執筆者プロフィール

小川 剛生(おがわ たけお)
文学部 教授
小川 剛生(おがわ たけお)
文学部 教授
2021/12/06
京都の泉
『徒然草』第55段は、住居を論じている。冒頭の一節は、「家の作りやうは夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住居は堪へがたき事なり」である。高温多湿の京都ではもっともだと言わざるを得ないが、それに続けて、「深き水は涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し」とある。庭内に潺せん湲かんたる泉水を流しておけというのであるが、これも京都の名だたる邸宅には流水に臨んで泉殿(釣殿)が設けられ、炎暑にしばしの涼を求めた。『源氏物語』常夏巻の書き出しも「いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ」である。それでは実際の住宅はどうであったのか。
京都市営地下鉄の烏丸御池(からすまおいけ)駅は、烏丸通と御池通の交点で、附近を「御池之町」という。現在どこにも池水は見えないが、その西北に当たる、旧龍池(たついけ)小学校の校庭の一角から、かつて豊富な泉が湧出し、広い池となっていた。洛中では自然の湧水は珍しいので、平安時代から女院や上皇の御所が営まれていた。これが押小路烏丸殿(おしこうじからすまどの)で、「泉亭」と言えばここを指すほどに有名であった。
この泉を愛した権力者は枚挙に遑(いとま)がない。その1人が後鳥羽上皇である。承元3年(1209)8月3日、ここに仙洞を営んでいる(『仙洞御移い徙し部類記』)。
後鳥羽は清冽な流水のある場所を好んだ帝王で、そこで近臣たちと競馬、水練、賭弓、博奕などさまざまな遊興を楽しんだ。押小路烏丸殿もそうであった。藤原定家は「この間、偏へにまた相撲なり、御厄年(33歳)7月、尤も謹慎あるべし、悪所の泉に於いて毎日この事あり、心中恐歎す」(『明月記』建暦2年〔1212〕7月19日条)と苦々しげに記している。あまりに羽目を外していたせいか、この泉も「悪所の泉」ときつい言い方をされている。しかし、この事実はまた、泉と園池が、人々をしばし開放的にさせることをよく示している。
鎌倉時代後期、押小路烏丸殿は摂関家二条家の本邸となった(なお、この二条家は、藤原道長・頼通の直系、五摂家の一で、歌道師範家の二条家とは別である)。この家からはまもなく著名な政治家・文化人の良基(よしもと)(後普光園院(ごふこうおんいん)摂政、1320~1388)が出る。連歌を愛好し大成した功績で最も知られる良基の、多彩な活動の舞台がこの邸であった。
良基は歴史ある邸を愛していて、庭園を整備するのに努めた。近年の発掘の成果によれば、庭園には少なくとも5度に及ぶ改修が認められるが、とくに南北朝期のそれでは、地面を掘り下げ、東から西へと人工の傾斜が作られ、南西に向かい池が広がり、瀑布(ばくふ)(滝)があった。さらに小石を敷き詰めた洲浜が美しい曲線を見せ、いくつかの殿舎が水に臨むように建てられていたことが確認される。そして戦国時代の洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)(上杉本右隻五扇)には、板葺きと檜皮(ひわだ)葺きの二棟の泉殿があり、室内には囲碁を興ずる若者、縁には立って客人を案内する主人、そして満々と湛えられた池水が描かれている。
この押小路烏丸殿は、たんに著名な公家の旧邸というばかりではなく、室町文化の象徴として、そして住宅が周囲をどのように取り込んでいるかという点でもたいへん興味深い事例なので、このことを述べてみたい。
会所の文芸
ところで、室町時代の住居と文化を考える時に、「会所(かいしょ)」の出現が夙(つと)に注目されている。会所とは、連歌・和漢聯句(わかんれんく)・飲茶・立花・聞香(もんこう)などの遊芸を催した会場であるが、この時期になって、邸内に独立した殿舎として建造されるようになった。たとえば連歌はしばしば「座の文芸」と言われるが、なるほど会所の室内は、仕切りや段差を設けない平板の床であり、身分・階層の異なる者が同座する場としてふさわしい。伝統的な寝殿建築では、母屋・庇(ひさし)・孫庇・弘庇そして庭上と、身分によって座する領域が厳然と決定されていて、かつ可視化されるからである。室町文化といえば、禅宗の影響と武家の力が強調されるが、実は保守的な公家の住宅において「会所」が受容され、活気に溢れた新たな文化的な営みの母胎となっているのである。
二条良基は、泉殿を「会所」へと発展させていった。その泉殿が古くから有名であったことはさきに触れたが、良基は積極的にこれを「会所」として用いたらしい。庭園は人々をもてなすには好適の環境であった。
康暦2年(1380)4月、臨済宗夢窓派の禅僧で五山文学の大家として知られる義堂周信(ぎどうしゅうしん)が、鎌倉から上洛した。良基は文名に惹かれて、面会を望んだ。義堂の日記『空華日用工夫略集』によれば、8月8日に押小路烏丸殿に初めて参上した。泉殿(水亭)で良基と対面した後、御榻閣(ぎょとうかく)(水閣)に案内され、和漢聯句を楽しんだ。なお、和漢聯句とは、5言の漢句と、五七五ないし七七の和句とを連歌の要領で付けていくもので、晩年の良基が式目(ルール)を整えた。公家・武家・禅僧とが同座する室町・戦国の社会に、最もふさわしく、かつ流行した文芸であったが、いわばそのハード面には会所の存在があった。
二条殿の倭漢聯句会に赴く、西門より入る、泉園池亭水石を巡視す、その美、勝げて言ふべからず、その池を名づけて龍躍と曰ふは、実を記すなり、このごろ昼に当り龍の雨下に躍るの変あり、御搨閣と曰ふは、天子の坐したまふ所の搨(とう)(腰掛け)在り、曰く、洗暑亭、曰く聴松亭、曰く蔵春閣、曰く緑揚橋、曰く政平水、曰く観魚台、曰く古霊泉、曰く水明楼、曰く梅香軒。既にして准后(良基)出で、余を水亭に来接す、互に久渇の懐を叙べ、引きて御搨閣に入る、倭漢聯句百韻、時に会する者、安国の相山・洞春の玉岡・大龍の器之・准后摂政の令子梵樟侍者なり。(注記・ルビ引用者)
良基はこのように殿舎や庭園、庭間施設から10の名勝を選んで、梅香軒(ばいこうけん)(寝殿)・洗暑亭(せんしょてい)(泉殿・水亭)・御榻閣(水閣)・蔵春閣(ぞうしゅんかく)・水明楼(すいめいろう)・龍躍池(りゅうたくち)・政平水(せいへいすい)・古霊泉(これいせん)・緑楊橋(りょくようきょう)・観魚台(かんぎょだい)と名付けた。世に「二条殿十境(じっきょう)」と言う。十境とは、禅宗寺院で境内の風致に対して象徴的な名を冠し、詩文の題材とするものである。十境はこの後どこでも見られるようになるが、「二条殿十境」は、俗人のものではごく初期の例に属する。
ここに御榻閣・蔵春閣とある。「水閣」の「閣」とは重層建築の謂であるから、つまり池水に臨む二階建ての庭間施設を新設したのである。
「御榻閣」は後光厳(ごこうごん)上皇が御幸したことを記念したもので、「水明楼」も後光厳が名付けたという(なお、「龍躍池」は池水から白龍が昇天したという奇瑞にちなむ。龍池小学校はこの池に因むのである)。
「蔵春閣」は、晩春から初夏に藤花を鑑賞する、鍾愛(しょうあい)の会所であった。早く貞和3年(1347)には存したことが、『菟玖波集(つくばしゅう)』に見える。池上に影を投じて波のように揺れる藤花は、押小路烏丸殿の名物であった。これは「わが宿の池の藤波さきにけり山ほととぎすいつか来鳴かむ」(古今集・夏・一三五・よみ人しらず)という古歌の趣向によるもので、かつ藤氏長者の暗喩でもあり、良基の思い入れもひときわ強かったようである。永和元年(1375)に13歳の少年世阿弥が良基に召され、猿楽ばかりか連歌や蹴鞠にも才を発揮し、感歎した良基から「藤若(ふじわか)」の名を賜ったのも4月の半ばのことで、その場は藤花の咲き誇る水閣であった。
良基みずからが、水閣の点在する庭園の風景を、
水の上に階をつくりかけたれば、やがて座の中を流れゆく石間の水、さながら袖ひつばかりなり。流れの末の池の姿、入江/\嶋々のたゝずまひ、いとおもしろし。西の流れの末に山を隔てて五尺ばかりの瀧おちたり。瀧の上につくりかけたる二階の様など山里めきていとをかしうみゆ。(『思ひのままの日記』)
と描写するのは、発掘の成果とも一致し、ほぼ真の姿なのであろう。複数の「二階」=水閣が点在し、東の松山と西の瀑布によって立体性をさえ醸し出す、まさに市中にありながら、「山里めきて」という演出に成功した庭園であろう。
水閣の眺望
水閣や楼では、当然、眺望を楽しむことができた。しかも、その室内は、伝統的な泉殿とは違って、「唐物(からもの)」、つまり宋・元からの舶来品による調度品で飾られていて、遊芸の空間としての雰囲気を醸し出していた。本来、公家・武家の住宅には、このような重層の建築は存在しなかった(たとえば、鎌倉の「二階堂」とは、かつて存在した永福寺(ようふくじ)を指すが、珍しい二階建ての仏堂を有したからこう称されたのである)。池に臨む水閣の二階に昇って山水を眺め、涼を得たのである。
連歌会の場は、眺望を伴うことが理想とされた。もとより連歌は屋外でも可能で、舟中や花下(はなのもと)、戦陣での興行さえあるが、文芸としての形式を整えつつあったこの時代、詩境の深まりにふさわしい環境が模索された。良基はその最初の連歌論書で、
一座を張行せむと思はば、まづ時分を選び、眺望(・・)を尋ぬべし。雪月の前、草木の砌(みぎり)、時にしたがひて変はる姿を見れば、心も動き、詞もあらはるるなり。眺望、また花亭を尋ぬべし。山にも向かひ、水にも臨みて風情を凝らす、尤もその便りあり。(『僻連抄(へきれんしょう)』)
と述べている。「花亭(かてい)」は文字通り瀟洒優美な邸を言う。
翻って考えれば、作文・和歌・音楽など伝統的な催しは、寝殿の庇で行われていたのであった。たとえば内裏清涼殿にあっては東庇である。他の殿舎に囲まれた小庭に面し、眺望が利かない。清涼殿では雑芸の場として同じく殿上の間も好まれるが、清涼殿の南端に位置し、いっそう閉鎖的な空間である。ここに「会所」との大きな差違を見てとれ、「会所」の特色として、平面的な構造、そして唐物による装飾に、眺望という要素を加えることができる。
良基は稀代の演出者でもあり、自邸ばかりではなく、他人の邸さえ、このようにしつらえることがあった。三代将軍足利義満が、武家として初めて朝廷に出入りするようになると、良基が進んで協力したことは著名である。康暦元年(1379)4月28日、22歳の義満を内裏に迎えた時は、良基は内裏の泉殿を「御会所」とし、夜を徹して酒宴が開かれた。
その様子を描いた良基の仮名記の断簡(『右大将義満参内饗讌仮名記』)が残っており、それによると泉殿の室内は、画軸・香炉・卓といった唐物で飾られていた。会所の押板に置かれるおなじみのアイテムであり、座敷飾の伝書として著名な『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』に見るような定形が早く整えられていたことを知る。泉殿を、装飾によって会所に仕立てたこと、良基の立案にかかるものであった。折しも義満は室町殿(むろまちどの)を建造中であったが、早速会所を加えたようで、落成すると良基を招待し披露するのである(『迎陽記(こうようき)』康暦二年五月二十日条)。
壺中の天地
押小路烏丸殿は、長い年月をかけて整備された結果、主人良基の趣味が隅々まで行き亘った、洗練された空間を形成していた。
ただ、このように記せば、最高位の公家の道楽、権勢と富裕にまかせての園池趣味の産物と受けられるかも知れない。しかしながら、良基が生きた時代は、未曾有の乱世であった。北朝の関白であった良基は、観応の擾乱、その余波の動乱の渦中にあって、およそ1352年から1361年の10年間に数度にわたり、京都に乱入した南朝の軍勢により、この邸を接収されるという経験を嘗めている。いずれも短期間で取り戻しているが、殿舎や庭園がまったく無傷という訳ではなかったであろう。京都の治安は最悪で、強盗もしばしばこの邸を狙った。しかも、二条家は家領が乏しく家計は常に苦しかった。押小路烏丸殿の正殿たる寝殿の規模はむしろ狭小でみすぼらしく、それすら荒蕪の極みだと他の摂家からは悪口を言われている。
にもかかわらず、洛中指折りの名園に数えられ、公・武・禅の人々を魅了したのは、庭園の風趣に対して、住宅の物理的な欠陥を覆い隠すほどの創意工夫が溢れていたからであろう。それは文化の力とも言い得るが、混乱の世相をよそにした、人工的な、壺中の天地なのであった。
〈参考文献〉
太田静六「泉殿の研究」『寝殿造の研究』吉川弘文館、1987年。
小川剛生『二条良基』人物叢書、吉川弘文館、2020年。
斎藤英俊「会所の成立とその建築的特色」『茶道聚錦2 茶の湯の成立』講談社、1984年。
廣木一人「二条殿「蔵春閣」と良基の連歌」『連歌史試論』新典社、2004年。
村井康彦『武家文化と同朋衆 生活文化史論』ちくま学芸文庫、2020年
山本雅和「押小路殿・二条殿の庭園」『リーフレット京都』168、2002年。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。