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[慶應義塾豆百科] No.88 語学研究所の開設

慶應義塾は元来蘭学の一家塾として発足し、後に英学塾に転じたものである。その経緯からいっても、外国語の研究と教育には、大学としても多くの努力を払ってきた。昭和17年(1942)9月、大学内に語学研究所が設置されたのも外国語重視の伝統から生まれたといってよい。ただそれまでは、他の多くの大学と同じく、欧米の言語が中心となっていた。けれども時代の推移は広くアジアの諸国をはじめ他の世界の国々の言語にも関心が向けられ、その要請にこたえることが、語学研究所創設の第1の課題であった。そして義塾がこの研究所に如何に力を入れていたかは、発足当初のスタッフの顔ぶれからも窺える。即ち、西脇順三郎、松本信広、及川恒忠、清岡暎一、辻直四郎、服部四郎、魚返善雄、茅野蕭々、福原麟太郎、市河三喜、井汲清治、関口存男、井筒俊彦の錚々たる学者が所員として名を連ねており、その人選がひとり慶應という狭い枠をこえて、広い立場からの適材の起用であった。

しかもいま1つ注目されるのは、研究所に外国語学校を付設したことである。慶應外語と呼ばれるこの学校は、旧制中学4年修了者或いはそれと同等以上の学力ありと認められる者だと誰でも学ぶことができ、社会人を対象とした開かれた大学の先駆をなすものであった。更に特記してよいのは、そのカリキュラムを、実用語学科と学術語学科に分け、前者について言えば、開講時において、支那語/西蔵語/蒙古語/安南語/泰語/マライ語/ビルマ語/ヒンドスタニー語/アラビア語/トルコ語/イラン語/ロシア語/イタリア語/オランダ語/スペイン語/ポルトガル語の16か国語を置いたこと、また後者では、支那語/ドイツ語/フランス語/イギリス語/梵語/巴利語/ギリシャ語/ラテン語の8か国語を設けたのは、戦時下という狭い視野に捉われることなく、外国語尊重の義塾の識見を示している。因に発足当初の言語別の履修者数は次の通りである。支那語104・タイ語18・ヒンドスタニー語34・トルコ語8・ロシア語64.オランダ語22・ドイツ語166・イギリス語68・巴里語2・ラテン語13・日本語10・蒙古語9・マライ語271・アラビア語17・イラン語5・イタリア語12・スペイン語37・フランス語54・梵語9・ギリシャ語4・安南語16で計943名となっている。ここで蒔かれた1粒の種が今日の言語文化研究所の隆盛へとつながったのである