執筆者プロフィール

中澤 日菜子(なかざわ ひなこ)
その他 : 小説家、劇作家塾員

中澤 日菜子(なかざわ ひなこ)
その他 : 小説家、劇作家塾員
2023/05/08
多摩ニュータウンは生きている。どの町もそうであるように、この人工的につくられた町もまた生まれ、育ち、そしていま「老い」を経験しているのだ。
1971年3月、多摩ニュータウンは「東京都心に勤めるサラリーマンとその妻、そして子どもたち」が住まう町として誕生した。古くから存在する町と違い、「生年月日」がはっきり決められているのはニュータウンならではの事実であろう。
わたしがこの町に両親に連れられて移住したのは1984年の7月。まだまだ発展途上にある時代だった。それから1992年9月までこの町で暮らしつづけた、いわば初期の住民である。小説家として活動を始めたとき、「この特異な町をテーマに描いてみたい」と思い、執筆したのが拙著『ニュータウンクロニクル』(光文社刊)である。クロニクルの名の通り、1971年のニュータウン誕生から50年後の2021年までを年代記としてまとめ、描いた。まずはその本の概要を記しておきたい。
年代記としての多摩ニュータウン
第1章「わが丘」1971
市役所に新人職員として勤める18歳の小島健児。住民対応をおもな仕事とする彼は、ニュータウンの住民でつくられた「ニュータウンの未来を拓く会」に市側の代表者として出席する。この会では市の医療体制の不備や交通の不便さが議題とされ、話し合われている。市側の代表者として針のむしろに座っているような居心地の悪さを感じる健児。その会で、3歳の娘、理恵子を連れた袴田春子という若い主婦と出会い、だんだん惹かれていくようになる。春子に背中を押され、会の手伝いを始める健児。だが健児の叔父の善行は、ニュータウンに越して来た新しい住民――都心に勤めるホワイトカラー族――を良く思っておらず、会に関わりだした健児にあれこれと難癖をつける。そんななか、理恵子がぜんそくの発作を起こし――
第2章「学び舎」1981
誕生から10年経った1981年。ニュータウンに建つ小学校は膨れ上がる児童を抱え、どこも子どもで溢れかえっていた。ぞくぞくと転入してくる子どもたちを収容するため、急ピッチで新しい学校が整備される。5年生の小川文子は親友の井口恵美が新年度から新しい小学校に移ると知り、ショックを受ける。そんな混乱する文子の前に転校生として小山田正江という女の子があらわれる。都心の古い町に住んでいた正江は、ニュータウンっ子である文子に大きなカルチャーショックを与える。そんな子どもたちを、10年経ち28歳になった健児は学校の事務職員として温かく見つめている。ところがある日、ふとした諍いから恵美の前歯を正江が折ってしまい、文子、恵美、正江の3人に大きな「波」が押し寄せる。
第3章「プールバー」1991
時は1991年、日本はバブル経済の最後の時期にあたっていた。商店街で八百屋を営んでいた善行は、好景気の波に乗り、八百屋をプールバーに改装し、妻の陽子に任せていた。バーは順調な経営を続けていたが、息子である中学生の浩一は不登校となり、自宅に引きこもっている。そんな折り、大人気ドラマの撮影がバーを舞台に行われることとなる。その現場で、駆け出しの俳優、翼と出会った陽子は、夫善行への不満からどんどん翼との関係にのめり込んでいく。だがその結末は思ってもみないものだった。
第4章「工房」2001
プールバーだった店は、バブル崩壊後、急激に経営が悪化し、今は閉店して無人となっている。病に倒れ、長期の入院をしている善行。息子の浩一は自宅で1人、引きこもり生活をつづけている。ある日、浩一にとっては従兄にあたる小島健児が「染色の工房を探しているひとがいる」と言い、海蔵寺梓という女性を連れてくる。プールバーだった店を見て、一目で気に入る梓。さっそく工房として借り上げ、染色の仕事を始める。初めは距離を置いていた浩一だったが、いつしかマイペースな梓に引っ張り出され、工房を手伝うようになる。だが梓には大きな秘密があって――
第5章「五年一組」2011
2011年夏、1981年に小川文子が在籍していた5年1組の同窓会が開かれる。出席した相羽秀樹はそこでかつての遊び仲間、正人や純と再会する。陽気にふるまうものの、じつは悩みを抱えている秀樹。その悩みとは、妻である未来とのあいだになかなか子どもが授からないこと。そんななか、正人が「廃校になってしまった小学校へ忍び込んで酒盛りをやらないか」と提案する。ある夏の夜、かつて通った学校に集まる秀樹、正人、純。すっかり荒れ果てた教室で語り合う3人。そのとき、東日本大震災の余震が起こる。3月の震災、そして原発事故。価値観を根底から覆がえすような出来事を経験した秀樹は、妻未来との不妊治療に関して、一歩、前へ進もうと決心する。
第6章「新しい町」2021
誕生して50年となったニュータウン。71年当時、20代だった袴田春子は70代半ばとなり、夫を亡くし独りニュータウン内の団地で暮らしている。娘の理恵子は50代となり、都心に居を構え夫と娘2人の4人で生活していた。そんな理恵子の悩みは、気ままに生きる反抗期の高校生の次女・結希だった。また理恵子は独居の春子を心配し、じぶんの自宅近くに引っ越しをさせようと考えている。だが、春子は引っ越しに乗り気ではなく、ニュータウンで暮らしつづけたいと主張する。なんとかその意志を翻意させるべく、理恵子は市のシルバー人材センターに依頼し、実家の片付けのために職員を派遣してもらう。やってきた職員は、いまは市役所を退職した小島健児だった。結希の行動に翻弄されつつ、健児とともに「実家じまい」を進めていく理恵子。だが健児には、どうやら秘密にしていたある事実があるようで――
以上が6章から成る小説の概要である。この物語を執筆するにあたって、過去の文献をあさり、さらには現在の多摩ニュータウンを足で取材した。次章はその取材で見えて来た多摩ニュータウンの今のすがたを記してみたい。
取材に歩いて
取材に行ったのは2016年の春から秋にかけて。章ごとの舞台となる学校や商店街、京王線永山駅ちかくの団地をくまなく歩いた。
久しぶりに歩く多摩ニュータウンは、わたしが住んでいた頃とだいぶ趣きを変えていた。
かつてひとで溢れていた商店街は、シャッターの降りた店舗ばかり。買い物客の行き交いもみられない。たまに「営業」しているのは介護ステーションや、ショートステイの事務所ばかり。それはそうだろう、かつて20代~30代だったニュータウンの住人はみな町とともに年老い、高齢者となっている。計画当時は「初期入植者の子ども世代が戻って来て家庭を築き、町はつづいていく」という目論見があったが、それは机上の空論となり、子ども世代は通勤に便利な都心に居を構え、ニュータウンには戻ってこなかった。
溢れかえる子どもたちを収容するため急ピッチで作られた小学校や中学校は多くが廃校となり、荒れるにまかせている。かんじんの住まいである団地は、エレベーターがないという不便さから4階5階といった高層階からひとが減っていき、かろうじてひとが住まっているのはほぼ1階や2階、それもかなりの確率で無人というありさまだった。
広い公園には子どものすがたは少なく、同じような年齢の高齢者たちがベンチでくつろいでいる。バスの減便のため、交通の便のよい駅近のマンションやアパートに住み替える住民も多いと聞く。そしてますます団地の住人は減ってゆき――住民の減少に歯止めがかからなくなっているのである。
全盛期のニュータウンに暮らしていた身からすると、現在の町を見回すたびに寂しさ、やるせなさが募って来る。「老いたニュータウン」――町は確実に終焉に向かっているかのように見えた。
40年前の町
そんな現在のニュータウンを歩くにつけ、わたしが入植した当時の町が頭のなかでよみがえってくる。
いまの実家がある聖ヶ丘地区へ最初に行ってみたときのこと。家はまだ一棟も建っておらず、むき出しの赤土が広がる、まさに開拓期の造成地だった。商店街にはさまざまな業種の店舗が開いており、肉や魚、小規模のスーパーなどがあり、毎日の生活に困らないようなラインナップとなっていた。まだ新しい学校には、児童・生徒のすがたが多く見られ、活気に満ちていた。
最寄り駅のひとつ、聖蹟桜ヶ丘駅は新駅舎を建設中で、背の高いクレーン車が何台も空に向かって首をもたげ、それはさながら恐竜の群れを思い起こさせた。まだ改装中の暗い仮駅舎、駅前には夜泣きそばやたこ焼きの屋台が並び、高校生のわたしはよくそこで買い食いをしたものだ。
1986年、新駅舎の完成した聖蹟桜ヶ丘には、京王デパートをふくむ一大ショッピングセンターがオープンし、衣食住を支える店舗はもちろん、映画館や劇場までもが完備された便利このうえないしつらえとなった。「都心まで出なくとも、この町ですべてがそろう」――そんな意気込みが町づくりに反映されたのであろう。そしてその目論見通りに、町は発展していったのである。
ただ、そんな「作られた町」には独特の「問題」があった。
ひとびとが何世代にもわたって作り上げた町の「匂い」が希薄なのである。具体的に言えばパチンコ店や風俗街がない。レコード店やジャズ喫茶、赤ちょうちんもない。清潔で安全ではあるが、生活感が薄いのだ。団地のなかに商店街はあるものの、多くの店は土地をニュータウン側に譲渡した元農家のひとたちが他所で学んで開いた新規店であり、なんというか「商売をしている」感が薄かった。
若かったわたしは、そういった「清潔で安全ではあるものの、刺激が極端に少ない町」に、もの足りなさを感じていた。友だちの住む中央線沿線の高円寺や阿佐ヶ谷、または仕事で訪れた谷中や浅草といった、まさに何代もかけて先人がつくり上げた個性の強い町にあこがれた。
極私的な思い出
とはいえニュータウンでの暮らしには、ニュータウンでしか経験できない日常もいっぱい詰まっていた。極私的なエピソードになるが、そんな思い出の一端を紹介したい。
高校生だったときのこと。近くの里山で見つけたすみれを庭に植えようと、わたしはシャベルを動かしていた。庭土をいくらか掘り下げたとき、こつんとなにかがシャベルに当たった。掘りだしてみるとそれは縄目のくっきりついた土器であった。大学に持っていき、考古学の教授に見てもらうと「間違いなく縄文土器である」とのお墨付きをもらった。自宅の庭から縄文土器。調べてみると多摩ニュータウンのある多摩西部の丘陵地は、古くからひとの住まう村が点在していたという事実に行き当たった。最新の、生まれたばかりの町の下には1万年前のムラが眠っている。わくわくするような体験であった。
古くからの農家がニュータウンのすぐ隣に残っていることも、胸にじんわり広がる嬉しさだった。農家があれば畑がある。畑があれば水路が流れ、実り多き里山が出来上がる。いまでは開発され、高層マンションの立ち並ぶ若葉台のあたりには、そんな牧歌的な光景が広がっていた。春の午後、住宅の立ち並ぶ団地を抜け、境界線のように鎮座する古い神社の裏手に回る。林をしばらく歩くと、突然目の前に茅葺きの農家と野菜の緑がやさしく光る畑が映る。それはまるで時を超えたような、あるいは遠い地にワープしたかのような不思議な感覚をわたしに生じさせた。あのこころ温まる光景を、光を鳥のさえずりを、わたしは生涯忘れることはないと思う。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。