慶應義塾

【特集:福澤諭吉と統計学】座談会:150年のスパンで「統計学」を見る

登場者プロフィール

  • 西郷 浩(さいごう ひろし)

    早稲田大学政治経済学術院教授

    1984年早稲田大学政治経済学部卒業。92年同大学院経済学研究科博士後期課程中退。同年早稲田大学政治経済学部専任講師。99年より現職。専門は統計調査論、統計制度史。著書に『初級 統計分析』等。

    西郷 浩(さいごう ひろし)

    早稲田大学政治経済学術院教授

    1984年早稲田大学政治経済学部卒業。92年同大学院経済学研究科博士後期課程中退。同年早稲田大学政治経済学部専任講師。99年より現職。専門は統計調査論、統計制度史。著書に『初級 統計分析』等。

  • 椿 広計(つばき ひろえ)

    その他 : 情報・システム研究機構 統計数理研究所長(名誉教授)その他 : 特選塾員

    東京大学大学院工学系研究科計数工学専攻修士課程修了。工学博士。専門は応用統計学。1987年~97年慶應義塾大学理工学部専任講師。95年よりSFCでも統計教育を行う。独立行政法人統計センター理事長等を歴任し、2019年より現職。筑波大学名誉教授。

    椿 広計(つばき ひろえ)

    その他 : 情報・システム研究機構 統計数理研究所長(名誉教授)その他 : 特選塾員

    東京大学大学院工学系研究科計数工学専攻修士課程修了。工学博士。専門は応用統計学。1987年~97年慶應義塾大学理工学部専任講師。95年よりSFCでも統計教育を行う。独立行政法人統計センター理事長等を歴任し、2019年より現職。筑波大学名誉教授。

  • 大久保 健晴(おおくぼ たけはる)

    法学部 教授

    塾員(1995政)。2000年東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。明治大学准教授等を経て、19年より現職。専門は東洋政治思想史・比較政治思想史。著書に『近代日本の政治構想とオランダ』等。慶應義塾福澤研究センター所員。

    大久保 健晴(おおくぼ たけはる)

    法学部 教授

    塾員(1995政)。2000年東京都立大学大学院社会科学研究科博士課程単位取得退学。博士(政治学)。明治大学准教授等を経て、19年より現職。専門は東洋政治思想史・比較政治思想史。著書に『近代日本の政治構想とオランダ』等。慶應義塾福澤研究センター所員。

  • 馬場 国博(司会)(ばば くにひろ)

    一貫教育校 湘南藤沢中等部・高等部教諭

    塾員(1992理工、2005理工博)。博士(理学)。1994年より現職。専門は数理統計学・データサイエンス教育。非常勤講師としてSFCの2学部でも統計学の授業を担当。著書に『問題解決学としての統計学』(共著)。慶應義塾福澤研究センター所員。

    馬場 国博(司会)(ばば くにひろ)

    一貫教育校 湘南藤沢中等部・高等部教諭

    塾員(1992理工、2005理工博)。博士(理学)。1994年より現職。専門は数理統計学・データサイエンス教育。非常勤講師としてSFCの2学部でも統計学の授業を担当。著書に『問題解決学としての統計学』(共著)。慶應義塾福澤研究センター所員。

2020/06/05

画像:「万国政表」(1860[万延元]年)

現在の統計学ブーム

馬場

今日は「福澤諭吉と統計学」というテーマの特集座談会ということで、統計学を150年のスパンでご出席の専門家の方と見ていきたいと思います。

現代はビッグデータの時代、またAIの時代と言われていますが、ビッグデータから意味のある知恵を引き出すのが統計学になります。また、AIの基盤となっているのもデータサイエンス、統計学ですから、現在、統計学ブーム、データサイエンスブームが起こっているわけです。

まず、今のこの状況をどのように見られているか伺いたいと思います。椿さんからいかがでしょうか。

椿

私は統計数理研究所の所長をしています。統計数理研究所は76年前、戦争中の1944(昭和19)年にできました。当時の新聞を見ると「敵米国では今次の戦争を数学戦または物理戦と称し、統計数学者の組織的動員を行っており」とあります。それから75年たったわけですが、戦争ではありませんが、データを用いて、様々な政策や行動、または何らかの運用が直接導かれる機会が多くなりました。データが非常に重要で、価値が高い時代になったと思います。そのために、統計教育やデータサイエンス教育が小中高から大学に至るまで充実を求められています。

そのような時代背景の中で統計数理研究所は研究機関ですが、日本の大学において、データサイエンス学部が、まだできたばかりということもあり、当面はそういった高等教育の支援をしていかなければいけないということになっています。

西郷

私自身が統計学と初めて出会ったのは大学1年生の時です。最初のうちは、いわゆる経済に応用される計量経済学に興味を持っていました。そこからだんだん、統計調査をはじめとした統計のデータをどのように作るべきなのかということに興味を持ち始め、最近ではいわゆる統計学、あるいは統計調査というものが日本にどのように移植されてきたのかというところに興味を持つようになりました。

しかし、その部分に関しては最近興味を持ち始めたばかりですので、今日は皆さんから教えていただければと思います。最近のデータサイエンスというのは従来の統計調査とはまた別の形で捉えているデータなので、ここをどのように自分のこれまでの研究から考えていくかということが課題です。

大久保

私は東洋政治思想史・比較政治思想史を専門としています。主な関心は、統計及び統計学を政治思想史の観点から検討することです。

近代国家の成り立ちを考えるとき、統計がどのような意味を持つか。この思想課題について、西洋世界ではミシェル・フーコー、イアン・ハッキング、T・M・ポーターらによる研究蓄積がありますが、近代日本はどうであったのか。幕末明治の転換期、日本の人々は西洋の統計知とどのようにして出会い、それは近代日本の国家形成にいかなる役割を果たしたのか、その出発点となる近世蘭学まで遡りながら研究しています。

昨年、厚生労働省から毎月出される「勤労統計」の不適切調査問題がありました。これもまた現代日本の国家統治のうちに統計をどう位置付けるかという本質的な問題に関わっており、明治維新から150年たった今日、改めて問い直すべき課題であると考えます。

馬場

私は中学・高校の教員をしていますので、統計教育の立場から少しお話をしますと、この10年くらいで統計教育が、飛躍的と言っていいほど非常に充実してきたと考えています。

昔から統計というのは中高の数学科の中にあったのですが、長い間、実際には教えられてこなかった。しかし、前回の学習指導要領の改訂で統計学がやっと本格的に導入され、今年度の改訂では小学校から高校まで、数学だけではなく情報やいろいろな教科で統計を扱うことになっています。いかに統計教育を充実させていくのかということが喫緊の課題かと思います。

日本の大学にはこれまで統計学部というものがなくて、3年前にようやく滋賀大学にデータサイエンス学部が開設されました。ですけれども、慶應のSFCでは、20年以上前からデータサイエンス教育に力を入れてきています。

早稲田も2017年からデータ科学総合研究教育センターを創立されていて、今年の4月から、「データ科学センター」に改組されたようですね。

西郷

はい。そのセンター設立に先立って、統計教育を全学的に展開したいと考えている教員は結構いたのです。2010年に統計関連学会連合大会が早稲田大学であったのですが、私自身実行委員の1人で、統計関連の学会に所属している人たち全員に一度集まってもらうと、学内に統計学の先生方が15、6人おられ、こんなにたくさんいらっしゃることに驚きました。その後、現在の田中愛治総長も政治学の中に統計分析を早くから取り入れられている方ですので、田中総長と意気投合した形で、センター長の松嶋敏泰先生が全学を統合するような形の統計組織を作ったのです。

まだできたばかりですが、これが定着すれば、そのセンターが中心になって全学的な統計教育、ひいてはデータサイエンス教育に結び付くのではないかと思っております。

150年前の「統計熱」

馬場

最後にまた現代に戻ってきたいと思いますが、幕末から明治にかけての日本で統計学ブームがあったということです。まず、大久保さんからそのあたりのお話をしていただけますでしょうか

大久保

慶應義塾大学名誉教授であった速水融先生も指摘されたように、幕末明治初期の日本では「統計熱」と言われる現象がありました。その先鞭をつけたのが福澤諭吉による『万国政表』(福澤校閲、岡本博卿訳)です。同書は、オランダ人プ・ア・デ・ヨング(P.A.de Jong)が記した『地球上の全ての国々についての統計表』を福澤たちが翻訳した作品で、1860(万延元)年に出版されました。

むろん福澤以外にも、後に日本近代統計の祖と言われる杉亨二や加藤弘之、西村茂樹、箕作麟祥ら多くの蘭学者・洋学者が同時期に西洋の統計に関心をもち、翻訳に取り組みました。

そのなかでも1つの画期となるのが、西周と津田真道のオランダ留学です。1863(文久3)年にオランダに渡った西と津田は、彼の地で経済学と統計学を専門とするライデン大学教授シモン・フィッセリングから直接、ヨーロッパ統計学を学び、その成果を日本に先駆的に導入しました。

馬場

17世紀にヨーロッパで統計学が始められ、非常に画期的な学問であるということで、ヨーロッパでまず統計学ブームが起こっていました。日本でも統計学に対して西洋と同じように思われたということでしょうか。

大久保

東アジアでは、『書経』や『日本書紀』にみられるように、古くから土地・人口調査が行われ、また徳川政治体制下では、「人別改(にんべつあらため)」が実施されていました。

しかし幕末明治初期の学者たちは、統計学を、それとは異なる未知の学問、「鉄道電信蒸気」とならぶ「文明世界の新学術」と捉えました。そのため、森鷗外をも巻き込んで、“statistics” を何と訳すかという訳語論争まで生まれました。

このことは、同時代ヨーロッパの統計学をめぐる動向とも連関します。ゲーテが『イタリア紀行』で「今日のような統計ばやりの時代」と記したように、18世紀末から19世紀のヨーロッパでは、巷に統計的な資料があふれ、社会の統計化が進められました。そこから、ケトレーらを中心に、新しい科学として近代統計学が形成されます。それはまたヨーロッパの近代国家形成とも深く関わっていました。

そうした真っ只中にまさに日本は開国を迎え、「文明世界の新学術」として、統計学に触れたのです。

椿

私は、どちらかというと確率を主体とする近代統計を学んでいますが、ドイツ国勢学派というか、明治時代に影響を与え、今の調査統計につながる流れも、ケトレーのところで理系的な統計と文系的な統計の両方が融合し、一挙に近代的科学として確立したのだと思います。ケトレーの方法が大きな影響を与え、それがイギリスにわたって、今の数理統計に近いものになりました。

『文明論之概略』に見られる統計的思考

馬場

福澤と統計とのかかわりをより詳しく見ていきたいと思います。『万国政表』では統計データを訳して出版したわけですが、統計的な考え方というものの有用性に、いち早く気付いた1人という面もあるのではないかと思うのです。

大久保

その通りだと思います。先に触れた幕末期の『万国政表』は、各国の国情をデータで示した統計表です。しかし福澤はそこからさらに思索を深め、「統計的な思考とは何か」という課題に踏み込んでいきます。

その1つの成果が、『文明論之概略』(1875[明治8]年)です。良く知られるように、同書で福澤はバックルの『英国文明史』に取り組んでいます。バックルがこの作品で文明史の方法論として導入しているのが、ケトレー統計学です。

バックルはケトレーの統計学により、歴史学の科学化が可能になったと指摘します。バックル『英国文明史』の主題は、膨大な資料を収集し、大量観察を通じて人間社会の精神現象のうちから一定の数量的規則性を導き出す統計学の手法を用いることで、科学的な文明史の叙述を試みることでした。

福澤は『文明論之概略』のなかで、この『英国文明史』を媒介に、犯罪率や死亡率をめぐるケトレー統計学の成果を紹介し、次のように指摘します。「スタチスチク」こそ、「天下衆人の精神発達」を観察・比較し「真の情実を明にする」、「文明を論じる学者」の方法論である、と。

このあたり、福澤はやはり思想家として非常に優れた嗅覚の持ち主であったと考えられます。

馬場

福澤はおそらく自然科学という分野は非常に法則的な世界であるけれど、自然科学だけではなく、社会科学においても、統計的なものの見方をすれば、同じように法則性を見つけられることに気付いたのでしょうね。

それで非常に興奮して、これを使えば社会的な問題も捉えられる、と思った。そこにいち早く気付いて著作の中で紹介したという点が、やはり福澤の先見性だったのではないかと思います。

大久保

興味深いことに、ケトレーはもともと天文学を研究し、そこから統計学に進みました。福澤が学問的基礎とした江戸時代の蘭学も、宇宙の法則をめぐる天文学の分厚い伝統と蓄積を有していました。

「天を測る」天文学から「人間社会を測る」統計学へ。福澤の統計学的営為は、近世蘭学の文化的鉱脈の延長線上に位置づけることも可能ではないかと考えます。

様々な統計学の側面を導入

馬場

福澤は同じ『文明論之概略』の中で、大数法則だけではなくて、婚姻の数が米相場の値で変わるのだという、因果を導くような点も統計学の1つの側面として話しています。また、『時事小言』(1881[明治14]年)の中では、議論としてはかなり粗いですが、士族をバックアップするという趣旨で、正規分布表なども導入して「天才の家系」を紹介しています。

ですから、大数法則だけではなく、いろいろな統計の考え方もかなり読み取って、それを著作の中に入れていたのではないかと思うのです。

椿

欧州における天才の家系の研究というのはダーウィンの従兄のフランシス・ゴルトンがやったんですね。『遺伝的天才』(Hereditary Genius、1869)という著作の中で初めて「スタティスカル・サイエンス」を作らなければいけないということで、相関概念とか分位点の概念を提案してくる。

この流れの中には、ゴルトンの強い影響を受けたカール・ピアソンの、「グラマー・オブ・サイエンス」(『科学の文法』、The Grammar of Science、1892)という概念があります。これは「自然科学のように対象が科学的であるから科学なのではなくて、プロセスが科学を科学とする。どんなものでも科学にできる」ということを前提にしている考えです。

しかし、今のお話を伺うと、福澤先生はケトレーから直結しているかもしれませんし、福澤先生のやっていらっしゃる時期のほうが早く感じられる部分もあります。

大久保

『時事小言』の「天賦の才能」と遺伝に関する正規分布は、福澤自身、実際にゴルトンを読んで紹介したものです。その議論を援用しながら、武士の家系の問題を考察しています。

椿

そうなんですね。

大久保

ここからは福澤が一貫して統計の問題に関心を持っていたことがうかがえます。

福澤は『文明論之概略』で、結婚を取り上げ、出雲大社の縁結びの神説など、縁談を運命のように考える人が多いが「スタチスチク」からみると、それは違う、その年の婚姻の多寡は「米相場」によって決まる、と喝破しています。福澤にとって統計学は、人々の間に流布する偏見や謬説をひっくり返す、最強の学問だったと思います。

それゆえに、ゴルトンを『時事小言』の中で紹介するときは、人間はみんな平等だというけれども、しかし実際には平等ではない、人間の才能は家系によって違いがある、と言うわけです。

ただし実はこれは、福澤の有名な『学問のすゝめ』(初編、1872年)の冒頭の一文、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と矛盾します。

一方で冷徹に一般的事実を解明する統計学を重んじ、他方で人間の平等性など倫理にかかわる規範的な政治哲学を講じる、そうした両義性こそ、福澤諭吉の面白さだと思います。

「実学の精神」と統計

馬場

福澤の複眼思考というところかなと思います。椿さんがおっしゃったように、後にカール・ピアソンは「統計というのは科学の文法だ」と言うわけですが、福澤の1つの大きな思想として「実学」というものがあろうかと思います。

福澤は「実学」という漢字に「サイヤンス」とフリガナを振っているわけですが(「慶應義塾紀事」)、社会科学であっても科学的にものを見るというのが福澤の実学であって、ではどうしたら科学的に見ることができるのかといった時に、その1つの大きな道具が統計学だったのではないか。福澤は統計学を知ったがために、どんな分野においても科学的にものを見ることができるということに気付き、実学の精神につながっていったのではないかと思うのです。

大久保

同感です。福澤が東洋の学問に欠けているのは数理学だと訴えたことは良く知られています。実学を唱える福澤にとって、統計学は非常に重要な意味を持っていたと考えられます。

実際、『福翁百話』には、「統計全体の思想」なき人とはともに文明のことを語れない、という一文があります。個々の現象だけではなく社会全体を見渡し、事実を客観的に分析する統計学的思考が重要である、と。

同時にこれはまた、社会それ自体を1つの自律的な存在として捉えることでもあります。“society” の語をどう翻訳するかが明治初年に問題になりましたが、「統計全体の思想」は、国家とは異なる、人々が作り出す自律的な社会への眼差しでもあります。

馬場

カール・ピアソンは、やはり福澤と同じような意味合いで『科学の文法』という著書を書かれたということでしょうか。

椿

そうだと思います。イギリスでは、ナイチンゲールがものすごくケトレーを崇拝していて、ゴルトンに「オックスフォードに統計学科を作れ」と言ったわけです。ナイチンゲールとダーウィンの両方がゴルトンのいとこです。そういう意味では、ダーウィニズムの影響も受けたし、統計的問題解決を発想として使います。

時代の流れの中で、統計によって社会を改革するために、いろいろな社会現象をも法則化できる、その法則化プロセスを体系化したのが、物理学者だったカール・ピアソンです。ケトレーは天文学者でしたが、カール・ピアソンも力学や幾何学の先生でした。もともと極めて物理学的センスのある方だと思うのです。だから、数理的方法を使って、社会現象にかかわる体系を描けるようになった。そういう意味で、イギリスでは20世紀前半、近代統計学、数学的な統計学が非常に発達したのだと思います。

バックルの統計学的方法論

西郷

非常に興味深くお話を伺いました。福澤が捉えていた統計ないしは統計学は、因果関係を同定するものとしての統計学なのか、あるいは現象をあるがままに捉えるための統計学という意識だったのか。どちらのほうが強かったと考えていますか。

大久保

今日的な統計理論から見てどこまで整合性がある議論ができるかどうかはわかりませんが、基本的には両面あったと考えられます。例えば『時事小言』でも、第4編では各国の国情に関するデータを比較検討しています。

しかし第5編に入ると、先述のように、ゴルトンの天賦の才能と遺伝や家系をめぐる議論へと歩を進めています。

椿

ピアソンは因果関係をあまり哲学的に捉えずに、単純に物事の順序、といったものすごく記述的な立場ですね。それがいいのかどうかはまた別問題ですが。

大久保

この点に関連して指摘すべきは、明治初年のバックル問題だと思います。『英国文明史』で歴史学の科学化を志向したバックルは、ケトレーを超えて、より哲学的かつ因果論的に統計学の成果を捉え、それを自らの文明史へと援用しました。

特にバックルは、「統計的」手法とデータを用いて、非ヨーロッパ世界であるアジアにおいては、その気候や土壌から恐怖と迷信が蔓延(はびこ)り、専制政治が行われているため、文明の発展が妨げられていると分析しました。

しかし、もしバックルの唱える自然決定論的なアジア停滞論が事実であるならば、日本を含むアジア諸国は、いつまでも未開・半開にとどまり、文明化できない運命になってしまう。この問題は明治初年の学者たちを悩ませ、『明六雑誌』でも論争へと発展します。

福澤の『文明論之概略』は、一方でバックルが用いる統計学的手法を高く評価しながら、同時にバックルが唱えるオリエンタリズムに裏打ちされた自然決定論的かつ運命論的なアジア停滞論を乗り越え、独自の文明化構想を導き出すという、極めて困難な思想課題に挑んだ書物と言えます。

椿

面白いですね。

明六社の人々と統計学ブーム

馬場

ライデン大学から帰ってきた西周と津田真道、それから西村茂樹、杉亨二、皆、明六社ですね。このように明六社の人々が中心となって統計学が非常にブームになったと思います。福澤だけではなく、彼らが皆、統計というものの魅力に気付いて、取り組むわけですね。

西郷

やはり杉亨二が日本の、いわゆる公的統計ないしは政府統計を作っていく上では非常に大きな役割を果たしたと思います。

杉は、統計に興味を持ったということだけではなくて、それを絶対に実施すべきなのだと、統計のメーカーとして、つまり、統計を作る、そしてその作った統計を使って国政を進めていくべきなのだと最初に強く意識した人です。彼がいたお蔭で、今日の日本の産業統計等の統計、そして日本の統計組織が作られていったのだと思います。

大久保

杉亨二は徳川末期、西周や津田真道、加藤弘之らとともに、蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に所属していました。蕃書調所は、徳川政権が西洋事情の調査と洋学教育を目的に設立した学問機関であり、多くの優れた蘭学者・洋学者が登用されました。杉は自伝で当時のことを次のように回顧しています。

杉によれば、彼はオランダの新聞『ロッテルダム・コーラント』を読み、ヨーロッパには統計というものがあると知って、面白いと思っていた。そこに西と津田がオランダ留学から帰ってきて、ライデン大学教授フィッセリングから学んだオランダ語の統計学講義ノートを見せます。杉はそれを読んで、一気に統計学に深入りしたと言います。

フィッセリングは日本では法学者として知られますが、実は当時のオランダを代表する統計学者・経済学者でした。隣国ベルギーでケトレーが統計学を大成させ、政府統計局を創設したことに影響を受け、オランダでも政治的に中立な政府統計局を作ろうという動きが高まります。フィッセリングは、その活動の中核にいました。

フィッセリングの統計学講義の講義ノートは、その後、1874(明治7)年に津田の手で翻訳されますが、杉亨二はすでに幕末期に、西と津田を通じて、原本のオランダ語原稿に触れていたのです。そうして、日本も統計局が必要であると考えるに至った杉は、明治期に入り、政表課の創設を主導するのです。

大隈重信と「スタチスチクの仲間」

馬場

大隈重信も「統計伯」と呼ばれるぐらい非常に統計と深い関わりがありました。

1879(明治12)年に福澤から大隈に宛てた書簡があります。その中で福澤は慶應義塾の塾員を13名、「スタチスチクの仲間」ということで紹介をする。それから、杉亨二や呉文聰(くれあやとし)など3名を「統計局の人」として推薦する。その書簡あたりが、おそらく福澤と大隈とが統計を介して非常に接近していった頃なのではないかと思います。

大久保

福澤と大隈とをつなぐ1つのパイプが統計院創設(1881年)に絡む人的な交流です。

ただし注意すべきは、福澤の手紙の中で杉亨二の名前が出てきますが、杉は当時、すでに太政官正院の政表課で、独立した政府統計の実現を目指して尽力していました。しかしその一方で、大隈を大蔵卿に置く大蔵省にも「統計寮」が設けられ、明治政府内で統計行政が分岐していきます。

すなわち彼らの間で統計学を通じた人的交流があったものの、その背後には、政府内の統計行政をめぐる綱引きと対抗関係も存在していました。

そしてこの対立に1つの終止符を打ったのが、1881(明治14)年5月の参議大隈重信による太政官統計院の設置です。これによって、杉らの政表課は統計院に包摂・解消されました。

このとき、大隈の右腕となって働いたのが、福澤の推薦によって送り込まれた、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅、牛場卓蔵ら慶應義塾グループです。

その背景には政府統計を充実させるという目的以上に、国会の早期開設に向けた大隈と福澤の政治的な連携と共闘があったと考えられます。これが明治14年の政変へと発展しました。

椿

1871(明治4)年、太政官正院に政表課ができて杉亨二がそこに行く。一方で、大蔵省のほうは、伊藤博文が統計のほうに行っているんですね。そちらはむしろ近代官僚みたいな人たちが主導した可能性がある。

政表課のほうは、蕃書調所以来のグループがイニシアチブを執っていたのでしょうか。

大久保

そうだと思います。杉たちは、近代国家を形成するためには政治的に中立な中央統計局を設立する必要があり、その役割の中核は人口調査を中心とした調査統計にあると考えた。それに対して大隈らは、各省庁から数字を集めた業務統計の作成に終始します。杉からすると、統計局としての役割をそれだけにとどめてはいけないという意識が強くあったと考えられます。

椿

当時、まさに「政表」という言葉と「統計」という言葉が分離して、杉亨二は福澤の「万国政表」に対して「日本政表」を刊行している。

杉は政表、あるいはスタチスチクそのものにすごくこだわりがある、とよく聞くのですが、むしろ「統計」という言葉自体は大蔵省のほうが先に使ったようですね。

西郷

「統計」という言葉の使われ方も問題だという話もありますね。昔はサ変動詞の「統計する」という言葉があって、それは「精算する」と同じような意味で、何かあるものをまとめるというような時に「統計する」と言ったと。この意味で、大蔵省のほうにできた統計司とか統計寮は使っている。「統計」という言葉の意味が、必ずしもわれわれが、今イメージする「統計学」や「統計」とは同じではない気がしています。

そのため杉亨二は、今まで使われている「統計」とは違うのだという立場で「政表」としたのでしょう。「せいひょう」も2つあって、「政表」と書く場合と、今の製表課と同じ「製表」と書く場合がある。杉亨二は両方使っていたりします。

大隈と杉亨二の違い

西郷

政府内の統計組織の中で福澤がどのように影響したのかというところがよく分からないのです。少なくとも大隈と杉亨二というのは、政府内の統計組織の中で必ずしも上手くいっていなかったのではないかという印象を持っています。

統計院の設立に関して大隈が、杉の部下であったと思われる相原重政という人に頼んで、プロシャの統計局に勤めていたマイエットという人のところに行ってプロシャの統計局を真似て、「統計条例草案」というものを起草している。そこだけ見ると、大隈と杉の関係はそれなりに良好であったかのように見えます。

ところが統計院ができた途端に、杉は当然、自分が専門家として中心的な役割を果たす形になると思っていたと思うのですが、そうではなくて、それまであまり統計と関係のない尾崎行雄や犬養毅とか、そういう人たちが統計院を占領するような形になります。杉自身は統計の専門家であったにもかかわらず、統計院の中では重用されなかった。

おそらくそのこともあって、統計院が1885(明治18)年に「内閣統計局」という形に衣替えしたときに、杉などの重要人物が辞めているのでしょう。

大久保

実際に大隈を取り巻く慶應派の矢野や尾崎、犬養らは、自分たちが統計院に出仕した真の目的は、国会の 早期開設に備えたものであったと回顧しています。国会が開かれれば、国務の説明をする政府委員が多数必要となるから、今から民間の人材を抜擢して政府に入れ、政務の練習をさせること が大隈の意図であったというのです。

当然、杉ら政表課グループはこうした動きを苦々しく思ったようです。杉の弟子にあたる呉文聰は、矢野や尾崎、犬養について、「新聞記者上がりの統計が何だか分からぬ人が多」く、自分たちのように「統計を畢生の事業と考へて居たもの」としては、「非常に失望」したと述べています。

その中で福澤がどういう位置にいて、いかなる役割を果たしたのかは、なかなか難しい。慶應義塾の出身者を推薦しているので何らかのかかわりはあったと思いますが、福澤の姿は陰に隠れ、表には見えてこない。明治14年政変を考える上でも難題の1つです。

大隈重信の評価

馬場

大隈は、1881(明治14)年の頃は政治的な思惑もあったかもしれませんが、後年、1898(明治31)年には、「政治を行う上では統 計というものが非常に重要だ。国政を進ませる上では政府がきちんと統計をとって、それをもとに政治を行うべきだ」という内容のことを言っています。近年、よく言われているE B P M(Evidence-based Policy Making、エビデンスに基づく政策立案)に通じる発想を、大隈は政治家としても持っていた。

大隈の長い政治家としての人生を見ると、福澤とはまた違って、政府統計、公的統計の重要性を非常に認識していて、その整備をするという点にかなり力を入れていた、という評価ができるのではないかと思うのですが。

西郷

先ほど杉亨二が大隈に冷遇されたと申し上げました。しかし、いわゆる隈板内閣(1898年)は、非常に短命で日本史の教科書を見ると何もしなかったことになっているのですが、大隈は統計行政の上では非常に大きなことをしています。

それは、それまで伊藤博文内閣の時に課に格下げされていた内閣統計課を統計局に格上げしたことです。その統計局は第2次大戦を通じて、今でも「局」のままでずっと生き続けている。これは大隈が政府統計、とりわけ統計局に対して行った貢献としては非常に大きいものがあります。それはもしかしたら何か政治的な意図があったのかもしれませんが、その効果は今日まで続いていると私は思います。

椿

統計院は、今で言えば省か庁クラスのものと大隈は考えていたということですよね。よく統計局で見せてもらった大隈の「統計院設置の件の建議」、あれを読むと、本当に今で言うEBPMのようなことをすごく意識していたのではないかと思うんですね。

西郷

そうですね。ただ、大隈は統計のメーカーというよりは、どちらかというとユーザーとしての意識が強かったのではないか。だから、統計というのは業務記録をまとめれば出来上がるものだと考えていたのかもしれません。

大久保

大隈自身、政府は「完全なる統計表」を作成してはじめて、「現在の国勢」を知り「政策の利弊」を判断できると唱えていますね。

その点に関連して興味深いのが保険制度です。福澤諭吉は西洋の保険制度を、『西洋旅案内』などを通じて日本に先駆的に紹介しました。他方、日本ではじめての保険会社・東京海上保険会社を創設したのが、渋沢栄一です。その渋沢の回顧によると、渋沢と福澤は、大隈重信の家で将棋をさし、その対局中、3人で保険制度について議論をしたとのことです。

言うまでもなく、保険制度は統計的思考を基礎に成立・定着します。福澤、渋沢、大隈。彼らが個々の立場を越えて、社会のあり方を統計的な眼差しで眺め、保険会社や銀行、統計局など新たな制度の創設に取り組んだことは、近代日本の形成を考える上で、極めて重要な意味を持っています。

呉文聰と蕃書調所からの文化

馬場

それでは次に、福澤の門下生やその周辺の話に移りたいと思います。

先ほど保険の話もありましたが、塾員の阿部泰蔵が明治生命を創る。そのように福澤は門下生に統計を生かした仕事をさせている面もある。それから、1890(明治23)年に慶應の大学部ができるわけですが、開設当初から理財科には「統計学」という科目を設置し、呉文聰、横山雅男といった人物に講師を務めさせています。

横山雅男は杉が設立した共立統計学校の卒業生で、スタチスチック社などで統計の普及に尽力した人物です。そういう点で福澤と慶應義塾周辺には統計に深く関与していた人物も多かったのではないかと思います。

椿

杉亨二とともに国勢調査に対して非常に影響を与えたのが呉文聰だということは私も承知していますが、明六社の人々につながる源泉は、蕃書調所というところが大変大きな影響を与えていますよね。

呉文聰は蕃書調所の主席教授だった箕作阮甫(みつくりげんぽ)の孫です。そういう意味でも、そこの文化が大きな影響を与えているのではないか。そして、そこに先ほどから出てきている統計的方法を社会にどうやって使うかという話が脈々とあって、明治の初期に非常に優秀な統計学者が出たのではないかと感じるんですね。呉は福澤先生の弟子であるとともに、幕府の洋学所以来の伝統の文化に触れていると思うのです。

馬場

椿さんは呉文聰の理論家としての側面を再評価されているとお伺いしましたが。

椿

7、8年前に、自殺関係の研究者の方々と日本の「自殺統計」を作るという機会がありました。日本は自殺研究がタブーで、「自殺統計」自体の研究はほとんどなかったという話を受けたわけです。ところが、調べると呉文聰の論文にずばり「自殺統計」という論文がありました。

それは1899(明治32)年の「統計実話」というものの中に出てくるのですが、自殺を分類して文化的影響を考察し、そして各国の自殺比較をやっている。しかも日本において1890(明治23)年から5カ年間、自殺を男女別、年齢・階層別、それから17原因別に分けて統計表を作っています。

これには非常に感心して、呉先生の『理論統計学』という本を読みました。これはまさに日本の明治初期の先人の方々が統計というものを社会で生かすために学んだことを、一番よくまとめているのではないかという印象を持ちました。

どういう現象に対して統計的なアプローチをすべきとか、統計というものを考えるときに、社会全体の、今で言う母集団全体に働く原因系と、むしろ一部の集団に特異的な原因系とに分類して考えなければいけないなど、今、読んでもよくできていて面白い。

国勢調査100年の節目に

馬場

呉文聰の話が出ましたが、2020年は第21回の国勢調査が行われる年です。第1回が1920(大正9)年ですから、ちょうど今年が「国勢調査100年」に当たります。第1回は原敬首相の時でした。その実現を見ずして杉亨二も呉文聰も亡くなっているのですが、国勢調査をやらなければいけない、と非常に頑張ったのが杉亨二であり呉文聰です。呉文聰はアメリカに視察に行き、センサス(国勢調査)の実態を調べ、その実現に尽力しました。

その姿勢は先ほどの大隈にもつながると思います。なぜ国勢調査をやらなければいけないのかと言えば、まずはきちんと統計をとって国の実情を把握することが全ての始まりである、という考えなのだと思うのです。

冒頭でお話が出ましたように、残念なことに、国勢調査から100年がたち、公的統計の重要性が軽んじられるような事件も最近は起こっています。現代において、やはりもう一度、呉、杉たちの国勢調査への思いを見つめ直して、公的統計の重要性を認識する契機とするべきであると感じています。

西郷さんは公的統計にもかかわるお立場からどのようにお考えですか。

西郷

現在、公的統計の作成が今までと同じようにはいかないことは間違いないことだと思います。

つまり、今までは統計を取るということは、すべて国がそれを行うという形でした。少なくとも今までの公的統計、政府統計というのは、今の言葉で言うと「上から目線」で、為政者が統計を取るという形で進んできた面があると思います。

しかし、現在、「為政者が統計を取る」というやり方だけでは、いろいろな形の公的統計が作りにくくなっている。つまりデータを提供する側の協力が、その形では厳しくなっている面があると思います。

一方で、必要とされる統計の種類や構造は科学の進歩に合わせてどんどん複雑になっています。そういった中で将来的に公的統計をずっと作っていくのであれば、作成者側もニーズの実態に合わせて、例えば国勢調査もインターネット回答を可能にするとか、プライバシーを守りつつ正確な統計を作るといったことが必要でしょう。

大久保

私が注目したのは「国勢」という言葉です。国勢調査の原語にあたるPopulation census には、どこにも「国」というものが入っていません。佐藤正広先生の著書『国勢調査と近代日本』によると、1920年に国勢調査が実施される際、当時の統計家たちが、政治家を説得し国家予算を獲得するために、あえて国の形勢や勢力、国富の調査を連想させる「国勢」の語を用いたとのことです。

そしてこの「国勢」という言葉は、明治初期から「表記」「政表」「統計」とともに「スタチスチク」の翻訳語としても使われていました。

ただ今、西郷さんから、公的統計が1つの分岐点に来ているというお話もありました。これまで「国勢調査」は、100年前、さらには150年前の近代国家形成の出発点より、「国家」の「情勢」「勢力」に関わる学知としての側面を持ってきました。そうした国家のあり方、国のかたち、それ自体が曲がり角を迎えているとするならば、これからどう考えていけばよいのか。

他方で、もう一度その出発点に立ち戻るならば、杉亨二をはじめ明治の先人たちには、新しい国家を作るためには完全な統計表を作る必要があり、政治的に中立な立場から公正に調査し、その成果を広く国民に公表せねばならないと強く主張しました。彼らは皆、高い理念と情熱を持ち、統計こそ近代国家建設の要諦であると訴えました。

日本の政府統計の信頼性が揺らいでいる今日、近代国家の礎を作った彼らの言葉は重く響きます。

椿

明治の先人の方々が統計をこれだけ作るというのは、今に比べたらものすごい努力でデータを集められたのでしょう。しかも、そのデータで何をするかという政策を、杉先生や呉先生は考えていらしたと思うのです。

国勢調査から100年たち、データサイエンスとかビッグデータの時代となっている時に、あらためてこのデータで一体何ができるか。国勢調査や公的統計を使ってわれわれは何をするのか、どういう政策を導くのかという活用をはっきりさせる必要があるということだと思います。逆に当時の、それこそ明六社以来の方々が持っていたような知恵をさらに強化していくチャンスだと思っているのです。

夏目漱石と統計

馬場

椿さんは夏目漱石と統計との関わりについてもお詳しいですね。少し話していただけますか。

椿

もちろん漱石は統計学者でも何でもないわけですが、カール・ピアソンの『科学の文法』をきちんと読んでいて、ロンドンの留学時代に「自分は文学評論を科学にしてみせるぞ」と決意するわけです。

彼のロンドン時代のノートを見ると、「あるハイポセシス(仮説)が有用なるはそのハイポセシスがバリッド(有効)であるプロバビリティ(確率)に、プロポーショナル(比例して)に有用である」とか、すごいことがいろいろ書いてあるし、「データ」という言葉もたくさん出てきます。

彼はきちんとした事実を積み上げていけば、文学とか文学評論をデザインすること自身が一種の科学になると考えていた。しかもカール・ピアソンを批判もしていて、カール・ピアソンは事実の認識という立場では非常に素晴らしい体系を作ったけれど、これをアートという面で考えると、アートは必ずしも秩序を立ててノイズを減らすことが目的ではない、と指摘しているんですよね。

漱石は、『科学の文法』を日本に紹介し、寺田寅彦など弟子たちに紹介したというだけでも大変面白い影響を日本に与えた方だと思います。

馬場

それはやはり統計学の魅力の為せる業で、政治家であったり文学者であったり、いろいろな人たちが統計の持っている魅力に気付いた、1つの表れなのでしょうね。

椿

そうでしょうね。先ほどの先達よりは漱石は少し後の時代になりますが、すごくその熱を感じます。

高まる統計教育の必要性

馬場

今回の統計ブームもブームで終わらせてはいけないと思います。これからの統計の在り方、統計学の在り方、データサイエンスの在り方についてお聞かせいただきたいと思います。

西郷

先ほど、政府の統計を今までと同じように取っていくことができなくなったと話したのですが、逆に統計を使うユーザーの立場からすれば、技術の発展はめざましいものがあります。例えば私が学生時代に書いた論文と、今の学生が書いている論文とは全然レベルが違うんですね。その1つの要因は、使えるデータが増えたとともに、使える技術が昔と今とでは全然違うということです。

例えば私が学部の学生の頃に、楽曲の分析を統計的にやることはほぼ不可能に近かったと思いますが、今の学生は音声をデータ解析できるように処理し、画像処理などを使って、自分のやりたい分析が、半年とかそれぐらいのレベルでできてしまう。ですから今は、誰もがかなり難しいデータを分析できる時代に入っている。ただ、それをしかと認識できている人は、まだ多くはいないような気がします。

もしデータが、あるいは統計が、われわれが生きていく上で非常に有用なものであると認識できれば、例えば政府が国政の在り方を決めていく上で、そのデータが非常に重要なものなのだと認識するでしょう。そういう意識が高まることによって、国が必要とするような、あるいはわれわれ国民が必要とするようなデータがもっと取りやすくなるのではないか。そういうことを大学も含めた統計教育の場でできないかと思っています。

馬場

統計教育という点で言えば、内閣府が発表した「AI戦略2019」では、2025年には文理を問わず、すべての大学生にデータサイエンスの標準カリキュラムを身に付けさせることを目標にしています。

これからの時代は、EBPM、データに基づいた、証拠に基づいた議論がどんな分野にも必要です。また、大量のビッグデータの中で、間違った結論に導こうと思えばできてしまう可能性もあるわけですけれども、それをきちんと見抜く力と、正しくものごとを読み解く力が必要になります。

これは科学的なものの見方という点で福澤に通じるところがあると思います。今までのように一部の統計家が統計を扱えばいいのではなく、国民皆が統計的な視点を持つことが重要だと思います。それだけに統計教育にも一層力を入れなければいけません。

問い直される近代日本の「統計」

大久保

私は統計の問題を政治思想史の視座から検討していますので、今日、統計学を学ばれる学生の皆さんには、是非とも一度は歴史の観点から眺めていただきたいと思います。それによって、統計学の重要性を再認識するとともに、統計学は本当に万能なのか、自明性を疑う視点も同時に養っていただきたいと考えます。

本日、議論してきたように現在の統計学の礎が築かれたのは19世紀になってからであり、近代の形成と深く結び付いていました。それ故、当時は西洋でも日本でも、「統計とは何か」という、本質的な問いが存在しました。

先ほど夏目漱石の話がありましたが、文学の関連で言えば、ドストエフスキーは『地下室の手記』の中で、次のように述べています。「諸君は、ぼくの知るかぎり」、人間の利益や幸福をあらわすのに、「統計表や経済学の公式から平均値」をとってきている。それに楯突く人間は「頑迷な非開化論者」と言われる。「これが諸君、バックルも生きていたわが19世紀というやつなのだ」、と。

統計表を用いて幸福を示す、バックルに象徴される19世紀。果たしてそれは真の幸福なのか、というドストエフスキーによる文学者の側からの批判です。

これは福澤が『文明論之概略』の中で直面した問題とも重なります。果たしてアジアは自然決定論的な停滞論から抜け出すことができないのか。真の文明とは何か。福澤は「スタチスチク」を重んじながら、その先にある問題にも触れ、思索をめぐらせました。

データサイエンスやAI技術が高度に発展した現代、こうした歴史の出発点に存在した思想課題に目を向けることは、それこそ「頑迷な非開化論者」の戯言でしょうか。是非ともこれから統計学を学ぶ若い人たちに、一度は考えていただきたい問題です。

椿

現在は、統計が1つの横断的な教養、まさに科学的方法の1つの典型になっており、それを小学校から高等教育までの間にきちんと身に付けるべき時代です。

今までデータは高嶺の花で、データを取ること自体が大変なコストでした。そういった時代には、一般の人が統計を作るということはなかなかできませんでしたが、今はそれができるような時代となり、それを分析するツールも大変進歩してきている。最近は高校生でも機械学習を勉強しているサークルもある。その意味では、非常にいい時代にはなったと思います。

ただ、横断的な教養であると同時に、もう1つ、「では統計は何に尽くすのか」という問題があります。ある方にとっては政策でしょう。それから、医学など諸々の学術に対して統計は貢献する。さらに使用者の持っている専門性や知識を進歩させるツールにもなり得る。しかし、逆に統計は、人間を支配し、「こういう結論でやりなさい」という形になってしまう恐れもあります。

今、あまりにもAIや統計に対して期待が高すぎるので、あくまで自分たちの知識を進歩させるツールであり、横断的な教養であるということを、もう一度きちんと据えていかないといけないのかなとは思っています。

馬場

本日は現代の統計学ブームから150年前を振り返ってみたわけですが、統計には非常に様々な側面があることが再認識できました。そのことに気付きながら福澤など明治の人たちは統計や統計学を取り入れようとしました。そうした営為があって、現代につながっているのだと思います。

これからますます統計学、データサイエンスは世の中で重要な役割を果たしていくと思います。大久保さんもおっしゃったように歴史的な視点も忘れずに、多くの国民が教養として、統計的な視点を持つことや統計の重要性を共有することが大切だと思います。

本日は有り難うございました。

(2020年4月16日、オンラインにより収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。