慶應義塾

【特集:歴史にみる感染症】座談会:文学に現れる感染症

登場者プロフィール

  • 小川 公代(おがわ きみよ)

    上智大学外国語学部英語学科教授

    ケンブリッジ大学政治社会学部卒業、同大学院修了。大阪大学大学院文学研究科修了。グラスゴー大学文学部にてPh.D.(英文学)取得。専門はイギリスを中心とする近代小説、医学史。 編著書に『文学とアダプテーション――ヨーロッパの文化的変容』(共編著)等。

    小川 公代(おがわ きみよ)

    上智大学外国語学部英語学科教授

    ケンブリッジ大学政治社会学部卒業、同大学院修了。大阪大学大学院文学研究科修了。グラスゴー大学文学部にてPh.D.(英文学)取得。専門はイギリスを中心とする近代小説、医学史。 編著書に『文学とアダプテーション――ヨーロッパの文化的変容』(共編著)等。

  • 小倉 孝誠(おぐら こうせい)

    文学部 仏文学専攻教授

    1978年京都大学文学部卒業。87年パリ・ソルボンヌ大学にて博士号取得。88年東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。東京都立大学助教授を経て2003年より現職。専門は19世紀フランス小説、フランス文化史。著書に『身体の文化史』『ゾラと近代フランス』等。

    小倉 孝誠(おぐら こうせい)

    文学部 仏文学専攻教授

    1978年京都大学文学部卒業。87年パリ・ソルボンヌ大学にて博士号取得。88年東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。東京都立大学助教授を経て2003年より現職。専門は19世紀フランス小説、フランス文化史。著書に『身体の文化史』『ゾラと近代フランス』等。

  • ピーター・バナード(Peter Bernard)

    文学部 英米文学専攻助教

    アメリカ・マサチューセッツ州生まれ。ハーバード大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。専門は日本近代文学、比較幻想文学論。2020年より現職。訳書にA Bird of a Different Feather: A Picture Book(泉鏡花著・中川学画)。

    ピーター・バナード(Peter Bernard)

    文学部 英米文学専攻助教

    アメリカ・マサチューセッツ州生まれ。ハーバード大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。専門は日本近代文学、比較幻想文学論。2020年より現職。訳書にA Bird of a Different Feather: A Picture Book(泉鏡花著・中川学画)。

  • 巽 孝之(司会)(たつみ たかゆき)

    文学部 英米文学専攻教授

    1978年上智大学文学部英文学科卒業。87年コーネル大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。98年より現職。専門はアメリカ文学、批評理論。日本アメリカ文学会長等を歴任。著書に『ニュー・アメリカニズム 増補決定版』『パラノイドの帝国』、Full Metal Apache等。

    巽 孝之(司会)(たつみ たかゆき)

    文学部 英米文学専攻教授

    1978年上智大学文学部英文学科卒業。87年コーネル大学大学院博士課程修了(Ph.D.)。98年より現職。専門はアメリカ文学、批評理論。日本アメリカ文学会長等を歴任。著書に『ニュー・アメリカニズム 増補決定版』『パラノイドの帝国』、Full Metal Apache等。

2020/11/05

『聖書』からアンドロメダ病原体まで

本日は「文学に現れる感染症」をめぐる座談会を行うにあたり、まずは私が作成しました「感染症文学年表.pdf」を叩き台に、その大枠をスケッチしてみたいと思います。

時期的に最も古いのは言うまでもなく『聖書』。我が国では『源氏物語』ですが、最も新しいのはマイクル・クライトンの有名な『アンドロメダ病原体』の続編で、クライトン没後にダニエル・ウィルソンが書いた『変異(The Andromeda Evolution)』ということになります。

『源氏物語』には当時の「おこり」(マラリア)がよく出てくるんですね。『平家物語』の平清盛もマラリアで亡くなったと言われている。

一方、クライトン&ウィルソンになると、1969年の正編の方は宇宙から来た病原体が蔓延した結果、全面核戦争の可能性を醸し出すという怖い話ですが、続編は、逆に人類がアンドロメダ病原体を利用するという、たくましい発想になっています。

時代順に見ていくと、英文学ではまずは言うまでもなくチョーサーの『カンタベリー物語』。29人の巡礼者が一人一人、順にしゃべっていく語りの形式自体は、ボッカチオの『デカメロン』を踏襲したと言われていますが、それだけではなくて、ペスト(黒死病)が扱われていることでも通底している。

そして、ペストそのものがテーマになるのが、17世紀後半のロンドンのペスト大流行を描いた、ダニエル・デフォーの『ペストの記憶』。『ペストの記憶』という邦題は、最近の武田将明さんの新訳で、以前の平井正穂訳は、ずばりカミュと同じ『ペスト』でした。

アメリカ文学だと、チャールズ・ブロックデン・ブラウンのゴシック・ロマンス、『アーサー・マーヴィン』が1793年のフィラデルフィアのイエローフィーバー(黄熱病)を扱った作品。これがたぶん小説の形ではアメリカ文学史上、初の感染症文学ではないでしょうか。

ポーは、新潮文庫の拙訳ではあえて「赤き死の仮面」(『黒猫・アッシャー家の崩壊』所収)としていますが、他では「赤死病の仮面」の訳題が多い。赤死病(Red Death)というのは、黒死病(Black Death)、つまりペストのパロディとしてポーがつくり出した架空の伝染病ですね。その病気が蔓延しているのを避けてプロスペローという王様が自分の城を完全に密閉して仮面舞踏会を開くんですが、なぜか疫病の権化が忍び込んでしまうという話です。

結核文学は数多あって、スーザン・ソンタグも『隠喩としての病』で強調していますが、ロマン派と結核というのは非常に相性がよかった。『ラ・ボエーム』もその中に入るでしょう。トーマス・マンの『魔の山』もサナトリウムが舞台の結核文学。日本の『女工哀史』『風立ちぬ』もそうですね。

そしてメルヴィルの『白鯨』。この小説は捕鯨の話なので、感染症と関係ないと思われるかもしれませんが、何と捕鯨船が疫病に襲われるエピソードがさし挟まれています。

ジャック・ロンドン作品は、邦訳は『赤死病』なのでポーへのオマージュみたいですが、原題はThe Scarlet Plague。ただし訳すと同じ『赤死病』になってしまうのが面白い。ジャック・ロンドンはいわゆる生物兵器としての病を蔓延させる物語を他にも書いていて、一種のSFのはしりとも言える。そして1947年にカミュの『ペスト』が来る。

もう1つ、『聖書』以来、古今東西の文学が描いてきたのがハンセン病ですね。日本では松本清張の『砂の器』や遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』『死海のほとり』がすぐに思い浮かぶでしょう。

そして米ソ冷戦の渦中、1962年のキューバ危機で核戦争勃発の恐怖が感じられるようになった不穏な空気の中で、小松左京が『復活の日』を書く。

文学の中で感染症の扱いは、どちらかというと一種の脇役という感じだったのが、20世紀になってくると、病を主役にした文学が増えてくる。ソンタグの言っている「隠喩としての病」のリアリティが増してくるんです。

そして1980年代には、エイズが登場する。エルヴェ・ギベール『僕の命を救ってくれなかった友へ』は当時不治の病であったエイズに罹患した著者の自伝的物語ですが、ミシェル・フーコーとも交友があった。フーコーもエイズで亡くなっていますが、ギベールもこれを書いた直後に亡くなっています。エイズについては演劇作品『エンジェルス・イン・アメリカ』や、映画『ボヘミアン・ラプソディ』も忘れられません。

1990年に2つ、これは傑作短編と言っていいSFが出てきます。1つがパット・マーフィの『ロマンティック・ラヴ撲滅記(The Eradication of Romantic Love)』。これはロマンティック・ラヴ自体が感染症であるのだからそれを撲滅しなくてはいけないというSFです。

もう1つがJ・G・バラードの『戦争熱(War Fever)』。戦争をしたがるのも、政治の問題ではなくて、実は感染症ではないか、ではそれを予防するにはどうするかという策略の顚末が語られます。たぶん伊藤計劃の長編小説『虐殺器官』の発想源でしょう。米ソ冷戦が終結を迎える時期にこういう2つの小説が書かれているというのは非常に象徴的ですね。

ラテンアメリカでは世紀転換期を舞台にしたガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』(1985)も見逃せません。

私からはとりあえずこんなところなので、小倉さんにバトンタッチいたしましょう。

19世紀フランスのコレラ流行

小倉

フランス文学について言うと、文学に描かれた特権的な病ということになると、やはり19世紀以降になるだろうと思います。

病の歴史を考えてみると、ペストはヨーロッパでは18世紀でほぼ終焉する。ですから、日本でもコロナ流行後、非常に読まれているカミュの『ペスト』は20世紀半ばのアルジェリアのオランが舞台なので、実はペストという病に対する恐怖という意味では現実性はほとんどない話なのです。

カミュの意図では、あの「ペスト」とは文字通り隠喩であり寓意であり、端的にナチズムのことだった。彼自身、ある手紙の中でそう明言しています。戦後すぐに発表された作品ですから、同時代に読んだフランスの読者は、これはペストの話ではなく、ペストに象徴されるいろいろな意味での悪、それを凝縮した形でのナチズムの寓意として読んだはずなのです。

ただ現代の日本の読者は、それを文字通り一種の感染症の文学として読んでいるのでしょうし、それはそれで正しい読み方です。カミュの描写が疫学的にどこまで正しいかはともかくとして、今回のコロナのように、すぐに撲滅できない感染症が1つの都市に蔓延してしまうという話です。オランという町が文字通り封鎖され、外部との接触を完全に断たれてしまう。そうした極限的な状況を物語の中につくり出すために、ペストという病は実に有効に機能している。

同時代には人間が対処できない謎の病、まさに中世のペストや現在のコロナもそうですが、それは非常に不安や恐怖をあおる原因になっているわけです。そのような状況と重ね合わされて、カミュの『ペスト』がよく読まれていることは、とてもよく分かります。

さて、フランス文学の中で特権的な感染症を古いほうから言うと、まずコレラです。フランス、特にパリを中心にして、19世紀に何度かコレラが流行しています。一番大きかったのが1832年のコレラ流行。この時、パリだけで2万人近くが死んだと言われる。当時のパリの人口が6、70万人ですからすごい割合です。

そうしたコレラを背景にして書かれた文学は2種類あります。1つは実際にその時にパリにいた作家による回想録です。1人はシャトーブリアン(『墓の彼方の回想』)、それから女性作家のジョルジュ・サンド。ジョルジュ・サンドには『わが生涯の歴史』という非常に長い自叙伝があります。2人とも1832年にパリにいました。

ではそのコレラが起こった時に何が生じたか。コレラ菌が見つかるのは19世紀末ですから、当時のコレラは謎の病で、もちろん対処のしようもありません。そうした謎の病を前にして住民たちはなすすべもなくバタバタ死んでいく。しかも死んだ後にろくに埋葬もされません。中世のペストと同じで、身内だろうが、友人だろうが、死んだ人の葬儀にほとんど誰も付き添うこともない。

これは、まさに今のコロナと似ているのですが、コレラは人々の接触を断ってしまうわけです。人々が出会うこと、触れることすら許されなくなってしまう。そうして街全体が隔離状態になり、接触が断たれて非常に孤独になる。シャトーブリアンもジョルジュ・サンドも、「コレラで死んだ人間は孤独だ。墓に付き添っていく人すらいない」と書いています。

そして、もう1人、大衆文学を代表するウージェーヌ・シューという作家が『さまよえるユダヤ人』という小説を書きました。これはユダヤ人一家をイエズス会が迫害するという、波瀾万丈の物語ですが、イエズス会がユダヤ人一家を迫害するときに、1832年のコレラを意図的に使う。言ってみれば、今で言う細菌兵器みたいな形です。

この小説の中ではイエズス会が非常に腹黒い連中の集団として書かれている。この時代、フランスでもイエズス会に対する偏見がかなり強かったのですが、イエズス会が陰でコソコソ、ユダヤ人を迫害するという物語の1つの装置として、この謎の病であるコレラを利用するという作品です。

結核とエイズの文学

小倉

次にやはり結核です。巽さんもおっしゃったように、19世紀後半から20世紀前半の世界で一番多くの犠牲者を出したのは疑いもなく結核なわけです。20世紀半ばに抗生物質が発見されるまでは、事実上不治の病ですから、サナトリウムに行くか、海辺に行って治るのを待つしかない。運がよければ治るし、そうでなければいずれは死に至ることになります。

ただコレラなどと違い、結核の特徴は「すぐには死なない」ということです。それからコレラやペストだと、身体的に黒くなったり、醜く変形してしまうけれど結核はそうでもない。そういう特徴があるので、ソンタグも「隠喩としての病」の1つの典型として結核を挙げていましたが、様々な神話や伝説を誘発しやすく、結核が文学作品の中でも大きくクローズアップされている。

フランスで言えば、例えば『椿姫』です。大体19世紀のフランスの文学では若い女性は最後は死んでいくことが多い。その死因の多くは結核です。男は絶対死にません。『椿姫』のマルグリット(ヴェルディのオペラではヴィオレッタ)がそうですし、ミュルジェールの『ラ・ボエーム』のミミという女性もそうです。こちらもオペラでおなじみですね。そうした女性が満たされない恋の情熱を抱えて死んでいく。

あるいは、日本で言えば啄木などがそうですが、優れた才能や能力に恵まれた芸術家が、まるでその才能の代償であるかのように、結核で若くして命を散らしていく。その意味では、結核という病は若くして美しく死んでいくことの崇高さを劇的に文学化してくれる病なのです。

そして20世紀後半ではやはりエイズだろうと思います。フランスではエルヴェ・ギベールが有名ですが、ギベールの前にドミニック・フェルナンデスという作家の『除け者の栄光』という作品があり、これが最初のエイズ文学と言われています。

エイズは1980年代に見つかった病で、私はちょうどそのころパリに留学していました。ですからエイズの発症と蔓延がフランスの、とりわけ芸術家や知識人の世界にどういうインパクトをもたらしたかをリアルタイムで体験しました。このドミニック・フェルナンデスの作品は、主人公2人が男性の同性愛者です。

当時、偏見といえば偏見なのですが、ゲイのコミュニティーにエイズが蔓延しているという風説がありました。その主人公の1人が最期はエイズで死んでいくという設定ですが、この中では社会や家族との関係で、エイズはいろいろな意味付けをされていて、最終的には神から下されたある種の処罰という捉え方をされます。主人公はそれを、いわば自ら引き受け、最期は孤立した主人公が自分の孤独や排除を一種のメタファーとして敢然と引き受けて死んでいく。それを同性のパートナーが記録するという形で描かれています。

他方、ギベールのほうは、本人自身がエイズを患って、その記録を自ら書き綴ったわけです。実際に体がどんどん衰えていく様をほとんどリアルタイムに書き記していく。

実はここでエイズと結核には1つの類似性があることが分かります。つまりすぐに死ぬ病ではない。したがって結核もエイズも、その患者に対して生きる時間、あるいはそれまでの自分の人生の意味を考える時間が与えられる。それが非常に特徴的です。ペストやコレラとはそこがまったく違う。

ギベール自身も最期はエイズで死んでいくのですが、言ってみればこのエイズという病を自らのスティグマとして引き受け、そこに様々な意味を読み込んでいく。その上で、そのプロセスを1つ1つ書き綴って物語にしていくのです。

今コレラと結核とエイズの例を挙げたのですが、いずれも文学という芸術の営みが、致死的な感染症を表象すると、極限状態に陥るという状況をつくり出すのに非常に上手く機能する。しかも周囲から孤立した極限状態です。

同時代ではコレラもエイズも、そして現代のコロナも有効な治療薬がない。そういう不安をかき立てる状況の中で、人間たち、あるいは共同体や社会がどういう反応をして、どのように生きていくのか。それを常に語ってきたような気がするのです。

もちろん、もうコレラはそれほど怖い病ではなく、エイズもかつてのように死に至る病ではなくなっているわけですが、そうした疫学的な進化は別として、こうした感染症が起こるたびに、その都度人間や社会は似たような反応を繰り返している。それを感染症の文学というのはよく教えているという気がします。

そう考えれば、今のコロナを機に、これから一体どういう文学が生み出されるのか、というのは非常に興味深いところです。

カミュとメアリー・シェリーに見る連帯

有り難うございました。それでは続けて小川さん、英文学の方からいかがですか。

小川

いくつか具体的な例を挙げながら感染症文学についてお話できたらと思います。1つ目がメアリー・シェリーの『最後のひとり(The Last Man)』(1826)という作品です。今回、あらためて読み直してカミュの『ペスト』との類似点が多くてびっくりしました。

小倉さんが、ドミニック・フェルナンデスの作品の中で、エイズという病を神による罰として引き受けるとお話しされていましたが、そういう視点からカミュの『ペスト』を読むと、神による罰というものを、意識して否定しているような気がします。そして、メアリー・シェリーとの共通点が、まさに「天罰としての病」を否定しようとするところなのです。

『最後のひとり』は2073年という未来が舞台なのですが、『フランケンシュタイン』が1818年に出版された後に、メアリー・シェリーの関心が感染症に移ったのはなぜかを考えると、まず伝記的な理由があります。そもそも彼女の母親、メアリ・ウルストンクラフトは彼女を産んで10日後に産褥熱で亡くなっている。また自分の子供も2人失っていて、その1人、クララは赤痢で亡くなっている。そういった彼女自身の経験と罪の意識が、『最後のひとり』に色濃く表れているように思います。

『最後のひとり』は主人公のライオネル・ヴァーニーという語り手が地球上の最後の1人になるというアポカリプス(黙示録)的な話です。娘さんと同じ名前のクララという子供が最後に登場しますが、もう1つの伝記的な部分は、自分の夫であった詩人のパーシー・シェリーもかなり理想化された人物として物語の中に登場している。それがエイドリアンという主人公の友人です。

ライオネルとエイドリアンの関係性を見ていくと、カミュの『ペスト』で主人公の医師リウーが新聞記者ランベールと対話する場面によく似ているのです。ランベールは隔離されているオランの町から、「恋人が待っているから」と逃げようとする。でも最終的にリウーと対話を重ねることで、自分さえよければいいという考えを捨て、町に踏みとどまり、リウーたちと連帯していく。

メアリー・シェリーの『最後のひとり』でも、困っている人を助けるエイドリアンという行動の人が愛や連帯の大切さを教えることで、ライオネルが最後まで生き延びることができるのです。

デフォーの『ペストの記憶』でも蛮勇を奮って感染した人を療養所に搬送したり、死者を墓場に運んだりしたジョン・ヘイワードというヒロイックな登場人物がいます。1817年に『ペストの記憶』を読んだシェリーは、この作品からインスピレーションを得た部分があったのかもしれません。だから「連帯」というテーマが、カミュの『ペスト』の中にあるのであれば、まさに『最後のひとり』にも、『ペストの記憶』にもある。そこが共通しているのだと思います。

今のコロナ禍でも、分断か連帯かということが問題になっていますが、カミュは戦いや人を死なせることに、すごくためらいを持っていた作家で、例えばタルーという登場人物が、自分の父親が検事で、ためらわずに人を死なせることに対して、隠喩として「ペスト」と呼んでいるところがある。それは先ほど小倉さんが言っていたことと重なり、ペストというのは悪、つまり、人を死に至らしめるような行動や言動のメタファーなのです。

『ペスト』の最後にリウーとタルーによる神や信仰についての対話があります。タルーがリウーに「平和に到達するために取るべき道について何か考えはあるか」と尋ねると、「あるよ。共感ということだ」とリウーが答えている。

神や宗教による救いではない解決策を、カミュはサンパティ(Sampati)=共感という言葉を使って表している。英語ではシンパシーまたはコンパッション(Compassion)です。

おっしゃたように、結局、戦争やナチズムを背景にしてカミュは書いているのですが、その時に、上から目線で人を支配するということではなくて、人が助け合うという関係を構築していきましょう、という極めて現代的な問いを発していると思うのです。

今のコロナ禍でも、人種差別が強まったり、貧困層の人たちが困っているのに行政が対応しないという問題がありますが、カミュやメアリー・シェリーにも同じメッセージ性があったのではないかと思います。

ヴァージニア・ウルフとスペイン風邪

小川

「シンパシー」の問題が、おそらくヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』にもつながってきます。これまではスペイン風邪がモダニズム期(20世紀初頭)に猛威を振るっていたという文脈があまり語られてこなかったのですが、エリザベス・アウトカという研究者によれば、1919年にスペイン風邪に罹ったヴァージニア・ウルフ自身の経験がこの小説に映し出されています。

ウルフの研究者がよく取り上げるテーマは、やはり戦争(第1次大戦)です。『ダロウェイ夫人』には、セプティマスという大戦を経験した男性が、最後にシェルショック(砲弾のショック)の病を抱えて自殺してしまうという話が出てきますが、スペイン風邪がおびただしい数の犠牲者を出していた状況は直接は書かれていない。ウルフは背景に、うっすらと見えるような形でしか感染症を描かなかったのです。

コロナ感染も後遺症が残るというようなことが最近言われ始めていますが、スペイン風邪も、体は治っても、やはり認知機能が低下したり、悪影響をもたらすことがあったそうです。ウルフはもともと精神病を抱えていて、それに加えてスペイン風邪を患い、幻覚に近いヴィジョンが小説にも投影されています。

『ダロウェイ夫人』の読者がときどき幻覚なのか現実なのか分からないという、そのあわい(間)の部分が描かれているような場面がある。それは脳がつくり出した幻覚の部分であって、まさに脳という身体の臓器を通して現実を捉えるようなヴィジョンになり、モダニズム文学の特徴にも通じている。だからスペイン風邪とモダニズムというのは切っても切れない関係にあるとも言えるのではないかと思います。

「シンパシー」という言葉はウルフも何度も使っています。「同情」「共感」と日本語では2つ意味があると思うのですが、ウルフが徹底的に批判したのは上から目線の「同情」の方です。

一方、自発的に相手のことを思いやる共感は奨励する。この2つのシンパシーの区別を彼女はずっと言い続けていました。彼女は『病になるということ』というエッセーも書きますが、今のコロナ禍の中で、病人に対してどう接すればいいのかということも意識して読むと、ウルフの文学はすごくおもしろいのではないかと思います。

疫病の知らせは東方からやってくる

小川

巽さんの『ニュー・アメリカニズム――米文学思想史の物語学』には、疫病とコットン・マザー(ニューイングランドのピューリタンの牧師、文筆家)の話がありますね。

この中でバルバドスからもたらされた天然痘の話があるのですが、ある種神話化された、異民族が別の土地から疫病を持ち込むという話は、ありとあらゆる文学に継承されてきたような気がします。

『ペストの記憶』も『最後のひとり』もそうです。後者では、東方、つまりギリシャで疫病が猛威を振るいはじめたというニュースが入ってくるわけですが、登場人物の誰も最初は気にしない。ただ自分たちの身に降りかかりはじめると大パニックになる。

これは本当に今年の3月のヨーロッパがそうでした。イギリスの友人たちは、当初は武漢のニュースを見て、イギリスでは起こり得ないこととして遠巻きに見ていた。ところが、1カ月ほどして自分の身に降りかかった途端、やはり大慌てしていました。

イギリスの文学には、自分たちは島国だから安心と考えてしまう分、疫病がやってくると脅威になるというテーマがある。海をも渡ってくる疫病の恐怖を描いた文学といえば、ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』(1897)がまさにそうです。

丹治愛『ドラキュラの世紀末──ヴィクトリア朝外国恐怖症の文化研究』では、『ドラキュラ』はコレラとゼノフォビア(外国恐怖症)の寓意だと言っています。ストーカーの母親はアイルランド、スライゴーの出身だったのですが、実際にコレラが東方から近づいてきて、1832年についにスライゴーに達して多くの犠牲者を出しました。東方から疫病がやってくるメタファーは、ある意味でもうお決まりの形として継承されている。

ただそれが帝国主義的なイデオロギーをある種支えてきたのか、あるいはそれを批判しようとしたのかというあたりが両義的とも言えて、『最後のひとり』もライオネルが感染する場面はポストコロニアル的に書かれています。

疫病に感染したある黒人の男が、ライオネルに突然抱きついてくる場面があります。今この解釈が多くの論争を呼んでいます。シェリー研究者らはそれが抱擁という形をとる「共感」なのか、ライオネルがその男をその後引き離したという点で「拒否」なのか、意見が分かれている。

私の読みは「共感」(compassion)です。なぜなら、この「抱擁」によって、ある奇跡が生まれるからです。次の日にライオネルはかなりの高熱が出て、その疫病にかかるのに、唯一生き残る。ライオネルが生き残った理由は、彼には共感力があって、次世代の未来を担うべき人間像として描かれているという解釈もできるのではないかと思います。

『最後のひとり』を読み込んでいくと、カミュや『ダロウェイ夫人』ともつながる感染症文学のおもしろさが立ち現れてくるような気がします。

スペイン風邪を描いた日本近代文学

では次にバナードさん、日本文学の文脈で語っていただけますか。

バナード

まず日本近代文学の中で描かれた感染症という問題系を考えてみると、これは日本文学だけではないと思いますが、2つの類型に分けることができるのではないかと思います。

それはエピデミック、もしくはパンデミックの文学、つまり感染症流行の状態や影響を直接描いた文学と、より広義での感染症の文学です。似てはいるのですが、実は違うジャンルというか、それぞれのレトリックと構造があるのではないかと思います。

日本近代文学の場合は、エピデミックやパンデミックを直接描いた作品は、あるのですが意外に少ない。それに対してもっと広い意味での感染症の文学は、むしろ日本近代文学の中心的なテーマの一つと言っていいのではないかと思うぐらい作品がたくさんあると思います。

さらに、パンデミックもしくはエピデミックの文学には、社会や共同体のレベルで感染症が人間に及ぼす影響を俯瞰的に描いた作品と、個人的なレベル、つまり「ある登場人物がスペイン風邪にかかって死んでしまいました」というような一人単位の人間関係を描いた作品があると思います。

日本近代文学の中でエピデミックを描いたものは、ほとんどスペイン風邪です。まず宮本百合子の『伸子』という小説。これは宮本自身の経験に基づいた自伝的な作品ですが、伸子という主人公がニューヨークに留学し、スペイン風邪にかかる場面があります。

そして、最近コロナ禍で注目されていると思いますが、歌人である与謝野晶子の「感冒の床から」と「死の恐怖」という2つの評論というか、批判的なエッセーがあります。スペイン風邪の時に政府の対策が足りないとか、今に通じるところがあって、鋭い視点を持つ文章だと思います。

そして志賀直哉の「流行感冒」という非常に志賀直哉らしいスペイン風邪を扱う短編小説があります。死とは何か、生とは何か。そして死と生に対していかなる情動的なスタンスを取るべきかみたいなことをじっくり考える小説だと言えます。

この作品は実はコロナが流行してから初めて読んだのですが、とても興味深く思いました。幻想文学やゴシック小説が好きなものとして、流行性感冒がいつやって来るか、目に見えない恐怖を与えるものとして書いているので、超自然的なところはまったくないのですが、言い過ぎかもしれませんが一種の恐怖小説として面白かったです。志賀直哉の私小説と怪奇幻想文学をもしつなげるとすると、その架け橋の1つは感染症なのかもしれません。

武者小路実篤の『愛と死』という有名な作品もあります。主人公と恋愛関係にある夏子という女性が小説の最後のほうにスペイン風邪で亡くなる。パリにいる主人公の元に、夏子は死んだという知らせが来て悲しむという、メロドラマティックな場面になるわけです。

ただこれらの作品は、共同体にスペイン風邪がどのような影響を与えたとか、小川さんが言われた分断と連帯の問題については、あまり直接考えていないような印象が残ります。逆に、小倉さんのお話にあったメロドラマをつくるために、女性をある意味死なせてしまうものとして機能しているのではないかと思いますね。

結核文学とハンセン病文学

バナード

次にもっと広義での感染症の文学を見てみると、いろいろな作品が視野に入ってきます。この点において西洋文学の影響を受けていると思いますが、代表的なものはやはり結核とハンセン病です。結核には福田眞人氏の『結核の文化史──近代日本における病のイメージ』という研究書が存在し、ハンセン病には『ハンセン病文学全集』が存在するほど、両方とも本当に膨大な作品数があります。

結核の描写はやはりフランス文学の場合と似ていて、美しい病気としての記号のように使われている。その代表的な作品は徳冨蘆花の『不如帰』でしょう。

ちなみに『不如帰』が発表される5年ほど前にイギリスの詩人ジョン・キーツが恋人ファニー・ブローンに宛てた手紙が和訳されて『文学界』に発表されるのですね。これによって結核で亡くなった若き詩人であるキーツ、というイメージが明治期の浪漫主義に大きな影響を与える。それが「美しい病気」としての結核文学の1つの出発点なのではないかと思います。『不如帰』的なメロドラマは他にもいろいろあって、堀辰雄の『風立ちぬ』もその代表的な作品でしょう。

対照的なのがハンセン病の小説です。当時は「らい病」という言い方でしたが、1つのジャンルと言っていいぐらい、明治期にはたくさんの作品があります。結核とは逆に表面的にも内面的にもグロテスクな病気、そのような記号として使用されていたのです。

今から見ると非常に差別的な描写になるわけですが、その理由の1つは感染症なのに、明治時代には遺伝する病気と誤解されていたところにあると思います。血統の問題とか、非常にゴシック的な捉え方をされていたので、ゴシック寄りの描写になる場合が多いのです。

個人的に重要だと思う作品を述べてみると、まず幸田露伴の「対髑髏(たいどくろ)」。これは東雅夫さんが「近代最初の本格的幻想文学作品と呼ぶにふさわしい傑作」と評価しています。泉鏡花の『高野聖』に似ている話ですが、最後に山の中で出会った美しい女性が、実はハンセン病で狂死した人の霊だったという小説です。

同じ年に尾崎紅葉も「巴波川(うずまがわ) 」というハンセン病の女性が登場する作品を書きます。個人的に再評価すべきと思っているのは生田葵山(きざん)という、硯友社の作家です。

生田葵山に「団扇太鼓」という作品がありますが、主人公が自分の家系はハンセン病だと思い込み、自分の体にいつ現れてくるかを恐れる、非常にゴシックな小説です。小倉さんが言われたように、すぐには死なない病気として、生きる時間はまだあるのですが、自分の人生がいつ終わるか分からないという不安と恐怖を巧みに描いていると思います。

そのように、明治期においては結核とハンセン病という対照的な描写があるのではないかと思います。ほかにも尾崎紅葉の『青葡萄』というコレラを扱っている作品とか、広津柳浪の小説に天然痘の描写もあるのですが、ハンセン病と結核が圧倒的に多い。

硯友社出身だった泉鏡花にも触れると、鏡花の怪奇譚の中にも感染症の描写が多く現れるのです。代表作『高野聖』も、「はやりやまい」と鏡花は表現していますが、舞台の背景として岐阜の山の中におそらくコレラがはやっている時期に旅僧が山の奥へ分け入る。鏡花の場合はお化けも菌も目に見えない恐怖を与えるものとして同一扱いされていることが多い。他の作品でもグロテスクな病気になっている身体を数多く描写しています。

有名な話ですが鏡花は潔癖症でした。実際に赤痢になったこともあって、だんだんと極端な潔癖症になっていったのではないかと言われますが、携帯用の消毒液入れを持ち歩いていたそうです。当時は迷信家扱いされていましたが、コロナ禍の現在から見るとむしろ現実的な行動だったと言えますね。

鏡花における病原体の捉え方は案外近代的なので、近代と前近代が独特な感じで混ざっているところがおもしろいですね。

また、戦前の伝奇小説の作家で有名な国枝史郎という作家がいます。国枝の最高傑作とされている『神州纐纈城(しんしゅうこうけつじょう)』という作品があります。和風ファンタジー小説という感じの作品ですが、ハンセン病をひどく患っている王様が徘徊するような怪奇な場面があるのです。ひょっとすると、ポーの「赤き死の仮面」を一要素として和風化した作品として読めるかもしれません。

感染症が描かれた文学を読むことは、潜んでいた社会の「亀裂」とか、いろいろな差異とか差別を、可視化するきっかけになるのではないかと思うのです。実際に、コロナが蔓延するアメリカの現状などを見ると、一概には言えませんがやはりマイノリティーの多い地域や貧困地域こそ感染者が多いそうです。そういう普段見えない差異を可視化するのが感染症だとも言えるのではないでしょうか。

目に見えないもの、つまり病気などに対する不安、恐怖と、逆に今までずっと隠れていたものが感染症を機にあらわに出現することに対する恐怖、この両方の様相があるのではないかと思います。例えば『アーサー・マーヴィン』なども、社会的な、ある意味政治的な要素もあって、黄熱病によって1790年代のフィラデルフィアの社会の差異や不平等さが可視化されるということがあるのだと思います。

メルヴィル、カミュ、そして小松左京

皆さんの非常に啓発的な考察をお聞きした後に、アメリカ文学の視点から少し付け加えさせてください。まず、これは意外に探究されていないのかもしれませんが、カミュの『ペスト』ははっきりとメルヴィルの『白鯨』の影響を認めているんですね。

復讐のためにエイハブ船長がモビィ・ディックを追いかけなければならないのも、疫病にかられているようなもので、実際英語の“pestilence” には字義的な疫病と共に隠喩的な「疫病神」のニュアンスがありますが、『白鯨』の「ジェロボウム号の物語」の章では、黄熱病に冒された船員のいる捕鯨船が描かれる。

ですから、カミュはメルヴィルの具体的な疫病の描写を意識したのかもしれない。しかし、今回読み直して面白かったのは、『白鯨』ではマップル神父が聖書のヨナの話をしますが、『ペスト』の中にもパヌルー神父という人が登場し、こちらは非常に不条理な死を遂げる。メルヴィルがあくまで聖書的予型論を前提にした一方、カミュはペスト禍における神なき世界を描いたことの、これは象徴でしょう。

それから、文学史的な連関で言えば、メルヴィルから影響を受けたカミュと、ポーの影響を受けたドストエフスキー双方の影響を受けたのが、わが国が誇る日本SF第1世代の代表格である小松左京の『復活の日』です。

これは、宇宙から来た病原体MM88を手に入れた国が加工して生物兵器を作り上げるも、それが米ソ冷戦における争奪戦の中で流出してしまい、世界中に蔓延する話です。皆、最初は「風邪かな」と思いつつもグローバルに広がっていくところは、今日のコロナ禍を連想せざるを得ない。

小松さんはもちろんスペイン風邪の流行を意識したのかもしれませんが、同時に、この小説が書かれたのは1964年ですから、その2年前のキューバ・ミサイル危機の記憶が残る中、細菌兵器のウイルスが蔓延したことが全面核戦争につながるパニックを生き生きと描いている。

作中ではARS(Automatic Revenge System)と言われる「全自動報復装置」が登場しますが、これはキューバ危機の時には全面核戦争を引き起こすと言われたMAD(Mutual Assured Destruction)つまり「相互認証破壊」システムの変形ですね。しかもこの物語では、北米でとてつもない大地震が起こり、それを敵からの攻撃だとコンピューターが誤認してしまい、ARSが作動し核弾頭が発射されて、全面核戦争が本当に起こってしまうという、恐ろしい事態になります。

しかし、この『復活の日』の真骨頂は、その全自動報復装置を開発した大統領が、シルヴァーランドという名前だというところです。この名前はどう考えても、同時代に実在した共和党のウルトラ保守上院議員かつ大統領候補のバリー・ゴールドウォーターから来ている。その過激な性格には、トランプを彷彿とさせるところがある。だからもしもゴールドウォーターが大統領になっていたら、本当に全面核戦争が起こって地球は破滅したかもしれないという示唆を、小松左京は作品の中に組み入れたのだと思います。

実際今日起こっていることを見れば、コロナ禍になると人種差別は起こるし、小川さんが言ったような分断もむしろどんどんエスカレートしていく。Black Lives Matter 以後の人種対立はもちろん、今日では米ソ冷戦ならぬ米中冷戦の時代だとも言われる。そう考えると、『復活の日』はとても半世紀以上前の小説とは思えません。

差別のメタファーとしての病

新歴史主義批評家スティーヴン・グリーンブラットの有名な論文に「Invisible Bullet(見えない弾丸)」というものがあります。

アメリカの植民地時代には、天然痘でインディアンの部族がまるまる死滅したということがありました。エリザベス朝の科学者で占星術師でもあり、時にペテン師とか無神論者とすら呼ばれたトマス・ハリオットは最初のアメリカ植民地報告を書いていますが、その記述によれば、インディアンの部族がそのように滅亡したというのは、神の摂理によるものだと言うのです。つまり白人の植民者こそが選民、つまり神に選ばれた民なのであって、そのために神がインディアンに手を下してくださったのだという典型的なキリスト教のレトリックを使う。その時にインディアンたちに武器が使われた。

その武器こそが天然痘で、それが見えない銃弾としてインディアンに撃ち込まれたことにより、白人は大手を振るって北米を支配できるようになったという論理になるのですが、これなども初期の「隠喩としての病」ですね。病がコロニアリズムの論理に都合よく取り込まれてしまっている。

先ほど小川さんが言及してくださった拙著で1章を割いているコットン・マザーは17~18世紀のはじめまで活躍するマサチューセッツ植民地最大のピューリタン神学者ですが、彼も似たようなことを考えていました。ただし彼の場合は、天然痘の接種をしてるんです。18世紀末にジェンナーの種痘が開発されるはるか以前の話です。

ところが、種痘の技術は実はマザーの家にいた黒人奴隷から教えてもらったんですね。しかし、コットン・マザーは、奴隷から教わったアフリカ系の民間療法だなどとはオクビにも出さず、いかにも自分が発明したかのようにふるまった。

一方では天然痘で異民族や部族が滅亡すると、それは神の思し召しだということになるし、その天然痘を撲滅する種痘の技術を異民族から教わると、その異民族はいなかったことにされてしまう。そういう形で、どちらに転んでも病というのは人種差別をはじめとする様々な差別意識と無縁ではないということです。

文学は「分断」を超えられるか?

小倉

確かに病の文学というのは社会の分断、あるいは人間の卑劣な側面とか、いろいろな意味でネガティブな面を浮き彫りにするのですが、小川さんもバナードさんも言っていたように、他方ではそれに抵抗するための連帯というテーマも非常に浮き彫りになる。

典型はカミュの『ペスト』ですが、あの作品の中では既存の制度、教会とか病院とか行政とか、そうしたものは本当に上手く対応できない。今のコロナと一緒です。でも、そうした中でリウーを中心に個人同士の連帯が高らかに謳われる。それがおそらくカミュの『ペスト』の本筋だと思うのです。

カミュの『ペスト』のラストシーンは、ある意味、非常に象徴的で、ペストの流行が急に止むわけです。しかしリウーは「これで世の中からペストが消えたわけではない。ペストは決して死なない。どこかに潜んでいて、またやって来る」と言って終わります。

ですから単にペストという個別の感染症だけではなくて、今回のコロナもそうかもしれませんが、戦争やテロ、あるいは日本だったら大震災といった、社会の秩序や安定を脅かすような、広い意味でのカタストロフィというものはいつ起こるか分からない。そうしたものの1つの寓意、あるいは比喩として感染症というのは文学の中でも非常にうまく機能してきたし、残念ながらこれからも機能し続けるのかなという気はいたします。

小川

今、小倉さんがおっしゃったことはすごく大事で、やはり感染症パンデミックの中で人間ができること、例えば悪に立ち向かうといった具体的なドラマは、文学が緻密に描ける部分なんだろうと思います。先ほどバナードさんが触れられたジョン・キーツ自身、確かに記号化される詩人で、どちらかというと美しいものとして語られてしまうのですが、彼自身の強さも、たぶんリウーの戦いとすごく重なるのです。

日本でも訳されたキーツの手紙は彼の強さの象徴でもあると思うのです。実際読んでいくと、彼は一切ファニー・ブローンに弱みを見せていない。ファニーに気をつかって、「僕が最後に書いた本がそちらに届くだろう」とか、「君が元気でいることが僕の喜びである」とか書いている。

キーツが、不確実なものや未解決のものを受容する能力とした「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉が一人歩きしてしまって、薄っぺらくなっていることを懸念していますが、本当のネガティブ・ケイパビリティは実践した人にしか分からないと思うのです。つまり彼自身が病を患って、究極の自己隔離を実践するような人だったから、そういう言葉が出てくるんだと。

カミュも生涯結核を患っていたのですよね。当事者研究というのが今はやっていますが、ある意味文学こそが究極の当事者研究なのではと最近はすごく思っています。

バナード

感染症の文学を読むと、病気(イルネス)だけではなくて、イデオロギーも感染するんだということに気づきます。そしてこれは実は不可分の問題ではないかと思うのです。例えばハンセン病では、ハンセン病にまつわる誤解や差別がテクストを通じてよく見えてくるのですが、ハンセン病に関する誤解や差別も病気と同様に感染していくわけです。

この2つの「感染」の相互性は例えばゾンビの小説にも読み取れます。ゾンビというのは、もともとハイチなどにおける奴隷の隠喩として使われる作品がかなりありましたが、次第に感染症の隠喩へと変わってくる。この経緯は非常に興味深い。こういった植民地時代の奴隷制度への抵抗が含意されているゾンビ、つまり病気(イルネス)の象徴でもイデオロギーの象徴でもあるゾンビ像が、今後もっと追究すべきテーマの1つと考えています。

今日は様々な感染症文学の話を伺えました。先ほど小倉さんが言ったように、コロナの時代の文学作品が出始めているようですが、たしかに、しばらく時間がたてば、この新たな疫病にふさわしい新しい文学の時代が拓かれるのではないでしょうか。

病というのはこれまでも、これからも何らかの形で文学作品を発展させる要素ではないかとも思います。本日は有り難うございました。

(2020年9月24日、オンラインにて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。