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[慶應義塾豆百科] No.90 獣医畜産専門学校

獣医畜産専門学校校舎
慶應義塾は安政5年(1858)の創立以来、広い分野にわたって数多くの学校の学校を経営して来ているが、しかし長い時間の経過の中で非常に短命に終わった学校がいくつかある。明治初年に設けられた医学所や、10年代に始められた法律科もその例であるが、近くは50数年前の太平洋戦争末期に設けられ、戦後まもなく廃止になった学校もいくつかある。昭和19年4月に開設され、5月に日吉の第2校舎で授業を開始した獣医畜産専門学校(校長小泉信三塾長、主事西谷謙堂)もその1つである。

この獣医畜産専門学校は初め大学農学部設置の予定で準備されたが、政府の戦時下文教政策の転換によって、大学ではなく農業専門学校に短縮され、さらに獣医師養成の機関にその目的を変更された経緯があった。しかし同年夏には、将来農業方面で指導的人材を養成するべく、農業研究所を開設して農業研究の充実に意欲を示していた。

ところが開校後戦局は苛烈さを増し、教育環境は一変して生徒に学業に専念することを許さず、20年に2期生が入学するころは、空襲も激化し理科学生の特権であった徴兵猶予の特典も失われ、入営・入隊する生徒も現われた。

20年4月の空襲の際は幸いたいした被害はなかったが、戦後は連合軍により日吉地区が接収されたため、急遽川崎市蟹ケ谷にある旧海軍の通信隊の施設を利用し、10月に移転して授業を再開した。

この蟹ケ谷で3期生を迎え、3学年全員が揃ったところで、ようやく学校としての体裁も整い、平和な学園生活に戻った若者の生活が始まった。そこは日吉駅からドロンコ道を小1時間、イモとムギの畑に囲まれた木造兵舎で、目立つものは巨大な鉄塔だけという環境ではあったが、600名の若者にはそれは桃源郷であった。

1期生76名は、22年7月この蟹ケ谷から巣立って、晴れて獣医師の資格を得、慶應義塾は初めて獣医師の塾員を迎え容れたのである。

その後同年12月、塾員松永安左ェ門の寄付になる埼玉県志木の地に移転し、4万5000坪(15万平方メートル)の広大な敷地で充実した実験実習が行われていた。しかし戦後の教育制度の改革により22年から生徒募集を停止し、24年3月3期生の卒業をもって廃校し、農業高校に転換した。獣畜専の卒業生は356名、うち6分の1は獣医師として社会に貢献している。彼らの同窓会は「蟹ケ谷三田会」と称している。