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[ステンドグラス] 『三田文学』の歴史 ~復刊10周年を記念して~

1995/11/01 (「塾」1995年No.5(No.194)掲載)
永井荷風を編集主幹に迎えて雑誌『三田文学』が創刊されたのは、明治43年(1910)5月のこと。
以来、休刊・復刊を何度か繰り返しながら、『三田文学』は今日に至るまで85年の歳月を歩み続けてきた。
今年は、現在刊行されている第8次『三田文学』の復刊10周年にあたる。
それを記念して、今回は『三田文学』の歴史を振り返ってみることにしよう。
教室での永井荷風(右から2人目)
教室での永井荷風(右から2人目)
久保田万太郎
久保田万太郎
 明治30年代の半ば以後、大学部各科で教授陣の充実や学会の整備が図られ、慶應義塾は学問研究面における飛躍の時期を迎えた。文学科では三田文学会が組織され、学問の専門化に伴って文学・哲学・史学の3専攻が設けられた。明治43年には森鷗外と上田敏が文学科顧問に就任して、三田文学会の機関誌として文芸雑誌を発行することになり、編集主幹には、森・上田の推薦によって文壇の新進作家・永井荷風が迎えられた。
 このように、『三田文学』は文学科刷新の動きの中で、明治43年5月1日に発刊された。創刊号には、森鷗外、野口米次郎、木下杢太郎、三木露風、馬場孤蝶、山崎紫紅、永井荷風、里田湖山、深川夜烏らの作品が並び、藤島武二の斬新なデザインが表紙を飾った (「田」の字形に図案化した四つ葉のクローバーを3つ描いて「三田」を表した)。また、裏表紙には福澤諭吉自筆の「修身要領」第21条「文芸の嗜は人の品性を高くし精神を娯ましめ…」が掲げられていた。
 当時の文壇では、『早稲田文学』に代表される自然主義文学の一派に対抗して、反自然主義の文学が生まれつつあった。文学科顧問の森・上田は共に反自然主義文学のリーダー格であり、小山内薫、与謝野寛、和辻哲郎、北原白秋、谷崎潤一郎らが筆を執る『三田文学』は、反自然主義的な文学活動としての色彩を帯びていた。
 創刊の翌年からは、作家・詩人ばかりでなく義塾の学生たち(後に「三田派」と呼ばれる)も続々と『三田文学』に作品を発表していった。「朝顔」の久保田万太郎、「山の手の子」の水上滝太郎を筆頭に、堀口大學、佐藤春夫、松本泰、小島政二郎、南部修太郎など、『三田文学』は多くの才能を文壇へと送リ出した。
 大正4年になると永井荷風は編集主幹を退き、しばらくして『三田文学』は休刊を余儀なくされることになる。しかし、大正15年には水上滝太郎を中心に復刊され、再び最盛期を迎える。その後、今日に至るまで『三田文学』は諸事情から何度となく休刊・復刊を繰り返すことになるが、決してその命脈が途絶えることはなかった。
 三田文学会理事長は復刊時の安岡章太郎から、現在は江藤淳に引き継がれ、新たな道を歩み始めている。
<1>『三田文学』創刊号
<1>『三田文学』創刊号
<2>今日の『三田文学』
<2>今日の『三田文学』
<3>永井荷風自筆原稿
<3>永井荷風自筆原稿

<4>久保田万太郎自筆原稿
<4>久保田万太郎自筆原稿
<5>堀口大學自筆原稿
<5>堀口大學自筆原稿