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[慶應義塾豆百科] No.89 日吉台の地下壕

日吉地区の校地は大きく分けると、東横線日吉駅の東側一帯に広がる高校や大学校舎が建設されている日吉台地区と、小さな谷をへだてて理工学部の校舎の建つ矢上台地区、日吉駅西側の経営管理研究科校舎、普通部校舎や各種体育会所属運動部の練習場・合宿所等が散在する地区の3地域に分けられる。

昭和50年代の前半、都心にあるいくつかの大学が、郊外に土地を求めて本拠を移転したり、新学部を作るのが目立った時期があった。しかし慶應義塾が大学のエクステンションを考慮して日吉台に大学予科を移したのは、そのおよそ40年前の昭和9年のことである。

日吉開設に際し校地の整備調査をしている時、多くの埋蔵文化財が発見され、第1校舎(現在、高等学校校舎)から寄宿舎一帯にかけて発見された2千年以上前の住居跡の一部は、永久保存の処置がなされて教材とされており、矢上の古墳からは1700点に及ぶ遺物が発見されていて、この日吉・矢上地区が古代から生活環境に最も適した地域であったことが証明されている。

年うつり日吉が開設されてから10年を経過した昭和19年、太平洋戦争が熾烈となり学徒出陣や勤労動員で教室に空きが出てきたので、文部省の指示に従い慶應義塾では日吉第1校舎、寄宿舎等を海軍に貸与することとなった。海軍との賃貸借契約では19年3月10日からとなっているが、関係者の証言によると2月からという(『平和への願いをこめて』慶應義塾生活協同組合編)。

日吉に移ってきた海軍の内訳は第1校舎には軍令部第3部、人事局、建設部隊等、寄宿倉は連合艦隊司令等がまず入り、後には海軍総隊司令部や航空本部等が移転して来て、海軍の最重要作戦の指令は日吉で決定されていた。

移転直後から海軍は校地の地下に堅固な地下壕を突貫工事で建設し、連合艦隊司令長官の指令は、実は日吉のアナグラの内から発せられたものであった。神風特攻隊が初めて出撃したレイテ作戦の命令も、日吉の地下壕から発せられたというから、軍隊の最も醜い部分を今に残す記念物と言えよう。

日吉地区の地下壕は寄宿舎から高等学校バレーコートや、新幹線の下をえぐる様に掘られたものをはじめ、高校日吉会堂の北側部分、大学記念館側一帯と、普通部南側地域の4箇所に遺っているが、50年以上経過し内部壁面の崩落がそこここで始まっているという。平成元年4月、「日吉台地下壕保存の会」が結成されて、この地下壕を平和を祈念する記念物として保存する動きが地域住民を含めて起こっている。現在は、内部の整備も行われ、日吉キャンパス内(高等学校グラウンドそば)にある入口から地下壕へ入ることができるようになっている。