慶應義塾

【特集:慶應4年──義塾命名150年】座談会:慶應4年の福澤諭吉

登場者プロフィール

  • 芳賀 徹(はが とおる)

    東京大学名誉教授

    1960年東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了。東京大学教養学部専任講師、助教授を経て75年同教授。国際日本文化研究センター教授、京都造形芸術大学学長等を歴任。専門は比較文学、近代日本比較文化史。著書に『文明としての徳川日本』『大君の使節』等。

    芳賀 徹(はが とおる)

    東京大学名誉教授

    1960年東京大学大学院比較文学比較文化専攻博士課程修了。東京大学教養学部専任講師、助教授を経て75年同教授。国際日本文化研究センター教授、京都造形芸術大学学長等を歴任。専門は比較文学、近代日本比較文化史。著書に『文明としての徳川日本』『大君の使節』等。

  • 先崎 彰容(せんざき あきなか)

    日本大学危機管理学部教授

    東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院日本思想史博士課程単位取得修了。フランス社会科学高等研究院に留学。2016年より現職。専門は日本思想史。著書に『個人主義から〈自分らしさ〉へ 福沢諭吉・高山樗牛・和辻哲郎の「近代」体験』『未完の西郷隆盛』等。

    先崎 彰容(せんざき あきなか)

    日本大学危機管理学部教授

    東京大学文学部倫理学科卒業。東北大学大学院日本思想史博士課程単位取得修了。フランス社会科学高等研究院に留学。2016年より現職。専門は日本思想史。著書に『個人主義から〈自分らしさ〉へ 福沢諭吉・高山樗牛・和辻哲郎の「近代」体験』『未完の西郷隆盛』等。

  • 西澤 直子(にしざわ なおこ)

    研究所・センター 福澤研究センター教授

    塾員(昭58文、61文修)。1986年より福澤研究センターに勤務、2005年同准教授。10年より現職。専門は福澤諭吉の家族観・女性観を中心とする近代日本女性史・家族史。著書に『福澤諭吉と女性』『福澤諭吉とフリーラブ』等。

    西澤 直子(にしざわ なおこ)

    研究所・センター 福澤研究センター教授

    塾員(昭58文、61文修)。1986年より福澤研究センターに勤務、2005年同准教授。10年より現職。専門は福澤諭吉の家族観・女性観を中心とする近代日本女性史・家族史。著書に『福澤諭吉と女性』『福澤諭吉とフリーラブ』等。

  • 小室 正紀(司会)(こむろ まさみち)

    その他 : 名誉教授

    塾員(昭48経、53経博)。助手、助教授を経て1996年~2015年慶應義塾大学経済学部教授。その間、慶應義塾福澤研究センター所長、経済学部長を歴任。専門は日本経済思想史。著書に『草莽の経済思想』『近代日本と福澤諭吉』(編著)等。

    小室 正紀(司会)(こむろ まさみち)

    その他 : 名誉教授

    塾員(昭48経、53経博)。助手、助教授を経て1996年~2015年慶應義塾大学経済学部教授。その間、慶應義塾福澤研究センター所長、経済学部長を歴任。専門は日本経済思想史。著書に『草莽の経済思想』『近代日本と福澤諭吉』(編著)等。

2018/05/01

欧米体験が与えた影響

小室

今年、2018年は、1868年すなわち慶應4年(9月に改元して明治元年)から数えて150年になります。そこで今日は慶應4年の福澤諭吉について皆さんにお話いただきたいと思っています。といっても、慶應4年だけではなく、その前後10年ぐらいずつに目を配ることによって、慶應4年という時点における福澤諭吉像を浮かび上がらせられればと考えております。

慶應4年の前の10年は、福澤が一生の課題を見いだして行く非常に重要な10年だったと思いますし、その後の10年は、福澤の思想の基礎が確立する10年と言ってもよいと思います。

また、言うまでもなく慶應4年は、徳川幕府が倒れ、明治政府が成立する日本の激変期ですが、この年は福澤にとっても大きな変化の時期でした。新銭座に福澤の塾が移り慶應義塾と名前が付けられて、本格的な教育が軌道に乗るのがこの年です。

芳賀

慶應4年というのは、福澤の生涯の満66年の生涯の半分をちょうど超えたところですね。まさに「一身にして二生を経(ふ)る」ちょうどその分かれ目のところです。

前の話からすると、1862(文久2)年に遣欧使節団の一員としてパリに行ったときに、ナダールが撮った福澤の写真は本当に眉目秀麗。これを見ると、諭吉は頭の中まで眉目秀麗だったのだと思います。福澤はまだ満28歳ですが、意気軒高で、初めてヨーロッパにやってきて、ヨーロッパの人間もそんなにびくびくするような相手ではないじゃないかと分かった。黒い羽織にシャキッと折り目のついた袴を穿いて、頭には菅笠をかぶり白い紐をあご先に結び、腰に両刀を挟んで、松木弘安(まつきこうあん)とか箕作秋坪(みつくりしゅうへい)らと並んでパリの街を歩いていく。

これから福澤が本当に飛躍していく、ちょうどカタパルトの上に立ったような時期ですね。知的にも非常に充実していて、好奇心旺盛で、何を見ても聞いても、とにかく自分の身に付けてしまう。

このときの福澤の「西航手帳」を見ても、右から左から、英語もフランス語もオランダ語、漢文も、右向き、左向き、上から下へ、下から上へと自由自在に書き込んで、実に俊敏に頭を働かせながら自分の関心のあるものをびっしりとつかまえていっている。しかも、ノートに取っただけではなく、それを自分でちゃんと意味付けをしていく。

小室

そのような欧米体験がその後の、特に慶應4年頃の福澤に与えた影響はどのようにお考えですか。

芳賀

それは大きいでしょうね。20代後半の福澤にとっては、2年前の咸臨丸でのアメリカ往復とならんで大変な勉強ですね。いっぺんに百科事典を自分の頭の中に抱え込んだようなもので、しかもどこのページに何の項目があって、それを引くとこう書いてあるということまでみんな覚えている。

『福翁自伝』にも書いていますが、福澤の行動のいわばキーワードは「颯々(さっさ)」です。その颯々というのは、インテリジェントであることの表現ですね。こだわってもしょうがないことにはこだわらない。もっと大事なことにすぐ目を向ける。

小室

生涯にわたって、「颯々と」は福澤の好きな言葉ですね。

芳賀

あれは福澤の一生涯のキーワードでしょう。格好いいじゃないですか。

小室

福澤は幕末に3回、海外体験をして、最後の3回目が慶應4年の前年ですから、慶應4年時点の福澤は、海外体験で頭の中はかなり大きな影響を受けていた時期でしょうね。

芳賀

幕末のうちに3回欧米に行った人は福澤だけですね。2回行ったのは福地源一郎とか田辺太一、小野友五郎などいますけど。稀有なケースです。しかも福澤はたまたま選ばれて行くのではなく、自分でそういう機会をつかまえて自分の運命を切り開いていく。年中知的ドライブがかかっている。

実体験としての「独立」

小室

慶應4年は、先崎さんのご本で取り上げた西郷隆盛はまさに戊辰戦争を戦っている時期ですが、福澤諭吉に関してはどういうところに注目されますか。

先崎

福澤は慶應4年、幕府からの奉書が到来したとき、病気と言って断り、幕臣であることをやめてしまう。同時にその直後、新政府からの上洛命令も病気を理由に辞退しています。結局、このとき福澤は家禄なども全部辞退して、平民になることを選んだわけですね。一般の武士の秩禄処分が明治9年なので、かなり前にそういうことを自分の意思でやり、同時に政府からの出仕も固辞した。そして翌年、「福澤屋諭吉」という屋号で出版事業の自営化に乗り出す。

これはどういうことかというと、要するに自分が本当に何者でもない者になったということ。福澤にとって重要なことは、政治もそうですが、自分が食べていくという経済の独立をすごく重視した人で、出版事業などで食べていこうという意思が実際の行動から見て取れるわけです。

僕たちは『学問のすゝめ』の「一身独立して一国独立す」というキーワードを読んで福澤の「独立」についての考えを理解するのだけれど、実際に彼が本当にやっている「独立」の生々しさ、実体験がこの慶應4年にあるということは大きいのかなという感じがします。福澤のこの時期の具体的な行動が言語化されて『学問のすゝめ』や『文明論之概略』になっていると考えると迫力がありますよね。

それから、彰義隊が上野の戦争をしているときに講義を続けたという有名な話がありますが、そこで注目したいのは、結局、官軍だろうと、反政府軍だろうと、政治的な闘争を行っているときに、あえてそこに直接介入しないで学問をするという、第3の立場が大事だということです。

今みたいな時代でも、政治的なことで右や左でワッと行動しがちなのに、冷静に学問をしていた態度を、この近代化の最初期に見せつけたというのは、現代においてもとても大事なことなのではないかと思っています。

小室

福澤は、常に現実政治には一歩距離を置き、他に自分で燃えるものを持っているんですね。この時期はおそらく学問と教育、それから新しい生き方に燃えているときですから、むしろ戦争や政治闘争などやってられないと思っていた。

先崎

そういう感じでしょうね。「ほかにやることがある」という強い意思も見えますね。

芳賀

今から見ても、上野の彰義隊とか戊辰戦争とかより、福澤1人で塾生相手に勉強していたことのほうが日本の歴史全体を見ると大事だったんですよ。

小室

慶應義塾のルーツは安政5(1858)年に始まる福澤の塾だと言われていますが、福澤がそこでの教育に本格的に取り組むのは、遣欧使節から帰国後の文久3(1863)年頃からですね。

そのときすごいと思うのは、自分1人で教える限界を見通して、今後、教育を担う者を教育しようとしたことです。そのため中津から小幡篤次郎ら6人の俊秀を連れてきて教育しますね。そのような福澤の新方針が、軌道に乗ってくるのが慶應4年なのでしょうから、ものすごく燃えていたときだと思います。

国家像の模索

小室

先ほど先崎さんがおっしゃったように、この年に幕臣を辞し、自分自身は「読書渡世の一小民」を目指すわけですが、中津藩に関してはどのように考えていましたか。西澤さん、この点は、いかがでしょうか。

西澤

いま、福澤はいったいどの時点で幕藩体制では駄目だと考え始めたのだろうと悩んでいます。福澤は王政復古(慶應3年)以後も、まだ自分の中でどういった政治体制が日本にとって一番いいのかという明確な意見はなく、版籍奉還が具体化する頃から変わってきているのではないかと思っているんです。

中津藩に関しても文久2年にヨーロッパから出している手紙で、洋学による人材育成を主張するのですが、それは中津藩に対する提言で、ほかの藩に負けてはいけない、中津藩がとにかく他の藩に先鞭をつけられることがあってはならない、という言い方で、やはり藩に対する意識はまだ強いように見えます。

福澤の中では、ある時期までは幕藩体制により国家がしっかりしているという前提が、日本が文明開化を進めていくためには必要だと思っていたのではないか。だから、「大君のモナルキ(君主政治)」(慶應2年、福澤英之助宛書簡)ということも言うのではないか。ヨーロッパで様々な成り立ちの国を見たからこそ、国家の外交権の確立が重要であると考え、基盤は変えない方がよいと思っていたのではないかと思います。

ところが、明治3年になると、中津藩に対して「一身独立して一国独立す」「真の大日本国」と説くわけで、そこに大きな変化があるのかなと思っています。やはり慶應4年頃というのが、ターニングポイントなのではないかと思います。

小室

福澤は、「一国独立」の基礎に「一家独立」も置いていますね。その点で、この時期の国家像と家族像の関係はどうだったのでしょう。

西澤

福澤は文久3(1863)年に長男が生まれて、次男が慶應年間に生まれ、第3子の長女は新銭座に移った慶應4年の閏4月10日に生まれています。同年に『西洋事情外編』が刊行されますが、そこでは人間や家族というものがどう成り立つべきかが書かれている。そこで福澤は、感情によって結びつく夫婦が本(もと)になって人間の交際が始まるという家族像を、訳出ですが初めて述べています。

自身が家族を持ち、子どもも次々と生まれる中で、家というものはどうあるべきか。家族を大きく社会の基礎として変えていかなければいけないという考え方は、外国を見て帰ってきたときから、始まっていたのではないかと思います。同時にどのような国家像をつくっていくのか、いままでの考え方が大きく変わって、一身の独立を根本に置いた新しい国家づくりを目標として掲げ始めた時期なのではないでしょうか。

芳賀

文久2年のヨーロッパからの帰りに、船の中で松木弘安や箕作秋坪と日本はこれからどうすべきかをしきりに議論していますね。結局、ドイツみたいな一種のフェデラル(連邦)制度、諸大名が自分の領民に対して責任は持つけれども国家として政治の主権は大君に集中させる。つまり「大君のモナルキ」にしていく以外ないだろうというようなところに落ち着く。

福澤くらいのインテリならば、今の幕藩体制で諸藩がそれぞれ独立して動いているようでは国内はバラバラで、これからの国難に対応できないことは強く自覚していて、文久2年当時にもう幕府は持たないと分かっていたんじゃないでしょうかね。その体制に代わるものがだんだんと絞られていく。

小室

そうですね。列藩同盟では駄目で、「大君のモナルキ」でなくてはいけないと考えていましたね。しかし、それもだんだん変わってくる。

芳賀

でも大君のモナルキというのは、朝廷側も幕府側も考えていましたね。大君を真ん中において、大名の中の有力者を大臣として置いて支配する。あれは孝明天皇時代にも朝廷の中では盛んに出てきている議論です。

それでは駄目だ、将軍を切り落とせというのが岩倉具視とか大久保利通、木戸孝允らのラディカルな主張で、結果はそちらの動きになるわけです。

小室

福澤自身もやはり現在進行形でいろいろと考えている状況なのでしょう。藩についても、西澤さんのお話のように、ある時期まではまだ藩の組織を利用することへの期待もある。

芳賀

でも、満19歳で中津から出奔し初めて長崎に行くとき、後ろを振り向いて、藩に向かって唾を吐きかけて、こんなところに戻ってやるか、と言ったというのは非常に格好いい(笑)。自分の足で、自分の生まれたところに砂をかけて飛び出す。これはヨーロッパの啓蒙時代、レッシングなんかもそうだった。

新しい学問への熱中

小室

西澤さんもご指摘されましたが、慶應4年は、『西欧事情外編』が出ています。これは翻訳書で、その原書は自由主義経済学の一般向け教科書だと言われています。しかし、それではこの時期に福澤が自由主義経済学の信奉者であったかというと、必ずしもそうではない。新しい経済学を読んで、夢中になっているというのが実態であって、自由主義経済論がいいとか悪いではなく、その分析の方法や新しい考え方に夢中になっているのだと思います。

初期の慶應義塾がすごい人材をたくさん生み出したのは、先生自身が夢中になって現在進行形で勉強しているからなのですね。それが周りの若者を巻き込んでいく。慶應4年というのは、まさにそういう時期なのではないかという気がします。

先崎

1つ小室さんに質問ですが、『西洋事情』が自由主義経済の書といったときに、その当時の欧米での経済学思想というのはどんな感じで教えられていたのでしょうか。

小室

おおまかに言えば、古典派と言われている自由主義経済学が基本ですが、古典派の枠組みを守りながらも社会政策にも理解を示すJ.S.ミルなどが先導をしている時代です。また、ドイツでは、古典派に対抗して、それぞれの国や社会の歴史的な実態を重視するする歴史学派が勃興しており、英米へも影響を与えていました。

しかし、英米では、一般向けのテキストとしては、古典派の枠組みは崩れていない。『西洋事情外編』のもとになったジョン・ヒル・バートンの本も、神田孝平(かんだたかひら)が『経済小学』と題して訳したウィリアム・エリスの教科書も自由主義経済を基本とする古典派です。彰義隊の戦闘のときに福澤らが読んでいたウェーランドの経済書も同様です。

先崎

なるほど。なぜそういう質問をしたのかというと、日本は文学でも古典派とロマン主義とか、西洋では縦軸でつながっている歴史がドッと同時に入ってくる傾向があるんですね。例えば10年くらい後ですが、中江兆民の場合は、ことあるごとに「マンチェスター派の経済学派は」と言って、自由主義経済を批判し、フランスから帰ってきて儒教の勉強をして道徳の重要性を指摘したりしている。そういう流れからすると、福澤はどういう感じなのかなと。

小室

経済学に関しては、まだ学習中なのだと思います。非常に同感しながら学んでいますが、ひとかどの経済論者としての確信があるわけではない。

明治10年、同志とも言うべき小幡篤次郎がウェーランドの経済学の全訳(『英氏経済論』)を出版しますが、その 序文で、小幡は、ウェーランド流の自由主義経済論への疑問を示しています。

小幡や福澤は、もうその時期には日本のような後進国では、政府の役割も重要だという考え方になってきている。しかし、慶應4年段階では、まだ勉強中だったのだと思います。

芳賀

福澤のような頭には、おそらく政治よりも経済がおもしろかったでしょうね。数式で行けるから。ヨーロッパに行ったときから、同行の幕臣が汽車のレールの高さは何センチ、車輪は直径何メートルなんて言っているときに、福澤はこれをつくる大変なお金はどうやって工面したのかということを考えている。経済的な頭はもともとあったんだね。お父さんは大阪の米蔵の番頭だし。

慶應義塾の命名と「官」への対抗心

芳賀

慶應4年に新銭座に来て、慶應義塾と命名し、中津藩から独立したということだけど、慶應が大赤字になったということはあるんですか。

小室

慶應は何回も経営危機がありましたが、最初の経営難は明治10年頃からでした。

当時、学生は士族が多かったのですが、秩禄処分で士族が窮乏化したことや、政府の官学優遇政策などで入学者が減少し授業料収入は減り、しかも物価高騰で経費が増大しました。また、西南戦争のときに九州出身士族などの退学者が増えたことも影響しています。

先崎

この時期ではないのですが、官の力が強くなってくると、私学としての慶應に来ることと、新政府の中でいいポストを得られるというようなことが齟齬を来してきて学生が減るということはあったんじゃないかと。同志社とかはそれで大変な目に遭っているはずなんですよね。

西澤

明治12年以降に徴兵に関する特典が官学のみになってしまい、その影響で学生の数が減っていくということがあります。あるいは明治14年くらいから景気が悪くなると、中心だった士族たちは、なかなか勉学が続けられなくなります。

小室

おそらく官学との競合が本格的になるのは明治10年代でしょう。明治一桁の間は官学のほうの整備がそれほど行われていないので、慶應が先導的な存在意義をアピールできる状況であったのだと思います。

芳賀

芝新銭座に移ってきたときに、「慶應義塾之記」などを著してどういう学校であるかを示していますね。あの中で洋学を中心とする学校であるとはっきり書いている。官との対決とまでは言わなくても、この頃から官や国からの一身独立ということをかなり強く意識しているんじゃないか。官とは違うんだ、慶應義塾はもっと自由にやるんだという考え方があるように読みました。

このときは官学とはまだ言っていなくても大学南校とか兵学寮(後の陸軍士官学校、明治2年大阪に設置)とか、次々にできたわけでしょう。幕末の幕府も、明治の新政府も官学の学校をものすごい勢いでつくる。その中に慶應がいて国、中央政府から独立して、自分の考え方で自由に教えることを目指す。そういう志はかなり早くからあったんじゃないか。

西澤

「慶應義塾之記」の中では、共立学校を例にとって慶應義塾をつくると言っています。また、教師がいて教わる生徒がいるという関係ではなく、ともに学んでいく社中、仲間という意識が非常に強かったようで、それが義塾という名称に現れていると考えています。

私は、福澤の中で官との対抗意識が強くなるのは、もうちょっと後、明治14、5年くらいに官の教育が新しい儒教主義を打ち出してきてからなのではないかと思っています。それまでは福澤の中では官はあまり眼中になく、自分たちで切磋琢磨しながら、義塾を充実させていきたいと考えていたのではないでしょうか。

芳賀

でも、福澤は幕末に幕府の外国方で翻訳局勤務になると、ああいうところでさえ役人のぐずぐずした感じのがいくらでもいたわけで、すでにうんざりしていたんじゃないかな。あんなのに洋学教育を牛耳られてはたまらないと。

小室

たしかに役人に対する否定的な見方は、藩や幕府のときからありましたね。ただ、官学との対抗という点では、まだ明治一桁の間は楽観していたと思います。本当に危機感を持ちだすのは、明治14、5年頃以降に公教育の整備とともに、西澤さんのご指摘のように、官が儒教主義教育を復活してくる時期だといえるのではないでしょうか。

儒教的な考え方をめぐって

先崎

今の話を、儒教をめぐってどう考えたのかという点でみてみると、『文明論之概略』の9章に頼山陽が出てきますが、頼山陽が嫌いなんですよね。そこに福澤の儒教に対するあるイメージがある。簡単に言うと、大義名分論、要するに、身分社会が固定しているというイメージの典型として頼山陽を出してくるわけですね。

ところが、福澤は西郷隆盛のことを非常に高く評価している。明治10年に『丁丑公論』を書いたときのキーワードは「抵抗の精神」ですが、西郷隆盛の思想を貫いていたのは大義名分論よりも、儒教における「天」という概念です。儒教の天、天道、天命なんですね。それを非常に強く意識した人たちが自分の社会的な宿命、明治維新を完遂するんだという強い意思を生み出してきた。

丸山眞男などは儒教におけるそういう面も見なければ駄目なんだと言っている。そうすると、福澤の儒教のとらえ方というのは、『文明論之概略』だけでいいのか、もうちょっと細かいところまで読むと、おもしろいことを言ったのではないかという気もします。

小室

丸山先生は、福澤は、時代の状況の中で、何を論破しなければならないかを考えて主張を展開する思想家だとおっしゃってますね。

おそらく福澤は、実は儒教を評価している面もあるのですが、今はこの儒教主義を否定しなくてはならないと判断すると徹底的に論破する。そういう思想家なのではないかという気はします。

芳賀

『学問のすゝめ』なんかでは、儒者というと、歩く辞書だ、空っぽだとくそみそでしょう。でも、儒教でも為政者は一種の知的エリートとして民衆の生活に対して責任を持たねばならぬ。これが武士の根本の倫理で、それは福澤もしっかりと身に付けている。

18世紀末から19世紀を通して、日本の優れた武士たちは、渡辺崋山でも阿部正弘でも自分が責任を持たされている社会に対する使命感は一貫してゆるぎない。そのための自己犠牲もいとわない。あれがあったから近代の日本は持ったんだと思う。

先崎

『文明論之概略』自体が、儒学者向けに書いたと書かれていますね。たぶん儒学者は現代的に言うと、知識人で中間層のある種の典型だから、西洋文明をきちんと理解させてしまえば、コロッとひっくり返って重要な近代化を進めるための力になるのだろうと考えたのではないかと思います。

西郷への視線

芳賀

西郷はどれくらい西洋のことを勉強していたの?

先崎

『文明論之概略』は弟子筋に読むよう薦めていました。他にはナポレオンに関する訳したものとか、そういう政治的なものが多いですね。

小室

西郷は明治10年に亡くなりますから、『文明論之概略』が出てからすぐ読んだということですね。

先崎

そうですね。お互いに面識はなかったんですけれども、相当評価していたようです。

思想史における幕末はいつからかというと、寛政異学の禁が行われた1790年くらいから考えるべきだという説がある。なぜかというと、それによって、武士階級ではない人たちも学問をすることによって、藩の政治に入っていくという出世の可能性が出てきた。また何より藩校が増え、下級の武士層にも学問に触れるチャンスが増えた。

その中で西郷隆盛みたいな下級の武士も、小さい頃から教育を受ける。

社会は次第に激動期をむかえ、流動性が増す。流動性は下級の者にも社会参加のチャンスを与えるわけで、つまり、一見して封建的な思想を体に染み込ませた人物が、結果的に社会を変え、近代化を推し進める力になった。福澤は、人よりも儒学においては精通していた人間なので、だからこそ『文明論之概略』などで儒教教育を受けた旧来型の知識人の考えをひっくり返せるという自負心があったのでしょう。そういう意味においては、福澤もやはり幕末の思想家のうちの1人ではあるのだと思います。

小室

おっしゃるように、福澤は自分の漢学にかなり自信があって、だからこそ儒教の批判者として強力だと考えていた。『福翁自伝』では、漢学にとって自分は「獅子身中の虫」だと言っていますね。

芳賀

西周もさんざん儒学をやってきたのに、それをポイッと捨てて洋学に転向していく。福澤が中津をけとばして長崎に行ったのと同じ年、西周は江戸の津和野藩邸をある夜明け方に抜け出して、漢詩を朗々と歌いながら、手塚律蔵の蘭学塾に向かっていった。神田孝平もそうでしょう。それから、堀田正睦(ほったまさよし)の佐倉藩に仕えていた西村茂樹も同じ頃、海外留学を願い出た。あの展開は大きいね。

それを司馬遼太郎はペリーのショックウェーブと言っている。東でも西でも20歳前後の若者たちが一斉に儒学を捨てて洋学に転向していくわけです。やはり天から与えられた使命感とか、国とか社会に対する武士としての責任感があったからこそ、幕末の米欧列強への対応もできたし、明治の大変革もできたと思う。それを支えるものとして、天とか義塾の義というものがあった。

小室

ある意味では旧幕時代の教育を受けた士族には、そういうモラルの面は実態としてすでにあった。だから福澤も、これからは、むしろ客観的にものを見る力や計測できる力のほうが必要だと考えたとも言えますね。

芳賀

あれもズバリ当たっているね。例えば、幕末に高橋由一という油絵画家が出てくる。衣服の織り具合、その質感、それが光を反射するところまでじっと見て、それを再現しようとする。オブザベーション(観察)、それからその結果に立って、リーズニング(推理)をやる。それからシンセサイズ(総合)する。それが福澤の『学問のすゝめ』の中の一番の大事な問題でしょう。

抽象的なこと、自分の内心にあるような道徳とか天とかへの感覚や責任感は自ずから生徒たちにも伝わるので、実際に教えるべきは外国語であり、オブザベーションとリーズニング、シンセシスの能力だ。非常にプラグマティックでいいじゃないですか。

小室

でも、その福澤が西郷に惹かれているというのは非常におもしろいと思います。

先崎

『丁丑公論』で言っているのは、政府に対してちゃんと批判するような目線がなければ駄目だということで、西郷には征韓論以来、すごくそれを見ているんですよね。

また、福澤は西郷が亡くなった後には、板垣退助を評価していきます。この時期の福澤を見ていておもしろいのは、「封建」という言葉をめぐる思想史です。普通、私たちは「封建」の反対概念は「近代」だと思っている。時間の前後関係だと思っている。しかし福澤の時代には、「封建」の反対概念は「郡県」なのです。もちろん前者は幕藩体制の、後者は明治新政府の政治体制を象徴している。つまり、地方自治か中央集権かという制度問題であり、時間軸の概念ではないんですね。

そして西南戦争の際、福澤は武力とは違う形で、おそらく分権論とか地方自治みたいなことを一生懸命、手探りしている。不平士族たちを地方自治の訓練をさせることで、なんとかガス抜きをするという方法を模索する。福澤自体が、「封建」と「郡県」の間でゆらぎながら、思想を展開している。

小室

1つのモデルみたいなものとして、武力は使わない西郷みたいなものがあるということですね。

啓蒙家としての福澤

芳賀

慶應4年頃に福澤は本当の啓蒙書を出していますね。『西洋旅案内』とか『訓蒙窮理図解』。私、ああいう文章も大好きなんですよ。『西洋旅案内』なんか、パナマは大蛇とかライオンとかいるから気を付けろとか、変なものを冷たいからといってガブガブ飲むとよくないとか、そんなことまで書いてある。非常に具体的で、生き生きと自分の体験をそのまま書いていて見事なものだと思う。日本人が書いた西洋への直接の旅行案内はあれが最初じゃないですか。

『訓蒙窮理図解』もチェンバースか何かを下敷きにしていても、落語家や講談師のように話がうまい。10歳の子どもでも、おもしろがるように書いている。本当に身近なことを取り上げて、まさにオブザベーションとリーズニングを説いていく。理科的知恵を与えるのに、目の前の卑近な例を挙げて説いていくそのうまさ。頼山陽なんか嫌いなのは、もう当然だと思うね。あれを読んで僕は感心した。これをもっと高く評価したい。

小室

『訓蒙窮理図解』というのは、福澤自身も重要だと思っていたようです。『福澤全集緒言』で、広く民間の老若が物理学に接することが、西洋文明を受け入れる鍵だと考えて書いたと述べていますね。

西澤

慶應2年に中津藩の重臣にあてた手紙に、「或云(わくうん)随筆」というものを添えて、その中で福澤は窮理学が非常に重要で、勉強しなければいけないということや、日本人にもヨーロッパを旅させれば日本というものを意識するし、日本に対する誇りや自負心が生まれると書いています。この随筆の結実が、『西洋旅案内』であり、『訓蒙窮理図解』なのだろうと思います。

芳賀

『西洋旅案内』で感心したのは、その第一行に、孔子は「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」と宣ったが、たまにはこちらからも出かけてみようじゃないかと言っていること。こんなこと孔子から2500年たつのに、これまで誰も言わなかった。福澤はまさにコペルニクス的転回をやった。

洋学一筋で、徳川の18世紀から明治への思想の脈略を完全に把握してみせた明治9年の「故大槻磐水先生50回追遠の文」も見事なものだ。これを読むだけで福澤は西郷以上だなと思う。志があり、文明の歴史というものへの理解が深い。洞察力がある。これはもう福澤諭吉の全文章の中の最高峰だね。

慶應4年からの展開

小室

慶應4年の福澤は決して立ち止まっていなくて、動いていた人だと思いますが、その慶應4年の福澤を成り立たせていたものをここで整理しますと、1つは西洋体験、もう1つは儒学の教養に基づくもの、もう1つは、おそらく蘭学を通して摂取した西洋自然科学の洗礼を受けている。

そのような慶應4年の福澤が、その後どういうふうに変わっていくのか、あるいは変わらないのか。話をそこらへんに移してみたいと思います。この後『学問のすゝめ』も出てきますし、『文明論之概略』も出てきますし、いろいろ展開してくるわけです。

芳賀

『時事新報』創刊後は政治批評なんかが多くなりますね。

小室

教育者・福澤からジャーナリスト・福澤へという流れもこのあと出てくるのだと思います。

先崎

教育者とジャーナリストのちょうど間くらいが明治の一桁の頃なのでしょう。啓蒙が終わったとはたと気づいて、1年間、引きこもって勉強して『文明論之概略』を書いていくのが明治8年ですが、その後も比較的分厚い、理論的な本を出している。

むしろ明治20年代くらいのほうが、条約の問題などで結構短くてリアルなものを書いていますね。だから、この時期は骨太なものをつくっていく時期なのかなという感じはします。

小室

啓蒙的なものの積み重ねをある程度経たところで、その集大成として理論化したということですね。

先崎

そうですね。読書も洋行の経験も蓄積され、40代に差し掛かる頃に、自分の中で勉強したことをもうちょっと後世の人まで射程に入れるような、いわゆる思想家として立ってくる時期なのかなという感じがします。

小室

ジャーナリズムが最初に出てくるのは、明治一桁の最後のあたりですね。『民間雑誌』とか『家庭叢談』という形で、ジャーナリズムへの模索は始まるのですが、その前に夢中で学んでいる時期があり、そしておそらく『学問のすゝめ』はその中間くらいでしょうね。

福澤も『学問のすゝめ』を書き始める前にウェーランドの『修身論』を読んで、おもしろくて寝食も忘れるくらいだった。

芳賀

『修身論』だけど、あんなもの、そんなにおもしろかったのかね。

小室

たしかに、今われわれが読むと退屈とも言えますが、儒学で育った福澤には、儒学に対する明快なアンチテーゼが書かれており、読んで興奮するような著作だったのではないでしょうか。

『民情一新』という飛躍

先崎

『文明論之概略』が明治8年に出たときは、やはり西洋文明を追いつくべきものとまだ見ていたと思います。しかし、明治12年の『民情一新』を書いたときには、自分がその時代の最先端を読み切ってしまっているという、自負みたいなものがあったように読み取れます。

僕はこの明治の一桁から10年に行くところは、すごく福澤の思想家として重要な時期ではないかと思っていて、日本がある意味で、まだ足りていないから追いつこうという意識から、ちょっと大げさに言うと、ひょっとしたら、世界で最先端の水準に俺の思想は行ってしまっているんじゃないかというくらい、『民情一新』には自負心があるように思うのですね。

英文を通じて同時代のロシア情勢とか、ニヒリストの登場みたいなものを見切っていることに自負心を持っている。下からヨーロッパを仰ぎ見ていた時代から、自分もヨーロッパの最先端の人と同じ目線で見ているんじゃないかというぐらいの変化があったのではないかと思うのです。

『文明論之概略』くらいまではどちらかというと日本の国内に対する目線があるわけですよね。それが、かなり開いた感じになる。

小室

『民情一新』は、知識を持った者のルサンチマンが社会を動かしていくのだという考え方でしょうから、19世紀のあの時期としては、かなり最先端の考え方ですよね。福澤自身『民情一新』には非常に自信を持っている。

先崎

そうですね。1850年代から70年代の20年くらいを、時代として追えているという感覚がすごくある。近代化が進むと騒擾が起きてしまうということを見切ってしまっているので、近代化を推進していた彼自身が明治の10年そこそこで、それが持つ危険性まで見てしまっているというのは相当すごい。

小室

彼は情報の伝達に期待をかけていたんだけれど、その情報の伝達がもう1つの危機をもたらすということですよね。

先崎

そうです。幕末期からの彼は抽象概念で言えば、流動化することをずっと良しとしてきたわけですよね。社会の中で自分自身も動いていく。

芳賀

「メンタルスレーブ」ではなくてね。

先崎

そうです。だから、惑溺をすごく批判する。それが、今度は流動化が逆に問題を引き起こしてしまうということまで気づいてしまった。

僕が驚いたのは、福澤は西南戦争について、簡単に言ってしまうと西郷は情報戦で負けたんだと言っていることです。鹿児島で後に決起する若者たちは新聞だけを読むんですね。そこには大久保利通の政権が東京で非常に華美な服装をしたり、西洋かぶれしているという情報だけが書いてある。それを読んで、やはりあいつらは悪いという怒りを確認する。

福澤は、東京の人なら事実を確認できるけれども、地方の人はそれを想像だけでイメージして、怒りを膨らませてしまうと言っている。そのことが戦争をたきつける原因になってしまったと。これはすごいと思う。

もう1つは戦争が起きてから、官軍は電信を初めて使って薩軍の動きを把握するんですが、そういうことが一切できなかったのが西郷軍で、それで負けたんだと短い文章で書き残しているんです。

どうも『民情一新』あたりで、時代情勢は見るポイントはここにありというのをつかんだようなんですね。ちょっとさかのぼると、西南戦争だってそうだったと。時代を切る何か強烈な武器を握ったという自負心がどうもある。そうやって西郷についても論評していたというのは、相当福澤は鋭いし、しかも自負心があるところが、なかなか福澤らしい感じがします。

小室

慶應4年の、学ぶ福澤の1つの到達点が『文明論之概略』だとすれば、新たな切り口を示したのが『民情一新』ということですね。

西澤

私は教育に関心を持った頃から、ジャーナリズムへの関心も持っていたのではないかと思っています。文久2年にヨーロッパに行ったときに、フランス人のロニにロシア軍が対馬を日本から奪ったと言っているのは本当かと聞かれて、いや、それはただの噂だと言った。すると翌日、ロニが新聞を持ってきて、新聞の記事で全く虚説であることを布告したと言う。その後福澤はロニの新聞仲間に自分を入れてくれないかと頼んでいるんですね。

だから、情報というものが社会のなかで大変重要で、情報によって出来事が左右されていくということは十分理解し、ジャーナリズムというものにも関心を持っていった。ただ、自分の力でできるようになるのが、明治7年の『民間雑誌』(のち『家庭叢談』)までかかったのでしょう。

小室

なるほど。ジャーナリズムへの関心は文久年間からあったけれど、実際に実行に移るのがもっと後だということですね。『民情一新』のライトモチーフにもなっている情報の問題も、文久2年からの関心事だということですね。

家族から社会を変える

小室

『民情一新』の先進性が指摘されましたが、福澤の先進性というと、やはり女性の問題があります。慶應4年段階ではどうだったのでしょうか。

西澤

文久2年に西洋を見てきたとき「西航手帳」に、例えばイギリスは景気が悪くなると売春婦がすごく増える、その売春婦にどういう対策をとったらいいと言われているかを書いていたり、工場に女性がたくさん働いていることも書いているので、自分の周りの武家の女性たちの問題も考えてはいたと思います。

ただ、福澤自身は江戸に出てきた頃から、自分は女性論に関心があったと言っていますが、ちょっと話を盛るところがあるので(笑)。本当に江戸に出てきた二十何歳かで、女性論に関心を持っていたのかなとは思うのです。でも、自分も結婚して子どもが生まれるようになってからは、社会を変えていくには家族のあり方を変えなければいけないとは考えていたでしょう。だから『西洋事情外編』が「人間」から始まり、次が「家族」なのではないかとは思います。

なぜ当時の人々に身近ではない家族像を描いたのかと言えば、社会を変えるために、まずは西洋には日本とは違う家族像があるということを紹介したかったのであろうと思います。

先崎

日本が文明の国家になっていくには、まさに手近なところで、西洋の家族のイメージをバーンとぶつけて啓蒙するということでしょうか。さらに根本には一身独立ということがあったはずで、人が嬉々として活動的に物事を見たり、考えたりするのに、男女の差や年齢は関係なく、社会的なことに関心をもったり、そろばんをやり始めたりすることから始まると考えていたということでしょうか。

西澤

『西洋事情外編』を出したときに、すでに新たな社会体制、国家体制を福澤は目指していたのかといえば、今はまだ私は確信が持てないのです。

例えば福澤英之助にあてた手紙を読んでいくと、日本の国で生まれたからには、その体制を守っていかなければいけないというようなことを言っています。また、「長州再征に関する建白書」(慶應2年)も長州藩が直接外国と接触するのは、国の外交権を無視しているわけだから、幕府が主権者であることをはっきりさせる建白書のように読めると思っています。

ラディカリズムと現実主義

芳賀

僕は福澤の徳川文明に対する見方は非常におもしろいと思います。『学問のすゝめ』でも、『文明論之概略』『西洋事情』にしても、非常にうまい文章でしょう。人の感情を逆撫でさせておいて、「楠公権助論」のようなことをやる。気難しい顔をして偉そうにしている学者は、自分の玄関に死骸をぶら下げているようなものだとか、ああいう言い方をして、人の常識を逆撫でし、わざとイライラさせてやがてわが陣営に誘い込む。

あれは江戸文学、平賀源内の戯作のやり方なんです。『文明論之概略』の中でも、福澤は江戸の戯作者は、十返舎一九にしても平賀源内にしても大田南畝にしても、封建制の中で自分の意見、思想を自由に伸ばすことができずに、憤慨しながらつぶやいていたんだと言う。

そう言いながらも、江戸のもの、徳川のものからたっぷり学んでいるんです。中津藩なんか、あんなケチな息苦しい世界と言いながら、しかし、最後は徳川封建社会の中にあった知足安分、「足るを知り分に安んず」が民衆にとって儒教が教えていた一番大事な知恵だと、福澤もだんだん理解していくんですね。

『文明論之概略』では、知足安分というのは、もうメンタルスレーブの典型的なものの考え方だと真っ向からやっつけているけど、だんだんそれが大事だと悟って、近代化、文明開化、西洋化の一本筋で行くのではなく広がりが出てくる。

人間としての分を忘れ、足るを忘れることが近代化だった。しょっちゅう忙しくして、上へ上へと望みながら動いていくのが、今日なおわれわれをせき立てるモダーン・マインド、近代の精神というものでしょう。福澤も前半はそれでひたすらやってきた。

しかし、やがて人間はもうちょっと複雑だ、江戸の人間は大変な知恵をもっていた、道徳と自然科学を引き離すことをしなかった、ああいうところを見直すべきだと悟ってくる。そこまで含めて福澤というのは、やっぱり度量が大きいのではないか。

小室

「知足安分」ということで言うならば、おそらく福澤は、原理的には非常にラディカルなものを内に秘めていながら、人に何か薦めるときにはあまり非現実的なことを言って、その人が不幸になってしまうようなことは避けるんです。だから学生たちにも学を極めろではなく、一応学業を終えて仕事があったらさっさと就け、と現実的なアドバイスをする。「知足安分」のすすめとも言えます。

典型的には女性論で、原理的には男女関係の理想はフリーラブ(自由恋愛)だと考えていますが、現実にそんなことをやったら社会的に破綻してしまうし、不幸になるだけだと言う。そういう原理的なラディカリズムと、現実主義的な人々への教訓を使い分けますね。

芳賀

使い分けるというか、彼の中では必ずしも矛盾していないんだな。

先崎

1つ大変おもしろいなと思ったのは、福澤諭吉が新政府の人たちと『時事新報』をつくるにあたって話したときに、思っていたよりも彼はラディカルではなくて、話の分かるやつだみたいなことを新政府側の人間が言っているのです。これをかなりの前の研究だと、福澤が保守化したとか、官の側に近づいたと言われているのですが、僕はそれは見方がおかしいと思う。

彼は『民情一新』の中でも、文明というのは大海のようなもので、小さな川の流れを全部吸収しても、自分の本質は変わらない。だから貴族制であっても、共和制であっても何でも入れることこそが文明だと言っている。この大きさというのが福澤の人間性の本質みたいなものを表している気がして、かなり自由闊達なエネルギッシュな男だったと思うのです。

だから保守化したのでもなければ、官とくっ付いたのでもない。そこで福澤が言っているのは、日本という国を植民地にされないようにうまく回していくということが一番大事ということで、そうすると、5年前と違うことを言っているように見えても、その時々において国がうまく立ち上がっていくことに必要でないものであれば叩くという態度は、常に一貫しているんです。

「皇室にずっとこだわっているのはよくない」と書いているときと、「やはり皇室は精神の安定に必要だ」というのは、言葉だけ見れば違うけれど、西南戦争などで混乱した日本が乗っ取られないことを目指してやっているという意味では一貫している。

「慶應義塾」に込めた決意

小室

最後に皆さんに一言ずつ、福澤の人生の中で慶應4年をどのようにとらえるのかということをお話しいただけたらと思います。

芳賀

徳川幕府の外国方に雇われていた一介の学者から日本国民に対するオピニオンリーダーに飛躍して展開していく、そのちょうど蝶番(ちょうつがい)の年になるのがこの慶應4年なのでしょう。慶應義塾を芝新銭座に開いていろいろオーソドックスな教育活動をやる。それと重なって大事な時期だったのではないか。

それは幕末までの徳川日本と明治になってからの「万機公論に決すべし」という5箇条の御誓文の日本に応じた新しい福澤の姿だったのでしょう。

先崎

明治5年の『学問のすゝめ』から、普通、人は福澤に入っていくのですが、今日あらためて思ったのは、ある意味で、全ての出発点は慶應4年前後にあるなと感じます。上野で彰義隊が戦っていて、どっちに行くかという雑然とした中で自分の肩書を捨てていくわけですよね。どっちにも付かないというこの決意というのは、本人の中に相当の思いがなければできないことのはずで、やはりそれがあったからこそ、食うためということも含めて啓蒙活動が進んでいく。

やはりこの慶應4年というのは、その後の僕たちが知っている福澤の全ての始まりなんだという感じがあらためてしました。

芳賀

芝新銭座に慶應義塾が移ったということは慶應義塾の歴史にとっても非常に決定的ですよね。鉄砲洲にいるときは間借りで、まだ私塾という感じだった。そのことも大きいね。

西澤

慶應4年4月という時期に、それまでは蘭学塾とか福澤塾と呼ばれていた自分の塾になぜ名前を付けようと考えたのか。

命名について述べた「慶應義塾之記」で、時系列に洋学の歴史を呼び起こし、様々な先人の段階があるからこそ、自分たちの今があるんだと言う。それまでも社会を変えていかなければいけないとか、現在の体制では駄目だということは分かってきていたけれど、自分がそれに対して何ができるかということが明確になっていく。まず学校をつくって、とにかく人材を育成していこうということですね。ここで一大決意をして、355両という大枚を払って土地を買い、名前も慶應義塾にしたと思います。

「仮に」とは書いていますが、慶應という年号を付けたということは、やはり自分たちも1つの時代をつくるんだ、これまで先人たちが積み上げてきたものを自分たちがもう一段高くして、次の時代に渡すのだという決意が表れているのではないかと思います。

小室

確かに、今日うかがったように、慶應4年は、その前後20年の「蝶番」のような年であり、その後の「すべての出発点」であり、新しい方向へ向かう「一大決意」の時だったのですね。

しかも、その時を生徒たちと共にしていた。教師も生徒もなく、どちらも教師でもあるし門人でもあった。

福澤自身が次々と新たな英書を読んで、自分自身が学んで興奮している。そこに生徒たちを巻き込んで、彼らと知の興奮を共有していた。そういう点では非常に幸福な教育が行われた時期でもあったのだと思います。

今日は有り難うございました。

(2018年3月16日収録)

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。