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[ステンドグラス] 『塾』創刊50年 塾生・保護者と、義塾を結び続けた半世紀

2013/11/25 (「塾」2013年AUTUMN(No.280)掲載)
今年で創刊50年を迎えた、本誌『塾』。通巻280号に及ぶその原点は、「義塾に対する保護者の理解」を深めてもらいたいとの願いだった。

創刊に込められた、義塾の決意と保護者への期待

第70号以降の題字は、福澤諭吉の直筆
第70号以降の題字は、福澤諭吉の直筆
1963(昭和38)年4月、義塾に新たな広報誌が創刊された。本誌『塾』である。義塾常任理事であった池田弥三郎文学部教授は、巻頭言において創刊の目的を次のように述べている。「父兄に(中略)自分の子弟の学ぶ大学について、よき理解者であるところまですすんでもらいたい」。池田がそう願った背景には、学生運動の盛り上がりと、学生数の急増という、時代の流れがあった。

当時、キャンパスでの学生運動の高まりは、大学生の子を持つ親にとって共通する心配の種であった。また、日本が高度経済成長を遂げるなか、人口増により義塾への入学者数も激増。1955(昭和30)年度は約2500名、商学部が開設された1957年度は約4000名、創刊年の1963年度には約5600名に膨れ上がっている。池田によれば、それに伴って保護者も多様性を帯び、大学に対する関心や理解にもバラつきが生じてきたという。ここに至り、義塾は自らの考えや取り組みを、保護者へ直接伝える必要を認めたのである。そうして生まれたのが『塾』であった。

いきおい、記事内容も保護者を強く意識したものが多かった。創刊号から掲載された「父兄の椅子」というコーナーでは、保護者から寄せられた大学生活上の相談に、義塾の担当者が回答を送り、「父兄に一言」や、「父兄のための一冊の本」では、教員が盛んに保護者へのメッセージを伝えている。一方、保護者自身が登場する企画も多彩で、寄稿を掲載する「父兄の声」、都道府県ごとの誌上「父兄座談会」、なかには塾生と保護者の公開往復書簡といったユニークな記事もあった。

そんな『塾』も、創刊から三十余年を経た1995(平成7)年、大幅にリニューアルされた。第190号より、判型をB5判変型に縮小。誌面を白黒からカラー刷りへ変更し、写真も多く取り入れることで、大胆なビジュアル化を図った。「見て楽しい、読んでおもしろい編集」をモットーに、学生・生徒・児童も読者として強く意識した構成へと生まれ変わったのである。

義塾が生んだ芸術家による贅沢な表紙の数々

左:創刊号 右:第24号(版画:駒井哲郎)
左:創刊号
右:第24号(版画:駒井哲郎)
50年の歴史のなかで、『塾』の顔ともいうべき表紙について触れておきたい。表紙の歴史は、大きく5つの時期に分けられる(図表参照)。

初期の表紙は一色の色地に題字と、「慶應義塾」の名、巻数が記されているのみである。
1967(昭和42)年から表紙に作品を提供したのは、普通部在学中に銅版画と出会い、その魅力にとりつかれたという版画家の駒井哲郎(こまいてつろう)君(1920~76)である。表紙の作品は抽象的なものが多いが、木々の生い茂る渓流などを描いた写実的な作品も掲載された。
第212号(表紙:清川泰次)
第212号(表紙:清川泰次)
1975(昭和50)年からデザインを担当した洋画家の清川泰次(きよかわたいじ)君(1919〜2000)は、経済学部の卒業。その作風はノンオブジェクティブ・アート(無対象純粋芸術)と呼ばれ、毎号描き下ろしだった。義塾にも多くの作品を寄贈され、日吉、SFCなどで展示されている。本人は後年、「慶應義塾らしいもの、一号ごとにがらっと違うものを一生懸命発表してきた」と振り返っている。その仕事は実に26年間、通巻で158号分にも及んだ。
左:第245号(表紙:藤城清治) 右:第274号
左:第245号(表紙:藤城清治)
右:第274号
2001(平成13)年から表紙を引き継いだのは、藤城清治(ふじしろせいじ)君(1924〜)である。藤城君は日本を代表する影絵作家であり、その幻想的な作品は多くのファンを魅了してきた。しかし『塾』では一転、キャンパスの風景を切り取った写実的なスケッチを見ることができる。

その後、2005(同17)年からは四季折々、さまざまな義塾の光景を伝える写真が表紙を彩っている。
誌面に目を転じると、写真家の三木淳(みきじゅん)君(塾員、1919〜92)、畔田藤治(くろだとうじ)君(特選塾員、1936〜2000)らの作品がグラビアを飾ったが、創刊翌年から一貫して『塾』にイラストを提供しているのが、当時、法学部3年生だった漫画家のヒサクニヒコ君(1944〜)である。ある日、キャンパスの掲示板に「呼び出し」が貼り出され、何事かと顔を出したところ、新聞社の学生漫画コンクールで応募作品が一席に選ばれ、その知らせと賞金が大学に届いているという。これが縁になって、イラストを提供することとなったそうだ。まさに『塾』の生き証人であるヒサ君には、今後も末永く誌面に彩りを添えてもらいたい。
『塾』表紙の歴史
『塾』表紙の歴史
塾』に掲載された最初期のヒサ君のイラスト
『塾』に掲載された最初期のヒサ君のイラスト
(1964[昭和39]年5月発行第5号)
“慶大生がいたぞ!”(慶大生もデモ参加)
「萬來舍」コーナー描き下ろし作品
現在は「萬來舍」コーナーに
毎号描き下ろし作品を掲載