登場者プロフィール
有山 輝雄(ありやま てるお)
メディア史研究者1967年東京大学文学部国史学科卒業。72年同大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。専門は近代日本メディア史。成城大学教授、東京経済大学教授等を歴任。著書に『近代日本メディア史Ⅰ・Ⅱ』等。
有山 輝雄(ありやま てるお)
メディア史研究者1967年東京大学文学部国史学科卒業。72年同大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。専門は近代日本メディア史。成城大学教授、東京経済大学教授等を歴任。著書に『近代日本メディア史Ⅰ・Ⅱ』等。
對馬 好一(つしま よしかず)
その他 : 元産経新聞記者その他 : 元サンケイ総合印刷代表取締役社長法学部 卒業塾員(1976政)。大学卒業後、産経新聞社入社。政治部記者、労組委員長、首相官邸キャップ、政治部次長等を歴任。資金部長、札幌支局長、産経新聞印刷取締役も務める。現在、三田体育会会長。
對馬 好一(つしま よしかず)
その他 : 元産経新聞記者その他 : 元サンケイ総合印刷代表取締役社長法学部 卒業塾員(1976政)。大学卒業後、産経新聞社入社。政治部記者、労組委員長、首相官邸キャップ、政治部次長等を歴任。資金部長、札幌支局長、産経新聞印刷取締役も務める。現在、三田体育会会長。
尾高 泉(おだか いずみ)
その他 : 元日本新聞博物館館長その他 : 日本NIE学会常任理事法学部 卒業塾員(1987法)。大学卒業後、日本新聞協会入職。企画開発部長、新聞教育文化部長、日本新聞博物館館長、事務局次長を務め、2024年夏定年退職。現在は「教育とメディア」分野でアドバイザー等を務める。
尾高 泉(おだか いずみ)
その他 : 元日本新聞博物館館長その他 : 日本NIE学会常任理事法学部 卒業塾員(1987法)。大学卒業後、日本新聞協会入職。企画開発部長、新聞教育文化部長、日本新聞博物館館長、事務局次長を務め、2024年夏定年退職。現在は「教育とメディア」分野でアドバイザー等を務める。
松尾 理也(まつお みちや)
その他 : 大阪芸術大学短期大学部メディア・芸術学科教授文学部 卒業塾員(1988文)。大学卒業後、産経新聞社入社。ニューヨーク支局長等を歴任。2021年京都大学大学院教育学研究科修了。博士(教育学)。専門はメディア史、ジャーナリズム論。著書に『大阪時事新報の研究』等。
松尾 理也(まつお みちや)
その他 : 大阪芸術大学短期大学部メディア・芸術学科教授文学部 卒業塾員(1988文)。大学卒業後、産経新聞社入社。ニューヨーク支局長等を歴任。2021年京都大学大学院教育学研究科修了。博士(教育学)。専門はメディア史、ジャーナリズム論。著書に『大阪時事新報の研究』等。
都倉 武之(司会)(とくら たけゆき)
研究所・センター 福澤研究センター教授塾員(2002政、07法博)。福澤諭吉記念慶應義塾史展示館副館長。慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所所員。25年より現職。専門は近代日本政治史。著書に『メディアとしての福澤諭吉』(近刊)。
都倉 武之(司会)(とくら たけゆき)
研究所・センター 福澤研究センター教授塾員(2002政、07法博)。福澤諭吉記念慶應義塾史展示館副館長。慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所所員。25年より現職。専門は近代日本政治史。著書に『メディアとしての福澤諭吉』(近刊)。
2025/04/07
『時事新報』とのかかわり
実際に新聞は発行していなかったものの、約70年にわたり産経新聞社に経営を委任した形で存続していた時事新報社が、昨年解散を決議し、本年清算を完了しました。
福澤諭吉が1882(明治15)年に創刊した『時事新報』は、戦前一度1936(昭和11)年に解散、戦後復刊しますが、1955(昭和30)年に産経新聞東京版と合同し(題号を一時『産経時事』とする)、その後、題号から"時事"の字が消えてからも株式会社組織が長く存続していました。今日はこの機会に、時事新報が日本の新聞ジャーナリズムに果たした役割をあらためて考えていきたいと思います。
まず最初に、「私と『時事新報』」ということで、皆さんそれぞれと時事新報とのかかわりを伺えればと思います。對馬さんは長く産経の記者でいらして、さらに、時事新報社の最後の処理に当たって監査役をされていた上に、御先祖が、時事新報にかかわっていらっしゃったということですね。
都倉さんが冒頭言われた通り、このたび時事新報社が解散ということになりました。私は時事新報社の最後の監査役でこの2月の最後の株主総会まで務めました。営業していない会社では商標権を維持できないことから、『時事新報』などの商標権は産業経済新聞社(産経新聞社)に譲渡し、今後、産経新聞社の一事業として『産経新聞』の紙面などに活用することになります。解散のもう1つの理由としては、社会情勢の変化で、株主である上場企業が政策保有株を手放す流れが加速していたこともあります。
私は産経新聞の記者でしたが、曾祖父の對馬健之助が明治元年、正確に言うと慶応4年1月生まれで17歳頃に青森県南津軽郡富木舘村(現藤崎町)というところから上京し、慶應義塾に入ったんですね。そして2年ぐらい福澤先生のもとで勉強し、卒業後、時事新報に入社します。時事新報社ができて2、3年くらいの頃です。
その後、明治31年に大隈内閣の農商務相の秘書官を兼務しますが、時事新報の記者を続けました。編集局長もやったらしく、さらに弟の對馬機(き)も編集局長をやっています。
健之助は、それから『大阪毎日(大毎)』に移ります。時事新報から大阪毎日に行った記者はたくさんいるとのことです。そして、健之助の三男の對馬好武(よしたけ)が毎日新聞の経済部長や毎日映画社の社長をやった記者になるのです。そのような縁があるものですから、最後に監査役を頼まれたのかもしれません。
実はその前に、私はサンケイ総合印刷という会社の社長をやったのですが、その前身の時事印刷所という会社が、産経時事の最後の印刷をした会社で時事新報も印刷していました。だから、いろいろな縁が実はあります。
単に御先祖が、ということ以上にいろいろな御縁があるのですね。
では、続いて松尾さんお願いします。
私は慶應大学文学部卒業後、産経新聞大阪本社に入りました。「でもしか記者」などという言葉がありますが、私もそうでした。東京にあこがれて兵庫県から上京したのですが、事情があって「帰ってこい」ということになり、「記者にでもなるか」と産経新聞大阪本社に入社しました。つまり、出発からして一歩脇道に逸れたところから始まったような感じでした。
脇道というのは、東京に対する大阪とか、あるいは「朝毎読」に対する産経という意味です。メインストリームからは、一歩退いている。その位置取りが私のその後の人生や、新聞社を退職しての研究の視点にも投影されているように感じています。
産経時代、自分の働いている新聞が時事新報の流れを汲んでいるということを何となく誇りに感じていたのですが、といっても実態は何も知りませんでした。
『大阪時事新報』のことも知らなかったんですが、その後、私は産経を辞めて研究者を志し、大阪時事を題材に論文を書きました。そして、それを見た古巣の大阪産経から、創業者の前田久吉について連載をしてくれないかとの依頼を受け、それをまとめて『前田久吉、産経新聞と東京タワーを作った大阪人』という本を上梓しました。この前田久吉も時事新報にとって重要な関係者で、1936年に時事と『東京日日新聞』の合同を行った人物です。
大阪時事新報、あるいは前田久吉の系譜をたどる中で、研究のキーワードとしてしばしば使わせていただいたのが「二流」、あるいは「負け組」という言葉でした。
「二流とは何事だ」とお叱りを受けるかもしれませんが、二流というのは一流、つまり売れているというわけではないけれど品格は持っているという理解です。あえてそこから敷衍して、「自由の感覚」みたいな含意でも私は使っています。
福澤自身も明治の官尊民卑の社会においては、権力側あるいはトップランナーというわけではなく、やはり在野の存在であり、二流と言えないこともないだろうと思います。挑戦者であり、アンチ・エスタブリッシュメントだった。そこから生まれた自由さ、身軽さ、あるいは反骨精神に非常に惹かれるところがありますし、時事新報あるいは大阪時事新報の本質はそこにあった、あるいはあるべきだったと私は考えています。
時事新報から拡がる人脈
日本のメディアの歴史においてのある意味「二流だった誇り」ということですね。「立ち位置」をどう評価するかは、時事新報にとっては非常に重要なことだと思います。
では、尾高さんはいかがですか。
私は法学部法律学科で小林節先生の憲法のゼミに学び、民主主義を維持する報道の自由を守りたいと大真面目に考え、日本新聞協会事務局に入りました。2017年秋から6年半、新聞博物館の館長を務め、昨夏、定年退職し、「教育とメディア」をつなぐ活動を各方面の方々と始めたところです。
新聞博物館の所蔵する時事新報の資料は、本紙・号外を除いても、双六、地図、書画、漫画等の附録、写真、写真ニュース、宣伝用のチラシ・看板・半被(はっぴ)、主催事業の入場券など890件あり、このほか板倉卓造関連が70件あります。
自由民権運動の激化で新聞が政党機関紙化するなか、独立不羈を掲げて今の報道新聞の形を作ったことや、存立基盤を経済活動に求め、新聞広告分野を推進した功績は大きい。明治、大正、昭和を通じて最大の指導的言論機関だったことや事業規模の大きさを知って関心を持ち、福澤諭吉記念文明塾17期でも学びました。
2019年に改修した常設展示には、明治15年の創刊号のほか、同38年の日露戦争号外(「大阪時事」)、大正10年の伊藤正徳、後藤武男による「日英同盟廃棄と四国協定成立」の国際的スクープ、附録の日曜別冊「時事漫画」(同11年)も展示しています。
戦前5大紙の中で、時事新報の発行はなくなったとはいえ、他紙の関係者とのつながりが作用していることに注目してきました。例えば、東京日日新聞から大毎、毎日新聞への系譜には、時事新報の大相撲優勝力士写真掲額、日本音楽コンクールが継承され、大毎を全国紙にした本山彦一は、時事新報にいました。
また、『婦人之友』と自由学園を創った羽仁もと子・吉一夫妻は、報知新聞の記者でしたが、もと子の弟の松岡正男は、慶應蹴球部創設期のメンバーで大毎の編集顧問から時事新報会長になりました。1907年当時、吉一と共に青年のための教養雑誌『青年之友』を刊行しています。
ジャパンタイムズの創刊120周年企画展も新聞博物館で開きました。同紙は、福澤の縁戚・山田季治らが、福澤の助言を受けて創った新聞です。山田らの故郷である鳥取大学から、視察をお受けしたこともあります。
時事新報の4つの区分
単に新聞界における福澤、時事新報の意味だけではなく、その存在がどう他に影響していったかというところも、やはり面白いところだと思います。
では、次に有山さんお願いします。
私が時事新報に注目しているのは、福澤らが時事新報について自覚的に高級紙、いわゆるクオリティ・ペーパーをつくろうとしたと思うからです。福澤や慶應の関係者が「クオリティ・ペーパー」という言葉を使ったかどうかはわかりませんが、そういう意識があったことは明らかで、先ほどの松尾さんの言い方をすると、二流紙は朝日、毎日なのです(笑)。
クオリティ・ペーパーは『時事新報』であり、陸羯南の新聞『日本』であり、徳富蘇峰の『国民新聞』です。これら一流の新聞はステータスも高く、社会からも尊敬されていた。
しかも、時事新報は、高級な新聞としてある程度まで成功した。少なくとも1930年代まで高級な新聞として持続できた。それは非常に稀なことで、『日本』は、日露戦争後には売却されてしまいます。
あるいは、蘇峰の国民新聞は、日露戦争後、「これからは量の時代に入った」といち早く転向し、大衆的な通俗な新聞になった。高級な新聞としては維持できなかったのですね。
その後、一時的に東京日日新聞が加藤高明の所有になった時、イギリスの『ザ・タイムズ』を模倣したと言われている。でも、やはりそれも成功しなくて東京日日は毎日新聞の所有になる。ほとんどが失敗してしまうのです。
ところが、時事新報だけはその後も一応、高級な新聞として維持できていた。日本の社会でなぜイギリスにあるようなクオリティ・ペーパーが成立しなかったのかは、日本の社会の構造や政治の仕組み、政治意識に非常に関わってくる問題だと思いますが、そのことを考える上で時事新報は非常に重要なのです。
少し、時事新報の戦前のあり方について時期を分けて説明すると、私は大きく考えて、昭和11(1936)年に解散し、題号が東京日日に預けられるまで、4つぐらいに時期区分できると思います。
1つは、創刊から福澤が健在の時期ですね。この間にあった重要なことはもちろん日清戦争です。2番目の時期は、福澤没(1901年)後から日露戦争後、1905年ぐらいまで。この時期の時事新報は経営的にも安定し、社会的評価も非常に高い。
3つ目の時期が日露戦争後から関東大震災(1923年)で、ほぼ大正時代に当たりますが、いわゆる社会が、「民衆的傾向」と言われる時期に入ってくる。そこでそれまでは高いプレステージにあった時事新報は相対化されてしまうのですね。そして、朝日と毎日が膨張してくる。しかもその時期に時事は大阪に進出する。大阪時事新報は1905年創刊ですね。
4番目の時期は、関東大震災後です。大震災で決定的な打撃を受け、その後は朝日、毎日の量的拡大に対抗することができない。値引き、景品付き販売、あるいは非売といって販売店に自分たちの新聞以外の新聞を売らせないようにするという販売方法が大規模に行われる。この結果、時事の経営は悪化の一途をたどっていき、最後に解散となるわけです。
「国民」の概念形成と「階層」
私は福澤自身が高級新聞をつくろうとしたのだと思います。高い購読料でページが厚い。経済情報が非常に充実していて難解な社説が載っている。1890(明治23)年の購読料は時事新報は50銭です。国民新聞や日本、東京日日は30銭、東京朝日は25銭で半額です。しかも東京朝日などはほとんど値引きしたと言われている。明らかに購読者が違う。ということは時事は特定の階層しか読まない、他の階層の人は読めない高級な新聞だと思うのです。
高級新聞というのは一種の階層メディアなので、誰でも読むものではなく、特定の階層だけが読みます。そして、時事新報の言論や報道の中核的な概念は「国民」というものです。改めて私が言うことではないですが、福澤諭吉の重要なテーマは、近代国民国家を日本につくるということですね。それは広い意味ではナショナリズムを形成すること。その場合の「国民」は、現実にある国民ではなく、一種の理念なのです。そういう国民こそ日本を担うべきだという理念で、量的な存在ではない。
同じ時期の日本と国民新聞も、皆「国民」という概念を用いています。国民新聞は題字がまさにそうだし、日本は「自分たちが国民主義だ」と言っていました。「国民」というものが非常に重要な概念としてあって、その中心にいたのが福澤なのです。
ただ、ここでちょっと考えないといけないことは、階層メディアとナショナリズムは、矛盾をはらんでいるのです。国民という概念には広く日本国にいる全国民だという意味が含まれている。ところが一方で階層がある。この時期に天下国家を論じるのは特定階層しかいないわけです。福澤も、特定の階層を相手に「国民だ」と唱えて、自分たちの言論や報道を展開していったのだと思います。
福島県の梁川(やながわ)という小さな町の資料を見ると、1900(明治33)年前後、新聞の普及率は20%ぐらい。その中で、定期購読者は5%ぐらいで、1万人以下の小さい町ですが51世帯しかない。この町は非常に豊かな町で、蚕を扱っている先進地域です。しかし、この時期にこの町で時事新報を読んでいるのは17世帯でした。
だから、新聞というのは経済的にも恵まれているし、時間の余裕もある人たちが読んでいる。この17世帯の人たちが梁川という町の事実上の社会的、経済的、文化的リーダーで、そういう時事新報を読んでいる社会階層が、多分福澤の目指している階層でもあったのだろうと思います。
高級紙としての時事の衰退
ところが、日清戦争から日露戦争の時期に入ってくると、『萬朝報』と『二六新報』が三面記事を売り物にして、スキャンダラスなことを書いてくる。値段が安くて萬朝報は1枚1銭しかしない。月極でも25銭です。それが社会面記事を売り物にして、部数を急速に拡大します。
ただ、この時期の時事新報は明らかに独自性を持っていて、自分たちの新聞はそれとは違う、新聞の理想は自分たちの側にあると考えている。同時期の日本や国民新聞もそうです。福澤はもう亡くなっていましたが、陸羯南は、萬朝報を「新聞商だ」と言っている。要するに、新聞を商売にしていると、軽蔑すべき言葉として使っている。
ところが、日露戦争後、また高級紙は大きく動揺せざるを得なくなる。それは、その時期に民衆的傾向が始まり、産業化、都市化が進んで、読者の区別が曖昧になってきた。そして、生活が困っているといった不平や不満が政治の舞台の表面に噴出し、それが二六新報や萬朝報にとってはエネルギーとなる。広く言うと、民衆的なナショナリズムの時代に入った。
そうなってくると新聞は報道競争の中で量的な競争になってしまう。この時期に『日本』は立ちいかなくなってしまう。陸羯南は最後まで「三面記事は載せたくない」と言っていましたが、そんな時代はとっくに終わっているのです。国民新聞も転向せざるをえなくなる。しかも、その後の大きな課題は普通選挙で、「国民」という概念はだんだん量的な概念になってくるのです。
時事新報もそれに段々巻き込まれたのだと思います。経営的に考えなくてはならないのは、この時に時事新報は、国民新聞や日本とは違い、大阪に進出し、むしろ経営拡大を図ったということです。
しかし、政治的平準化は起きても社会の平準化はそこまで起きていなかった。福島の梁川では、この時期の時事新報の購読世帯は33世帯から36世帯です。1929(昭和4)年の世界不況が決定的にこの町に影響を与えるまではこの町の指導階層は時事新報を購読していた。だから、まだ安定はしていたと思うのですが、時事新報の大阪進出は非常に冒険でした。
そして関東大震災によって東京中が焼けてしまい、新聞社の販売・広告の機構をつくり直さなくてはならなくなった。読者も広告主も新たに獲得しなければいけない。結局、量的な拡張競争になり、朝日、毎日の独占協定に時事新報は狙い撃ちされる。いわゆる非売ですね。時事新報は読者がいるのに、代わりに朝日や毎日を入れるという非常に強引で、モラルも全くない競争になり負けてしまう。
しかし、一面、時事新報の側から考えてみると、時事新報がほかの新聞に取って代わられるような新聞になってしまっていたということでもあります。
それまでは、時事新報と他の朝日、毎日は質的に異なっていますから、取り替えることはできない。経済欄の記事の充実、相場記事の速報性、外国のニュースの正確さ。そうしたものに朝日と毎日は対抗できない。しかし、震災後はもう、朝日と毎日も外国に特派員を送るし、速報態勢もとれるようになる。そこに販売競争が起きると、時事新報が資本として負けざるを得ない状況になった。
梁川という町も時事新報の読者は1人もいなくなります。この町の資料を残してくれていた阿部回春堂の阿部長兵衛さんという方の新聞販売店が朝日の側につき、完全に時事新報の販売をやめてしまいました。時事新報でなくてはならない理由がなくなったのです。そうなると、時事新報は高級新聞として維持することはできなくなる。
その後は、国民精神総動員で、これはまさに量的なものとして国民を捉えて国民を均質化してしまいます。キー概念としての「国民」も福澤が目指したものから形骸化して量的な存在になっていく。近代日本のメディア史として考えてみた時に、時事新報という新聞の位置づけというのは、「国民」という概念の変遷の問題と、社会の変化が非常に集約的に現れているのではないかと思っています。
福澤が想定する読者とは?
「国民をつくる」という福澤の問題意識のもとに、福澤は高級紙をつくるという意識があったと。そして、時事新報は特定階層に向けられていたのだという見方かと思いますが、この点いかがでしょうか。
私の見方は少し違います。福澤の目指していた新聞は、もちろん品位は譲りませんが、福澤は「高級」紙をつくろうとは思っていないと思いますし、特定階層に向けているというより、逆を目指そうとしていたように理解しています。
例えば、インテリ向けで政論を重視する大(おお)新聞と、庶民向けのタブロイド紙である小(こ)新聞と、明治の初期には明確に分かれていますが、時事新報はいわば「中新聞」を目指す。小新聞的な読者も巻き込み、引き上げようという仕掛けをつくっていると感じられます。
1つの例ですが、明治23年に国会が開設される時、世の中は総選挙だ、帝国議会開院だと政治に熱狂するのですが、福澤はその年、もちろん政治のことも論じますが、一方で政治と全然関係ない話題を一生懸命報道しています。それは滑稽なくらいです。相撲や博覧会の出品物の人気投票をやってみたり、歌舞伎の劇評を募集してみたり、あるいは募金活動をやってみたりと、とにかく政治だけが世の中ではないよ、と一生懸命政治を相対化しようとする。政治のことを載せているほうがよほど売れるはずなのに、あえて外そうとする。
他にも時事新報は、他に先駆けてお料理コーナーをつくってみたり、アメリカン・ジョークのコーナーをつくってってみたり、尾高さんも挙げられた「漫画」も、時事新報は政治風刺でない漫画を重視するところに特徴がある。社会の上層の特定の人々だけではなく、皆を巻き込んで「国民」をつくっていくという意識が、むしろ時事新報の特徴であるというのが私の考えです。
いわゆる啓蒙で社会をつくっていくという考え方ですね。福澤諭吉というのは、広く健全な社会をつくらなければその上に政治はうまく乗っからないという考え方ですね。
ただ、やはり事実としては時事新報を読んでいた層は多くはいなかった。一方で福澤の考えているナショナリズムは、ある意味開かれたナショナリズムで「自分たちだけがナショナリズムの担い手だよ」という考え方ではない。それは確かにそうですね。
そもそも、なぜ時事新報を創刊しようと思ったか、というところから考えると、明治7(1874)年にspeechという言葉を「演説」と訳して三田演説会を始め、翌年演説館をつくった。その動機が何かということですよね。
それはやはり自分の啓蒙思想を広めるためだと思います。演説館は200人ぐらいしか入れない。200人の前で演説をいくらしても、自分の考え方は広まっていかない。それをどうやって広めるか。それで、7、8年後に新聞という手段で印刷したものを広めようというのが、時事新報の創刊の動機だと理解しています。
広く啓蒙していくということですね。福澤は多分「大新聞」という言葉は使わなかったと思いますし、そもそも、大新聞の人は自分たちのことを「大新聞」とはあまり言わない。
ただ、福澤がこの時期直面しているのは、自由民権運動の末期でもあるのです。その時期に、一部の自由民権の新聞が小新聞を出し、大きなイラストや、漫画・劇画みたいなものや、連載小説などを用いた、非常に過激な啓蒙の仕方も、当時あったのです。
それに対して福澤は、「いや、これと自分の考えているのは違う」と。その意味で時事新報は高級紙であって、確かに漫画にも力を入れますが、やはり区別しなくてはいけない問題であると思います。
そういう小新聞の非常に急進的で過激な言葉遣いの系譜は、二六新報や萬朝報に引き継がれていくわけですが、それとは違う自分たちの啓蒙をつくろうと、そういうスタイルをつくるというやり方だったと思います。
福澤は、やはり啓蒙するためにレベルの高い議論をしていこうということを言っている。だけど、それだけでは読者はつかないから、今、都倉さんが言われたような漫画や料理など、要するに、今の新聞で言えば社会面とか文化面、芸能面をつくった。そのように今でいう総合紙の形をつくったほうが国民を読者として引っ張ることができるのではないか、という発想が福澤にはあったと思います。
多様な情報を提供するというモデル
その点は、他の新聞との比較においてはいかがですか。
新聞博物館では、明治初期に、郵便報知や朝野など漢文調で政治的主張を展開した「大新聞」と、読売、朝日など庶民向けの「小新聞」があったことを紹介します。その上で、「独立不羈」を掲げた時事新報登場後、新聞が、政党機関紙から報道新聞に移っていったことを伝えています。
現代のSNSによるフィルターバブルの言論環境を考えれば、同じ考えを支持する熱狂的な読者からだけの購読料基盤ではなく、購読料と広告収入の2本立てで多事争論、両論併記の媒体経営を支えようとしたことは、来館者にも理解しやすいように感じました。
また、都倉さんが「皆を巻き込む」話をされたことにも関連しますが、政治・経済・社会の報道(ジャーナリズム)だけでなく、広告(コマーシャリズム)からも、様々な社会の動き、生活情報を人々が知りたいという欲求があっただろうし、それに応えていた。
媒体経営としても、人々に硬軟取り混ぜ幅広い情報を伝えるという意味でも、その後の新聞社ビジネスモデルや役割をつくったと言えると思います。SNSの情報環境の話をしながら、「多事争論」の場が必要でしょうという展示解説をすると、来館者は納得してくれました。
福澤という人はプライドも高いので、やり始めたからには、「これが新聞のやり方なんだ」というモデルを示そうと思っていたのだと思います。その意味でも経営をきちんと考え、経営が安定するから言論も品位を保てる。持続可能な新聞の良い循環を早く提示していた。その着目はやはり非常に画期的だったのかなと思います。
大衆の時代と大阪時事新報
大阪時事新報に触れる中で、時事新報は「二流」なのかという問題が出てきましたけれど、その点について松尾さん、いかがですか。
有山さんのご発言はなるほどなと思いながらうかがっていました。私は二流、一流という言葉を、ちょっとひっくり返した使い方をしています。
この二流、一流という言葉はどこから引っ張ってきたかというと、昭和戦前期に太田梶太という元朝日新聞記者がやっていた『現代新聞批判』という新聞内報の論評からです。
それによると、「一流」というのはよく売れて支配的な新聞だと。対して、「二流」というのは、品格はあるが売れていない新聞を指す。そして、「三流」というのがスキャンダル新聞なのだというわけです。例えば花柳界の新聞みたいなもので、むしろ経営はいい。二流というのは苦しい。ただ、逆に言えば、そこに一流にも三流にもない品格や自由さ、誇りを見出すことも可能ではないか。
有山さんの時期区分に従えば、大阪時事は第2期から始まったわけですよね。私の研究も第2期の福澤捨次郎のほうから始めているわけです。
有山さんは「国民」という言葉をキーワードとして出されましたが、もう1つ、恐らくそれと重なりながら違う言葉として、関東大震災あたりから「大衆」という言葉が出てきて「大衆社会」というものが大正末期に立ち上がってきた。そういうところに福澤諭吉の理想がぶつかって苦しんでいく。その道筋は、私が研究した大阪時事新報の軌跡と重なっているようにも思えます。それをあえて「二流」という言葉、あるいは「負け組」という言葉で表現している部分もあります。
しかし、大阪時事新報も福澤精神を忘れてしまったわけではない。忘れてしまったら二流でもないので、その栄光と没落は、そこにつながっていくのかなと。福澤諭吉はもういなかったわけですが、その精神が最後まであったからこそ、いろいろな苦闘があったと考えています。
前田久吉と戦後の復活
ただ、昭和11(1936)年というタイミングで一旦「時事新報」が解散し、それで、東京日日(毎日)が高石真五郎などの関係もあって題号を預かった形になっていますが、事実上廃刊になっていた。それで戦争を経験しなかったことも、時事新報の強みと言えなくもない。だからこそ戦後、戦争の時代を払拭して新しい時代に時事新報復活ということに、なってくるのだと思うのです。
その点、前田久吉の時事新報再興ということの意図は、どういうところにあったのですか。
前田久吉は、おそらく徹底的な合理主義者でした。自分の利益というものを第一に考えて、回り道はしても損を進んでするような人ではなかった。戦前に、時事再建のために東京に乗り込んだことについても、小林一三、高石真五郎に頼まれてやむなく、みたいに言うわけですが、実際のところは、東京に旗を立てるという野心が根底にあったのではないかと私は思います。
その後、戦後に時事を復刊させたのも、やはり新聞の用紙割当を、時事のネームバリューを使って分捕るという功利主義的な動機が根底にあったのでしょう。
けれども、それだけではないところが前田久吉で、東京、中央、あるいは慶應人脈みたいなところへの敬慕の念というのはおそらくあった。板倉卓造との関係が非常に象徴的だと思うのですが、前田は、板倉が亡くなってからの新聞協会の聞き取りでも、「むずかしいんだな」というように結構悪口を言っている。一方、板倉も、「商人ですからね。何かの頭がある人じゃなくっちゃ」みたいなことを言っている。
けれども実際は、前田は最終的に昭和30年に時事が合同して以降も産経の主筆として板倉を遇するし、一方で板倉は、前田ができなかった大手町の土地の払い下げを、吉田茂に仲介してもらうことによって実現させる。
今苦しいフジ・メディア・ホールディングスの中でも、サンケイビルは収益の一番の中核であるわけです。全く商売気がなかった板倉卓造がその基盤をつくったというのは、歴史として面白いし、それを奇跡的な相互理解というかリスペクトの実現ととらえることも可能ではないでしょうか。
福澤精神は継承されてきたか
戦後の時事新報は全然研究されていませんし、どういう立ち位置だったのかは、共通理解も十分できていない部分がある。やはり戦後の政治・言論空間の中での時事新報はまた1つ、福澤の時代とは違う意味での特徴があったと思います。
對馬さんは、伊藤正徳、板倉卓造等の戦後の時事新報が産経の1つの源流に位置していることが、今の産経の性格にどのようにつながっているとお考えでしょうか。
戦後に行く前ですが、昭和4年ぐらいから昭和恐慌の中で時事の経営が急激に悪くなったのですね。その時、門野幾之進が会長を務めたのですが、門野は慶應の塾長代理をやり、交詢社の理事長をやり、福澤の3つの事業を全部引き継いだ人です。この人は実は私の母方の親戚なのです。
その時代になぜ時事が潰れたかというと、硬いことを言っているだけでは経営が成り立たない。だからもちろん漫画や何かもやったわけですが、その傾向が極限化してしまったのが潰れた理由なのではないかという気がします。
だから戦後、前田久吉が復活させた時は、そうではない面をかなり強く打ち出したのだろうと思います。板倉卓造の息子の板倉譲治は三井銀行の社長をやっている。理念先行の人よりも、経営的なことを考える人がいないと戦後経営は成り立たないということで、前田や板倉が出てきたのだろうと思います。
産経新聞ですが、私は昭和51年入社ですけれど、その時はかなり大新聞的な新聞でしたね。「正論」欄をつくってみたり、一時、日本共産党と言論裁判をやってみたり。これは仕掛けられた裁判ですけれども、要するに正論路線、保守的な言論空間をつくっていこうと実験的にやってきた新聞であるし、今の紙面もそうです。
前田はもともとはそういう思想ではないはずですが、そういう新聞をつくらないと福澤精神は継承できないという形でつくってきた。私も40年間記者をやりましたが、同じ姿勢でいましたし、今の記者たちもそう思っているのが産経新聞なのだと思います。
だからそういう意味で、啓蒙思想家である福澤の考え方は、戦後の時事新報あるいは産経新聞にはかなり継承されてきたのではないかなと思っています。
有山さんは、戦後の時事新報をどのように御覧になっていますか。
なかなかきちんと調べていないのですが、戦後の新興紙の大きな流れがありますが、あれが非常によくわからない。要するに、紙の用紙割当の問題やダミー会社ですよね。朝日などもダミーで新聞を出して紙を取ってきて、それを横流しするということもあり、なかなか実態がよくわからない半面、戦争に対する反省もあったことは間違いないので、それで新しい新聞をつくる。そこのところが戦前の系譜を引き継いだのか引き継がないのかよくわからないところです。
福澤のメディアミックス戦略
少し、戦前に戻るのですが、時事新報というのは1920年代に新聞だけでなく、出版などいろいろな事業展開をしていますね。そのことの評価はやはりきちんとすべきではないのかと私は思うのです。福澤の文章にもメディアを使い分けなくてはいけないということを書いているものがあるので、福澤が持っている発想のもとで経営されたことは間違いない。やはり時事新報というのは新聞だけではなく、1つの出版事業としても捉えるという視点が必要です。
徳富蘇峰も国民新聞と民友社という出版事業もやっています。それはいろいろなメディアを使って啓蒙しなくてはならないという考え方で、福澤諭吉の発想を意識している。
先ほど、speechの延長だという話をしましたが、福澤というのは、やはり啓蒙をするためには手段を選ばない人だったのだろうと思います。その1つが時事新報であり、もう1つは慶應義塾であり、さらにもう1つが社交の場である交詢社。慶應義塾も交詢社も含め、さらにどんどんいろいろな枝葉を出していって、自分の考え方を世の中に広めていこうと。そのうちの1つの手段、その柱として新聞を出したのだろうと思うのですね。
福澤は論文の中で、新聞は日常的に毎日発行されるもので、それによって意思が形成される。それを一定のところで月刊雑誌のようなものにまとめた意見を発表して、それによって世論へとつなげる、というようなことも言っていますね。それは私は今風に言うとメディアミックスのようなもので、そういうことも福澤はちゃんと考えている。それは当時では非常に鋭い指摘だったと思います。
だから、たくさんの本を出した。あの時代に、あれだけの本を出した人というのはなかなかいない。メディアを、自分の考え方を広める手段として使った。いろいろな形のメディアをつくらなければという考えが初めからあるのだと思うのです。
新聞がメディアだということをよく認識している。メディアとは要するに何かを啓蒙するために媒介するものなのだという意識を、福澤は一番理解していたのだと思うのですね。
ですから、どういうふうに読まれるかということを念頭に、どういうふうに書くか、ふりがなをつけるのか、平仮名で書くのか、ということに非常に感度の高い人だったというのはありますね。
福澤の言葉で「人民交通」(『民情一新』)という言葉があります。要するに、今風に言えば一種のコミュニケーションであって、受け手、読者を想定し、それに対応して働きかけ、それによって物質的な存在である雑誌、新聞、著書、あるいは演説や広い意味での社交というものをも使い分けるということです。
その中に時事新報を位置づけてみるという視点が、やはり近代日本における時事新報を考える上で重要なポイントかなと思います。
おっしゃったように、新聞というのはその日に一気に日本国中の人の目に触れて、翌日にはもうごみになるというような言い方をしている社説もあります。本にして出版すれば、それは長い年月をかけて人に感化を与えて、染み込んで、人を変えていくのだと。だから、本当の意味で国民をつくっていくというのは出版の仕事なのだというような意味のことを言っていますね。
時事新報が試みた多彩な企画やテーマ
尾高さんは、時事新報のいろいろな企画やテーマにもご関心をお持ちだと伺いました。
新聞博物館では、私の館長時代にも、企画展のたびに時事新報の展示がありました。今回、学芸員の工藤路江さん、菅長佑記さんが確認してくれたので、主なものをご紹介します。
まず漫画。企画展は私の就任前の開催でしたが、先ほども出ていたように、「難しいことを分かりやすく多くの人に伝える」術として、時事新報が米国から日本に紹介した功績があります。
明治23年2月6日付社告で、「caricature」の訳語を「漫画」としたのが日本初出、今や世界の「MANGA」です。日本初の日刊新聞4コマ漫画が、「百貫目の力持」(同7月4日)で福澤の甥、今泉一瓢(いっぴょう)が米国から持って帰ってきたもの。時事新報初のオリジナル4コマ漫画「無限の運動」(同9月27日)は、NHKの「チコちゃんに叱られる」でも紹介されました。その後、北澤楽天を招いて、同35年1月12日に「時事漫画」欄をつくり、それが大正10年に日曜別冊の附録になりました。
前述した「新聞広告」媒体としての成長にいち早く貢献したことも特長です。中上川彦次郎の才覚もあって、特に誇大広告への批判対策として、広告の浄化という功績も果たしたと言われています。有名なのは明治16年10月16日の「商人に告るの文」で、公正中立の報道新聞を支える枠組みとして、正当に新聞広告の効用を訴求する先見性のあるものです。
明治40年3月1日の「創刊25周年記念号」特集紙面は、実業界で成功した福澤の門下生が多く広告を出稿し、日本新聞史上最大の224ページもありました。原紙は収蔵庫に保管していますが、2018年の「明治150年展」では、そっと運んできて現物展示しました。
どうやって配ったのかと思いますね。
現物を見ると、私もそう感じます。戦争報道で言うと、時事新報が休刊する昭和11年に、「時事新報写真ニュース」として、2・26事件後の街の様子などを発行しています。「写真ニュース」は、報道写真に数行の時事解説を付した街メディアで、今のデジタルサイネージみたいなもの。新聞博物館は2019年、各紙が昭和初期に発行した写真ニュースを企画展「戦争と戦後の掲示板」として公開しました。大衆向けなので、国民の戦意を煽った側面も指摘されます。
時事新報の資料は、昭和11年までですが、同盟通信写真部が編集して時事新報が発行したもの。戒厳令下の帝都の様子もあれば、来日したチャップリンが大好物の天ぷらを食べた話も伝えています。
災害報道では、2023年に「関東大震災100年」の企画展で、社屋が焼失した社として紹介しました。震災翌日の午後には、日本タイプライター社の協力で数千枚の号外を手刷り機で刷って配っていたのですね。9月12日付から新たに据え付けた輪転機で4ページの新聞を発行し、安政の江戸大地震の被害や復興に関する論考や風刺漫画を載せ、写真製版も自社でやっていたそうです。三田の慶應義塾校舎内で発行を続けていた。
この大震災では、東京憲兵隊の甘粕正彦大尉らが無政府主義者の大杉栄と妻の伊藤野枝、大杉の甥を殺害する事件が起き、警視庁が陸軍省の指示で事件漏洩を防いだのですが、時事新報は9月25日付で報じています。朝鮮人虐殺についても10月23日付記事で、流言飛語が盛んな中、軍や警察も助長したのではないかと指摘しています。
最後に、2023年の企画展「多様性 メディアが変えたもの、メディアを変えたもの」について。私自身が企画し、いま書籍化も進んでいるのですが、福澤が男女同権を軸に女性の地位向上の重要性を説いた明治18年の社説「日本婦人論」も紹介しました。
いま日本では、企業・団体のDEI宣言や選択的夫婦別姓が話題になっていますが、福澤は、結婚後に男女両方の姓から一部分をとり新しい姓を創ることを提案しました。「夫婦創姓」の福澤直筆の草稿も福澤研究センターから拝借して展示しました。約330点の展示の中で、最も注目を集めたと思います。
福澤は、男性に妻の妊娠、出産の苦労を分かち合うことや、父親の育児、教育参加を求める社説も書いていますよね。早くに父を亡くし、母の家事を手伝い、女系家族で育った福澤は、社会を支える「ケア労働」の意味も理解していたのだと思います。時事新報は、日本で初めて献立欄(「何にしようネ」)をつくった新聞でもあります。
時事新報はやはりメディアがどうあるべきかということに、常に自覚的だったと思います。また言論の面でも、甘粕事件の話がありましたが、要所要所に、やはりこれは言うべきだということを言ったという誇りを持っていた新聞ではあると思うのですね。
面白いのは、石河幹明という福澤諭吉の後を継いだ主筆がいますが、この人が福澤諭吉の全集を大正時代に編纂する時、そこに「福澤先生の教えを守って自分は時事新報をやってきて、だから大逆事件の時にこういう社説を書いたのだ」というのを、福澤全集に「これだけは載せたい」と載せている。
「これだけは自分たちは守っているのだ、これは譲らないのだ」というような誇り、そういう一本通っているものがあるという自覚を持っていたことが時事新報の面白さかなと思います。昭和11年に廃刊する日の社説でも、身売りして今までの筆を枉(ま)げるよりは断然筆を折るのだ、と書いています。
時事新報から学ぶべきもの
最後に「時事新報の現代的な意味」という点を、皆さんに伺いたいと思います。
今から15年か20年前に、時事新報をもう1回復刊しようと、産経新聞社内でも慶應義塾内でも考えたことがあります。当時の産経の社長から、「どんなものができるか考えよう」という話があったのですが、どう考えても今の産経の正論路線と、福澤の時代の時事新報との違いが出てこない。
要するに、何か新しいメディアを福澤流に、時事新報流につくってみようと思っても、今我々がつくっている産経新聞と差別化ができない。それだけ我々産経新聞というのは、時事新報の考え方を継承して紙面づくりをしているのかなと自負しています。
「福澤はこうあるべきだと言った」という、その表現の仕方として、要するにやるべきことを全部、時事新報はやってしまったのではないか。我々後継者から見て思いつかないほど、いろいろなメディアをつくったのが時事新報という会社なのだと。それを超えるものを、このSNSの時代に、どういうメディアを後輩たちはつくっていくか非常に楽しみです。
皆さんのお話を聞いていると、時事新報というものを大阪から眺めると随分違って見えてくるのかなと思いました。
大阪時事新報に、例えば変装潜入取材を得意として「化け込み記者」と呼ばれた下山京子という女性がいたのですが、彼女は女性記者の草分けです。あるいは大正中期に社会部長をやっていた難波英夫という人はほとんど共産主義者で、昭和初期の3・15事件でモスクワまで逃げたという猛者だったり、いろいろな人がいるわけです。
それを福澤精神と言えるかどうかわからないですが、時事新報という器は尋常ならざる多様性というか重層性を持っていて、だから性的にルーズで問題の女と言われた下山京子も、大阪時事だからやれたところがあった。難波英夫が組合の労働争議に肩入れしても、社会正義だと言えば福澤精神だと、いろいろな形で解釈できる。そういう器としての時事新報という側面もあると思います。
強引に現代と結びつけると、恐らくSNSの問題などを考える材料にもなるのではないか。20世紀に入ってマスメディアの社会的責任論が出てきて、それによって表現の自由というのは無制限なものではないのだというメディアの良識みたいなものが出てくる。私も含め、今の新聞記者はそういう中で教育されてきました。
しかし、例えばSNSが猛威をふるったこの前の兵庫県知事選などを見ると、新聞が書かないと、「なぜ書かないのだ」と批判され、「書かない」という良識自体がマイナスになってしまっている。
ここで、もし福澤のような独立不羈のスーパースターがいたら、時事新報という器を駆使してどんなことを書いていただろう、と考えるのは、スーパースターの存在が許容されない現代という時代における1つの思考実験ともなりうるのではないでしょうか。
もともと「新聞」というのはnews の翻訳語ですが、日本は「新聞紙」と「新聞」とが区別できなくなってしまった。私は「新聞はnews なのだから、別に紙に印刷した新聞紙でなくてもいい」と思う。何に載せようがそれはニュースです。
そして新聞社はニュースを生産するわけだから、新聞紙の紙に印刷してニュースを供給しなくてもいい。そういう傾向はもうはっきり出てきた。今まで皆混乱していたけれど、新聞と新聞紙は違うし、新聞社とも違うのだと。ニュースとは何かが逆に見えてくる状況になってきていると思うのですね。
ただ、その時に重要なのは、ではどうやって経営を存立できるのだ、という問題ですよね。今までは購読料、広告料による収入を得ることによってニュースを生産できた。では紙がなくなり、広告もないということになると、非常に厄介な問題で、多分今の新聞の経営者や通信社の幹部が一番困っているのはそういうことですよね。
だから重要なのは、やはり広い意味での言論、報道、ニュースを生産するということと、経営をどう両立するのかという問題だと思うのです。先ほどお話ししたように、日露戦争後に分岐点が1つあった。徳富蘇峰のような人が転向し、『日本』は、自分たちの理念に殉じてしまう。そうではないところを選択したのがやはり時事新報なので、そこを考える上では、やはり時事新報というのは依然として案外現代的な意義があると思います。
時事新報が辿った道は、我々はすでに知ってしまっているわけですが、1つの道を考える上ではやはり重要な材料ではないかと思います。単に過去を、「終わったこと」と見るだけでなく、「埋もれた可能性」というものもあったのではないかと思っています。
SNS時代と「陰弁慶の筆」の戒め
本誌2014年5月号特集「新聞の現在」の座談会に出させていただいたのですが、日刊新聞の総発行部数(新聞協会調べ)は、当時の4,540万部から10年後、2,660万部になりました。
私が深刻だと思うのは、「新聞」以前に、人々が自分好みのSNSから情報を得るようになり、中立な「ニュース」から離れ、ジャーナリズムの役割が過小評価されている現実です。報道機関による電子版の発行やネットニュースへの配信、人々のSNS拡散というデジタル空間の情報流通構造を支えているのは、依然として、新聞・通信社・放送局という報道機関なのに、そのことが知られずに、オールドメディアと揶揄さえされる。
先ほど、福澤のメディアミックスの話もありましたが、現代の報道機関は、動画配信も含めた電子版やポッドキャストなど、形を変えた活動もしています。その意味で、時事新報を基盤に様々なレベルの人向けに、表現方法も変えながら多層的に出版物を出し事業展開した福澤は、「コミュニケーションデザイン」の重要性を理解していた人ですよね。今後の新聞経営にも、その伝統は受け継がれていくと思います。
最後に、「気品と尊厳」について話します。福澤は時事新報記者に、本人を前にしては言えないことを書く「陰弁慶の筆」を戒めました。これを、時事新報の社説部長であった伊藤正徳が取締役退任後、共同通信の初代理事長、新聞協会の初代理事長になった際、同協会の新聞倫理綱領(旧版)の作成にあたり、「人に関する批評は、その人の面前において直接語りうる限度にとどむべきである」と入れて、引き継ぎました。
このことは、1億総メディア化したSNS社会で匿名の誹謗中傷が溢れる言論空間にいる私たち1人1人の戒めとしなければならない。メディアは、言論と気品について考えてもらう努力をする時期だと思います。
また慶應義塾は昨夏、X Dignityセンターを設立し、読売新聞が支援して、AI時代に「人間の『尊厳』のあり方」について模索する活動が始まっていますよね。ここにも、時事新報の言論・事業の流れを感じます。
お話の中でも出てきましたが、新聞はどうあるべきなのかということに対して、福澤諭吉が常に自覚的であり、それが時事新報の中でいろいろな試みになり、試行錯誤があって、上手くいった時代もあるし、挫折した時代もある。
これまでも休眠時代に時事新報を復活させようという話が何度も出てきては消えていったのですが、そのたびに「では時事新報の看板を出せる新しいメディアとは何なのだ」ということが問われ、やはりできないな、となったわけです。
そういう意味では、時事新報というのは「抜かれない伝家の宝刀」としてずっとある。時々それを眺めて、どうしたらこれを抜けるかと皆議論し、結局しまってしまうのですが、そのたびに「メディアがどうあるべきなのか」ということを問える、ある意味いい教材として、これからも慶應義塾としても折々に振り返る存在であり続けることで価値が持続する、今後もそういう存在であるのかなと感じました。
今日は長時間にわたり有り難うございました。
(2025年2月24日、三田キャンパスにて収録)
※所属・職名等は本誌発刊当時のものです。