慶應義塾

【特集:英語教育を考える】井上 逸兵:これからの英語教育のために考えたいこと

執筆者プロフィール

  • 井上 逸兵(いのうえ いっぺ い)

    文学部 教授

    井上 逸兵(いのうえ いっぺ い)

    文学部 教授

2025/05/08

日本人の英語力についての定番のイメージは、読み書きはできるが会話は苦手、というものだろう。外国の人がいて、英語を話さねばならないような状況になると、逃げ回るかフリーズする、というのが日本人のステレオタイプだった。

「だった」と言うのは、今、この逆転が起こっているように見えるからである。今の子供たちや若い世代に、外国人を前にして物怖じする光景にはあまりお目にかからない。その一方で、一般に、日本語を含め、かつ大人も含め、文章の読解力が落ちているのではないかということがさまざまな方面で指摘されている。実際、学校現場では、いわゆる英会話に抵抗感の少ない生徒が増えている一方で、教科書の内容を正確に理解する力の低下が懸念されてもいるようだ。

こうした変化は何を意味しているのだろうか。社会と、コミュニケーションの環境や形態そのものが大きく変わる中で、英語教育の在り方も再考を迫られているように思える。

私が本稿のご依頼をうけた理由は、おそらく、私の専門が社会言語学・英語学・コミュニケーション研究で、日本人と英語について、これまでも発信する機会が幾度かあり、さらには慶應義塾中等部の学校長を務めた経歴があるからだと思われる。そのような立場をふまえて、つらつらと綴ってみたい。

AI時代に英語は必要か

最近、「AIがあるから、もう英語は勉強しなくていいんじゃないか」という質問を向けられる機会が増えた。スマートフォンの翻訳アプリは日々進化し、海外旅行でも言葉の壁をほとんど感じなくなったという人も多い。実際、以前なら道をきく場面で発揮されていた英語力も、スマホに取って代わられてしまった。私は、どうも道をたずねやすいオーラを発しているようで、以前から道をきかれることがたびたびあったが、最近はめっきりきかれることがなくなった。旅人はもれなくスマホを持っているからである。

専門分野の学術論文を読む際でも、AIによる翻訳と要約機能を使えば、短時間で多くの情報を得ることができるように見える。こうした技術の進化は、確かに言語障壁を低くし、国際的な情報アクセスの民主化に貢献している。スマホ対応で問題がないというなら、たしかに英語の勉強は「いらない」のかもしれない。オンラインの会議などでも、文字起こしの精度が高まってきて、相手が英語で話していても即座に翻訳してくれる。まだまだやりとりとなると瞬時にはAI対応できないが、ひたすら受け身の参加者くらいにはなれる。

ただし、AIの翻訳技術にも限界がある。ニュアンスや文化的背景、専門的な文脈の理解といった面では、依然として人間の言語能力に及ばない部分がある。誤訳や不自然な表現も少なくなく、重要な会議や交渉の場でAI翻訳だけに頼るのはいまだリスクが大きい。また、AIを介したコミュニケーションでは、対話の自然なリズムや「間」も失われがちだ。おかれた立場や場面によってはまだ英語のトレーニングは不要とは言えない。英語力は依然として差別化要因である。AIが置き換えられる英語と、置き換えられない英語があるということだ。

AI技術への依存がもたらす認知的な変化を指摘する向きもある。常に翻訳ツールに頼ることで、外国語学習がもたらす脳の活性化や認知能力の向上といった副次的効果が失われる可能性があるという報告もある。言語学習は単なるコミュニケーションツールの獲得ではなく、思考の枠組みや異文化への感性を育む過程でもあると考えられる。将来的には、AI技術と人間の言語能力を補完的に活用するハイブリッド型のコミュニケーションスキルが求められるかもしれない。AIツールを効果的に使いこなしながらも、人間ならではの言語感覚や異文化理解力を発揮することが重要になるだろう。

義塾中等部における英語の学びと環境

私が昨年まで6年間学校長を務めた慶應義塾中等部は、生徒と教師、生徒同士のコミュニケーションの密度が高いのが特徴の楽しい学校である。もちろん楽しいだけでは困るので、高等学校との連携は常に意識されている課題の1つだ。授業内容については教員の裁量が大きいが、全教員が共通して持っているのは「高校での授業に耐えうる基礎力をつけさせよう」という意識である。

中等部生の多くは、コミュニケーションに対して積極的である。中等部の校風として、教師と生徒との距離が近く、日常的に多くの会話が交わされている。生徒に対して教員は長い時間をかけて接することが多い。大学教員から見ると感動的ですらある。愛情とは時間なのだという思いに至り、保護者会などで親御さんたちにもよくそう話していた。子供たちにもそれは伝わり、よくコミュニケーションをとっている。卒業前になると「高校に行ったら、先生にそんなにべったりだとびっくりされるぞ」といった注意が教員から3年生に向けられる。それだけ日常的に生徒と教員とのコミュニケーションが密なのだ。

中等部生のコミュニケーションに対する積極性は、授業内の活動、課外活動、学校行事の中だけでなく、廊下の立ち話、合間の雑談等によって培われたものと私は見ている。その影響か、生徒たちは英語でも臆せず話そうとする姿勢を見せる。ネイティブ教員が比較的多いこともあるが、根本にこのコミュニケーションに対する志向がないと、英語に限らず、そもそもの言語力は育たないと思う。ディベートやプレゼンなどをやることも大切だが、それだけではコミュニケーション力を高めることにはならない。重要なのは、生徒たちが英語を使うことへの心理的ハードルの低さとコミュニケーションへの志向だろう。

交換留学も、表向きとはちょっとちがった重要な役割を果たしている。中等部では現在、ハワイのイオラニ校、イギリスのホカリル校との交流を行っている。派遣される人数は全体からすると多いとは言えない数である。もちろん行ける生徒にとっては貴重な経験だが、トータルでみると受け入れる意味のほうが大きいと言えるかもしれない。受け入れ時は、教室に交換留学の生徒たちがいるわけだが、より重要なのは休み時間や放課後だ。ここで生徒たちは評価者ではない英語話者とコミュニケーションすることになる。英語がうまかろうがへたであろうが、そこは中等部生のコミュニケーション力が全開で、どんどん絡みに行く。さらに、休日などではホストファミリーの中等部生がどこかへ遊びに行こうと誘うわけだが、もれなくその生徒の友だちもつるんでいっしょに行く。

交換の家族は1対1だが、友だちを含めると波及効果は大きい。留学生との交流はたんなる言語習得の機会にとどまらず、異文化理解や国際的な視野を広げる貴重な経験となりうる。異なる文化背景を持つ同年代の若者との交流という意義も大きい。逆に、中等部生が、自分たちの文化や価値観を客観的に見つめ直す機会にもなりうる。オンライン技術の発達により、留学生が帰国した後も交流を継続することも容易になった。国境を越えた学び合いの関係が築かれるとしたら、やはりいきなりオンラインではなく、生身の人間の出会いがまず基本でなければならないように思う。

中等部からみると若干耳の痛い話だが、高等学校にあがったときに、いわゆる受験組との学力差が問題になる。本塾の一貫教育校に属する高等学校は、外部からの入試を経て入ってくる生徒の学力が非常に高く、偏差値的にも全国トップレベルである。学力では負けてしまうと思う生徒は多く、送り出す中等部教員たちの懸念もそのあたりだ。

しかし、ちょっと考えてみるとわかるが、受験組の生徒たちが中学校の授業時間の学びだけで、これら難関高校に入ったのかといえば、もちろんそうではない。学校の学習以外に多くの時間を割いて受験勉強を重ねてきており、塾通いや家庭学習が大きな役割を果たしている。もちろん、中等部からの内部進学組にも塾に通っている生徒はいるが、その比率や時間のかけ方には差があると推測される。したがって、同じ高等学校に進んだ時点で、受験を経た生徒とそうでない生徒のあいだに、学力面での差が見られるのは当然のことと言える。かんたんに言ってしまえば、学校の授業時間内での学習の量と質はそもそも限界があるという現実があり、それを踏まえて、何を、どんな機会を学校は提供できるかを考えねばならないということだ。受験勉強が悪いとは思わない。基礎学力も重要だ。一方で、学校がなんらかのよい環境を与えられる存在であることにも意味がある。生徒の考えやタイプもさまざまである。

英語へのアプローチは人それぞれ

英語に限らず、言語の学び方には個人差がある。年齢よりも「認知スタイル」とも呼びうるような違いが、入り口を左右しているように感じる。文法や構造の理解から言語をとらえようとする学習者もいれば、コミュニケーションの楽しさを通じて習得しようとするタイプもいる。

小学校で英語教育が導入されて久しいが、正規の科目になって顕在化した現象は、著しく英語が苦手という生徒が少数ながら現れたことである。アルファベットを見るのもいやだというくらいの苦手さである。算数が苦手だったという生徒はいるとしても、かんたんな計算くらいはおそらくできるし、+や−の記号を見るのもいやだという生徒はいないのではなかろうか。本人には苦痛のタネなわけだが、研究者として見ると、極端に毛嫌いする生徒がいるのが現象としては興味深い。

まれなケースではあるが、英語がそういう超絶苦手だった生徒で、文法から入り、論理立てて教えるとできるようになってくるものがいる。入り口がちがえば、入っていけるのであろう。このことは、外国語学習における学習者の認知タイプが複数ある可能性を示唆している。

私自身、かつて簡単な調査を行ったことがあるが、これは中学生だからというような年齢の問題ではないようである。小学校の英語の時間に、歌をうたわされたのがいやだった、ゲームをさせられたのが苦痛でしかたがなかった、という過去の苦い経験を持っている人は、実はめずらしくない。小学生であろうと、中学生であろうと、あるいは中年、高齢者であろうと、語学の導入としての歌やゲームは苦手という人はいる。そして、そういう人は往々にして文法から入ることを好む。

コミュニケーションそのものを楽しめる人は、そこから入るのがよいだろう。文法や語彙から入るのがよい人もいる。小説など文学作品を読むのが好きという人もいる。メジャーリーグの中継を英語で理解したいというような動機があれば、言語学習の道筋が見える。

教育現場に目を移すならば、このようなアプローチの多様性を用意することが理想だ。必要なのは、カリキュラムの改革なのではなく、カリキュラムの多様化である。そのシステム上のめんどうな処理こそAIに期待したいところである。

AI時代こそ読む力

日本人は読み書きができるが……とは、日本人の英語力を非難する、定型の枕詞だが、実は、これは以前からあやしい。TOEFLなどの試験で比較するのは、必ずしも妥当ではないが、国別平均点を見ても、日本人のリーディング/ライティングのスコアは、他国と比べて高かったことはない(たしかにスピーキングも低い)。多くの日本人の「読み書きができる」というのは、文字を見て、かんたんなものであれば、意味がわかるというだけで、長い文章や内容の濃い文章になると、きちんとある程度のスピードで読める人はそう多くはない。

最近は生成AIに、文章を要約させる人が多くなっているが、ユーザー目線からのざっぱくな印象ではあるが、AIは、要約はあまり得意ではないように思う。事務文書や平易な文書、議事録などには使えるが、深い読み込みが必要な内容の濃い文章になると、現時点ではまだまだむずかしいようだ。AIがどのように要約しているのか知らないが、インパクトのある、よく読めば含蓄の多い一節でも、量的に短く、キーワードになるほど繰り返されたりしていないと、AIはどうもスルーしてしまうことがあるようだ。

少なくとも、このレベルのリーディングとしては、まだまだ人間の方が勝っている。入試問題を対象とした試みとしては、かつての「東ロボくんプロジェクト」(新井紀子氏ら国立情報学研究所の、AIに東京大学に合格させるだけの能力を身につけさせようとしたプロジェクト)や最近の生成AIでも、読解問題の得点向上は難題だ。

その意味で、文学部教員として考えると、そのレベルの読解力(何語にしろ)を高めることは、大学教育の使命である。そして、それこそがAIに負けない武器として、AIに過度に頼ることが懸念されるこれからの世代やその層に対して、圧倒的に差別化できる能力となるにちがいない。

私の専門である、言語学はまだしも、文学研究者や人文学には、世の中には、AIにあまりよろしくないイメージを抱く人たちもいるようだ。しかし、テクストの行間や背後から周辺まで、総合的に深掘りして読むことができる能力は、AI時代にこそ高い価値をもつようになるだろう。AI開発もいつかそのレベルに達するかもしれないが、文学研究者は、私とちがってだいたい奥ゆかしいので、そのような高度なリーディング能力をあまり言語化していないようだ。言語化していない技術だけに、おそらく当分AI研究者もなかなか手をつけるのがむずかしいのではないかと思う。逆に、そのあたりは文学研究者がAIの開発になんらかの貢献をする余地のある部分ではなかろうか。

『SHOGUN 将軍』の衝撃

生成AIの発達にともなって、自動翻訳のレベルも近年格段に向上している。言語学にとっても、翻訳は古くて新しいテーマだ。2024年で、私にとって衝撃的だったのは、この年放映・配信されたアメリカの日本時代劇ドラマシリーズの『SHOGUN 将軍』だった。大ヒットし、エミー賞18部門を始め、数多くの賞を受賞した。衝撃的なのはそのことではない。私にとって驚きだったのは、アメリカ人や世界の人たちの大半が、日本語のこのドラマを英語などの字幕で見ていたということだ。

よい比較の対象は2003年の『ラストサムライ』である。この作品も大ヒットしたが、大きな違いは、ちょんまげを結ったサムライたちがみな英語をしゃべっていたことである。

一般に、アメリカの人はあまり外国の映画は見ない、と言われていた。まして、字幕などで見ようなどという殊勝な人はあまりいないとかつてはされていた。コロナゆえのステイホーム需要がきっかけだったか、自宅で、配信で映画を見るというスタイルが定着してきたこともあったろう。ヒットの要因はさまざまかもしれない。

日本人と英語という観点から、この事象の意味することは、映画のみならず、今後、誰でも参入できるYouTube動画などでも、日本語コンテンツが、英語字幕をのせて世界コンテンツになる可能性を秘めているということだ。

おそらくその英語は、英米人などからみてこなれた英語ではない。英作文の授業なら、こんな日本語を直訳したような英語はダメだと言われるようなものかもしれない。しかし、もし英語圏のみならず世界が、コンテンツそのものを楽しむことを優先して、このような日本語英語を許容するようになるならば、英語はこれまでとは別次元のグローバル化を迎えることになる。かつて英語が世界に広がり、各地で固有の英語を生み出した「世界諸英語(World Englishes)」の時代とは異なる、AIが生み出した新しい英語の世界化だ。

そうなれば、求められるのはコンテンツ力である。そういう英語へのアプローチもあってよいと思う。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。