慶應義塾

【特集:NPOの20年】座談会:今、あらためて問うNPOの役割

登場者プロフィール

  • 萩原 なつ子(はぎわら なつこ)

    立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科・社会学部教授認定NPO法人日本NPOセンター代表理事。

    お茶の水女子大学大学院修了。博士(学術)。宮城県環境生活部次長、武蔵工業大学助教授等を経て現職。専門は環境社会学、非営利活動論、ジェンダー論等。

    萩原 なつ子(はぎわら なつこ)

    立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科・社会学部教授認定NPO法人日本NPOセンター代表理事。

    お茶の水女子大学大学院修了。博士(学術)。宮城県環境生活部次長、武蔵工業大学助教授等を経て現職。専門は環境社会学、非営利活動論、ジェンダー論等。

  • 山田 泰久(やまだ やすひさ)

    その他 : NPO法人CANPANセンター代表理事文学部 卒業

    塾員(平8文)。一般財団法人非営利組織評価センター業務執行理事。1996年日本財団に入会。2014年NPO法人CANPANセンターに転籍出向。「日本財団CANPANプロジェクト」の企画責任者。

    山田 泰久(やまだ やすひさ)

    その他 : NPO法人CANPANセンター代表理事文学部 卒業

    塾員(平8文)。一般財団法人非営利組織評価センター業務執行理事。1996年日本財団に入会。2014年NPO法人CANPANセンターに転籍出向。「日本財団CANPANプロジェクト」の企画責任者。

  • 小島 希世子(おじま きよこ)

    その他 : NPO法人「農スクール」代表その他 : えと菜園代表取締役環境情報学部 卒業文学部 卒業

    塾員(平14環、17文)。大学卒業後、流通企業に勤務後、2009年、「えと菜園」を開設。農家直送のオンラインショップ、体験農園、農作物の自社生産事業を展開。13年「農スクール」を立ち上げる。

    小島 希世子(おじま きよこ)

    その他 : NPO法人「農スクール」代表その他 : えと菜園代表取締役環境情報学部 卒業文学部 卒業

    塾員(平14環、17文)。大学卒業後、流通企業に勤務後、2009年、「えと菜園」を開設。農家直送のオンラインショップ、体験農園、農作物の自社生産事業を展開。13年「農スクール」を立ち上げる。

  • 金子 郁容(かねこ いくよう)

    その他 : 名誉教授

    塾員(昭46工)。スタンフォード大学にてPh.D.(工学博士号)。ウィスコンシン大学准教授、一橋大学商学部教授を経て1994年慶應義塾大学総合政策学部教授。専門は情報組織論、コミュニティ論等。

    金子 郁容(かねこ いくよう)

    その他 : 名誉教授

    塾員(昭46工)。スタンフォード大学にてPh.D.(工学博士号)。ウィスコンシン大学准教授、一橋大学商学部教授を経て1994年慶應義塾大学総合政策学部教授。専門は情報組織論、コミュニティ論等。

  • 宮垣 元(司会)(みやがき げん)

    総合政策学部 教授

    塾員(平6環、13政・メ博)。博士(政策・メディア)。ライフデザイン研究所(現 第一生命経済研究所)、甲南大学文学部教授等を経て2014年より現職。専門は社会学、経済社会学、非営利組織論等。

    宮垣 元(司会)(みやがき げん)

    総合政策学部 教授

    塾員(平6環、13政・メ博)。博士(政策・メディア)。ライフデザイン研究所(現 第一生命経済研究所)、甲南大学文学部教授等を経て2014年より現職。専門は社会学、経済社会学、非営利組織論等。

2018/11/05

日本のNPOの歩み

宮垣

特定非営利活動促進法(NPO法)が1998年に施行されてから今年で20年になります。この間NPOは日本社会の中でどのような役割を果たしてきたのか。今日はこの20年を皆様と振り返りつつ、これからの姿を展望していきたいと思っています。

冒頭に私のほうから簡単な整理をしておきましょう。1998年にNPO法がスタートする直前の95年には阪神・淡路大震災があり、この年はいわゆるボランティア元年と言われています。同時にこの年はインターネット元年とも言われました。この年の出来事がNPO法施行の引き金になっている面があります。

遡っていくと、その少し前に、世界的連帯革命とか非営利革命(A Global Associational Revolution) と言われるような議論が世界的に起こっている。NPOという言葉もこの頃に日本に紹介されています。

さらに遡れば、80年代半ばには、今から思えば「あれはNPOだよね」というような、事業性と運動性を両立させた活動団体が生まれてきていました。当時は、「お金を取るのはボランティアや非営利活動ではないのではないか」という有償ボランティア論争もありました。これがNPO法施行以前の状況です。

他方、2000年代に入ってからの大きな特徴は、それまでの世代とは全く違う、小島さんのような若い世代の社会起業家が、次々と独自の発想でいろいろな活動を展開してきたことです。このあたりからいわゆる運動体としてのNPOよりも、事業体としてのNPOに大きく関心が移っていきます。

象徴的なのは2003年のNPO法改正です。ここで「経済」「雇用」「消費」と、どちらかというとNPOからは遠い世界と思われていたものがNPO法の中に入ってくるわけです。企業のCSR元年もこの時代なので、連動している部分もあると感じます。

その後、2010年代に入る頃からソーシャルメディアの普及があり、クラウドファンディングが注目を集めます。一番大きいのは、金子さんも関わっておられた民主党政権の「新しい公共」(2010年)です。ここで一気にNPOの世界が、社会の表舞台の近くに位置付けられた。直後の東日本大震災では、NPOや中間支援を前提に支援活動が繰り広げられました。

また、法制度に関して1つ大きいのは2008年からの新公益法人への移行です。ここで、民間非営利の形態として、NPO法人だけではなく一般社団や公益社団など、様々な法人形態を選べるようになりました。

2015年にはNPO法人が5万を超えましたが、社会起業家にはNPO法人の人もいれば株式会社形態の人もいます。「そもそもNPOとは何か」ということが再び問われる時代に入っています。

今年は非常に災害が多く、ボランティアにも注目が集まりました。東京2020のボランティアの募集も始まり、議論になっています。そういう意味でもNPO、ボランティアを取り巻く局面がまた変わりつつあるのではないかと感じます。

まず、金子さんは、長らくこの世界を見てこられ、90年代の半ばはNPOやボランティアの議論やその位置付けに、金子さんの発信が非常に大きな影響を与えていたと思います。振り返ってみていかがでしょうか。

金子

私が最初にNPOについて知ったのがアメリカにいた頃だったので、アメリカと日本のNPOは、かなり違うなと思っています。レスター・サラモンというNPOの分野で著名なアメリカ人学者は、「アメリカでは地域コミュニティが、政府や行政組織ができる前に形作られていた」と言っています。このあたりからして日本とは違います。

アメリカにおける非営利組織の最初の代表格が大学なのです。1636年ハーバード大学、その後、プリンストンが創立され、メトロポリタン美術館が出てきてレッドクロス(赤十字)が出てくる。すでに1878年には、ハーバード大学で税制の優遇措置についての裁判が起きている。そして1954年、非営利団体の税制優遇措置についてハーバード大学がイニシアチブをとります。日本では2012年までNPOに対する税制優遇措置制度はありませんでした。

日本でいち早くNPO法案の試案をつくり、同法の成立に中心的な役割を担ったのは「シーズ」という団体の松原明さんです。その頃の日本ではNPOはあまり知られておらず、地味な存在でしたが、1998年以前にNPO法の必要性をはっきり述べていました。その後、認証NPO制度ができ、2012年には税制上の優遇措置を受けられる認定NPO制度も発足します。

認定NPO制度ができたときに政府がパブリックサポートテストを導入し、寄付税制が実現しました。私もその内容にはいくらか関わっています。平成30年度には、認証NPOは5万以上、認定NPOは1000以上になりました。

日本にも様々なNPOが育っています。例えば、SFC出身者のカタリバやフローレンスは素晴らしい事業型のNPOとしてよく知られています。

また、皆さん知らないと思いますが、「ぐるーぷ藤」という、とても素晴らしいグループホームがあります。鷲尾公子さんという元気な80歳を超えた方が建物の取得から経営から精力的にやっておられ、藤沢市で銀行から9億円を借りて2つ目の高齢者グループホームを作るなどすごい方です。

日本からこういったNPOが育ち、政府とは関係なしに非営利活動がたくさん実施されるようになった。企業も一緒になった事業型NPOもあります。日本も段々面白い展開が始まっているのではないかと見ています。

阪神・淡路大震災という契機

宮垣

阪神・淡路大震災のときのことを少しお話しいただけますか。

金子

NPO活動が盛んになるきっかけは、やはり阪神・淡路大震災だったと思います。私もSFCの学生をたくさん連れて現地に行きました。このとき私が、「インターVネット」という仕組みを始めました。ニフティ、IBMなど、様々な企業と交渉して、関心のある人がどこででもネットを見て支援活動ができるようになりました。

宮垣

パソコン通信が全盛でインターネットがまだ普及しておらず、自分の通信しかできなかった時代に、それを全部開放してしまったのですね。

でも、金子さんは阪神・淡路まではボランティアの世界とは縁がなかったと思います。その時代にどこに期待を込め、どこに魅力を感じてこの分野にコミットしていったのでしょう。

金子

そのときはとにかく現地に行こうと思ったんですね。そうしたらゼミの学生があっという間に何十人も集まったんです。私は声を掛けただけです。

深い発想はなく、「とにかく行こうぜ」と言ったらいろいろな人が集まった。企業もすぐに動いてくれた。それで、結構日本も行けるなと感じました。

宮垣

戦略的にというのではなく、自発的にという感じですか。

金子

ええ、全く戦略はなしです。皆、楽しかったんですよ。

山田

僕は95年は、大学3年で三田にいたのですが、そういう動きは全然知りませんでした。

宮垣

私はSFCの大学院1期生で、同期の仲間とともに阪神・淡路にリレーションをつくったりしていたんです。慶應の学生は延べで百何十人行きました。SFCの学生はすぐ呼応しましたが、三田からも「仲間に入れてくれ」という人が何人か来ました。

金子

学生のほうがはるかにフットワークが軽くて、それに引きずられるような形でしたね。われわれが「これこれのアジェンダでやってくれ」ではなく、「とにかく行って手伝おう」みたいな。

宮垣

当時、携帯電話を皆が持っていなかった時代なので、金子さんがNTTへ行って「携帯電話をタダでくれ」と言いまして(笑)。

金子

300台ぐらいもらいました。

宮垣

それを全員に渡して、現地に入って行く。彼らは毎夜、僕らがいたSFCの大学院に、「ここは人が足りない」「ここはものが足りない」と電話をしてくる。それを僕らが活字にして、ホームページにアップする。情報ボランティアのはしりみたいなことをやっていました。それが先ほど言われた「インターVネット」の活用ですね。

金子

学生の力を見直しましたね。

市民活動からの発展

宮垣

萩原さんも長らくこの分野にいろいろな形で関わってこられました。そもそもNPOの分野にはどういう入り方をされたのでしょうか。

萩原

最初は70年代後半から80年代前半の、NPOという言葉がまだ日本に入ってきていない時代ですね。きっかけは、日本で初めて市民の研究活動に助成をするというプログラム、トヨタ財団の「市民研究コンクール 身近な環境をみつめよう」(以下、市民研究コンクール)の助成を受けていた東京都日野市の有機農業グループに修士論文執筆のために参加したことです。おそらく、日本で初めて市民の活動、しかも研究活動にお金を出したプログラムでしょう。

宮垣

それはいつのことですか。

萩原

1979年から1997年まで続きました。1974年に設立されたトヨタ財団が設立5周年を記念して始めたもので、当時トヨタ財団のプログラムオフィサーの山岡義典さんが中心となって創ったプログラムです。

やはり市民の活動になんらかの助成金を出すことが、その活動を活発にし、活動団体の社会的認知にもつながるんですね。私は大学院修了後にアソシエイト・プログラム・オフィサーとして市民研究コンクールに関わっていましたが、助成団体に対して、周囲の方が「あいつら変なことをやっている」という認識から、「何か社会的によいことをやっているらしい」と変化していくのを肌で感じました。

金子

とても早くから活動されていますよね。

萩原

ちょっと早すぎたと言われていましたね(笑)。その後、1980年代後半に「日本ネットワーカーズ会議」が設立され私もメンバーで入っていましたが、その頃に市民団体が法人格を取れる制度を日本に導入するにはどうしたらいいかということが議題になっています。そこで私は「NPOのマネジメントについて」という分科会の座長をしているのです。

山岡さんなどは1980年代からすでに、市民の活動団体が簡単に法人格を取れるようにして基盤をしっかりさせたいと始終語っていました。公益法人制度というのが非常に古くて、社団、財団を含めて主務官庁に縛られていて必ずしも思い通りの活動ができないという思いがあったからです。市民がもっと自由に自分たちの活動を展開すれば、多様な問題意識にもとづいたいろいろな活動が育まれる、そんな市民社会をつくりたいということでした。

当時は、20世紀中に制度ができるのは無理だろうと言われていましたが、それが1995年の阪神・淡路で一気に動いたんです。

宮垣

阪神・淡路のときにいろいろな方が被災地に入りましたが、でも受け皿がないと展開できないわけですよね。

どこが受け皿だったかというと、70年代、80年代から、地域の活動とか福祉の活動をやられている方が上手くネットワークを組んでやっていたのでしょう。だから、ボランティア元年というのは突発的に起こったように思えるのだけど、上手く準備されていたのだなという印象があります。

萩原

阪神・淡路のときは大阪ボランティア協会などの団体の存在は大きかったと思います。例えばせっかく学生さんや市民が入っても、どこに行けばよいのか、何をすればよいのか、どうしていいか分からない。ボランティアコーディネーションが絶対必要でした。そういうことがきっかけになって、皆で法律をつくっていこうという流れになったと思います。

宮垣

中間支援的な組織が必要になる。

萩原

そうです。それが日本NPOセンターの設立にもつながっていくきっかけになったと思います。

宮垣

なるほど。20年を振り返ると言っても、その20年の前史が長い。

萩原

もう1つ、日本NPOセンターをつくるときに山岡さんたちは、NIRA(総合研究開発機構)の研究でアメリカのNPO組織の調査に行かれています。日本が市民社会をきちんとつくっていくためには何が必要なのか、その基盤をしっかりつくるにはどうしたらいいか、寄付税制や法人格について学び、報告書に書いています。

NPOの情報発信の変化

宮垣

では山田さんも、思うところをお話しいただけますでしょうか。

山田

僕は1996年に慶應を卒業して日本財団に就職しました。本格的にNPOに関わるのは2005年、福祉の担当になってからです。2006年には、日本財団がCANPANという、NPOの情報発信、情報開示を促進するため、団体情報データベースで情報開示を行い、ブログで情報発信する仕組みをつくりました。私も、そこから本格的にNPOの情報発信支援という形で携わるようになりました。

2005年頃から日本でもブログが流行り出しましたが、それまでのNPO活動は、基本的に「これをやりました」という事業報告しか情報発信をしなかった。それが、インターネットを活用して「今こんなことをやっています」という形で事業の進捗を発信できるような時代になっていったのです。

インターネットなどの情報発信ツールを使ってNPO自身が積極的に情報発信をすることで、いろいろな人とのつながりをつくっていく。今はそのための情報発信支援を行っています。

宮垣

活動されている方々とは中間支援という立ち位置でお付き合いすることが多いと思いますが、この間の変化は大きなものですか。

山田

インターネットを活用して積極的に情報発信できる時代になると、今までとは違う人たちとつながりやすくなります。また、今までNPOは企業から支援される立場でしたが、今はNPOに企業がノウハウを求めに来るような時代になっています。例えば「マドレボニータ」という、産後ケアの活動を行っている団体には、企業から産後ケアのノウハウを知りたいとアプローチが盛んに来ます。

慶應ですと、文学部の心理学の学生だった竹内弓乃さんと熊仁美さんという2人の女性が学生時代から始めた、「ADDS」という発達障害児の支援を行っている団体があります。ベネッセさんなどの企業が発達障害の支援のノウハウを知りたいということで、その団体を紹介したことがあります。このように企業にノウハウなどを提供するNPOも少しずつ増えてきています。

萩原

確かに日本NPOセンターにも企業から問い合わせが来ます。情報発信ツールの発達という点で言いますと、トヨタ財団時代に経験したのは、最初は皆手書きで、しかも郵送で書類を送っていたのですが、ファックスの登場で情報発信のスピードと広がりが大きく変化したことです。

ファックスで助成団体との情報交換がスピーディにできるようになりました。もちろん、活動団体も様々なところに一斉に案内などを送れるようになったことで市民活動がものすごく広がり、全国から情報が集まるようになりました。

金子

それはどのくらいの時期からですか?

萩原

1988年とか89年くらいからですね。90年代はまさにファックスの時代です。まだネットの時代ではない。やはり情報ツールの進化はNPO活動を展開する上でとても大きいですね。まさに金子さんがおやりになった、携帯電話を300台というようなことが、市民の活動を活発化させることに、ものすごく大きな役割を果たしたと思います。

宮垣

ネットワークを上手く動かしていくことにメディアが追い付いてきたということですね。

山田

「CANPANブログ」で面白い事例がありました。宮城の高齢者が夫婦でやっている森林活動のNPOがあり、お二人はパソコンが使えないのにブログを更新している。手書きの原稿を東京にいる息子さんにファックスで送り、アップしてもらっていたんです。

宮垣

面白いですね。確かにメディアの視点は非常に重要ですね。

目的が先にあってNPOをつくる

宮垣

今までの話を聞いて、小島さんは「そんなことあったのね」という感じに思われるかも分からない(笑)。いかがでしょうか。

小島

私はNPO「農スクール」という小さな団体をやっています。具体的には、人手不足の農家と、働きたいけど仕事がないホームレスの方や生活保護受給者の方、引きこもりの方とをつなぐという取り組みをやっています。他にも、保護観察中の方や心の病になってしまった方なども来ます。

本業は野菜農家で、株式会社として野菜を作って販売したり、市民の方々に農業体験サービスを提供したりしています。その中で、働きづらさを抱える方と人手不足の農業界をつなぐ取り組みをしていたのですが、その部分については、NPOにした方が広がりも生まれ、緩く皆が参加できるのではと思い、NPO農スクールをつくりました。

実際、NPOにしたことで、市民の方も株式会社よりは私たちの活動に参加しやすくなっているとは思います。

別に会社をつくりたいわけでもNPOをやりたいわけでもないんです。「働きたいけど仕事がない人」と「人手不足に悩む農家」をつなげたいという思いがあって、その中でこの国ではどういう形をとるのがよいのかを考え、NPOをつくったという感じです。

萩原

目的が先にあったんですね。

小島

そうです。そのためにはどの形がやりやすいかなと。

金子

株式会社と一緒にやっても上手くいきますか。

小島

会社というのは結局、お金を払うお客さんのほうを見て仕事をしますよね。農業体験のお客さんや野菜を買ってくれるお客さんのほうを見て仕事をし、そのサービスの質を保つわけです。だから「ホームレスのための農園」ということを掲げていれば、株式会社としてもやれるのかなとは思います。

でもNPOにしたのは、ホームレスの方からお金をもらって運営しているわけではないからです。

宮垣

確かにそうですね。阪神・淡路のときも、「じゃあ俺たち、団体をつくるか」という入り方ではなく、なんとかしたいというところから入って、やっていくうちにこれをどうやって維持していくのかということで、制度や組織が後から付いてきた側面がある。

小島

制度という面だと、今は農作業を活用した生活困窮者の自立支援という制度が、農林水産省と厚生労働省の共同事業みたいな感じでできました。

萩原

「農福連携」ですね。

小島

ええ、その先行事例にうちの団体がなったのです。地道にコツコツやっていても時代に必要だと思われれば、国もこうやって制度をつくるんだなとは思いました。

宮垣

なるほど。そういう先行事例が実績を積み上げていくなかで制度ができるわけですね。

金子

逆に今は、そういう事例を皆探していますよね。

萩原

介護保険制度がまさにそうです。

小島

でも、あくまで「生活困窮者のため」という制度なのですね。うちはいろいろな事情を抱えた方が来るから、制度に乗ると、「皆が来る」という形がとれなくなってしまう。

例えば、農福連携の制度になると、障害を持っている人が対象となり、ホームレスやひきこもりの方は参加できなくなってしまいます。だから、制度に合わせて活動を変えるのは少し抵抗があるのです。規模の拡大を目指して広めていったほうが社会的なインパクトはあるのでしょうけれど、「誰もが公平にチャンスがある社会を小さな現場でもいいから市民の手で実現したい」という思いがあって、制度は使わず、小さくやっています。

行政との協働

萩原

私は2年間、宮城県庁にいました。行政はどうしても法律などに縛られるので、例えば今のお話のように、いろいろな方たちが来ると1つの法制度にはあてはまらなくなってしまう。子どもからお年寄り、障害者の方たちも一緒のデイサービスを行っている「富山型デイサービス」と呼ばれる方式をつくりだしたのが惣万(そうまん)佳代子さんです。それぞれの法制度が違うために、最初はなかなか行政の人たちに理解してもらえなかったそうです。でも市や県行政の担当者と一緒になって規制緩和に向けて活動して、国を動かしていった。今では「富山型デイサービス」は富山県内だけでなく全国に広がっています。

まさに小島さんがやられているような自分たちの思いを形にしていく中で、徐々に制度が追い付いてくる。そうするとまたマージナルな部分が出てきて、それに対してまた新たなムーブメントが出てくる。その繰り返しなのですが、最初に熱い思いを持っているNPOが存在しているのですね。

宮城県庁にいたとき気づいたのは、法制度や条例の解釈に人の裁量の幅があるということでした。違反にならない程度にちょっと融通を利かせて、活動を応援してくれそうな行政職員と出会うことも活動を展開するためには重要なんですね。そこの見極めと、対立ではなくて行政とどう上手く付き合っていくのかが大切です。

NPOと行政が上手くやっていくためにはお互いの文化を知らなければいけない。NPO側も行政の仕組みを理解していなかったりするので、そこの橋渡しのところが大切ですね。

金子

とんでもないNPOもいますしね。そこが問題なのです。

萩原

異文化コミュニケーション的要素が必要です。

宮垣

行政との協働というのは大きなトピックの1つですね。単にペーパーを書いて助成金や補助金を受けてというような関係ではない。「やってもいい?」「やってもいいよ」という関係をどうやってつくっていけるのかということが大事ですね。

金子

信頼関係ですね。とんでもないことはしないだろうと。それでいいんですよね、基本的に。

メディアとしてのNPO

山田

NPOの役割って「地域メディア」なのかなと思っています。例えば地域で困っている人がインターネットなどで発信できないことを、代わりにNPOが代弁するということは重要な役割です。被災地でも、困っているという状況を発信しないとなかなか支援が届かないということがあります。

また、情報を待っている人たちがインターネットの先にいるというところが重要です。今、NPOの情報発信というと、寄付集めとか、ボランティア集めとか、自分たちの団体のためという部分が強くなってしまっている。でも、本来はその先の情報を待っている人たちに、適切な情報をいかに提供するのかが重要だと思います。

宮垣

それは大事なことですね。今言われた地域メディアというのはシンボリックな意味ですよね。つまり、存在そのものが誰かと誰かをつなぐ、それを媒介するという意味でのメディアであって、彼ら彼女たちが活動することが情報となって伝わっていく。

メディアとNPOの親和性というのは結構本質的な価値と言ってもいいかもしれません。

山田

そうですね。社会が気付いていないものをどう気付かせていくのかということがNPOの大きな役割だと思います。現場で地域のNPOの皆さんが、コミュニティの中から見つけた課題を発信していくことが重要です。

子ども食堂がこれだけ広がったのも、やはり地域で頑張っているNPOやボランティア団体が活動して、地域の状況を発信しているからではないか。だからこそ社会課題をより多くの方に知ってもらえるわけですね。

宮垣

最近、地域の居場所というものが増えてきていますが、そこに情報が集まるから、企業からもアプローチしてきて、「何かお手伝いできませんか」という話につながっていく。

山田

小島さんの事例もそういった情報があるから、行政が見に来るのだと思います。

萩原

それには地域に密着し、現場性と当事者性をしっかり持っていることが重要だと思います。だから、NPOそのものも、そこに関わる人自身もメディアになることが重要です。

そのためには地域の課題を発見するNPP(Non profit person)つまり、「儲けにもならないことを率先する人」が必要です。NPPが動くと、他のNPPが集まってくる。そういう人が集まって、NPG、NPOになっていく。そして「こういう問題があるから、その解決のために行政も企業も町内会・自治会も一緒にやっていこうよ」と地域のステークホルダーをつないでいく、まさにメディアになっていくのではないでしょうか。

金子

今いろいろお話を聞いていて、3、40年の中でニッチを探すというか、狭いところが上手くいくようになっているという感じを受けました。

やはりニッチを見る。それから、いろいろな企業や自治体も、そういうところを探り当てて広げ、それを地域のほうに広げていく。そういうところはある意味では非常に力強くなっていますね。全体として大成功しているわけではないとは思いますが、日本のNPOもそうやってコツコツやって上手くいっているところも、ずいぶんあるのではないでしょうか。

萩原

そうですね。日本NPOセンターも支援センターとして、各地域の支援センターとつながっていますが、別にアンブレラのトップにいる組織ではなくて、どちらかというとファシリテーターのような役割だと私は思っています。

各地域の情報を収集してどういう問題があるのかということを整理して、それを発信したり、日本NPOセンターが行っている企業とNPOの協働事業を紹介したりすることで、「こんなことをやっているなら、うちでもできるかもしれない」とか、「こことここをつないだら面白くなるのではないか」という発想からコラボレーションが生まれたりします。

宮垣

NPOというのはネットワークとヒエラルキーのせめぎ合いの中で来たという感じがあります。5万法人できたけど、5万支社ができたわけではないのですよね。

どこも自分のブランチをつくっていきましょうという発想をしない。中間支援もそれをよく分かっていて、「みんな集まりましょう」とはやらない。「お手伝いしますよ」という形でやっていきますね。

萩原

それが協働ですよね。今よく言われるノットワーキング(knot working)です。ある課題が見つかったときに、その課題を解決するために組織や人を結んで、解決したらほどく。だけどそれが縁となって緩やかなつながり、つまりネットワークは存在している感じです。私は「結んで開いて方式」と自分で言っています(笑)。

「新しい公共」をめぐって

宮垣

さて、民主党政権時代の「新しい公共」の政策はいろいろ言われるのですが、私はきちんと検証すべき点が多々あると思っています。この政策に大きく関わられた金子さんはどういう思いがあるのでしょうか。

金子

私は鳩山由紀夫さんと3年間一緒にスタンフォード大学博士課程にいたので仲がいいのです。いろいろなアイデアは非常にたくさんある人です。

しかし、悪気があるわけではないのだけれど、着地点を最後までちゃんとやるということはしない人だと分かった(笑)。そういう意味では少し残念だなという感じがしています。

萩原

「新しい公共」事業というのは、今後100年は出てこないだろうと言われた金額が全国に配分されましたよね。私は神奈川県の事業に関わりましたが、それぞれの県でマネジメントにばらつきはあったようですが、あれによってNPOという存在を日本全国に知らしめたのは大きかったと思います。

金子

それはそうですね。

萩原

やはりNPOはまだ基盤が弱いですから。

宮垣

そうなんですよね。私も兵庫県で関わりを持っていたのですが、印象深いのは、それまでだったらNPO単体で支援してきたところを、規模が大きいものだから一団体だけではちょっと手をあげづらい。

萩原

だから連携・協働事業でやったんですよね。

宮垣

そうです。地域を巻き込んでやろうとか、ちょっと枠組みを変えたという効果はあったと思うのです。金額の大きさが利いているわけですね。

同じ地域でもお互いに接点がない団体が、「一緒にやりましょうよ」という形でセットアップすることでコミュニケーションが生まれたりする。だから、狭い意味でのNPOを、地域も含めて広げたということは評価しなければいけないと思います。

金子

そういう意味では「新しい公共」は大きな貢献はしたし、今日のお話の何割かはそこでいい土台ができたのではないかと思います。

クラウドファンディングからのつながり

宮垣

山田さんは資金の獲得についてもいろいろな問題意識をお持ちだと思います。NPOの持続可能性を考えたら当然、資源、お金の問題は避けて通れない。昨今の状況についてどう見られていますか。

山田

やはり資金調達の上手い団体が生まれてきたと思いますし、いろいろなITサービスを使えるようになったので、コストが下がってきたということもあります。例えば昔だったら会報誌を印刷して郵送していたのが、今は上手い団体は、例えばグーグルがやっているような無料のNPO向けのサービスなどを上手く活用し、コストを抑えて活動しています。

後はクラウドファンディングを上手く活用し、いろいろな方から広く資金調達をしている団体さんも増えてきています。

宮垣

クラウドファンディングも、初めの頃は注目されたので、割と集まりやすかったと思うのですが、今は皆がやるので競争が激しいのではないでしょうか。

山田

でも、パイとしてはまだそんなに大きくないので、プロジェクトの数も金額も大きくなっています。クラウドファンディングがいいのは、それをきっかけに自分たちの支援者を見つけることができるところです。

一度支援してもらった人には、次は例えばマンスリーサポーターとして月額寄付で応援していただく形に移行する形もある。きっかけをクラウドファンディングでつくり、そこから継続して関わってもらう取り組みを積極的にやられているところもありますね。

宮垣

そこがカギですよね。「一度出してもらったら終わり」というのではなくて、どうやって自分たちの仲間につなげていくのか。

山田

そうですね。つながりを生み出すことが重要になってきます。

例えばクラウドファンディングで支援してくださった方が、次はボランティアで関わってくれるかもしれない。東日本大震災などでも初めに寄付で支援してくれた人が、復興段階で現地に観光に来てくれたりする。そういうつながりを生み出すところがありますので、NPOの皆さんの工夫のしがいがあるのかと思います。

「居場所」をつくる活動

宮垣

事業運営という観点からは小島さんのところはいかがですか。

小島

うちもコストは下げられるようにはなっています。でも資金調達は、全然上手くできていないなと思っていて、もっと情報発信はきちんとやっていかなければいけないと思います。クラウドファンディングもちょっとやってみたいなと、今のお話を聞きながら思ったぐらいです(笑)。

宮垣

人の参加についてはいかがですか。

小島

参加したいという方は多いです。ボランティアも、ホームレスの方や引きこもりの方の応募もそれなりにあります。

宮垣

でも、なかなかアプローチが難しい方々ですよね。

小島

ホームレスの人は結構横のつながりがあるので、「あそこへ行ってよかったよ」とか、口コミです。もちろんネットは使わないし……。

この活動をして思ったのは、日本の識字率が90何パーセントって絶対嘘でしょうって(笑)。ホームレスの方で字が読めない人は結構多い。平仮名は読めますが、漢字が読めない。履歴書を書くというのはかなり厳しかったりします。

萩原

それも新しい課題の発見ですね。

小島

だから、ホームレスの人たちは口コミや支援団体を通じて来ます。引きこもりの方たちはネットで調べて来てくださるのですが、彼らは横のつながりはない。でも、一緒に農作業をすると、引きこもりの子たち同士で結構仲よくなるんです。

宮垣

それ以外にはどんな方が来られるのですか。

小島

精神的な病を抱えた方や、生活保護の方とか、保護観察中の方です。そういう方は支援団体さんが連れてきます。保護観察中の方に関して言うと、今、更生施設もいっぱいなので、法務省も民間に頼んでいたりします。参加した方には「畑は楽しい」と言っていただけています。

宮垣

居場所になって友達ができるからいいのでしょうか。

小島

居場所になっているのだと思います。友達もできるし、あとは安全地帯にもなっているようです。人によっては生活を脅かされながら生きている人たちもいて、人が信用できない。

引きこもりの子たちも、社会に出たら人に非難されたりするのが怖くて引きこもっているのだけど、うちに来れば叩く人もいない。何を言ってもいい空間です。

畑のおかげだと思います。解放感があるので、そんなにピリピリしないで一生懸命汗を流している感じです。作業自体は緩くないんですけど。

萩原

土に触れるというのがいいのでしょうね。

小島

長年引きこもっていた子は、最初は作業中に息が上がってしまっていた。でもここに来たいと、夜中にウォーキングをして体力を付け、来られるようになり、最終的には農家になりました。

本当はその子の存在を発信するだけで日本中の引きこもりの方に希望を与えられると思うのですが、まだ表には出たくないと言うのです。

山田

それがNPOの情報発信の難しさですよね。すごい成果を上げていても、その人を登場させられない場合が結構多い。

小島

昔の仲間に追われたりする方もいるので、メディアには出られない方もいます。

日本に寄付文化はないのか?

萩原

運営のことで言えば、例えば子どもを支援するといった、分かりやすいところには非常にお金が集まりやすいのです。逆に中間支援センターみたいなところが一番集まりにくい。何をやっているのか分からないとよく言われてしまいます。

一番大事なのは、自由な活動ができるための会員をどれだけ集められるか。それから、プロジェクトごとの助成金をどう獲得するか。そこには寄付や委託などがバランスよくあることが望ましいとよく言われます。なかなかお金が集まりにくいところにどのように支援していくのかが、助成財団や、現在活用方法や配分について審議されている休眠預金の役割だと思います。

ファンドレイジングに関しては、やはり専門家が必要です。アメリカなどはきちんとファンドレイザーがいる。やはりそういった寄付文化などの仕組みをもっと日本に根付かせなければいけないとずっと言われています。解散していくNPO法人も多くなっているので、市民社会を皆で支えるという意識を根付かせないと、これからは厳しいと感じています。日本のNPOはまだまだ強い活動団体にはなっていない。

NPO法にのっとった本来の自由な活動を市民団体ができるための資金的、人的、情報といったマルチな支援をどうやっていくのか。それが今後、重要になってくるのではないかと思います。

山田

日本は寄付文化がないと言われているのですが、実はいろいろな寄付の事例があります。

明治以降ですとキリスト教文化もあれば、渋沢栄一がアメリカにフィランソロピーの研究の視察に行ったり、石井十次(じゅうじ)という、児童福祉の父と呼ばれた人は、本当にいろいろな形で寄付を集めていました。寄付文化がないわけではなく、様々な寄付の事例があることが分かります。

宮垣

確かにわれわれは先入観を持っていますよね。ボランティアは日本に根付かない、なぜなら宗教的バックボーンがないからだと言われた時代もありましたが、そんなことはなかった。

萩原

やはり昔は「陰徳」だったのです。日本NPOセンターもいろいろな企業と一緒に協働事業をしていますが、中には「これをもっと広めましょう」と言うと、「いやいや、そこまで広めてくれなくても」みたいなところもあります。日本的と言いましょうか。でもグローバル化する企業の評価ということもあるし、「陽徳」にしていかないといけない、と意識を変える企業も多くなっています。

また、「このお金がこのように使われますよ」ということがはっきりと分かれば企業に限らず市民も寄付をしやすいということは、東日本大震災でも経験をしています。

山田

そうですね。関わりたいという人は結構いろいろなところにいらっしゃるので、その方法が例えばボランティアもあれば寄付というのもある、といろいろな関わり方を用意するのもNPO側の役割だと思います。

宮垣

アメリカに少しだけ住んでいた頃、お子さんに障害を持っておられる方と知り合いました。「障害理解のためのチャリティーコンサートをやりたい」と言われ、街中を「寄付をお願いします」と言って回りました。

少し驚かされたのは、行くところどこでも、まず「何をするの?」と聞かれることです。「おまえは何者?」とも「どこから来たの?」とも言わない。日本で寄付をお願いしたいと思って会社に行くと、真っ先に「誰の紹介?」「どこの会社?」と聞かれますよね。

小島

確かにそうですね。

宮垣

本来、「何をする」というところから始まっている活動組織のはずなので、原点に引き戻して考えることが大事なのかなという感じがします。

SFCと若い世代のNPO

宮垣

カタリバやフローレンスなど、今やNPOを代表するような若い世代のNPOが2000年を過ぎた頃から、とても多く出てきています。多くの団体が慶應SFCから出ていますが、これはSFCの特性なのか、それとも世代の特性なのでしょうか。小島さんは一番近い世代ですが、そもそもなぜ社会的な活動を始められたのですか。

小島

私は熊本県の農村地帯の出身で、両親は教師でしたが、農業は身近なものでした。小学2、3年生のときに、海外のドキュメンタリー番組を見て、食べ物がない国があるということを知り、そういった国に行って農家をやろうと思っていました。

高校のときに農学部を受験したんですけど、上手くいかなかったので予備校の先生がSFCを薦めてくれました。カタリバさんもフローレンスさんも同世代なので、NGOとかNPOをやりたい人が受験するような位置付けになっていたのかなと思います。

金子

それは確かにありますね。

宮垣

逆に、当時はほかになかったということですかね。

萩原

立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科が非営利、営利のマネジメントを専門的に学び、MBAを取得できる大学院として設立されたのが2002年です。非営利組織のマネジメントを前面に出したMBAとしてはおそらく日本で初めてだと思います。いろいろな大学にNPOに関する授業が置かれたりするようになってくる頃ですね。やはりNPO法ができたことは大きいのではないですか。

先ほどおっしゃった、海外のドキュメンタリーを見たのがきっかけという人は多いですね。行こうと思ったら、「いや、日本にもその問題はある」と気づくのですね。

小島

そうなんです。熊本ではホームレスの人は見たことがなかったので、こちらに出てきて横浜駅で初めて見たときは衝撃でした。日本にも食べ物や家がない人がいると気づき、まず日本でやるべきことをやろうと思いました。もう少ししたらアフリカへ行くつもりなんですが。

山田

関西だと、阪神・淡路大震災を経験した人たちがちょうどこの時期にNPOをつくっていますね。

宮垣

そうですね。学生で初めてNPO法人をつくったのは関西学院大学の学生で、被災した子どもたちの支援をしたい、と勉強を見ているうちに、「彼らの課題はそこだけじゃない」と気付き、NPOを立ち上げたんです。

山田

三田で学んでいた人間から見ると、SFCは社会に出ていろいろなものを見るという学問が多いので、そこで課題を発見した人たちが社会起業家を目指しているのかなと思います。

宮垣

確かにディシプリンをまず叩き込むというより、「とりあえず現場に行ってこい」というような教育のスタイルがありましたね。

金子

いや、それしかないんじゃないか(笑)。教師が「これをやって」ということがほとんどない。

萩原

そこから関心、理論を見つけてくるみたいな感じですか。

金子

学生に勝手に見つけてもらうということですよね。そういうところにきちんと気付いてもらえるかどうかは結構大きい。

宮垣

それから、SFCは学問分野の縦割りの枠が初めからなかったというところがあって、その中から何かぼんやりと課題が出てきて、後から「それって実は福祉の問題だよね」とつながっていくところはありますね。

小島

「ボヤッとしたことを言っても、大丈夫」という雰囲気がよかったんだと思います。「それは狭間の学問だから、どっちかにしなきゃ駄目だよ」とは言われなかった。

しなやかに世の中を変える

萩原

タテだったものをヨコにするというのがまさにNPOの役割だとすると、SFCの場合はアカデミックな場でそれをやっていたのですね。

そこで学んだ人が社会に出て、それまでの縦割りとか、既存の価値観みたいなものを壊していく役割を、小島さんは担っている。それを身に付けてまさしく社会を変えていますよね。

金子

やはり自分でやっているから。私なんか全然やっていない(笑)。

萩原

しなやかなんですよ。私も含めてですが、上の世代はどうしても「ねばならない病」みたいなところがあるんです。

私は内閣府男女共同参画局が2004年から実施している「女性のチャレンジ賞」の選考委員をやっています。カタリバの今村久美さんは第6回の受賞者です。ところが彼女は賞をいただいたときに「女性なのにがんばっている」と言われているようで違和感があったそうです。「なんで私がこれをいただけるのか分かりません」という感じでしょうか。私は目が点になってしまった(笑)。でも授賞式で先輩女性たちのスピーチを聞いて、先輩方の苦労によって私たちは違和感をもたずに仕事を選べるようになったのだと実感したそうです。

彼女は自分のやっていることの社会的な意味をそこで発見したのだと思います。だから、最初から「これは社会的に重要だ」というような重さがない。

そこがいろいろな人、とくに若者の共感や、参加を呼んでいるのではないでしょうか。

宮垣

それは象徴的ですね。

萩原

だから、若い人たちの発想は、「これがあるといいな」で、やりたいことをやっている。小島さんも、mustではなくてwillのほうなのでしょう。

小島

ホームレスも農家もお互い幸せになるし、誰も困らないからいいかなと思って。

萩原

だって、やっている内容に比べると、ものすごく爽やかですものね。

金子

そうだねえ。本当に大丈夫かな、みたいな(笑)。

宮垣

さらっと言うけど、すごいことをやっている。何か新しい世代のNPOの姿という感じがしますよね。

山田

フットワークが軽いんですね。

金子

でも軽いだけじゃどこかで挫折しますから、やはり強さがあるんです。そういうのはいいですよね。

萩原

また、若い人たちのやることを応援しようという人たちも増えてきたということでしょうね。

小島

近所の農家さんたちが私の取り組みを知って、引きこもりの子やホームレスの人が来ると「暑いのに頑張っているね」と声を掛けてくれたりします。それはとても自信になります。新しいことを始める次世代のNPOを地域が応援する風潮もでてきているのかなと思います。

山田

SFCのいいところは、身近なロールモデルができたというところが大きいのかもしれません。新しくできた団体が先輩のところに資金調達の方法とか、組織運営のノウハウを聞くことができるのですね。

宮垣

確かに先輩と後輩のつながりというか、そういう意味でのネットワークがあるのでしょうね。今は、他の学部の学生でも同じようなことが見られるようになって、若い社会起業家もさらに増えてきました。SFCという枠を超えて、慶應全体の文化となったと言ってもいいように思います。

今日は、NPO法施行から20年をきっかけに世代の異なる方々にお集まりいただき、最後は大学の果たす役割にまで議論が及びました。当時はたしかにブームと言えるような状況だったわけですが、大事なのはその後で、着実に定着していることは一般に知られていないかもしれません。

一時の流行で終わらせず、冷静に向き合い、こうして折に触れ議論することもまた大学の重要な役割だろうと思います。多岐にわたる話を有り難うございました。

(2018年9月13日収録)

宮垣

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。