登場者プロフィール
宇野 重規(うの しげき)
東京大学社会科学研究所教授1991年東京大学法学部卒業。96年同大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。2011年より現職。専門は政治思想史・政治哲学。著書に『未来をはじめる』『民主主義とは何か』等。
宇野 重規(うの しげき)
東京大学社会科学研究所教授1991年東京大学法学部卒業。96年同大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。2011年より現職。専門は政治思想史・政治哲学。著書に『未来をはじめる』『民主主義とは何か』等。
三浦 まり(みうら まり)
その他 : 上智大学法学部教授法学部 卒業法学研究科 卒業塾員(1991政、93政修)。カリフォルニア大学バークレー校(Ph.D)。東京大学社会科学研究所機関研究員を経て現職。専門は現代日本政治論、ジェンダーと政治。著書に『私たちの声を議会へ:代表制民主主義の再生』等。
三浦 まり(みうら まり)
その他 : 上智大学法学部教授法学部 卒業法学研究科 卒業塾員(1991政、93政修)。カリフォルニア大学バークレー校(Ph.D)。東京大学社会科学研究所機関研究員を経て現職。専門は現代日本政治論、ジェンダーと政治。著書に『私たちの声を議会へ:代表制民主主義の再生』等。
吉田 徹(よしだ とおる)
その他 : 同志社大学政策学部教授法学部 卒業塾員(1997政)。2005年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学術博士。北海道大学大学院法学研究科教授を経て現職。専門は比較政治。著書に『アフター・リベラル』、編著に『民意のはかり方』等。
吉田 徹(よしだ とおる)
その他 : 同志社大学政策学部教授法学部 卒業塾員(1997政)。2005年東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。学術博士。北海道大学大学院法学研究科教授を経て現職。専門は比較政治。著書に『アフター・リベラル』、編著に『民意のはかり方』等。
西田 亮介(にしだ りょうすけ)
その他 : 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授総合政策学部 卒業政策・メディア研究科 卒業塾員(2006総、12政・メ博)。博士(政策・メディア)。立命館大学大学院特別招聘准教授等を経て2016年より現職。専門は公共政策の社会学。著書に『メディアと自民党』『コロナ危機の社会学』等。
西田 亮介(にしだ りょうすけ)
その他 : 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授総合政策学部 卒業政策・メディア研究科 卒業塾員(2006総、12政・メ博)。博士(政策・メディア)。立命館大学大学院特別招聘准教授等を経て2016年より現職。専門は公共政策の社会学。著書に『メディアと自民党』『コロナ危機の社会学』等。
堤林 剣 (司会)(つつみばやし けん)
法学部 部長法学研究科 委員長法学研究科 教授塾員(1989経)。ケンブリッジ大学大学院政治思想専攻修了(Ph.D)。専門は近代政治思想史。2007年より慶應義塾大学法学部教授。2021年同学部長。著書に『「オピニオン」の政治思想史』(堤林恵との共著)等。
堤林 剣 (司会)(つつみばやし けん)
法学部 部長法学研究科 委員長法学研究科 教授塾員(1989経)。ケンブリッジ大学大学院政治思想専攻修了(Ph.D)。専門は近代政治思想史。2007年より慶應義塾大学法学部教授。2021年同学部長。著書に『「オピニオン」の政治思想史』(堤林恵との共著)等。
2021/10/05
政治にかかわりたくない若者
衆議院選挙が迫る中、日本では、近年若年層の投票率が非常に低調であると言われています。本日は主に若年層の政治参加をどのように促すかということを切り口に、代議制民主主義の問題、デモクラシーの問題の本質的な部分にも触れたいと思っています。
まず国政選挙での投票率、特に若者の投票率を国際比較すると、OECD諸国内でも圧倒的に日本が低い。18歳から24歳までの層で見ると、30数%しか投票しない。他の国では当たり前のように60%台、高い国では80%台だったりするのですが、そこまで低いのはなぜなのか。
さらに、2016年の参議院選挙から選挙権年齢が18歳に下げられましたが、10代の投票率も16年は約47%でしたが、19年の参院選は約32%と急激に下がっている。
ただ、投票率の低下は日本だけの問題ではありません。日本は突出して低いですが、欧米でも似たように投票率は下がり、特に若者が選挙に行かないという現象が見られます。フランスも皆が政治に興味があるように思われますが、若者は政治に興味を持てなくなくなってきているようです。
イギリスでも似たような現象が見られますが、1つ変わったアイデアをご紹介します。ケンブリッジ大学のデイヴィッド・ランシマンという政治思想研究者が、この問題は構造的な問題、要するに、有権者は高齢者が圧倒的に多いので若者が100%選挙に参加したところで大した影響はないと言う。そこで、現在18歳以上となっているイギリスの選挙権年齢をランシマンは「6歳まで下げよう」と言うのです(笑)。
なぜ6歳かというと、ある程度の字は読めたほうがいいということですが、結局は親の言うことに従ってしまうとかいろいろな批判が寄せられました。でも、「昔、女性に投票権を認める時も、旦那の言いなりになると言われたがそんなことはなかった。そもそも子供が親の言うことを聞くと思っているのか」と反論する(笑)。
もちろん本人も、実現する可能性はないと思っているようで、構造的な問題があるということを指摘しているわけです。
そんなことも念頭に置きつつ、皆さんにディスカッションしていただきたいのです。三浦さんはパリテ(男女均等の政治参画)の問題を重視されていますが、若者の代表という問題を考えた場合に、現状をどう見ておられ、どうすればいいとお考えでしょうか。
パリテ実現を目指して、「パリテ・アカデミー」という一般社団法人をお茶の水女子大の申きよんさんと2018年につくり、若手女性を対象に政治リーダーシップ・トレーニングを行っています。
なぜ若者は政治に関心がないのか、あるいは投票に足を運ばないのかということには、いくつか理由があると思います。確かに構造的な問題は大きくて、若者は今、人口ボリュームが少ないから、結局、自分たちが何をやっても言っても意味がないと感じ、政治的有効性感覚が低いのだろうと思います。
また、学生のなかには、「正しい政治知識を持った人のみが正しい投票行動をすべきだ」といった強い規範を持っている層もあると感じます。自分に正しい判断ができるわけがないから、投票には躊躇する。だから、「6歳まで下げる」なんていう議論を日本でしたら、刺激的で、すごく面白いのではないかと思いました。
日本の場合はまず、政治参加の資格についてデトックス(解毒)する必要がありそうです。学生として、若者として、主権者として、あなたが生きている、その生活から来る政治的要望というのは、それだけで正当性があるし、そこを起点にして政治的発言、行動をしていい。このことをまずは伝えないといけないと思っています。
また、政治的有効性感覚が低い理由の1つは、政党の主張の違いがよくわからないということもあります。
高校などでも、「マニフェストを比べましょう」という主権者教育をしているようですが、自民党、立憲民主党、共産党の公約をそれぞれ読んでも、教育無償化だとか、子どもの貧困の解決、安心できる高齢化社会だとかの美辞麗句が並び、政党の差がそれほど見えない。
でもその背景にあるイデオロギーや価値観を見ていくと、実は相当の開きがあるのですが、それはかなり時間をかけて説明しないと分からないので、伝え方が難しいなと思っています。
選挙で前面に出るような合意争点を中心に見てしまうと差がよく分からないから、どこに1票を投じてもあまり差がないだろうと投票しない、というメカニズムも働いていると思います。
内閣府の国際意識調査では、「政治に関心を持っている」と回答する日本の若年層は、他の国と比べてそこまで低いわけではありません。日本の若者の特徴は、政治的関心が具体的な政治的実践に結びつかないことです。例えば党員になる、政治集会に参加する、あるいは単に政治の話をするといった行動に結びついていない。
2016年に選挙権年齢が18歳に下げられた直後は、現場の高校教師もかなり意識して主権者教育をしましたが、次の国政選挙の19年には投票率は下がってしまった。しかも18歳と比べて、19歳の投票率はより低いという状況です。
投票行動論では、加齢効果と粘着効果という2つの考え方があります。加齢効果というのは、若い時は選挙に行かなくても、年を重ねるごとにだんだんと選挙に行くようになることです。ですから今は投票していない若者も、年を重ねれば投票所に足を運ぶようになるかもしれない。
もう1つは、粘着効果という考え方です。これは、有権者が初めて選挙権を持った時に投票していると、その後も投票し続けるとするものです。つまり、選挙権を持った時点での投票率が高ければ高いほど、加齢効果も重なってその後は上がっていく。
なぜ今、高齢者の投票率が高いのかを考えると、彼らが初めて選挙権を得た時代が政治の季節だったからです。この2つの仮説から考えると、今の若年層はこれから投票に行くようになるだろうけど、粘着効果は働かず、今の中高年ほどの投票率には達しないだろうと予測できます。
若年層の投票率が年長世代より低いのはどの国も同じですが、他国のように直接的な政治行動へと波及しないのは歯痒いですね。
私は、『未来をはじめる』という都内の進学校の女子中高生相手に政治学の授業をした講義録を元に本を書いたことがあります。授業で印象的だったのは、すごく社会的関心が高くて、社会に積極的に関与し、何か役に立つことがしたいという意識が非常に強いにもかかわらず、政治にはかかわりたくない、と皆さんが言うことです。あんなに勉強がよくできて、社会的関心も知識もある生徒たちでも、やはり政治というものにすごく距離がある。
政治家だとか、あるいは各政党のイデオロギーであるとか、政治運動やデモなどいわゆる大文字の「政治」は、ものすごく遠いものと感じていて、それに参加するのは勇気がいるし、かかわりたくないと考えている。そういうものにかかわると、何か自分の穏やかな生活が、コントロールできないものに巻き込まれ、自分の平穏さが失われるような危機感があるという印象を受けました。
今の若い人たちは、非政治化の状況の中で、政治というものに対してコミットするのが非常に怖いことで、あまりイケていることではないと感じている。だから、投票行動にもなかなか結びつかないのかもしれません。
しかし、だから彼らは政治的関心がない、社会に対してコミットしていないと言うのは、短絡的な意見であって、彼らなりに社会へのかかわり方を考えていることは認めてあげたいと思っています。さりとて「いや、投票に行かなくていいよ」とは言えないわけで、やはり投票というものに対しての敷居の高さをどのように変えていくかが非常に重要な課題だと思っています。
ネット上での政治的な議論
大文字の政治にかかわりたくない、怖い、距離を感じるというのはおっしゃる通りだと思います。
僕は、ネットをあまりフォローしておらず、SNSをやっていないのですが、教室で得られる反応と、ネット上の反応は少し違うような気がします。西田さんいかがでしょう。
そもそもネット上では、誰が若いのか若くないのか、男性なのか女性なのかが曖昧です。匿名で書き込むことができるので、多くの人が、ある意味で安全圏から、実名の政治家や政治的なオピニオンリーダーに対して発言できる特殊な状況にあります。それが本当は自然な姿なのかもしれませんが、日本の場合、ネットだけにその特殊な空間が広がっているような印象です。教室での発言は実名と紐付いていて、評価されるからこそ安心してできないという逆転現象です。
吉田さんから18歳の投票率が比較的高く、19歳の投票率は低かったというお話がありましたが、これは教育の問題が、やはり密接にかかわっているのだと思います。高校は準義務教育と言われますが、学校での教育を通じた先生からのある種の介入が効くということではないでしょうか。
一方、19歳になると、4年制大学への進学率が5割を上回るような水準です。例えば大学生たちに対して何かを言っても、あまり通じないと感じますが、他にも教育課程に組み込まれずに社会人生活を送っている人たちもいます。
このことは、見方を変えるとやはり教育的な介入をしつつ政治的主体をどのように育てていくかを考えなければいけない、ということを物語っているような印象を受けます。
日本においては、政治的主体とその在り方は不文律になっていました。教育と政治が中立であることに重きが置かれ過ぎていて、政治的主体を育てていくということに対する関心が乏しかったし、歴史的経緯もあって議論も少なかったのではないでしょうか。
なるほど。最近の若い人たちは、教室内ではやたらと「空気を読む」と言いますか、人を傷つけないようにすごく配慮するというケースが多いと思います。だから批判もしないし、議論も盛り上がらないケースもよくある。
一方、ネットでは匿名ということもあって、いろいろな意見が出てくるわけですよね。日本でも、政治的な運動、議論というのは、SNS上ではよくなされているんでしょうか。
例えばMeToo運動を受けて、アジアでいろいろな形で独自派生していました。日本でも、女性がハイヒールを履くのが苦痛(KuToo)だ、履くことを義務付けられている職場もあるので、これをやめていこうという運動が立ち上がっていましたね。
それから、国会議事堂前のデモなどでも、インターネットと現場とを往復するような形で行われ、実際に北海道などで選挙運動に結びついた例もありますが、様々な形で展開されていたと見ています。
若い人たちが教室内で同調圧力が高くおとなしく見えるのは、もともと長時間拘束する学校空間がある上に、特にLINEのようなサービスで、密なネット空間に皆が常時つながっていることも影響しているかもしれません。最近、課題を皆でLINEでつなぎながら解くといったことをやっているようです。
和を乱さないとか、そこから弾き出されると生活に支障が出るような感覚が、もしかすると若い人たちの振る舞いや規範意識に影響を与えているのかなとも思います。
現代の若い世代のアクティビズム
最近、若者や女性のアクティビズムは本当に盛んになっていると思います。女性について言えば、2017年の伊藤詩織さん事件に端を発した日本でのMeTooは、米国発の「#MeToo」の少し前から始まるわけですが、2018年は財務次官のセクハラ事件や医学部入試女性差別などが明らかになり、社会の覚醒が一気に広がった年だったと思います。
2019年になると、さらにMeToo、KuTooの積み上げもあり、フラワーデモが1年間にわたり毎月全国で開催されたことで、性暴力の問題が可視化されていきます。そこに年末のジェンダーギャップ指数121位というニュースが飛び込み、社会に衝撃が広がりました。主要メディアや企業もジェンダー格差を無視できなくなったのです。ここまで持ってくることができたのは、フェミニズム運動の蓄積があると思います。
「アクティビズム」という言葉がピッタリくると思うのですが、個人として何かアクションをして社会を変えていきたい。生理の貧困を解決するとか、刑法を改正するといった個別のイシューが具体的にあって、署名運動を立ち上げる、インスタグラムやツイッターで拡散するといった手法も一般的です。その結果、成功体験が確実に積み重なってきていると思います。中心となっているのが20代の女性が多いという特色もあります。
でも、一方で、宇野さんがおっしゃったように、政党政治には大きな距離がある、忌避感があるというのはその通りです。自分たちのロジックとは違う、コントロールできない政党政治や永田町のロジックに巻き込まれてしまうことには大きな警戒感があると思います。
すみません、ちょっと私の認識がずれていたようで、日本でもそれなりに政治的な運動は盛り上がっているということですね。
ただ、主にSNS上のそういったムーブメントと、先ほど宇野さんが言われたような教室での雰囲気は、ギャップがあるのかなと思うのです。よく私は学生に「政治の話って、皆でディスカッションしているの?」と聞くんですが、「まずしません」という人が圧倒的に多い。
「意識高い系」という言葉をその時に初めて知ったんですが、肯定的に使われるのではなくて、敬遠する感じなんですね。マジョリティーはほとんど日常的に友達同士で政治についてディスカッションしてないという印象があるのですが。
マジョリティーは依然として意識高い系には見られないように注意しているというのはその通りだと思います。
二極化しているのでしょうね。一部の子たちの行うアクションが目に見えるようになってきたのはここ数年の動きです。それはごく一部であるのは間違いなく、その子たちも教室ではやはりアクションにかかわっているようには見られたくないようです。
でも、皆が社会や政治に関心がないわけではない。オンライン授業でむしろ発言はしやすくなっていて、クラスの中で受講生が投稿できるフォームを共有して、複数回投稿しないと単位は取れないと告げたら、すごくいい意見が出るんです(笑)。それもたくさん。だから、ちょっとしたきっかけさえ与えれば、関与を引き出すことは可能なのではないかという手応えを感じています。
「異議申し立て」の増えない日本
構造的な話をすれば、頭数でみれば日本の若年層は圧倒的に社会の少数派なわけです。さらに、もともと長老支配の社会で、文化資本を持っている人たちが皆、中高年の男性という中で声を上げるのは大変に難しい。
投票率の話に戻すと、北欧は例外としてOECD諸国では、大体この40年程で5~7%ぐらい投票率が継続的に下がっている状況です。つまり日本だけの問題ではなく、その背景には、今の代表制民主主義をめぐる問題があります。
ただ、一方ではイギリスでもアメリカでもフランスでも、1970年代と2000年代で比べて見ると、デモに参加をする、あるいはアクティビズム的な、不買運動といった形でも政治参加をする人は、大体どの国も倍に増えています。しかし日本の政治活動の熱量はむしろ低下している。
ロバート・A・ダールのポリアーキーに倣えば、「参加」と「異議申し立て」の両方があって初めて自由民主主義と言える。ところが日本は、参加の側面も、異議申し立ての側面も減ってしまっている。他の国では確かに投票するという参加は減っているけれど、その分、異議申し立てが増えているわけです。
日本で民主的な政治参加を表明する契機というのがどんどん狭まっているのは確かでしょう。投票率云々よりも、このことこそが民主主義にとって危機的なことだと思います。
おっしゃる通り、フランスでも異議申し立ては健在で、相変わらずしょっちゅうデモをやっていますが、日本はかなり少ない印象があります。
ピエール・ロザンヴァロンがカウンター・デモクラシー(la contre-démocratie)と言っています。デモクラシーというのはもちろん制度もあるけれど、外からいろいろと発言し、異議申し立てをすることが重だということですが、なぜそうならないんですかね。
村上春樹の初期の小説『風の歌を聴け』などでは、脱政治化した時代にどう振る舞うかが1つのテーマになっています。あの世代が今、若者の親世代になっているわけです。
主権者教育もなぜ今のような形になったのか、教育学者との共同研究では、70年代の学園紛争の後、過度に政治化した学校をどう沈静化するのかという当時の文部省の方針が影響していることがわかりました。「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」、ではありませんが、ポスト脱政治化の主権者教育がまだ見えていません。
家庭で政治の話をせず、親が投票に行かないと、子供はもちろん行かないですよね。フランスのように人口の半分ぐらいはデモ参加経験があって、親が子供を連れて一緒にデモをすれば、政治参加をするのが普通のことと思えるようになるのでしょう。
おっしゃる通りだと思いました。若い時にそういうものを体験する場があるかどうかがものすごく大きくて、日本でも60年代の当たり前のように大学生が政治参加した時代と、今の時代のようにどう政治に参加していいかの糸口すら見つからないという状況の違いはやはりあると思います。
私自身、正直言ってデモは、日本では全く参加したことがなかったんですが、2000年から2002年にフランスにいる時、あの「反ルペン」の時に初めてデモに参加して。
僕も子供をベビーカーに乗せて参加したことがあります(笑)。
普通の高校生がやるんですよね。参加したら意外と「デモって楽しいね」と思い、すっかり味を占めて日本に帰ってきて、反イラク戦争のデモに参加したら警察に囲まれて写真を撮られ、すっかり嫌になってしまった記憶があります。
これは経験を積むことがすごく大きいですね。台湾のオードリー・タンさんのデジタル・デモクラシーも、やはり学生運動の中のそれなりの成功体験の蓄積がある。相対的に今の日本ではその種の経験をすごくしにくくなってしまっている。
一般化は難しいですが、シールズ(SEALDs :自由と民主主義のための学生緊急行動)の参加者も大学によってずいぶん傾向の違いがあったように思いました。リーダー層で目立ったのは明治学院やICUで、おそらく留学体験もあり、学内に外国人留学生の人が多いと思われる大学です。
あるいは、最近三浦さんと私が関係している「NO YOUTH NO JAPAN」という若い学生たちを中心とする組織なども北欧に留学した人たちが始めているんです。
やはり、若いうちから「政治には当たり前に参加できるんだ」という経験を積めば、行動も変わってくる可能性はあると思います。
高くなる「議論のコスト」
西田さんにお聞きしたいのですが、少なくとも私の若い頃にはなかったインターネットというものが今はあるわけです。それを突破口として、何か希望といいますか、変化の兆し、あるいは可能性はあるんでしょうか。
若者たちに「政治とかかわると危ない」とか、「偏りたくない」という認識がある中で、1歩踏み出せば匿名で異議申し立てができるようになったことは好ましいと思います。もう1つ、コミットメントということで言えば、活動している団体などにクラウドファンディングなどで、お金を出しやすくなったという点は、肯定的に捉えられるでしょう。
しかし、そもそも根本的な問題のようなものはあまり変わっていないという認識を持っています。
僕はやや特殊な職場で、理工系に特化した学生を相手にしていますが、彼らは基本的に、大文字の「政治」にはかかわりたくないと思っていると同時に、偏った認識に強く毒されている人も見かけるのです。
公民系科目のウェイトが低く、総合大学や文系の大学生よりも、ある種の陰謀史観的なものの影響を受けやすいのではないかと考えています。ジェンダーの問題に関しても大変関心が低い。その一方で、彼らの学力は理工系に関していうと極めて高いというギャップもあります。
大学入学後に適切な文系の教養科目を履修して欠落を補完しないと、自発的に陰謀論みたいなものをどんどん掘り下げていってしまうのではという心配もあります。
救いはある種の賢さで、「いやデータは違う」とか見せていくと、だんだん戻ってくる点です。そういう意味から言えば、「ネットがあれば自ずと良くなる」というような感覚はあまりないですね。
非常に重要な指摘でおっしゃる通りかと思います。
一方、異議申し立てというのは、本来の民主的な理念からすれば、対話の中でなされるものだと思います。福澤諭吉が「多事争論」と言っていますが、いろいろな意見を表明して戦わせ、そこからよりよい意見が出てくる。ジョン・スチュアート・ミル的な発想ですが、特にツイッターなどでは、現在はそういったプロセスと言いますか、作法を伴わない批判や異議申し立てになっているという印象を私は持っています。
どうやってその批判、対話をするのか。「批判(critique)が重要なんだよ」と、授業で僕は再三強調しますが、ただ批判すればいいというものではなく、やはり相手の言っていることにもちゃんと耳を傾けてキャッチボールをする。これは民主主義にとって重要なことだと思うんですが。
議論が重要だというご指摘、全くその通りだと思います。しかしその一方で、議論のコストがとても高くなって、議論をするには時間も場所も必要です。
するとなぜ意見が異なる、ある意味不快な相手とわざわざ議論をしなければいけないのか、いま一つよく分からないという人たちが増えているような実感があります。また「論破される」などといって態度変容を嫌う雰囲気もあります。
さらに、分野が離れた研究者が話す、いわゆる論壇のような場所もなくなりつつある。それどころか、最近の実証研究だと、言葉の認識さえも世代によって違いが出ているという指摘もあります、例えば「保守」とか「革新」といった基本的な認識が異なってきていることも指摘されています。
本来、議論をするということと態度変容に対して寛容であるということは、おそらくセットである必要があるはずです。しかし、最近の若い人たちの中では、態度変容をすることが「負け」とか「一貫性を損なう」というような、ある種の恥意識みたいなものと結びついている側面があるようです。
そうであればあるほど、議論をして態度変容をして、それを認めて何かを一緒にやっていくということのコスト意識が高くなってくる。これをどのように解除していくのかが大きな課題だと考えています。
「多事争論」を阻むもの
その「勝ち負け」というのは昨今本当によく見られますね。実際、国政でも議会政治を単に「勝つか負けるか」のように考えている人もいるような気がします。やはりそうではなく、議会というのは共同体全体のための意思決定であり、そこで勝った側がどうやってマイノリティーその他も含んだ協調性を追求するかという理念が、本当はあると思うのですが。
最近の考え方に討議民主主義、熟議民主主義というものがありますが、対話が重要だけれど、そのコストが高いとなると少し暗い話ではありますね。
おっしゃるように対話による議論のキャッチボールの中から態度変容を促すというのは、民主主義の基本形というか理想形だと思うんですが、現在それは社会的にはおそらく共有されていないと思うんですね。
そこでは、主体的に判断ができる、自律的で対等な個人が参画するという前提があると思うんですが、学生からすると対話や議論の場に権力性を見出している。先生と学生では、知識も違うし、権力も違う。
あるいは男性と女性でも、いろいろな形で権力性が作用しているのに、皆が自律的で対等な個人であるという前提をおいてしまうのは、リベラリズムの虚構、あるいは欺瞞のように感じられるのではないかと思います。
つまり、異議申し立てをしたくても、それを言ったらどれだけ叩かれるのかと肌身で感じているところがあって、警察にしょっ引かれることはないとしても、就職活動ではマイナスになるのではないかと、かなり意識をしていると思います。SNSなどでも、個人が特定されてしまう可能性はあるので、「就職活動で不利になるから政治的発言を控えておこう」といった自己規制はよく聞く話です。
特に女性はものすごく叩かれるわけですね。それは批判ではなく誹謗中傷やヘイトの類です。特に性差別や性暴力に対する異議申し立ては、苛烈な攻撃を受けます。ネット空間ではフェミニストを標的とするバッシングは凄まじいです。若い世代は、「女性が目立つとこんな目に遭うんだ」と、SNSを通じて起きていることを知っているので、SSNで声を上げやすい一方、かえって敷居が高まっているとも言えます。
プラットフォームやプロバイダーの責任をどのように負わせれば、より安全な言論空間をつくれるのかが課題ですが、どこまでが表現の自由でどこからが誹謗中傷やヘイトなのかという境界線はまだ社会で共有されていないわけです。やはりこの問題を解決していかないと、理想とする「多事争論」には至らないと思います。
信頼が醸成される条件
西田さんがおっしゃった、議論のコストは、いろいろな意味で高くなっていますね。
1つは人口動態の話ともかかわっていて、今、先進国で意識調査をすると、「子供の世代は自分たちほど豊かになれないだろう」と考える人たちが多数派になっています。実際、多くの国で親世代が若かった時代に獲得できたものを今の若年層は手に入れることができていません。これは2000年代に入ってからの傾向で、戦後初の現象ですが、日本でその割合はとりわけ高い。
つまり、明日は昨日より悪くなるという前提の中で、とりわけ若年層であればあるほどそれを感じつつ、日々を生きている。その中では、「いかに勝つか」ではなく「いかに負けないか」がある種の合理的な戦略になるんです。その中で、国や地域といった共同体、自分の損得に関係ない他人のことについて考えて、参加し、発言するのは相当に高いハードルでしょう。
このことは、先進国で勢いを増しているキャンセル・カルチャーも説明します。日本でもオリンピックの際に噴出しましたが、自分の正義感にそぐわない、ポリティカル・コレクトに沿わない場合、相手の発言する権利そのものを奪おうとする。負けまいとする姿勢が議論のコストを上げている。
堤林さんがおっしゃった熟議民主主義のように、行動変容を促すことを是とする空間には、他人に対する、あるいはその場に対する特定の信頼が必要になるわけです。この信頼というのは、ある種の同質性を相手と共有している確信がないと成り立ちません。その中で初めて相手に届く批判が可能になる。
これだけ多様化し、個人化する社会の中では、そうした相互信頼はなかなか醸成されないゆえに、相手を否定するような批判になってしまう。それが言論のモードになってしまっているのが現状ではないでしょうか。
本当に昨今のSNSを見ていると、「はい論破」とよく言いますよね。要するに、相手のことをぶった切るわけです。「俺は論破した。おまえの負け」とお互いに言い合っている。
この傾向の1つの大きな特徴は、相手の議論を聞いたり、相手の立場をおもんぱかったり、妥協したり歩み寄ったりすることが決してないことです。目の前にいる敵ではなくバックにいる自分を支持している味方が重要なのです。議論で相手をぶった切って帰ってくれば、自分の味方からいいぞと応援してもらえるわけで、下手な妥協なんかしたら、むしろ後ろから叩かれる。これではなかなか対話の文化には程遠いと思います。
ではどうしたらいいのか。先ほどジョン・スチュアート・ミルや福澤諭吉のこともおっしゃいましたが、もともとはイギリスのある種の議会政治には基盤があったと思うんですね。少なくともリーダー間では、一定の文化や教養も共有していてイデオロギー的には対立していても、文化的なバックグラウンドはさほど遠くないし、個人的な人間関係もあると。
あるイギリスの政治家が結局、議会政治で一番重要なのは、共に食事をすることだと言っていました。普段どれだけ大喧嘩しても、一緒に食事すると、人間は生理的に憎しみがあまり持てなくなってしまうわけです。本当に対立している人でも、一緒にご飯さえ食べていればいざという時には妥協の余地があると。
比喩としての食事は重要なんだろうと思います。何らかの身体性を伴う共感に近いものです。少なくともSNS上でも擬似的に何らかの空間を体験でき、何らかの身体性の感覚を伴う場を共有したいという感じがします。
政治が始まる場所
教育について考えてみたいと思います。主権者教育とか高大接続改革という国の政策がありますが、このあたりのことについてご意見を伺えればと思うのですが。
今、立憲民主党から立候補している原田謙介君は、もとは主権者教育をするNPOを運営していました。「学生にどういう話をするのか?」と聞くと、皆さんのコミュニティーで欲しいもの、つまりどういう公共財が必要なのかを議論してもらうということでした。
例えば「公園が欲しい」という意見が出れば、「じゃあ実際に公園を造るためには何をしたらいいのか」ということになる。そのためには役所や近隣住民との交渉、あるいは補助金をどう獲得するのか、という話になる。彼は、「そこから政治が始まるんです」と言っていました。
その通りで、それぞれ何らかの生活上の不便を感じている人たちがその困難をどのように協働して取り除き、より良い世界にしていくのかというところから、徐々に政治的なものが始まっていくと思うんですね。
最近、スウェーデンとフランスで、徴兵制が一部復活しました。フランスは1995年に、スウェーデンは2010年に兵役を廃止したものの、復活に目立った世論の反対もありませんでした。怪訝に思ってスウェーデンとフランスで尋ねてみると、「これは社会政策だ」という答えが返ってきました。
つまり、今の時代、若者は放っておくと、自分の私的生活の空間だけに世界がとどまってしまう。そうではなく、1年の中で数日間でも、自分と社会的バックグラウンドが全く違う人間と同じ場を共有して、それこそ「同じ釜の飯を食べて」みる。そういった社会経験がないと、社会が分断され崩壊してしまうゆえの社会政策なのだという説明を受けて腑に落ちました。
日本の文脈に戻せば、われわれの権力観というか、政治との接し方を、どこかで転換することが必要です。今の権力観と政治観は、私的空間、私的領域からいかに権力の介入を排除するか、という視点が濃厚です。
そうではなく、協働しながら良き権力をどのようにつくりあげていくのか、そのためにどのようにして共同体に参画していくのか、参画するための文化資本をどのように調達するのかということを真剣に考えないと民主主義の維持は不可能です。
私がパリテ・アカデミーの中で若手女性を中心にやっている政治教育では、熱心な高校生も来るんですね。議員を目指すセミナーにどうして来るのか聞いてみると、女子高校生としての生きづらさみたいなものを抱えているわけです。
例えば痴漢に遭った話を周囲にすると、「短いスカートをはいているから」「車両を変えればいいじゃない」と自分のせいにされる。二次被害にあってしまうのですね。社会の問題のはずなのに「自分が悪い」と言われて傷つき、何か違う気がした。これは政治を変えないといけないのでは、と思って来る人がたくさんいます。
最初の気付きや違和感から政治参加へと至るには、個人が抱えている悩みや不安が、個人の問題ではなく社会構造の中でつくられたものであり、それは政治のアクションによって変えることができる、と思えるかどうかにかかっています。この接続が見えてくると、政治にかかわらないといけないと思えるようになります。
ここで意味する「政治」は、吉田さんがおっしゃるように、良き権力を作り出すこと、つまり権力を取り、それを行使することで、政策形成に影響を与え、具体的な社会の変化を起こすことです。
女性の場合、女性政治家のイメージも悪いし、「とても自分は無理」とか「そういう女性になりたいわけではない」というようなリアクションが来てしまう。でも、政治というのは皆の悩みや不安を聞き、一人ひとりの悩みを社会の問題として普遍化して捉え直し、そして問題を生じさせている、あるいは悪化させている制度を見つけ出し、それを変えていくこと。
この作業を市民と共同で行うのが政治家という職業です。このように政治家のイメージを転換すると、がぜん興味を持ってもらえます。自分が経験した嫌な思いを次の世代には経験してもらいたくない、そのためには政治が必要だ、と実感できるからです。
そうやって、女性として理不尽な思いをしたという経験を掘り下げることを、ワークショップでは繰り返していますが、特に効果的なのがスピーチの練習です。日本の教育の中ではほとんどされないんですね。練習をすると皆、上手くなります。言葉が研ぎ澄まされていくのです。スピーチ練習を中学高校で行っていくことが主権者教育としても必要だと思います。
スピーチ練習の際、「友達のスピーチを聞いたらまず褒めてね」と言うと、友達から良かったねと言われて、すごく嬉しくて自信になりました、と報告する子が多く、そんなに褒められていないんだと逆にびっくりしました。
日本は社会全体が厳しすぎるというか、駄目出しが多く、褒められる経験が少ないので若い人は自信もありません。大人の責任として、褒めて育てることをもっと意識する必要もあるのではないかと思っています。
地域の身近な課題を扱う教育
日本の若年層のさらなる特徴は、自己肯定感が極めて低いこと。先進国の中で最下位です。もう1つ、OECDの調査で見ると、義務教育の中で自分だけで学習する時間が日本ではすごく長いんですね。共同で何かを学ぶ、学習するという機会がすごく少ない。自分に自信がなく、人と共同作業もしない。そうしたところに民主政治が生まれることは期待しにくいでしょう。
僕は中学校の公民と高校の公共、政経の教科書を書いています。来年度の新設科目「公共」というのは、ずいぶん意気込んで作られたのですが、少なくとも私のやっている会社は、ディスカッションのテーマは増えたものの、基本的枠組みはあまり変わらない。
やはり冒頭に出てくるのは、例の大統領制、議院内閣制、小選挙区制、比例代表制、三権分立……と制度の解説が延々と続くんです。僕は「いい加減、そろそろ変えません?」と言ったんですが、あれをやられると、政治というのは基本的に知識をひたすら習得するものだと捉えられる。後ろのほうでようやく地方自治になって、地域の課題を見つけましょう、みたいな話が出てくるんですが、大体時間切れでそこまで行かないという感じです。
高校になるとほとんど地域とかかわりません。一番多感でかつ能力もエネルギーもある時期なので、やはり、地域の課題ともう少し向き合ってほい。つまり、民主主義は本来、自分の身の回りのことを自分たちの力で解決するものなんだ、というところからやるべきだと思うのです。教科書の構成や授業のやり方も変える余地があると思うんですね。
ただ、変化は感じています。私は東京大学公共政策大学院と一緒に「チャレンジ‼ オープンガバナンス(COG)」という自治体が課題を出して、学生団体あるいは市民団体がその解決策を提案するというコンテストをやっていますが、今年は、高校生や大学生の学生チームが激増して、しかも出来がとてもいいんですよ。
今は高校生ぐらいでも実に立派な調査をし、提案して実際に行動に移す人も少なくない。ですから、地域課題や身の回りのことを自分たちの力で解決するということをもう少し高校段階でやってほしいと思います。その上で、大学で非常に専門的な勉強するのがいい組み合わせだと思います。
論争的な問題を高校で扱えるか
教育については、冒頭で申し上げましたが、政治的な主題に関する社会規範をどのように具体化していくかを考える機会を持つということが、われわれの社会では看過され過ぎていると考えています。
日本では、高校への進学率は95%を上回る数字で、多くの人たちが18歳までは学校の現場にいます。そうであれば、どのような、それからどのようにして政治的主体を育てていくのかということを高校までのあいだに議論しないといけないのではないでしょうか。
政治学の政治的社会化に関する概念は、もともとは社会学の社会化の概念に由来します。政治に対してコミットメントしなくても何かを選択しているということでもあります。介入してもしなくても、なにがしかの価値は形成されます。そうであれば、介入することにも一定の意義があると言えます。
諸外国の主権者教育を見てみても、大きな改革、とりわけイギリスのシチズンシップ教育であるクリックレポートは、新しい社会民主主義の流れと不可分なものだったといえます。そうやって2000年代以降、政治的主体を育てることに関して、強い問題意識を向けていったのだと思いますが、日本では投票年齢が引き下げられても関心が薄いままです。
EUも、EU憲章の中に「EUシチズンを育む」という趣旨のことが強調されるようになりました。われわれの社会でも、政治的主体をどうやって育てるのか、どうあるべきかという主体的構想が必要ではないでしょうか。
日本は価値をめぐる問題について学校現場に持ち込むことがタブー視され過ぎていると思います。地域に入って実際に活動することも重要だと思いますが、学校から送り出される地域の現場はステレオタイプ化された職場も少なくなく、論争的な問題をどのようにして学校で扱うのかということがもっと考えられるべきです。
その時に重要になってくるのは、学校教員をしっかり守るためのルールを作っていくことではないでしょうか。実際に主権者教育に関心が向いた時期にも、学校の現場に電話をしてくる政治家が与野党問わずいたことが知られています。学校教員をしっかりと守りながら、価値に関する問題を扱える環境づくりが大事ではと考えています。
すごく重要なことをおっしゃったと思います。価値が対立しているものを高校の段階で果たしてどこまで扱えるのか。高校の先生を守らなければいけませんので、政治的に難しい面があると思います。現状の政治情勢下では、むしろ、大学が積極的に引き受ける責務があるのではないかと思います。
高校の段階では、政党対立軸とは直結しない地域課題の解決に目を向けることから始めるのが有効ではないかと思います。SDGsの視点で議論することも、仕掛けとして効果的だと思います。なかでも地域の議会を傍聴することは是非やってほしいと思っています。
パリテ・アカデミーでは必ず女性の地方議員とのパネルディスカッションを組み込んでいます。若者の多くは地方議員にあまり会ったことがないので、何をやっているか、どんな人たちなのかほとんど知りません。議員が議会で発言したことによって生理の貧困が解決できたとか、学校にクーラーを付けられるようになったというような話を聞くと、地域の課題の解決の過程が目に見えて分かるのです。
地域の現場に入っていくことが重要というのはその通りだと思うのですが、結局のところ、われわれが議論する政治的主題の多くは、机上の空論を出ないことも少なくありません。そうであれば、論争的なテーマ、大文字の政治にかかわるようなテーマも、むしろ早い時期から行っておいたほうが良いのではないかと思えてしまいます。
例えば、日米の安全保障の枠組みをこのまま維持すべきか否かといった大きな対立的な論点を、早い時期から面白く、中学生や高校生たちが外部から茶々を入れられることなく議論できる環境を用意することも、併せて重要だと思っています。
確かに地域の問題というのはお仕着せのプログラムになりがちで、半強制ボランティアみたいなものだとあまり面白くないですね。
でも、そういう状況を打破しているところもあります。僕がコミットしている島根県の隠岐島前高校では、高校生たちが主体的に島の改革の主役に躍り出ています。三陸地域の中学校などでも、東日本大震災の後の復興の過程で、中学生が声を上げて、すごく活躍しています。
私は東大生を川崎市の宮前区の団地に毎年連れて行くんです。田園都市線沿線のおしゃれな街なのですが、実は高度成長期に団地を造り、大体が高台にあるので、皆高齢化して買い物難民化しているんです。そのようなところに、毎年東大生を連れて行って、買い物の手伝いをやらせるだけで、地元にこういうことがあるとは思いもしなかった、みたいなことを言う。ああいう経験をして考えてもらうことは東大生にとってもいいんだなと思いました。
やはり、高校段階でも大学の先生が協力して、もっとソフトを多くしなければいけないし、古臭い地域に関してはちょっと打破したいですね。
一方で、西田さんがおっしゃった、安全保障などの大きな問題に対して中学生や高校生の時から安全に議論できるような環境を整備し、また先生を保障するということはまさに正論で、その点に関しては異論はありません。
安全に議論できる場をどうやって確保するかが課題だと思います。高校の現場で一番大変なのは、歴史教育ではないかと思います。
東京都の場合、卒業式での日の丸への起立、君が代の斉唱で多くの教員が懲戒処分を受けている中、日本の植民地責任・加害者責任を問う自由度が今の高校にあるんだろうかと非常に危惧しています。
歴史をどのように総括していくかという教育は、政治的主体性の育成としても極めて重要なテーマであるにもかかわらず、高校までの段階では、そのような言論空間が窮屈なのが現実だと思います。すると、それをどこでやるかといった時、現実問題として大学の役割が大きくなる。大学教員が協力して社会教育を広げることも必要でしょう。
慰安婦問題なども本当に語りにくいのですが、学生たちがネットで調べると、多くが歴史修正主義のもので、陰謀論みたいなものにはまっていく学生もいる。そうならないような歴史教育の場をどうやって確保するのかがとても重要ではないかと思っています。
社会を動かす」という民意
本特集のテーマは「主権者と民意」としていますが、これは抽象的な概念で、政治学者の間でも意見がなかなか一致しないわけです。
最後に皆さんから1人ずつ、今までの議論を踏まえて、この「主権者と民意」というものはどのように説明できるか、こうすればもう少しリアルに、身近なものとして感じられるよと、若者に向けてメッセージをお願いしたいんですが。
世の中というのは、51%の人が動かないと変わらないかというと、実際には決してそうではないんですね。一部に前のめりに改革する人がいた時に、「面白いね。私もやってみよう」というフォロワーが20%ぐらいいると、一気に社会が動いて、変わっていくということはよくある。
今の若い人は、数の上で圧倒的に少数派だから社会を変えるのは難しいと子供の頃から散々聞かされていると思うんですが、自分たちで社会を動かして変えることができたという成功体験を持てるといいですね。そのためにはやはり実験をしてもらい、その実験を上の人たちがもっと応援するべきです。
そういうことを通じて少しずつ社会が変わっていき、気付いてみると大きく社会のありさまが変わっていく。そういう形を通じて示されるものも、これはこれで民意だと思うのです。
選挙で示される民意も重要ですが、日々の政治的実践の中で示される、「こうなったら、ちょっと社会が良くなる」というささやかな思いが実践を通じて少しずつ形を現し、具体的なことの実現につながり、社会が変わるならよいなと思います。
民意というと、「そこにあるもの」とイメージされがちかもしれません。しかし、実際には、時代に応じて、あるいはその時々の文脈での、その時々の多数派で、尺度や文脈が変われば民意のあり方は変わります。論点Aではaという民意が、論点Bではbという民意が多数になる可能性がある。その尺度の多様性、つまりその文脈において、その時々の多数派をつくる努力があり、結果としてその尺度や物差しが多様であればあるほど民主的な社会と言えるのではないでしょうか。
おそらく民主主義という政治の仕組み、あるいは考え方に優れているところがあるとすれば、正解があるのではなく、常にその文脈において、その時々の正解をつくり出す力を持っていることにあると思います。であれば、自分が動くことによって物事が動くことの楽しさ、その楽しさの裏にはもちろん悔しさは付き物でしょうが、若年層がそれを体感できる場所をいかにつくっていくかが必要だと思います。
ロバート・パットナムという政治学者が書いている僕の好きな言葉に、「若年層や若者世代は、将来の社会の先行指標だ」というものがあります。つまり、今の若者が置かれている状況を見れば、将来の社会がどうなっているかが分かると。
日本の若年世代は自己肯定感が低いことも影響して、自殺率も高い。社会の矛盾のようなものを様々に押し付けられて、その中で喘いでいる。そうした世代が将来、社会に恩返ししようとは思わないでしょう。
さらに政治参加までを求めるならば、まずは彼らや彼女らが置かれている状況を変えるのが年長世代の責務です。それが、これからのわれわれの社会をつくっていくことにつながると思わないといけないのではないでしょうか。
誰も排除しない社会をつくるために
「民意」と言う時には、民意をいかに政治に反映させるかといった使われ方が多いと思うのですが、その「民意」からも弾かれてしまっているような、排除されてきた人たちの存在を、どのように社会の中で可視化して、意見を反映させられるかが重要だと思うのです。
日本は同質性が強い社会と言われていますが、今まで女性というのはその「同質性」から排除された存在としてあったと思うんですね。会食文化もほとんどの場合、女性はそこには入れてもらえないし、セクハラに遭いかねない場でもある。同質性を前提とする信頼関係というのは、女性が排除されていることを見えなくしてしまいます。
今までの同質的な、男性中心的な熟議のあり方に、入ることもできないような人たちが、女性に限らず、実はたくさんいる。その異質な存在と対話をして、同じ構成員と認識できるのかということが、とても重要な課題だと思っています。
日本の社会の中には外国籍で地方参政権も与えられていない人たちが多数暮らしています。移住者が増えていくなかで、政治的共同体を構成するのは誰なのかが問われます。「主権者」だけで構成される社会に、私たちはすでに住んでいないのです。
その主権者ではない人たち、外国籍の人や、まだ選挙権年齢に達していない未来の世代たちを含めて、私たちがどこまで他者を想像できるのか。排除されてきた人の存在にどれだけ思いを馳せられるのか、沈黙させられてきた人たちが声を上げることを、どうやって社会として支援していくか、という視点が重要だと思っています。
地域社会にしても、カッコ付きの「民意」にしても、それをデフォルトのものとして考えずに、常に変容するものであって、そうなるかどうかは自分自身のアクションにかかっている。そのようなメッセージを社会や若者たちに発信しながら、自分もそれにかかわっていきたいと思っています。
主権者からも漏れてしまう人々に目を向けるということは重要な指摘ですね。
これまでに、メディアを多面的に扱う仕事をしてきました。研究だけではなく、世論調査の設計、行政や企業の広報やPR、それから、メディアをどのように規制するのかという業界団体や省庁の議論にかかわってみて感じるのは、民意は、完全にコントロールはできないまでも、少なくとも、カッコ付きの「民意」に対して介入したい、デザインしたいと思っている主体は無数にあるということです。
介入しようとする政治性の読み解き方を、若い人たちが意識し、学ぶ機会が必要です。ネット上のある種の陰謀論や歴史修正主義的なものに対しての距離の取り方、つまり、自分たちが見ているものに対して介入しようという意思を持っている人がたくさんいるということに目を向ける契機のことです。カッコ付きの「健全な主権者」を育んでいく時に、日本社会で欠落している側面ではないでしょうか。
同時に、やはり大文字の公共の担い手をどのように育て、デザインするのかということを、広く社会の中で議論できる土壌をつくっていく契機をつくれたらと思っています。
皆さん、素晴らしい重要なご指摘をくださり、有り難うございます。非常に有意義なディスカッションになったのではないかと思います。
本日は長い間、有り難うございました。
(2021年8月19日、オンラインにより収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。