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[ステンドグラス] 義塾の戦災と復興

1995/09/01 (「塾」1995年No.4(No.193)掲載)
太平洋戦争のさなか、全国の大学で最大の戦災を被ったのは慶應義塾だった。そして終戦。昭和22年、日吉校舎の接収が続く中で創立90年記念式典が挙行された。
その後、昭和33年の創立100年記念式典を経て、義塾は復興への道を歩んでいく。
 昭和20年、米軍機の本土空襲はいよいよ激しさを増し、4月には日吉・工学部校舎の8割が焼失した。翌月、医学部と三田地区でもそれぞれ施設の半分以上が失われ、塾長の小泉信三も傷を負った。8月15日、敗戦によって戦火はやんだが、慶應義塾は全国の大学で最大の罹災校となっていた。9月には日吉地区に米軍が進駐し、昭和24年秋まで接収されたため、この間、義塾の復興計画は思うように進まなかった。
 終戦から2年後の昭和22年、義塾は創立90周年を迎え、廃墟となった三田山上で記念式典を挙行した。構内には会場となる建物もなく、焼け跡の広場に設けられたテント張りの式壇に、私学として初めて天皇陛下をお迎えし、「 福澤諭吉創業の精神を心として、日本再建の為、一層努力することを望む」とのお言葉を賜った。
 戦後しばらくの間は戦禍と接収のため、各地に建物を借用しての不自由な授業が続いたが、義塾の教育精神に通じる文言が盛り込まれた新憲法や教育基本法が定められると、戦時中は非難の的となっていた 福澤諭吉・慶應義塾の名が人々の注目を集めるようになった。
<1>三田図書館の鉄骨の残骸
<1>三田図書館の鉄骨の残骸
<2>日吉返還式と記念の鍵(1949年10月1日)
<2>日吉返還式と記念の鍵(1949年10月1日)
<3>米軍使用のカマボコ兵舎(日吉)
<3>米軍使用のカマボコ兵舎(日吉)

<4>天皇陛下を迎えて(創立90周年)
<4>天皇陛下を迎えて(創立90周年)
<5>街を行く祝賀行進(創立90周年)
<5>街を行く祝賀行進(創立90周年)

 新学制が施行された22年の7月、幼稚舎構内に普通部用の木造校舎が竣工したのを皮切りに校舎の復興が進み、同年9月には戦後量大の木造建築といわれた信濃町の医学部病院本館が完成した。24年、日吉が返還され、残存校舎や進駐軍が残したカマボコ兵舎を利用しながらではあったものの、義塾の諸施設は一応の復興を遂げることとなった。
 その後、創立100年祭へ向けて義塾内外の気運が高まりを見せ、諸事業が進展していった。昭和33年11月8日、新装成った日吉記念館に再び天皇陛下をお迎えして、また、早大および東大総長、ハーバード大代表、塾員代表小泉信三らの出席者を迎えて、創立100年記念式典が盛大に挙行された。陛下からは、義塾が「更に協力一致して此の輝かしい伝統を守り、我が国文運の進展に寄与するよう努力せよ」とのお言葉を賜った。
 そして昭和37年、100年記念事業は一応の目標を達成し、戦災復興の大事業は完成を迎えた。
<1>戦後最大の木造建築といわれた信濃町医学部病院
<1>戦後最大の木造建築といわれた信濃町医学部病院
<2>記念事業で完成した記念館と大学校舎
<2>記念事業で完成した記念館と大学校舎
<3>1958年11月8日創立100周年記念式典
<3>1958年11月8日創立100周年記念式典