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[ステンドグラス] 塾生数の変遷をたどる ~大学の塾生数は、120年余りで100倍以上に~

2013/04/22 (「塾」2013年SPRING(No.278)掲載)
1872-77(明治5-10)年頃の塾生たち
福澤諭吉先生の蘭学塾創始から数えると、慶應義塾は今年で155年となる。
幕末の安政年間から現代の平成まで、義塾で学ぶ塾生数はどう推移したのか、また女子塾生の登場は、いつだったのか、“数”にスポットを当てて変遷をたどった。


1872-77(明治5-10)年頃の塾生たち

慶應義塾を名乗った頃 塾生の数は約100名

1890(明治23)年前後の慶應義塾校舎
1950(昭和25)年法学部政治学科卒業生
福澤先生が築地鉄砲洲の中津藩邸で蘭学塾を開いたのは1858(安政5)年のこと。当初は藩士の子弟に蘭学を教える程度で、その数も多くなかったと思われる。しかし安政の五カ国条約締結後、米英との関係を重視した福澤先生が教授内容を蘭学から英学に切り替えてからは、塾生は徐々に増え、1867(慶応3)年頃には80~100名に達していた。

その後の戊辰戦争中に塾生は減少したものの、先生はそれを一時の騒乱にすぎないとして、芝新銭座の塾舎の普請を進める。1868(慶応4)年4月には、塾名を慶應義塾とし、戦争が終結して明治になると、先生の予想通り塾生は優に100名を超える。新銭座塾舎に収まりきらず、汐留の中津藩奥平家長屋や三田古河端の竜源寺に分校を設けた。

三田の旧島原藩邸に移転した1871(明治4)年には、塾生は約300名、1886(明治19)年の煉瓦二階建の講堂新築の頃には約1000名に増え、三田山上には次々に新しい校舎が建てられた。

1890(明治23)年には修業年限3年の大学部が発足。第一期生は文学科25名、法律科8名、理財科28名の合計61名だった。

大正~平成の卒業生数の変遷

創立から1922(大正11)年の大学令準拠前までの大学部卒業者総数は5565名。毎年度の卒業生をみると、1914(大正3)年度に296名であったのが、旧制大学に移行した後も増え続け、1939(昭和14)年度からは毎年度1000名を超えるようになった(ただし学徒出陣の関係で1945年度は439名)。

戦後は、1944年に寄付された藤原工業大学を前身とする工学部(現理工学部)、1957(昭和32)年に増設の商学部が加わったこともあり、1963(昭和38)年度の卒業生は初めて5000名を超えて5184名となった。総合政策学部と環境情報学部が初の卒業生を送り出した1993(平成5)年度以後の卒業生数は6000名を超え、看護医療学部、薬学部が加わってからの卒業生総数は6500名に近づいている。

入学者61名だった大学部初年度の1890年から120年余り、1学年の塾生数は100倍以上になった。
大正3~昭和25年度までの卒業生数の推移
昭和27年からの卒業生数の推移(通信教育課程の卒業生を除く)
卒業生数の推移:「慶應義塾年鑑」のデータから抜粋し作成

正式な女子塾生の誕生は戦後 現在は塾生の3分の1を占める

女子塾生も加わった大学入学式
義塾で最初の女子塾生の誕生には、いろいろな解釈がある。

実務教育の場としては、裁縫とともに読み書きソロバンを教えた1872(明治5)年開設の慶應義塾衣服仕立局や、医学科設立に関連して1918(大正7)年に設立された医学科附属看護婦養成所がある。

一貫教育校においては、1879(明治12)年に福澤家の娘たちが和田塾(現幼稚舎)生として在学した記録はあるが、幼稚舎が正式に男女共学となるのは、男女共学の中等部が新設された翌年の1948(昭和23)年である。その2年後には慶應義塾女子高等学校も開設され、女子教育体制が次々に整っていった。

大学教育に限ると、正式な女子の塾生の入学は1946(昭和21)年4月からである。ただし、女子最初の卒業生は、聴講生から編入試験を受け正規の学生になった者で、1946(昭和21)年度に文学部を卒業した。女子聴講生の受け入れ自体は、1938(昭和13)年から始まった。

女子塾生は徐々に増え(グラフ参照)、2011年度には卒業生6473名のうち2221名が女子で、全体の34%を占めている。


写真提供:福澤研究センター