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[ステンドグラス] “ボーイ教師”と呼ばれた俊才、門野幾之進
2013/07/22 (「塾」2013年SUMMER(No.279)掲載)
弱冠15歳にして義塾の教壇に立った“ボーイ教師”門野幾之進(かどのいくのしん)。福澤先生から「文才穎敏(えいびん)」と称えられ、義塾の教育と、日本の保険事業にその名を遺した彼の足跡をたどる。
入塾した頃の門野 当時13~14歳
入塾した頃の門野 当時13~14歳
13歳で義塾に入り2年後には教師を兼任
門野幾之進は1856年4月18日(安政3年3月14日)、現在の三重県鳥羽市で生まれた。鳥羽藩士の父・豊右衛門は、早くから洋学の重要性を認め、彼に6歳の頃から西洋の地理や物理、オランダ語などを学ばせたという。1869(明治2)年、門野は上京し、藩の貢進生(公費生)として義塾に入塾する。若年ながらその能力と勉学への努力は抜きんでており、わずか2年後には弱冠15歳で英語教師として他の塾生を指導することとなる。
学びに先んじる塾生が学びながら教える“半学半教”の一例だが、それにしても全国から集まる選良に、十代半ばで教える立場になったことは、門野の傑出した俊才ぶりの証左だろう。まだ少年のあどけなさが残るその容貌に、年上の塾生がつけた呼び名が“ボーイ教師”である。
学びに先んじる塾生が学びながら教える“半学半教”の一例だが、それにしても全国から集まる選良に、十代半ばで教える立場になったことは、門野の傑出した俊才ぶりの証左だろう。まだ少年のあどけなさが残るその容貌に、年上の塾生がつけた呼び名が“ボーイ教師”である。
福澤先生の信頼も厚く、その後、首席教員を経て1883(明治16)年には27歳の若さで教頭に就任。特に英語読解力に優れていたことから「読み門野」と称えられ、いずれも塾長を務めた芦野巻蔵(あしのけんぞう)、濱野定四郎(はまのさだしろう)とともに「塾の三野先生」と塾生に慕われた。
門野が教頭職にあった1887(明治20)年、大蔵省を辞した小泉信吉(こいずみのぶきち)が総長(塾長)に就任する。小泉総長のもと、翌年には試験制度の改定が図られ、門野の立案で、それまで試験の及第を教師の判断や合議で決めていたものを、点数で厳格に判断しようとした。しかし、この改革案が大きな波紋を起こす。「そんなやり方は官立学校のもので、義塾にはなじまない」と塾生が反発し、およそ280名が授業をボイコットする騒ぎとなったのだ(同盟休校事件)。福澤先生も彼らの説得にあたり、ひと月ほどでようやく収束した。
一部塾生の反発を招いたものの、門野の提案は、開設の機運が高まっていた大学部の設置をにらんでのものだった。1889(明治22)年に大学課程編成委員に就き、その中心として、文学科・法律科・理財科の設置を提案するなど、翌1890(明治23)年の大学部発足に尽力している。
門野が教頭職にあった1887(明治20)年、大蔵省を辞した小泉信吉(こいずみのぶきち)が総長(塾長)に就任する。小泉総長のもと、翌年には試験制度の改定が図られ、門野の立案で、それまで試験の及第を教師の判断や合議で決めていたものを、点数で厳格に判断しようとした。しかし、この改革案が大きな波紋を起こす。「そんなやり方は官立学校のもので、義塾にはなじまない」と塾生が反発し、およそ280名が授業をボイコットする騒ぎとなったのだ(同盟休校事件)。福澤先生も彼らの説得にあたり、ひと月ほどでようやく収束した。
一部塾生の反発を招いたものの、門野の提案は、開設の機運が高まっていた大学部の設置をにらんでのものだった。1889(明治22)年に大学課程編成委員に就き、その中心として、文学科・法律科・理財科の設置を提案するなど、翌1890(明治23)年の大学部発足に尽力している。
副社頭、理事など要職を歴任 実業界では千代田生命を創立
それから8年後の1898(明治31)年4月、大学部の学事改良を企図していた義塾は、各国の教育状況視察のため、門野を欧米に派遣する。翌年帰国した門野が実施した改革案は、文学・法律・理財の各科を廃して一つにし、必修科目は定めるものの、それ以外の科目は塾生が自ら選んで学ぶという画期的なものだった。
この制度は1900(明治33)年の新学期から実施されたが、時期尚早だったのか、塾内からも一般社会からも深い理解を得られず、翌年には元の分科制に戻された。制度は挫折したとはいえ、この意欲的な試みが、門野の教務への熱い情熱を示していることは確かである。
1901(明治34)年には福澤先生の死去を受け、義塾副社頭に就任。翌年には教頭職を辞して教務の第一線から退き、実業界に転じたが、1907(明治40)年まで副社頭の地位にあり、以後も長く理事、評議員を務めた。その間、鎌田栄吉塾長の文相就任(1922[大正11]年)、小泉信三塾長の渡米(1936[昭和11]年)に伴う塾長不在時に、塾長事務の代理を務めたこともある。これも門野が社中の長老として尊敬を集めていた証しであろう。
実業界での活躍は、1904(明治37)年に千代田生命保険相互会社を創立して社長に就任したのを皮切りに、第一機関汽罐保険、日本徴兵保険、千代田火災保険、千歳火災海上保険を次々に創立。また、1928(昭和3)年には、苦境に陥った時事新報社の会長に就任し、私財を投じて再建に力を尽くした。
義塾最長老の一人として、また福澤先生が日本に伝えた保険事業の草分けとして多大な功績を残し、1938(昭和13)年11月18日、門野は没する。享年82。13歳で入塾し、15歳で教師となって以来、70年近くにわたり義塾の発展に尽くした生涯であった。
この制度は1900(明治33)年の新学期から実施されたが、時期尚早だったのか、塾内からも一般社会からも深い理解を得られず、翌年には元の分科制に戻された。制度は挫折したとはいえ、この意欲的な試みが、門野の教務への熱い情熱を示していることは確かである。
1901(明治34)年には福澤先生の死去を受け、義塾副社頭に就任。翌年には教頭職を辞して教務の第一線から退き、実業界に転じたが、1907(明治40)年まで副社頭の地位にあり、以後も長く理事、評議員を務めた。その間、鎌田栄吉塾長の文相就任(1922[大正11]年)、小泉信三塾長の渡米(1936[昭和11]年)に伴う塾長不在時に、塾長事務の代理を務めたこともある。これも門野が社中の長老として尊敬を集めていた証しであろう。
実業界での活躍は、1904(明治37)年に千代田生命保険相互会社を創立して社長に就任したのを皮切りに、第一機関汽罐保険、日本徴兵保険、千代田火災保険、千歳火災海上保険を次々に創立。また、1928(昭和3)年には、苦境に陥った時事新報社の会長に就任し、私財を投じて再建に力を尽くした。
義塾最長老の一人として、また福澤先生が日本に伝えた保険事業の草分けとして多大な功績を残し、1938(昭和13)年11月18日、門野は没する。享年82。13歳で入塾し、15歳で教師となって以来、70年近くにわたり義塾の発展に尽くした生涯であった。
西暦 | 和暦 | 年齢 | 出来事 |
---|---|---|---|
1856 | 安政3 | 0歳 | 現在の三重県鳥羽市にて誕生 |
1869 | 明治2 | 13歳 | 慶應義塾入塾 |
1871 | 明治4 | 15歳 | 義塾教員となる |
1883 | 明治16 | 27歳 | 教頭に就任 |
1888 | 明治21 | 32歳 | 同盟休校事件 |
1889 | 明治22 | 33歳 | 大学課程編成委員として大学部の発足に尽力 |
1890 | 明治23 | 慶應義塾大学部 発足 | |
1898 | 明治31 | 42歳 | 欧米の教育制度視察に出発 |
1899 | 明治32 | 43歳 | 帰国。大学部の学制改革に着手 |
1901 | 明治34 | 福澤先生死去 | |
1901 | 明治34 | 45歳 | 副社頭に就任 |
1902 | 明治35 | 46歳 | 教頭を辞任。実業界に転じる |
1904 | 明治37 | 48歳 | 千代田生命を創業 社長に就任 |
1907 | 明治40 | 51歳 | 副社頭を退任 |
1928 | 昭和3 | 72歳 | 時事新報社会長に就任 |
1932 | 昭和7 | 76歳 | 貴族院議員に勅撰される |
1938 | 昭和13 | 82歳 | 死去 |
写真提供:福澤研究センター