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[ステンドグラス] 江戸から明治期に活躍した福澤先生の“右腕” 義塾の礎を固めた小幡篤次郎

2011/03/07 (「塾」2011年WINTER(No.269)掲載)
1842(天保13)年生まれの小幡篤次郎(おばたとくじろう)は、福澤諭吉先生の7歳下。先生に誘われ豊前中津から草創期の慶應義塾に入塾した。その後、塾長を経て副社頭を務め、先生没後は2代目の社頭に就任。教育、経営の両面から先生を支えた”右腕“というべき存在であった。

福澤先生が故郷でリクルートした秀才

小幡篤次郎肖像〈福澤研究センター所蔵〉
小幡篤次郎肖像〈福澤研究センター所蔵〉
1858(安政5)年、築地鉄砲洲の中津藩邸内に蘭学塾を開いた福澤先生は、64(元治元)年に故郷の豊前中津に一時帰省する。この時に見出し、江戸に連れ帰ったのが小幡篤次郎(おばたとくじろう)、甚三郎(じんざぶろう)兄弟である。中津藩士であった父篤蔵(とくぞう)は既に亡く、母としは二人の江戸出府を大いに不安がった。そこで先生が説得にあたった言葉がふるっている。曰く「中津に居るより、江戸のほうが養子の口が多い。前途有望な若者の立身のためにも、ここは江戸に出してみてはどうか」と。果たして部屋住みの兄弟の末を案じた武家の母は、先生に二人の息子を託すことを決心したのである。先生は後にこのエピソードを振り返り、「養子の口を餌に母堂を説き伏せ、兄弟をかどわかしてきたようなものだ」と笑ったという。

当時、小幡は数えの23歳。16歳から藩校・進脩館の塾頭を務めていたというから、秀才であったことは間違いない。江戸出府後はわずかな期間で英語を修得し、2年後の66(慶応2)年には塾長に就任した。同時期には幕府開成所で英学教授手伝も務めている。また塾名が慶應義塾に改まった68年には、弟の甚三郎との共著『英文熟語集』を出版し、その後も科学啓蒙書『天変地異』や、トクヴィル著『アメリカの民主主義』の抄訳、『上木自由論』などを次々と世に出している。
 
73(明治6年)年にはアメリカ留学中の弟、甚三郎が同地で病死するという悲しみに見舞われたが、その後も74年には三田演説会幹事、76年には東京師範学校中学師範科の創設にかかわり教授監督の任にあたっている。89年から病気療養中の小泉信吉(のぶきち)の塾長代理を務め、90年には塾長に就任。さらに同年、貴族院議員に勅選されている。

なぜ『学問のすゝめ』初編の共著者なのか

小幡篤次郎(左)、右は松山棟庵〈福澤研究センター所蔵〉
小幡篤次郎(左)、右は松山棟庵〈福澤研究センター所蔵〉
このように塾内外に活躍目覚ましい小幡であるが、72年に発行された『学問のすゝめ』初編では、福澤先生とともに共著者として名を連ねていることはご存じだろうか。実際に執筆したのはもちろん福澤先生である。ではなぜ小幡との共著となっているのか?実はこの初編、当初は小冊子のかたちで中津の人々に向けて書かれたものであり、その経緯にヒントが隠されている。
 
71年、福澤先生の建議によって郷里に英学校(中津市学校)が設立されることとなった。これに先立ち、小幡は当地に長期滞在して開校の準備にあたっている。その過程で、中津に学問を普及させるべく先生が著したのが件の小冊子である。これを発表するにあたり、かつての進脩館塾頭であり、市学校初代校長となった小幡の高い評判を考慮し、共著者として名を加えたと言われている。その小冊子をもとにして編集発行されたのが『学問のすゝめ』初編であり、かくして小幡の名が記されることとなったのである。

こうして共に歩んできた二人であるが、時に意見を異にすることもあった。90年開設の大学部は思うように入学者が集まらず、96年の評議員会においてその廃止が申し合わされた。塾長の小幡が、社頭の福澤先生にその旨を伝えたところ、先生はむしろ大学部の維持拡張を目指し、募金活動を強化すべきとの意見であった。小幡はこれを受けて募金活動に道筋をつけたものの、翌97年に塾長を辞任。赤字体質の大学部を廃止し、既存の高等科などを拡充すべきと小幡は考えていたようである。辞任に前後して中津への帰郷も考えていたようであるが、先生の慰留によりこれは思いとどまっている。一旦は要職を離れた小幡であるが、塾内の信望は厚く、翌98年に副社頭に推され、これを受けている。
『学問のすゝめ』初編〈慶應義塾図書館所蔵〉
『学問のすゝめ』初編〈慶應義塾図書館所蔵〉
1901年、福澤先生亡きあと社頭を継いだ小幡は、義塾創立50年を目前にした05年、病によりこの世を去った。享年64。遺言により彼の蔵書の半分は義塾に、残りの半分は中津に寄贈された。これを元に現在は「中津市立小幡記念図書館」が建てられ、今も故郷の人たちの読書と学問を支え続けている。