慶應義塾

【特集:新・読書論】「大正知識人」としての小泉信三/武藤 秀太郎

執筆者プロフィール

  • 武藤 秀太郎(むとう しゅうたろう)

    新潟大学経済科学部准教授

    武藤 秀太郎(むとう しゅうたろう)

    新潟大学経済科学部准教授

2020/05/11

小泉信三における文学

刊行から半世紀以上たった今も版を重ね、多くの読者をえている小泉信三の『読書論』(1950)。『小泉信三全集』全27巻をひもとくと、『読書論』のほかにも、『読書雑記』(1948)や『わが文芸談』(1966)など、小泉が読書に関連した著作、エッセイを数多く残していることが分かる。それらでとりあげられている作家も、アダム・スミス、ジョン・スチュアート・ミル、マルクスといった小泉本来の専門領域である経済学者だけでなく、ゲーテ、ショーペンハウアー、カント、トルストイ、夏目漱石、森鷗外、永井荷風など、国内外の文学者・哲学者まで広い範囲におよんでいる。小泉は読書を通じ、多様な文化的価値をうけいれつつ、自我を発達させていった、いわゆる「大正教養主義」に属する世代にあたる。『読書論』はまさに、そうした小泉の学識がいかんなく発揮された著作だといえよう。

小泉は、歴代日本の社会科学者の中でも、類まれな名文家であった。とくに、戦争で亡くなった息子・信吉への思いをつづった『海軍主計大尉小泉信吉』(1965)は、格調高い筆致で、今も読む人の心に強くうったえかけてくる。小泉がもともと専門的にとりくんだイギリスの経済学者デヴィッド・リカードは、悪文家として知られる。そのリカードも、小泉の手にかかると、これほど分かりやすい内容になるのかと、小泉の『リカアドオ研究』(1929)を読んで感じたことを覚えている。

小泉はまた、文芸批評においても、専門家顔負けの鋭い眼識をもっていた。その一例を挙げよう。小泉は夏目漱石の『行人』で描かれた弟と嫂(あによめ)の関係について、それが漱石の「観察体験」にもとづくものであったと推察した(*1)。漱石は実際の嫂が若くして亡くなった際、その死を悼んだ俳句10余首を記した手紙を、親友の正岡子規に送っていた。それから20年あまり経って執筆された『行人』で、漱石が同い年であった嫂を追想していたのではないかというのである。小泉はこの説を、漱石の門人であった小宮豊隆にぶつけてみたものの、まったくとりあってもらえなかったという。

漱石と嫂の関係といえば、一般に知られているのは、江藤淳による一連の考察であろう。江藤は正岡子規宛の手紙のほか、漱石が創作した英詩や漢詩などをもとに、漱石が嫂をひそかに恋していたと主張した(*2)。この斬新な説を唱えた江藤も、漱石の嫂に焦点をあてたのは、小泉が最初であったと認めている。

『三田文学』との出会い

小泉によれば、テニス三昧に明け暮れた彼に、学問への関心をよびおこしたのが、大学の師である福田徳三の存在であった。厳しい指導で知られた福田も、小泉の実力を高く評価し、在学中に『三田学会雑誌』へ論文を投稿させるなど、特別に目をかけていた。福田の推薦により、1910年3月に大学部政治科を卒業した小泉は、そのまま同大学部の教員へと採用されている。

「私の読書にとって一の事件は、明治43年、丁度私が大学部の政治科を卒業したとき、慶應義塾の文科に改革が行われ、森鷗外の後見的背景の下に永井荷風が教授として聘せられ、その編輯によって『三田文学』が発刊されたことである」。 ── 小泉は『読書論』第10章で、こう語っている。永井荷風を編集長とした『三田文学』が創刊されたのは、小泉が教員となって間もない1910年5月のことであった。小泉の読書人生において、この塾内における文芸雑誌の創刊が、「一の事件」となったというのである。

小泉は大学時代、友人の阿部章蔵(水上瀧太郎)、沢木四方吉、松本泰、河村四郎と、文学について夜な夜な語りあうサークルを結成していた。小泉の日記をみると、教員となった当初は、文学関連の読書比率が高く、しばしば荷風のもとを訪ね、交流をはかっていたことが分かる。1909年3月の刊行直後に発禁処分となった荷風の『ふらんす物語』も、後輩から入手し、ひそかに読みふけっていた。このように文学に熱をいれ、荷風に傾倒していた小泉が、『三田文学』の創刊に心を躍らせたことは不思議でない。

それに加え、小泉にとって『三田文学』が大きな意味をもったのは、創刊直後に起こった大逆事件、ひいては社会問題への関心をかきたてた点にあったと考えられる。小泉は『読書論』第6章で、読書により単に知識を求めるのではなく、自分の頭で考える「観察思考」の力を養うことが重要であると述べている。明治天皇の暗殺を企てたとして、社会主義者らが大量に検挙・処断された事件は、青年小泉に大きなショックを与えた。この大逆事件を「観察思考」する上で、『三田文学』が大きな助力となったのである。

実際、『三田文学』では、荷風をはじめ、森鷗外や与謝野鉄幹、佐藤春夫、阿部章蔵ら同人が、小説や詩を通じ、反語的表現などを駆使しつつ、大逆事件への違和感を表明していた。また、『三田文学』の発行母体である三田文学会は1911年2月4日、大逆事件被告の弁護人をつとめた平出修を講演会にまねいている。これを傍聴した小泉は、いろいろと新たな事実を耳にし、「幸徳らに対する裁判の随分乱暴なものだった事を知った」と日記に書きとめていた。このように『三田文学』は、きびしい言論統制の中、大逆事件に向きあった数少ないメディアの1つであった。

平出の講演を聴いた3日後、小泉は幸徳秋水が獄中で書きあげた遺著『基督教抹殺論』の広告を眼にすると、すぐに書店へ問い合わせた。その日は、売り切れであったものの、翌日には入手している。さらに10日後にあたる2月18日付の日記をみると、小泉が『三田文学』にデビューしたばかりの河村四郎から、片山潜・西川光二郎『日本の労働運動』(1901)、幸徳秋水『社会主義神髄』(1903)、同『平民主義』(1907)、堺利彦『婦人問題』(1907)、堺・森近運平『社会主義綱要』(1907)、北輝次郎(北一輝)『純正社会主義の哲学』(1906)、杉村楚人冠『七花八裂』(1908)と、いずれも発禁処分となった書物を借り、読みあさっていたのが確認できる。*3

小泉は晩年、『三田文学』の同人らとの交流について、つぎのように回想していた。

私の文学書耽読と『三田文学』の仲間との交際は、ただ好きでやったというだけのことで、何の功利的の考えもあった訳ではなかったが、それは私にとって悪いことではなかったと思います。のちに、私は慶應義塾で社会思想史の講義を担当するのであるが、その講義をする上において、私がせまい経済学や社会学の本ばかりでなく、近代文学一般に興味をもって読んでいたことは、或る役に立ったように思う。*4

戦後の小泉は、『共産主義批判の常識』(1949)がベストセラーになったこともあり、反共産主義者としてのイメージが強い。しかし、フェビアン協会をはじめとする社会主義思想に関心をいだき、その実現可能性を模索していた。『三田文学』は、そうした小泉の学問的な基礎を築く役割をはたしたのである。

読書から社会参加へ

専門の狭い殻に閉じこもることなく、幅広い読書を通じ、豊かな教養を身につける。小泉はまさに、大正教養主義の申し子というべき存在であった。これは、小泉とともに慶應の経済学部(理財科)の2枚看板として活躍する高橋誠一郎にもあてはまろう。高橋も経済学だけでなく、浮世絵をはじめとする文芸に広く通じた教養人であった。

本年2月に刊行した拙著『大正デモクラットの精神史──東アジアにおける「知識人」の誕生』(慶應義塾大学出版会)では、小泉や高橋ら大正デモクラットに焦点をあて、彼らが「知識人」としてはたした社会的役割を再検討している。さきに述べたように、『三田文学』の関係者らは、不条理と思える大逆事件に対し、様々な形でリアクションを起こした。ただ、フランスのドレフュス事件におけるエミール・ゾラのように、政府に公然と抗議を唱え、輿論を再審へと導いたわけではない。

では、日本でドレフュス事件に匹敵するような「知識人」の集団的行動がみられたのはいつか。拙著では、その端緒を1918年12月に結成された黎明会という団体にみいだしている。黎明会は、朝日新聞社長の村山竜平が白昼堂々襲撃されるという白虹(はっこう)事件をうけ、東京帝国大学の吉野作造と福田徳三が中心となり、思想運動にあたろうと高等教育機関の教員らを糾合した結社であった。慶應義塾からも、小泉信三をはじめ、高橋誠一郎、堀江帰一、三辺金蔵、占部百太郎、川合貞一、田中萃一郎がメンバーに加わっている。

黎明会は、いわゆる労働三権を否定した治安警察法第17条の廃止や、アナーキストであるクロポトキンに関する論文を執筆したために、森戸辰男が新聞紙法の朝憲紊乱罪で東大を追われた事件(森戸事件)の不当性を、講演・出版活動を通じ、広く社会にアピールした。結成直後に起こった朝鮮の三・一独立運動や中国の五・四運動に対しても、積極的に反応し、民族融和につとめている。小泉を含めた黎明会の「知識人」らは、学問に裏打ちされた普遍的理念と現実の橋渡しをしようと、積極的に社会参加(アンガジュマン)していったのである。

古今東西にわたる書籍に親しむと同時に、自らの「観察思考」を養い、現実社会へと主体的に関わってゆく。小泉が『読書論』で示した心得・指南は、まさに彼自身の経験に裏打ちされたものであったといえよう。

* 1  小泉信三「わが文芸談」『小泉信三全集』第20巻、文藝春秋、579-82頁。

* 2  江藤淳「登世という名の嫂──漱石における禁忌と告白」『新潮』第67巻第3号、1970年3月、188-208頁。

* 3  小泉信三『青年 小泉信三の日記』慶應義塾大学出版会、2001年、26頁。

* 4  小泉信三「私の履歴書」『小泉信三全集』第16巻、470頁。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。