Keio University

エドワード・S・モース

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  • 大久保 忠宗(おおくぼ ただむね)

    Affiliated Schools 普通部教諭

    大久保 忠宗(おおくぼ ただむね)

    Affiliated Schools 普通部教諭

2017/06/06

画像:エドワード・S・モース(函館市中央図書館蔵)

明治10(1877)年6月19日、来日したエドワード・S・モースが新橋へ向かう汽車から大森貝塚を発見して、今年で140年になる。そのモースと福澤との関わりを記してみたい。

モースの業績

「開成学校お雇(やと)ひ大博士」で「米国にて一二を争ふ有名の探古学者」のモースが大森辺の丘を発掘し、夥しい数の「太古人民の品類」を発掘した──同年10月7日、こう報じたのは慶應義塾が発行していた『民間雑誌』で、これが翌日の『東京日日新聞』にも転載された(初の報道は6日の英字紙)。

この日本初の学術的な発掘調査とその研究から、モースの名はとくに大森貝塚と結び付けて想起されることになった。彼が亡くなって『朝日新聞』が掲げた追悼記事の見出しにも「逝けるモールス教授/大森の貝塚を発掘したり/わが学界に残した偉業」とある。

しかし、モースが日本で果たした役割はさらにいろいろと挙げられる。

まず、日本の動物学研究に道を拓いたことだ。本来の訪日目的は腕足動物のシャミセンガイを調査することにあったが、乞われて東京大学初の動物学教授に迎えられ、日本で教育者・研究者として名を残すこととなった。

第2に、モースは同時に日本の学術研究の土台作りにも尽力した。大学には独自の学術誌が必要だと説いて自ら大森貝塚の報告書を理学部英文紀要の第1号として出した。日本動物学会と日本植物学会の元となる東京大学生物学会も設立した。明治10年秋、一時帰国した際は、2,500冊もの書籍や雑誌、多数の標本類を集め、翌春再来日してそれらを日本へもたらし、物理学者メンデンホールと哲学者フェノロサを東大へ紹介した。晩年には関東大震災の被害を聞いて、東京(帝国)大学へ自分の全蔵書を寄贈している。

第3に、ダーウィン進化論を初めて日本に紹介し、努めてそれを広めたことである。史論家山路愛山(やまじあいざん)は『現代日本教会史論』(1906)に言う。

…明治13、4年以降の大学が日本の精神界に寄与したる活動二あり。一はモールス博士に依れる進化論なり。二は加藤弘之に依れる人権否定説なり。

明治12年8月までの大学在職中、また15年から翌年まで3度目の来日中、彼は大学外でもさまざまな聴衆を相手に進化論とそれに基づく動物学を講義し、これが評判となった。モース自身の回想によれば、浅草須賀町の井生村楼(いぶむらろう)などで開かれた彼の講演には、平均600人から800人もの聴衆が詰めかけた。話は分かりやすく、また人々は彼が器用に両手で図を描くことに感心したという。モースは学問的立場からキリスト教を批判して宣教師と対立し、そのことでも注目を集めた。

そして第4に、日本の姿を詳細に記録し、日本の焼き物や民具を丹念に蒐集したことである。モースは勤勉な日本文明の観察者であると共に、勤勉なその記録者でもあった。今からちょうど100年前に出版された著書『日本その日その日』(“Japan Day By Day”, 1917、以下「その日」)は、日記を元にした具体的な記述と豊富な図版によって往時の日本の姿を今に伝える名著であり、日本で集めた厖大な品々も、貴重な資料となっている。

Mr.Fukuzawa とモールス氏

そのモースと福澤の関わりを示す資料が幾つかある。まずモースが「その日」で、Mr.Fukuzawa こと福澤諭吉の印象を記した次のくだりである。

私は福沢氏の有名な学校で講演する招待を受けた。日本で面会した多数の名士中、福沢氏は、私に活動力も知能も最もしっかりしている人の一人だという印象を与えた(第18章、石川欣一訳、平凡社東洋文庫)。

『慶應義塾百年史』によればこの講演は明治12年7月11日に行われ、メンデンホールとフェノロサも来塾した。モースは矢田部良吉(やたべりょうきち)の通訳で進化論を講じ、実物や黒板の図を用いて「自然淘汰の簡単な要因を学生達に判らせようと努力した」(「その日」)。

他方モースを迎えた義塾では、柔術と剣術を見せて歓迎した(「百年史」)。

とくに剣術は大がかりで、塾生100人が2隊に分かれ、互いに相手の大将の頭巾(ずきん)上にある陶盤を打ち割ることを争う、いわゆる焙烙(ほうろく)調練だった。それがモースにも印象深かったらしく「その日」に詳しい記述がある。

体育を重視していた義塾では、柔術に加え、前年から剣術の稽古も行っていた。塾生数は当時300人ほど。柔剣術を見せたのは、塾生皆で義塾らしい歓迎をと考えた結果だろう。またモースの帰国は近かったから、まもなく日本を離れる彼に何か印象に残るものを見せようという気持ちもあったかと思う。興味深いのはこの5日後、訪日中だった元合衆国大統領グラント一行を歓迎する観劇会が行われ、そこでは柳橋(やなぎばし)新橋等の芸妓(げいぎ)71名の手踊りを見せたことだ。相比べれば、義塾の流儀は芸者総浚(そうざら)いの全く逆を行くものであったといえる。

モースが福澤と知り合った時期は定かでない。ただ彼が来日して接した中に、福澤の知己は多かった。文部大輔田中不二麿(ふじまろ)、東京大学法理文三学部綜理補(そうりほ)で義塾出の濱尾新(はまおあらた)、同予備門の正科教員江木高遠(えぎたかとお)など。2人は共通の知人から互いの名を聞く機会があったろう。中でも江木は福澤の高弟小幡甚三郎(おばたじんざぶろう)が米国で病死した際、最後まで側で面倒を見た人で、帰国後は福澤や小幡の兄篤次郎(とくじろう)とも演説活動をしていた。また恐らく福澤の息子一太郎と捨次郎(すてじろう)が東京大学予備門で学んだ時期は、江木の在任期間とも重なってる。

明治11年、江木を中心にした学術講演の組織「江木学校講談会」が発足した時、福澤もモースも、共にその会員という間柄になった。9月21日の発会式では、福澤らの演説に続きモースが祝辞を述べている(下はその『郵便報知新聞』の広告)。

その3カ月後、福澤は田中不二麿に宛てた手紙で、翌年発足する東京学士会院(日本学士院の起源)の補充メンバー候補の1人として「モールス」の名を挙げた。手前で、人選は年齢と品行を第1に考えるべきだと書いているから、すでにモースの人物に信を置いていたように見える。

なお「その日」にも、日本における学者の集会の歴史についてモースが福澤から聞いたという話が載っている。2人の会話が右の手紙より前か後かは不明だが、もしもその前のことだったなら、モースの日本の学者組織に対する関心と理解は、福澤が彼を推挙した1つの理由であったかも知れない。

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三遊したモースを迎えて

明治15(1882)年6月、モースは3度目の来日をした。美術品を蒐集する旅で、友人ビゲローも一緒に来た。東大の外山(とやま)・矢田部・菊池三教授の呼びかけに応えて、6月22日、モースを知る34人が築地精養軒(せいようけん)に集まった。江木は2年前に死去していたが、田中不二麿、加藤弘之、濱尾新、西周(にしあまね)、箕作麟祥(みつくりりんしょう)、津田仙(せん)、神田孝平(たかひら)、箕作佳吉(かきち)、服部一三(はっとりいちぞう)、藤田茂吉(もきち)、金子堅太郎、井上哲次郎らと共に、福澤の姿もあった。

アメリカの友人2人を迎えた宴は、午後4時頃から9時頃まで続いたという。モースは「その日」に、一人一人に挨拶して参加した全員の名を覚えていたことが嬉しかったなど、その時のエピソードを記した後に「この会は確かに私の経験中、最もたのしいものであった」と回想している。懐かしい人々との再会や彼らの温かいもてなしを、心から嬉しく思ったのだろう。

ところで、この歓迎会のことを報じた『東洋学藝雑誌』第10号(明治15年7月)を見ると、福澤がその席で行ったスピーチの要約が載っている。

ビゲローが日本人が日本古来の方法で絵を描くことの大切さや必要を語り、続けてモースが「欧米の日本趣味は長年かけて培われたものでどの家にも日本風の品物があるのだから、日本人は日本の物を使うべきで、日本の物を使わず洋品を使うのは宜しくない」と述べた。それを受けて福澤が語った言葉を、同誌はこう紹介している。

…次に福澤諭吉氏が、日本人のモールス氏を喜びモールス氏の日本を好むが如きは、日本人に生来科学に傾向するの性ありて宗教を嫌忌するが為めならず、但し日本には古より宗教の人心を束縛すること西洋の如く甚しからざるを以て然るのみ、云々といはれ…(読点は大久保)

モースの言葉を聞いた福澤は、日本を愛する彼の姿と、その話を聴こうと講演会に詰めかける日本人とを対比して、日本人のモース好きの方は決して科学志向や宗教嫌いのゆえではない、ただ古来日本では宗教が西洋ほど人の心を束縛してこなかったことが背景にはあるだろう、と一種文明論的に分析して見せたらしい。話の要約ではあるが、この記事は2人の実際のやり取りを記したものとして貴重である。

捨次郎によって続いた縁

翌16年、モースはボストンの北東20キロほどの所にあるマサチューセッツ州セーラムに戻り、以後日本には来なかったが、2人の縁はなおも続いた。それは同年兄一太郎と共にアメリカへ留学した福澤の次男捨次郎が、マサチューセッツ工科大学へ入るに際してモースの世話になり、以後も度々その許を訪れたことによる。捨次郎からの報告で知ったのだろう、福澤は17年8月13日付でモースへ手紙を書き、捨次郎や義塾でも学んだ朝鮮留学生兪吉濬(ユキルジュン)が世話になっていることに礼を述べた。当時捨次郎はほぼ毎日モースの所に通っていたようで、手紙には、お仕事の邪魔にはならないか、少年のことゆえ気が付くことがあればご忠告頂きたい、とも書いてある。

捨次郎はその後も折々にモースを訪問したと見え、翌々年、福澤は捨次郎へ宛て、モースのため縮緬一疋(ちりめんいっぴき)を送っている。日本の着物や羽織を着て貰おうと考えたのだろう。また20年11月には、捨次郎が義弟桃介(ももすけ)を連れてモース宅へ行き「色々面白き遊戯」を楽しんだという。モースは子供や学生と遊戯を楽しむのが大好きだったから、その一面は福澤家の若者に対しても遺憾なく発揮されたはずだ。

21(1888)年6月に一太郎と捨次郎が帰国の途に就いて以降、モースと福澤が接触した跡は見当たらない。ただ、モースは常に日本からの客を楽しみにして、来れば温かく迎えたし、日米間の往来は年々盛んになったから、その中で、互いの消息を聞く機会はあったろう。福澤より3歳下のモースは動物学や人類学、日本文化の専門家として晩年まで精力的に活動を続け、大正14(1925)年12月20日、住み慣れたセーラムで87年半の生涯を閉じた。その2日後、この年放送を始めたラジオのニュースが、日本人にその訃音を伝えたという。

※所属・職名等は本誌発刊当時のものです

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