ヘッダーの始まり
2017/07/04
『三田評論』2017年7月号掲載の新塾長対談全文です(PDFダウンロード)。
清家 長谷山さん、塾長就任おめでとうございます。長谷山さんが塾長に選ばれたこと、心から嬉しく思っております。安心して次を託せます。
長谷山 過分なお言葉で、大変恐縮です。私は五月二十八日が就任日でしたが、その前日からの早慶戦三連戦すべてに神宮に観戦に行き、スポーツから職務が始まるということになりました。優勝は逃しましたが、三戦目まで選手がよく頑張って、應援指導部をはじめ学生たちも熱心な応援で、早慶戦に勝利でき、とてもいいスタートを切れたと感謝しています。
清家 そうですね。二戦目で勝って優勝できればよかったですけれども、嬉しいことは後にとっておいたほうがよいということかもしれません(笑)。私は優勝に関係しない早慶戦にも必ず行くようにしました。早慶戦というのは、優勝に関わりなく大切な対抗戦ですから、一生懸命応援するのが早稲田に対する礼儀でもあるし、早慶戦の伝統でもあると思います。
長谷山 私も学生部長を務めていた二〇〇一年頃から、毎シーズン神宮に出かけています。かつて小泉信三塾長は、学生時代に対外試合で母校の選手を応援して熱狂するという経験のない学生生活は学生生活というに値せぬ、ということを文章に書かれています。そういう気持ちは塾長としても本当に大事だと私も思います。
清家 私も塾長になってつくづく思いましたのは、慶應義塾には塾生がいて、塾員がいて、教職員がいる。まさに早慶戦のスタンドなどは、その三者が渾然一体となって応援をしているわけです。この慶應の社中が塾生、塾員、教職員の、いわば共同体として成り立っているということをいろいろなところで感じました。
長谷山 そのとおりですね。
ところで、清家さんは平成二十一年の塾長選挙の所信表明で、塾長の任期は二期八年にすべきだということを掲げられた。そして塾長就任後、議論を重ねて、平成二十四年の慶應義塾規約の改正で制度改革を実現されました。これは私は大英断だったと思いますが、塾長就任前からそういうお考えを持たれていたというのは、どういう動機だったのでしょうか。
清家 大きく分けると二つあります。一つは任期を二期八年ぐらいまでに区切って、その間にやるべきことを決めてきちんと進めるようにするほうがよいのではないかということです。これによって外から見てもこの執行部で行うべきことは何で、将来の執行部に委ねるべきものは何かがよく分かります。そのために任期を区切るのがよいと考えました。
もう一つは一人の人間がずっと塾長を続けられるわけではない一方で、慶應義塾はずっと続いていくわけですから、塾長職、執行部の円滑な移行ということが欠かせないと考えました。円滑な塾長職、執行部の移行が図られるようにするためにも、二期八年ぐらいに塾長任期を区切るのがよいのではないかと。一期では十分にできないこともありますし、一度は評価を問われるべきだとも思いましたので、その意味でも二期八年がよいかなと考えたわけです。
長谷山 なるほど。もう一つ、平成二十四年の慶應義塾規約の改正の際に私が印象的だったのは、併せて塾長候補者推薦委員会の規程と細則が制定されて、長い間申し合わせによる慣例で行われた教職員による推薦投票が公認されたということです。これも、実は画期的なことだと私は思います。
清家 そのように言っていただければ嬉しいのですが、ちょうど私が塾長に就任した頃、世の中では大学の学長を選ぶ際に、教職員による投票などはやめて、理事会等が学長を決めるべきだといった議論も高まっていました。塾内でも、教職員による推薦投票を廃止して評議員会等がフリーハンドで塾長を決め、そうして選ばれた塾長が学部長を決めていくといった、いわゆるトップダウン型のガバナンスにするという論なども出てきていたわけです。
義塾でもガバナンス検討委員会あるいは評議員会、そして理事会での議論を経た結果、平成二十四年に、社中の合意となった制度改革が実現し、全教職員による第一次塾長候補者選出にはじまって、次に、教職員代表の推薦投票による三名の第二次塾長候補者を、得票数を付けて銓衡委員会に推薦し、学部長、学校長、塾監局長などの教職員の代表と、それと同数の評議員会で選ばれた代表からなる銓衡委員会で候補者の所信表明文、プレゼンテーション、質疑応答をもとに審議して一名の候補を選出し、最後に評議員会の審議によって塾長選出に至るという一連のプロセスを明示的に定めたということです。三名の得票数を付して推薦することはこの時に新たに定められたもので、それも参考にしながらということです。
いま申しましたプロセスは、票数を付すこと以外は、以前から学内申し合わせという慣行によって定められていたわけですが、やはり今日、学校のガバナンスを透明性の高いしっかりしたものにするために、単なる申し合わせではなくて、規則によって明文化したということになるかと思います。
長谷山 慶應義塾規約にも、慶應義塾の塾長というのは経営の責任者である理事長と、教学の責任者である学長を兼ねると明記されています。そのことを反映し、いままでも慣例として行われていた、社中一致の精神に合致した塾長選出の制度が、さらにはっきりしたということですね。
清家 おっしゃるとおりです。世間で学長のリーダーシップやガバナンスが議論される際、おそらく国立大学の学長などが、学部自治といった壁の中で、なかなかリーダーシップを発揮できないというような問題意識があったと思います。しかし慶應義塾の場合は、これまでの伝統で、塾長と学長と理事長というのは三位一体でその職を兼ねております。そして教学の部分においては、例えば誰を教授にするかというようなことは、それぞれの学部の専門的見識によって決めていただく。それぞれの学部長も、学部で最も人望のある方が選ばれるのでよいと思います。
一方、経営の部分、例えばどの学部で人を増員するであるとか、あるいは新しい学部をつくるということについては、理事長である塾長が、最終的な権限を持って決める。教学における学問の自由と独立性を守りつつ、塾長は資源の配分決定権を持つことによって、学校経営上のリーダーシップを発揮するようになっているわけです。
そういう意味では、慶應の仕組みというのはよく考えられた仕組みであると、自分で塾長をやっていながら思っておりました。
長谷山 部門の教育研究のことは現場が一番よく知っているので、その声を吸い上げて部門長、学部長が決定をする。それを超える学部横断的な事項や全学的な推進が必要な場合は、資金、人材の裏付けを考えながら、理事長である塾長が迅速に判断、決定をして実行していく。それがうまく噛み合ったときに、慶應義塾としての総合力が発揮されるということですね。
長谷山 そういう面では、清家さんが塾長になられたときは財政が大変な状況でしたね。塾長に就任されたとき、つまり理事長としての眼で経営の実態をご覧になって、大変驚かれたのではないでしょうか。
清家 まさにおっしゃるとおりでした。リーマンショックもあり、私が塾長に就任した前年度の決算では、慶應義塾が持っている金融資産の時価と簿価の差がマイナス約五三〇億円。そのうち一七〇億円あまりは、会計ルールに従って減損処理、つまり損金としてマイナスの処理をしなければいけないという事態に立ち至っていました。会計上一七〇億円を減損処理するということは、言い換えれば、一七〇億円分の教育や研究や医療の質の向上のために使えたお金が使えないということで、これはとても深刻なことでした。
さらに何よりも深刻だったのは、当時の学校法人会計上の言葉でいう帰属収支差額、現在は基本金組入前当年度収支差額というのですか、これ自体がマイナスになったことです。学校会計においてこの基本金組入前当年度収支差額というのは、その当年の収入から支出を差し引いた額で、そこが黒字であることで将来のための投資や学生のための奨学金の原資に充てることができるわけですから、ここがマイナスになっていたということは、文字通り、学校法人としての慶應義塾の長期的持続可能性に疑問符がつく状態でした。
ですから、長谷山さんもご記憶かと思いますが、常任理事会ではこれからどうするかということで、皆、非常に深刻な思いでおりました。お金がないわけですから、既に決まっていた事業も見直さなければいけない。その中には、当時進められていた一五〇年記念事業等も含まれていたわけです。
これらの事業については、塾員あるいは学内からも当然、その見直しは困るといったご意見もあったわけです。しかし将来にわたって慶應義塾を財政的に持続させるためには、事業の見直しは不可避でした。
同時に、五三〇億円もの簿価と時価のマイナス差額が出たということは、金融資産の中に、儲かるときのリターンは大きいけれど、リスクも大きい金融資産もかなり含まれていたということです。私どもは、この金融資産のポートフォリオを、学校法人としてより節度のあるものにしなければならないと考え、金融資産の種類をリターンは大きくとれなくてもリスクの小さいものに徐々に置き換えていきました。
私の塾長任期の一期目では、この財政再建が必達目標でした。当初は本当に執行部一同、どうなることかと薄氷を踏む思いでしたが、皆さんの理解と協力のお蔭でなんとか乗り切りました。同時に、塾員の方々からのご寄付を含めた様々なご支援をいただいた中で、まさに社中に助けられて財政再建を果たせたということだと感謝しています。
長谷山 義塾が運がよかったと思うのは、清家塾長の執行部は、歴代に比べても経済学・経営学の専門家が多かったと思うのです。ですので、こういう状況が会計処理などの上でどういう意味を持っているかということを素早く読み取ることができ、かつそれに対してどういう手を打つということが迅速に決断できたのだと思います。
いまから思い返せば簡単なことのようにおっしゃっていますが、資産運用の面にしろ、財政再建の具体策にしろ、その時点で決断してこれをやろうというのはなかなか難しい。塾長のリーダーシップの下、財政再建に向かってすぐに踏み出せたというのは大きかったのではないかと思いますね。
清家 特に財政を担当してくださった清水常任理事は優れた計量経済学者であると同時に、かつても財務担当常任理事をお務めで、慶應義塾の財政について熟知しておられた。そういう面で、人を得たということも
あったと思います。
長谷山 しかもその財政再建に向かって踏み出した矢先に、東日本大震災という、これもまた想定外の大きな事件がありましたね。
清家 いまでも覚えておりますが、二〇一一年の三月十一日の発災以来、一貫教育校も含めた教育担当であった長谷山さんが早速、作業用のジャンパーに着替えられたりして、各担当理事を先頭に、教職員が一丸となって、地域社会の方々などの協力も得つつ学生生徒の安全に万全を期すということで、本当に速やかに動いていただきました。これはすごく有り難かったと思っております。教職員は泊まり込みでその日は家に帰らず、学生生徒の安全、あるいは地域の方々や通行人の方々でキャンパス内に避難されている方のために様々に活動してくださいました。
そして、その後、ちょうど三月ですから卒業式、入学式を迎えたわけですが、まだ余震がありましたし、電力の供給が不安定な状態でしたので、日吉の記念館の安全状況が確保できなかった。多くの人を日吉に集めることはよろしくないということで、残念ですが卒業式を中止としました。しかし、皆さんが知恵を出して、三田の北館ホールにおいてwebで配信される学部学位記授与式を行いました。
そのとき卒業式にご招待していた当時卒業二十五年目を迎えられた一二七年三田会の方々が、記念寄付の用途を被災学生のための奨学金に切り替えてくださり、そのことがその後ずっと卒業二十五年目の方々が、塾生のための奨学金のご寄付をくださる道筋にもなったということもありました。
本当に震災のときには、社中、それから地域の方々も含めて皆さんに助けられ、幸い塾生は誰一人ケガをすることがなかったということは本当に有り難かったと思います。
長谷山 本当ですね。あの日、大学の各キャンパスや一貫教育校でいろいろなドラマ、エピソードがありました。例えば幼稚舎では泊まり込まざるを得なかった生徒もたくさんいたわけですが、気丈に元気に一晩を過ごしてくれて、深夜になってから親御さんなどがやっと迎えに来られたりしたときも、帰りたくないと駄々をこねたという元気な子もいたようです。幼稚舎生らしい心のたくましさを感じました。
三田のほうでも、山食の谷村さんが、その日の夜と翌朝とに、急きょ炊き出しで温かい味噌汁などを作ってくれました。みんな本当に空腹で寒くて、不安で夜を明かしていたときにそれが出たものですから、心と体が温まりましたね。
清家 そうでしたね。実は私どもは震災の前から、財政を再建する中でも、学生生徒の安全のための投資は充実させてきました。これには、当時教育、学生、さらに施設担当も兼ねておられた長谷山さんのご尽力も大きかったと思います。その必要性を強調してくださっていたので、実は震災以前から校舎の耐震の強化は進めておりました。
震災では、残念ながら塾員の中には被災された方もいらっしゃいました。慶應義塾は宮城県の南三陸町、昔志津川と言っていたところに学校林を持っていて、これはもともと佐藤久弥さんという林業家の方のご尽力で慶應の森になったのですが、ご承知のとおり南三陸町は津波で壊滅的な被害を受けた地域で、久弥さんのご子息で森を守ってくださっていた佐藤久一郎さんのご自宅も被災されました。
そのような中で佐藤久一郎さんは森のことを心配してくださり、また塾生や教員も南三陸町に支援に向かい、この学校林をなんとか守り立てようということで、その間伐材などを使って、慶應義塾のグッズを作ったりしました。このたび三田の正門の横にできたインフォメーションプラザにも南三陸町の山林の材木を使った箇所があります。
長谷山 普通部の本校舎にも一部使われていますね。南三陸へのボランティアも盛んになり、山小屋ができて清家さんが記念植樹に行かれるときにご一緒しましたね。湾岸部の変わり果てた姿に強い衝撃を受けましたが、そこから立ち直ろうといろいろな取り組みが町としてもなされていました。学校林のほうも佐藤さんはじめ森林組合や地元の皆さんのお蔭で、なんとか壊滅せずに済みました。
清家 長谷山さんは就任の挨拶の中で、慶應義塾を、多様性に富んだ、そして国際化の進んだ、世界から評価される大学にすべくさらに努力していきたいとおっしゃいました。私はとても力強い、よいメッセージだったと思いますが、このあたりについて、具体的にはどのようにお考えになっていらっしゃいますか。
長谷山 多様な人材が集い、その学生が多様な学びを体験し、そのことで多様な人材が義塾から輩出されるという考え方です。多様な人材という場合、一つは、国際化ということを念頭に置いて、研究者や学生が海外から集まってくるという多様化もありますが、もう一つ義塾にとって切実なのは、一昔前に比べて地方出身の学生が減少し、塾生の七割ぐらいが首都圏出身者になっているということです。私の学生時代はゼミなどでもいろいろな地方訛りが必ず聞けたものですが、いま私のゼミでも、皆標準語を話しています。
実は私自身も地方の出身で、生まれたのは秋田、育ったのが仙台で、大学から慶應でしたので、地方からいろいろな人材が集まるという状況をもう一度つくり出せたらと強く思っています。
清家 長谷山さんのご経歴も、法学部を出られてから、文学部に学士入学され、そして、文学部の大学院に行かれ、さらに学位は法学博士を取られるという、非常に多様というか、幅の広いご経歴ですよね。
長谷山 はい。私が高校時代、アメリカでラルフ・ネーダーという市民運動の元祖みたいな弁護士がいて、世界的に有名だったんですが、その人が東京に講演に来たんですね。それで学校のある平日だったにもかかわらず、担任の先生に、東京に聴きに行きたいと言ったら、とてもよい先生で、行ってこいというので、講演を聴いて感動して、そんな仕事をしたいと思ったんですね。それで、当初あまり深く考えずに義塾の法学部に入りました。
ところが、法学というのは非常に論理的で緻密な解釈などがあり、どうも私のような文学的な人間にはマッチしませんで、ゼミにも入らずにいたのですが、ふと、そういえば自分は子供のころから歴史好きだったなと気付き、いっそ歴史を本格的に学び直してみたいと思い、文学部の史学科に入り直しました。
ところが、不思議なことに、三つ子の魂百までというか、だんだん関心のある分野が法制史という、律令制とか検非違使といったところに移りましたので、文学研究科の博士課程を出た後、こんどは法学研究科の利光三津夫先生という法制史の大家にお世話になって、研究生を四年やって、学位は法学博士で取りました。あるとき数えてみたら、大学入学以来、いろいろな形で慶應に学費を払って籍を置いて、完全に籍が抜けたときが十六年目なんです。十六年というのは、幼稚舎生が入学してから学部を出るまでちょうど十六年なので、幼稚舎生と同じぐらい慶應にはお世話になっている。
清家 それはそれはお引き立ていただき、前の経営者として厚く御礼申し上げなければ(笑)。
長谷山 多少とも義塾の財政に貢献したかとは思っております(笑)。
清家 国際化について申しますと、慶應は従来から質の高い国際化を進めてきました。例えば、ダブルディグリーという、慶應と海外の提携大学両方から学位をもらうというプログラムを以前より推進してきました。これはカリキュラムを擦り合わせ、適切な教員に授業を行ってもらい、ふさわしい学生を選ぶという、手のかかる作業を必要とするプログラムですが、現在慶應義塾は日本の大学の中でトップクラスの二八のプログラムを持っています。
二〇一四年にスーパーグローバル大学創成支援事業(SG事業)の、いわゆるトップ型という世界トップレベルの教育研究大学を目指す十三の大学の一つに採択されたのですが、質の高い国際化と同時にこのSG事業や、あるいは最近の大学の国際ランキングなどを考えると、量的な国際化、つまり、留学生の絶対数といったものを増やしていかなければなりません。実はこの点について今年一月のダボス会議でタイムズ・ハイヤーエデュケーションの開いた大学ランキングについてのセッションによばれたので、国際化は量だけでなく質をもっと評価すべきだということは言ってきました。またこの九月にロンドンでこの機関の開催する世界学術サミットにもよばれていますので、同じ主張をしてきたいと考えています。質を犠牲にしてまで量の拡大を図ることはさけるべきで、ポイントは、量と質のバランスをどうとるかでしょう。
例えば、留学生数などを手っ取り早く増やそうとすれば、留学生向けの特別なプログラムなどをつくるのが良いわけですが、われわれはそういうことはしたくない。留学生を受け入れるというのは、その留学生たちが国内の塾生と机を並べて勉強し、切磋琢磨し、触発し合うことで、互いに成長するということでなければ国際化をすることの意味はないと考えているからです。そのあたりはどのようにバランスをとっていかれようと思っておられますか。
長谷山 SG事業に申請しようと決めたときに、逆に自己点検のいい機会になったと思うんですね。慶應の国際化が定性的にも定量的にもどうなのかと自己評価できたことが、まず一つ非常に大きな収穫でした。そして、留学生の増加を図るということでも、申請には数値目標を示さなければいけないわけですが、おっしゃるとおり、慶應としては量と質を兼ね備えた国際化をしていきたいと思っています。
留学生を囲い込み、そこに外国人教員を置いて、何人留学生がいます、国際化を推進しています、という方法ではなく、二万八千の学部生が、すべて外国語による教育や留学生と交流し、外国人教員の授業を受けるといった国際化の恩恵を受けることを目標にするということでやってきました。日吉にGICセンターを設置して外国語による総合教育科目で全塾生が履修できるコースをはじめたのもその趣旨です。その上に、学部が専門科目を乗せると、二階建てで外国語による学位コースを創ることが可能です。
それから昨年からイギリスのMOOCsプロバイダであるFutureLearn と提携して、義塾の特色を活かした授業をインターネット上で世界に配信しています。
一本目は斯道文庫がもっている貴重な和漢書を素材にした義塾の人文学の伝統を示す内容、二本目はアニメなど海外で人気の日本のサブカルチャーを取り扱った内容、その後、量子コンピュータなど先端技術研究を紹介する内容の授業を次々配信しています。MOOCsについては東大や京大などedXやコーセラといったアメリカのプロバイダと提携する大学が多い中で、義塾はあえて後発のイギリスのプロバイダを選びました。
FutureLearn は大英図書館やブリティッシュ・カウンシルと提携しているので、それらとも組んで色々なプロジェクトを展開できると考えたからです。例えば、義塾はアジアには一冊しかない貴重なグーテンベルク聖書を所蔵していますが、大英図書館もグーテンベルク聖書を所蔵しているので、「海を渡ったグーテンベルク聖書」といったテーマで共同プロジェクトを開発することができます。元々、洋の東西の初期印刷本の研究プロジェクトが塾内で長く続いていますから。それにFutureLearn の受講者は比較的学歴の高い人が多く、大学院生や研究者の比率も高いのが特徴なので、日本に興味を持つ海外からの留学生や日本研究者を呼び込むことにもつながると期待しています。
国際化に関して地道に色々な種を蒔いてゆけば、いずれ芽が出て花が咲くと思います。
これは先の長い茨の道ですが、それをやることで、義塾の国際化は一層進むでしょうし、また、定量的な評価だけではなくて、定性的な評価で見てもらえれば、義塾のやっていることの素晴らしさを理解してもらえるのではないか。そこの大原則があった上で、義塾はこれから、具体的に教育にしろ研究にしろ、どのように国際化を進めるかということだと思うんですね。
清家 そうですね。国際化とともに私の塾長任期二期目の大きな事業の一つが新病院棟の建設でした。老朽化した病院に替わる新病院棟の建設は長年の懸案だったわけですが、病院自体の赤字が続いていたこともあって、執行部としてなかなかそれに踏み切れませんでした。幸い私どもの執行部になってから病院が黒字基調となり、戸山常任理事を中心にしっかりしたプランも作られたので、新病院棟建設に踏み切ったわけです。
当初総工費三〇〇億円ということで始まりましたが、その後オリンピック関連工事増大の影響などもあって建設費が高騰し、最終的には三六〇億円ぐらいの規模のプロジェクトとなっています。これは慶應義塾が過去に行ってきた単体の投資としては、最も大きなものの一つになったかと思います。
新病院棟建設についても、そのうちの一〇〇億円はご寄付によって賄うということで、塾員をはじめ多方面のご支援をいただいています。この新病院棟が来年三月には完成します。これまでも慶應病院は患者さん本位の医療を行ってきましたが、これまで以上に患者さん本位の素晴らしい医療が行われるように、これから病院という器に良き医療を行うという魂を込めていただく時期になってくるのではないかと思います。
長谷山 患者さん本位の医療ということに加えて、やはり私立大学として初めて臨床研究中核病院の指定を受けましたので、その評価に応えるような医療の充実、そして先端的な研究の向上を図っていかなければなりませんね。そのためには研究領域では、もちろん外部から優れた研究者を呼び込むということも重要ですが、自前で研究人材を育てることも重要だと思います。
私が一期目に施設担当を仰せつかっていたときに、四谷祭などの見学で信濃町キャンパスを見て驚いたことは、学生の教育エリア、校舎などの教育施設がかなり老朽化していたことです。もともとキャンパス自体が狭隘ですし、劣悪な状況の中で、将来の慶應医学を背負う人材が学んでいることに少し驚きを感じました。
特にキャンパスの東北部のエリアの校舎等が老朽化していましたが、そこを将来的に整備しなければいけないという提案を常任理事会にしたところ、塾長、常任理事の皆さんに賛同を得て、財政が厳しい中、周辺の用地を購入することができました。人材育成を信濃町キャンパスで行うことも重要だと思います。
清家 そうですね。いま学生のことをお話しになられましたが、長谷山さんを紹介するには必ず「学生思いの先生」というのが付いて回ります(笑)。長谷山さんには私の塾長任期の一期目には学生担当もしていただいて、その後岩波常任理事にご尽力いただいたわけですが、財政が厳しい中で意を用いたのは、学生生徒の安全と、福利厚生の充実ということでしたね。
長谷山さんのお蔭もあって、奨学金はとても充実してきました。いまでこそ国が給付型奨学金をセールスポイントにしようとしているわけですが、慶應義塾は既に、総額十二億円あまりの給付額を、延べ二千七百人ほどの学生に給付しています。
有り難いのは、この奨学金の元になる原資は、ほとんどが塾員からのご寄付によるということです。いま総額十二億、二千七百人あまりが受けている慶應義塾の奨学金は、基本的に塾員のご寄付を基にした基金からの収益や、直接の支払いでまかなわれています。
私はいつも申し上げるのですが、塾員のご寄付による塾生の奨学金というのは、二つの面で有り難いことです。一つは、経済的に困っている塾生のために経済的支援をしてくださるというお金の流れ、いわばマネーフローという意味で有り難い。同時に、そこには、経済的に困っている向学心に燃えた後輩の塾生をなんとかして助けたいという先輩塾員お一人お一人のお気持ちがこもっているということです。つまり、マネーフローだけではなくて、いわばマインドフローというべきものもそこに重なっていることが、とりわけわれわれにとっては有り難いわけです。
具体的には、例えば各地の、あるいは職能集団や個人篤志家による三田会奨学金の証書の授与式には寄付者が来てくださって、奨学金を受ける塾生を直接に励ましてくださる。これはどんなにか後輩の塾生の励みになるか分からないと思います。
長谷山 そうですね。今も続いていますが、私が学生総合センター長時代に、三田会奨学金は授与式で塾長から授与証を交付した後、必ず懇親会をして、そこで各地の三田会の皆さんと奨学金を授与された学生が交流していました。
田中實記念奨学金というものがあり、私も習った法学部の田中實先生が、亡くなる前のご遺志で社会科学系の博士課程で経済的に困難な大学院生のための奨学金をくださった。ある年に三田会奨学金の代表のご挨拶が、田中實先生のご子息だったんですが、そのご子息の田中純一さんがスピーチの中で、この奨学金は皆さん、恩ではなく縁と思っていただきたい、そうして人間関係を作っていただきたいということなんですとおっしゃった。本当に人の縁で学生支援奨学金が続いていることがよく分かって、とても印象に残りました。
清家 もう一つ、私どもが最近かなり集中的に力を入れたのが学生の宿舎ですね。これは、一つはグローバル化を進めるためには留学生の宿舎を拡充するということ、それから先ほど長谷山さんがおっしゃった地方からの学生などを増やすためです。
長谷山さんが学生担当の時に、首都圏以外の高校から慶應義塾大学に進学する学生に対する「学問のすゝめ奨学金」という予約型の奨学金制度を作るなど、地方からの学生を増やす努力をしてきたわけですが、一つのネックは宿舎の問題でした。今年度は、新しく一五〇室ぐらいの宿舎を二つ新設するということです。国際化を進め、さらに首都圏ローカル大学化を防ぐという意味でも、この学生の宿舎の充実というのは大切だと思います。
長谷山 重要ですね。地方出身者に関して言えば、やはり保護者の方は単に奨学金だけではなかなか心を動かしてくれない。物価水準の違いもあって、生活費の負担は大きいですから。そういう意味で奨学金の拡充と宿舎の整備というのはセットだと思うんですね。
留学生の宿舎というのは日本人学生の宿舎とは別なことが多いのですが、義塾の場合には清家塾長の時代に、担当の岩波理事、渡部理事がご苦労されて、混住型の宿舎にしていくという方針で整備を進められた。これが非常に良かったと思います。ただ、まだ奨学金にしろ宿舎にしろ、十分ではありませんので、奨学金と宿舎の充実というのは、今後も推進していかなければいけない大きな課題だと思います。
清家 岩波常任理事が工夫されて、今度新しくユニット型の日吉国際学生寮ができました。基本的に日本人二人、留学生二人といった形で生活をする形ですね。
これは、まさに福澤諭吉の半学半教に叶うものです。つまり、慶應義塾に学ぶ者は、互いに自分の持っているものを他に教え、他からも教えてもらう。そういう意味では、この学生宿舎というものは単に住まう場所というだけではなくて、慶應義塾の教育の中でも最も大切な伝統の一つである半学半教を担う場所として大切だということですね。
長谷山 そうですね。また、戦前からある谷口吉郎設計の日吉寄宿舎も大変老朽化していて使用の継続が難しいのではないかというときに、清家執行部第一期で決断をし、大改修をして昔の姿に復元した上で、学年の違う者が三人ずつ部屋に入って、先輩が後輩の面倒を見るという半学半教を実施するという形にしました。そういう精神が、現在の新しい宿舎にも生かされて、より発展しているということでしょうね。
清家 お蔭様で私どもの執行部は本当に皆さん素晴らしい方々ばかりで、相互の風通しもとてもよく、私は安心してそれぞれのお仕事をお願いすることができました。
もちろん、当然、それぞれがご見識をお持ちで一家言持っておられる方々ですから、常任理事会では侃々諤々議論をしましたし、長谷山さんも私とはずいぶん意見が違ったと思います(笑)。しかし、最終的に常任理事会の中で合意形成された後は、皆さん、あたかも最初から自分もそういう考えだったかのように、それぞれのご担当の部局の教職員の方々にご説明いただき、物事を進めていただいたのは本当に有り難かったと思っています。
長谷山 私も清家塾長の下で常任理事を務めた一人でしたが、敢えて第三者的な目で評価をするとすれば、まずは財政を再建しなければいけない中でスタートしたのですが、終わってみれば、財政上の理由で止まっていた創立一五〇年記念事業はすべて実現している。
土壇場で日吉記念館の建て替えも決断し、きちんとした予算付けもして、工事に取りかかるばかりというところまで決めたので、財政再建を果たしつつ、同時にこういう大きな記念事業を実行するというのは大変なことです。おそらく後世、清家塾長の執行部を評価するとすれば、この二つのポイントは特に重要なものになると思っています。
常任理事同士が、非常に仲が良くて風通しがよかったということは私も実感しています。中国では王の政治に法治と徳治という分け方をするんですね。法を定め、違反した場合には厳しく処罰をするという、法治で治める皇帝のタイプと、自然にその皇帝の徳で世の中がうまく治まってしまう徳治があります。やはり理想の政治というのは徳治だというのが中国の古代の政治思想で、日本もその意識が強いんですね。常任理事同士がうまく風通しよく議論してやっていけたというのは、やはり清家さんのご人徳だと思います。
清家 いえいえ、それはもう皆さんのお人柄です。
長谷山 もう一つは確かに是々非々でいろいろ議論をしましたが、やはりトップである塾長がいったん決断したらそのお考えを実行するというのが常任理事の役割ですので、これに向かってみんなが邁進する共通認識のあったことが大きかったと思います。
清家 執行部の円滑な移行というのは大切ですが、私は今度は一教員として、長谷山塾長がどういうカラーを出していかれるのかということをワクワクしながら期待しています。
長谷山 今度は自分が塾長になるので、やはり何かを決断していかなければならないし、実行したことに責任を持たなければならない。このことの重さを、早くも感じているところです。とにかく教育・研究・医療の向上というのは歴代の執行部が皆同じ共通目標を持っていますので、私が掲げるべき目標も基本的には同じだと思います。ただそれを規模感を持って、そして迅速に実行していくという意味で何か新しい工夫をしていかないといけない。
財政の安定を保ちつつ、どこに資金や人員を投入していくか。そういう切り分けを、風当たりが強くても、常任理事の皆さんとやるべきことをやる。それができるだけの財政基盤をつくっていただきましたので、痛みを伴っても必要な改革を行っていくことが一つの基本的な姿勢だろうと思います。
もう一つ、どこに目標を置くかということですが、よく大学ランキングで何位以内が目標かという質問をされることがあるのですが、私が所信表明で申し上げた「世界から高く評価される」という意味は、単にランキングの数値を上げるという意味ではなく、学問の府として海外の大学や研究機関、教育機関から尊敬を受けることです。日本には慶應義塾というどこか一味違う個性的で水準の高い大学がある、といった評価を受ける大学になるべきだと思います。グローバル化は共通ルールによる平準化の波ですから、そこで生き残るには世界標準に適合すると同時に個性をもつことが必要です。
それからもう一つ、私は「伝統を守りつつ進化を続ける義塾」という所信表明を掲げたときに、敢えて創立二〇〇年を見据えるという言葉を使いました。その意味するところは、慶應義塾は日本で一番古い近代的な高等教育機関と言っていますが、海の向こうではオックスフォードはもうすぐ千年ですし、ハーバードも三八〇年ぐらいです。慶應が目標にするのは、総合大学でありながら人材育成も研究力も高い大学だと思うのです。MITやカリフォルニア工科大学のようなタイプではなく、ハーバードやオックスブリッジのタイプだと思うんですね。
お酒の話は清家さんには怒られてしまうかもしれませんが、二〇一二年に日本のウイスキーが初めて世界一という評価を受けました。日本のウイスキーづくりはほぼ百年前に始まっていますが、イギリスのスコッチの伝統も近代的なスコッチウイスキーの蒸留所という意味では二百年ぐらい前なんです。つまり、日本は百年遅れで始まって、百年経って追いついた。そうしますと、例えばハーバードなどから大体二百年遅れで始まっているので、創立二〇〇年のときになんとか追いつけないかと思い、次の画期である一七五年ではなく、創立二〇〇年を見据えてと申し上げました。
そのための教育研究の基盤整備を大胆に行っていくことが、いまの世代の使命であって、私たちの後輩が頑張って創立二〇〇年のときに、ハーバードやオックスブリッジの卒業生から、日本にもわれわれに匹敵する大学があると言われるような大学になりたいという願いを込めております。
私のカラーということで言えば、経済学者との違いもそうかもしれませんが、例えば、歴史学を専攻して、文学部長、斯道文庫長をつとめた経験から博物館の創設に力を入れたいと考えています。大学は文化を保存・継承するだけではなく、文化を創造し、発信してゆく使命があります。博物館は大学の機能を象徴する施設ですが、主要大学の中で、本格的な博物館をもっていないのは今や慶應だけです。世界標準を標榜するなら是非とも必要な施設ですが、旧来型の保存展示を主とする重厚長大な博物館ではなく、IT技術を駆使してデジタルコンテンツとアナログコンテンツが融合した教育研究機能と発信力を備えた未来型の博物館を創設できるよう準備を始めています。膨大な数の貴重な考古・民族学資料、文献史料を保有し、しかも先端的なIT技術研究が進んでいる義塾だからこそできることだと思います。
清家 おっしゃるとおりですね。一九三六年にハーバードが創立三〇〇年を迎えたとき、小泉塾長がその式典に参列しましたが、当時のジェイムス・コナント総長が式辞の中で、ハーバードのような総合大学では四つのことが大切だと言っています。すなわち学問研究、教養教育、高度専門職教育、そして健全な学生生活です。その四つのどれも無視されてはいけないし、また過度に強調され過ぎてもいけないと言っています。現在のドリュー・ファウスト総長とは、今でもそのとおりですね、とうなずき合ったものです。やはり慶應義塾が目指すのはバランスがとれた総合大学でしょう。
長谷山 慶應義塾では正課と課外のバランスのとれた教育ということを言います。
実は、この三年ぐらい義塾の一貫教育校の高校段階から選抜した生徒を、イギリスとアメリカのパブリックスクール、ボーディングスクールで伝統のある学校に一年間派遣し、寄宿舎に入れてもらい学ぶ制度を作っています。イートンよりも古いイギリス最古のウィンチェスターカレッジとか、チャールズ・ダーウィンの母校のシュルスベリー、アメリカではアンドーバー、エクセターといった錚々たる学校です。一貫教育校から学部への進学者は全学生の約二〇%を占めていますから、一貫教育の国際化は大学全体の国際化にもつながります。
それで、そういった学校に提携や交流プログラムを作るお願いに回っていくと、「うちは勉強だけの生徒は困る」と異口同音に学院長がおっしゃるんです。わが校は勉学、文化・芸術活動、スポーツすべてに均整のとれたwell-rounded な人材を送り出している。勉強だけの子は困るが慶應の生徒はどうか、と聞かれたので、「それは心配ない」と答えました(笑)。
清家 そこは本当に心配ない(笑)。
長谷山 それがまさに伝統ですね。正課と課外のバランスのとれた教育といえば、明治元年の芝新銭座時代の義塾の規則に「午後、晩食後には、木のぼり、玉遊等、ジムナスチックの法に従い、種々の遊戯を為し、勉めて身体を運動すべし」と定められていました。創立者福澤諭吉の「まず獣身を成して後に人心を養え」という言葉も幼稚舎などでよく使われます。体育会が今年、創立一二五年を迎えましたが、一二五年前といえば福澤先生が寄宿舎生を連れて三田を散歩して回っていた時代です。その時代に七部で始まった体育会が四三部に発展しているのも学問の基礎には心身の鍛練が必要と考えた塾祖の理想が生きているからでしょう。
小泉信三塾長もかつて、「大学は学問の府であるとともに、青春の学園である。大学長以下教授、職員は、青年の師であるとともに友でありたい」とおっしゃった。まさに大学は青春の学園で、その中でのびやかに多様な学び、多様な活動を経験し、そこで育った人材が社会で活躍する。そういった人材をこれからも輩出し続けることが慶應義塾の教育理念の不変の原則だと思いますね。
清家 慶應義塾の場合、有り難いのは、その時々の社会経済情勢に対応して変化をしても、基本のところは変わらないということです。つまり慶應義塾の存在意義は、誰が塾長になろうとたった一つ、福澤諭吉の建学理念を実現するということです。その実現の仕方が、その時々の状況によって違うかもしれませんが、福澤諭吉の「学問によって社会に貢献する」という建学理念の実現という目的は不変です。
福澤は『文明論之概略』の、第一章の書き出しで、物事はすべて相対的なものだ、と言っているわけですね。つまり、何かが絶対大事だということは言わない。当時の明治維新の例なども出し、封建時代が絶対悪かったというわけではないとも言う。
『文明論之概略』の中で私が最も大切だと思うのは「公智」という概念です。「私智」というのは物事をよく理解する、いまの言葉で言えば勉強ができるということだと思います。しかし、もっと大切なのは「公智」だと言っているわけです。つまり、私智などを総動員して、その時々の状況に応じ、より大切なものを優先し、そうでないものを後にするということです。
その基礎になるのが、これも福澤自身が「サイヤンス」とルビを振った科学という意味での実学だと思います。すべての物事を虚心坦懐に相対的に見る。『学問のすゝめ』の十五編の冒頭、「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し」という印象的な書き出しがありますが、物事を安易に信じてはいけないよ、ということです。その意味で福澤というのは恐ろしくクールな人ですよね。
長谷山 批判精神ですね。
清家 物事に疑問を持つ精神があって、何事も頭から信じ込まない。そして、相対的に考える。そして、その中でより大切なものを選び取っていく。その基礎になるのが実学、科学だということですね。
それは、コナントの話で言えば、やはり学術研究、教養教育、高度専門職教育、健全な学生生活が、バランスよくかつ渾然一体となって、人を育てる中で身に付くものなのではないかと思います。そういう面では、私もそうでしたし、私の前任者たちもたぶんそうだったと思いますが、福澤の建学理念をその時々で実現するために、いかにそのときの執行部のカラーを出していくかということではないかと思います。
長谷山 義塾の創業者自身がとても興味深い人物で、冷徹な洞察力をもって、物事の本質は何かということを見極め、世の中がどうであろうと、われ一人でも正しいと思う意見を主張するというところがあった。しかし、他方で、世の中に自説を受け入れてもらい、目的を実現するためには、言説を変えていくという柔軟さもあって、福澤諭吉は強烈な信念と柔軟な実行力とを兼ね備えた稀有な人格だと思うんですね。冷静に物事を分析するという姿勢は、まさに研究マインドなので、おそらく若いころに適塾で医学という理系の学問から始めたということが一生の思想にも大きく影響しているのではないでしょうか。
よく独立自尊の人材の育成と言われますが、世の中の流行に惑わされずに主体的に世の行く末を考えることができるというのは、やはり研究マインドと幅の広い教養、それに健康な心身を備えた人材、そういう人材をつくることが慶應の教育の目標ではないかと思うんですね。
清家 実学に基づいて公智を働かせることができる人を育てるということですね。
長谷山 そのとおりですね。
清家 私は前塾長として、新塾長を一〇〇%サポートするのが当面の役割だと思っていますので、長谷山塾長のなさることは、すべて支持していきたいと思っておりますし、また社中の皆さんにも新しい塾長を守り立てていっていただきたいと心から願っています。
長谷山 有り難うございます。新任者として大変心強いお言葉をいただきました。私も後ろに学事顧問の清家さんが控えてくださっているということに力を得て、塾長としての職務に邁進し、慶應義塾がより発展するように、微力ながら全力を尽くしたいと思っています。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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