執筆者プロフィール
黒川 弘一(くろかわ こういち)
その他 : 光村図書出版専務取締役文学部 卒業塾員(1980文)。一般社団法人教科書協会デジタル教科書政策特別委員会座長。2000年よりデジタル教科書の企画・開発・普及を行う。文部科学省デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議委員。
黒川 弘一(くろかわ こういち)
その他 : 光村図書出版専務取締役文学部 卒業塾員(1980文)。一般社団法人教科書協会デジタル教科書政策特別委員会座長。2000年よりデジタル教科書の企画・開発・普及を行う。文部科学省デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議委員。
山上 通惠(やまがみ みちよし)
その他 : 兵庫県立三田祥雲館高等学校主幹教諭・情報科主任理工学部 卒業塾員(1986理工)。兵庫教育大学大学院学校教育研究科修了。86年より兵庫県立高等学校5校に勤務。文部科学省学習指導要領改善協力者。著書に高校情報科各科目検定教科書、『インターネットの光と影』(共著)等。第8回上月情報教育賞等受賞。
山上 通惠(やまがみ みちよし)
その他 : 兵庫県立三田祥雲館高等学校主幹教諭・情報科主任理工学部 卒業塾員(1986理工)。兵庫教育大学大学院学校教育研究科修了。86年より兵庫県立高等学校5校に勤務。文部科学省学習指導要領改善協力者。著書に高校情報科各科目検定教科書、『インターネットの光と影』(共著)等。第8回上月情報教育賞等受賞。
中野 泰志(なかの やすし)
経済学部 教授塾員(1988社修)。博士(心理学)。1988年~97年独立行政法人国立特別支援教育総合研究所勤務。97年慶應義塾大学経済学部助教授を経て2003年より現職。専門は心理学。文部科学省デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議委員。
中野 泰志(なかの やすし)
経済学部 教授塾員(1988社修)。博士(心理学)。1988年~97年独立行政法人国立特別支援教育総合研究所勤務。97年慶應義塾大学経済学部助教授を経て2003年より現職。専門は心理学。文部科学省デジタル教科書の今後の在り方等に関する検討会議委員。
鹿毛 雅治(司会)(かげ まさはる)
研究所・センター 教職課程センター教授塾員(1988社修、91社博)。博士(教育学)。1997年慶應義塾大学教職課程センター助教授を経て2005年より現職。専門は教育心理学。著書に『授業という営み─子どもとともに「主体的に学ぶ場」を創る』『学習意欲の理論──動機づけの教育心理学』等。
鹿毛 雅治(司会)(かげ まさはる)
研究所・センター 教職課程センター教授塾員(1988社修、91社博)。博士(教育学)。1997年慶應義塾大学教職課程センター助教授を経て2005年より現職。専門は教育心理学。著書に『授業という営み─子どもとともに「主体的に学ぶ場」を創る』『学習意欲の理論──動機づけの教育心理学』等。
2021/11/05
「デジタル教科書」の現状
コロナ禍という状況も経て、文科省から本年「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して」という答申が出ました。そこでは個別最適な学びと協働的な学びというキーワードが出されましたが、その背景にはGIGAスクール構想があり、経産省による「未来の教室」という提言にはビッグデータを活用した個別最適化とあり、それらの流れを受けた文科省の答申です。
ご存じのとおり、コロナ禍で大学も含めて学校はオンライン教育が推奨され進められてきました。一方で、対面授業の大事さも見えてきた中で、本日は、「初等・中等教育におけるデジタル教育の未来」ということで意見交換できればと思っています。
まず、現状はどうなっているのかを確認していきたいと思います。1つの大きな柱として「デジタル教科書」の議論が進んでいます。かねてより紙の教科書とデジタル教科書を併用し、それを推進していくという方向性が示されていますが、長らく教科書会社でこのお仕事をされてきた黒川さん、経緯と現状についてお話しいただけますか。
私は、光村図書という教科書の発行者で仕事をしています。一方、教科書協会という教科書会社が集まった団体の立場で、文科省のデジタル教科書のあり方を議論する検討会議委員等をさせていただいています。デジタル教育の未来について考えると、われわれが見たい風景と見えている風景の違いがあると思っています。
まずデジタル教科書とGIGAスクール構想の経緯から話していきたいと思います。デジタル教科書は2000年から国の教育の情報化政策の中で進化してきました。当時e‒Japan構想というものがあり、先生方が使う指導者用のデジタル教科書が出てきます。そして2010年、「スクール・ニューディール構想」という麻生政権期の政策があり、大型テレビや電子黒板が配られました。その後、民主党政権に変わり、2010年以降、総務省のフューチャースクール推進事業とともに、文部科学省で学びのイノベーション事業が始まりました。そのとき初めて学習者用のデジタル教科書を開発し、実証校で使われたという流れがあります。
その10年後が今回のGIGAスクール構想で、実は10年ごとにこのような政策を打っているのです。それとともにデジタル教科書に関する法案が成立したことで活用に関する制度化が整い、教科用図書代替教材として授業で活用できるようになりました。
学習者用デジタル教科書は、紙の教科書と内容は同一なので検定は不要ですが、紙と併用して使いましょう、ということが定められました。ただ問題なのは、教科書は無償ですが、学習者用デジタル教科書はあくまでも任意の教材で有償であり、教科書の発行者には制作の義務はないということです。その位置づけは現在も変わっていません。また紙とデジタル教材とを一体活用しよう、それから特別支援教育に配慮しようという方針になっています。
もちろん、紙の教科書と学習者用デジタル教科書は完全にイコールではありません。デジタル化によってQRコードが付いたり、特別支援に対応する機能があったりします。例えば、紙面の拡大、総ルビ、フォントやサイズの変更、音声読み上げ機能などがあり、ここまでが教科書として認められる範囲となっています。
一方、デジタルの特性としては、動画や朗読音声、ワーク、アプリケーションなど様々なコンテンツがあります。ただし、この部分は「デジタル教材」という位置づけで検定外になります。現場からは、デジタル教科書と一体的に使いたいと言われています。
デジタル教科書の導入については、現在どのような状況でしょうか。
当初、GIGAスクール構想では、2024年までに児童・生徒に1人1台の端末を配布しネットワークを構築する計画で、デジタル教科書の本格導入も2024年の教科書改訂時に構想されていました。それが、コロナの影響で一気に前倒しになり状況が一変したわけです。
端末の配布とネットワーク環境の整備を受け、2021年度から学習者用デジタル教科書普及促進事業として、小学校5、6年生、中学校全学年の1教科分について国がデジタル教科書を配布する事業を行っています。現状、小中学校の約4割、12,200校が参加しています。このように実証授業がスタートし、来年度もさらに拡充して継続する予定です。
GIGAスクールは7月末現在で、端末は全自治体のうち96%が整備済み。残りは70自治体になりました。また、端末を家に持ち帰っているのは導入校のうち約25%です。
もう1点、文部科学省の検討会議の第1次報告から申し上げると、結論としては2024年度は本格導入ではなく、「本格導入の最初の契機」としていこうということです。
小学校教科書の検定提出が来年の4月なので、いきなり紙からデジタルに本格移行するには議論がまだ不十分だということです。現実的に、制度面でも予算面でも、方向性を定めるエビデンスが足りないので、今、行っている検証事業の成果を待って進めようとなりました。「紙からデジタルへ」という本格的な見直しは、その次の新しい指導要領のスタートとなる2030年度頃に予定される改訂期を目指しましょう、となっています。
この2つのマイルストーン、2024年度と2030年度を切り分けて進んでいかなければならないのだと思います。2024年度までにデジタル教科書の標準的な規格や機能の統一、コード化によるデータ連携、さらにアカウント管理等のあり方の検討を進めようと、現在技術検討会議が立ち上がり、議論が進んでいます。
2022年度から、さらにデジタル化に対応した教科書制度の見直しに向けた調査研究がスタートします。将来、デジタル教科書にも対応した検定と、採択と供給の制度設計の検討が来年度の事業予算に入っており、国もやる気を示しているようです。
ネックはとにかく予算です。教育的には選択肢がある併用制がいいに決まっていますが、教科書は日本において公教育の要であり、無償措置という前提があるため、限られた予算で行われなくてはならない。そこが最大の課題かと思います。
そもそもデジタル教科書導入の意義というのはどういったところでしょうか。
私は、デジタル化することによって、より学びが豊かになると考えています。個別最適な学びを実現でき、何よりも教科書が一方的に知識や考え方を押し付けるような一斉授業だけではなくなる。デジタル化することによって、学びの主体を子供に戻していけるのではないかと思うのです。
授業中、子供たちが先生の話や友だちの正解をずっと聞いて終わりなのではなく、一人ひとりの学びが始まる。そこが大きな転換点であり、意義だと思っています。個別にカスタマイズできることは、特別支援教育にとっても大きな意味があります。
オンライン教育成功のカギ
黒川さんが見たい風景というのが、今おっしゃったようなことですね。よくわかりました。
では次に山上さん、高校で情報教育をされてきた実践のお立場からお話しいただけますでしょうか。
私は兵庫県立三田(さんだ)祥雲館高等学校で情報科の教師をしています。デジタル教科書については小中が先行しており、高等学校は喫緊の課題という捉え方はまだできていない感じです。一方、教科としての情報科は高等学校から始まり、小中にはない教科です。よく混乱が生じているのが、2003年から始まった教科としての「情報科」とは別に進んでいる「教育の情報化」で、これがデジタル教育に一番つながる話かと思います。
本校は、兵庫県で一番新しい、今年創立20周年を迎える若い学校としていくつか先進的な取り組みをしています。例えば、7年前、数学の若手の先生から、反転授業のための予習動画をYouTubeに上げたいという提案があり、それが昨年までに1000本を超えました。コロナの休業期間中も、数学の授業はこれによってだいぶ役に立ちました。それを参考に、英語や理科など他教科も教材を作り始めました。
さらに、これも7年前から、国立情報学研究所が開発しているネットコモンズというCMS(教育学習支援情報システム)を使って日常的に生徒とやり取りをしています。例えば補習の申し込みや連絡事項などをすべて回覧板という形でCMSを使って生徒に送る。新しい情報は生徒にメールで届く。発信者は誰が見ていないかが把握できる。ですので、緊急事態宣言が出て、臨時休業の要請が出た時も、即座にネットコモンズで情報をやり取りできました。
休業期間中のピーク時は1日に100本、200本と投稿がありました。このようなことをやっている県立高校はほとんどなく、他校から「どうやるのか」という問い合わせがありましたが、あの状況で他校に構っている余裕はなく、「日常的にやっていたからできているのであって急にやろうとしても無理です」と突き放していました(笑)。
普段からの取り組みがあってこそということですね。
はい。コロナでオンライン授業やデジタル教材が注目されましたが、コロナ発生の半年前に、教育情報化推進法という法律が国会を通ったのです。だから、遅かれ早かれやらなければいけないことだったのですね。コロナと関係なく、デジタル化が必要な時代なのだということは、もっとアピールしないといけないという気はします。
デジタル教育という言葉が何を指しているのかという点は少し気にかかります。やり取りするデータがデジタルだったらデジタル教育なのだろうけれど、紙ベースのものが形を変えただけでいいのかと。いわゆる「チョーク・アンド・トーク」を双方向に変えるものと言えば、私の高校時代にも語学教材でLL教室とか視聴覚教室を使った授業なども広まっていました。
単にデジタルで使えるものが身近になってきたから使うのではなく、双方向のやり取りが必要であって、教師が提供する情報だけではなく生徒から上がってくるものもデジタル化され、これまでできなかったことができるようになるのだ、と理解されないといけないのではないかと思います。
先ほど全国の教室に大型モニターを導入したという話がありましたが、導入に至る調査報告をまとめるにあたってイギリスの学校を視察しました。体育館、食堂、あらゆる部屋にプロジェクターが吊るしてあるという環境でした。日本の高校には英語の助手として外国人が来られますが、彼ら、彼女らは幼稚園、小学校から情報通信機器に囲まれて学校生活を送っている。しかもそれらは全部日本製だったそうです。
しかし、日本にやってきたら黒板とプリントでやっていた(笑)。プロジェクターを使いたいと言ったら、特別教室の予約をして向こうの校舎の3階まで生徒を連れて行ってとか、パートナーの日本人の先生にいい顔されないのだそうです。そういった変化にどれだけ教師が対応できるのかが求められるのかなという気がします。
テクノロジーがもたらした恩恵
そもそも双方向性を促すところにデジタルの意義があって、それは今に始まったことではなく、昔から様々な工夫はあったというご指摘ですね。
デジタル教育と言った場合、最新のテクノロジーとしてビッグデータやAIなどがネットワークとして全てつながっているのを、道具として教育で使うというイメージがあります。コロナ禍でもデジタル機器を使ったかどうかが一番問題になり、使わない学校が遅れているとさんざん言われました。
デジタル教育はテクノロジーがあるからこそできるとも言えますが、使うほうが意義を自覚しないと、いつの間にか教育論がなくなり、ただ導入すればいいといったことがよく起こりがちです。そのようなことは、専門に近い領域で仕事をしている者は自覚しなければいけないということですね。
中野さんは長らくインクルーシブ教育や特別支援教育にかかわってこられました。ユニバーサルデザインというのも急に始まった話ではなく、以前からある概念です。そこに、今、デジタル化がめざましく進展してきた現状について、どのように捉えていらっしゃいますか。
私はもともと知覚心理学という領域が専門ですが、大学院を出た後に国立特別支援教育総合研究所に就職したため、障がいのある子供たちの教育環境の改善のための研究に長年、取り組んできました。例えば、全盲の子供たちにとって、通常の文字で書かれた紙の教科書は全く読めないわけです。ですので、どうやって点字や音声に変換してアクセスできるようにするか、図表等をどのように代替していくかなどを考えなくてはいけません。
私が研究所に就職した1988年頃は、ちょうどパソコンが注目され始めた頃で、パソコンを活用して障がい者の学習を支援する方法が模索されていた時代でした。特別支援教育では、視覚障がいに限らず、様々な障がいを補うためのテクノロジーはものすごく重要で、最先端のテクノロジーを導入することが行われ続けてきました。
例えば、1979年にNECがPC8000シリーズを販売した翌年には、ブレイルマスターという点字の入力・編集・印刷・OCRなどが可能なワークステーションが開発され、全国の盲学校に配布されました。このようにかなり早い段階から特別支援教育はテクノロジーを活用してきました。というのは、教科書を始め、様々な教材等に自由にアクセスできなかったため、テクノロジーに頼らざるを得なかったのです。
現在、それはどのように変化してきたのでしょうか。
以前は、テクノロジーを駆使して、紙のコンテンツにどうアクセスするかが問題になっていました。しかし、近年、コンテンツ自体がデジタル化されたため、情報へのアクセスがしやすくなりました。
また、今までは、コンピュータで教科書等にアクセスするためには複雑な手順を覚える必要があったため、その恩恵を受けることができるのは、一部の子供たちに限られていました。しかし、タブレットが登場し、コンテンツがデジタル化されたことで、教科書等にアクセスできる子供たちの数がぐんと増えました。
先ほど黒川さんからお話があったように、少なくとも学習者用デジタル教科書に関しては、特別支援機能が付いているので、万全ではなくとも教科書にアクセスできる子供たちが増えました。ただし、アクセスできただけでは当然、不十分です。コンテンツにアクセスして得た情報をどう活用していくかという情報活用能力が重要になります。
最近、大学に進学する障がいのある学生が増えてきています。障がいのある学生たちが在学中にテクノロジーを使いこなし、社会参加できるようにしていくためには、高校までの段階で、テクノロジーの使い方に加えて、情報活用能力を習得できるようにすることが重要です。
パラリンピックの閉会式のフランスのプレゼンテーションでは、視線入力装置を使って作曲し、指揮をしている場面が放送されていました。日本にも同様の技術はあるのですが、これらの技術を日常的に使いこなして生活している人はまだそれほど多くない。しかし、日常生活の中で使いこなせないとデジタル化の意味がないと思います。私は、教科書だけでなく、生活全般の中でテクノロジーを使いこなす力を育てることが大切だと思っています。
黒川さんには、学習者用デジタル教科書の特別支援機能についていろいろ注文をさせていただきましたが、それが今実現されつつあり、とても有り難く思っています。最初から障がいのある子供も利用することを想定して制作された教科書は、今回の学習者用デジタル教科書が初めてです。最初に文部省で点字の教科書が作られたのは1929年ですが、その後、2008年までの長い間、点字以外のアクセシブルな教科書はほとんど制作されてきませんでした。そのため、学習者用デジタル教科書の制作において、最初から障がいのある子供たちを想定していただいたことはとても価値があることだと思います。
まさに障がいのある子供に向けては代替としてのテクノロジーの開発が重要で、そういうことが学習者用デジタル教科書で実を結びつつあることは画期的ということですね。
おそらく世の中の考え方も変わってきていて、障がいのある子供に対して、特殊教育という位置づけからインクルーシブ教育に変わったことで、ずいぶん発想自体が変わったのだろうなと思います。
オンラインで同じ空気が吸えるか?
ここで、2つのことを申し上げたいと思います。
1つは、今、中野さんがおっしゃった活用能力のことですが、これは能力の保証の問題ではなく、能力の開発が教育の目的そのものになるということです。障がいの有無に関係なく、情報の活用能力が求められるということは、すべての子供たちに対して、自分で自分をコントロールして、目的は何かを意識化しながら自分の学習プロセスを調整していく能力が求められる。
その力が不十分だと家庭学習に格差が生まれてくる。学校は皆が集まっているので、つられて勉強するという教育効果も実は生んでいます。一方オンライン教育というのは家庭環境の違いによってすごい格差が生まれる可能性があるわけです。
そこで問われているのは情報活用能力、自己調整の力があるかどうかです。しかし、その力を育てることについてはあまり議論されずに、結局は家庭に丸投げされて、家庭環境の格差にさらに拍車をかけていることが大きな問題としてあるのではないか。
もう1つ、オンラインと対面のハイブリッドはこれから進んでいくと思います。これは大学教育もそうです。コロナ以前からデジタルテクノロジーは対面授業においても使われていました。しかし、反転授業でタブレットを持って帰り、家で予習・課題をやってきなさいとなると、まさに物理空間的な意味での障壁が生まれて、その択一性が子どもたちの学びや成長に大きな影響を及ぼすことになるはずです。
そうなると、対面での授業の捉え直しがやはり必要だと思うのです。つまり、デジタル教育と対面教育がどのように重なり、どのように違っているのかについて、きちんと考えなければいけないと思うのです。
対面教育が大事なのは、同じ空気を吸って、五感や肌感覚で感じられるからです。デジタルの情報のやり取りだけで十分な学習や発達を保証できるわけではなく、人間の持ち味は、まさに五感を通して学ぶ点にあるはずです。
このような視点からデジタル教育というのはどう捉え直したらいいのでしょうか。
オンラインで同じ空気が吸えるのか、という話ですが、CMSを使った情報発信は、最初は学校から生徒に情報を出すだけだったのが、各学年の工夫で、生徒からも何かメッセージを出せるようにということで、質問の箱を用意し、授業や自習で分からないことの質問を受け付けたんです。
それに教師が答えていたんですが、予想外のことが起きました。生徒の質問に生徒が答え始めたんですね。驚きましたが、雰囲気を上手くつくればオンラインでもそういったやり取りが生じる場合があるのですね。
もう1つ、個人的に50分の授業を45分で終え、最後の5分はオンラインでその授業の授業評価をやっていたことがあります。するととてもよい指摘が来て、6クラスの授業の3クラス目ぐらいでちょっと言い方を変えたほうがいいかな、と僕の授業が変わっていくのです。
そうやって終わりのほうのクラスでは改善されたり、フィードバックができる。1人1台デバイスを持って、普通教室でもネットにつながるのであれば、他の授業でも利用でき、様々な可能性があるかなと考えています。
なるほど。テクノロジーに触発されて、今までなかったようなコミュニケーションが生まれるという効果は確かにありますよね。よくZoomの授業だと質問がチャットなどによく書かれるようになったという話は大学教育で話題になります。
カスタマイズの必要性
「同じ空気が吸えるか」ということを特別支援教育の観点で考えると、障がいのある子供たちは今まで同じ教室にいながら同じ空気を吸えていなかったと言えます。どういうことかと言うと、同じ場にいながら同じ情報が伝わっていなかったのです。ところが今、オンラインになり、すべての子供たちの情報環境が等しく低下し、差が縮まったのではないかと思います。
例えば、対面の授業の際には、視覚障がいの学生だけ、相手の表情が読めませんでした。ところがオンラインで顔を表示せずに授業を受けるようになると、皆、相手の表情が読めないわけです。その結果、視覚障がい者も同じ空気が吸えるようになったわけです。
これは、皆に障害者の苦労を知って欲しいという意味ではありません。オンラインで同じ空気を吸えるように工夫をしていくと、もしかしたら対面でも障がいの有無にかかわらず、同じ空気が吸える状況が作れるのではないかということなのです。
障がいの種類にもよるのかもしれませんが、オンラインだと孤立化してしまい、対面のほうが適応できたという場合はないのですか。
それはあります。対面だと柔軟な対応ができ、先生にすぐ話ができるのはいいところです。その意味ではオンラインと対面のいいところを個人に合わせて上手く組み合わせていく、まさにカスタマイズが必要だと思うのです。今回のことをきっかけにそういう体制が整えられるとすごくいいし、何が共有されていたのかをあらためて考えるきっかけになると思います。
また、家庭学習と能力格差の話ですが、家庭学習で僕が気になる点は、GIGAスクール端末はどこへでも持ち歩くことができないと意味がないということです。障がいのある子供たちに対して、毎年、デジタル教科書・教材の利用実態調査しているのですが、小中高いずれでも、家庭では、学校と比べて、デジタルを使っている割合が高いんです。
その理由は、おそらくデジタルのほうがアクセスしやすいからだと思うんです。そのため、家庭学習における格差をなくすためには、どの家庭でも必ず端末やネットワークがあるような環境整備が必要不可欠だと思います。端末は自由に持ち歩けなかったら意味がないというのは、学びの連続性や主体的な学びという観点からも、学校の中だけで学びが止まるような環境整備は絶対に避けるべきだと思います。
カスタマイズという言葉が出てきました。学校空間だけを別物と捉えない発想の転換が必要ですよね。
そうですね。多様な学びの場を考える必要があると思います。なお、実態調査を実施していて面白いと思うのは、デジタルが便利だと言っている子供たちの半数が、紙も必要だと回答している点です。子供たちは、紙の便利なところと、デジタルの便利なところを知っていて、上手く使い分けているのだと思います。私は2014年から毎年調査しているのですが、紙とデジタルの使い分けの実態はほとんど変わらないです。
「学びの場」の拡大
黒川さんはいかがですか。
紙とデジタル両方必要だと皆さん、言いますね。それは現場の率直なご意見です。ただ、昨年3月に一斉休校になりましたが、その時の問い合わせの対応はすごく大変でした。海外の日本人学校など世界中から教科書が届かない、指導書が届かない、デジタル教科書をすぐに売ってくれと。日本国内でもそういう地域もあり、そこで一気に教材等のデジタル化が進み、オンラインでやろうという流れが加速したことは事実です。
対面とオンラインのハイブリッドで授業を進めながら、次第にオンライン授業の中で先生と子供や子供同士など、いろいろな組み合わせの対話が生じるようになった事例も多く聞いています。マイクロソフトのTeamsとか、GoogleのClassroomなどのコミュニケーションツールを使ってやり取りを頻繁にやるようになった学校は、非常に議論が盛り上がるケースもあり、そこに可能性を見た先生が結構いたようです。
各自がデジタル教科書に書き込んだ内容を画像としてアップロードして共有すると、子供たちがコメント欄で、その意見に対するやり取りが発生していきます。例えば、国語だったら教材の読解のネタで議論が白熱するようなことが頻繁に起こった。皆、やり取りしたくて授業の時間がいくらあっても足りない。だから端末を持ち帰って家で続きができるという環境はすごく有り難かったという意見を数多く聞いています。
また、学びに困難を抱えた子供たちに関して言うと、デジタル教科書だととにかく自由に書き込めることが大きい。普段の授業で、この子は意見を持っていないのかなと思っていたら、すごく書き込みがあってびっくりしたという意見がありました。その先生は、今まで30人中上位10人ぐらいの子供たちで授業を回して、普通に授業ができていると錯覚していたのだけれど、デジタル教科書が入って30人が同時に動くようになったようだと言われていました。
デジタルによるいろいろな可能性が見えますね。学校だけで学ぶのではなくて、学校という空間の限定を超えて学びの場、環境がもっと広がってくるということなのでしょうね。
「学びの場」の拡大はとても大切だと思います。同時に、情報活用能力を身に付けるためには、教科書だけを考えていたのでは不十分だという点も指摘したいと思います。つまり、教科書以外の補助教材や学習参考書などもデジタル化していく必要があるし、学習到達度の評価にもデジタルを導入する必要があると思います。
例えば、私の研究室で開発した教科書・教材閲覧アプリ「UDブラウザ」という障がいのある子供たちに好評なアプリがあります。このアプリ、最初は教科書閲覧用として作ったのですが、子供たちから、教科書だけでなく、授業中に配布される先生方の自作教材やテストでも使いたいという声が出てきました。そこで、自作教材も閲覧できるようにしたり、大学入学共通テストにも活用できるセキュリティ機能を搭載した試験モードを開発した経緯があります。このように、様々な空間や場面で活用することを通して、情報活用能力が育っていくのではないかと思います。
自己調整のスキルとカスタマイズの工夫
今、デジタル教育で光が当たっている部分は言語表現だと思うのです。しかし、例えば音楽や体育、美術などの身体表現などはテクノロジーだけでは教育できないところもある。デジタル思考ではないところで人間の文化が今まで持ってきたものだし、教育的にも人間形成上重要な領域で、これはまさに五感や肌感覚みたいなところにつながる大事な体験なのだと思うのです。その部分にあまり光が当たらなくなってしまっているのではないか。
さらに、デジタルに興味を持っている子はいいですが、どうでもいいやと思っている子が放ったらかしになる可能性があって、自己調整能力が低い子については、情報活用能力以前のところが僕は心配なのです。
もちろん理想的な部分については、私も共感するところばかりですが、一方で、そのあたりのことをどうしたらいいのでしょうか。
僕は生徒に突き放す言い方をする冷たい教師なのですが、よく冗談半分で「『私アナログ人間やから』と言うのを聞いてどう思う?」と聞くことがあります。それを言って何を許されようと思っているのだろうと。やろうとしたけど苦手でできないと言っているのか、最初からやる気がないのか。「今の時代それではあかんぞ」とよく話します。
基本的に授業の中で全員に触らせるので、ハードルは下げているのですが、そこを乗り越えたらこんなに便利だよ、ということをやはり見せてあげないと、しんどい目だけをさせたらやはりつらいのでしょうね。ハードルが高くなくて結構便利なことが身に付くよ、と大げさに伝えることで「あ、面白い」という部分は伝えたいと思っています。
経済的な事情がある生徒は、もちろん把握しているので、そこは学校全体のフォローや県に相談する形で、気付いたところはサポートしているつもりです。
反転授業ということで先ほど山上さんの学校ではストリーミングのコンテンツもつくられていると言われていました。あれもやはり受ける側は自己調整のスキルが必要ですよね。
ストリーミングの教材を作るという話が出た時に、提案をしてきた若い先生にお願いしたのは、1つは授業の1週間前には必ず上げてください、家で見られない子が放課後に学校で見ますから、ということです。
それと、映像は10分以内、8分ぐらいにしてくれと。必ず次の授業のさわりだけにして、それでわからないことを持ち寄ることにし、長いのはやめましょう、とお願いしました。
そこはやはり工夫ですよね。反転授業的にストリーミングを使うことは初等・中等教育でもかなり効果的と言われています。ただそれは前提があって、宿題として必ず見てくること。そうであれば、対面とのハイブリッドで効果を発揮するということですよね。だから最後まで注意が持続するという工夫が教材作りは問われますね。
ストリーミングの話は、私自身も、大学の授業で使っていますし、苦労しているのでよく考えます。他の教員と比較してみると、コンテンツを制作する際にどんな工夫をしているかが重要で、教員によって格差が生じていると思います。
ストリーミングであっても、学生とのインタラクションを意識しないと失敗します。例えば、リアクションペーパーを通して学生たちの反応や理解度を確認し、次のストリーミングに反映させるという方法を使うと、好評ですね。でも、結局通常の対面の授業よりも何倍も時間を取られてしまうので、そこに労力をかけるか、かけないかで差が生じてしまう可能性があるため、注意が必要ですね。
カスタマイズをきめ細かにしていくのが生身のわれわれ教師の役割なのかもしれませんね。
iPadにKahoot!というクイズ形式で学習するアプリがあります。オーストラリアに生徒を連れて行って複数の高校を訪問した時、授業の頭にアイスブレークとしてどの学校もそれを使っている。面白かったので日本に帰ったら使ってみようと思い、他の先生にも紹介しました。
ところが、日本の先生の真面目さというか、他人が作った教材をそのまま使うことに抵抗があるのですね。ほぼ同じものがあるのに自分なりにアレンジしたり、自分が作ったものも気恥ずかしいのか他人に提供しないのです。オーストラリアの先生は、誰が作ったかわからないものを皆使っている。デジタル化の場合、そういうものを割り切って使う必要があるのではないかと思います。
教師のメンタリティですね。でもそのこだわりが日本の先生の優秀さでもあります。
鹿毛先生が心配された、デジタルに偏り過ぎるという部分ですが、あえて僕はデジタルの仕事をしてみて思うのは、今の学校現場は相変わらずデジタルに傾くことは少ないのが現状だと思います。デジタル教育、オンライン教育の方法が教育現場であまりなじまないところがありますが、学習の内容・目的と、それをどういう方法で進めていくのか、をきちんと切り分けないといけないのかなと思います。
「紙か、デジタルか」と昔から言われていますが、「紙」に引っ掛けて神学論争はやめましょうといつも冗談交じりに言っています。紙が伝えるものと、パソコンなどの画像を通して伝えるものは、マクルーハンが「The medium is the message.」と言ったように、伝えているものが同じでも、伝達方法が異なると違うものが伝わってくる。ここを教育の中に上手く生かしていく必要があると思っています。
問われる新たな学習様式の確立
今日はいろいろとキーワードが出てきました。1つはカスタマイズです。これは多様な子供たち、障がいのあるなしを超えて一人一人に対応することで、デジタルかアナログかということも、そもそもあるのではなく、開発するものでもあるわけです。
もう1つはハイブリッドという言葉です。これは僕の理解だと「いいとこ取り」ということにつながるはずなのです。単に両方やるということではなく、それぞれの良さは何かを見極めた上で、それを使い分けたり、合わせたりすることだと思います。
そうするとそこには、黒川さんがおっしゃったような、教育の目的、内容、方法によって取捨選択するという判断が必要です。教師や関係者が教育の目的や内容を自覚しないままテクノロジーを使えば、結局は騒いで終わりで何も変わらないとなりかねない。
そもそも「学ぶ」ということはどういうことなのか。国のほうからは学習の個性化という話もありますが、学習論、あるいは教育論としてこの問題にどう向き合ったらいいのか。未来の教室、未来の教育をどう描くのか。今後10年ぐらいでデジタル教育の中での学びとどう向き合い、何を目指していくのかを考えてみたいのですが。
課題はたくさんあって、たとえて言うなら自転車に乗るには自転車がないと乗れないからと整備してきたわけですが、GIGAスクール構想のような政策は10年に1回のイベント的な政策なので、ちょっと皮肉っぽく言うと、次はないのです。
この後をどうするのかという大変な問題が待っているのですが、いまだに文科省から明確な答えが出ていない。自治体が自ら準備したり、各家庭の協力でBYOD(Bring Your Own Device)にしたりすることもそんなに簡単ではないわけです。そこに大きな地域格差が生まれる可能性があります。
それとは全く別の話になりますが、私は、パラダイムチェンジは3つの要因、すなわち技術と制度と文化が三位一体で変わることで大きく変革していくのではないかと思っています。「技術」は1人1台端末やクラウドの配信、ビッグデータの活用など。「制度」は教科書検定制度が変わったり、関連法が改正されたり、予算配分が変わったりすることです。
問題は「文化」です。コロナ以降、新たな生活様式と言われますが、同時に文化としての新たな学習様式の確立が問われています。現場では切実に、個別最適な学習とは何か、家庭学習やオンライン学習をどうすべきか、学習ツールをどう活用するのか、問われています。よく教育DXと言われますが、技術や制度だけではなく基盤にある文化が変わっていかないとどうにもならないので、意識改革が迫られていると感じています。
私はコロナで時計の針が逆戻りしたと実は思っているのです。Zoomで授業をすればいいということになり、双方向性ではなく、一方通行で、主体的な学びから逆行するようなことさえ起こっている。テクノロジーが遠隔を支えているということで皆、満足しているように見えるのです。
意識というか文化が変わらないことには、結局教師も子供たちも、あるいは教育研究者もテクノロジーに振り回されるだけで何も変わらない可能性もあると思います。
教科の面白さを伝えるには
去年の4月、休業になってしまいましたが、本当は小学校、中学校でプログラミングを教えることが始まるはずでした。それが6月の学校再開の時に、算数、国語、理科などの遅れをどうしようという話題が沸き上がっても、プログラミングの話はうやむやになった学校が多かったようです。
デジタルと紙のハイブリッドで「いいとこ取り」というのはまさにそうで、われわれ教師は何を目指しているかと言ったら、教科の面白さを伝えたいわけです。教科書の内容よりも面白さを伝えたいといつも思っています。
今、小学校の教科の専任制が出てきていますが大賛成です。高校時代に数学から逃げ回っていた教師が小学校で算数を教えて面白さを伝えられるのか。別に小学生に微分、積分を教えるわけではないけれど、この先こんなに面白いことが待っているんだよ、という迫り方がやはり違うと思うのです。デジタルのいいところ、紙のいいところを使って面白さに迫ることがわれわれの仕事かなと思います。そこは道具としてどちらも上手く使っていきたいと思います。
その通りですよね。こういうテクノロジーを使うと、生徒がワクワクして学んでくれるのではないかといった予想を持てる人でないと、結局、人に言われたことを実行するだけになってしまう可能性もある。
教科の面白さを伝えられるかどうかは、とても本質的な話だと思います。特別支援教育では、子供たちの障害の種類や程度、発達段階や能力等が多様であるため、教科学習においても、個に応じた様々なカスタマイズが必要不可欠です。例えば、視覚障がいのある子供たちには、写真や絵の代わりに実物や剥製を触らせたり、知的障がいのある子供たちには、買い物や接客等の生活に根ざした具体的な活動や課題を設定して学ぶことができるようにする等の工夫をしています。
東京大学の梅津八三先生と一緒に盲ろう児の指導をされた志村太喜弥先生から、代数の問題を解くのが大好きだったという盲ろう児のお話を聞いたことがあります。この方は、学校を卒業した後も、問題を解くことを楽しまれたそうです。先生は問題を点字や指文字に変換するだけでなく、数学の問題を解く楽しさを伝えてくださった。それが卒業後も続いているのは素晴らしい話だと思います。
これらの取り組みが教育におけるカスタマイズの本質だと思います。したがって、テクノロジーを活用する際にも、単なる代替に使うのではなく、自己決定、自己選択する道具として使いこなせるような指導をしていくことが重要だと思います。
現在、特別支援教育では、基礎的環境整備や合理的配慮がキーワードになっています。テクノロジーが、基礎的環境整備や合理的配慮を実現する道具として活用されることで、公平な環境に少しでも実現できると良いと思います。
ソサエティー5.0は、テクノロジーを使うことでノーマライゼーションを実現する社会となるべきだと思っています。障がいのある人を含め、すべての人が公平に恩恵を受けられるような共生社会を、テクノロジーを活用して作っていく。デジタル教科書は、デジタルで実現する共生社会の第一歩だと認識しています。
面白さを体験することは本当に一生ものですよね。アインシュタインが学校で学んだことを全て忘れた後に残っているものこそ教育の成果だと言いましたが、まさにそれですよね。
人の可能性を広げる「デジタル化」へ
私は長年日本の教育を支えてきた、教科書と黒板とノートの三種の神器が、このデジタル化によって少し変わっていくことを期待しています。教科書は国税で作っていて、公教育の要と言われている。しかし、これを子供たち自身がいろいろと試行錯誤して、順序を入れ換えたり、交換したりできる素材として扱えるようになったら、これは面白いだろうな、という思いがあるのです。
自分はもともと編集者ですから、例えば国語だったら、卒業する時にこれまで学んできたことが編集され、構築されて1冊の本にできたらとても面白いと思い、そんな学びができたらいいなという願いがある。デジタル教科書は、そういう1歩にもなり得るのかなと思うところもあります。
もう1つ、昔から私は生活科や総合的な学習の時間が専門だったのですが、そこで学んだことは、「何からでも、どこからでも、誰からでも学べる」という態度を育てることでした。本からもデジタルからも学ぶ。先生や友だちの話からも学ぶ。もちろん自然や社会からも学ぶことができる。本来、学びとはそういうものだろうと思っています。その中でデジタル教科書・教材のあるべき活用をいつも意識していきたい。アクセシビリティという問題もそこにつながるのかなと思っています。
私がデジタル教育について感じていることは、やっている人とやってない人の差をどう埋めるかということです。
例えば体育の先生が遅延再生するアプリで、自分の演技を遅延再生で見せながら説明するということは20年前からできることです。でも、効果は確実にあるのにやっている人とやってない人がいる。あの人はすごいからいいな、よい機材があっていいなで終わらないように、いろいろな人が関心を持って、これまでできなかったことができる可能性をいろいろな人に広げていきたいと思っています。
私はデジタルが同じような人を作り出すツールになってほしくないと強く思っています。そうではなく、むしろ個性が強調できるツールになってほしいと思うし、それは子供だけでなく教員にとってもそうだと思うのです。
私が少し危惧しているのは、デジタル教科書の中に教材機能がたくさん入ってくると、それだけで教育がある種完結しまうようになり、個々の教員の個性が出てこなくなるのではということです。インタラクションの中で子供たちの学びが生まれてくると思うので、そういう意味で個性を強調するツールをぜひ作っていっていただきたい。
デジタル教材の中には、教員がいなくてもある一定レベルの学力が身に付くようなツールを目指して開発されているものもありますが、日本のデジタル教科書はそうなってほしくない。日本は教科書そのものがすごく工夫されていて、教員によって何通りもの教え方ができるように作られていると思います。これまで紙の教科書で工夫されてきたのと同じように、デジタルになっても多様な教え方ができるようなツールになるといいなと思っています。
今日のお話はとても刺激的で、新しい発見もありました。行き着く先は、教育のあり方、学びのあり方、あるいは人の成長のあり方をどう考えるかということなのだと思います。そうでなければ、デジタル教育というのは結局は絵に描いた餅だったり、あるいはお金を使うだけで、結局は混乱させて終わったりということになりかねないと思うのです。
便利な道具が入ってくることによって、その使い方というわれわれの知恵が問われることになる。その知恵というのは見識だと思うのです。教育とは何かとか、人が学ぶとはどういうことなのかという原理的な考え方です。われわれはこういう問題意識を共有しなければいけないですよね。
最後に中野さんがおっしゃったことはその通りだなと思いました。テクノロジーが個性や多様性を奪ってはいけない。実はそうなりかねないですよね。今までの教育が大事にしてきた通り、一人一人がよりよく育っていくためのプロセスとして学びがある。一人一人の学習者の個性が育まれていくのと同時に、教師もそこで自分の個性を発揮するような手立てとしてテクノロジーを使ったほうがいい。まさにデジタル教育の未来はそういうところに焦点化された先に開かれていくのではないかと思いました。
本日は大変有り難うございました。
(2021年9月9日、オンラインにより収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。