登場者プロフィール
平山 勉(ひらやま つとむ)
その他 : 湘南工科大学総合文化教育センター教授経済学部 卒業経済学研究科 卒業塾員(1995経、98経修、2003経博)。博士(経済学)。大学学部時代、白井厚ゼミナールにて「共同研究 太平洋戦争と慶應義塾」に参加。2018年より現職。著書に『満鉄経営史』等。
平山 勉(ひらやま つとむ)
その他 : 湘南工科大学総合文化教育センター教授経済学部 卒業経済学研究科 卒業塾員(1995経、98経修、2003経博)。博士(経済学)。大学学部時代、白井厚ゼミナールにて「共同研究 太平洋戦争と慶應義塾」に参加。2018年より現職。著書に『満鉄経営史』等。
大川 史織(おおかわ しおり)
その他 : 映画監督法学部 卒業塾員。大学卒業後マーシャル諸島に移住。同地で戦死(餓死)した父を持つ息子の慰霊の旅に同行したドキュメンタリー映画『タリナイ』(2018年)を監督。編著書に『マーシャル、父の戦場』等。
大川 史織(おおかわ しおり)
その他 : 映画監督法学部 卒業塾員。大学卒業後マーシャル諸島に移住。同地で戦死(餓死)した父を持つ息子の慰霊の旅に同行したドキュメンタリー映画『タリナイ』(2018年)を監督。編著書に『マーシャル、父の戦場』等。
奥村 湧太(おくむら ゆうた)
その他 : 共同通信仙台支社編集部記者法学部 卒業塾員(2021法)。大学卒業後、共同通信社入社。大分支局を経て現在仙台支社編集部記者。2024年、太平洋戦争関連の旧軍施設を主とした戦争遺跡の現存状況を調査。
奥村 湧太(おくむら ゆうた)
その他 : 共同通信仙台支社編集部記者法学部 卒業塾員(2021法)。大学卒業後、共同通信社入社。大分支局を経て現在仙台支社編集部記者。2024年、太平洋戦争関連の旧軍施設を主とした戦争遺跡の現存状況を調査。
清水 亮(しみず りょう)
環境情報学部 専任講師2014年東京大学文学部卒業。20年同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(社会学)。2024年より現職。著書に『「予科練」戦友会の社会学』『「軍都」を生きる』『戦争のかけらを集めて』等。
清水 亮(しみず りょう)
環境情報学部 専任講師2014年東京大学文学部卒業。20年同大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(社会学)。2024年より現職。著書に『「予科練」戦友会の社会学』『「軍都」を生きる』『戦争のかけらを集めて』等。
安藤 広道(司会)(あんどう ひろみち)
文学部 民族考古学専攻教授塾員(1987文、89文修)。2014年より現職。専門は日本考古学、博物館学。慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究、『鹿屋・戦争アーカイブマップ』等の構築を行う。
安藤 広道(司会)(あんどう ひろみち)
文学部 民族考古学専攻教授塾員(1987文、89文修)。2014年より現職。専門は日本考古学、博物館学。慶應義塾大学日吉キャンパス一帯の戦争遺跡の研究、『鹿屋・戦争アーカイブマップ』等の構築を行う。
画像:昭和18年11月23日、「塾生出陣壮行会の後」、正門(幻の門)から三田を後にする塾生たち
「戦争の語り」の世界
今年、戦後80年という節目を迎えました。慶應義塾は大きな戦争被害を受けた大学であり、また、日吉に連合艦隊司令部地下壕などの戦争遺跡も抱えているわけですが、直接の戦争体験者がほとんどいなくなったという現状を踏まえ、残された体験談やモノなどから、今後、戦争をどう語り継いでいくかを考えていく機会にしたく、皆様にお集まりいただきました。今回は特に若い世代に多くご参加いただきました。
特集タイトルの「戦争を語り継ぐ」という言葉について、この座談会では、かなり広い意味で用いたいと思います。つまり、戦争を体験した方々の記憶や手記などの記録をそのまま継承していくという意味に限定しない、ということです。
例えばこれまでの学術的な研究成果や戦後世代の市民の活動などを通して生成されてきた、様々なアジア・太平洋戦争に関わる言説を、まず「語り」として受け止めようということです。
皆様はそうした語りを受け止めて、その時点でそれぞれの立場から、自らの語りを発信していると思います。そういう語りを受け止めて語りを発信し続けるという実践も、「戦争を語り継ぐ」という言葉に含めたいと思っています。戦争を語りつないでいくと言えばいいでしょうか。
まずは皆様から自己紹介を含めて、「戦争を語り継ぐ」取り組みを始めたきっかけ、あるいはどんなことを語ってきたのかについて、お話しいただきたいのですが、私はこの中では年配者になりますので、最初に私から自分自身の取り組みを紹介したいと思います。
私の専門は考古学と博物館学で、21世紀の初めまではずっと、弥生時代の研究をしていました。それがどうしてアジア・太平洋戦争に関わることになったのかというと、2008年、義塾の創立150年事業で建設された、日吉キャンパスの蝮谷体育館の工事において、帝国海軍の地下壕の出入り口が発見されたのです。それを私が調査したのがきっかけです。
そこで初めてアジア・太平洋戦争の語りの世界に触れることになったのですが、弥生時代の研究は、「学術の語り」が圧倒的に強いのです。つまり、研究者が語る歴史が一般の人たちにとってもそのまま歴史になっていく。これに対して「戦争の語り」の世界は、学術以外の人たちの存在感が非常に大きい。私はそのことに気付き、ショックを受け、自分の語りのあり方を大いに反省することになりました。
そこからは日吉の地下壕を中心に、戦争遺跡において考古学的に語り得ることは何だろうと考えながら、一方でそこに様々な立場の方々の多様な語りをつなぎ、対話の場をつくっていく、そうした取り組みを進めています。
最初は日吉だけだったのですが、日吉の連合艦隊司令部が指揮していた作戦は当然広い範囲に及びますので、そこから航空特攻作戦の中心だった鹿児島県鹿屋市とか、特攻部隊が出撃していった先である沖縄とか、最近は大戦末期に作られた大規模な海軍基地、島根県出雲市の大社基地なども結びつけて、語りをつなぐ実践をしています。
また、こうした実践をしていくと、戦争遺跡の保存の問題にどうしても向き合わなくてはいけなくなるので、併せて戦争遺跡の保存や活用の問題点などについて研究しています。
高校生の時の署名活動
では、次に今日はオンラインでご参加の大川さん、お願いします。
私は卒業後、マーシャル諸島に移住し、現地で3年間働きました。帰国後、その島で餓死した日本兵をめぐるドキュメンタリー映画『タリナイ』をつくり、映画の核となる日本兵の日記をめぐる歴史実践の本を編みました(『マーシャル、父の戦場』)。
私自身が戦争を意識したきっかけは、祖父の存在かもしれません。祖父は17歳の時に敗戦を迎えました。昨日まで学校で教えていたことは間違いだったと先生が謝り、価値観がひっくり返るという経験を通して「学校や国が言っていることが正しいとは限らないのだ」と、身に沁みて感じたそうです。私が幼稚園生ぐらいの頃、会えばよくその頃の話をしてくれました。
私が17歳の時、戦後60年でした。その当時から、「戦争の体験者がいなくなるぞ、どうする」とメディアなどでも議論されていました。戦争体験がない世代として、どうしたら戦争に加担せず、巻き込まれもせずに生きていけるのかを考えていた時、長崎では日頃、高校生が核兵器廃絶を求めて署名活動をしていることを知りました。
一方、「原爆を落としてよかった」という教育を受けて育つアメリカの高校生もいます。将来、彼らと出会った時、どんな対話ができるのだろうかと想像しながら、私は長崎の高校生から署名用紙をもらい、東京でも仲間を募り街頭で署名を集めました。道ゆく人と署名を介した一瞬の出会い――通勤や通学路など、日常の景色にふと現れる「核兵器のない世界を」という声が戦後60年の日本でどのように響くのか、関心を持っていました。反応はさまざまでしたが、被爆地である長崎と東京の温度差も大きく感じました。
私にとって「戦争を考える」ということは、街頭ですれ違った人が署名をする間にささやく言葉や、無言でも思いを託されたと確かに感じる眼差し、署名はできないと立ち去る人の後ろ姿を見つめた記憶を思い出すこととつながっています。その後、映画という表現と対話のツールにたどり着きますが、「戦争を語り継ぐ」実践の原点は、街頭での署名活動にあると思います。
様々な原体験から
私は5年目の記者で経験も浅いですが、江東区の生まれで、東京大空襲の被害があった隅田川近くの小学校に通っていました。学校では地元の商店のおじいさんが戦争の時の話をしてくれる機会があったのですね。焼夷弾の投下で夜なのにあたり一面が真っ白になったとか、川に飛び込んだ人の死体が浮かんでいて、それを土手を掘って流し込んで埋めたという話を聞きました。通学路には空襲慰霊碑があったのですが、何気なく通っていた場所が戦争の爪痕を残し、想像もつかないようなつらい現場だったと知ったことは衝撃的な原体験でした。
3つ下に弟がいるのですが、弟の時は、その話を聞く機会がなくなってしまったようで、ちょっと年齢が下っただけなのに戦争が語られなくなっていることに、子どもながらに危機感を覚えました。この経験があったので、何かしらの形で戦争の語りに関わりたいと思っていました。
記者として、最初に大分県に赴任しました。特攻基地があった宇佐市の海軍航空隊や、津久見市保戸島の小学校で児童127人が亡くなった空襲の話を取材しました。
今の赴任地、宮城県では女川町の空襲や、蔵王の山中にB29が墜落して34名の搭乗員が亡くなり、地元でその慰霊を続けているという話を取材しています。
また、昨年夏には、安藤先生にご協力いただきながら、全国の戦争遺跡の残存状況を調査しました。
戦争というものは人の「生と死」が凝縮して現れてくる現象です。だからおそらくフィクションも含めて様々な物語になるのですが、体験や歴史がどのように語り継がれるのかに関心を持ってきました。鋭い価値観の対立を背景に、戦争展示には論争がつきものですが、12年前、私は社会学の卒論を書くために、茨城県の霞ヶ浦の畔にできたばかりの少年航空兵のミュージアム「予科練平和記念館」に調査に行ってみました。
そこで少年兵だったおじいさんと出会い、1年ほど通ってお話を伺い、語り部の卒論を書いたのが、原体験かなと思います。
そのおじいさんは終戦時17歳で、飛行機に乗って実戦に出てはいません。自分が直に体験した訓練等を語る点では半分体験者ですが、特攻隊員について遺書をもとに語る時には非体験者の立場でもあります。体験者と非体験者の境界は、実は曖昧なのかもしれないと考えさせられました。
大学院では、その地域に生きた多様な立場の人々の戦争や基地の経験を調査研究し、その後は、よそ者の私が地域の方々へ向けて歴史をいかに伝えるかということに関心を持って、本を書き続けています。
湘南藤沢キャンパス着任後には、風光明媚なイメージの湘南海岸や藤沢市にも戦争や基地の歴史が埋もれていると知って驚き、調査を進めています。
私も幼い頃に祖父母の戦争体験の話を聴きましたが、本格的に戦争の歴史研究に関与するようになったのは、3月に他界された経済学部の白井厚先生のゼミナールで、「太平洋戦争と慶應義塾」という共同研究に入れていただいたことがきっかけです。そこで戦争体験世代の塾員にアンケートを出し、それを集計したり、インタビューをしたり、いろいろな資料の提供を受けたりして鍛えていただきました。
その後は大学院に進んで、慶應の経済学部と中国・吉林省社会科学院による満鉄史の共同研究プロジェクトに入れていただき、満鉄史研究で学位を取っています。満州にもいろいろな語りがあります。
もう1つ、福澤研究センターで都倉先生が「慶應義塾と戦争プロジェクト」を立ち上げられた時にお声がけをいただき、シンポジウムやデータベースの作成などでささやかなお手伝いをさせていただいています。
失われていく戦争遺跡
それぞれの方々がやってこられたことをもう少し詳しくお伺いしたいと思います。奥村さん、昨年の戦争遺跡の残存調査について、もう少し具体的にお話ししていただけますか。
1998年に文化庁が文化財化を念頭に実施した近代遺跡調査で、「軍事に関する遺跡」として市町村から報告があった642の遺跡がどんな状態で残っているかを、216自治体にアンケートしました。すると、約3割が消失するなどして、原形をとどめていませんでした。
完全になくなってしまっている遺跡もあれば、門柱1本しか残っていないものもあります。放置されている間に25年以上を経て消失が相次いでいることは、衝撃的な結果だと受け止めています。
体験者だけではなくて、個人の記憶や、考古学的な調査の記録や戦争をめぐる語りが結びつき、また対話が誘発される場として、戦争遺跡はとても重要な場所になると思います。
一方で戦争遺跡の保存・活用は進んでいない。ここには、なかなか文化財指定ができないとか、いろいろな問題があるのですが、そうこうしているうちに3割ぐらいがなくなってしまったという衝撃的な事実を、奥村さんの調査で知りました。
体験者がいなくなるというだけでなく、戦争の語りと結びつく物的痕跡も、放っておくとなくなってしまうという事実もあるのです。
茨城県阿見(あみ)町の歴史編纂に携わっていて、ちょうど町内の戦争遺跡を調査しています。かつて報告書に書いてあったところを見て回ると、やはり風化が激しかったり、あるはずのものがなくなっていることもありますね。
ただ一方で、新たに見つかってくるものも少なくないのではないかと思います。ちょうど今日、慶應義塾史展示館で『きけ わだつみのこえ』の遺書で知られる学徒兵の上原良司さん一家の企画展(「ある一家の近代と戦争」)を見て、よくぞこれだけの資料が自宅に残されていたなと驚きました。時とともに失われていくだけではない。隠れていたものを探し出す営みをあきらめてはいけないと感じています。
そうですね。新しいというか、これまで見落としていたもの、見えていなかったもの、気づかなかったものにも目を向けていく必要があることは間違いないですね。
お話を伺っていて思うのは、その残った遺跡642の前に、残らなかったものがあって、それを語るほうに引き付けると、「語られたこと」と「語られていないこと」がある。清水さんがお話ししたことで言えば、「新しく発見されたもの」もあれば、「まだ発見されていないもの」もあるということになると思います。
私が上原良司さんの遺書の直筆を初めて拝見したのは1994年頃で、「太平洋戦争と慶應義塾」での展示の際のことでした。『きけ わだつみのこえ』で大変有名な方ですが、私は直筆に圧倒されて、そこで止まっていて、「上原家」というものが全く見えていませんでした。
それを超えて、いろいろなものをつなげて「日常」まで見ていくという大きな新しい流れに、今の都倉先生の研究などもあるのだろうと思います。それまで見えていなかったものが見えることで、「日常」から戦争を語り、考えることで、いろいろな人が「他人事」ではなく「自分事」として考えるようになるという意味で、大切な突破口というか切り口と思っています。
一方で私は満州のことをやっているので、当然、その研究は中国とその周りの国ともつながってきます。いわゆるグローバルヒストリーや世界史をナショナリズムを相対化する形で考えていくことも必要になるのかなと思います。
個人から、あるいは家族から始まり広がっていく歴史は歴史学的に言えばミクロヒストリーとかミクロストリアというような枠組みかもしれませんが、それとはまた別のグローバルな視点からの歴史もあります。それらは相反するものではなくて、どうつなげていくかという模索がとても大事なのだと思います。
戦争が終わっていない島で
大川さんは、まさにそういうグローバルなところでも活動されていると思うのですが。
私がマーシャル諸島に魅せられ、今なお通い続けている理由のひとつは、マーシャルで出会う人びとの歴史をなぞることで、日本との知られざるつながりに触れることができるからです。かつて大日本帝国のマーシャル群島と呼んだ時代に、海をわたり個人的な関係を深く育んだ人もいましたが、戦後、日本ではマーシャルがすっかり見えなくなってしまいました。「戦後80年」という時間は、日本が戦争の記憶を忘れられるように、マーシャルを忘却した時代です。
しかし今なおマーシャルを訪れると「戦争は終わっていない」ことを感じることの連続です。民家の横で置き去りになったままの旧日本軍の戦跡、人の名前、日本語由来の言語や歌などに、日本と深い関わりがあった記憶が刻まれ、生活の中で息づいています。マーシャルの人たちは、私たちが忘れてしまったことをいろいろなかたちで覚えています。わずかでもそうした記憶の隔たりを語り継ぐことで、ギャップを埋めることができたらと思っています。
先日、クェゼリン環礁という戦時中、激戦地となった島(現在は米軍のミサイル実験場)へ行きました。環礁内の小さな離島で「ここにも日本のものがあるよ」と言われて案内してもらうと、ジャングルと化した茂みの中に、どろっとした液体が地表の一部を覆っていました。
「これはオイルだ」と言われて、鼻を近づけて匂いを嗅いでみると、強烈なガソリン臭がしました。その一帯を囲むように大きなドラム缶が朽ち果てた状態であり、地面には、100年前に日本が持ち込んだガソリンが松脂のように光っていました。
島の地権者に話を聞くと、かつてその島は補給船などの中継地点で、ガソリンステーションとして機能していたのではということでした。その話を聞いて初めて、この島に無数の軍艦が補給で立ち寄った姿を想像できたのですが、その島に行かなかったら、この小さな島が戦時中、重要な拠点であったことは知りませんでした。まだまだ知らないことだらけで、マーシャルに行くたび、出会う人に教えてもらっています。
安藤さんがおっしゃった、語りの多様性と重なる話だと思うのですが、マーシャルに通い続ける理由の一つは、「全然知らないから」です。
やはりその場所に行かないとわからないことは、たくさんありますよね。出会いは戦争を語る実践においては非常に大きい。私は今、学術よりも、パブリックに対する発信を中心にやっているのですが、その時、「学術だから何でも知っている」と思われると困るんですね。
「皆さんが知っていることのほうが多いので、一緒にやりましょう」と言います。アジア・太平洋戦争はあまりにも巨大な事象なので、誰もその全体像を語れる人なんかいない。どんな優秀な研究者だって部分しか語れないし、偏った視点からしか語れないのだから、いろいろな人と出会い、そこで生み出されていく語りをつないでいくことがとても大事になると思います。
『マーシャル、父の戦場』という大川さんの本は、マーシャルで餓死した日本兵の日記を、多様な専門分野の研究者の力を借りて解読して、研究者以外も遺族や作家など実に様々な方が関わって編まれています。協働が大変うまく実現した例でしょう。なぜ大川さんはあれができたのだろうと、今もって私は奇跡的なことだと思っているのですが。
僕もそう思っています。嫉妬を感じるくらいの素晴らしいお仕事です。
それはひとえに、遠くまで届く本にしようと、当時勤めていた出版社を退職し、独立してみずき書林という出版社を立ち上げた編集者・岡田林太郎さんとの出会いがあったからです。いまだ語られることの少ないマーシャルでの戦争を、想像力を中心に据えることで捉え直し、近くに感じられるようにと、力を尽くしてくださいました。
『マーシャル、父の戦場』の佐藤冨五郎さんの日記に私も衝撃を受けました。これまで連合艦隊司令部地下壕で語られてきた歴史が、マーシャル諸島に残された日本兵たちが餓死していったこととつながることはほとんどありませんでした。
だけど時間的にはパラレルで、連合艦隊司令部が地下壕にこもらなければならないほど弱体化してしまったことがマーシャルの悲劇につながっています。このことを、もっと連合艦隊司令部で語る歴史に結びつけていかなければいけないと強く思いました。このように「見えていない」ところは必ずあるので、それに気づきつないでいくことが、とても大事ですね。
佐藤冨五郎さんの部隊の司令官は、戦後、50代で慶應の医学部に入って医者になった吉見信一さんですね。
はい、吉見信一さんは、佐藤冨五郎さんが所属していた海軍第64警備隊の最後の司令官です。ウオッゼ島に送り込まれた約3500名の守備隊員のうち、2700名以上が亡くなり、その多くが飢えでした。
敗戦時、吉見さんは51歳。戦後間もない昭和21年から受験勉強に励み見事、慶應の医学部に合格。91歳までの33年間、小児科医として「第二の人生」を歩まれました。そうした戦後の生き方も、戦争を語り継ぐ話としてつないでいきたいです。
非合理的ですが、お経をあげないと何か後ろめたさがあるのだと思います。うちでもそういうことがありますが、お釜の前だと、長くお経をあげても5分です。戒名をつけた仮の位牌を持っていって、それで終わりです。
葬儀の形はどんどん変わっています。昔は例えば初七日は、火葬が終わってからやるものでしたが、今は出棺する前に初七日をやる。「そんなのは駄目だ」と言っていた形式にうるさいお坊さんたちも、結局、今はそれを受け入れています。だから、儀式の形というのは仏教の正統性などよりも、それをされる皆さんと、社会の価値観が決めていく。それに仏教は合わせていくのだと思います。
「戦争体験者がいなくなる」ということ
やがて戦争体験者がいなくなる、と我々はずっと聞かされてきましたが、この「戦争体験者がいなくなる」ということをどのように受け止め、その後のことを考えていらっしゃいますか。一方で戦争体験者がいることの意味は何なのか、いなくなると何が失われるのか、それに対して僕らは何をしなければいけないのでしょうか。
遺構という観点で言うと、人がいなくなるとモノが意味づけられなくなってしまうと思います。先ほど小学生時代の話をしましたが、そこにある碑が何を意味するのか、背景を知る人がいないとわからないこともあります。昨年の戦争遺跡の取材でも、仙台にある巨大な防空壕で、記録があるのに場所がわからなかったものを、たまたま展示会に来た戦争体験者の話を頼りに特定したケースがありました。
モノの重要性を理解したり、新しいモノを見つけたりする上でも、「人がいる」ことが大事だと感じています。
そういうことは確かにありますね。一方、記録された、つまり「情報」になっているものは、体験者が語る証言、記憶とどう違うのでしょうか。
この戦後80年間というのは、情報テクノロジーが劇的に多様化し、さまざまなメディアに戦争が記録されてきた時代です。文字や写真、映像がものすごく大量に残されています。
さっき話した語り部のおじいさんも、自身の死を見越して生前から講演映像をDVDに焼いて後世に伝えようとしていました。亡くなった現在も、戸張礼記という名前で検索すれば講演動画などを見ることができます。
対面での個人の生の語りのみに頼らず、情報媒体に記録し複製し伝える技術を発達させてきた中で、全てを見尽くせないくらい、たくさんの歴史に私たちは囲まれている、という見方も、逆にできるかと。それを発掘し活用する可能性に開かれる一方で、記録が残されてきたプロセスを批判的に吟味することも一層大事になってきます。概して体験は情報になると、きれいに編集され、抜け落ちる要素は多い。
とはいえ証言に立ち返ればよいという簡単な話でもない。戦場に行った方の聞き取りが難しくなった時代に、目の前にいる人の声だけを聞くと、戦争当時子どもだったような特定の世代に偏ってしまうわけです。
その偏りは、もう限界まできていて、アーカイブの活用が不可欠な状況をどう考えるか。そして、何も語らず書かずに世を去った大勢の存在にもどう向き合うか。私たちは問われています。そのあたり、平山さんはどう考えられますか。
白井ゼミで当時、アンケートを7000名以上の塾員の方に送って、それが返ってきた時、議論になったことの一つは、「戦没者は回答できない」ということでした。
様々な体験をされた方の話を伺うのですが、ご本人たちも後ろめたさみたいなものもありながら、語ってはくださる。その意味で、「語り」はそもそも偏っているということがあります。そして、戦場体験者はどんどん先に亡くなっていき、空襲の記憶はないけれど、おんぶされて逃げていたという方の話だけを聞くような段階になり、今、いよいよゼロになりつつあるという。
語り継ぐ対象としてのAI?
一方、データベースとの関係で言えば、私が所属する工科大学はデータサイエンスや情報工学を取り入れたカリキュラムになっているのですが、ホットなワードは「生成AI」です。
オーラルなどの研究をやっていると、アジア・太平洋戦争に関する語りの全てを生成AIに入れてしまうとどういうことになっていくのか、と考えます。語り継ぐ先、または記憶・記録として残し、蓄積していく先が、そこまで進歩している段階なのではとも思っています。
そうなると、研究者が持つ「専門知」というものが、ある種の禁欲的な立場から「解放」されるかもしれませんし、これまで誰にも聞いてもらえなかった話が入ってくる可能性もあります。語りの全部を我々が読めないことはもう決定的だと思いますので、そういったものをどのようにつなげていくかは考えたほうがよいかとも思います。
確かに膨大な情報を分析し、そこから何らかのパターンなり傾向を導き出そうとする時、人間が読める分量には限界がありますので、AIを使っていくことがこれからどうしても必要になると思います。
また、清水さんの話ですが、体験者の話を聞かなければ戦争がわからないということになると、特攻隊の人たちの日記をはじめ、戦中から記録されてきた膨大な数の記憶や証言などに逆に目が向かなくなってしまうかも知れません。これは福間良明さんなども指摘されていることですね。一方で、AIを使わなくても、大川さんが佐藤冨五郎さんの日記に深くはまっていったように、一つひとつの言葉から広げていくこともできると思うのですね。
体験談を聞いてどう思ったかという、語られた側の感想や、語った人に対する批判、展示されたものへの感想なども全部集めてしまうのがAIではないかと思っています。日本語での語りに限定する必要もありません。
先日、NHKで、ヒトラーの妻となった、エヴァのプライベート映像をAIを使って分析するというドキュメンタリーが放送されました。顔認証で誰が映っているかを暴くことが一つの力点だったのですが、もう一つは無声映像なので、ドイツの聾啞者の方に読唇術で何を会話しているかを起こしてもらうことにあるのです。
そういった人たちの「スキル」を使って、日本でもAIで無声の映像で何をしゃべっているかを「語り」として起こしていく研究が進んでいて、そういうものも含めて、語り、ナラティブが、より広く集まってくる段階を迎えているのかなと思っています。それらが立場を超えて皆集まってくる、予定調和的ではないデータベースのようなイメージをAIに抱いています。
直筆の文字が喚起するもの
体験者がいなくなってしまうから、生成AIで無数の語りを集め、最大公約数の語りに基づいた「戦争体験」を継承しようという試みには疑問を抱いてしまいます。個別具体的な、その人がその場にいたからこそ起こり得る体験が「語り」であって、ワンクリックで、瞬時にAIが具体例をまとめてわかりやすく伝えてくれる語りには、言い淀んだり、言葉を詰まらせたり、聴く相手やその日のコンディションによって語りが変わり得ることが体験者の語りにはあることを想像することが難しいのではないでしょうか。AIにはあくまで参考としての注釈を注意深くつけること、また受け取る側のメディアリテラシーも求められます。
そう危惧する一方で、矛盾していると思いますが、私が最初にマーシャル諸島を知ったきっかけは、グーグルの検索エンジンでした。ちょうど検索エンジンが出てきた頃で、核兵器の「核」と、環境問題の「環境」と、「開発」という言葉を入れて検索してみたらマーシャル諸島のスタディツアーが出てきたからなんです。
情報・技術の発展の恩恵を受けつつも、自分では意識して検索することがなかった「戦争」が、マーシャルを訪れたことで、どんどん私の中に入り込んできました。戦争というものを考えなければ、核のことも、環境のことも、地域の開発のことも考えられない。一つ一つ、出会ったものに対峙して反応していくうちに、戦争のことから勉強しなくてはと思いました。
私の場合は日本の外に出て、戦争について知りたいと考えるようになりましたが、いつどのタイミングで関心のスイッチが入るかは、人それぞれだと思います。便利さと引き換えに、人びとの関心の方向や情報の選択が技術によりコントロールされ、無意識のうちに新たな分断や戦争を生みかねない方向に働く作用も強く感じます。テクノロジーの使い方には、今後ますます慎重にならなければと思っています。
佐藤冨五郎さんの日記は、直筆で書かれていることがすごく重要です。携帯やパソコンなどを使って綴られていたら、これほどくりかえし読むことはなかったと思います。
日記が終わる――死期が近づくにつれ、どんどん筆致が乱れていく。最後の最後まで冨五郎さんは本当に細かく文字を書くのですが、その筆跡をなぞることは、「きっと真面目で几帳面な性格だったのかな」と、視覚的に訴えかけてくるものから冨五郎さんという人物像を想像することでもありました。会ったことのない、戦争も知らない私たち非体験者に、直筆の文字で書かれた日記は、たくさんのことを教えてくれます。
戦争を語り継ごうとする時、テクノロジーがいくら発達しても、デジタルの情報では伝わりきらない人の温もりや手触りが感じられるアナログな物に立ち返ることに、変わりはないのではないでしょうか。
日記に真摯に向き合い、自分自身をぶつけるという大川さんの姿勢は、戦争を語っていく実践にとってとても大切なことだと思います。清水さんが提唱されている「歴史への謙虚さ」にもつながっていく気がしますね。
個別具体的な視点と俯瞰する視点
少し補足をさせていただくと、今、AIはビジネスにおける「定型」での活用が盛んですが、研究上の活用としてはもっと「未知」のゾーンに入っていく可能性を支持したいということです。すべてのものを読めないし、あったはずのものがなくなってしまうぐらいなら、まずはデータとして蓄積して、それをどう引き出すのか、というのが考えどころだと思うのです。
例えば、蓄積された語りについて「年月日」と「地名」で「検索」をかけると、ある時点でのある場所についての語りがワーッと集まってくる。今までは別々になっていたものを一つ一つ丁寧に読んでいかなければ辿りつけなかったのが、デジタル化された形で蓄え続けていれば、常に新規性を持つデータベースにもなり、これまでつながっていなかった語りをつなげることができる。ある時点でのある場所についての語りが「語り全体」のなかで占める位置を「可視化」する可能性もあるのではないかと。
『タリナイ』を拝見すると、大川さんは限りなく歴史研究者に近い、一次史料からのお仕事をされていることがわかりますし、「共感」も覚えました。一次史料を見た時の興奮は、歴史研究者には抑えきれないものがありますので。
一方、すべての人が同じようにできるのかと言うと難しいので、デジタル技術によって蓄積されるということは、新しい可能性、気づきを多くの人々にももたらしてくれるのではないか、という点でもAIの活用に可能性を見ています。
一つの小さい出会いを起点として、人と接するところから始まって広がっていく枠組みと、大きな情報を分析する枠組みというのは、ミクロヒストリーとグローバルヒストリーの対比に近いところがあるかもしれません。
とはいえ、戦争を語る実践では、一つの小さなところから進んでいくところにこだわっている方が多いようですね。
私も研究的にはそちらです。
やはり私たちは個別具体的な1人に出会って引き込まれてしまうのです。慰霊碑や日記などのモノも含めた、偶然で運命的な出会いがあって、やはり個別性が、歴史への入り口、きっかけになるわけですよね。
一方で、広く俯瞰できるデータベース的なものも、結局その1人ひとりはどのような位置にいた人なのだろうかとか、一歩深く知るための手段になります。大川さんのいう「無数のひとり」は個別具体的なのだけど、似たように生きた人もたくさんいると気づいて、視野を広げるプロセスをサポートしてくれますよね。
新聞の調査記事では、一面で「戦争遺跡3割消失」みたいな目を引く全体の数値を示して、中面に関連記事として、消えていく遺跡の実態だとか体験者の経験を描きます。数字が持つ意味を、説得力をもって伝えるためにも、個の語りは不可欠です。
新聞読者もすごく減っていますが、数少ない中の1人にでも「この言葉が引っ掛かればいいな」という思いで書いています。記事との偶然の出会いから関心を寄せてもらうためにも、亡くなっていく方が多い中で、語れる人を探して記録し続けるのを諦めてはいけないと、お話を伺っていて思いました。
個々のデータから積み上げて、というのは、いわゆる「名寄せ」ですね。1人ひとりの名前であらゆる情報をつなげていき、そこから積み上げて「全体像」となることが理想で、自分の身内や知人はこういうことをやっていたんだ、とわかるかもしれない。
個人情報の問題もあって、定量分析では個人名を消すことが多いのですが、その結果を「自分事」として受けとめるのはなかなか難しいですね。分析結果が全体を説明する有効性を守りながら、個々から積み上げていく時の「実名性」がもつ「凄み」のようなものを大事にしたいと思っています。
たくさん集めたうちの一番多いものが一番心に響くとは限らないですよね。少数の方の経験という「偏り」があってもいいのかなと。実名なら、その偏りが一方的にならない気もします。偏りがあった部分が誰かに刺さって、そこからまた広がっていく議論もあると思います。
そうですね。偏りが一方向に増幅してしまう世界だと危ないですが、皆が偏っていて、結果バランスが取れていれば大きな問題はないのではないかも知れませんね。
戦争は遠い話ではなくなったのか?
私は、気がつけばもう20年近く戦争の語りに関わっていまして、振り返りますと、その間の学生たちの戦争に対する意識の変化のようなものが何となく気になってきています。
皆さんは現在における、戦争に対する意識、関心・無関心といった点を、どう感じていらっしゃいますか。そもそもマーシャル諸島が日本から全然関心を持たれていなかったところからスタートしている大川さん、この関心の移り変わりについてはいかがでしょうか。
映画『タリナイ』を公開したのが2018年で、それから7年経ち、その間に世界では新たな戦争が残念ながら起きてしまっている状況なので、今の小中学生、高校生にとって戦争は遠くないものになっていると感じます。
公開時の2018年は、戦争は遠いものでした。最近は、将来、日本も参戦したり、巻き込まれてしまうかもという危機感を強く抱くなか鑑賞した、という感想が増えました。今や戦争が遠い話ではなく、現在、進行している戦争と同時に比較して語られ、鑑賞されています。
9歳の男の子が、「どうして、マーシャル諸島に日本軍が持ち込んだ大砲など置いたまま、片付けないのですか」という、とてもシンプルな問いを投げかけてくれたこともありました。そうした直球の問いから、複雑な戦争を紐解いていくことも、上映後の対話の時間として貴重です。
上映する場によっても、反応は少しずつ異なるのですが、鑑賞するタイミング、そして今世界を取り巻く状況によって、映画の見られ方も都度変化していくんだな、映画も生き物なんだなと、上映するたびに学びを得ています。
皆さん、戦争が自分たちとは遠くないところにきたのではないか、というところはどうですか。
ご自身の経験とウクライナやガザのことを重ねて話す体験者の言葉に、はっとさせられることがあります。これが80年前に見ていた景色なのかと。身近さは増しているようには思います。一方で、ありのままの惨劇を小学生に話したら、「ゲームみたい」と現実味を持ってもらえなかったと悩む方もいました。切り口を工夫して伝え続けなければ、と感じます。
偶然の出会いのインターフェース
私の研究会のメンバーで、80年前の戦争をテーマに選ぶ学生は1人のみです。今の世代(2000年代生まれ)の学生は関心がないと嘆いてもいいのかもしれませんが、逆に、無関心がデフォルトで当然ではないかとも思うのです。私の世代(1990年代生まれ)でも、戦争に興味を持っている自分は変わり者だったと思います。
私の研究会は「戦争体験継承」など掲げないで、フィールドワークをテーマにして、藤沢市の辻堂地区を歩いています。着任してから調べると予科練の少年兵を教育した藤沢海軍航空隊もありました。茅ヶ崎・辻堂海岸にあった旧日本海軍の広大な演習場が戦後は米軍演習場となり、返還運動が行われた歴史もある。辻堂駅の北側に大きなショッピングモールがあるのですが、広い敷地は工場だったからで、もとをたどれば日中戦争下に作られた軍需工場です。軍需工場は戦争末期に空襲を受け、辻堂駅は米軍占領期に弾薬爆発事故が起き、死者が出ています。
もう何も遺跡の形で痕跡は残っていませんが、土地の中に埋もれている記憶を掘り起こし、ここに、かつてあった物事を想像することはできます。まちを歩きながら、何気ない日常の景観ができあがった成り立ちを掘り下げると、しばしば戦争が顔をのぞかせる。
自分たちの身近な暮らしの範囲で言えば、日吉のように、キャンパスの中の戦争を考えることもできます。SFCも遺跡発掘調査報告書を読んでみると、キャンパス内に9カ所の壕が戦時中に掘られていたとわかります。
それは先ほど言った個別具体的な偶然の出会いのインターフェースですね。最初から戦争継承プログラムとあえて言わないで歩くことで、それは少し驚きを伴う出会いになります。
戦争遺跡を起点に考えていくと、そこで何かしらの戦争の痕跡に触れる、あるいはかつて戦争のあった空間の中にいると感じる。こうした実感に何らか戦争に関する情報が結びついた時、単に耳で聞く以上の経験となり、戦争と自分がつながっていると感じられるのではないかと思います。それがモノや場所の一つの力、意味だと考えています。
大川さんにとっては、マーシャルに入り込んでいるという感覚がとても大きな意味を持っているのではないかと思うのですが。
私はマーシャル諸島の話を日本でしたいという思いが出発点なので、映像という方法を選択しています。マーシャルでは「こうです」と簡単には言い切れない、割り切れないものにたくさん出会います。なぜ知らずにいたのだろうと、後ろめたく思う気持ちや、どうリアクションしたらよいかわからずざわざわとする心の動きなど、言葉になる手前の感情や揺らぎも大切にしたくて、多義的な情報を受け手に委ねられる映画という表現を選びました。
また、これもマーシャル諸島に通い続けている理由の一つですが、マーシャルでは、近年、ようやくビキニ環礁での水爆実験の歴史を学校で教えるようになりましたが、親や祖父母から直接体験を聞いたことはないという人が多くいます。戦争の話も、日本からやってきた私には、遠慮して私が居心地を悪く感じてしまうことは言わないようにと配慮する。むしろどんなことでも教えてほしいと伝えない限りは、とても気を遣って、よい関係を築こうとするのがマーシャルの人たちです。
テクノロジーがどれだけ進んでも、人間同士、やはり互いに直接顔を合わせなければわからないことばかりです。とりわけ時間の層が感じられる島の中で、時間をかけて、何度も出会い直し、関係性を築いていかないと出会えない人や場所、聞けない話がまだまだあるので、通い続けています。
ラポールを形成するというのは、最も大事なところで、人びとの中に入っていって初めて開けていく。どうしたって時間がかかるものですよね。いずれにしても、その場所に入り込んで人とのつながりをつくり、いろいろな体験をすることで初めて見えてくるところがたくさんあるということは確かだと思います。
多様な語りを受け入れるために
一方、戦時中、日本がしたことを海外からいろいろ批判されることに対してアレルギーを持つ学生もいます。そういった批判に対して、アクティブラーニング型の授業では自由に発言しますので、ヘイトみたいなものが出てくるリスクもあります。
教員として一方的に「正解」を押し付けると、アクティブラーニング型の授業ではなくなってしまう。いろいろと試みていますが、結論に向かって直線的な議論ではなく、迂回的な議論になるようにファシリテーションをしています。
私が学生に言うのは、あの戦争でやったことを今でも言われるということは、裏を返せば、その後はそういうことをやっていないということで、日本がこの80年間戦争を仕掛けていないことの持つ「価値」と裏腹でもあるんじゃない? と。これがもし10年前にどこかの国と戦争をしていたら、先にそれを言われるんじゃない? と。侵略の問題と戦後の問題を、歴史研究者としての「時間感覚」のようなもので捉え直してほしいと思いながらやっています。
いろいろな国からの留学生もいる中、そういう迂回的な議論が平和につながるのではないかと思いながらです。
戦争は、敵味方があり、殺し殺されるという関係からなる巨大な事象ですので、どの立ち位置から、どの範囲を語るかによって、語りが多様になることは避けられないですよね。
非常に大きな問題で難しいとは思うのですが、若い世代が、日本に対する批判的な見解に拒絶反応を示すということを、単なる表層的な知識による判断とは考えないほうがいいかもしれないですね。
そうですね、感情的にそれを言われたら嫌だというのはわからない話ではありません。ただ、何で相手がそう言ってくるのかということを、やはり相手の立場から考えないといけない。「10年前のことを言われていない」というのはどういうことなのか。やはり平和だったからでしょうということを含めて、自覚がないのもよくない。
歴史知識の中身やSNS的な感情とは別に、若い世代の意見を支えている「感受性」や「無意識」に、自分がもっと気づく必要があると実感させられています。
そうした意見を拒絶したり排除したりしないことが、これから戦争を語り継いでいくことの課題になると思っています。学術的に間違っているとか、偏っている、表層的だなどと、頭ごなしに否定してしまうと、そこで対話は切れてしまう。
偏っているという点では誰もが偏っているので、異なる方向の偏り同士が対話で結びつくことで、だんだん極端な偏りが修正されてくるのではないかと思います。
おっしゃるとおり、互いの偏りは気づきをもたらしますから。頭ごなしに否定したり、学問的見地からだけでイエス、ノーを言っては駄目ですよね。
対話をつなげるということ
自分と違う考え方をする人たちの視点に立って理解しようと試みることは、それに賛成することとは別です。「その人たちにはそう見えている」ことに気づくことは、フィールドワークやインタビュー調査の基本です。研究者が頭ごなしに断定してはいけないというのも、似たようなロジックだと思います。理解することと賛成することがくっついてしまうと、反対意見に耳を傾ける余地がなくなり、より分断が深まるところはあるとは思います。
新聞への意見などでも、そういう偏りのようなことを強く感じる瞬間が、たくさんあるのではないですか。
通信社には新聞への意見が届きづらいのですが、反対意見であっても、関心が寄せられることに意味があるし、自分自身が学び直してみるきっかけになるので、批判を機にもっと深い知識を得られればいいな、というところはあります。
とは言っても、明らかな無理解による非難もあるので、そういう時は次から文章に知識とか背景を補います。取材に応じてくださった人に不本意に矛先が向くようなことは避けたいです。
学術の側が「この成果こそ正しい」みたいな姿勢をとることは、結局そこで対話を切っていることになります。実はヘイトの方々がやっていることも同じで、自分たちから対話を切っている。だからこそ学術の側は、どんなに学術とは異なる意見であっても、意味がないかのように切り捨てるのではなく、対話につなげていかなければならないと思っています。実は学術にとって、それが一番苦手なところかも知れないのですが。
「語ることの目的」とは
最後に皆さんに伺いたいことがあるのですが。「語ることの目的」は何だろうなと思って。思い描くことや目指すところを聞いてみたいと思うのですが、いかがでしょうか。
なかなか語りづらい声を当事者ではなく、まわりの人が少しずつでも聴かせてほしいと語りの場を開いていく工夫を凝らすことは、戦争をしないで生きていく術を磨くことと私はつながっているように思います。
少しでも、今生きている世界がよい方向へ向かうための努力を手放したくない。そう願ったところで、ひとりでは簡単に絶望しがちなので、自分以外の誰かと、語りを聞き合う関係を育むことができたら、それはごく小さな半径かもしれないけれど、互いを支え合うセーフティーネットになります。それが語ることの目的ではありませんが、語りがもたらす光なのでは。
目的を固定してしまうことの危険性みたいなこともあると思います。目的が決まりプログラム化されると予定調和になってくるのですよね。戦後80年という年月の中で積み重ねられてきた予定調和が、知らず知らずのうちに継承実践に組み込まれている。例えば、何を語っても「平和は大切だとわかりました」という、正しいけれども抽象的で大きな物語に、尖った個別性のリアリティを溶かし込んでしまう。
しかし、戦争の語りというのは、何を語っているのか理解できない部分が多分にあります。だって、私たちは戦争を経験していないし、経験したところで、死んだ人が体験したことは多分わからない。
それは予定調和とは逆向きで、ポジティブな意味で、「いや、本当にわからなかった」という率直な反応もあってよいはずです。それは歴史家・保苅実の言葉を借りれば、「ギャップの前でたたずむ」ことを促す。だからギャップを埋めることを目的にすること自体、もしかすると罠かもしれないなと。
先日、辻堂で生まれ育った90歳のおばあさんにお話をうかがいました。戦争の話というより、辻堂の暮らしの思い出話を伺っていたのですが、最後に軍用地の話題が出て、「2つ年上の兄が演習場に落ちていた銃弾を拾って遊んでいたら、不発弾が暴発して、左手がなくなってしまった」という話をしてくださったんです。
そのエピソードは私と学生を確実に揺さぶった。不発弾のせいで義手生活を送ったお兄さんはすでに亡くなっているので語れないけれど、妹のおばあさんが90歳になって、60、70年も後に生まれた私たちにふと語っておこうと思った。語る動機も、出来事の詳細も、まだわからないことだらけ。でも、何か重たい衝撃は残っている。戦争の生の語りとはそういうものですよね。
私は、戦争について語ることは、良い言い方かどうかわかりませんが、戦後80年間、戦争を仕掛けなかった国の「ブランディング」だと思っています。戦後に「 」を付さなくても意味が通じることの価値を大切にしてほしいなと。
一方、歴史研究者としては、新しい史料を発掘して、新事実の発見を重ねて、論脈を豊富化するために語りたいということになると思います。この2つですかね、目的と言われると。
皆様、有り難うございます。
私は、我々はアジア・太平洋戦争という巨大で複雑な事象を、本当に語り得るんだろうか、ということを考えるようになりました。
聴き手に正しく伝わるように、語り尽くせるのかということですか。
そうですね。そこから逆に、これだけ時間をかけてもわからないようなことを人間が引き起こしてしまったということ自体に目を向ける必要があると考えるようになりました。
わからないことだらけで、立場によっていかようにでも語り得るアジア・太平洋戦争は、果たして歴史として語られるようになるのか、歴史という枠組みに収まっていくのだろうかということも考えないといけないのかも知れません。
そういう歴史のわからなさ、どうしても語り尽くせないところが、ある意味、戦争を我々が語り継いでいく意味なのかもしれないなと、皆さんのお話を聞きながら思いました。
本日は長い間、有り難うございました。
(2025年6月25日、三田キャンパス内にて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。