執筆者プロフィール

柴野 京子(しばの きょうこ)
上智大学文学部新聞学科准教授
柴野 京子(しばの きょうこ)
上智大学文学部新聞学科准教授
2020/05/11
ジャック・チボーという名の友人
極端な寡作ながら、圧倒的なクオリティで独自の時空間を表現する漫画家、高野文子の代表作のひとつに『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』という作品がある。手塚治虫文化賞の大賞受賞作であるにもかかわらず、品切が続いていたが、幸いにして近ごろまた入手できるようになった。
主人公の田家実地子は、雪深い地方の町に住む高校3年生。家には両親と小学生の弟がいて、からだの弱い従妹をひとり預かっている。家事をよく手伝い、編み機の扱いが得意な実地子は、母の友人からの頼まれ仕事なども引き受けつつ、学校の図書室で借りた全5巻の黄色い本、『チボー家の人々』を読み続けている。
とりたてて大きな事件が起こるわけではない。だがそのつましく平凡な日常は、通学バスの中で、小さな子の相手をしてやる合間に、家族が寝静まったあともなお、枕元の灯りをつけて読み進めていく実地子の内面を通して、小説の世界とシンクロする。革命を志すジャック・チボーと仲間たちは、実地子にさまざまな問いを投げかけ、日々の暮らしの中で対話を重ねていく。そして、地元の大手メリヤス工場に就職することを決めた実地子は、自分の選択と意思とを彼らに伝えて支持を受け、黄色い本を図書室に返却するところで、物語は終わる。
2014年に発表された高野の目下の最新作『ドミトリーともきんす』では、朝永振一郎や牧野富太郎など、自然科学の名著が主題にとりあげられている。こちらはもっとストレートに本じたいの楽しさを紹介しているが、原点は『黄色い本』であり、これがすぐれたマンガ作品であると同時に第一級の読書論であることは、もっと広く知られてしかるべきだろう。
読書を成立させているもの
ところで『黄色い本』には、読書にかかわる装置がふたつ登場する。ひとつは実地子が本を借りた学校の図書室、もうひとつは田家家の本棚である。図書館の描写はだいぶ抽象化されているが、作者自身によれば、設定は昭和40年代あたりとのことなので(『ユリイカ』第34巻第9号〈特集・高野文子〉2002年7月)、リノリウムか木の床の、ごく質素な内装だったのではないかと想像できる。実地子が読んだ白水社版全五巻の『チボー家の人々』は、1966年の刊行と注記にあるので、棚の中では真新しく輝いて見えたかもしれない。
いっぽう家の本棚のほうは、押し入れの下段、奥の方に布をかけた状態でしまいこまれている。乱雑に並べてあるのは古い児童書ばかり、病弱で外に出られない幼い姪のために、実地子の父がひっぱり出してきたものだ。
本の背表紙には、グリムやイソップの童話集、偉人の伝記、折り紙・工作、小学生向けの百科事典など、具体的な書名が記されている。むろん創作上のものではあるが、図書館と描き方が対照的なのは、「実ッコちゃんと基根ちゃん(弟の名)が読んだ」本だからである。ずばり昭和の子どもの本のスタンダード、といわんばかりのラインナップだが、この本棚こそ田家家の子どもたちの読書履歴であり、かつてあった身の回りの風景なのだ。
生まれ育った家にどんな本棚があったか。学生時代に夢中で読んだあの一冊は、いつどこで手に入れたのだったか。読書の話をするとき、人はしばしば過去の記憶や個人的なエピソードを本に被せて語るが、それは読書という行為がただ単純に「本を読む」だけではなく、その前後のプロセスや環境をすべて含めた、経験として成立しているからにほかならない。
田家実地子は、ありふれてはいるがそれなりに豊かな本を与えられ、学校の図書室で親の知らない本を借りてくるようになった。よき理解者である父親は、娘に向かって、
「実ッコ、その本買うか? 注文せば良いんだ」と声をかけ、
「好きな本を、一生持ってるのもいいもんだと、俺は、思うがなあ」
とつぶやく。作品には出てこないが、彼らがときおり本を買っている、さほど大きくはない本屋がこの町にはあるのだろう。その気になれば「注文」して世界を広げることができるし、思い切ってそこに出ていくこともできる。『チボー家の人々』と少女時代に別れを告げた実地子が、ふたたびその扉を開くかどうかはわからない。だが彼女の生きる社会において、そうした装置や機会がどのように設定されていたのかが、実地子の読書経験に決定的な影響を及ぼしたことに変わりはない。
近代書店の100年
そのような観点からみれば、日本における読書環境として書店の意味は大きい。
私たちになじみのある一般的な書店のスタイルは、約100年前、1920年あたりで確立された。海外の書店と比べて際立った特徴は、雑誌と書籍が同じ流通網で売られている点にあるが、そのルーツをたどっていくと、さらに明治時代にまでさかのぼることになる。
書肆「福澤屋諭吉」や本誌『三田評論』が象徴するように、日本の近代出版は、いずれも西洋に由来するジャーナリズムと学知の輸入を柱にスタートした。産業構造もそれに応じて新たに作られたが、その過程では、草紙類のような前近代的な出版活動もが包含され、制度化されている。さらにいえば、その中心に合理的な流通機構をおいたことによって、最終出口である「書店」に出版産業の特徴が集約された。
こうして近代日本の「書店」はきわめて多様な出版物と読者とを取り込む、重層構造を備えた装置になった。さらにこれらの「書店」は、国定教科書の流通拠点として全国的に追認され、明治期にはすでに社会的なインフラになりえていた。図書館行政が立ち遅れた日本では、公共図書館の整備計画が予算つきでたてられたのは1970年前後であり、実際に設置されたのは80年代になってからである。その間、およそ半世紀あまりにわたって「書店」は増殖を続け、子ども向けの折り紙の本から函入りの文学全集、学術書に至るまで、あらゆる本を網羅的に担う場所として、日本人の「読書」のありようを支えてきたのである。
デジタル空間に新たな経験を
インターネットが現れて、様相は一変した。最大の変化は、本や情報を手にするプロセスが、データベースへのアクセスに置き換えられたことである。アマゾンのようなインターネット書店は、検索エンジンと電子決済のしくみを使って、ユーザーみずからが本を取り寄せる。ここで重要なのは速さよりも主体の転換であり、そのためのリソースの提供だった。これを最初に歓迎したのは、図書館や書店を使い倒してきた愛書家たちであり、電子化された書誌は、読書活動を高度に成立させるツールと認識された。
けれどもスマートフォンが行きわたり、インターネットショッピングが当たり前になると、そうした構造は瞬く間に意識からかき消された。アマゾン・ジャパンの設立から20年を経たいま、あるのはもはや量のかたまりにすぎない。小さな画面はその都度更新されて、経験から切り離される。「注文せば良いんだ」と言った実地子の父が知る世界の広がりへの期待は、すべてを一度に手に入れることと引き換えに失われた。
だから、もし読書の未来を考えようとするなら、デジタルに覆われたこの社会空間の中での、新たな経験が必要になる。グーグル、アマゾン的なものや電子書籍への抵抗は、「棚に並んだ本を見ることで発見がある」「直接手にとることが大事」「本のページを繰る喜び」といった実感としばしば対になっているが、思えばこれらはすべて、近代の出版システムが提供してきたフレームにもとづく経験なのである。
人口の大半をデジタルネイティブが占めるころには、おそらく本そのものも少しずつ変わっていく。どのような経験をもって本と出会い、対話をしていくのか。それは21世紀に生きる田家実地子と私たち自らが創りだし、次代に残すべき命題なのである。
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。