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[慶應義塾豆百科] No.82 日吉開設50年

開設当時の日吉キャンパス
近年東京では主要な大学の都心から郊外へと移転が続いた時期があった。慶應義塾はそれにさきがけるように、昭和9年(1934)、その頃は神奈川県橘樹郡日吉村と呼ばれていた近郊に、大学予科の移転を断行した。それは当時の義塾先人たちの英断によるものである。この日吉キャンパスは総面積13万坪(43万平方メートル)の広大な丘上の敷地に、延3000坪(約1万平方メートル)に及ぶ堂々たる白亜の校舎を建てると共に、その教育環境の整備に思いきった配慮が加えられているのが注目される。今日見られる見事な銀杏並木道の造成も、その時の所産の1つである。

ところで移転の青写真が塾内で話題に上り始めたのは、関東大震災の被害復旧が一段落を告げた大正末年の項とみてよい。即ち塾長林毅陸の日記を読むと、大正15年1月3日の項に「10時過ぎの汽車にて占部君と共に鎌倉に磯村豊太郎君を訪ふ。(中略)郊外に一大敷地を用意することを主として談合したり。先づ予科以下を移すべくなり」とあり、さらに同年8月の『三田評論』には同じく林の筆になる「三田丘上の復旧及び整理」と題する報告のなかで、いま三田の本塾に「最も重大なる問題は敷地其者の余りに狭隘であること」で、それを解決するには商工学校を他に移すのも一案だが、それに「優りて更に絶大なる効果を挙げ得べきは、大学予科の移転である」としているのはその間の経緯を語っている。その結果昭和2年12月には学内に移転に関する委員会が設けられ、続いて翌3年5月には評議員会において、この問題の検討と推進のため、評議員から5名、教員から5名、それに主査委員の5名が加わって計15名からなる委員会が発足し、移転問題は新たな展開をみせたのである。

まず移転先を神奈川県下の然るべき地ということで候補地を物色し始めたところ、たまたま東京横浜電鉄株式会社から沿線の日吉台の土地約7万坪(23万平方メートル)を無償で提供したいとの申し出があった。そこで種々検討の結果、理想的な学園建設のためには、さらに4万7000坪(約15万5000平方メートル)を加えた敷地を確保したいこと、買収価格は坪5円とし、東横が仲介の労を執ることを申し入れ、最終的には坪7円で合意に達し、敷地として11万3854坪の所有地と1万7105坪の借地を確保し、校舎の建設を含めた経費のすべては募金に頼ることを決め、当時の金で総額400万円の目標は、社中一致の協力により見事に達成されたのであった。

そこで義塾では昭和58年の創立125年記念の年と、同60年の福澤先生生誕150年の年の間に挟まった昭和59年に日吉開設50年記念式典を催し、3つの意義深い年が重なったのであった。