登場者プロフィール
井上 寿一(いのうえ としかず)
学習院大学学長、同大学法学部教授1956年生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。法学博士。1993年学習院大学法学部教授。同法学部長等を歴任し、2014年より学習院大学学長。専門は日本政治外交史。著書に『危機のなかの協調外交』『吉田茂と昭和史』等。
井上 寿一(いのうえ としかず)
学習院大学学長、同大学法学部教授1956年生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。法学博士。1993年学習院大学法学部教授。同法学部長等を歴任し、2014年より学習院大学学長。専門は日本政治外交史。著書に『危機のなかの協調外交』『吉田茂と昭和史』等。
君塚 直隆(きみづか なおたか)
関東学院大学国際文化学部教授1967年生まれ。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。専門はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授等を経て、2015年より現職。著書に『ジョージ5世』『立憲君主制の現在』等。
君塚 直隆(きみづか なおたか)
関東学院大学国際文化学部教授1967年生まれ。上智大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程修了。博士(史学)。専門はイギリス政治外交史、ヨーロッパ国際政治史。東京大学客員助教授、神奈川県立外語短期大学教授等を経て、2015年より現職。著書に『ジョージ5世』『立憲君主制の現在』等。
河西 秀哉(かわにし ひでや)
名古屋大学大学院人文学研究科准教授1977年生まれ。名古屋大学文学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(歴史学)。神戸女学院大学文学部准教授等を経て、2018年より現職。専門は日本史、象徴天皇制。著書に『「象徴天皇」の戦後史』、『近代天皇制から象徴天皇制へ』等。
河西 秀哉(かわにし ひでや)
名古屋大学大学院人文学研究科准教授1977年生まれ。名古屋大学文学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(歴史学)。神戸女学院大学文学部准教授等を経て、2018年より現職。専門は日本史、象徴天皇制。著書に『「象徴天皇」の戦後史』、『近代天皇制から象徴天皇制へ』等。
都倉 武之(司会)(とくら たけゆき)
研究所・センター 福澤研究センター准教授塾員(2002政、04法修)。1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。専門は近代日本政治史。武蔵野学院大学専任講師を経て2011年より現職。『福沢諭吉の思想と近代化構想』(共著)、『小泉信三エッセイ選』(編集)等。
都倉 武之(司会)(とくら たけゆき)
研究所・センター 福澤研究センター准教授塾員(2002政、04法修)。1979年生まれ。2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。専門は近代日本政治史。武蔵野学院大学専任講師を経て2011年より現職。『福沢諭吉の思想と近代化構想』(共著)、『小泉信三エッセイ選』(編集)等。
2019/05/07
画像:『帝室論』表紙(慶應義塾福澤研究センター蔵)
『帝室論』の射程
この5月1日に今上天皇(明仁天皇、現上皇。以下座談会開催日の3月15日の呼称とする)が退位、皇太子(徳仁皇太子)が即位し、元号も変わります。このような状況の中、近代日本における皇室のあり方、とりわけ象徴天皇制を考える上で少なからぬ影響があったとされる、福澤諭吉の『帝室論』をめぐって、皆様と議論ができればと思います。
戦後、慶應義塾の元塾長であった小泉信三が東宮御教育参与という形で明仁皇太子の教育掛を務める中で、『帝室論』を用いたことはよく知られています。2008年に三田キャンパスで行われた「生誕120年記念 小泉信三展」という展覧会では行幸啓があり、私もご案内に加わらせていただきました。そのときのご様子で小泉の存在が天皇皇后両陛下にもたらしているインパクト、その大きさを感じました。
『帝室論』は明治15(1882)年に、福澤が創刊して間もない『時事新報』に連載し、その後、単行本として刊行されました。この時期にこの本が書かれた時代背景について、まず君塚さん、いかがでしょうか。
『帝室論』の前年の明治14(1881)年に政変がありました。その頃の日本はプロイセン型の憲法体制でいくのか、あるいはイギリス型でいくのかということで議論がありましたが、大隈重信など「イギリス型でいこう」と言っていた人たちが政権から追い出されて、伊藤博文などを中心にプロイセン型でいくことになりました。
伊藤はちょうど明治15年からプロイセン、オーストリアに出かけ、シュタインの下に留学して後の大日本帝国憲法の基を築いていきます。
帝室、皇室はどうあるべきかということは、この書が刊行された明治15年という時点も重要だと思いますが、今回あらためて読んでみますと、視野が広くて長い。戦後、小泉信三が当時の明仁皇太子の教育に際してテキストとして使った意図も見えてくるように思います。
もちろん、福澤が書いた時点でその後の時代がどうなるかは分からなかったと思いますが、今日的な立憲君主制というものも、かなり視野に入れているのではないかと感じます。福澤自身が幕末にアメリカやヨーロッパへ行き、そこで吸収してきたものが、かなり散りばめられているような印象を持っています。
実際に明治憲法で規定された天皇のあり方は、福澤の描いたものとは違う形になりますが、井上さんは福澤の『帝室論』と日本の国内政治状況との関係をどのように捉えていらっしゃいますか。
『帝室論』の出る前年の明治14年10月12日に国会開設の詔書が発せられます。明治23(1890)年には国会が開設されることになりました。福澤は『帝室論』の中で、国会が開設されると政党軋轢の不幸が訪れる、党派政治となるだろうと予測しています。
実際に『帝室論』が出た明治15年には立憲改進党や立憲帝政党ができ、他方でこの年の4月、自由党の板垣退助が遊説中に襲われるという出来事が起きます。国会が開設される前から政党軋轢の不幸の兆しは現れています。
国会開設の機運の高まりの中で、政党政治が中心になるのは避け難いけれど、政党を超えて日本という国を統合する主体は何なのかという問題に対して、この『帝室論』の中で帝室の重要性が繰り返し指摘されていると思います。
冒頭のところから「帝室は政治社外のものなり」、そして「帝室は万機を統(すぶ)るものなり、万機に当(あた)るものに非ず」と言い切っているところに、はっきり出ていると思います。この本の中で、福澤は、一国の政治ははなはだ殺風景であると言っていますが、政党政治に伴う混乱の調整をどのようにしていくかを考えたとき、その上にある帝室の存在の重要性を指摘しています。政党政治が持っている避け難い問題の解決を考えるということであれば、それは今日の問題でもあると思いました。
福澤は「万年の春」、あるいは「(皇室は)一国の緩和力」という表現を使って、天皇が学問技芸といった文化の擁護者となるべきことを強調したわけですが、この福澤の議論は、果たして当時の明治の日本に実際に根づく可能性はあったのでしょうか。
皆さんがおっしゃったように、『帝室論』の主旨は、当時、政党政治ができ始め、国会開設ということが現実のものになり始める中で、自分の政党に皇室を取り込むことによって勢力を拡大しようとする動きがあることに対して、それは皇室の尊厳を傷つけるのだ、と主張したのだと思います。
そして、いかに政治と切り離して、政治に取り込まれないような皇室にするか。そのときに生み出されたものの1つが文化的な側面だと思います。
明治10年代というのは、皇室と政治との関わりが薄かった前近代の記憶のある人たちがまだ普通にいたので、この主張は比較的受け入れやすかったのではないでしょうか。福澤の言っていることはそんなに突飛なことではなく、京都時代の皇室のことを知っているような人からすれば、文化的な側面というのは、それなりに納得できたのではないかと思います。
他方で、明治時代は幕末に結ばされた不平等条約を改正しなければいけないという国家的な独立の危機が共有されていました。その限りでは、政党がそれぞれ政策を異にしていても、国家的な独立を確保するために、天皇を中心として、協力しなければならないという意識は共有されていたと思います。
国家の上に立つのが帝室であり、端的に言うと明治天皇という、1人の象徴的な人物の下でまとまることによって、欧米に対して自立を主張していこうということです。その後の大正・戦前昭和には、このような意見の一致は難しくなってきました。しかし、この時代はこういう考えが無理だったということはないと思います。
福澤の『時事新報』における言説は、今でもどう解釈するかということで議論が多いのですが、この『帝室論』も、長く将来にわたって読ませるつもりで書いたものなのか、そのときの時事的な局面を捉えて言っているものなのか。
時事論として見たときには、自由党や改進党の登場に対抗して御用政党の立憲帝政党(明治15年結党、翌年解散)という党が出てきて、天皇主権をうたい、帝室の尊厳を一番大事にしているのはわれわれの政党で、他の政党はいわば不忠だと主張し始めた。これに対して、天皇の権威を党派が借りることを、直接的には批判しているわけです。
しかし、それに加えてこの機会に比較的に長い視野で通用する皇室論を説こうともしている。福澤という人は、否定することができないものとして、天皇の権威が利用されることへの恐ろしさに、トラウマというか、生理的嫌悪のようなものを持っていた印象を私は持っています。これは幕末の尊皇攘夷のすさまじい嵐と、暗殺の危険にさらされた実体験に裏打ちされたものではないかと思います。
福澤にはもう1つ、『尊王論』(明治21年)という著作があり、これはどちらかといえば、福澤の保守化を指摘する批判材料になっているのですが、この本で福澤は、天皇の神聖性は何に由来するかと問うていて、それは「古さ」の1点だというんですね。一番古い家だから大事だ、と。世の中の至宝と呼ばれるものは、だいたい何の役にも立たないがただ古いことをもって大事にされる、皇室もそれだと。これは時事論としては発布が迫った明治憲法への牽制だと思われます。
『帝室論』と『尊王論』をセットで考えたときに、一貫しているのは、天皇の権威を神話などに由来する神権的、宗教的なところから説き起こすのではなく、いわば唯物的に把握しようとする点です。天皇の神性が絶対的な権威となり、政治を左右する可能性への危険性の直感のようなものを福澤は持っていたのではないかと思うのです。
バジョットからの影響
この本はそれ以外にも、政治思想史的に君主というものをどのように位置づけるかということが、特にバジョット(ウォルター・バジョット。イギリスのジャーナリスト、思想家)との関係で取り上げられますね。
『帝室論』には最初のところに「西洋の一学士、帝王の尊厳威力を論じて之を一国の緩和力と評したるものあり。意味深遠なるが如し」という言葉が出てきます。この西洋の一学士というのが、たぶんバジョットのことを言っているのだろうと思います。君主というのは、その国のdignify、尊厳的な部分であると。それに対して政府や議会が機能的な部分であるという区分です。尊厳的な部分が、一国の緩和力であり、政治の中では重要な部分である。
このdignifyの部分については、現代では王室などが行うソフトの政治外交になります。それに対して政府が行うのはハードの外交で、実際に国境を確定したり、TPPとかEU離脱などを行うのはもちろんハードの部分です。
ただ、ハードとハードはぶつかりやすい。そんなときにソフトなものが入ると緊張を緩和してくれる。そのようなものは、この時代から現代に至るまでいろいろな形で、いろいろなところで見られると思います。そのようにバジョットが言っているところを、福澤も取り入れたのだと思います。
後半のほうに「バシーオ氏の英国政体論に云(いわ)く」とありますが、このバシーオ氏というのもバジョットのことで、福澤はバジョットの原典『イギリス憲政論』からいろいろな影響を受けているように思います。たぶんヨーロッパに行ったときに買ったのではないか。
まだ、日本では国会は開設されていない時期ですが、皇室はいずれの政党にも属さない、公正中立で超越的な存在ということもバジョットが指摘していることですから、このあたりは参考にしたのだと思います。
その後、日本においてバジョットの影響は持続したのですか。
結局、日本はプロイセン型の憲法を取り入れますが、伊藤博文は、今の日本ではイギリス型の議会政治、政党政治、立憲体制にすることはできないけれど、将来的にはイギリス的な形を理想にしていたとも言われます。
そのように、伊藤博文のような実際に憲法体制を築き上げていく人たちにも、バジョットの影響というのは確かにあったようですが、そのまますぐ採用するわけではなかった。ただし二院制、貴族院と衆議院のつくり方などでは伊藤もかなり参考にしています。
ただ、思想界のほうでは、中江兆民などはフランスの思想の影響がむしろ大きかったのではないでしょうか。
明治憲法下での立憲君主
伊藤の『憲法義解』でも君主のあり方は、かなり立憲君主的な実態を築こうとしていますね。福澤のプランが文字通り憲法の中に盛り込まれたわけではないけれど、明治憲法下でも君主と政治の関係については抑制的であろうとしていて、そのような形が定着する可能性があった。
しかし、それは結局、破綻した。統帥権干犯やら天皇機関説事件というのは、まさに福澤が立憲帝政党に見ていた危険性が的中しているように思えますが、この流れについて、井上さんはどのように考えられていますか。
私はできるだけ戦前昭和の可能性を拾い上げるようなことをしているものですから、そこまで悲観的には見ていないのです。
戦前の大日本帝国憲法下でも『帝室論』が示す大枠に沿った立憲君主国を目指し、当時の欧米の国際情勢との相互作用の中で、「政党を超越した人心収攬の中心としての帝室」というものをつくっていこうとしていたのではないでしょうか。やや誇張して言えば、それは今日までずっと続いていると思います。
先ほど福澤が長期的な視点から書いているのか、時事論的なものとして書いているのかというお話がありましたが、古典とはそういう観点を超越して、今でも何かしら読むに値するから古典なのでしょう。『帝室論』は現在の日本の御代替わりのことを考えるときも、重要な歴史上の手かがりになっていると思います。
日清・日露戦争を経て国家的な独立が達成されると、明治という時代の歴史的な役割も終わって、大正時代になります。大正時代は当時の国際情勢との相互作用の中で明治時代のような時代を続けたくても続けられなくなる。大正時代は、より積極的な新しい立憲君主国をつくっていこうという動きが生まれます。そこでは『帝室論』の理念が活かされたのではないかと考えます。
政党政治が本格的に動き始めたのは戦前昭和の二大政党制の時代です。二大政党制が崩壊したのは、軍部の責任もあるけれど、政党の側にも非常に重い責任があると考えています。『帝室論』が示しているような立憲君主国の戦前昭和版ができなかったことが破局につながったと考えます。また、天皇自身が政治的なアクターとして関わらざるをえなくなったことで、回り回って破局につながったという点では、まさに『帝室論』が先駆的に指摘している通りだと思います。
福澤の議論は『帝室論』が刊行された明治15年前後の時代状況から離れても示唆に富むと思います。
象徴天皇制の原型
第1次世界大戦後、ドイツ、オーストリアなどで君主制が崩壊し、君主制の世界的な危機が訪れ、それが日本にも波及し、日本の天皇制も再編しなければいけないという動きが出てきます。
吉野作造もそうですが、私が注目した1人に東京市長だった永田秀次郎がいます。彼が『平易なる皇室論』というベストセラーになる本を書くのです。皇室の改革を主張し解説する内容ですが、その中に「かの福澤も『帝室論』でこう言っている」というような箇所がある。このように大正時代の皇室の改革という動きの際も、『帝室論』が理論的な根拠にされています。
そういう本が、人口に膾炙し、大正期の人にも「福澤も書いていた」として、まさに権威として使われる。そのように『帝室論』には一定の可能性と影響力があったということなのではないかと思います。
この大正時代の天皇制の再編というのは、政党政治が上手くいけば基本的に天皇自体はそれほど政治には関わらず、社会的な慈善活動などをして、ヨーロッパの倒れた君主国とは違う形で継続していくという考え方です。これはある時期まで、現実にも上手くいっていたのではないかと思います。
明治憲法下での文化の擁護者としての天皇という側面についてはどのように見ていらっしゃいますか。
今の象徴天皇制の原型に近いものと私は見ています。象徴天皇制というのは必ずしも戦後になって突然出てきたわけではなく、今言ったように第1次世界大戦後の再編の中で出てきたものがその後、戦後に花開いていると思うのです。そこで『帝室論』が参照されているということは、本書には象徴天皇制の原型としての意味合いもあるのかなという気がしています。
和辻哲郎や津田左右吉なども戦前に文化的な中心としての天皇ということを言い、その際に福澤に言及しているというようなこともありますね。
福澤研究の世界でも、『帝室論』は戦前から比較的認知されており、昭和7(1932)年に出た『福澤諭吉伝』(石河幹明著)でも一節を割いて解説しています。表現は少しぼんやりさせていますが、政治的な問題から超越した存在としての天皇というものを福澤が提唱した、と位置づけられています。
ただ、その後、昭和10年代に入りますと、慶應の学生向け副読本『福澤文選』に『帝室論』が入っていたのが、検閲で時局にそぐわないとして削除を要求されています。
一方、福澤自身が『帝室論』についてどう考えていたのかというのは記録があまり残っていないのですが、興味深いのは、福澤が『帝室論』を書いたときに漢詩をつくっていることです。その1つは、楠公のことを皆、勤皇と言うけれど、私は今回12編からなる『帝室論』を書いた、楠公と私のどちらが勤皇か、という内容で、最後に「嗚呼、忠臣福澤の筆」とあります(笑)。この漢詩は、関係者が秘蔵して戦後まで公開されませんでした。
時事問題が契機ではあるけれども、福澤は、明治日本の独立と、帝室の健全な共存の実現に、ある種の信念を持っていたと感じさせられます。
昭和天皇とジョージ5世
敗戦を経て憲法が変わり、戦後、福澤の『帝室論』が再び注目されるようになります。河西さんの理解では、どのように戦後の政治史に再登場してくると見ていらっしゃいますか。
戦後の象徴天皇制をつくる時期というのは、大正期の経験を有していた人たちが政治を担っていたわけです。彼らは、戦時期は軍部などによって、政治の中心から追いやられていた人々です。戦時中の「国体」に対する批判的な眼がある。天皇の権限を抑える大正期の仕組みがよいと考えます。また、昭和天皇は戦犯として追及される可能性もあった。天皇の政治性をできるだけ消し去る必要があった。
そこでラディカルに、つまり、『帝室論』の後半に書かれている文化的な部分を国内外に強調することで、「天皇は政治や軍事に関わっていない」と言いたかったのではないでしょうか。
一方で政治家たちは、必ずしも天皇がまったく政治に関与してはいけない、とも思っていなかったわけです。これはバジョットの考え方です。そしてそれは、『帝室論』の前半部分が保守政治家に影響を与えているのではないかと思います。
そうですね。バジョットの影響というのは、『帝室論』もそうですし、戦後の昭和天皇、今上陛下の時代まで通奏低音として流れているような気がします。昭和天皇は皇太子時代、第1次大戦が終わった直後、ヨーロッパがまだ傷ついている最中の大正10(1921)年5月からヨーロッパを歴訪します。一番初めにイギリスを訪れてジョージ5世から親しく接せられる。そのときにジョージ5世が裕仁皇太子に紹介したのがJ・R・タナーというケンブリッジ大学の国政史の先生でした。
ジョージはエドワード7世の次男坊でしたが、ヴィクトリア女王時代の1892(明治25)年、1つ年上のエディー(アルバート・ヴィクター)という兄が亡くなってしまったので、急に次の次の王位が降りかかってくることになる。そこでタナー先生と一緒にこのバジョットを、どういうものなのだろうと2人で読むのです。
昭和天皇と会うのは1921年ですから、4半世紀後ぐらいですが、タナーはまだケンブリッジで健在でした。裕仁皇太子がケンブリッジ大学で名誉法学博士をもらったので、タナーに記念講演をお願いしたのですが、当日は時間がなく講演ができないということでその概要だけ進呈された。今、宮内公文書館にその概要の日本語訳が残っています。
その中盤あたりに裕仁皇太子が赤く塗ったのではないかと思われる箇所がある。そこには、イギリスの立憲君主制の現状について、バジョットの言っていることが書いてあるのですね。
このイギリス来訪では、ジョージ5世に親しく接してもらい、タナーさんからご進講も得て、ジョージ5世は昭和天皇にとって思い入れのある重要な人物となったのですね。
ジョージ5世は、まだ10代のとき、明治14(1881)年に日本を訪れているのですね。たまたま明治14年政変の直後で、『帝室論』が書かれる半年ほど前にあたり、明治天皇とも会見しています。
河西さんはジョージ5世の存在が、昭和天皇を介して今の象徴天皇のあり方に与えた影響については、どのようにお考えですか。
ジョージ5世は、おっしゃるように昭和天皇にも非常に影響を与えていますね。皇太子として訪れたイギリスから帰ってきた後、イギリス流の立憲君主制について意識していきますし、天皇が戦後、象徴になったときでさえ、そうした感覚が残っていたと思います。
昭和天皇は政治家に対して助言したり励ましたり、ということをしてこそ君主としてあるべき姿だと考えていたようで、バジョットやジョージ5世の影響をすごく受けて、自らの行動をしていたように思います。
危機の時代の立憲君主
立憲君主としての天皇ということから言えば、戦前の昭和天皇は自分でそれを強く意識していたと『昭和天皇独白録』で発言しているのが有名ですね。特に即位直後、昭和4(1929)年に張作霖爆殺事件のことで田中義一首相を辞めさせてしまい、思うところがあったとされますが、ジョージ5世との交流や英国の皇室のあり方を踏まえていた部分は大きいのでしょうか。
私が昭和戦前史の観点から関心があるのは、ジョージ5世のように公正中立でなければいけないと考えていた君主でも、1930年代の危機の中で、政党政治に関わっていったところがあることです。おそらく同時代の昭和天皇も何らかの形でそういうジョージ5世の姿を見て、考えたのだと思います。
『昭和天皇実録』を読むと、張作霖爆殺事件のことで田中を叱責した後、部屋に戻ると、ゴルフの予定をキャンセルして、執務机で疲れてずっと居眠りをしたとあります。その当時も、「立憲君主の振る舞いとしてあれでよかったのか」と、悩んでいたのだと思います。
その後の2・26事件のときも、あるいは日米開戦や、終戦時のいわゆる聖断も含めて、ロボットのようにしていればいいとは決して考えていませんでした。立憲君主国として存続していくために君主はどう振る舞わなければいけないのか、ということを同時代のイギリスのジョージ5世の姿を見て学んでいたのではないのでしょうか。どちらかの方向に国を向けるときに、君主も間接的な方法を使ってでも関与しなければいけないのでは、という苦悩が戦前の昭和天皇にはずっとあったのではないでしょうか。
イギリスは「君臨すれども統治せず」というけれど、実際の政治過程に対して関わっていたし、危機の時代の立憲君主のあり方というのは、そういうものだと思います。
おっしゃる通りで、田中が辞任したのは1929年ですが、その年、世界恐慌が始まって、その余波がヨーロッパにも30年、31年に来ます。マクドナルド労働党政権は、結局、1931年8月に内閣総辞職となる。
マクドナルドはジョージ5世が一番信頼している人物でした。このときはジョージ5世がイニシアティブをとって、マクドナルドを首班に世界恐慌へ対応する挙国一致内閣を作るのです。保守党のボールドウィンや自由党のサミュエルを呼びつけ、渋るボールドウィンを前に、御前会議で、これでいこうと、マクドナルド首班の挙国一致政権ができるのです。
でも、そのとき、マクドナルドは、労働党をクビになっていた。そんな人物を首班につけていいのかという議論が出ると、すぐ総選挙をやって民意を問えと、ジョージ5世は言う。2カ月後に総選挙をやると、総議席の90%をこの挙国一致政権側が握った。
このように、いざというときは一番長く経験を積んでいる国王が出てくる。ジョージ5世も、いざというときは、君主が出なければいけないということは意識していたのだと思います。
実際の政治にも事実上、深くコミットするのが立憲君主の姿であるというのが英国モデルなわけですね。
一方、福澤の『帝室論』は、バジョットを引きつつも、「政治社外」でなければならないと直接の政治関与を繰り返し否定している。だからこそ、戦後にこれが再び脚光を浴びるものになりえたのかとも思います。
『ジョージ5世伝』と小泉信三
イギリス王室はジョージ5世が1936(昭和11)年に亡くなった後、外交官のハロルド・ニコルソンに伝記執筆を頼みます。そして、1952(昭和27)年に『ジョージ5世伝』が完成する。そしてその年、ジョージ5世の孫のエリザベス女王が即位します。
翌、53年6月2日にエリザベス2世の戴冠式があり、そこに当時の明仁皇太子が日本を代表して昭和天皇の名代として行くわけです。そこで当時の駐英大使から、できたばかりの、『ジョージ5世伝』を東宮御教育参与として随行していた小泉信三が受け取り、明仁皇太子と「一緒に読もう」ということになります。
そして、1959年4月のご成婚の1週間前に読み終えるんですが、このことについて、1998(平成10)年5月、天皇になってから初めて陛下がイギリスを公式に訪問した際の記者会見で、「ジョージ5世の伝記は小泉博士と一緒に読みました。バジョットの憲法論、国王は相談され、励まし、警告するということをジョージ5世は学ばれました。ジョージ5世の地道に誠意を持って国のため国民のために歩まれた姿は感銘深いものがあります」とおっしゃっています。
なぜ小泉信三は、『ジョージ5世伝』を選んだのかというと、やはりジョージ5世が義務というものに忠実な君主であったからでしょう。立憲君主制についてはバジョットを読み、1910年に即位してからは経験をいろいろ積み重ね、君主としての人生も公正中立だった。どの政党にも偏らず、そして国民と共に第1次世界大戦を乗り切ったわけです。そのような姿勢を小泉さんと一緒に伝記を読んでいく中で感じ取ったのではないかと思います。
もちろん日本国憲法下での天皇とこの時代のイギリスの国王とは違う部分は多いですが、立憲君主とは何か、特に現代における君主とは何かということを明仁皇太子と小泉信三、2人で考えていたような気がします。
今上天皇には皇太子時代の記者会見で、「自分はロボットになることも必要だが、それだけであってはいけない」という趣旨の発言もあります。天皇たる者はどこかで人々を励ましたり、どこかで政治に助言する存在だ、ということは意識しているように見受けられ、それはおそらく小泉信三と一緒に『ジョージ5世伝』を読んだことが要因の1つだと思います。これからより明らかにすべき問題ですが、その影響は大きいのではないでしょうか。
今日は小泉信三が持っていた『ジョージ5世伝』の実物を持ってきました。昭和28年の渡英の際に、駐英大使から渡された2冊を、皇太子と小泉でそれぞれ1冊ずつ持って授業をしたと言われています。先ほどお話に出た読了の日付がこの本の最後に「April 3 1959 (for the second time)」と書いてあります。「小泉信三展」で陛下がいらしたときにこのことが話題に出まして、「最初から最後まで通読したわけではない」と強調されていました。
ほかにも、この中に出てくる国王の書簡を小泉信三がレポートのような形で翻訳させたものが残っています。この本を通して丁寧に「君主」のあり方を考えようとしたことが分かります。
小泉信三と戦後の皇室
小泉信三が皇室に関わるようになるのは昭和21(1946)年です。最初、東宮御学問参与という形で、東宮御教育常時参与になるのが昭和24年2月ですが、小泉信三がこのような形で皇室に関わるようになった経緯も、必ずしも資料で裏付けがとれているわけではない。この点については河西さん、どうでしょうか。
これは難しいですね(笑)。私は去年、NHKが放映した、今上天皇の近くにいらした榮木忠常(さかきただつね)さんという元東宮侍従の日誌を読みましたが、その中で、戦中に東宮御学問所に関する構想があり、誰を教育係にするかということで何人か名前が挙がる中の1人として、小泉信三という名前があったのです。
あれを見たとき、なるほど、戦争中から皇太子に対する教育は国体を叫ぶようなファナティックな人ではなく、リベラルな人物にやらせようという考えを東宮近くの人たちは持っていたのかと思いました。小泉は人物的に優れていると考えられていたからでしょう。
戦後になり、実際にどうして小泉が教育掛になったのかということはよく分かりません。小泉が当時持っていた影響力から、国民からしても彼に教育してもらうならば安心だ、という感覚はあったと思いますが。
先ほどおっしゃった榮木さんの日誌では、たしか平泉澄(きよし)は駄目だと。
そう書いてありますね。安倍能成(よししげ)や小泉信三などが候補として書いてありました。
小泉信三は、戦争中の慶應の塾長で、学徒出陣で学生を送り出す立場だったわけですが、一方で、戦後を見据えた人選に名前が挙がり、その待望論が戦後まで持続する。やはり「小泉信三展」のときに発掘された資料で、昭和20年8月の緒方竹虎から小泉宛ての手紙があり、これによると東久邇宮内閣の顧問を打診されている。小泉の空襲での負傷がかなり重篤であったことが知られていなかったようです。
戦後になりますと、小泉は反共の旗手で旗幟鮮明、保守論陣の先頭に立つ。しかも皇室に関与していく。これらの事情が全部併存することの持っている意味というか、小泉信三の立ち位置はまだ描かれきれていないという感じがします。
小泉信三は吉田茂との関係も深く、書簡も80通ぐらい残っています。吉田が戦後日本の再建の中で小泉に対して求めていたものはどういうところだとお考えになりますか。
当時の重要な人々は戦時体制下で何かしら手が汚れていました。その中でいわば消去法で戦後もやっていける人というのは、本当に限られていたと思います。また、当時は今からは想像できないぐらい人間関係が極端に狭くて、お互いに面識があってよく知っています。それゆえ吉田茂と小泉が、同時代的に見れば心理的に近い距離にあったのではないでしょうか。
安倍能成の名前もあったということですが、非常に興味深いですね。安倍は戦時中、一高の校長で、学徒出陣のときに複雑な思いはあったけれど勇ましく送り出しているところもありました。
社会的な地位なども考えたときに、慶應は当時も飛び抜けて有名だったはずですから、そのトップであった小泉がなるということは、それほど違和感がなかったのではないかと思います。
基本的には、初代宮内庁長官だった田島道治が説得するので、その意味では田島が小泉を買っていたということだと思います。彼らは象徴天皇制を一定の方向に持っていきたいという思いがあったと思います。田島は、最初は退位論者でもありますし、戦前とは大きく変えたいという思いは大きかったのでしょう。
それで小泉を説得した。彼はそれまでも皇太子の教育に携わってはいましたが、小泉を常時参与にするのは田島でしたから、その影響力は大きいと思います。
芦田均内閣(1948年)のときに、まず小泉が宮内府長官に請われていますね。その後、東宮大夫兼東宮侍従長も依頼されている。福澤諭吉の弟子なので官職に就けないと小泉が断ったと、田島の日記に書いてあります。
肩書きはともかく、関与の度合いを深めていくわけですが、小泉信三の存在が戦後の皇室の設計に、特に影響しているのはどのあたりと見ますか。
やはり、『ジョージ5世伝』を一緒に読んだということはとても大きいと思います。後に今上天皇は記者会見の中で、自分が影響を受けたのは安倍能成と小泉信三と坪井忠二の3人だとはっきり言っています。ヴァイニング夫人ではないのですね。
先程述べた、今上天皇の皇太子時代の「ロボットでは駄目」発言は小泉と、『ジョージ5世伝』にある「(政権に)助言を与え」という部分を読んだからではないか。
日本の場合、バジョットの捉え方が少し誤っていて、まったく政治に関与しないという形でバジョットを解釈する人が多い。そうではなく、むしろ今上天皇のほうがバジョットをより正確に解釈しているのではないかという印象を持ちます。
『ジョージ5世伝』を読んだということは、バジョットという理論家そのものではなくてジョージ5世という、それを実践した人間に触れたわけで、余計にバジョットの真意みたいなものもきちんと捉えられたのではないかと思いますね。
ヨーロッパ外遊という大きな体験
それ以外にも、小泉が皇太子の身の周りのことに細かく気を配り、人格の形成に大きく影響を与えたと言われますね。
エリザベス女王の戴冠式でヨーロッパからアメリカへと外遊(1953年)したときでも、小泉は随行員ではないのですが、ときどき皇太子一行と落ち合っては話をしています。
そこで何をしているかと言えば、見学してきたことをそこで復習して、何を感じ取ったのかをシェアしている。ずっと付いて世話をするわけではないけれど、皇太子が初めて外国へ行って、どういうことを見て、どういうことを感じたのかを、放っておかずに聞いてあげて、上手い付き合い方をしているのは確かだと思います。
小泉信三というのは非常に教育者で、皇太子本人の主体的な気付きを重視しているように思います。
慶應的に言えばまさに「独立自尊」ですが、自分で考えるように仕向ける。テニスの練習でも、小泉の弟子たちが皇太子に教えに行って、ボールが後ろに飛んでいっても侍従に拾わせない。自分で取りに行くまで待つという指導をする。そうすると、しばらくすると当たり前に自分で拾う。やがて試合に負けたら「負け審」もするようになる。
そのようにして、君主である前に、まず人としての当たり前の感性や振る舞いを育てたところも大きいのではないか。その意味でまさに教育者です。小泉がそういうことを意識する人であったことが皇太子の人格形成に大きな影響を与えたと思います。
中でも戴冠式での渡英というのは、人格形成に非常に大きなインパクトだったのでしょうね。
やはりイギリスの実際の姿を見たということですね。つい数年前までは日本と戦争していた相手でもあるわけです。そして父である昭和天皇も、32年前に訪れた同じ国を見られた。
もう1つ重要なことは、第2次大戦中、ヨーロッパでは、立憲君主がリーダーシップをとって国を救ったという状況がよく見られました。ナチスドイツに蹂躙されてしまったデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクという国では、それぞれの事情はありましたが、リーダーシップを握ったのは君主たちでした。
最近、『ヒトラーに屈しなかった国王』という映画になったノルウェーのホーコン7世。あるいはオランダのウィルヘルミナ女王。あるいはルクセンブルクのシャルロット大公。このような人たちがロンドンなどに亡命して、レジスタンスと呼応してナチから解放していくのです。
実際に1953年にイギリスでの戴冠式が終わった後、明仁皇太子が各国を回ってアメリカ経由で帰ってくる途中、ノルウェーでホーコン7世に会っています。2005年、ノルウェーがスウェーデンからの独立100周年を記念して天皇・皇后両陛下がノルウェーを公式訪問された際の宮中晩餐会でこのお話をされている。
また、1953年に出会った、まだ幼い、若い王子・王女たちが、後にベアトリクス女王になっていたり、あるいはアルベール2世がベルギー国王になっていたりする。皆、自分と同世代です。2013年にベアトリクスとアルベールが生前退位をしますが、それをご覧になったことが、2016年の会見につながったのかもしれません。
そのように、今までは字面でしか追えなかったものを実際に見ると同時に、即位されてからの知己としての親交の基礎も築けたこの訪問は非常に大きかったと思います。
吉田茂と象徴天皇制の形成
あの外遊のときは吉田茂もいろいろと配慮しているかと思います。吉田茂の意図についてはいかがですか。
吉田は回想録の中で、「先進的な民主主義国はみな立憲君主国なのだ、日本も立憲君主国として先進的な民主主義国になるんだ」とはっきり言っています。そのような観点から「臣・茂」と民主主義は両立するんだと批判をはね返しているところがあります。
吉田は、「天皇だから尊い」ということではないと思っていて、欧米の立憲君主国は機能主義的に国家の形として望ましい、だから日本もアジアにおける立憲君主国になるべきだと割り切っているのではないでしょうか。決して神聖不可侵ということではなく、むしろ自分にとって操作可能な立憲君主国をつくっていく中で、象徴天皇制という形でやっていくのがいいという判断ではないでしょうか。
小泉信三も福澤の『帝室論』について、皇室というものが民主主義と矛盾しない、同居可能だということを語る根拠を求めていったところがあるかと思います。
象徴天皇制の形成にあたって、いま小泉信三に比較的注目が高まっていますが、その他の人たちの関わりや影響で、河西さんが重視されている方はいらっしゃいますか。
いろいろな人がいますね。津田とか和辻のような形で理論を形成していく人もいますし、象徴というのはまさに伝統的な姿であって、むしろ戦前は政治にコミットしすぎたから、今の姿は理想的だと言う人もいます。
吉田などは象徴の枠内でいろいろなことを考えていたと思います。吉田のやった内奏というのも、立憲君主国の君主として当然の権利であり、義務でもあるわけで、だからこそ天皇の求めに応じて積極的にやっていく。政治家としての彼は戦前に回帰するというよりも、象徴をどう解釈するか、ということをやっていたのだと思います。
そして、吉田の流れにある保守政治家が、それをその後の戦後政治の中で継承していったのではないでしょうか。
明仁皇太子の訪英は1953年ですから、戦争が終わってまだ8年目です。当時、東南アジアでのイギリス人捕虜虐待問題によって、イギリス国内では、なぜ日本の皇太子を大切な女王様の式典に呼ぶのかという反対論もかなり強くありました。
チャーチル首相が皇太子の歓迎午餐会を開き、自分で人選をする。出席者には労働党のアトリー前首相や労働組合のリーダー、それから日本を叩いていたマスコミのトップ、『デイリー・エクスプレス』の社長をやっていた、ビーヴァーブルック男爵などという有名な人がいました。
このとき、チャーチルが予定されていなかったスピーチを急にやったのです。「今ここに集まっている人たちはいろいろな意見を持っている。労働組合のリーダーもいれば、野党も、与党もいる。いつも侃々諤々の論争をやって分裂することもあるけれど、それを乗り越えられるのがイギリスで、その根底にあるのはまさに立憲君主制なのだ」と述べます。
これもたぶん当時の明仁皇太子には大きい感銘を与えたのではないでしょうか。今のイギリスの政治家たちに聞かせてやりたいスピーチですね(笑)。吉田と非常に仲のよかったチャーチルの影響もイギリスで受けたのですね。
一方で戦争の問題については、イギリスやオランダで、皇太子は相当ショッキングに思うことがあったようです。そして、実際に自分が感じたことを小泉に話しています。
今上天皇があんなに一生懸命戦地を廻られている1つの要因はそこにあるのではと私は思っています。日本では戦争問題を忘れかけていた中で、外国に行ったらそうではなかった。この影響はものすごくあったのではないか。
「小泉信三展」のとき、初めて世に出した「御進講覚書」というノートがあります。あの中で「責任論からいへば、陛下は大元帥であられますから、開戦に対して陛下に責任がないとは申されぬ。それは陛下御自身が何人よりも強くお感じになってゐると思ひます」と、昭和天皇の戦争責任に小泉がはっきり言及します。それでもなお皇室が存続したのはなぜか、よく考えよ、という意味のことが続きます。小泉は皇太子に話す前に、昭和天皇と相談し、戦争の認識も話し合っています。
裏返せば、小泉信三自身の塾長時代の責任の自覚の表明でもあると思いますが、皇太子が将来天皇となったときに、その地位は当たり前にあり続けるのではなく、常にあるべき姿を模索し続けねばならない、その責任を自覚せよというわけです。こういうことをズケズケと遠慮なく言うのが小泉信三の価値だったと思うのです。いかついようですが、家族にはとてもおしゃべり好きな父親だったようですし、時にお節介なほどサービス精神が旺盛です。
小泉は、塾長時代も何かと口うるさかった人で、例えば詰め襟の上からマフラーをするのはおかしいとか、着帽のまま食事をするなとか、塾生に細かく注意を与えた講話や冊子がありますし、そういう塾生を見つけると自ら注意するんです。学徒出陣世代のOBの方と話すと、直接塾長に注意されたという思い出がしょっちゅう出てくる。
「御進講覚書」にも「人の顔を見て話をきくこと、人の顔を見てものを言ふこと」「Good Mannerの模範たれ」と書いてあります。こんな気兼ねなく口うるさい人は皇室の周辺にいなかったはずで、いちいちその野暮を言う人をそばに持ちえたことが、皇太子の幸運だったのではないかと思います。
読み返されるべき古典
今までの議論を踏まえて、現在の象徴天皇のあり方、あるいは今後について思うところがありましたら、お願いいたします。
平成の次の時代がどうなるか。そのような状況の中で『帝室論』を読み直してみると、終わりのほうにある、「日本の帝室は学術を重んじ学士を貴ぶとの名声を発揚するに足るべし」という一節が浮かび上がってきます。これは日本は文化国家、道義国家になるべきだ、それを象徴するのが天皇だというふうにも読めます。
次の陛下は学習院大学大学院で修士号を取得した研究者でもあり、長年、学習院大学史料館の客員研究員をされていて、ある膨大な前近代の文書の読解を続けられています。学術に関して重要な業績のある方が天皇陛下になられて、文化を大切にするのが日本の姿だということは、『帝室論』にあらかじめ書かれていたのだと思いました。今の時点でも読み返すに値する本当の意味での古典です。
おっしゃった通り、次の陛下は史上初めて大学院をお出になられて修士号を持っている天皇であると同時に、史上初めて海外留学経験のある天皇でもあるわけです。あわせて皇后も史上初めて留学をされている方です。ですからご夫妻で、今度はご自身たちが若い世代との交流などを推進していっていただけるような新しい側面もあるのではないか。
また、雅子妃殿下は昨年12月9日のお誕生日会見のときに、近年は子供の虐待問題、貧困問題、地球環境問題に関心があるとおっしゃっていました。ヨーロッパの王室でも王妃や王女たちが社会事業に財団を立ち上げ、コミットしていくこともあります。今の天皇・皇后両陛下とはまた違った角度からの国際親善も可能になるのではないか。私はそのようなことを希望しています。
私は違う観点からお話ししたいと思います。私たちには見えていないところで、天皇が政治家に対して、長く続けているからこそできる、いろいろな助言があると思うのです。選挙で選ばれている人ではなく、ずっと長く続けているからこそ、気付く側面が天皇にはあると思います。そして、そうしたことに気付くことができたのは、『ジョージ5世伝』をともに読んだ、小泉の存在があったことが結構大きかったのではないかと思います。
1960年、明仁皇太子夫妻がアメリカを訪問するとき、外務省が皇太子ご夫妻には国際交流だけではなく、国際政治の話もアメリカで聞かせてあげますと言ったら、小泉がそれに賛成したと書いてある文書を外務省外交史料館で見たことがあります。そのような形で後ろからバックアップしていた。
皇太子が後に天皇になったときのことを考え、君主としてあるべき姿を考えて教育をしてきたのだと思いますが、それが今はどうでしょうか。次の天皇に小泉のような人がいたのかどうかということは考えなければいけません。高所から見られる人が教育して、あるべき天皇として、教育されてきたのかどうかをこれから考えていきたいと思っています。
有り難うございます。「天皇制」という「制度」と言いながら、周りの人たちの影響の中でつくり上げられた個人としての天皇の資質、人格に依存するところの不安定性というものがあるのだと思います。
単に存在し続けていくのではなく、そこに積極的な価値を認め、しかもそれが民主主義と調和する形でどうあり続けていくべきか。そのような視点で皇太子の教育に小泉信三という人が携わり、そしてまたその背景に福澤諭吉の『帝室論』があったということが、この機会にあらためて見直されていくことには意味があるのではないかと、今日は感じさせていただきました。
どうも有り難うございました。
(2019年3月15日収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。