリアム・モリスへの共鳴

さて、大日本帝国との心中に向かう加田の思想と行動は、いつの頃から、そちらの方向と同期していったのだろう? 種は初期からあった。加田はベルリン留学中の1924(大正13)年に『ウヰリアム・モリス――芸術的社会思想家としての生涯と思想』を著している。書名通りのモリス研究だが、そこには加田自身の夢が投影されている。モリスを語って自分を示している。加田はやはり大正時代に学んだ人だ。大正前期。第一次世界大戦を機にして日本の資本主義は隆盛に向かう。しかし大正後期には矛盾も増幅させる。関東大震災が起きたのは加田が留学に出て何か月か後のことだが、そのとき幕末・明治の生き残りたる渋沢栄一は、震災を天譴と呼んで議論を巻き起こした。渋沢によれば、大正期の新世代の資本家たちの思想と行動は欲望を剝き出しにして私益の追求に走るのみ。道徳なき資本主義は悪。天が怒るのも無理はない。渋沢の思いである。

震災が天譴かどうかはともかく、資本主義の暴走に枷を嵌めねば危ないという感じは、加田も渋沢と同じだ。であるならば、加田の世代だとマルクス主義に馳せ参じるのがひとつの道筋である。経済学者で言えばマルクス系の有沢広巳や土屋喬雄は加田のひとつ年下。だが、そこは慶應で小泉と高橋に育てられている加田だ。「天は人の上に人を造らず」から始まって、あとは個人の才覚で自由に人生を実現すべきであり、人の自由をイデオロギーでがんじがらめにするのは間違いという、福澤諭吉の精神に感化され続けていたのが加田である。マルクスには惹かれながらも、どうしても同意できない。私利私欲もだめだが、天下国家かプロレタリア階級か何らかの抽象観念のために私を滅するのもおかしいと感じる。そんな加田は一種の中道を求めざるを得ない。加田の初期の研究対象たるアダム・スミスのような、私益に徹すると公益に通ずるというような古典的議論は、第一次世界大戦後の日本と世界の現実を目の当たりにしては、役立つようには思われない。

そこで加田が緊急避難所に選んだ先がモリスなのである。労働そのものを芸術とする。快楽とする。そして労働から得られる富をみんなのものとする。公益とする。個人の欲望追求に歯止めをかける。人間の快楽は普通に考えて蓄積よりも行為そのものにあるはずで、したがって労働という行為は快楽になりうる。楽しい行為としての労働に満足して、あがる利潤が公益のために回されても納得できる道徳的余裕が生まれれば、そこに矛盾も破綻もなく、私と公は合致して共生しうるであろう。加田が共鳴したモリスの理想像はそんなものである。しかもモリスの「みんな」は人類全体というような大風呂敷を広げるものではないだろう。労働の現場でみんなが楽しい。そういうみんなは顔の見えるみんなであって、カント的人類概念とかマルクス的階級概念には拡張不能であろう。あくまでもみんなの顔の見える共同体主義である。コミュニティである。

「リアリスト福澤」の発見

ところが加田はそこにとどまれない。第一次世界大戦後の矛盾と不安の時代は、加田が三田の教授になって僅か3年後の1929(昭和4)年から始まる世界大恐慌によって、危機と恐怖の時代へと大化けする。加田はそのとき三田山上にあって思想家福澤の軌跡に改めて感ずるところがあったろう。

加田が福澤研究に打ち込んだ最初は、恐らく満洲事変、上海事変、5・15事件の頃からと思われる。三田の講義でも明治の思想史と経済史を重ねて取り上げるようになる。そのとき加田は福澤を極め付きのリアリストとして発見した。確かに福澤は個人を重んじる。自由主義者ととらえると分かり易い。だが、と加田は言う。福澤は単純に個人の自由を第一義としてお題目のように唱え続けたのか。そうではあるまい。福澤は個人と国家を決して対立させなかった。国家なくして個人なし。とはいえ江戸時代までの旧国家は幕末維新によってもはや役立たずだと解体されたのだから、新しい国家を改めて作るしかない。個人も強固な国家なくしては安心して生きられまい。すると強固な新国家を作るのは誰か。新時代に相応しい才覚のある個人に決まっている。そのためにはまず個人がよく学問し、よく自立しなければならない。慶應義塾の存在理由でもある。

たとえば三田で学んで、知識を蓄え、富裕になる。そういう個人が増えれば、官にも民にも人材が漲るし、金持ちが大勢出れば、税収も豊かになり、新国家は初めて強大にもなれる。加田によれば、個人と国家、私と公の均衡ある発展を常に思い描いていた最良の思想家が福澤である。民間の役割を強調するのも、本質的に硬直しがちな官僚制と強固に結びつきがちな国家よりも、民間の方が柔軟であって、その柔軟さを活用して国家を強大にするのが適切だと信じていたからだ。後世の福澤礼賛者は、福澤を官への対抗意識の塊であるかのように見たがるが、そもそも福澤思想が最も生き生きと輝いた明治初頭には、官に備わっていたのは外形的権力のみ。内実はまだまだだった。官に魂を入れるために民がある。官民共同なのだ。官がふがいなければ在野の自由主義を強調し、いざというときは露骨な国家主義も平気で説く。福澤は実に柔らかい。リアリストのリアリストたる所以だ。そういう真価の分からぬ「福澤読みの福澤知らず」が如何に多いことか。加田の嘆きである。

ところで福澤の想定する国家とは? 福澤は文明国一般を論じもするが、彼の思想はあくまで日本という特定の国家を立たしめようとする、歴史の中の思想であって、福澤が自立を求める個人も、要するに日本人を念頭に置いている。よって加田は福澤を、とどのつまりは明治の「進歩的民族主義者」であり、根本はナショナリストと把える。個人が最大限活きると、その個人の生きる民族国家は強大化する。するとその国家の中にいる個人の経済的・社会的・政治的環境はよりよくなる。自己実現の度合いも高まる。加田の言う「進歩的民族主義」とは、民族国家が進歩するだけではなく、その民族国家を構成する個人の自由や権利もまた進歩し拡張されるということを含むのであろう。個人と国家とが歯車のようにかみ合って進歩を循環させて相乗させてゆく。それが加田の理解する福澤精神である。

「協同体主義」という「加田版福澤精神」

となれば、危機の1930年代に於ける加田の振る舞い方はもう明らかだろう。福澤が明治にとった「進歩的民族主義」の態度を危機の昭和のシチュエーションの中で最大限に活かそうと、進んで薄氷を踏んで歩いて行く。加田の道であった。繰り返せば加田は経済思想史家で経済史家でもある。マルクス主義も知っている。福澤流そのままではいけない。日本は基本的には資本主義を更に発展させるしかないのだが、いたずらな私利私欲の追求は、勝ち組と負け組を生み出し、怨嗟の声を広げ、階級闘争を招いて、資本主義を破綻させることにつながってしまう。そうした歴史段階の極限に至っているのが現代だ。ゆえに加田はモリスに目覚めもした。でも、モリスの夢見た小共同体では、巨大化した資本主義をなおも前進させられはすまい。縮小することにしかなるまい。実は加田は田園的にミニマムな経済が好きだ。だから橘孝三郎のような日本の小農村の伝統に根差した農本主義思想にも何やら温かい。しかしそれでは現代を救えない。経済には規模というものがある。いったん大規模化したものは、その規模を保つ工夫のもとにしか成り立たない。ではグローバル経済か。いや、世界は大恐慌状態なのだ。恐慌の連鎖を食い止めるためには、自律的経済圏を、決してワールドワイドでなく、世界を区切るように建設しなければならぬ。が、それは区切ってもなおもかなり大規模だから、モリスや橘の理想郷のようにみんなの顔が見える共同体からはかなり遠い。

けれど、そこにも共同体的精神は必要だ。私益ばかりを追求する資本主義が破綻しているから、社会主義も抬頭しているし、渋沢翁は関東大震災時に資本家の道徳の復権を叫んだのだ。公益によってある程度まで束縛された自由。大胆な修正資本主義。それが加田なりの昭和のリアリズムである。もちろん明治から大正へと発展を遂げた日本資本主義の市場は、朝鮮や台湾や満洲だけでは足りなくなっている。共同体主義は日本一国だけでなく、もっと広く適用されねばならない。そのとき日本資本主義は内にも外にも欲望を抑制して、たくさん我慢して、貧しい民衆・貧しい地域に多くを施し、弱小な諸国家を労わり助けねばならない。なぜならば収奪一辺倒の植民地主義をもう世界は許さないからである。日本がいちはやく、福澤を先導者として「進歩的民族主義」に目覚めたように、アジアの諸民族もそれに目覚めつつあるからである。中国然り。民族自決だ。加田は三田で植民学を講じたが、それは現代における植民地の不可能性を述べるものであった。あとはモリス的世界の国際的肥大化しかない。かなり超現実的な夢。一国では収まらなくなった日本の進歩的民族主義が、諸国家、諸地域を緩やかに束ねながら、それぞれの民族主義を尊重しつつ、日本民族として一段と飛躍し、富を増やせるような主義。心には共同体意識。それを何と呼ぶか。共同体の共の字を、協力しあうの協の字に変えて協同体主義と言う。植民地帝国改め協同体という名の一種の連邦のようなもの。そういうものの盟主として道義的に振る舞いながら、日本の地位を保って「進歩的民族主義」の先端に立ち続けたい。富も得たい。世界的経済戦争に勝ち残りたい。アジアをリードする役を担い続けたい。「進歩的民族主義」という名の、言わば「加田版福澤精神」が東洋に輝いて、米英を退けるのだ。

加田の蹉跌と見果てぬ夢

加田は、先に触れたように、近衛文麿のブレーン組織、昭和研究会の有力なメンバーだった。日中戦争2年目で、国家総動員法が制定されて間もない1938(昭和13)年9月、研究会の中に「東亜ブロック経済研究会」が出来ると、加田はその座長となり、東亜協同体の理念を基礎づけた。まず日本で「私利優先の資本主義的精神」が「全体的協同主義に転換されねばならない」。私利でなく利他。私益でなく公益。利他や公益の分が大きくなってゆくように資本主義を修正してゆく。日本がその見本を示して協同体に参加する国々を経済的にも政治的にも牽引する。加田が形成にかなり与ったこの理念は、三木清や蠟山政道らにも共有され、日本の国策に影響を与え、ついには政治によって甚だ俗流化して空虚化し、イメージばかりが先行して中身の追い付かない「大東亜共栄圏」に"堕落"するのだが、そこに、仏を作ったものの魂をうまく入れられず、言葉ばかりを独り歩きさせてしまった加田らの責任がないとは言えないだろう。

戦後、加田は反省したろうか。必ずしもそうではないと思う。加田は、正しい夢の展開を反対者たちに邪魔されて骨抜きにされたのだと怒りを覚えつつ、加田なりの修正資本主義の落としどころをなおも戦後に探り続けたようだ。たとえば彼は晩年には、日本社会党を右派の社会主義者が割って出て1960(昭和35)年に生まれた民社党を支持した。マルクス主義でも単純な資本主義でもなく。「進歩的民族主義」の可能性を民社党に見たのだろう。

公職追放解除後、山口大学や日本大学の教授を務めた加田は、1964(昭和39)年に亡くなった。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。