慶應義塾

【特集:新・読書論】座談会:AI時代に古典を読む

登場者プロフィール

  • ロバート キャンベル(Robert Campbell)

    日本文学研究者、国文学研究資料館長

    ニューヨーク市生まれ。カリフォルニア大学バークレー校卒業。ハーバード大学大学院東アジア言語文化学科博士課程修了。文学博士。1985年来日。東京大学大学院総合文化研究科教授等を経て、2017年より現職。専門は近世・近代日本文学。著書に『井上陽水英訳詞集』『漢文小説集』(編著)等。

    ロバート キャンベル(Robert Campbell)

    日本文学研究者、国文学研究資料館長

    ニューヨーク市生まれ。カリフォルニア大学バークレー校卒業。ハーバード大学大学院東アジア言語文化学科博士課程修了。文学博士。1985年来日。東京大学大学院総合文化研究科教授等を経て、2017年より現職。専門は近世・近代日本文学。著書に『井上陽水英訳詞集』『漢文小説集』(編著)等。

  • 林 望(はやし のぞむ)

    その他 : 作家その他 : 書誌学者文学部 卒業文学研究科 卒業

    塾員(1972文、77文博)。東横学園短大助教授、ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等歴任。専門は日本書誌学・国文学。主著に『イギリスはおいしい』『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』『謹訳源氏物語』『謹訳平家物語』等。

    林 望(はやし のぞむ)

    その他 : 作家その他 : 書誌学者文学部 卒業文学研究科 卒業

    塾員(1972文、77文博)。東横学園短大助教授、ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等歴任。専門は日本書誌学・国文学。主著に『イギリスはおいしい』『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』『謹訳源氏物語』『謹訳平家物語』等。

  • 駒井 稔(こまい みのる)

    その他 : 光文文化財団常務理事その他 : 「光文社古典新訳文庫」創刊編集長文学部 卒業

    塾員(1979文)。大学卒業後光文社入社。広告部を経て、1981年「週刊宝石」創刊に参加。97年翻訳編集部に異動し、2004年編集長。2006年「古典新訳文庫」を創刊。10年にわたり編集長を務めた。著書に『いま、息をしている言葉で。──「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』。

    駒井 稔(こまい みのる)

    その他 : 光文文化財団常務理事その他 : 「光文社古典新訳文庫」創刊編集長文学部 卒業

    塾員(1979文)。大学卒業後光文社入社。広告部を経て、1981年「週刊宝石」創刊に参加。97年翻訳編集部に異動し、2004年編集長。2006年「古典新訳文庫」を創刊。10年にわたり編集長を務めた。著書に『いま、息をしている言葉で。──「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』。

  • 小平 麻衣子(司会)(おだいら まいこ)

    文学部 教授

    塾員(1990文、97文博)。専門は近代日本文学。文学博士。埼玉大学助教授、日本大学教授等を経て2016年より現職。著書に『夢みる教養──文系女性のための知的生き方史』『『文藝首都』──公器としての同人誌』(編著)等。

    小平 麻衣子(司会)(おだいら まいこ)

    文学部 教授

    塾員(1990文、97文博)。専門は近代日本文学。文学博士。埼玉大学助教授、日本大学教授等を経て2016年より現職。著書に『夢みる教養──文系女性のための知的生き方史』『『文藝首都』──公器としての同人誌』(編著)等。

2020/05/11

普遍的な面白さ

小平

今日は「新・読書論」という特集の中で「AI時代に古典を読む」というタイトルで座談会を行いたいと思います。現在、ご承知のとおり新型コロナウイルスで思いもかけない状況になっていますが、ここでは通常と同じ心を残した座談会にしたいと思っております。

私は近代日本文学を専攻しておりまして、古典と言われるような明治期の文章なども対象にしていますが、一般的に「古典」と言われるものには苦手意識が働くような気がします。今日は、どのような読み方で古典を面白く読んでいらっしゃるのか皆さんにお聞きしたいと思っています。

最初に、これが実は結論になってしまうかもしれませんが、「古典とは何か」ということについて、お考えのところをお聞かせ願えればと思います。

古いというだけでは古典ではありませんね。林さんは、例えば「デカンショ」(デカルト、カント、ショーペンハウエル)のような旧制高校的な教養は重要ではなく、『源氏物語』などは、くり返し読んで面白いということを、ご著書でお書きだったと思います。逆に駒井さんは「デカンショ」も古典新訳文庫のラインアップとして取り上げていますね。まずは林さんいかがでしょうか。

高校時代、一番嫌いな科目は現代国語だったんですよ。僕の高校時代は左翼運動の盛んな時代で、現代国語の先生がイデオロギー的に偏ったことをしきりと言いまして全然、面白くなかった。それに対して、自分で『平家物語』なんかを読んでみると、「ああ、これは面白いな」と思ったんですね。

現代文学は別に嫌いではなかったのです。その頃は三島由紀夫だとか安部公房だといった皆が読むものは人並みに読んでおり、それは面白いのだけれど、どうも授業でやる現代国語は大嫌いでした。それで古文に生きがいを見出していたという感じで、古典に寄り付くようになった最初のきっかけなんです。

やはり古典というのは、失われた作品もたくさんある中で、昔から今まで、どの時代にも面白いと思われるからこそ、読み継がれてきたわけです。どの時代の人が読んでも面白い、つまり不易(ふえき)の、言いかえれば普遍的な面白さがあったということです。

読むにつれて、「ああ、そうそう、そうだよなあ」ということが感じられて、今ではすっかり古典文学しか読まないという頑固おやじになってしまったんですが……(笑)。

小平

駒井さんは、日本だけではなくて、広い世界の中から選書をなさっていますね。

駒井

僕の世代で言うと、今、お話にも出た三島由紀夫や澁澤龍彦の影響で、サド、バタイユ、ジャン・ジュネという3人の作家が、高校生ぐらいからものすごく大きな人気を得ていました。それで、何て言うんでしょうね、少し「とがった」ものを読みたいような感じがしていました。

同時に上の世代、いわゆる全共闘世代の人たちが、いい意味でも悪い意味でも古典的な教養主義の中で、「古典は必ず読むべきだよ」と言ってくれました。だけど読んでもなかなか理解が行き届かないなという感じをずっと持っていたんですね。

いま林さんがおっしゃったように古典は素晴らしいものだ、と僕の世代ぐらいまでは思い、実際に一生懸命、高校から大学にかけてそれなりに読んだのですが、なかなか心に響いてこない。何か心の中に自分として納得できるような読み方ができないなという気持ちがずっとありました。

ところが、21世紀になって、「新訳」という流れが出てきた時に、日本の『源氏物語』なども含めてですが、もう少し自由に古典の読書ができるのではないかと感じました。つまり古典を読むことが「偉い」ことではなく、普通の読書になるのではないかという兆しが生まれてきた。そこで、もう一度、読み始めたんです。

それで、自分も翻訳という仕事に携わりながら、何が分からなかったのか、ということを明らかにして古典作品に近づいていったのが、僕と古典との付き合い方なんですね。

「日本文学」との出会い

小平

キャンベルさんは、日本の教育課程ではないところから、お読みになっていらっしゃいます。

キャンベル

私は国語として日本語と向き合って学習したのではなく、日本語として学んだわけで、国文学ではなく日本文学という1つのパラダイム、概念枠を持って読み進めてきたように思います。

10代前半に両親の仕事の都合でパリやイギリスにもいたような育ちで、多様な言語環境の中にいたこともあり、駒井さんの言葉を借りると、大学に入ってから、ちょっと「とがった」ことをやりたいとは思いました。

今考えますと、アメリカと日本では若干、時差があったように思います。大学に入った頃は、アメリカでも学生運動は収束しており、むしろ私は非常に微妙な、そういったことに共感できない世代です。1975年にベトナム戦争が収束し、そこから3年ぐらいで私は20歳を迎えるわけですが、私の世代は少しだけ上の世代と断絶のようなものができていたように思います。

だから私の場合、「とがった」というのは、何か権威があるものに対して、それに盾突くというようなことではないんです。当時はフーコーとかデリダとか文学理論がたいへん盛んで、様々な古今東西の文学を、等距離から新しい理論を使ったアプローチがされていました。高校の終わりぐらいから、そういった理論の文献を読むうちに、日本の文学もあるのだと知ったんですね。

ちょうどサイデンステッカー氏の『源氏物語』の英語での新訳が1976年に出たところでした。アーサー・ウェイリーの『源氏物語』の英訳(1921~1933年)以降の新しい翻訳です。19歳の時だったと思いますが、買って読み通しました。

それからアイヴァン・モリスの『枕草子』の訳などいろいろなものを雑多に読んでいったのです。私は何かそこに権威があるとか、古典という枠組みとして、あまり意識することはなかった。ただ、それが18世紀の啓蒙時代以降の様々な言説を相対化させるというか、それとはかなり異なる語り方の情景であったり、情動的な世界であるということを感じ取ったように思います。

私はそのように近代以前の日本文学を最初は翻訳(英訳)を通して読みました。ある意味、フランスやイギリス、ドイツ、あるいは19世紀のロシア文学に、ある対角線を描くものとしてあり得るのではないかと思い、すごく面白いと思ったわけです。

日本古典をできるだけ早く英訳ではなく、原文で読めるようにと、日本語を学習し始めて2年目ぐらいから、古語の授業を受け始めました。これはまさに「語り方」なのだと思いました。間接話法と直接話法とか、英語のように分析的で、非常に文節がはっきりしているような言葉とは異なるトーンの「談話の文法」というものがあることに気づき、非常に面白いなと思って入っていきました。

だから、私は日本の風土ですとか、日本語が面白いとかジャポニスム的にエキゾティックだから面白いということではなく、自分が立っている地平を見直すきっかけとして日本の古典を読み始めたのですね。

古典文法から離れて

小平

とても興味深いお話を伺いました。『源氏物語』などでも教科書に載るか載らないかは、時々の評価で変わったわけで「古典」は決まったものというわけではありませんね。林さんにとってご自身の体験から『源氏物語』というのはどのようなものでしょうか。

中学・高校の教科書というものが、僕は非常に罪深いのではないか、と思っているのです。僕は慶應の女子高で古文の教員をしていたのですが、教科書は一度も使いませんでした。どうしてかというと、例えば『源氏物語』、『平家物語』の、全体のごく僅かな一部分だけを取り出して、「さあ、どう面白いか」と言われても、本当の面白さというものはスルッと逃げていってしまうのではないかと思うんですね。

『源氏』にしても『平家』にしても、若い人にとって読むのは大変ではあるけれど、しかし全体を貫徹して読み通した時の、心の中にドカーンとくる重さというものが本当の面白さだと思うんですよ。その中のごく一部分だけを、何か文法を教えるための見本のような形でちょこちょこと読ませて、それで何か古典文学を学んだようなことにするのは違うと思うんです。

高校時代、僕は都立高校の出身なので、とにかく頭の上にまずは大学入試というものが乗っているわけですね。大学入試は、古典をどのように味わうか、なんてことはどうでもいいわけです。ただただ、この主語が何かとか、この修飾語はどこに掛かっているかとか、何段活用の何形だとか、いわゆる受験文法というようなものを一生懸命暗記することが大事なわけです。

そういった読み方ではなく、夏休みなどに何かに1つの作品をずっと読んでみると、「何だ、全然違うじゃないか」と思うわけです。退屈な文法を重箱の隅をほじくるように教えなくても、多少、分からないところがあっても、通読していくことによって、初めて文学というものは本当の面白さを見せてくれるものです。文法は基本さえつかめれば、たくさん読むことで自然にわかってくる、そういうものです。

やはり古典文学は、教科書的なあるいは受験参考書的な形で読むのではなく、その人が「面白がって」読むということが非常に大切です。

文学はやはり、教養をつけるためとか、これを読んだら少し偉くなるだろうというようなことではなく、これが面白いと思って読む、広い意味での娯楽、楽しみだと思うんですね。そういう部分を全く抜きにした現代国語や古文の教育のあり方というのは、私は非常に罪深いと思っています。

小平

なるほど、その通りですね。

自分自身の教師としての経験では、例えば『平家物語』は全巻を通して教えることはできませんので、例えば俊寛についての一貫した物語を全体の中からピックアップして再構築し、俊寛の物語としての『平家物語』を1学期全部使って読んでいったんですね。それは生徒たちには非常に新鮮な経験ではなかったかなと思う。

その代わり、どの教科書にも出ている那須与一の扇の的の話だとかは取り上げない。『枕草子』だって「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは……」なんてところを暗記したってしょうがない。そうではなくて、自分自身で全部を読んでいって、「あ、清少納言という人は口の悪いおばさんだな」と思わず哄笑するような箇所を発見するという経験が、古典文学を若い人たちに親しみを持ってもらえる所以ではなかろうかと思います。

小平

私も慶應女子高校出身ですが、受験のために文法を覚えなくてはいけない、という圧力なしで古典を読めたのは幸いでした。先生方がお勧めになる本を注釈だけを頼りに自己流で高校から大学の初めにかけて読んだ記憶があります。

今考えると、大変、乱暴だったと思いますが、古典文法も、当時の人はただ話し聞く中で分かったのだから、自分にもいつか分かるに違いないぐらいに思っていた気がします。体験としては大きかったと思います。

その通りです。文法というのは、でき上がってきたものの結果を後から分析してできたものなので、言語が生成されていく段階では、意識されていないわけですよね。赤ん坊がしゃべるようになる時に、文法から勉強するわけではない。

だから少なくとも母語について言えば、多少、分からないところはちょっと辞書を引くくらいにして、分からないところもざっと見当つけて読んでいるうちに自然と分かるんです。

近代以前の「楽しみ」

キャンベル

今、林さんが、一種の娯楽であると言われました。まさに江戸時代の言葉で言うと「慰み」として物語やいろいろな草紙を読むことがありました。三田村鳶魚(えんぎょ)が戦時中に書いていますが、「教化」と「笑い」の二本柱が、江戸時代の文学を見るときの一番大きな基軸だと思うんですね。

「教養」という言葉は江戸時代にはありません。ドイツ語 Bildungなどの翻訳だと思うのです。一方、楽しみという言葉はありました。しかし、苦楽という言葉があるように、楽しみというのは、「やったぜ」とか、「とても気持ちいい」ということではなくて、憂いであるとか、痛みであるということと実は地続きにあった、と私は考えているんですね。

松平定信が老中の職を退いた後に書いた随筆に、『退閑雑記』という大変優れたものがある。その中に「憂いと喜びは環(たまき)のごとくめくりものである」とある。環というのはブレスレットのようなもの、つまり球ですね。苦と楽というものは、メビウスの輪のようにつながって、はっきりと分節されるものではないんです。

今、私たちはちょうどコロナというパンデミックの最中にあるなかで、遠隔操作を使ってソーシャルディスタンスを保ちながらつながろうとしている。その中から、明日につながる楽しみや希望があるわけです。だから、何が「面白い」のかということを、少し分け入って考えてみる必要があるのではないかと思います。

だいぶ前に、私が企画した東京大学教養学部のオムニバス講義に、林さんに来ていただいたことがありました。その中で、江戸時代の文学はそれほど面白いものではないと、暴論を展開された(笑)。もちろんそれは戦略であって、その後で、江戸の文学の面白さは近代でいうところの創造性というものとは異なる面白さで読み継がれてきた。近現代の私たちが書物から求める楽しさとは少し異なるものがあるというお話をされました。

先ほど林さんがおっしゃった、小刻みに切り出した受験勉強のための古典ではなく、様々に縦横無尽な読み方ができる。そして1つの作品を読み通すことによって、次から次へと扉が開かれるような仕組みとして、数百年間の、日本の近代以前の文学があったということは指摘できるかと思います。

小平

「楽しみとして読む」ということは誰にとっても重要な動機かと思いますが、特に大人は深刻さも含めて楽しみといえる、ということですね。

等身大の古典を楽しむために

小平

しかし、古典が面白いということは分かっていても、時を隔てていますし、わかるようになるまでに時間がかかり、それゆえ一般には敬遠されがちだということもあると思います。

多くは仕事などに忙しくて、古典には手が出ない。役に立つことを優先してしまいます。その点、駒井さんは週刊誌の現場という硬軟取り混ぜたお仕事の場の中で古典を読む楽しみに向き合われてきたと思います。

駒井

週刊誌の編集部で、スキャンダルなどを扱う一方で、『アンナ・カレーニナ』を読むというのはかなり特殊な生活だったとは思います(笑)。

僕も日本の古典はもう高校生の時の文法でとことんいじめられたと感じているんですね。おっしゃったように原文をちょっと読むだけで、『源氏物語』全体を現代語訳で読むことがないようなシステムの中で生きてきた。だから、非常に古文や漢文に対してコンプレックスを持っていたんです。

キャンベルさんが『Jブンガク』の中で、大学2年のときに日本文学を英語で精力的に読み始めた、とお書きになっている。日本の古典に英語で入っていったということは、僕には現代語訳も含め「翻訳」というものを考える上で重要なヒントでした。

正宗白鳥だったと思いますが、英語で源氏物語を読んだらすごく面白かったという、有名なコメントがありますよね。そういうふうに1つのクッションを置くと読めるということもある。古典教養主義という言い方がありますが、やはり教養とか読むのが大変というイメージがありすぎて、素直に作品を楽しむことができないことがあると思うのです。

橋本治さんが「春って曙よ!」という訳で『桃尻語訳 枕草子』を出した時に、「週刊宝石」の編集部ではこぞって皆読みました。そのことはすごく大きなことだったと思います。僕自身は、『源氏物語』は最初、大和和紀さんの漫画『あさきゆめみし』で全巻読んで、それから「与謝野源氏」を読んでいったんですね。そのように入り口として、学問的ではないかもしれないけど、現代的な面白さというのはあると思うわけです。

教養と捉えると、やはり日本は明治維新以来、西洋の文化を大急ぎで吸収しなければいけなかったので、等身大の作品像を楽しむというところまでなかなかいかなかった。これが僕が古典新訳文庫というものを作ろうと思った最大の動機です。

生涯、古典を何も読まないで終わるより、ハードルを低くしたところから入っていって、専門家の力をお借りしながら、たくさんの人々に読んでもらえるようにすることが、編集者として、とても大事なことだと思ったんです。

自分自身が週刊誌の現場で、俗世界の記事を作りながら『アンナ・カレーニナ』とかドストエフスキーなどの古典を読んでいると、違和感があるようで、実は古典文学もその時代の世相などを上手く取り入れてきた文学なんだということがよく分かったのです。週刊誌的な現場って実はバルザックやゾラの小説に出てくるような人間ドラマがあるわけです。ゾラの『ナナ』なんかまさに高級娼婦の世界ですから。それなのに、フランス文学は明治以降、教科書になってしまい、何かすごく偉いものだ、と思って読んでしまうところがある。それは日本の古典でもそうですよね。

林さんの『謹訳 源氏物語』を読んだ上で、原文にあたるのがよいのだと思います。キャンベルさんのように、最初に英語で読んで、今は江戸の漢詩の専門家という方はなかなかいらっしゃらないとは思いますが、そういうところにまでいける可能性は、翻訳や現代語訳の中にあると僕は確信しています。坂口安吾が、もし本当に面白いと思ったら絶対に原文にあたるようになると言っている。僕が非常に励まされた言葉です。そういう可能性を日本の読書界が失わないようにしたいということが、僕がこの「古典新訳文庫」を作ってきた1つの大きなモチベーションでした。

『源氏』はなぜ面白いか

非常に示唆的なお話だったと思います。『源氏物語』について言うと、本居宣長が『玉の小櫛』という概説書を書いていますね。

どうして『源氏物語』が面白いかというと、中国の漢籍の中に描かれている人間のように、善なら善、悪なら悪という1つの方向につきっきりになるような人間は1人もいやしないじゃないかと。そうじゃなくて、人間というのは善い時もあれば、悪い時もある。正直でもあれば卑怯でもある。好きな人の前に出ると非常にだらしなく、女々しく、どうしようもないところもある。そういうところがありのままに描かれているので面白い、と言っているわけです。

『源氏物語』というと、「平安朝の雅(みやび)の世界ですね」と言う人がいます。それを聞くと僕は、「ああ、この人は『源氏』を読んだことがないんだな」と思うんですよ。宣長が何回読んでも面白い、退屈するということがないと言う。その意見には僕は本当に賛成で、『謹訳源氏』を書くのに何回読んだか分からないぐらい読みましたけれど、やはり読むたびに面白いんです。

昔、女子高の教え子に、アメリカで育った帰国子女の子がいました。その子は自分は日本人だというアイデンティティに対して大変問題意識を持っていて、何とかして自分が日本人である証であるような古典文学、『源氏物語』を読みたいと言う。それで、毎週彼女は僕の家へ『源氏物語』を読みに通ってきました。やがて彼女は、行き帰りの電車の中で源氏物語の原文を読むようになったんです。

最初にちょっと読み方を教えてエンカレッジしてあげる。例えば「うるはし」という形容詞は、欠点なく端然とした、何か仏像のような美しさで、逆にとっつきにくいというような、否定的な側面もあるんだよ、とか教えてあげれば、何活用の何形かなんていうことを教えるより100倍いい。

どういうふうにして作者がこの人物像を描き出したかというヒントを与えて、一緒に読んでいったら、彼女はその後1年ぐらいで、全巻、1人で読み終わったように記憶しています。

駒井

それはすごいですね。

古典に対してコンプレックスを持たずに自分の一部分として古典文学を読むという経験を持てば、『源氏物語』だって別に怖くはないし、読んだからと言ったって、それが立派なことだとも思わない。

そういう経験を、僕は帰国子女の教え子によって教えられたのですが、それは非常にその後の自分の古典文学に対する接し方に示唆するところが多かった。それは本居宣長が言っていたことと、通底するんだと思います。それが優れた文学で、『源氏』が1000年も受け継がれてきた理由だと思うのです。そして私が『源氏』の現代語訳を書くのは、やはり今の人もなんとかして読みたいと思っているから、そういう仕事にも意味があると思うのです。

小平

林さんの『謹訳 源氏物語』は翻訳でもありながら、創作であるとも感じられまして、翻訳する語の選び方で、どこを面白く思っていらっしゃるのか、光源氏の眼を通してですが人物のどういうところをかわいいとか疎ましいと思っているのか、その行間から分かりました。

キャンベル

林さんの発言の中に、大事なことがあったと思うんです。電車の中で『源氏物語』の原文が読めるかということよりも、それが光景としてしっくりと、自分のこととして感じられるかが重要だと思うんですね。

駒井さんから古典への入口という言い方がありましたが、私は日本酒で言えば麹菌のようなもの、つまり触媒になって何かそこに入っていけるようなものをイメージするんですね。それは、現代語訳かもしれませんし、漫画化ということもあると思います。原文との間を往復しながら読み進めていく。あるいは2次作品ですね。江戸時代に、例えば『伊勢物語』だと、『仁勢物語』、あるいは『好色伊勢物語』というような、派生した2次創作が大量に作られた。『源氏物語』もそうです。そういったものを通して古典に入っていくわけです。

やはり学校の公教育の中で古典を学ぶということは、そういう遠近法が全く見えないと思うんですね。私は都立高校出身だったら、間違いなくここにいなかったでしょう(笑)。

どういうふうに触媒というものを見つけるか。これから若い人たちに向けて、私たちは古典、私は古典籍、書物そのものを、古いものも新しいものも包含された全体として、本当に世界に類例のないほど多様なエネルギーを、どうやってそこから発酵食品にできるか。そういう意味では、翻訳というのは1つの非常に重要な手立てかなと考えています。

技術を援用して古典に親しむ

実は、僕は『謹訳 源氏物語』を全巻、朗読して、音声メディアとしても発売していて、源氏関係の講演を頼まれる時にも必ず朗読をするんです。その時に原文を印刷して聴衆に配っておいて、聴衆の方には原文を見ながら私の謹訳を耳で聞いてもらう。お聞きになった方は、ああ、なるほどこういう意味かと原文を理解できるわけです。

今日は「AI時代の古典」というタイトルが付いておりますから、そういうことにも少し引っ掛けて話しますと、今は電子媒体、あるいはAIのような機能を援用することによって、昔はとてもできなかった、若い人たちの古典へのアプローチができるのではないかと期待しているんです。

つまり、電子書籍を読んでいくと、いちいち辞書を引かなくても、クリックすればすぐに意味が出てくる場合がある。それから、電子的な媒体の非常に大きな機能は検索できるということですね。われわれの学問は、例えば1つの解釈に辿り着くまでには、今までにこの語なら語がどういうふうに使われてきたか、あるいはどういうセンチメントを表現してきたかと夥しい用例の中から帰納してくるわけです。

それが、全く古典に親しんだことのない人でも何の苦労もなく読めるように、全部、電子注釈が付いているようなテキストが用意できる。ですから、ハードルがだいぶ低くなって、古典に親しんだことのない人でも親しみやすくなるし、研究もやりやすくなる側面があるわけです。

キャンベル

国文学研究資料館では、たくさんの研究者の協力を得て、「歴史的典籍ネットワーク事業」という10年間の大型研究計画を進めています。30万タイトルの古典籍を高精細の画像にしてメタデータとしての書誌を入れ、おっしゃったように、本文のデータが検索ができるハイパーリンクが付いていて、いろいろな解釈に入っていけるようにもなっています。

これは世界でも非常に珍しいのですが、データベースとして実物の画像をすべて見ることができるのです。日本の古典籍が、近代と決定的に違うことは、文字と絵がもう不可分に、どちらが主でどちらが従かということが分節できないようになっていることです。江戸時代の小説にしても、俳書にしても、そこにある絵と文字というものは一緒くたにある。有機的につながっているものなのですね。

ちょうど今自宅にいるので、1つお見せしますと、文化7年に江戸で刊行された『旅行用心集』という書物があります。これは19世紀初めの人たちが、どのように空間移動をしたかということをまさに体感ができるようになっている本です。

夏にはどういうヘビが危ないとかか、どうやって自分の身体を守っていくかとか、様々な旅行のための道具や地図もあります。つまり空間を移動する時間を追体験できるような書物です。これは近代の分類法の中ではおそらく文学ではなく、ハウツー本的なものだと思いますが、江戸時代の人たちにとっては、これは文学作品、読み物なんです。こういった「物」の画像も国文学研究資料館から、いつでも瞬時に見ることができます。

また、例えば日本では料理本が17世紀から大量に作られていますが、そこから、200年間、日本の食卓に上がることがなかった料理を作ることもできます。「クックパッド」という料理レシピ集の電子版に江戸料理のコーナーを作って、18世紀の『豆腐百珍』とか『卵百珍』というようなものを、現在の献立にするということもやっています。

このように私は古典籍のほうから、現代のいろいろな人たちが日常的に抱えている問いかけや課題に直接入っていくアプローチもあってもよいと思っているのです。

小平

とても興味深いですね。

文学の地平の広がり

キャンベル

もう1つ、いわゆる文系と理系というのは、明治10年代以前には存在しない二分法なんですね。なので文理融合型の学びにつながる素材を持ち掛けて、研究者たちだけではなくて、市民が知見を共有できるようにすべきだと思っています。

例えば国文研が入っている施設の隣りにある国立極地研究所という南極越冬隊を派遣したりする非常に重要な理系の施設と、数年前から「オーロラ」の共同研究をしています。

藤原定家の『明月記』の中に、京都の自邸から北の山が赤く燃えるようなまがまがしい「赤気(せっき)」が見えるとある。これは何百年もの間ずっと、これは何だったのかと議論されていました。3年ほど前に、極地研と私たちの共同研究によって、実はこれはオーロラであったとわかったんですね。13世紀には低緯度のオーロラが京都辺りを南限として実は見ることができた。『日本書紀』の620年の記述の中にも、同じ「赤気」という記述があり、これも未解決でしたが、オーロラだったということが、様々な地質学的な、あるいは天文学的な知見と合わさることで分かったんですね。

料理を楽しんだり夜の星空を見て夢を抱くということは、古今東西、変わらない、1つの人間の持つ非常に普遍的な好奇心であり、面白さであると思います。そういったことを、今日、古典と呼んでいるものにどうやって結び付け、開いていくか。これが、これから求められることかなと思います。

『源氏』とか『枕草子』といったメジャーな文学のほかに、例えば中世でも、いわゆる地下人(じげにん)と呼ばれるような、お公家さんとは違う、お坊さんや武士、庶民が集まって、いろいろと連歌をやったり何かするという文学の流れが1つあったわけです。

私も1つお見せしましょう。これは、『いなのめ集』という俳書です。田川鳳朗(ほうろう)の弟子の良台(りょうだい)という俳人が作った、いわば自費出版の本で、大体天保前後のものだと思います。これは、最初は良台の関わった連句が出ているのですが、後半は聞いたこともない俳名の句がずっと並んでいます。これは上総、下総、安房、常陸あたりの良台の素人のお弟子たちの句なんです。つまり、今で言う俳句の結社の自費出版の本みたいなものです。

キャンベル

ライングループのようなものですよね。必ずしも一堂に集まっているわけではないかもしれない。

そうですね。おそらく、一句、俳句をここへ載せるのにはいくらという出句料というお金を取るんです。これを読むと良台の句はつまらないのだけど、素人の人たちが読んだ句の中には、本当に自分たちの生活に密着した季節観だとか、労働観だとかいうのが出ていて面白いんですね。

広い意味での文学の地平ということで言うと、何も紫式部や清少納言が偉いだけなのではなく、そういう突出した天才的な人が出てくるためには、その地層に、日本人がずっと昔から持っていた文学意識みたいなものを支えていた民謡だとか、伝承だとか、神話伝説だとか、様々な文学の萌芽みたいなものが、それこそキャンベルさんがおっしゃったように、そこからだんだん麹が発酵していい味のものが出てくるようになったのでしょう。時々、大吟醸もできると(笑)。

古典の見せ方

小平

お二方とも書物の実物へのこだわりは強いと思うのですが、デジタル化など、一見、相反するような技術を積極的に生かしていらっしゃることがよく分かりました。私も、近代で素人投稿者の書いた文章を発掘して研究していますので、続いていることを面白く伺いました。

先ほどの触媒の話がありましたが、駒井さんは様々な言語で書かれた文学について、翻訳者の解釈を生かして、驚くような翻訳も世に出されてきたと思います。例えば川村湊さん訳の関西弁の『歎異抄』です。また、よく知られている『虫めづる姫君』も、蜂飼耳さんがタイトルから「あたしは虫が好き」として、読者にこういう読み方があったのかと気付かせる。

また本の形については、古典新訳文庫は装幀も面白くて手元に置きたいと思いますが、一方で電子書籍で読むと、お二人がお話しになったように、幅が広がるということもあると思います。

駒井

古典新訳文庫は実は最初から電子書籍化を急いでやってきたんですね。というのは、電子本だとクリックすれば注に飛びますよね。そういうことも大きいんです。

それから図を多用することで、一般の読者にとってすごく読みやすくできる。例えば『梁塵秘抄』は11~12世紀に京都で流行した今様を集めた歌謡集ですが、ここで歌われるさまざまな職業人や、これらを歌う芸能者たちの姿・服装が、絵巻や職人歌合(うたあわせ)の図柄を引くことで、一瞬で説明できます。また『方丈記』が書かれた時代に多発した飢饉や大火、竜巻など自然災害の発生地点を示せることも、図を用いることで得られる効用でしょう。

そういった知見を本に入れていくことも、とても重要だと思っています。それから、古典は色がなかなか分からない。ですから『とはずがたり』には、本に出てくる日本の伝統色を電子書籍でもカラー刷りで入れています。これは今までほとんどなされたことがないと思います。つまり柑子(こうじ)色というのはどういう色だと実際にわかるのです。

また、これは外国文学ですが、例えば18世紀のヨーロッパの女性の服装などは、以前は日本の翻訳家がいくら図書館で調べてもなかなか分からなかったのものが、瞬時にインターネットでわかってしまう。これがどれだけ大きく文学の受容を変えたかというのは想像以上のものがあると思います。

さらには、例えばコンゴ河をさかのぼる、コンラッドの『闇の奥』という小説がありますが、今はさかのぼっていく画像が全部見られるそうです。そういう意味で、日本の古典の翻訳などにもそういう要素がこれからどんどん取り入れられていくと思います。

それから林さんがおっしゃったように、今、オーディオブックが本当に普及しています。本来は耳で聞いていたものを、われわれは黙読の習慣を付けてしまった。そういうことをきちんと本来の形で楽しめるようになっていく可能性は、AI時代を迎えれば、さらに大きく広がっていくのではないかと思っています。

古典を「なぞる」

先ほどキャンベルさんが、僕が東大で講義したとおっしゃいましたが、あの時に「和歌を黙読してはいけない」という話をしたと思うんですよね。

つまり1つの歌を、「心あてに折らばや折らん初霜の置きまどはせる白菊の花」と、10秒ぐらいで読んではいけない。「心あてに~」と30秒ぐらいかけて「歌って」いかなくてはいけないんです。そうやって長い時間、1つの思いなり情景なりを頭の中に思い浮かべ反芻しながらその次の節に行くからこそ、掛詞だとか枕詞だとか、あるいは序詞だとかいう修辞が非常に生き生きとしてくるわけですよね。そのように「歌う」ことによってわれわれは味わってきたものがあるんです。

ところがそれをパッと目で読んでしまうと、そういった味わいが全部スポッと抜けてしまうわけです。つまり、例えば風景なら風景、色彩なら色彩、「かなし」なら「かなし」、「楽し」なら「楽し」というセンチメントを味わいながら次の言葉を待っていたということが抜けてしまって結論が見えてしまう。こんな読み方だったら和歌の面白さが分かるわけはない。だから正岡子規が『歌よみに与ふる書』で、散々、『古今集』のことをこき下ろしていますが、あれは正岡子規が読み方を分からなかっただけなんです。

つまり、言われたように、僕らは読むというと黙読を考えるけど、例えば二葉亭四迷の小説でも、目で読むとあまり面白くないけど、自分で音読をしてみると、なるほどと思う。冒頭は硬いが、途中からだんだん調子が圓朝がかってくるところが分かるんですね。

夏目漱石なんかでも目で読んでいるととても分かりにくいところがありますが、あれもゆっくりと大きな声で朗読しながら読んでいくと、何の問題もなく頭にスッと入ってくる。そういうことがやはり読み方として提示されるべきだと思っていますね。

キャンベル

この話は、先ほどの「麹菌」と通底するところがあります。つまり、常に古典に目を向けて生きてはいない大方の人が、古典から面白さを引き出すための触媒の1つに音読もあるということでしょう。林さんの講義を僕は鮮明に覚えていますが、これは、つまり「遅読のすすめ」ということでしたね。林さんはパフォーマーでもいらっしゃるので、古典を体感して自分の体で「なぞって」いかれた。

この「なぞる」ということは、もう1つのキーワードになるかもしれません。声でなぞる、つまり音読をすることです。1885年に上野図書館ができて、「音を出すな」と貼り紙が出され、音読ができなくなっていく。これは、ちょうど日本の近代化と時代的に並行していく現象です。声に出してそれを読み上げていくということが失われていきました。

国文学研究資料館で、3年ぐらい前から「ないじぇる芸術共創ラボ」という芸術を共に創る面白い実験室を作ったんです。5人のアーティストを招聘したのですが、その中で、山村浩二さんという日本を代表する短編アニメーション作家が、鍬形蕙斎(くわがたけいさい)という浮世絵師を発見しました。鍬形蕙斎は、葛飾北斎と同時代に双璧と言われていましたが、現代ではほとんど顧みられることがない浮世絵師です。

山村さんは資料館に来て、『鳥獣略画式』や『人物略画式』という江戸時代の中で非常によく読まれていた絵本に取りつかれ、まさに林さんと同じように、1つ1つ、この蕙斎という人の描線を「なぞった」わけです。そうしてアニメーション作品の「ゆめみのえ」という短編アニメーション作品を作り上げました。

この「ゆめみのえ」というものは、中身は全く新しい創作なんですね。しかし、表現そのものは、この鍬形蕙斎という人の描線や一筆書きで世界を捉えるという手法を非常に尊重して作っている。

これを二次創作であるとも、あるいは眠れる文化資源というものをベースとして、その土壌の中から現れた新たな価値を創出していると捉えることができると思います。もう1つの古典の姿と言ってよいと思います。

二葉亭四迷あたりまでは、江戸文化が骨肉の中にあったと思うのですが、それが途絶えた今、どのようにして古典につなげていくか。その手法として、私はAIを含めた電子情報、あるいは機械可読とか、様々な方法でデータを駆動させて、いろいろな分野の人とそれを共有することもできるのではないか、と思うのですね。

AIによる文字判読の可能性

今、鍬形蕙斎のことをおっしゃいましたが、江戸時代の本にはいわゆる草仮名の手本というものがたくさんありますね。もともと日本人は文字を絵のように享受する。これは西洋のカリグラフィーとはちょっと違ったもので、字自体が1つの美術なのです。

それが明治時代に活字化したことによって、文字としての、いわゆる「水茎の跡も麗しく」というものがスポッと抜けてしまった。例えば江戸時代の仮名の手本書みたいなもの、いわゆる往来物みたいなものというのは、1ページの中にせいぜい20文字ぐらいしか入っていない。そんなものは、今の日本では考えられないわけです。

勉強の1つの階梯として、ああいう草仮名が読めなければいけませんが、日本語を外国語としてよく勉強してできる人でも、読めない人が多い。それはどうしてかというと、やはり文字を判読する、解読するというのは、文字の形からだけでは把握できないものがあるからです。母語としてこれを読む時は、むしろ意味を読んでいる。音声でも意味を聞いている。だからああいう崩し字を読む背後には、日本の古典文学というものの素養がないと、こういう文脈はあり得ないはずだ、という照合ができないものなのです。

例えばジグソーパズルのように上の7文字と下の4文字は読めたけど、間の2文字が読めないような時に、7文字と4文字をAIに解析させて、こういう流れであるという条件で検索させると、読めてくるようなことも、今後はできてくるかもしれませんね。

小平

デジタル化の技術によって、それまでは専門家しか見られなかった貴重書などに1人1人が直接触れられる機会が、非常に増えたと思います。デジタル化はかえって絵や筆者の書き癖などの身体性を個々人に感じさせるようにしたのではないかと私も思っています。

これから技術革新の中で、われわれが古典を自分の身体に身近に組み込んで楽しんでいけるような時代が来るのではないかと期待をしたりもします。さらにAIというものが絡んできたときには、それは古典と対立するというより、その内容をより面白くしてくれるツールとしてあるようですね。

前近代を今につなげる

キャンベル

小平さんにお聞きしたいと思います。林さんが受験勉強がよくないとおっしゃいましたが、もう1つ、日本の学会もいけないと思うんですね。私は近世文学会を主戦場にして活動していますが、近代文学会にも入っています。しかし、そういう両刀使いはほとんどいない。私たちは上古、中古、中世、近世、近代と分かれていて、100年経っても近世と近代は交わらないような状況です。僕はこれはかなり罪作りという感じがします。

質量あるものとしてのテキストというのは、大雑把に言えば、近代の過程の中でそれが失われている。概念化していくと言いましょうか。音読から黙読もそうですが、身体性を希薄化させていくということがずっとあると思うんです。その見直しは現在行われていますが、何か前近代と近代が橋渡しできる可能性はありますでしょうか。

小平

非常に大きな問題だと思います。現実問題としては、少子化による学生数、そして教員数の減少の中で、多様性を確保するためには、私はこれしか教えないということは、できない状況になりつつあるともいえます。しかし、知識が入り混じるとすれば、これはネガティブな意味ばかりとは限りません。

黙読の話ですが、明治期の活字で、漢字に少しずれた意味のふり仮名が振られ、ダブルミーニングのように見えるものがあります。耳で聞くことが大事だという話がありましたが、目で見て2つの意味が入ってくることで、読者が面白く思えることもあると思います。ですから、近代になってから、何かが失われる一方ではなく、新規に得たものもあると思うのです。ただそれは、前からあったものの変形であったりもします。

だから、別の時代の学会同士が互いに交流する場、それからもちろん教育の場との対話は、これからはさらに必要になるとは思っています。

そもそもの素養が多少はないと、大人になってから古典を読み返す楽しみは生まれません。そのためには、学校教育の場で、面白く読む技術をどのように伝えるかは非常に重要になってくるかと思います。

広がる古典の可能性

キャンベル

有り難うございました。駒井さんにも聞きたいのですが、これから電子出版を含めて、例えば5年先、10年先に、新たな形で古典を使い、どのように魅力的な成果物、あるいは商品を作ることができるのでしょうか。

駒井

明治期以来、古典というと、西洋の近代文学では、特に18世紀から19世紀が古典だと言われていたのですが、僕らは20世紀も古典と捉えてやっているんですね。

古典というものが普遍的な価値を持ち、そして読書として楽しいものだということを知ってもらうために、もちろんスタンダールやフローベール、ディケンズやヘッセも必要ですが、それ以外にも、アジア文学やアフリカ文学など、今までなかなか翻訳されてこなかったものも取り入れたい。5年、10年かけて、それを読んでくれる読者を育てていきたいと思います。

もう1つ、日本と中国の古典をより充実させていきたいと思っています。僕のように、西洋文学ばかり読んできた人間にとっては、日本の古典は実はものすごく新鮮なんですね。『謹訳 源氏物語』を読ませていただいて、本当に面白いなと思いました。

さらに古典新訳文庫では、中江兆民の『三酔人経綸問答』など、明治期の作品でも、今の若い人たちは読めないような漢文脈のものは、現代語訳で出してきました。英語で書かれた内村鑑三の『余はいかにしてキリスト信徒になりしか』は、『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』というタイトルにして出しています。近代の日本の文学はいままであまり翻訳(現代語訳)の対象になってきませんでしたが、古典として網羅的に古典新訳文庫で出せたらいいなと思っています。

読書界が豊かになっていくために、皆さんのお力をお借りして、これからもいろいろと試みていきたいと思っています。

明治維新というのはあまりにも大きな変革だったものですから、そこで文化的なことも断絶していると思い込んでいる人がすごく多い。

しかし、例えば印刷技術に関しても、明治の20年代までは木版印刷が非常に有力なメディアで、明治20年前後から、俄然、活版印刷が優勢になってきます。それと同時に、二葉亭四迷とか坪内逍遥が登場し、それから漱石、鷗外となるんです。しかし実は、それ以前に、今はほとんど忘れられてしまった、例えば痩々亭骨皮道人(そうそうていこっぴどうじん)とか、脹満居士(ちょうまんこじ)とか、いわゆる演説本をたくさん書いた人がいて、これが面白いんですよ。当時、すごく流行ったんですね。

明治文学でも、漱石、鷗外の青年時代の明治の人たちがどういうものを読んでいたかにも、光を当てて、ぜひ古典の範疇の中に組み入れてもらいたい。

伊藤若冲だってずっと忘れられていたわけですから、これからまだ僕らが発掘していかなければいけない原石はたくさんあるんです。古事記、万葉の時代からずっと絶え間なく書物の世界が日本の中にずっと現代まで続いている。そういう姿をぜひ今の人たちに分かるように、古典新訳文庫のほうでお扱いただきたいと思います。

駒井

有り難うございます。ぜひお力添えをいただきたいと思います。

小平

研究者はスタンダードからはみ出た、自分にとって面白いものを追求することが得意ですが、スタンダードな作品の面白さと、はみ出る作品の面白さを両方伝えていくことは、何を面白いと思うかという、見方自体を伝えるためにはとても大事です。

テクノロジーとの関係で言いますと、メディアの発達によって、受け手が多いものと少ないものを使い分けられるようになり、マイナーだけれど面白いものを発信できるようになったことも、重要かと思います。読者を双方向的につなげていける、そういう方策を開いてくれることも期待しています。

今日は長時間にわたってそれぞれの方のお話に大変引き込まれてしまいました。本当に有り難うございました。

(2020年4月1日、一部オンラインによる中継も含めて収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。